削除された内容 追加された内容
(17人の利用者による、間の43版が非表示)
8行目:
|生年月日=[[延享]]2年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]<br>({{生年月日と年齢|1745|2|11|no}})
|birth_name=神保三治郎
|生誕地=[[上総国]][[山辺郡 (千葉県)|山辺郡]][[小関村]]
|没年月日=[[文化 (元号)|文化]]15年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]<br>({{死亡年月日と没年齢|1745|2|11|1818|5|17}})
|死没地=
36行目:
[[File:Ino Tadataka's birth place.JPG|thumb|200px|伊能忠敬出生の地。千葉県九十九里町。]]
=== 幼少期 ===
[[延享]]2年([[1745年]])1月11日、[[上総国]][[山辺郡 (上総国千葉県)|山辺郡]]小関村(現・[[千葉県]][[山武郡]][[九十九里町]]小関)の[[名主]]・小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は'''三治郎'''。父親の神保貞恒は[[武射郡]]小堤村(現在の[[横芝光町]])にあった酒造家の次男で、小関家には婿として嫁いでいた。三治郎のほかに男1人女1人の子がいて、三治郎は末子だった<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.17</ref>。
 
6歳の時、母が亡くなり、家は叔父(母の弟)が継ぐことになった。そのため婿養子だった父貞恒は兄と姉を連れ実家の小堤村の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の元に残った。
49行目:
 
=== 伊能家に婿入り ===
三治郎が生まれる前の[[寛保]]2年([[1742年]]、[[下総国]][[香取郡]]佐原村(現在の[[香取市]]佐原)にある酒造家の伊能三郎右衛門家(以下、伊能家と記す)では、当主の長由(ながよし)が、妻タミと1歳の娘ミチを残して亡くなった。長由の死後、伊能家は長由の兄が面倒を見ていたが、その兄も翌年亡くなった。そのため伊能家は親戚の手で家業を営むことになった。
 
ミチが14歳になった時、伊能家の跡取りとなるような婿をもらったが、その婿も数年後に亡くなった。そのためミチは、再び跡取りを見つけなければならなくなった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.65</ref>。
55行目:
伊能家・神保家の両方の親戚である平山藤右衛門(タミの兄)は、土地改良工事の現場監督として三治郎を使ったところ、三治郎は若いながらも良い仕事ぶりを発揮した。そこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、親族もこれを了解した<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.27</ref>。三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りさせる形でミチと結婚することになった。その際、大学頭の林鳳谷から、'''忠敬'''という名をもらった。
 
[[宝暦]]12年([[1762年]])12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ。このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子1人がいた<ref name="kojima78">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.78</ref>。忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、後に三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした<ref name="kojima78"/>
 
=== 佐原時代 ===
98行目:
そして同年7月、忠敬は村役人惣代、舟持惣代らと共に出頭し、同じく出頭していた権三郎と対決した。忠敬は、自分たちは村役・村方の推薦のもと問屋を引き受けたのだと主張し、さらに権三郎については、多額の運上金を払えるだけの財産もなく、過去にも問屋のことで問題を起こしていると批判した。村役人惣代や舟持惣代も忠敬を支持した。そのため忠敬の主張が認められ、公認の問屋は元のように2人に決まり、この問題はようやく解決を見た。運上金の金額も、いっとき二貫文に上がったが、2年後には一貫五百文に戻った<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.93-94</ref>。
 
この事件で重要な役割を果たすことになった伊能家の古い記録の多くは、忠敬の三代前の主人である[[伊能景利]]がまとめあげたものだった<ref name="kojima91"/>。景利は佐原村や伊能家にかかわることや、さらに他にも多くのことを丹念に記録に残しており、その量は本にして100冊以上になっていた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.95-96</ref>。忠敬はこの事件で記録を残すことの重要性を身にしみて認識し、自らもこの事件について『佐原邑河岸一件』としてまとめた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.94</ref><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.27</ref>。また、先祖の景利が多くの記録をまとめ始めたのは、隠居した後になってからのことだった。この、隠居後に大きな仕事を成し遂げるという祖先の事例は、後の忠敬の隠居後の行動にもつながることになる<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.96</ref>。
 
==== 佐原村名主へ ====
河岸の一件が片付くと、忠敬は比較的安定した生活を送った。[[安永]]3年([[1774年]])、忠敬29歳のときの伊能家の収益は以下のようになっている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.32</ref>。
 
*酒造 163両3分
127行目:
 
==== 天明の飢饉 ====
[[浅間山]]の噴火以降、佐原村では毎年不作が続いていた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.112</ref>。天明5年([[1785年]])、忠敬は米の値上がりを見越して、関西方面から大量の米を買いいれた。しかし米相場は翌年の春から夏にかけて下がり続け、伊能家は多額の損失を抱えた<ref name="w29">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.29</ref><ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.116</ref>。周囲からは、今のうちに米を売り払って、これ以上の損を防いだ方がよいと忠告されたが、忠敬は、あえて米を全く売らないことにした。
 
忠敬は、もしこのまま米価が下がり続けて大損したら、そのときは本宅は貸地にして、裏の畑に家を建てて10年間質素に暮しながら借金を返していこうと思っていた<ref name="w29"/>が、その年の7月、利根川の大洪水によって佐原村の農業は大損害を受け、農民は日々の暮らしにも困るようになった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.112-113</ref>。
133行目:
忠敬は村の有力者と相談しながら、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど、貧民救済に取り組んだ。各地区で、特に貧困で暮らすにもままならない者を調べ上げてもらい、そのような人には特に重点的にほどこしを与えた。また、他の村から流れ込んできた浮浪人には、一人につき一日一文を与えた。質屋にも金を融通し、村人が質入れしやすくするようにした<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.113</ref>。翌年もこうした取り組みを続け、村やその周辺の住民に米を安い金額で売り続けたりした。このような活動によって、佐原村からは一人の餓死者も出なかったという<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.114</ref>。
 
天明7年([[1787年]])5月、江戸で[[天明の打ちこわし]]が起こると、この情報を聞いた佐原の商人たちも、打ちこわし対策を考えるようになった。この時、皆で金を出しあって地頭所の役人に来てもらい、打ちこわしを防いでもらってはどうかという意見が出された。しかし忠敬は、役人は頼りにならないと反対した。そして、役人に金を与えるならば農民に与えた方がよい、そうすれば、打ちこわしが起きたとしても、その農民たちが守ってくれるから、と主張した。この意見が通り、佐原村は役人の力を借りずに打ちこわしを防ぐことができた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.115</ref><ref name="chibaken344">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.344</ref>
 
忠敬が貧民救済に積極的に取り組んだことについては、村方後見という立場からくる使命感、伊能家や永沢家が昔から貧民救済を行っていたという歴史、そして農民による打ちこわしを恐れたという危機感など、いくつかの理由が考えられている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.80,114-115</ref><ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.8</ref>。また、伊能家代々の名望家意識とともに商人としての利害得失を見極めた合理的精神がこうした判断を促したと考えられている<ref name="chibaken344"/>。
 
佐原が危機を脱したところで、忠敬は持っていた残りの米を江戸で売り払い、これによって多額の利益を得ることができた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.116</ref>。
 
==== 隠居 ====
妻ミチが死去してから間もなく、忠敬は内縁で2人目の妻を迎えた。この妻については詳しいことは分かっておらず、名前も定かではない<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.117</ref>。天明6年([[1786年]])に次男秀蔵、天明8年([[1788年]])に三男順次、寛政元年([[17691789年]])に三女コト(琴)が生まれ、妻は寛政2年([[1790年]])に26歳で死去した<ref name="w297">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.297</ref>。一方、最初の妻ミチとの間に生まれた次女シノも、天明8年に19歳で死去した<ref name="w297"/>。寛政2年、忠敬は仙台藩医である桑原隆朝の娘ノブを新たな妻として迎え入れた<ref name="kojima121">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.121</ref>。
 
この頃、長女のイネはすでに結婚して江戸に移っており、長男景敬は成年を迎えていた<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.23</ref>。忠敬は、景敬に家督を譲り、自分は隠居して新たな人生を歩みたいと思うようになっていった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.118-119</ref>。そして寛政2年、地頭所に隠居を願い出た。しかし地頭の津田氏はこの願いを受け入れなかった。これは、当時の津田氏は代替わりしたばかりのころだったため、まだ村方後見として忠敬の力を必要としていたからである<ref name="kojima121"/>。
153行目:
寛政4年([[1792年]])、忠敬は、これまで地頭所に金銭を用立てすることによって財政的に貢献したという理由で、地頭所から三人扶持を与えられた。ただしこれは、忠敬にまだ隠居してほしくないという地頭所の思惑も含まれていたと考えられている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.125</ref>。
 
翌寛政5年([[1793年]])には、[[久保木清淵]]らとともに、3か月にわたって関西方面への旅に出かけた。忠敬はこの旅についての旅行記を残している。そしてそこには、各地で測った方位角や、天体観測で求めた緯度などが記されており、測量への関心がうかがえる<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.126</ref>。また、久保木も「西遊日記」と呼ばれる旅行記を残している<ref name="chibaken930">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.930</ref>。
 
寛政6年([[1794年]])、忠敬は再び隠居の願いを出し、地頭所は12月にようやくこれを受け入れた。忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由(伊能家が代々使っていた隠居名)と改め、江戸で暦学の勉強をするための準備にとりかかった<ref name="kojima127">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.127</ref>。そのさなかの寛政7年([[1795年]])、妻ノブは難産が原因で亡くなった<ref name="kojima127"/>。
 
なお、寛政6年に佐原の橋本町(現・本橋元町)の惣代より村役人および村方後見である伊能三郎右衛門宛てに町内への便所の設置を求める願書が出されており、ここに登場する三郎右衛門は忠敬から家督を譲られた景敬であるとされている。ちなみに、現在の本橋元町にある公衆便所がこの時設置された便所の後身に当たるという<ref name="chibaken341">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.341-342</ref>。
 
==== 忠敬と佐原 ====
[[File:Ino Tadataka monument (Ono-gawa, Sawara).jpg|thumb|小野川沿いにある記念碑]]
忠敬が隠居する前年の寛政5年(1793年)、伊能家の商売の利益は以下のようになっていた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.31-33</ref>。
 
169 ⟶ 172行目:
 
安永3年(1774年)の目録と比較すると、忠敬は伊能家を再興し、かなりの財産を築いたことが分かる<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.33</ref>。この時の伊能家の資産については正確な数字は明らかでないが、寛政12年に村人が「3万両ぐらいだろう」と答えた記録が残っている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.33-34</ref>。
 
ただし、伊能家の状況は必ずしも順風満帆ではなかったとする説もある。伊能家(三郎右衛門家)が得意としてきた酒造業の実績を示す酒造高は天明の大飢饉後の天明8年(1788年)には1480石を誇ってきたが、享和3年(1803年)には600石に減少しており、忠敬没後の[[天保]]10年([[1839年]])には株仲間の記録に伊能家の名前は存在していない、すなわち廃業状態にあったことを示している<ref name="chibaken330図表">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.330図表</ref>。これは伊能家だけではなく競合する永沢家も含めて天明期の仲間35家のうち22家が天保期に姿を消し、代わりに天明期に存在が確認できなかった14家の新興酒造家が名前を連ねている状況<ref name="chibaken332図表">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.332図表</ref>から、江戸幕府の度重なる[[酒株]]政策の変更に伊能家を含めた旧来の酒造家が対応しきれなかったことが背景にあるとみられている。また、貨幣経済の浸透は旗本などの中小領主達に[[先納金]]・[[御用金]]・領主貸などの手段による貨幣の確保に向かわせることになった。先納金は[[年貢米]]を貨幣で前借することであるが、実際には貨幣による年貢徴収の口実とされて結果的には年貢米の輸送減少をもたらし、御用金や領主貸は伊能家のような地方商人への負担となった。また、農村の疲弊は伊能家から村単位への貸付の増加になって現れており<ref name="chibaken335図表">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.335図表</ref>、その中にはこれらの村が御用金や先納金を納めるための貸付もあったとみられている。更に伊能家の土地所持高を見ると、享保5年(1720年)には52石7斗余りだったのが、忠敬の相続後である明和3年(1766年)84石1斗余り、隠居後の享和2年(1802年)には145石1斗余りと、忠敬当主時代に急激に増加しているのである<ref name="chibaken325図表">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.325図表</ref>。これは金融業における質流れの増加とともに忠敬が酒造や輸送業に限界を感じて、土地の集積へと軸足を移そうとしていたことの表れと解される。実際に隠居後の忠敬が佐原に送った書状には「店賃と田の収益ばかりになっても仕方がない」「もし、古酒の勘定もよくなく、未回収金が過分になったら酒造も見合わせてやめるように」などと記しており、特に後継者であった景敬が没した文化9年(1812年)以降には、酒造業や運送業、領主貸を縮小する意向を示している。だが、地主としての土地経営も小作人となった農民との衝突を招くなど、困難な状況が続いており、忠敬隠居後の文化年間に入ると土地集積の対象を山林にも広げている<ref name="chibaken325">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.325-336</ref>。
 
佐原の町は昔から大雨が降ると利根川堤防が決壊し、大きな被害を受けていた。いったん洪水が起きてしまうと、田畑の形が変わってしまうため、測量して境界線を引き直さなければならない。忠敬は江戸に出る前から測量や地図作成の技術をある程度身に着けていたが、それはこうした地で名主などの重要な役に就いていたという経験によるところが大きい<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.100-101</ref>。
180 ⟶ 185行目:
寛政7年([[1795年]])、50歳の忠敬は江戸へ行き、深川黒江町に家をかまえた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.128</ref>。
 
ちょうどその頃、江戸では今まで使われていた暦を改める動きが起こっていた。当時の日本は宝暦4年([[1754年]])につくられた[[宝暦暦]]が使われていたが、この暦は日食や月食の予報をたびたび外していたため、評判が悪かった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.41</ref><ref name="kojima120">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.120</ref>。そこで幕府は[[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]、[[堀田正敦]]を中心として、改暦に取り組んだ<ref name="w47">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.47</ref>。しかし幕府の[[天文方]]には改暦作業を行えるような優れた人材がいなかったため、民間で特に高い評価を受けていた[[麻田剛立]]一門の[[高橋至時]]と[[間重富]]に任務にあたらせることにした<ref name="w47"/><ref name="kojima120"/>。至時は寛政7年(1795年)4月、重富は同年6月に出府した<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.51</ref>。
 
忠敬が江戸に出たのは同年の5月のため、2人の出府と時期が重なる。改暦の動きは秘密裏に行われていたのであるが、この時期の符から、忠敬は事前に2人が江戸に来ることを知っていたとも考えられている。その情報元として、渡辺一郎は、忠敬の3人目の妻ノブの父親である桑原隆朝を挙げている。桑原は改暦を推し進めていた堀田正敦と強いつながりがあった。そのため桑原は、堀田から聞いた改暦の話を忠敬に伝えていたのではないかという説である<ref name="w54">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.54</ref>。
 
同年、忠敬は高橋至時の弟子となった。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳だった。弟子入りしたきっかけについては、昔の中国の暦『授時暦』が実際の天文現象と合わないことに気付いた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからだという話が伝えられている<ref>[[#伊藤(2000)|伊藤(2000)]] p.59</ref>。そして至時に必死に懇願して入門を認めさせたとのことであるが、至時が多忙な改暦作業の中で入門を許した理由についても、渡辺は、桑原と堀田正敦の影響を指摘している<ref name="w54"/>。一方で今野武雄は、麻田剛立の弟子で[[大名貸]]の升屋小右衛門とのつながりを推測している<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.20</ref>。
210 ⟶ 215行目:
 
==== 子午線一度の距離測定 ====
至時と重富は、寛政9年([[1797年]])に新たな暦『[[寛政暦]]』を完成させた。しかし至時は、この暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の[[経度]][[緯度]]を知ることが必要だと考えていた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.75-76</ref>。地球の大きさは、緯度1[[度 (角度)|度]]に相当する[[子午線一度の弧]]を測ることで計算できるが、当時日本で知られていた[[子午線]]1度の距離相当[[弧長]]は25[[]]、30里、32里とまちまちで、どれも信用できるものではなかった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.137</ref>。
 
忠敬は、自らおこなった観測により、黒江町の自宅と至時のいる浅草の暦局の緯度の差は1[[ (角度)|分]]ということを知っていた。そこで、両地点の南北の距離を正確に求めれば、1度の距離を求められると思い、実際に測量をおこなった。そしてその内容を至時に報告すると、至時からは、両地点の緯度の差は小さすぎるから正確な値は出せないと返答された。そして、正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地ぐらいまでの距離を測ればよいのではないかと提案された<ref group="注釈">本段落の内容については当時の複数の文献でも多少の差異がある。詳しくは[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.76-81を参照</ref>。
 
=== 第一次測量(蝦夷地) ===
222 ⟶ 227行目:
至時の提案は、幕府にはすんなりとは受け入れられなかった。寛政11年([[1799年]])から寛政12年([[1800年]])にかけて、佐原の村民たちから、今までの功績をたたえて伊能忠敬・景敬親子に幕府から直々に名字帯刀を許可していただきたいとの箱訴が出されたが、これも、忠敬が立派な人間であることを幕府に印象づけさせて、測量事業を早く認めさせるという狙いがあったとみられている(この箱訴は第一次測量後の享和元年([[1801年]])に認められ、忠敬は今までの地頭からの許可に加え、幕府からも名字帯刀を許されることとなった。)<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.141</ref>。
 
幕府は寛政12年の2月ごろに、測量をするということ自体は認めたが、荷物は蝦夷まで船で運ぶと定めた。しかし船で移動したのでは、道中に子午線の長さを測るための測量ができない。忠敬と至時は陸路を希望し、地図を作るにあたって船上から測量したのでは距離がうまく測れず、入り江などの地形を正確に描けないなどと訴えた。その結果、希望通り陸路を通って行くこととなったが、測量器具などの荷物の数は減らされた<ref name="w88">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.88</ref><ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.141-142</ref>。
 
同年閏4月14日、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下された。ただし目的は測量ではなく「測量試み」とされた。このことから、当時の幕府は忠敬をあまり信用しておらず、結果も期待していなかったことがうかがえる<ref name="w88"/><ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.142</ref>。忠敬は「元百姓・浪人」という身分で、1日あたり銀7匁5分が手当として出された<ref name="w88"/>。
271 ⟶ 276行目:
しかし桑原がこの計画を堀田摂津守に内々で相談したところ、船を買う件と長持の件は書面には書かずに口頭で述べる方がよいとの返答を得た。忠敬は、口頭で伝えたのでは計画の実現は難しく、測量は不十分なものになってしまうと反発した。しかし結局は、忠敬は桑原、至時と話し合ったうえで、船と長持の件はやはり口頭で伝えることとし、これが認められなければ蝦夷地をあきらめて本州東海岸のみを測量するという案を出すことで納得した<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.97</ref>。
 
最終的に今回は蝦夷地は測量せず、伊豆以東の本州東海岸を測量することに決められた。手当は前回より少し上がって1日10匁となった。また、道中奉行、勘定奉行から先触れが出るようになり、この結果、現地の村の人々の協力を得ることも可能になった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.105</ref>。
 
==== 伊豆測量 ====
281 ⟶ 286行目:
 
==== 本州東海岸測量 ====
[[File:Ino Tadataka monument (Choshi).JPG|thumb|銚子測量記念碑]]
6月19日、一行は再び江戸を発ち、[[房総半島]]を測量しながら一周し、7月18日に[[銚子市|銚子]]に着いた<ref name="kenzo139">[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.139</ref>。銚子には9泊し、[[富士山]]の方角などを確かめた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.106-107</ref>。また、銚子で忠敬は病気にかかったが、すぐに回復した<ref name="kenzo139"/>。
 
290 ⟶ 296行目:
忠敬は江戸にもどったが、5月に下田から送った大方位盤はまだ届いていなかった。忠敬は下田の宿主と名主に照会をとり、荷物は翌年の2月にようやく届けられた。忠敬はこれに対して「不届きの者なり」<!--(これ、洒落なんですかね…。)-->と立腹した<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.133</ref>。
 
地図は第一次測量のものと合わせて、大図・中図・小図の3種類が作られた。そのうち大図・図は幕府に上程し、中図は堀田摂津守に提出した<ref name="w107">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.107</ref>。また、子午線一度の距離は28.2里と導き出した<ref name="w107"/><ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.169</ref>。
 
=== 第三次測量(東北日本海沿岸) ===
346 ⟶ 352行目:
 
初めて忠敬の地図を見た将軍は、その見事な出来栄えを賞賛したのではないかといわれている<ref name="watanabe17"/><ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.243</ref>。9月10日、忠敬は堀田摂津守から小普請組で10人扶持を与えるという通知を受け取った<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.117</ref>。
 
また、この年、漢学者として佐原にて門人の教育にあたっていた久保木清淵が[[後漢]]の[[鄭玄]]の『[[孝経]]』註釈を復元した『補訂鄭註孝経』を刊行したが、忠敬は同書の序文を執筆している<ref name="chibaken930"/>。
 
=== 第五次測量(近畿・中国) ===
353 ⟶ 361行目:
西日本の測量は幕府直轄事業となった。そのため、測量隊員には幕府の天文方も加わり人数が増えた。また、測量先での藩の受け入れ態勢が強化され、今まで以上の協力が得られるようになった<ref>[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.249</ref><ref name="w119">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.119</ref>。
 
当初の測量の予定は、本州の西側と四国・九州、さらには対馬、壱岐などの離島も含めて、33か月かけて一気に測量してしまおうという大計画だった。しかし実際は、西日本の海岸線が予想以上に複雑だったこともあって、4回に分けて、期間も11年を要することになる<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.118,120,121</ref>。
 
==== 測量 ====
397 ⟶ 405行目:
=== 第七次測量(九州第一次) ===
==== 測量 ====
第七次測量は文化6年(1809年)8月27日に開始した。今回は中山道経由で移動することとなり、測量は王子(現[[北区 (東京都)|東京都北区]])からおこなった。[[日光御成街道|御成街道]]や岩淵の渡しなどを利用して[[岩槻区|岩槻]]まで行き、岩槻から[[熊谷市|熊谷]]へ向かい中山道に入った<ref name="watanabe172">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.172</ref>。中山道を武佐(現[[近江八幡市]])まで測り、そこから、東海道へ向かう[[御代参街道]]を土山(現[[甲賀市]])まで測った<ref name="watanabe1999-146">[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.146</ref>。土山から[[淀]]、[[西宮市|西宮]]を経て[[山陽道]]を行き、11月には備後国神辺(現[[福山市]])にて儒学者として有名な[[菅茶山]]と面会し、その際に忠敬は自身が序文を書いた久保木清淵の『補訂鄭註孝経』を茶山に贈呈している<ref name="chibaken931">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.931</ref>。その後、[[豊前|豊前]]小倉(現[[北九州市]])で越年、ここから九州測量を始めた<ref name="watanabe172"/>。
 
小倉から海岸線を南下し、2月12日に[[大分市|大分]]、28日に鳩浦(現[[津久見市]])に入った。鳩浦では3月1日に起こる日食を観測したが、天候が悪く失敗した<ref name="watanabe173">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.173</ref>。
421 ⟶ 429行目:
=== 第八次測量(九州第二次) ===
==== 種子島・屋久島・九州北部測量 ====
文化8年11月25日、忠敬らは、全快前回の九州測量で測れなかった種子島、屋久島、九州北部などの地域を測量するため、江戸を出発した<ref name="watanabe1999-168">[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.168</ref>。高齢の忠敬は、出発にあたって息子の景敬あてに今後の家政や事業についての教訓や、自分の隠居資金の分配について記した書状を残しており、万一の事態も覚悟しての旅立ちだった<ref name="watanabe1999-168"/>。
 
一行は、本州については一部地域を除いて測量せずに東海道、山陽道を進み、文化9年([[1812年]])1月25日に小倉に着いた<ref name="watanabe203">[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.203</ref>。小倉からは手分けして北九州の内陸部を測量しながら南下し、鹿児島に到着した鹿児島から山川(現[[指宿市]])を経て海を渡り、3月27日に屋久島に着いた<ref name="watanabe203"/>。
444 ⟶ 452行目:
忠敬は16日に両隊を呼び寄せ、葬儀をおこなった。忠敬は坂部の死について、鳥が翼を取られたようだと述べ、長い間落胆を隠せなかった。1か月後、九州に戻った時、ようやく失敗した隊員を叱るようになったので良かった、といった内容の手紙を内弟子が書き残している<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.222</ref>。
 
さらに、坂部の死に先立つ6月7日、佐原にいた忠敬の長男の伊能景保も死去していた。忠敬の妙薫は、忠敬に心配をかけまいとこの事を伏せ、8月12日に出した手紙にも、景敬は大病にかかっているとだけ書いた。これを読んだ忠敬は、景敬が良くなればよいが難しいだろうとして、その上で、景敬が大病でも、孫の三治郎と銕之助がいるから安心だと妙薫に送り返した。忠敬はこの時すでに景敬の死を察知していたと推定されている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.178-179</ref>。
 
==== 帰路 ====
478 ⟶ 486行目:
 
=== 死後 ===
[[ファイル:Tomb of Ino Tadataka at Sawara.jpg|thumb|180px|千葉県香取市の観福寺にある伊能忠敬の墓]]
地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められた<ref name="konno191">[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.191</ref>。
 
484 ⟶ 493行目:
忠敬の子の秀蔵は文化12年、素行が良くなく忠敬に勘当されていた。忠敬の死後は佐原で神保姓を名乗り、手習い師匠となった<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.279</ref>。
 
孫の忠誨、銕之助のうち、銕之助は忠敬の死の翌年に亡くなった。忠誨は、忠敬の喪が発せられた年、15歳で五人扶持と85坪の江戸屋敷が与えられ、帯刀を許された<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.182</ref><ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] pp.191-192</ref>。忠誨は佐原と江戸を行き来しながら、景保らの指導も受け、さらに佐原の伊能家の跡継ぎとしても期待されていたが、文政10年([[1827年]])、21歳で病死した<ref name="konno192">[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.192</ref>。忠誨の死により、忠敬直系の血筋は途絶えた<ref name="konno192"/><ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.187-188</ref><ref group="注釈">忠敬の分家としては、子孫に[[金沢工業大学]]土木工学科客員教授の伊能忠敏らがいる([[#伊能(1991)|伊能(1991)]])</ref>また測量隊の中には、忠敬が測量し得なかった[[霞ヶ浦]]などを測量しようという意見もあったが、忠誨の死によりその案も立ち消えとなった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.190-191</ref>。
 
忠敬は死の直前、私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、死んだ後は先生のそばで眠りたいと語った。そのため墓地は高橋至時・景保父子と同じく上野[[源空寺]]にある<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.291-292</ref>。また佐原の[[観福寺 (香取市牧野)|観福寺]]にも遺髪をおさめた[[参り墓]]がある<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] 口絵</ref>。
 
佐原の名家の1つである伊能三郎右衛門家は忠誨の没後も一族の管理下に置かれて存続するものの、当主不在が続く中で家業の不振は深刻化していき、天保年間には酒造業は廃業に追い込まれている。こうした中で同族の伊能茂左衛門家および三郎右衛門家の分家的扱いであった清宮家<ref group="注釈">清宮家は伊能家とは直接の血縁はないものの、清宮家の初代当主は伊能三郎右衛門家2代目である景常の後妻の連れ子であり、継父の支援で清宮家を興したと伝えられ、両家はそれ以来の深い関係を有していた([[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.346-347)。</ref>が佐原における三郎右衛門家の地位を継承することになる。茂左衛門家・清宮家を中心とした伊能家一族の協議の末、三郎右衛門家に養子を迎えて再興させる話が実現するのは、忠誨の死から34年経過した[[文久]]元年([[1861年]])のことである<ref name="chibaken344">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.944-946</ref>。なお、伊能茂右衛門家は[[楫取魚彦]]<ref name="chibaken868">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.868</ref>を、清宮家は[[清宮秀堅]]<ref name="chibaken346">[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.346-349</ref>を輩出したことで知られ、特に清宮秀堅は文久の伊能三郎右衛門家再興時に清宮家当主として大きな役割を果たしている<ref name="chibaken346"/>。
 
== 年表 ==
623 ⟶ 634行目:
|贈[[正四位]]。
|}
1999年から2001年にかけて「伊能ウォーク」と呼ばれるイベントがあった。このイベントでは、忠敬の測量隊が歩いたルートを歩くほか、拠点地で伊能図の展示会などが行われた。
 
== 大日本沿海輿地全図 ==
[[ファイル:Ryoutei-sya.jpg|thumb|200px|right|伊能忠敬の量程車(複製)。[[国立科学博物館]]の展示]]
[[File:Ino Tadataka map (daizu,, Atsumi-hanto).jpg|thumb|250px|大図 渥美半島付近(千葉県香取市 伊能忠敬記念館所蔵)]]
=== 大日本沿海輿地全図 ===
{{Main|大日本沿海輿地全図}}
忠敬死後の文政11年([[1828年]])、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]がこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した日本の[[蘭学]]者(高橋景保ら)などが処罰された([[シーボルト事件]])。
 
=== 種類・特徴 ===
伊能図は元来、沿岸の地形を確定させるために作成されたものであるため、内陸部の記述は乏しく、シーボルトは[[正保日本図]]などで内陸の記述を補った。このため、
忠敬とその弟子たちによって作られた大日本沿海輿地全図は伊能図とも呼ばれている。縮尺36,000分の1の大図、216,000分の1の中図、432,000分の1の小図があり、大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で測量範囲をカバーしている<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.8</ref>。この他に特別大図や特別小図、特別地域図などといった特殊な地図も存在する<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.260</ref>。
* [[寛文]]6年([[1670年]])の[[干拓]]で消滅した[[下総国]]の[[椿海]]が描かれている。
* [[大和川]]が[[大坂湾]]に注がずに[[宝永]]元年([[1704年]])の工事完成以前の[[淀川]]と合流している河道で描かれている。
* [[阿賀野川]]が[[日本海]]に注がずに[[享保]]15年([[1730年]])の工事完成以前の[[信濃川]]と合流している河道で描かれている。
などの実際の地形と異なる地形が描かれている。
 
伊能図は日本で初めての実測による日本地図である<ref>[[#小島(2009)|小島(2009)]] p.152</ref>。しかし測量は主に海岸線と主要な街道に限られていたため、内陸部の記述は乏しい。測量していない箇所は空白となっているが、蝦夷地については間宮林蔵の測量結果を取り入れている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.264-265</ref>。
シーボルトが国外に持ち出した伊能図の写本は、日本に開国を迫った際に[[マシュー・ペリー]]も持参している。ペリーはそれを単なる見取図だと思っていたが、日本の[[海岸線]]を測量してみた結果、きちんと測量した地図だと知り、驚愕したと言われる。
 
地図には沿道の風景や山などが描かれ、絵画的に美しい地図になっている点も特徴の1つである<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.14</ref>。
江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されたが、シーボルトが国外に持ち出した写本を基にした日本地図が[[開国]]とともに日本に逆輸入されてしまったために秘匿の意味が無くなってしまった。[[慶応]]年間に[[勝海舟]]が海防のために作成した地図は逆輸入された伊能図をモデルとしている。
 
=== 精度 ===
「伊能大図」については、幕府に献上された正本は明治初期、[[1873年]]の皇居炎上で失われ、伊能家で保管されていた写しも[[関東大震災]]で焼失したとされる。
忠敬は地図を作る際、地球を球形と考え、緯度1度の距離は28.2里とした<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.26</ref>。そしてこの前提のもと、測量結果から地図を描き、その後、経度の線を計算によって書き入れた。伊能図の経緯線は[[サンソン図法]]と同じである<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.22-23</ref>。
 
忠敬が求めた緯度1度の距離は、現在の値と比較して誤差がおよそ1,000分の1と、当時としてはきわめて正確であった<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.10</ref>。また、各地の緯度も天体観測により多数測定できた<ref>[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.215</ref>。そのため緯度に関してはわずかな誤差しか見られない<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.21</ref>。一方で経度については、天体観測による測定が十分にできなかったこと、地図の投影法の研究が足りず各地域の地図を1枚にまとめるときに接合部が正しくつながらなかったこと<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.252-253</ref>、後から書き加えた経線が地図と合っていなかったこと<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.29</ref>などの理由で、特に北海道と九州において大きな誤差が生じている<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.25</ref>。
[[2001年]]、[[アメリカ議会図書館]]で写本207枚発見。これらは、[[国土地理院]]の前身である[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[参謀本部 (日本)|参謀本部]]の[[地勢図|輯製20万分1図]]作成のための骨格的基図として模写されたものが、[[第二次世界大戦]]後アメリカに渡ったものと考えられている。続いて[[国立歴史民俗博物館]]で2枚、[[国立国会図書館]]で1枚発見された。欠けていた4枚については、[[2004年]]5月に、[[海上保安庁]][[海洋情報部]]で保管されていた縮小版の写しの中に含まれていることがわかり、全容がつかめるようになった。なお、[[2006年]]12月、「伊能大図」全214枚を収録した「伊能大図総覧」が刊行された。また[[2007年]]1月、海上保安庁海洋情報部所蔵の写しの中から最高レベルの原寸模写図3枚を含む色彩模写図が発見された。
 
=== 逸話その後の伊能図 ===
忠敬死後、地図は幕府の[[紅葉山文庫]]に納められた。その後の文政11年([[1828年]])、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]がこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した日本の[[蘭学]]者(高橋景保ら)などが処罰される事件が起こった([[シーボルト事件]])。シーボルトは内陸部の記述を[[正保日本図]]などで補っているため、実際の地形と異なる地形が描かれている<ref>[[#織田(1974)|織田(1974)]] pp.158-159</ref>。
 
江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されたが、シーボルトが国外に持ち出した写本を基にした日本地図が[[開国]]とともに日本に逆輸入されてしまったために秘匿の意味が無くなってしまった。[[慶応]]年間に[[勝海舟]]が海防のために作成した地図は逆輸入された伊能図をモデルとしている<ref>[[#織田(1974)|織田(1974)]] p.112</ref>。
 
伊能図は明治時代に入って、「輯製二十万分一図」を作成する際などに活用された。この地図は、後に三角測量を使った地図に置き換えられるまで使われた<ref>[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.274-275</ref>。
 
伊能図の大図については、幕府に献上された正本は明治初期、[[1873年]]の皇居炎上で失われ、伊能家で保管されていた写しも[[関東大震災]]で焼失したとされる。しかし[[2001年]]、[[アメリカ議会図書館]]で写本207枚が発見された。その後も各地で発見が相次ぎ、現在では地図の全容がつかめるようになっている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.275-289</ref>。[[2006年]]12月には、大図全214枚を収録した「伊能大図総覧」が刊行された<ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.78</ref>。
 
== 測量方法 ==
忠敬が測量で主に使用していた方法は、導線法と交会法である。これは当時の日本で一般的に使われていた方法であり<ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] pp.40,60-61</ref>、実際に測量作業を見学した徳島藩の測量家も、伊能測量は特別なことはしていないと報告している<ref name="w136">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.136</ref>。当時の西洋で主流だった[[三角測量]]は使用していない<ref name="w136"/>。
 
忠敬による測量の特徴的な点は、誤差を減らす工夫を随所に設けたことと、天体観測を重視したことにある<ref name="hoshino44">[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.44</ref><ref name="w137-138">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.137-138</ref>。
 
=== 導線法・交会法 ===
導線法とは、2点の距離と方角を連続して求める方法である。
 
測量を始める点に器具を置き、少し離れたところに梵天(竹の棒の先に細長い紙をはたきのように吊るしたもの)を持った人を立たせる。そして、測量開始地点から梵天の位置までの距離と角度を測る。測り終えたら、器具を梵天の位置まで移動し、別の場所に梵天持ちを立たせ、同じように距離と角度を測る。これを繰り返すことで測量を進めてゆく<ref name="hoshino44"/><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.136-137</ref>。
 
導線法を長い距離にわたって続けると、だんだん誤差が大きくなってくる。その誤差を修正するために交会法が使われる<ref name="hoshino44"/><ref>[[#中村(2008)|中村(2008)]] p.142</ref>。
 
交会法とは、山の頂上や家の屋根など、共通の目標物を決めておいて、測量地点からその目標物までの方角を測る方法である。導線法で求めた位置が正しければ、それぞれの測量地点と目標物を結ぶ直線は一点で交わるので、この方法で導線法による誤差を確かめることができる<ref name="hoshino44"/><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.142-143</ref>。
 
さらに忠敬はこれに加えて、富士山などの遠くの山の方位を測って測量結果を確かめる遠山仮目的(えんざんかりめあて)の法などを活用している<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.137</ref>。
 
=== 天体観測 ===
測量にあたって天体観測を活用することで、観測地の緯度や経度を求めることができるため、地図の精度が向上する。このことは忠敬が測量を始めるおよそ80年前に[[建部賢弘]]が指摘していた。しかしそれを実行に移したのは忠敬が初めてである<ref name="w137-138"/><ref name="otani255">[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.255</ref>。忠敬は測量中、晴れていれば必ず天体観測をおこなうようにしており、宿泊場所も観測器具が置けるだけの敷地があるところを指定していた。全測量日数3754日のうち、1404日は天体観測をおこなっている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.152</ref>。
 
主な観測内容は、[[恒星]]の南中高度、太陽の南中、日食、月食、木星の衛星食などである。また、文化2年(1805年)に家島で彗星を見たという記録が残っている([[ビエラ彗星]]と推定される)<ref>[[#荻原(2007)|荻原(2007)]] pp.612-614</ref>。
 
==== 恒星の南中観測 ====
恒星が南中したときの地平からの角度を測る。この角度と、あらかじめ江戸で測定しておいた角度を比較することで観測地点の緯度が求められる<ref name="otani255"/><ref name="w153">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.153</ref>。しかし、動いている星が南中した瞬間を正確にとらえるのは難しい。そのため忠敬らは、多い時には1日で20個から30個の星の南中を観測し、誤差の軽減に努めた<ref name="w157">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.157</ref>。
 
また、日中に太陽の南中を観測することもあった。これは緯度を求める目的のほか、南中した時刻を確かめて、日食・月食の観測で使う器具を調整するという目的もあった<ref name="w153"/>。
 
基準となる江戸での観測は、忠敬の自宅がある深川黒江町でおこなった。この観測にも注意を払い、1つの星に対して数日から数十日かけて観測を続け、観測誤差が少なくなるようにした<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.347</ref>。
 
==== 日食・月食の観測 ====
日食・月食の観測は、観測地点の経度を求める目的でおこなわれた。
 
経度を求めるのは緯度を求めるのと比べて格段に難しい。西洋では18世紀の終わりごろに、[[クロノメーター]]や[[月距法]]を利用した経度測定方法がようやく確立してきていた。しかし当時の日本にはそれらはまだ伝わっていなかったため、忠敬は主に伝統的な日食・月食を使って経度を測定していた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.161</ref>。
 
方法としては、まず日食・月食が起きる前日までに太陽の南中を観測し、垂揺球儀(後述)を起動させる。そして当日、日食や月食を観測し、時間を記録する。このとき、江戸の暦局と大坂の間家([[間重富]]の家)でも観測をおこなっているから、日食・月食が起きた時刻を3か所で比較することで、経度の差が求められる<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.159</ref>。
 
とはいえ日食や月食を観測できる機会は少ない。忠敬らは少ない機会を逃さぬようにするため、食が起こる7日ぐらい前に現地に到着し準備していた。しかしそれでも当日が雨や曇りの場合は観測できないし、たとえ晴れていて観測できたとしても、江戸と大坂が曇っていたのなら意味が無くなってしまう。忠敬は測量中、日食や月食を観測できる機会が13回あったが、そのうち2か所以上で観測できたのは5回、3か所すべてで観測できたのはわずか2回だった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.160</ref>。
 
==== 木星の衛星食の観測 ====
経度の測定法として、他に[[木星]]の衛星食を利用する方法も試された。
 
木星の周りを回っている衛星が、木星の後ろに隠れたり、また現れたりする時刻を観測する。日食・月食のときと同じように、同時に2か所以上で観測し、その差から経度差を求める。木星の衛星食は日食や月食と比べて頻繁に起こるので、観測には適している。
 
この方法で経度が求められることは、日本では高橋至時がすでに知っていた。しかし至時は、実際にいつ食が起きるかについてはその時は予想できずにいた。しかしその後至時は、この方法が詳しく載っている西洋書『[[ラランデ暦書]]』を入手することができた。そして同書を元に研究に取り組み<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.161-162</ref>、この研究は至時の死後、間重富らによって引き継がれた。そうして忠敬の第五次測量の直前にようやく実用化できるようになった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.162-163</ref>。
 
実際の観測は、第五次測量中の文化2年([[1805年]])4月22日、伊勢の山田(現[[伊勢市]])ではじめておこなわれた。その後も測量日記によると合計11回観測している<ref name="w163">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.163</ref>。しかし測量にあたっては、前もって計算していた衛星食の時刻予想が正確ではなかったこともあり、苦労を要した<ref name="otani350">[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.350</ref>。結果的に観測回数は少なく、経度の測定にはほとんど役に立たなかったと考えられている<ref name="w163"/><ref name="otani350"/>。
 
== 主な測量器具 ==
=== 距離測定 ===
[[File:Ino Tadataka's step.JPG|thumb|200px|right|[[佐原駅]]前の床には、かつて伊能忠敬の実物大の歩幅(約70cm)が表示されていた。(2008年撮影)]]
==== 歩測 ====
歩いた歩数を元に距離を計算する方法である。おもに第一次測量のときに採用した。
 
忠敬の歩幅について、[[井上ひさし]]は小説『四千万歩の男』を執筆する際に、「二歩で一間」(一歩約90センチメートル)と仮定した。測量中に忠敬の歩いた距離はおよそ35,000キロメートルなので、換算するとおよそ四千万歩となる<ref>[[#井上(2000)|井上(2000)]] pp.8,59</ref>。
 
しかしその後、実際の歩幅はそれよりも小さいことが明らかになった。昭和63年([[1988年]])、伊能忠敬記念館に勤めていた佐久間達夫は、来館者に忠敬の歩幅について尋ねられたのをきっかけに、歩幅の調査をおこなった。そして、忠敬が書いた『雑録』の中に、「1町に158歩」という記述を発見した。佐久間はこの記述と、忠敬が使っていた「折衷尺」(1尺30.303センチメートル)を元に、忠敬の歩幅を約69センチメートルと導き出している<ref>[[#斎藤(1998)|斎藤(1998)]] pp.532-534</ref>。
 
==== 間縄・鉄鎖 ====
第二次測量からは歩測の代わりに、間縄と呼ばれる縄や、鉄鎖を使って距離を求めるようになった。
 
第二次測量では麻の縄を使って海岸線を測量した<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.286-287</ref>。しかし縄は伸び縮みして正確な距離が測れなかったので、第三次測量からは新たに考案された鉄鎖が使われた。鉄鎖が使えないような場所では引き続き間縄が使われたが、藤づるを編んだ藤縄や、鯨のひれを裂いて編んだ鯨縄を使うといった工夫を加えた<ref name="w138">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.138</ref>。
 
鉄鎖は、両端を輪のように加工した長さ一尺の鉄線を60本つないだ鎖で、伸ばすと長さは十間となる。間縄は古くから使われていた方法だが、高橋至時によると、鉄鎖は忠敬が初めて考案したものである(ただし異説もある)<ref name="w138"/>。鉄鎖も使ってゆくうちに摩耗してゆくので、間棹で毎日長さを確認していた。間棹とは長さ二間の木の棹で、両端に真鍮帽をかぶせている<ref name="w138"/>。
 
==== 量程車 ====
[[ファイル:Ryoutei-sya.jpg|thumb|200px|right|伊能忠敬の量程車(複製)。[[国立科学博物館]]の展示。]]
量程車とは車輪と歯車のついた箱状の測量器具である。地面に置いて車輪を転がしながら進むことによって、車輪に連動した歯車が回り、移動した距離が表示されるようになっている。中国では古くから存在し、日本にもすでに伝わっていた<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.291</ref>。
 
忠敬は第二次測量の途中で高橋至時から量程車を受け取り、これを使って測量してみたが、海岸線などの砂地や、凹凸のある道では、距離が正確に測れなかった。したがって、以後は名古屋、金沢の城下など、限られた地域のみで使われ、西日本の測量においては全く使用されなかった<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.293</ref><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.146</ref>。
 
=== 方位測定 ===
方位の測定は大中小3種類の方位盤および半円方位盤にておこなった。
 
==== 小方位盤 ====
小方位盤は杖の先に[[羅針盤]]をつけたものである。彎窠(わんか)羅針、杖先羅針とも呼ばれる<ref name="w141">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.141</ref>。
 
羅針盤は杖を傾けても常に水平が保たれるようになっていて、精度としては10分(6分の1度)単位の角度まで読むことができた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.140-141</ref>。平地では三脚に固定して使用し、傾斜地では杖を地面に突き立てて使用した<ref name="w141"/>。
 
小方位盤自体は当時よく使われていた器具だったが、忠敬は羅針の形や軸受けの材質を変えるなどの工夫を加えた。小方位盤は忠敬の測量器具の中で最も重要なものといわれており、西日本を測量する頃になると10個ぐらい持っていっている<ref name="w141"/><ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.302</ref>。
 
小方位盤は主に導線法と交会法において使われた。導線法で使う際には正・副2本の羅針盤を使って2点の両方から角度を測り、その平均を取るようにしていた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.141-142</ref>。
 
==== 大・中方位盤 ====
[[File:Houiban.png|thumb|200px|right|伊能忠敬が使用したとされる大・中方位盤。大谷亮吉著『伊能忠敬』(1919) p.322 より]]
大方位盤と中方位盤は実物が残っていないため、詳細は定かではないが、[[渋川景佑]]の書いた『量地伝習録』の中で解説がなされている。それによるとこの方位盤は、脚のついた円形の盤の中央に望遠鏡を設置したものである。円盤には方位を測るための磁石が取り付けられるようになっており、また円盤の周囲には、角度が分かるように目盛のついた真鍮の環が組み込まれている。さらに円盤の上には指標板というものが置かれていて、これは望遠鏡と連動して円盤状を回転できるようになっている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.149-150</ref>。大方位盤と中方位盤は大きさが異なるだけで、外形や使用方法はほとんど変わらないといわれている。円盤の直径は大方位盤が2尺6寸、中方位盤が1尺2寸である<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.322-323,326</ref>。
 
これらの方位盤は、富士山など、遠くの目標物の方角を測るのに用いられた。円盤内の方位磁針の向きと、真鍮の環に刻まれた北を示す目盛りの向きを合わせてから、望遠鏡を目標物の向きに合わせる。すると、指標板が求める方角を指し示す<ref name="w150">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.150</ref>。
 
大方位盤は精密な測定ができるため、高橋至時はこれを使って正確に方位を求めるべきだと主張した。しかし忠敬は、正しい位置に設置するための器具が不十分なので精度向上は見込めないと反論した<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.328</ref>。また、大方位盤は運搬に手間がかかるという問題もあった。そのため第一次測量では使用せず、第二次測量でも途中で江戸に送り返している。その後、第五次、第六次測量では使用されたが、第七次、第八次測量では持参していない<ref name="w150"/>。
 
中方位盤は大方位盤と比べて小型なため、第二次測量以降に持ち出され使われている。第五次測量以降の記録では中方位盤の名前は見られないが、忠敬は中方位盤のことを小方位盤と記すこともあるので、本当に使用されなかったかどうかは定かでない<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.327-328</ref>。
 
==== 半円方位盤 ====
半円方位盤はその名の通り半円形の方位盤である。大・中方位盤と同じように、目盛り付きの真鍮板と方位磁針が付属している。また半円盤の上に視準器があり、これを半円盤上で回転させて目標物に合わせることで方角を求める<ref name="w151">[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.151</ref>。
 
この方位盤は十分単位で角度目盛がついていて、目測では分単位の角度を求めることができたが、構造が単純で偏心による誤差が生じやすかった<ref name="w151"/><ref name="otani321">[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.321</ref>。しかし小方位盤と比べると細かな方位が求めやすく、大・中方位盤と比べて持ち運びやすいという利点もあった。そのため遠くの山などを測る目的で、第四次測量以降ひんぱんに使うようになった<ref name="otani321"/>。
 
=== 傾斜・高度測定 ===
[[File:Quadrant(Sawara).JPG|thumb|210px|right|象限儀のレプリカ。佐原駅北口付近。]]
坂道の傾斜や星の高度は[[象限儀]]を使って求めた。象限儀の種類としては杖先小象限儀、大象限儀、中象限儀がある。
 
==== 杖先小象限儀 ====
2点間の距離を導線法により求めても、その2点間が坂道になっていると、地図に表すとき距離が異なってしまう。この補正は、はじめのうちは目測で傾斜角を測って補正していたが、第三次測量からは杖先小象限儀を使うようになった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.139</ref>。
 
この象限儀は長さ一尺二寸で、三脚に据えて、梵天を持っている人の目を目標にして測った。測った角度は割円八線対数表と呼ばれる三角関数の対数表を利用して距離に換算した<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.139-140</ref><ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.330</ref>。
 
==== 大・中象限儀 ====
恒星の南中高度を測るための象限儀は、大(長さ六尺)、中(長さ三尺八寸)の2種類が使われた。構造はどちらも同じである<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.357</ref>。大象限儀は江戸に常設しており、全国測量では中象限儀を持ち出した<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.155</ref><ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.352</ref>。この象限儀は、刻まれた目盛りによって一分単位の角度を読み取ることができ、目測を加えると十秒または五秒程度の単位まで測ることができた<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.354</ref>。
 
象限儀は地面に対して正確に垂直になるように設置しなければならない。そのため設置にあたっては本体以外に多数の木材が必要となり、全部合わせると、解体して運んでも馬一頭では積みきれないほどの大きさになった<ref name="w157"/><ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.357-358</ref>。
 
=== 時間測定 ===
日食・月食が起きた時刻は、垂揺球儀によって求めた。
 
垂揺球儀は振り子の振動によって時間を求める器具である。仕組みとしては振り子時計と同じで、日本でも[[麻田剛立]]によってすでに使われていた<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.398-401</ref>。忠敬が使っていた垂揺球儀は現存しており、歯車を組み合わせることで十万の桁まで振動数が表示されるようになっている。振り子は1日におよそ59,500回振動するので、最大で約17日連続稼働できる<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.409</ref>。
 
日食・月食の前日までに、観測地においてあらかじめ垂揺球儀を駆動させて1日の振動数を求めておく。そしてその数値と、南中から日食・月食開始までの振動数を元にして、日食・月食が起こった時刻を求めることができる<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.159-161</ref>。
 
== 人物 ==
[[ファイル:Statue of Ino Tadataka, Tokyo 01.jpg|thumb|200px|伊能忠敬の銅像([[富岡八幡宮]])]]
=== 性格 ===
[[ファイル:Ino Tadataka stamp.jpg|thumb|1995年発行の[[切手]]]]
厳格な性格だった。測量期間中は隊員に禁酒を命じ、規律を重んじていた<ref name="hoshino20">[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.20</ref>。また、能力の低い隊員に対しては評価が厳しく、測量中に娘の妙薫にあてた手紙にも、隊員についての愚痴がいくつもつづられている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.238</ref>。身内でも特別扱いせず、息子の秀蔵も1人の内弟子として扱い、そして最終的には破門している<ref name="hoshino20"/><ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.245-246</ref>。
*[[深川 (江東区)|深川]]界隈に住居を構え、全国測量の旅に出かける際は、安全祈願のために[[富岡八幡宮]]に必ず参拝に来ていた。2001年、境内に銅像が建てられている。
 
*[[奈良漬け]]が好物だった。晩年、旅先から「歯がなくなって好物の奈良漬も食えなくなって悲しい」と言った内容の手紙を故郷に送っている。
また、根気強く、几帳面であった。測量中に合わせて51冊の日記(『伊能忠敬先生日記』)を残し、後にそれを清書して28巻の『測量日記』としてまとめた<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.229</ref>。測量作業においても、技術の革新はなかったが、根気強い観測と様々な工夫でそれを補った<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.227</ref>。
 
商売人であったことから金銭には厳しく、家人にあてた手紙にも、「野菜や薪など買わなくてすむものに金を使うな」「ためることが第一」などと書かれている<ref>[[#小島(2009)|小島(2009)]] p.120</ref>。また飯炊きが毎日米を少しずつくすねていたのを忠敬が気付き、咎めたとの記録もある。晩年、自身が病気になって江戸の自宅で玉子酒を飲んで治療をしている時も、卵は江戸より佐原の方が安いから佐原で多めに買って江戸まで送るように指示を出している<ref>[[#杉浦(2003)|杉浦(2003)]] pp.4813-4814</ref>。一方で天明の飢饉の時には貧民に米などを分け与えたりしており、また九州測量中にも、利根川の洪水で被害を受けた人々にほどこしを与えるよう指示している。ただしこの時、食べていける者にも分け与えることは名聞を求めるのにあたるから慎むべきだとしている<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.246-248</ref>。これらのことから、忠敬は意味のあることについては大金を投じることも惜しまないが、そうでないことには出さないという、合理的な考えの持ち主だったことがうかがえる<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.123-124</ref><ref>[[#佐久間達夫編著(1998)|佐久間達夫編著(1998)]] pp.268-269</ref>。
 
=== 趣向 ===
全国測量の旅に出かける際は、安全祈願のために[[富岡八幡宮]]に必ず参拝に来ていた<ref name="hoshino20"/>。2001年、境内に銅像が建てられた。
 
測量中も、近くの寺社や名所旧跡を多く訪れていて、その門前までの測量記録を残している<ref name="hoshino20"/>。また、詩歌にも関心が強かった<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.228</ref>。
 
食べ物に関しては、測量中に徳山毛利藩が調べたところによると、かぶら、大根、人参、せり、鳥、卵、長いも、蓮根、くわい、豆腐、菜、菜類、椎茸、鰹節といったものを好んだという<ref>[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.257</ref>。本人が妙薫などにあてて書いた手紙では、「しそ巻唐辛子を毎日食べていて、残りが少なくなったからあれば送ってほしい」「蕎麦を1日か2日置きに食べている」などの記述があり、さらに豆類も好物とされている<ref>[[#千葉県史編纂審議会編(1973)|千葉県史編纂審議会編(1973)]] pp.40,117,123,288</ref>。また、「歯が時々痛み奈良漬も食べられない」と書かれた手紙も残っている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.186</ref><ref>[[#千葉県史編纂審議会編(1973)|千葉県史編纂審議会編(1973)]] p.176</ref>。
 
=== 身体 ===
忠敬の体格は、着物の丈が135cmであることから、身長は160cm前後、体重は55kg程度と推定されている<ref>[[#佐久間達夫編著(1998)|佐久間達夫編著(1998)]] p.267</ref>。
 
若い頃から体は弱い方で、病気で寝込むこともしばしばあった<ref>[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.237-238</ref><ref>[[#杉浦(2003)|杉浦(2003)]] pp.4808</ref>。加えて四国測量のころからは「痰咳の病」にかかるようになっていった<ref name="sugiura4809">[[#杉浦(2003)|杉浦(2003)]] p.4809</ref>。これは現代でいう慢性気管支炎のことであり、冬になるたびに痰に悩まされていた<ref name="sugiura4809"/>。死因も、慢性気管支炎が悪化して起こる急性肺炎(老人性肺炎)とみられている<ref>[[#杉浦(2003)|杉浦(2003)]] pp.4817</ref>。
 
=== 幕府との関係 ===
忠敬と幕府との関係についてはいろいろな説がある。幕府との関係の証拠は、①完成したら国家機密となる<ref>「[[シーボルト事件]]」において、[[紅葉山文庫]]にある[[伊能図]]を写させたことが原因で、何人か罪に問われ死亡している。</ref>沿海部を測量した②「[[オランダ風説書]]」(文化5年(1808年)10月)の正確な抜粋の残していること③[[ゴローニン]]の尋問の様子を記した手紙④北方警備のための出兵の正確な人数を書いた手紙、
などいろいろあり、単なる引退した商人の測量技師ではなかったことを示している<ref>「伊能忠敬は国際情報通だった 機密文書が語る顔」日本経済新聞2006年2月20日夕刊24面『夕刊文化』 </ref>。
 
== 評価の移り変わり ==
=== 江戸時代 ===
忠敬についてのもっとも古い伝記は、江戸時代に書かれた『旌門金鏡類録(せいもんきんきょうるいろく)』の中にある。この書は、伊能家がいかに名家であるかを伝えるために編集されたものであるが、作者や作成時期については分かっていない<ref group="注釈">作者は忠敬本人という説もあるが、小島一仁はこれに反論し、息子の景敬によるものではないかと述べている。</ref>。本書ではその性質上、忠敬についても、家の復興に努めて村のためにもつくしたことが強調された書き方になっている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.10-11</ref>。ただし本書は伊能家のために残された書であり、外部に見せるための伝記ではない<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.11</ref>。
 
公開された初めての伝記は、文政5年([[1822年]])に建てられた、源空寺の墓に刻まれている墓碑銘である。この墓碑銘は墓石の左面、背面、右面の3面にわたって刻まれた漢文で、作者は儒学者の[[佐藤一斎]]である<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.283</ref>。その内容は『旌門金鏡類録』を参考にしたものとうかがえる。ただし墓碑銘には、忠敬は西洋の技術を学ぶことによって知識が高まったといった内容が刻まれており、こうした記述は『旌門金鏡類録』には無い<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.15-16</ref>。おそらくこの記述については、渋川景佑の本から採ったものと考えられている<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.305</ref>。
 
弘化2年(1845年)には、佐原出身の清宮秀堅によって、『下総国旧事考(くじこう)』が書かれ、その中で忠敬についても触れられている。この忠敬伝は墓碑銘をもとに書かれているが、忠敬と洋学との関係に関しては記されていない。このことについて小島一仁は、シーボルト事件や[[蛮社の獄]]といった、洋学者に対する弾圧が影響しているのではないかと述べている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.16-17</ref>。
 
=== 贈位と遺功表 ===
佐賀藩出身の[[佐野常民]]は、[[長崎海軍伝習所]]で訓練しているときに伊能図を使ったところ、この地図は正確でとても役に立つことを知った<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.270</ref>。さらに佐野は、伊能図が英国海軍にも評価されていたことなどを知り、元老院議長となった後の明治13年(1880年)には佐原を巡視し、香取郡長の大須賀庸之助と伊能家の伊能節軒から忠敬についての話を聞いた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.19-20</ref>。そして佐野は明治15年(1882年)9月、[[東京地学協会]]において、「故伊能忠敬翁事蹟」と題する講演をおこなった。
 
この講演では墓碑銘をもとにして忠敬の生涯を紹介したうえで、伊能図の素晴らしさに触れ、忠敬を偉人として讃えている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.24-25</ref>。この講演は忠敬伝としては初めてのものであるといわれており、その内容はその後における忠敬の評価にも影響を与えることとなる<ref name="hoyanagi381">[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.381</ref>。
 
佐野の講演の目的は、忠敬に対しての贈位を申請することと、忠敬の業績に対して記念碑を建設することであった<ref name="hoyanagi381"/>。このうち贈位については、大須賀らの協力もあって、明治16年(1883年)1月、東京地学協会長である[[北白川宮能久親王]]の名で申請が出された<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.270-271</ref>。そして同年2月、正四位が贈られた。
 
もう一方の記念碑について、佐野は講演の中で、忠敬が測量の基準とした高輪大木戸に建てるのがふさわしいと述べ、明治16年の東京地学協会総会で、芝、高輪の大木戸に遺功表を立てることを議決した。その後建設場所は[[芝公園]]に変更となり、明治22年(1889年)に遺功表が建てられた<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.273</ref>。
 
=== 国定教科書 ===
遺功表が建てられてからは、[[徳富蘇峰]]や[[幸田露伴]]の手による少年向けの忠敬伝が出され、明治20年代から30年代にかけて、忠敬の名は全国に知られるようになっていった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.27</ref><ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.277</ref>。
 
明治36年([[1903年]])、[[国定教科書]]の制度が始まると、忠敬はさっそく国語の教科書に採用された。教科書の内容は佐野の講演を元に書かれており、忠敬の生涯のほか、測量方法についても簡単に述べられている<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.32</ref>。教科書に載ったことで忠敬の名はさらに広まった。地元の佐原で忠敬を偉人とたたえるようになったのもこの頃からである<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.32</ref>。
 
明治43年([[1910年]])に国定教科書の改訂がなされると、忠敬は国語の教科書から外され、代わりに修身の教科書に載るようになった。そして内容も変化した。修身教科書では、国語教科書で見られたような忠敬の測量における業績についてはほとんど書かれず、「勤勉」「迷信を避けよ」「師を敬へ」といった表題のもと、忠敬が家業に懸命に取り組んだこと、江戸に出てからは雨や風の中で測量に従事し地図を作ったことなどが記され、最後に「精神一到何事カ成ラザラン」などといった格言で締めるという、精神的な面が強調されるようになった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.35-36</ref><ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.277-278</ref>。こうした内容の教科書は第二次世界大戦の終戦まで使われた<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.278</ref>。
 
=== 大谷亮吉による研究 ===
忠敬が国定教科書に採用された頃、忠敬について書かれた伝記は偉人伝としての要素が強く、測量内容に関する科学的な評価はほとんどなされていなかった。そのような状態の中、物理学者の[[長岡半太郎]]は忠敬に興味を持ち、明治41年(1908年)に開かれた帝国学士院総会において、忠敬の業績を調べるよう提案した。この提案は賛同を得て、長岡の弟子の大谷亮吉の手により調査が始められた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.33-34</ref>。
 
大谷は調査をおこないながら、その結果などを発表していった。大正3年(1914年)には大谷の調査結果を元に、長岡が、「伊能忠敬翁の事蹟に就て」と題する講演をおこなった。この講演は忠敬の業績のほか、麻田剛立、高橋至時、間重富の果たした役割についても述べており、従来の忠敬伝とは一線を画したものとなっている<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.280,387</ref>。そして大正6年([[1917年]])、大谷はおよそ9年にわたる調査をまとめた書『伊能忠敬』を書き上げた。
 
『伊能忠敬』は本文766ページの大著で、特に忠敬の測量法や測量精度に関する記述が詳しく書かれている<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.280</ref><ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.43-44</ref>。本書は今までにないほど精細であり、忠敬研究における決定版ともいわれた<ref name="kojima44">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.44</ref>。また、これ以後に書かれた忠敬についての本についても、ほとんどは大谷の引き写しだともいわれている<ref name="kojima44"/><ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.280</ref>。本書は大正6年に源空寺でおこなわれた忠敬の100遠忌法要において、墓前に供えられた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.50</ref>。
 
また、忠敬没後100年の企画としては、他に佐原の有志による銅像と記念文庫建設の計画があった。結果として寄付額が足りず記念文庫の建設は断念されたが、銅像は大正8年、佐原の佐原公園に建設された<ref>{{Cite web |date=2009-03-15 |url=http://www.city.katori.lg.jp/02profile/kouhou/20090315/katori090315-web.pdf |title=広報かとり No.72 |format=PDF |publisher=香取市 |accessdate=2014-04-12}}</ref>。
 
=== 戦後の忠敬研究 ===
第二次世界大戦の終戦後は、戦前の国定教科書のような、忠敬を偉人として讃える書き方はなりをひそめ、教科書の記述も簡単なものになった<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.3-4</ref><ref name="hoshino80">[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.80</ref>。しかし戦前の教育の影響からか、忠敬の知名度は相変わらず高く、忠敬は努力によって偉大な業績を上げたのだという偉人的な見方も年配者を中心に消えずに残っていた<ref name="hoshino80"/><ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.4-5</ref>。
 
一方で新たな角度から忠敬を論ずる研究者も現れてきた。今野武雄は昭和33年(1958年)に出された本で、今までの忠敬伝では忠敬の学問に対する情熱と精力がどこから来たのか得心できないと述べ、「忠敬は努力した」という旧来の書かれ方ではその努力の根源が明らかにされていないことを指摘した<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.47-48</ref>。また、歴史学者の[[高橋しん一|高橋磌一]]は、昭和43年(1968年)に[[千葉県立佐原高等学校]]で開かれた伊能忠敬翁150年祭の記念講演で、「みなさんは、伊能忠敬を、はじめから、えらい人だとか、えらくない人だとか、きめてかかってはいけません」と発言し、忠敬を先入観で偉人として見る感覚を戒めた<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.51</ref>。また小島一仁は昭和53年(1978年)に出された本で、従来の偉人伝としての忠敬伝を批判した<ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.83</ref>。
 
さらに、伊能図の科学的な研究も進んだ。この分野においては大谷の『伊能忠敬』が圧倒的であり、昭和43年(1968年)に東京地学協会で行われた講演において保柳睦美は、「今日まで、忠敬の業績に関する科学的研究は、大谷氏のものが最後といってよい」と発言するほどであった<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.2</ref>。しかし保柳はこの講演で、大谷の研究は「独断や誤解のみならず、考察の不十分な点が所々に発見される」と語り、大谷を批判した<ref name="kojima53">[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.53</ref>。一例として、伊能図における経度方向のずれに関する見解があげられる。大谷は、伊能図はサンソン図法によって描写されており、その投影方法が間違っていたことが経度方向のずれの原因の1つになっていると述べ、この地図投影方法を「大失態」と評し、忠敬および高橋景保を非難している。しかし保柳は大谷に反論し、経度のずれについては、伊能図は経緯線こそサンソン図法と同じだが、地図自体はサンソン図法によって描いたものではなく、両者の違いが経度差となって現れたためだと大谷の誤りを指摘した。そして、幕府の要求は海岸線の測定などが主であって経線は重要視されておらず、当時の日本の研究水準などを考えても、このことについて忠敬をことさらに非難するのは間違っていると主張した<ref>[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.21-30</ref>。保柳らの研究活動は後の昭和49年(1974年)に『伊能忠敬の科学的業績』としてまとめられた。
 
また千葉県は昭和48年(1973年)、忠敬の手紙をまとめた『伊能忠敬書状』を出版した<ref name="kojima53"/>。
 
=== 『四千万歩の男』と新たなる忠敬像 ===
[[井上ひさし]]は昭和52年(1977年)、今まで小説に登場する機会がほとんどなかった忠敬を主人公にした小説『[[四千万歩の男]]』を[[週刊現代]]に連載した<ref>[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.54-56</ref>。井上が忠敬に特に関心を持ったのは、隠居後に新たな挑戦を始める、「一身にして二生を得る」という生き方だった。井上は、平均寿命が延びた時代において、退職後の人生を送るにあたって忠敬の生き方は手本になると述べている<ref>[[#井上(2000)|井上(2000)]] pp.10-11,18-19</ref>。
 
このように、高齢化社会という時代性から、第二の人生を有意義に送った忠敬を評価するという見かたは、この頃から広まるようになり、忠敬に対する人々の関心も高まっていった。『四千万歩の男』はその1つの要因と考えられている<ref>[[#鈴木(2011)|鈴木(2011)]] p.27</ref>。このような忠敬のとらえ方はその後も続き、忠敬は「中高年の星」「人生を2度生きた男」とも呼ばれるようになっている<ref>朝日新聞1998年1月3日14面</ref><ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.1</ref>。
 
=== イベントの拡大 ===
[[File:Statue of IIno Tadataka at Kujukuri.JPG|thumb|200px|伊能忠敬記念公園の忠敬像(九十九里町)]]
電電公社(現NTT)に勤めていた渡辺一郎は、仕事で毎日日本地図をながめている間に忠敬に対して興味を持ち、そして[[国立国会図書館]]で伊能図を見て感激したことがきっかけで、忠敬の研究を始めた<ref>[[#伊能忠敬研究会(1998)|伊能忠敬研究会(1998)]] pp.6-7</ref>。そして平成7年(1995年)には伊能忠敬研究会を結成した<ref>[[#伊能忠敬研究会(1998)|伊能忠敬研究会(1998)]] p.9</ref>。
 
研究会の活動などによって、1990年代後半から2000年前後にかけて、忠敬に関するイベントがいくつも開催された。平成10年(1998年)4月10日、[[朝日新聞社]]は創刊120周年記念事業として、徒歩で全国を回る「伊能ウォーク」を主催すると発表した(日本歩け歩け協会(現:日本ウォーキング協会)、伊能忠敬研究会との共同開催)<ref name="walk111">[[#日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)|日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)]] p.111</ref>。このイベントでは、忠敬の測量隊が歩いたルートを歩くほか、拠点地で伊能図の展示会などが行われた。平成11年(1999年)1月25日から平成13年(2001年)1月1日までの開催期間中に、16万人以上の一般参加者が参加した<ref>[[#日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)|日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)]] p.152</ref>。
 
また、平成10年(1998年)4月21日から6月21日まで、[[江戸東京博物館]]において、伊能忠敬展が開催された。この展覧会では11万1399人の来館者を集めた<ref name="walk111"/>。
 
一方、忠敬生誕地の九十九里町では、伊能忠敬記念公園が整備され、忠敬の銅像がつくられた。佐原市(現香取市)においても、新しい伊能忠敬記念館が建てられ、1998年5月22日に開館した<ref>千葉日報1998年5月22日</ref>。
 
他にもこの時期に、忠敬が主人公の演劇、映画が公開されている。また、平成13年(2001年)にアメリカで発見された伊能図の写本などによって伊能図の全貌が明らかになったことにより、原寸大の伊能図を並べて展示するイベントが開かれるようになった<ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.84</ref>。
 
=== 現在 ===
平成22年(2010年)、伊能忠敬作成の地図や使用した測量器具、関係文書など2345点が、「我が国の測量史・地図史上における極めて高い学術的価値を有する」として、「伊能忠敬関係資料」の名称で[[国宝]]に指定された<!--指定者は文化庁ではなく文部科学大臣-->。これらは伊能家に伝来したもので、香取市の伊能忠敬記念館に保管されている。<ref>平成22年6月29日文部科学省告示第95号</ref><ref>「新指定の文化財」『月刊文化財』561号、第一法規、2010</ref>。
 
現在の佐原において、忠敬の名は[[忠敬橋]]などに見られる。また、原付の[[デザインナンバープレート]]にも採用されている<ref>{{Cite web |date=2012-10-03 |url=https://www.city.katori.lg.jp/03government/section/zeimu/news/2011-0602-0916-2.html |title=香取市オリジナルナンバーが決定しました |publisher=香取市 |accessdate=2014-04-16}}</ref>。
 
現代における忠敬の人物としての評価については、先に触れた2度の人生を生きたということのほか、渡辺一郎は、忠敬は才能こそあったものの、偉人や天才ではなく普通の人だったと述べた上で、「ただ、いささか好奇心が強く、凝り性で、根気がよい性格だった」と評している<ref>[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.219</ref>。また星埜由尚は、「愚直なまでの忍耐と努力」を挙げた上で、17年にわたって愚直に測量を続けたことは公共性(世のため人のため)という観念もあったのではないかとして、忠敬の生き方を、効率化や自らの利益が重視される現代におけるアンチテーゼとしてとらえている<ref>[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] pp.85-88</ref>。
 
== 登場作品 ==
[[ファイル:Ino Tadataka stamp.jpg|thumb|1995年発行の[[切手]]]]
=== 小説 ===
* [[井上ひさし]]『[[四千万歩の男]]』([[講談社]]/1992年)
 
=== 映画 ===
* [[伊能忠敬-子午線の夢-]](2001年東映 監督:[[小野田嘉幹]]、演:[[加藤剛]])
 
=== テレビドラマ ===
* [[四千万歩の男#テレビドラマ|四千万歩の男・伊能忠敬 人生ふた山、55歳の挑戦 妻が支えた日本地図作り]](2001年[[日本放送協会|NHK]]正月時代劇) - 演:[[橋爪功]]
* [[偉人の来る部屋]] - 演:[[志賀廣太郎]]
* [[歴史誕生]] / 日本を測った男 ~伊能忠敬5050歳の挑戦~」(NHK~(NHK 1991年2月1日放送) - 演:[[川谷拓三]](再現ドラマの主演及びナビゲーター)
* 続々[[三匹が斬る]] - 演:[[財津一郎]]
 
=== 舞台 ===
* 伊能忠敬物語 - 演:加藤剛
 
=== 小説 ===
* [[井上ひさし]]『四千万歩の男』([[講談社]]/1992年)
 
=== 漫画 ===
675 ⟶ 894行目:
=== 楽曲 ===
*「風の薔薇〜歩いて地図をつくった男のウタ〜」(作詞:[[三浦徳子]]、作曲:[[中島卓偉]]、歌:[[真野恵里菜]]。2012年発売のアルバム『[[More Friends Over]]』収録)
 
===その他===
[[千葉県]][[香取市]]の[[原付]]の[[デザインナンバープレート]]に採用されている。
 
== 脚注 ==
694 ⟶ 910行目:
|isbn=978-4845510733
|ref=伊藤(2000)}}
*{{Cite book|和書
|author=井上ひさし
|year=2000|month=12
|title=四千万歩の男 忠敬の生き方
|publisher=講談社
|isbn=4-06-209536-X
|ref=井上(2000)}}
*{{Cite book|和書
|author=伊能忠敬研究会
|year=1998|month=9
|title=忠敬と伊能図
|publisher=アワプラニング
|isbn=978-4768488973
|ref=伊能忠敬研究会(1998)}}
*{{Cite journal|和書
|author=伊能忠敏
718 ⟶ 948行目:
|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874853
|ref=大谷(1917)}}
* {{Cite journal|和書
|author=荻原哲夫
|year=2007|month=11
|title=伊能忠敬と彗星について--1805年のビエラ彗星を見た記録とお気に入りの狂歌
|journal=天界
|volume=88
|issue=990
|pages=pp.612-614
|publisher=東亜天文学会
|issn=0287-6906
|ref=荻原(2007)}}
*{{Cite book|和書
|author=織田武雄
|year=1974|month=11
|title=地図の歴史 日本篇
|publisher=講談社|series=講談社現代新書
|isbn=978-4061157699
|ref=織田(1974)}}
*{{Cite book|和書
|author=小島一仁
724 ⟶ 972行目:
|publisher= 三省堂|series=三省堂選書
|ref=小島(1978)}}
*{{Cite journal|和書
|author=小島一仁
|year=2009|month=5
|title=伊能忠敬(一七四五~一八一八)--近代日本地図の父
|journal=千葉史学
|issue=54
|pages=pp.119-124
|publisher=千葉歴史学会
|issn=0286-8148
|ref=小島(2009)}}
*{{Cite journal|和書
|author=後藤恵之輔、全炳徳、長野克章
742 ⟶ 1,000行目:
|isbn=978-4390116503
|ref=今野(2002)}}
*{{Cite book|和書
|author=佐久間達夫編著
|year=1998|month=6
|title=伊能忠敬測量日記 別巻 (新説・伊能忠敬)
|publisher=大空社
|isbn=4-7568-0089-0
|ref=佐久間達夫編著(1998)}}
* {{Cite journal|和書
|author=斎藤国治.
|year=1998|month=9
|title=伊能忠敬の歩幅
|journal=天界
|volume=79
|issue=880
|pages=pp.532-534
|publisher=東亜天文学会
|issn=0287-6906
|ref=斎藤(1998)}}
*{{Cite journal|和書
|author=杉浦守邦
|year=2003|month=12
|title=伊能忠敬の死因
|journal=医譚
|issue=80
|pages=pp.4807-4818
|publisher=日本医史学会関西支部
|issn=0536-0307
|ref=杉浦(2003)}}
* {{Cite journal|和書
|author=鈴木純子
|year=2011|month=
|title=随想・意見 小説『四千万歩の男』をめぐって
|journal=地図
|volume=49
|issue=1
|pages=pp.25-27
|publisher=日本国際地図学会
|issn=0009-4897
|ref=鈴木(2011)}}
*{{Cite book|和書
|author=千葉県史編纂審議会編
|year=1973
|title=千葉県史料 近世篇 文化史料1(伊能忠敬書状)
|publisher=千葉県
|ref=千葉県史編纂審議会編(1973)}}
*{{Cite book|和書
|author=中村士
749 ⟶ 1,052行目:
|isbn=978-4-7741-3515-1
|ref=中村(2008)}}
*{{Cite book|和書
|author=日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会監修
|year=2001|month=4
|title=伊能ウオーク全記録
|publisher=講談社
|isbn=978-4061793538
|ref=日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)}}
*{{Cite book|和書
|author=星埜由尚
756 ⟶ 1,066行目:
|isbn=978-4634548572
|ref=星埜(2010)}}
*{{Cite book|和書
|author=保柳睦美編著
|year=1997|month=10
|title=伊能忠敬の科学的業績(復刻新装版)
|publisher=小学館
|isbn=4-7722-1013-X
|ref=保柳編(1997)}}
*{{Cite book|和書
|author=渡辺一郎
794 ⟶ 1,111行目:
|pages=pp.193-222
|ref=間・高橋(1971)}}
*{{Cite book|和書
|author=千葉県史料研究財団
|year=2008|month=3
|title=千葉県の歴史 通史編:近世2
|publisher=千葉県
|ref=千葉県(2008)}}
 
== 外部リンク ==
801 ⟶ 1,124行目:
{{commonscat|Ino Tadataka}}
* [[江戸幕府の地図事業]]
{{Normdaten|TYP=p|GND=1023117266|LCCN=n/82/56530|NDL=00269993|VIAF=29835733}}
 
{{Good article}}
{{DEFAULTSORT:いのう たたたか}}
[[Category:江戸時代の商人]]
817 ⟶ 1,141行目:
[[Category:1745年生]]
[[Category:1818年没]]
[[Category:天文学に関する記事]]