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m tokajが地名ですが、これはトカイと発音し、所有のiが付く場合(tokaji=トカイ)との発音の違いはありません。
Szatoru (会話 | 投稿記録)
m ドイツ語呼称をコメントアウト、日本における「マジャール」表記の起源について、マジャルをハンガリーに置換、など。ノート参照。
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標語 =なし|
位置画像 =LocationHungary.png|
公用語 =[[マジャルハンガリー語]]|
首都 =[[ブダペスト]]|
最大都市 =ブダペスト|
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時間帯 =+1|
夏時間 =+2|
国歌名 =神よマジャル人ハンガリーを祝福し賜え|
ccTLD =HU|
国際電話番号 =36|
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== 国名 ==
正式名称はマジャル(ハンガリー語で ''Magyar Köztársaság''(マジャル・ケスタールシャシャーグ<!--/日本語訳:マジャル共和国-->)。通称 ''Magyarország''(マジャロルサーグ)。
 
<!-- ドイツ語の表記は ''Republik Ungarn''(レプブリーク・ウンガルン)、通称 '' Ungarn''('''ウンガルン''')。 -->
 
公式の英語表記は ''Republic of Hungary''、通称 ''Hungary''。
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日本語の表記は '''ハンガリー共和国'''、通称 '''ハンガリー'''。
 
<!--自称国名の「マジャル」は、[[ハンガリー人]]の自称民族名[[マジャル人|マジャル]]と同じである。''Magyar'' は日本では「マジャール」と表記されることが多いが、ハンガリー語は母音の長短をはっきり区別する特性をもち、''Magyar'' の語は全て短母音なので、「'''マジャル'''」のほうが正確な表記である。-->
 
ハンガリー語において、ハンガリー人もしくはハンガリーを指す''Magyar'' は日本では「マジャール」と表記されることが多いが、これはおそらく英語の発音に基いた表記である。[http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=magyar&kind=ej goo辞書]
他称の「ハンガリー」「ウンガルン」は、[[ラテン語]]で「[[フン族|フン人]]の[[ガリア]]」を意味したという説と、マジャル人の故地である[[ウラル山脈]]方面で活動しマジャル人にも文化的影響を与えた遊牧民[[オノグル]]の名が訛ったという説があり、後者の説が有力視されている。文献によっては、前者の説を誤りと断定している。
ハンガリー語は母音の長短をはっきり区別する特性をもち、''Magyar'' の語は全て短母音なので、ハンガリー語の発音に倣うならば「'''マジャル'''」という表記がもっとも近くなる。
歴史上では、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。
 
他称の国際的に用いられる、「ハンガリー」「ウンガルン」と言った呼称は、[[ラテン語]]で「[[フン族|フン人]]の[[ガリア]]」を意味したという説と、マジャルハンガリー人の故地である[[ウラル山脈]]方面で活動しマジャルハンガリー人にも文化的影響を与えた遊牧民[[オノグル]]の名が訛ったという説があり、後者の説が有力視されている。文献によっては、前者の説を誤りと断定している。
 
== 歴史 ==
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ハンガリーの国土は[[ハンガリー平原]]と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。
 
古代には[[パンノニア]]と呼ばれたこの地域は、[[古代ローマ|ローマ]]の属州イリュリクム、[[ローマ帝国]]の属州パンノニアを経て[[ゲルマン人]]の激しい侵入を受け、[[5世紀]]には[[フン族|フン]]、[[6世紀]]には[[アヴァール]]が東方からやってきて定着した。[[8世紀]]にはアヴァールを倒した[[フランク王国]]の支配下に移るが、[[9世紀]]には東方から新たにやってきた遊牧民[[マジャルハンガリー人]]に征服された。
 
[[10世紀]]末に即位したマジャルハンガリー人の君主[[イシュトヴァーン1世]]は、西暦[[1000年]]に[[キリスト教]]に改宗し、[[西ヨーロッパ]]の[[カトリック]]諸王国の一員である[[ハンガリー王国]]を建国した。ハンガリー王国はやがて[[トランシルヴァニア]]、[[ヴォイヴォディナ]]、[[クロアチア]]、[[ダルマチア]]などを広く支配する大国に発展する。[[13世紀]]には[[モンゴル帝国]]軍の襲来を受け大きな被害を受けたが、その後の[[14世紀]]から[[15世紀]]頃には特に周辺の諸王国とも[[同君連合]]を結んで[[中央ヨーロッパ]]の強国となった。
 
しかし、15世紀後半から[[オスマン帝国]]の強い圧力を受けるようになり、[[1526年]]に[[モハーチの戦い]]に敗れて国王[[ラヨシュ2世]]が戦死した。[[1541年]]に[[ブダ]]が陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国、北西部の3分の1を[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア]]によって分割支配され、両帝国のぶつかりあう最前線となった。
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オスマン帝国の軍事的後退とともに[[1699年]]の[[カルロヴィッツ条約]]でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲されたが、ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。[[1848年]]の[[1848年革命|3月革命]]において[[コッシュート・ラヨシュ]]が指導した独立運動こそ[[ロシア]]軍の介入により失敗したが、オーストリア側は民族独立運動を抑えるためにハンガリー人との妥協を決断し、[[1867年]]に[[アウスグライヒ]](和協)が結ばれた。これによりハプスブルク家がオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨し、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合する[[オーストリア・ハンガリー帝国]]となった。
 
オーストリア・ハンガリーのもとハンガリーでは[[資本主義]]経済が発展し、[[ナショナリズム]]が高揚したが、[[第一次世界大戦]]で敗戦国となり、オーストリアと分離された。戦後の[[1920年]]に結ばれた[[トリアノン条約]]によりハンガリーはトランシルヴァニアなど二重帝国時代の王国領のうちの面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人(マジャル人)の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。
 
戦間期のハンガリー王国では、ハプスブルク家に代わる国王が選出されないまま、[[ホルティ・ミクローシュ]]が[[摂政]]として君臨したが、領土を失った反動から次第に右傾化した。[[第二次世界大戦]]では失地回復を目指して[[枢軸国]]側について敗戦、[[ソビエト連邦]]に占領された。
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ハンガリーとその周辺は、独特の豊かな[[文化]]をもった様々な[[民族]]が居住していることが[[19世紀]]以来よく知られている。
 
ハンガリー共和国の国民の95%以上は[[マジャル人]](ハンガリー人]]である。マジャルハンガリー人は[[フィン・ウゴル語族]]の[[ハンガリー語]](マジャル語)を[[母語]]とし、[[ウラル山脈]]の方面から移ってきた[[歴史]]をもつため、[[日本]]には「[[アジア]]系民族」と紹介されることもある。その文法構造のため、マジャル人ハンガリー国民の人名は正式に表記した際に[[姓]]が名の前につく、[[ヨーロッパ]]で唯一のである。
 
マジャルハンガリー人は旧[[ハンガリー王国]]領に広まって居住していたため、[[セルビア・モンテネグロ]]の[[ヴォイヴォディナ]]、[[クロアチア]]北部、[[スロバキア]]南部、[[ルーマニア]]の[[トランシルヴァニア]]などにもかなりのマジャルハンガリー人[[人口]]が残る。また、マジャルハンガリー人の中には[[モルダヴィア]]の[[チャーンゴー]]、トランシルヴァニアの[[セーケイ人|セーケイ]]や、ハンガリー共和国領内の[[ヤース]]、[[マチョー]]、[[クマン人|クン]]、[[パローツ]]などの個性的な文化をもつサブ・グループが知られるが、ヤース人が[[アラン人]]の末裔、クン人が[[クマン人]]の末裔であることが知られるように、これらは様々な出自をもち、ハンガリー王国に移住してマジャルハンガリーに部分的に同化されていった人々である。
 
その他の民族では、[[ロマ]](ジプシー)と[[ドイツ人]]がある程度の数が知られる。ハンガリーのロマは個性的な民族文化で知られる。また、ドイツ人は[[東方植民地運動]]の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、[[トランシルヴァニア]]のサース人([[ザクセン人]])や[[スロヴァキア]]の[[ツィプス・ドイツ人]]のようにハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。