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| 各国語表記 = {{Lang|fa|میرزا محمد طارق بن شاہرخ الغبیگ<br />Mīrzā Muhammad Tāraghay bin Shāhrukh Uluġ Beg}}
| 君主号 =
| 画像 =
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = ソビエト連邦時代に発行された切手
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| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 =
| 出生日 = [[1394年]][[3月22日]]
| 生地 = [[ソルターニーイェ|スルターニーヤ]]
| 死亡日 = [[1449年]][[10月27日]]
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| 埋葬地 = [[グーリ・アミール廟]]
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| 配偶者1 = [[#
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| 配偶者9 =
| 配偶者10 =
| 子女 = [[#
| 王家 = [[バルラス]]
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}}
'''ウルグ・ベク'''({{lang-fa|'''میرزا محمد طارق بن شاہرخ الغبیگ'''}} Mīrzā Muhammad Tāraghay bin Shāhrukh Uluġ Beg
文人・学者の保護者となったウルグ・ベクは自身も優れた[[天文学者]]・[[数学者]]・[[文人]]であり<ref name="a-jiten">植村「ウルグ・ベグ」『アジア歴史事典』1巻、350頁</ref>、統治者としての事績よりも学者としての事績を高く評価されている<ref name="horupu"/><ref name="ce-jiten">堀川「ウルグ・ベク」『中央ユーラシアを知る事典』、83,87頁</ref><ref name="rob89">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、89頁</ref>。ウルグ・ベクによって統治された[[サマルカンド]]では王族や有力者による建設事業が盛んに行われ、町に集まった多くの学者が天文学、数学、暦学などの分野で成果を挙げた<ref>川口『ティムール帝国』、209-210頁</ref>。ウルグ・ベクの治世は[[トルキスタン]]文化の黄金期と呼ばれている<ref name="a-jiten"/>。
== 生涯 ==
1394年にシャー・ルフと[[ガウハル・シャード・アーガー]]の長男として[[ソルターニーイェ|スルターニーヤ]]で生まれる。シャー・ルフの子にはティムールの父にちなんだムハンマド・タラガイと名付けられたが、ティムールの意向によってウルグ・ベクに改名された<ref name="kawaguchi-tt190"/>。ティムールはペルシア語で「偉大な指揮官」を意味する「アミーリ・キャビール」「アミーリ・ボゾルグ」の称号で呼ばれ、[[テュルク]]の言葉でそれらの称号と同じ意味を持つ「ウルグ・ベク」の名前を与えるほど、孫に期待をかけていたと考えられている<ref name="kawaguchi-tt190"/>。幼少期のウルグ・ベクは、ティムール第一の正室であるサラーイ・ムルクの下で養育される。
[[1404年]]にティムールによって、ウルグ・ベクと彼の従姉妹のエケ・ベグムの結婚が取り決められる。同年夏に[[サマルカンド]]郊外の牧草地で二人の結婚式が開かれ、式は2か月にわたるものになったといわれている<ref>川口『ティムール帝国』、194頁</ref>。ティムールの中国遠征にはウルグ・ベクも従軍しており<ref name="a-jiten"/>、ティムール死後の内戦においてはシャー・ルフの部下のシャー・マリクとともに[[バルフ]]近郊のアンドゥフドと{{仮リンク|シバルガン|en|Sheberghan}}の統治を命じられた<ref>ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、200頁</ref>。13歳のときに[[ホラーサーン]]地方の一部と[[カスピ海]]南岸の[[マーザンダラーン]]の総督に任じられる。[[1409年]]に王位継承戦を制したシャー・ルフがサマルカンドを制圧すると、ウルグ・ベクはサマルカンド知事に命じられる<ref name="a-jiten"/>。これによりウルグ・ベクを統治者とする地方政権がサマルカンドに成立し、支配期間は40年近くに及んだ<ref>川口『ティムール帝国』、198,195頁</ref>。
[[1419年]]に[[ジョチ・ウルス]]の王族[[バラク (ジョチ家)|バラク]]がウルグ・ベクに支援を求め、ウルグ・ベクはバラクに援助を与える<ref>川口『ティムール帝国』、211-212頁</ref>。また、ウルグ・ベクは[[ワイス (モグーリスタン)|ワイス]]との内争に敗れた[[モグーリスタン・ハン国]]の[[シール・ムハンマド]]に援助を与え、バラクとシール・ムハンマドはそれぞれの国で君主の地位に就いた。ウルグ・ベクは2人を通した間接支配を計画していたが、1426年にバラクは[[シルダリヤ川|シル川]]中流域のティムール帝国領を占領して敵対し、シール・ムハンマドもウルグ・ベクに従属の意思を見せなかった<ref>川口『ティムール帝国』、212-213頁</ref>。[[1425年]]に2月にウルグ・ベクは[[モグーリスタン]]遠征を実施し、同年5月にモグール軍に勝利を収めた<ref name="kawaguchi-tt213">川口『ティムール帝国』、213頁</ref>。遠征軍は[[天山山脈|天山山中]]のユルドゥズ草原([[バインブルク草原]])に到達し、帰国した<ref name="kawaguchi-tt213"/>。[[1427年]]にウルグ・ベクはシャー・ルフから派遣された援軍と共に北方の[[ウズベク|ウズベク族]]の討伐に向かうが、敗北する。シャー・ルフは遠征の失敗に非常に落胆し、一時はウルグ・ベクからサマルカンドの統治権を没収しようと考えていたといわれている<ref>ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、209頁</ref>。ウズベク遠征の失敗以後、ウルグ・ベクは対外政策に消極的な姿勢をとるようになる<ref name="kubo142">久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、142頁</ref>。
[[1447年]]にシャー・ルフが没した後に各地で王族たちの反乱が発生し、ウルグ・ベクの母のガウハール・シャードは孫(ウルグ・ベクにとっての甥)のアラー・ウッダウラを擁立した。ウルグ・ベクはアラー・ウッダウラに捕らえられた長子の[[アブドゥッラティーフ]]を解放するため、彼と和約を結んだ<ref name="tks">デニスン・ロス、ヘンリ・スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』(三橋冨治男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1976年)、251頁</ref>。取り決めに従ってアブドゥッラティーフは解放されたが他の条件は履行されず、ウルグ・ベクとアラー・ウッダウラの戦争は再開される<ref name="tks"/>。[[1448年]]にウルグ・ベクはアラー・ウッダウラに勝利して[[マシュハド]]を占領し、アブドゥッラティーフはヘラートの制圧に成功した。しかし、ウルグ・ベクの遠征中にサマルカンドがウズベクの襲撃を受け、町は破壊と略奪の被害を受けた。ウルグ・ベクはシャー・ルフが本拠地としていたヘラートからサマルカンドに首都機能を移転しようと考え、シャー・ルフの遺体をサマルカンドの[[グーリ・アミール廟]]に移して帰国する<ref name="rob87">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、87頁</ref>。
ウルグ・ベクは[[占星術]]に強い関心を持ち、占いで自分の息子に殺される結果が出た後にアブドゥッラティーフを遠ざけるようになり、次男のアブドゥルアズィーズを後継者にするように考え始めたといわれている<ref>ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、212頁</ref>。ヘラートは[[トルクメン人]]の襲撃を受けて破壊され、バルフに駐屯していたアブドゥッラティーフはウルグ・ベクに対して反乱を起こした<ref name="tks"/>。1449年秋にアブドゥッラティーフの軍はサマルカンドに接近し、ウルグ・ベクはアブドゥルアズィーズとともに迎撃に出たが敗北する<ref name="horupu"/>。ウルグ・ベクはアブドゥッラティーフに[[ハッジ|メッカ巡礼]]を願い出て許されたが、サマルカンドを出た後にアブドゥッラティーフの派遣した刺客によって殺害される<ref name="horupu"/><ref name="rob87"/>。
[[1941年]]にウルグ・ベクの墓陵から、彼の頭蓋骨が発見された<ref name="a-jiten"/>。ウルグ・ベクの生誕600周年にあたる1994年は「ウルグ・ベクの年」に指定され、様々な式典が行われた<ref name="ce-jiten"/>。
== 政策 ==
サマルカンド総督となったウルグ・ベクは37年にわたってマーワラーアンナフル地方を統治し、平和な時代が続いた<ref name="a-jiten"/>。ウルグ・ベクは原則的にはヘラートのシャー・ルフからの指示に従っていたが、シャー・ルフの指示に現れていない独自の政策も実施されていた<ref>川口『ティムール帝国』、210-211頁</ref>。しかし、ウルグ・ベクが実施した政策の詳細は不明な点が多い<ref name="ce-jiten"/><ref>川口『ティムール帝国』、200頁</ref>。ウルグ・ベクの治世には新しい貨幣が鋳造され、商業の発達が促進された<ref name="ce-jiten"/>。ウルグ・ベク時代のサマルカンドにはティムール時代と同様の自由で享楽的な空気が流れ<ref>久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、143頁</ref>、美と人生の楽しみを好む性格と学術上の事績から[[ルネサンス]]的な君主にも例えられる<ref name="raf210">ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、210頁</ref>。
イスラームの伝統に基づいた支配を敷いた父のシャー・ルフと異なり、ウルグ・ベクはテュルク・モンゴルの伝統に則った支配を志向した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、80,87頁</ref>。ウルグ・ベクはチンギス裔の人間を傀儡のハンに擁立し<ref name="ce-jiten"/><ref name="kubo142"/>、傀儡のハンの名の下に命令を発した<ref name="rob89"/>。[[チンギス・カン]]の血を引かないウルグ・ベクはチンギス家の王女たちとの結婚によって血統を強化したが、この婚姻政策にはキュレゲン(娘婿)の称号を使用していた祖父のティムールの存在があったと考えられている<ref name="kawaguchi-tt193">川口『ティムール帝国』、193頁</ref>。ウルグ・ベクはティムールと同じくキュレゲン(娘婿)の称号を用い、ウルグ・ベクが発行した貨幣にはウルグ・ベクとティムールの名前、キュレゲンの称号が刻まれていた<ref name="kawaguchi-tt193"/>。ウルグ・ベクによってサマルカンドのティムールの墓に[[ネフライト|軟玉]]製のセノタプ(模棺)が置かれ、セノタプには伝説上のモンゴルの王妃[[アラン・ゴア]]に遡る一族の系譜が刻まれた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、73,87頁</ref>。セノタプの素材となった軟玉は1425年のモグーリスタン遠征の際に[[カルシ]]から持ち帰ったもので、かつてモグーリスタン遠征を行ったティムールがこれをサマルカンドに持ち帰ろうとしたが果たせなかったと伝えられている<ref>川口『ティムール帝国』、213-214頁</ref>。
ウルグ・ベクの統治下では[[マドラサ]](神学校)などの公共施設が多く建築され、それらの施設には土地が[[ワクフ]](寄進財産)として寄進され、ワクフからあがる収益によって施設の維持と管理が行われていた<ref>川口『ティムール帝国』、205頁</ref>。ウルグ・ベクの建造物の中には後世に崩壊したものもあるが、サマルカンド、ブハラには彼の建てたマドラサが残る([[ウルグ・ベク・マドラサ]]、[[ウルグ・ベク・マドラサ (ブハラ)]])<ref name="horupu"/>。また、ティムールの治世に建設が開始された[[グーリ・アミール廟]]は、ウルグ・ベクの時代に完成した<ref name="raf210"/>。
ウルグ・ベクはサマルカンド総督時代から中国の[[明]]に対してたびたび使節を派遣した<ref name="horupu"/>。[[1439年]]にウルグ・ベクが贈った良馬は明の[[英宗 (明)|英宗]]に気に入られ、英宗は馬の姿を描かせて縁起のいい名前を付けた<ref name="horupu"/>。1449年にウルグ・ベクの派遣した使節が明の宮廷を訪れたが、この年にウルグ・ベクは殺害されたために彼が派遣した最後の使者となり、英宗は[[土木の変]]で[[オイラト]]の捕虜とされた<ref name="horupu"/>。ウルグ・ベクがサマルカンドに建てた絵画館は、中国の影響を色濃く受けた壁画で装飾されていたといわれている<ref name="a-jiten"/>。
== 学
[[Image:Ulugh Beg observatory.JPG|thumb|250px|rightt|サマルカンドのウルグ・ベク天文台内部]]
カディーザーデ・ルーミー、[[アル=カーシー|ギヤースッディーン・アル=カーシー]]らで構成される学者の集団を率いて、ウルグ・ベクは[[1420年]]ごろに完成した[[ウルグ・ベク天文台]]で天文観測を行った。[[1437年]]<ref name="kubo142"/>/[[1441年|41年]]頃<ref name="ce-jiten"/>にウルグ・ベクたちの観測結果は天文表としてまとめられ、従来使用されていた[[ナスィールッディーン・トゥースィー]]の天文表に代わって使用されるようになった<ref name="rob88">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、88頁</ref>。天文表には1,018の[[恒星]]が記録され、うち約900の星の記録は実際の観測に基づいており、サマルカンドでの観測が困難な星については[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の『[[アルマゲスト]]』の記録に修正を加えたものが収録されている<ref>矢島『アラビア科学史序説』、93頁</ref>。計算に少数、円周率を用いた星の観測は、当時のヨーロッパ世界の研究水準を凌駕していた<ref name="rob88"/>。オリジナルの天文表がどのような言語で書かれていたかは判明していないが、[[アラビア語]]、もしくはペルシア語で書かれていた説が有力視されている<ref>矢島『アラビア科学史序説』、90-92頁</ref>。
ウルグ・ベクらによって作成された天文表は精度が高く、[[ヨハネス・ケプラー]]の台頭に至るまで重要視されていた<ref>矢島『アラビア科学史序説』、88頁</ref>。17世紀の[[オックスフォード]]の天文学者John Greavesは5種類の写本を使用してウルグ・ベクの天文表の研究を試みたが、彼の死のために研究が完成を見ることはなかった<ref name="yajima90">矢島『アラビア科学史序説』、90頁</ref>。1665年には、トーマス・ハイドによってヨーロッパで初めてウルグ・ベクの天文表が出版された<ref name="yajima90"/>。
ウルグ・ベクの伝統的なイスラーム諸学への関心は、自然科学への関心に比べて低かった<ref>久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、142-143頁</ref>。一方でウルグ・ベクは幼少期からコーランの全てを暗誦することができ、7種類の暗誦法について精通していたといわれる<ref name="horupu"/><ref name="raf211">ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、211頁</ref>。ウルグ・ベクは自身が建設したマドラサで教鞭を執り、[[クルアーン|コーラン]]について講義を行っていた<ref>矢島『アラビア科学史序説』、89頁</ref>。ウルグ・ベクは科学的問題の把握と立証にへつらいや世辞は不必要なものだと考え、学生たちに命じて対等な立場で議論を行った<ref name="rob89">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、89頁</ref>。議論の際にあえて不適切な意見を述べ、自分の意見を鵜呑みにした学生の誤りを正すこともあった<ref name="rob89"/>。
ティムール朝期に成立した歴史書『四ウルス史』の編纂にはウルグ・ベクが関わっていた、あるいは彼自身が著した本だと考えられている<ref name="ce-jiten"/><ref>川口『ティムール帝国』、227頁</ref>。
==
ウルグ・ベクは音楽を好み、自身も楽器の演奏を行った<ref name="raf210"/>。軟玉の製品を愛好したことも知られ、彼の名前が刻まれた工芸品が数点存在する<ref>川口『ティムール帝国』、214-215頁</ref>。
== ギャラリー ==
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== 家族 ==
=== 后妃 ===
* エケ・ベギ(? - [[1419年]]<ref name="kawaguchi-tt192">川口『ティムール帝国』、192頁</ref>) - [[ジャハーンギール (ティムール朝)|ジャハーンギール]]の子スルターン・ムハンマドの娘。母方の祖父に[[バヤン・クリ]]・ハンを持つ<ref name="kawaguchi-tt192"/>
* スルターン・バディー・アル・ムルク - [[ハリール・スルタン]]の娘<ref name="kawaguchi-tt192"/>
* アク・スルターン・ハニカ - [[スルタン・マフムード (西チャガタイ)|スルタン・マフムード]]の娘<ref name="kawaguchi-tt192"/>
* フ
* シ
* ミヒル・スルタン
* ダウラト・バヒト・ハトゥン
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* ハタン・ハトゥン
* ルカイヤ・ハトゥン・アルラト
=== 王子 ===
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* アカ・ベギム
* タガイ・シャー
* ラビア・スルタン・ベギム - [[ウズベク]]の指導者[[アブル=ハイル・ハン (シャイバーニー朝)|アブル=ハイル]]の妻<ref>堀川徹「民族社会の形成」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)、152頁</ref>
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*
* 川口琢司『ティムール帝国』(講談社選書メチエ, 講談社, 2014年3月)
*
*
*
* 矢島祐利『アラビア科学史序説』(岩波書店, 1977年3月)
* ルスタン・ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』収録(加藤九祚訳, 東海大学出版会, 2008年10月)
*
== 関連項目 ==
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* [[ウルグ・ベク (クレーター)]]:[[月]]の[[クレーター]]。天文学者としての功績を称えて[[ヨハン・ハインリッヒ・メドラー]]により命名された。
{{ティム
{{DEFAULTSORT:うるくへく}}
[[Category:ティムール朝の君主]]
[[Category:天文学者]]
[[Category:15世紀の数学者|-940322]]▼
[[Category:教育者]]
▲[[Category:15世紀の学者]]
[[Category:1394年生]]
[[Category:1449年没]]
[[Category:暗殺された人物]]
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