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ru:Древнерусское государство(20:29, 28 декабря 2013)の#Характер государственности русских земель,#Военная организация抄訳、節改編有、日本語文献で補
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== 国号 ==
[[中世]]時代の史料で確認できるルーシの正式な国号は「ルーシ」のみである{{refnest|group="注"|{{lang|sla|Роусь}}、{{lang|sla|Русь}}など、発音は同じと推測される単純な表記揺れは存在する。}}。しかしルーシとは[[近世サン・ベルダン年代記]]時代以後』の[[839年]]の記述においては[[ヴァリャーグ]]を指していた<ref>清水睦夫「ルーシ」//『[新版] ロシアを知る辞典』p797</ref>。後にそ政治的意味は転じ、狭義にはキエフ地域(ただし[[ドレブリャーネ族]]文化的遺産[[ドレゴヴィチ族]]の地めぐって東欧諸除く)、チェルニゴフ-[[シヴェーリア公が争っ|セヴェルスキー]]地域(だしラジミチ族[[:ru:Радимичи|(ru)]]・ヴャチチ族[[:ru:Вятичи|(ru)]]の地を除く)から現在ペレヤスラヴリ地域を指していた。([[ルーシ (地名)]]参照。)狭義学術文献ではルーシの正式な国号の代わりに以下のような人工的な学術語が法は、[[13世紀]]直前まで用いられるこており、たが多えば[[ノヴゴロド]]の史料などにおてその使用例が確認できる<ref>{{lang|ru|А. А. Зализняк. Древненовгородский диалект. — М., 2004. — С. 356}}</ref>
しかし、[[近世]]時代以後ルーシの政治的・文化的遺産をめぐって東欧諸国が争ったことから、現在の学術文献ではルーシの正式な国号の代わりに以下のような人工的な学術用語が用いられることが多い。
*'''キエフ・ルーシ'''{{refnest|group="注"|[[ウクライナ語]]:'''{{lang|uk|Київська Русь}}''';[[ベラルーシ語]]:'''{{lang|be|Кіеўская Русь}}''';[[ロシア語]]:'''{{lang|uk|Киевская Русь}}'''。}}:[[19世紀]]初頭の[[ロシア帝国]]の歴史学者、[[ニコライ・カラムジン]]が『ロシア国家の歴史』において初めて用いた概念{{refnest|group="注"|カラムジーンによると、ロシア帝国はルーシはの直接な後継者であり、「ルーシ」そのものはロシアの古称にすぎない。なぜなら、ルーシは1240年に滅んだわけではなく、ルーシの政治的中心がキエフからモスクワへ移っただけだからであるという。彼は、ルーシ(ロシア)の歴史は「キエフ・ルーシ」、「モスクワ・ルーシ」、「帝国のルーシ」という区分に分かれると主張した<ref>[http://az.lib.ru/k/karamzin_n_m/index.shtml#gr2 {{lang|ru|Карамзин Н. М. ''История государства Российского'': в 12 т. (до 1612)}}] {{ru icon}}</ref>。}}。大公座の置かれていた場所からこう呼ばれる。近代・現代の学術文献において広く用いられているが、中世・近世時代の史料では見られない。
*'''ウクライナ=ルーシ''':[[20世紀]]初頭のウクライナの歴史学者、[[ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ|ミハイロ・フルシェフスキー]]が『ウクライナ=ルーシの歴史』において初めて用いられた概念<ref>[http://litopys.org.ua/hrushrus/iur.htm {{lang|uk|Михайло Г. ''Історія України-Руси'': в 10 т. }}] {{uk icon}}</ref>。[[ルーシ_(地名)|ルーシ]]のあった土地から命名した。[[ウクライナ]]こそがルーシの後継者であるとする主張である。フルシェフスキーの系統を汲む学者が用いる。
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[[モンゴルのルーシ侵攻]]後期の[[1240年]]、[[モンゴル帝国]]軍が南ルーシを制圧し、キエフ大公国は事実上崩壊した。
 
== 政治・社会 ==
===法律===
{{節stub}}
{{see also|:ru:Древнерусское государство#Древнерусское право}}
 
===身分===
(本小節の[[キリル文字]]表記は[[ウクライナ語]]による。なお、リンク先のページ名の、カタカナ表記の転写元はその限りではない。)
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*奴隷({{lang|uk|холопи, [[ザクープ]]・закупи}}):公、貴族、聖職者に属して雑務を行う。自宅や家族を持つことが許されていた。
 
===政治===
'''公'''<br>
キエフ大公国は、その政権下に、[[東スラヴ人]]、フィン・ウゴル人[[:ru:Финно-угорские народы|(ru)]]、[[バルト人]]の諸部族の住む広大な地域を組み込んでいた。各地の都市を軸とする諸公国の長はクニャージ(公)[[:ru:Князь|(ru)]]といい、ルーシの地全域(キエフ大公国)を統べるキエフの公は、ヴェリーキー・クニャージ(大公)[[:ru:Великий князь|(ru)]]{{refnest|group="注"|「ヴェリーキー・クニャージ」は{{lang-ru|Великий князь}}からの転写による。{{lang-be|Вялікі князь}}:ビャリーキ・クニャージ、{{lang-uk|Великий князь}}:ウェリークィー・クニャージ。}}の称号を帯びた。しかしこの称号は、しばしば他者に僭称されることがあった。また、大公・公の権力は相続制だったが、キエフ大公国初期には末子相続・兄弟相続が伝統的な相続法として採用されており、多くの相続争いを引き起こした<ref name="伊東P107">伊東孝之『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』p107</ref>。[[ヤロスラフ1世]](キエフ大公在位:[[1016年]] - [[1054年]])は長子相続の採用を提唱し<ref name="伊東P107"></ref>、また[[ウラジーミル・モノマフ]]らは[[リューベチ諸公会議]]([[1097年]])を開催し<ref>和田春樹『ロシア史』p61</ref> 、相続に端を発するルーシ諸公の内紛をとどめようとしたが、大局的には相続争いがやむことはなかった。12世紀半ばにはキエフ大公国は分裂期を迎え、約15の公国が形成された。中にはさらに内部に[[分領公国]]を抱える公国もあった。各公国は[[リューリク朝]]に連なる者が公の座にあった。このうちの有力な血統は、[[チェルニゴフ公国]]のオレグ一門[[:ru:Ольговичи|(ru)]](始祖:オレグ・スヴャトスラヴィチ[[:ru:Олег Святославич|(ru)]])、[[スモレンスク公国]]のロスチスラフ一門(始祖:[[ロスチスラフ1世]])、[[ヴォルィーニ公国]]のイジャスラフ一門(祖:[[イジャスラフ2世]])、スーズダリ公国[[:ru:Суздальское княжество|(ru)]]のユーリー一門(始祖:[[ユーリー・ドルゴルーキー]])だった{{refnest|group="注"|当文中の「一門」は便宜的に用いた名称であることに留意されたし。また、「ロスチスラフ一門」・「イジャスラフ一門」・「ユーリー一門」は、「モノマフ一門」(始祖:[[ウラジーミル・モノマフ]])の流れをくむ血統でもある。詳しくは[[:ru:Мономаховичи]]参照。<!--ロシア語版ウィキでは単に「○○вичи」のものと、「Династия(=英:Dynasty) ○○вичи」のものがあり、どのように使い分けているのか、どう訳せばよいかわかりませんでした。「一門」は、私が記事を書き始めた時期(2013.05.)より前に、すでに既存であった記事の表現に倣っております。また、別の記事の中でДинастияを「朝」と訳したものもあるのですが(ポロツク・イジャスラフ朝など)、適切な訳があれば修正をお願いします。(抄訳:[[利用者:ノフノフ]],2014.1.)-->}}。
 
'''貴族・民会'''<br>
[[File:Pskov Veche Vasnetsov.jpg|thumb|200px|[[プスコフ]]のヴェーチェ<br>([[ヴィクトル・ヴァスネツォフ]]・1909年)]]
支配地の管理には、公以外にはボヤーレ[[:ru:Боярин|(ru)]](貴族)と[[ドルジーナ]](従士団・親衛隊)が参加した。ドルジーナは公に属し主に軍事行為に従事するものたちであるが、ポヤーレと雇用関係を結ぶドルジーナもいた。[[12世紀]]のキエフ大公国の分裂期には、政治権力は公とドルジーナのうちの上位層の手から、力を増してきていたボヤーレの手に渡った。ボヤーレは、その始祖はキエフ大公をはじめとする公たちと同じ[[リューリク朝]]の出身者であったが、この時期には既に公家とは別の家門を成していた。
 
また、市民によって構成されるヴェーチェ[[:ru:Вече|(ru)]](民会)が各都市に組織されていた。[[945年]]にイスコルテニ(現ロシア・コロステニ[[:ru:Коростень|(ru)]]の[[ドレヴリャーネ族]]は、貢税を求めた公のイーゴリを殺害するが、この殺害に至るまでの討議は『[[原初年代記]]』に記述されており、討議は既にヴェーチェが機能していたことを示すものであるとみなす説がある<ref>和田春樹『ロシア史』p39</ref>。ヴェーチェは自由民階級の[[戸主]]である成人男子に参加権がある[[直接民主制]]であり、事項の決定は全員一致を原則としていた<ref name="伊東P101">伊東孝之『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』p101</ref>。開催は鐘を打ち鳴らすことで住民に周知させ、時には公や貴族に対する蜂起をも引き起こした<ref>田中陽兒「キエフ・ルーシ」//『[新版] ロシアを知る辞典』p166</ref>。
 
'''諸公国の内情'''<br>
公・貴族・民会は、キエフ大公国を構成する各公国において、それぞれ異なる権力バランスを作り上げていた。以下はその例である。
*[[キエフ公国]]では公の二頭体制が行われるいくつかのケースが見られたが、キエフ公国のボヤーレは内紛の白熱化を防ぐための支援を行い、他公国からの干渉に対して立ち回った(キエフ大公位に食指をのばした[[ユーリー・ドルゴルーキー]]は、[[キエフ]]のボヤーレによって毒殺されたという推測がある)。また、キエフのボヤーレ階級は、[[ムスチスラフ1世]]の子孫に好意を抱いていたが<ref>{{lang|ru|Пресняков А. Е. Княжое право в Древней Руси. Лекции по русской истории. Киевская Русь — М.: Наука, 1993}}</ref>、公を選ぶ際には、キエフのボヤーレらの見解は外部からの圧力に抗しきれないことがあった。一方、キエフのヴェーチェは12世紀半ばに衰退した<ref name="田中p165">田中陽兒「キエフ・ルーシ」//『[新版] ロシアを知る辞典』p165</ref>。
*[[ノヴゴロド公国]]では、キエフとは対照的にヴェーチェが12世紀半ばに活動の全盛期を迎え、以降も長期に渡って機能していた<ref name="田中p165"></ref>。ノヴゴロドのヴェーチェは民事・軍事に関わる事項の決定や、公の任免・罷免をも決定した。また、ヴェーチェによる[[共和制]]の施行によって、ノヴゴロドではリューリク朝出身者のヴォートチナ(世襲領地)[[:ru:Вотчина|(ru)]]が発展することはなかった。なお、[[ノヴゴロド大主教]]の候補者はヴェーチェによって建議され、大主教が追放されたという出来事も記録されている。
*[[ウラジーミル・スーズダリ大公国]]では、公の権限を強化しようとしたウラジーミル大公アンドレイ・ボゴリュブスキー[[:ru:Андрей Юрьевич Боголюбский|(ru)]]による独裁政治と、それを除こうとするボヤーレのクチコ[[:ru:Кучко|(ru)]]・下位層のドルジーナとが対立する事件が起きた<ref>{{lang|ru|Данилевский И. Н. Русские земли XII—XIV вв. глазами современников и потомков. — М., 2001. - С.77.}}</ref>。しかしアンドレイの死([[1174年]])の後、ボヤーレ側は敗北し、公個人の権力が大幅に増大することになった。とはいえ、その後14世紀の直前まで、ウラジーミル・スーズダリ大公国ではヴェーチェに関する言及が見出されることから、ヴェーチェは権力闘争の中において大きな役割を担うことになったと推測される<ref>{{lang|ru|Вече в древнерусских письменных источниках: Функции и терминология // Древнейшие государства Восточной Европы. 2004. — М.,2006. — С.92-93.}}</ref>。
*[[ハールィチ公国|ガーリチ公国]]では、ボヤーレの中から公を選出するということが起きた<ref>[http://bibliotekar.ru/rus/86.htm {{lang|ru|Галицко-Волынская летопись}}]</ref>。
 
また、唯一の、ルーシ全体が関与する政治機構としては、諸公会議{{refnest|group="注"|「諸公会議」は{{lang-ru|съезд князей}}からの意訳による。}}が残っていた。それは主に[[ポロヴェツ族]]との戦いに関する事項を扱った。なお、教会は[[府主教]]を長として、比較的統一性を保っていた(地域的な[[聖人]]・[[聖遺物]]の出現と、それに対する礼拝行為を除く)。
 
===軍事===
{{see also|:ru:Войско Древней Руси}}
[[File:Radzivil Vladimir campaign on Korsun.jpg|thumb|200px|ルーシの軍隊<br>([[ラジヴィウ年代記]])]]
9世紀から10世紀のキエフ大公国の軍隊は、[[ドルジーナ]]部隊とオポリチェニエ[[:ru:Ополчение#В средневековой России|(ru)]]([[民兵]])部隊を主軸として構成されていた。(さらに遊牧民の傭兵部隊を加えて三種類とみなす文献もある<ref>伊東孝之『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p102</ref>。)この時期のドルジーナは公との契約に基づく[[傭兵]]的性格を帯びており、主要構成員は[[ヴァリャーグ]](例えば、12-13世紀のノヴゴロドにおいて傭兵として雇用されていた<ref>百瀬宏『北欧史』p34</ref>)、また[[バルト海]]沿岸からの移住者、地元民などであった。給与は銀、金、毛皮によって支払われていた。ドルジーナの雇用にかかる費用は歴史家によって見解が分かれているが、通常、勇士は年に8-9キエフグリブナ([[ディルハム]]銀貨200枚以上に相当)を受け取っていたのに対し、11世紀初め以降の一般兵卒は北部グリブナ1枚のみを得ていたとみなされている(地域による貨幣価値の違いについては[[:ru:Древнерусская гривна|(ru)]]、[[#貨幣]]参照)。それに加えて、ドルジーナは公の負担によって扶養されていた。それは初めはストロヴァニエ(食事・祝宴<ref>井桁貞義『露和辞典』p1070</ref>)の形で出現したが、後にコルムレニエ[[:ru:Кормление|(ru)]]という、ポリュディエ(当時の徴税方法の1つ。[[:ru:Полюдье|(ru)]]、[[#租税]]参照)による住民からの租税と、国際公益から得た資金とから支払う形に変化した{{refnest|group="注"|「ストロヴァニエ」は{{lang-ru|столованье}}、「ポリュディエ」は{{lang-ru|Полюдье}}からの転写による。}}。また、キエフ大公は下位のドルジーナ層から構成された400名の部隊を個人的に抱えていた。
 
国家経営に関する有事の際の[[ヴォエヴォダ]](軍事司令官)は、しばしばボヤーレの中から抜擢・任命され、公に同行した。摂政[[オリガ (キエフ大公妃)]]・[[スヴャトスラフ1世]]・[[ヤロポルク1世]]の三代にわたって仕えたスヴェネリド[[:ru:Свенельд|(ru)]]、[[ウラジーミル1世]]揮下のドブルィニャ[[:ru:Добрыня (воевода)|(ru)]]などである。
 
時代が下り、各公国の貴族や土地に根付く連隊へと、ドルジーナの分層化が始まると([[ドルジーナ#社会的身分・公との関係]]参照)、軍隊は封建的オポリチェニエ(民兵)を基本とするようになった。彼らは都市、都市の管区、スロボダ[[:ru:Слобода|(ru)]]の防衛のために用いられた。なお、[[ノヴゴロド公国]]のドルジーナは、事実上、公国の政権に雇用された存在だった。またノヴゴロドには[[主教]]・市民が組織したトィシャチ部隊(トゥイシャツキー[[:ru:ысяцкий|(ru)]](千人長)を長とする民兵部隊)や、ボヤーレ所属の民兵部隊も存在した。
 
通常、軍事遠征は数名の公の軍勢からなる連合軍によって行われた。年代記の記述によればその軍勢は1万-2万人、ルーシ全体での兵力は総勢2万-4万人に達した。
 
==経済・産業==
===都市===
[[File:Brest - Archeological museum Bjarestse.JPG|thumb|200px|13世紀の都市建築物の遺構<br>([[ベラルーシ]]・[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]])]]
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モンゴルの侵攻直前のキエフの人口は35000-50000人と推定されており<ref name="黒川P56"></ref>、中世有数の大都市であった。しかし、モンゴル軍の攻撃を受けて壊滅し、キエフや、同じくキエフ・ルーシ期の中心的都市だった[[チェルニゴフ]]・[[ペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイ|ペレヤスラヴリ]]といった都市は衰退していった<ref>伊東孝之『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』p111</ref>。
 
==経済・産業==
===貨幣===
[[File:Grivna.jpg|thumb|200px|ルーシ北部のグリヴナ。[[レニングラード州]]コポリエ村[[:ru:Копорье (село)|(ru)]]出土。]]
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{{節stub}}
 
== 宗教・文化 ==
{{see also|ru:Культура Древней Руси|en:Culture of ancient Rus}}
 
===宗教===
{{節stub}}
{{see also|スラヴ神話|[[:ru:Киевская митрополия до 1458 года]]}}
 
===伝承===
{{see also|ru:Древнерусский фольклор}}
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== 参考文献 ==
* 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)
*『ロシア史』/ 和田春樹編、山川出版社、2002、(世界各国史;22)
*『北欧史』/ 百瀬宏,熊野聡編、山川出版社、1998.8、(世界各国史;21)
* [http://history.franko.lviv.ua/yak_r2-1.htm 『ウクライナ史の概説』/ N.ヤコヴェーンコ著. — キエフ: ゲネザ, 1997.] {{uk icon}}
*『ロシアの歴史(上) 古代から19世紀前半まで』/ アレクサンドル・ダニロフ他著、寒河江光徳他訳、明石書店、2011.
*『[新版] ロシアを知る辞典』/ 川端香男里・佐藤経明他監修 平凡社、2004.
*『物語 ウクライナの歴史』/ 黒川祐次、中央公論新社、2002.
*『新版 ロシア文学案内』/ 藤沼貴、小野理子、岩波文庫、1999.
*『はじめて学ぶ ロシア文学史』/ 藤沼貴、水野忠夫、井桁貞義、ミネルヴァ書房、2003.
*『ロシア中世物語集』/ 中村喜和、筑摩書房、1985.
*『コンサイス露和辞典』/ 井桁貞義編、三省堂、2009.
 
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