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{{日本の寺院
[[File:Harima kokubunji ato 01.jpg|thumb|播磨国分寺跡]]
|名称 = 播磨国分寺
[[File:Harima kokubunji ato 02.jpg|thumb|築地塀(復元)]]
|画像 = [[File:Harima kokubunjiKokubunji ato 03hondou.jpgJPG|thumb|説明と伽藍配置図280px]]<br />本堂
'''播磨国分寺跡'''(はりまこくぶんじあと)は、|所在地 = [[兵庫県]][[姫路市]][[御国野町国分寺]]にある[[播磨国]]の[[国分寺]]跡。国の[[史跡]]に指定されている。121
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|34|49|15.57|N|134|43|52.95|E|region:JP-28_type:landmark|display=inline,title|name=播磨国分寺}}
|山号 = 牛堂山
|宗旨 = [[真言宗]]
|宗派 =
|寺格 =
|本尊 =
|創建年 = (推定)[[天平]]13年([[741年]])頃
|開山 =
|開基 = (伝)[[聖武天皇]]
|中興年 = [[近世]]頃
|中興 =
|正式名 =
|別称 =
|札所等 =
|文化財 = 石造宝篋印塔(兵庫県指定文化財)
|公式HP =
|公式HP名 =
|地図2 = {{Location map+|Japan Hyogo|width=200|float=center|caption=|places=
{{Location map~|Japan Hyogo|lat_deg=34|lat_min=50|lat_sec=4.36|lon_deg=134|lon_min=41|lon_sec=44.94|position=left|label_size=85|label=播磨国府<br />推定地|mark=blue_pog.svg|marksize=8}}
{{Location map~|Japan Hyogo|lat_deg=34|lat_min=49|lat_sec=14.03|lon_deg=134|lon_min=43|lon_sec=52.85|position=right|label_size=90|label='''播磨国分寺'''|mark=red_pog.svg|marksize=10}}
}}}}
{{座標一覧}}
[[File:Harima Kokubunji sanmon.JPG|thumb|250px|right|{{center|山門}}{{small|門前の礎石は旧国分寺金堂のものと推定される。}}]]
'''播磨国分寺'''(はりまこくぶんじ)は、[[兵庫県]][[姫路市]][[御国野町国分寺]]にある[[真言宗]]の[[寺院]]。[[山号]]は牛堂山。
 
[[奈良時代]]に[[聖武天皇]]の[[詔]]により日本各地に建立された[[国分寺]]のうち、[[播磨国]]国分僧寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、古代寺院跡である'''播磨国分寺跡'''(国の[[史跡]])と、'''播磨国分尼寺跡'''(史跡指定なし)についても解説する。
 
== 概要 ==
兵庫県南部、[[市川 (兵庫県)|市川]]左岸の[[河岸段丘]]上に位置する{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。[[聖武天皇]]の詔で創建された国分僧寺の後継寺院に相当し、現境内と重複して旧国分僧寺跡、北方約600メートルに国分尼寺跡が立地するほか、南方には古代[[山陽道]]が通ったと推定される{{Sfn|姫路市埋蔵文化財センター|2007年}}。播磨国府(姫路市本町に推定)からは東約4キロメートルに位置する。この国分寺付近は、大型[[前方後円墳]]の[[壇場山古墳]]に見られるように古くから一帯の中心地であった{{Sfn|国分寺村(平凡社)|1999年}}。
[[天平]]13年([[741年]])、[[詔]]によって[[真言宗]]の寺院として再建された[[国分寺 (姫路市)|牛堂山国分寺]]は、かつての国分寺の跡地に建立されたことが知られており、[[大正]]10年([[1921年]])に史跡に指定されていたが、[[昭和]]43年([[1968年]])以後付近の発掘作業が実施され、古代国分寺の遺構が2町四方の規模に及ぶことが判明した。
 
旧国分寺跡の推定寺域は、[[1921年]]([[大正]]10年)3月3日に国の[[史跡]]に指定された(その後数次の追加指定)<ref name="国指定"/>。[[1968年]]([[昭和]]43年)には発掘調査が開始され、[[1991年]]([[平成]]3年)までの13次にわたる調査により、金堂・塔・講堂・僧坊など多くの主要伽藍の遺構が判明している{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。推定寺域の北半分(金堂・講堂周辺)には近世頃に再興された後継寺院(牛堂山国分寺)が重複して建てられており、重複しない寺域南半分(塔・中門・回廊周辺)が史跡公園「ふるさと歴史の広場」として整備されている{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。なお、現在の寺域は[[国道2号]](北)と[[山陽本線]]・[[山陽新幹線]](南)に挟まれた位置にある。
伽藍配置は、寺域中央に南から南大門・中門・金堂・講堂が一直線に並び、中門から延びる回廊が金堂に取り付き、塔は回廊外の寺域東南部に位置することが確認された。金堂前には[[燈籠]]の基壇も確認されている。その一方で、金堂は現・国分寺の薬医門の位置、講堂は現・国分寺の本堂の位置にあったことが確認されるなど、全容の発掘が困難である。現在、現寺域と重複しない区域を中心に「ふるさと歴史の広場」として整備され、燈籠や[[築地塀|築地]]など一部施設が復元されている。
 
== アクセス歴史 ==
[[File:Harima Kokubunji-ato chumon-1.JPG|thumb|250px|right|{{center|手前に旧国分寺跡の中門・回廊<br />奥に牛堂山国分寺の境内}}]]
*[[JR神戸線]] [[御着駅]]から、北西へ徒歩約7分。
=== 古代 ===
創建は不詳{{Sfn|播磨国分寺跡(平凡社)|1999年}}。[[天平]]13年([[741年]])の国分寺建立の詔の頃に創建されたと見られる{{Sfn|播磨国分寺跡(平凡社)|1999年}}。
 
[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』主税上では、国分寺料として稲4万束が規定されている。
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Harimakokubunji}}
出土瓦によれば、国分寺は[[平安時代]]末頃まで存続したと推測される(礎石焼痕によれば焼失か){{Sfn|播磨国分寺跡(平凡社)|1999年}}。一方、国分尼寺は[[13世紀]]初頭までの存続が推測される{{Sfn|播磨国分尼寺跡(平凡社)|1999年}}。
*[[聖武天皇]]
 
=== 中世 ===
[[中世]]期には、所領としての「国分寺」の記載が文書に散見される{{Sfn|国分寺村(平凡社)|1999年}}(中世期も法燈を伝承したと伝えるが、変遷の詳細は不明{{Sfn|播磨国分寺跡(平凡社)|1999年}})。
 
=== 近世 ===
牛堂山国分寺の縁起によれば、国分寺は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には荒廃していたが、[[天正]]15年([[1587年]])に[[豊臣秀吉]]から国分寺村337石の[[寄進]]を受けたという{{Sfn|国分寺村(平凡社)|1999年}}。
 
また[[慶長]]6年([[1601年]])には[[姫路藩]]から30石の寄進を受け、堂宇が再興されたとする{{Sfn|国分寺村(平凡社)|1999年}}。さらに[[寛永]]年間([[1624年|1624]]-[[1644年]])には、[[姫路城]]下の池田・本多両家の菩提寺の大堂が移されたといい、現在に見る本堂がこれになると伝える{{Sfn|国分寺村(平凡社)|1999年}}。
 
[[慶安]]元年([[1648年]])には、3代将軍[[徳川家光]]から[[朱印地]]として30石の寄進を受けており、この朱印地は幕末まで継続した{{Sfn|国分寺村(平凡社)|1999年}}。
 
=== 近代以降 ===
* 僧寺跡
** [[1921年]]([[大正]]10年)3月3日、国の[[史跡]]に指定。指定範囲は牛堂山国分寺境内から塔跡にかけて<ref name="国指定"/>{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
** [[1968年|1968]]-[[1971年]]度([[昭和]]43-46年度)、第1次-第5次発掘調査。主要伽藍や他の建物を検出、寺域を概ね推定{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
** [[1971年]](昭和46年)8月5日、調査結果を受けて史跡範囲の追加指定<ref name="国指定"/>{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
** [[1981年|1981]]-[[1984年]]度(昭和56-59年度)、第6次-第8次発掘調査{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
** [[1985年]](昭和60年)12月12日、調査結果を受けて史跡範囲の追加指定(45,539平方メートル)<ref name="国指定"/>{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
** [[1989年|1989]]-[[1991年]]度([[平成]]元-3年度)、第9次-第13次発掘調査。史跡整備に先立つ調査{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
** [[1992年]](平成4年)、史跡指定範囲の南半分において史跡公園「ふるさと歴史の広場」の竣工{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
* 尼寺跡
** 1985-1992年度(昭和60-平成4年度)、5次の発掘調査。周辺の再開発に伴う緊急調査{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=730-734}}。
** 1991-1992年度(平成3-4年度)、2次の発掘調査。県道改良工事に伴う調査{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=730-734}}。
 
== 播磨国分寺跡 ==
[[File:Harima Kokubunji-ato zenkei.JPG|thumb|250px|right|{{center|播磨国分寺跡 全景}}{{small|中央には回廊で囲まれた金堂院。右奥の牛堂山国分寺境内の位置に金堂跡・講堂跡がある。}}]]
僧寺跡は、現国分寺と重複して立地する({{ウィキ座標|34|49|14.03|N|134|43|52.85|E|region:JP-28_type:landmark|display=inline|位置|name=播磨国分寺跡}})。寺域は方2町(約218メートル四方)と推定され、寺域端では築地塀が認められている{{Sfn|播磨国分寺跡(平凡社)|1999年}}{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。主要伽藍は、南大門・中門・金堂・講堂・僧坊が南から一直線(主軸は約4度西に傾く)に配されるとともに、寺域南東隅には塔が配される東大寺式伽藍配置である{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。主な伽藍の基壇は現在までに整備されている。遺構の詳細は次の通り。
[[File:Harima Kokubunji-ato kondou.JPG|thumb|200px|right|{{center|金堂跡}}]]
[[File:Harima Kokubunji-ato tou-1.JPG|thumb|200px|right|{{center|塔跡}}]]
:; 金堂
:: 本尊を祀る建物。現国分寺の山門と重複する。基壇は東西36.9メートル・南北23.4メートル。基壇上の建物の詳細は明らかでない。山門前に仮置きされる巨石は、この金堂の礎石と見られる{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
:: 金堂基壇から南方6メートルの位置では燈籠の基壇が検出されており{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}、現在は推定復元されている。
:; 塔
:: 釈迦の遺骨(舎利)を納めた七重塔。伽藍のうちで最も良好に遺存する。基壇は約18.9メートル四方。心礎含む礎石17個がほぼ原位置を保って完存し、建物は一辺9.3メートルを測る。
:; 講堂
:: 経典の講義・教説などを行う建物。現国分寺の本堂と重複し、調査は実施されていない。現本堂の床下には、この講堂のものと見られる礎石が認められている{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
:; 僧坊(僧房)
:: 僧の宿舎。講堂の北方に位置する。礎石抜き取り跡が認められているが、全容は明らかでない{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
:; 回廊
:: 金堂・中門を結ぶ屋根付きの廊下。金堂左右から出て中門左右に取り付く。規模は東西71.3メートル・南北51.7メートルで、幅は約7メートル{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
:; 中門
:: 金堂の南方に位置する。基壇は東西16メートル弱・南北約10.6メートルと推定されるが、後世の削平により詳細は不明{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
:; 南大門
:: 中門の南方に位置する。基壇は東西約14メートル・南北10.4メートルと推定されるが、後世の削平により詳細は不明。中門と同程度の規模になる{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
寺域からは、瓦・土師器・須恵器が大量に出土したほか、国産施釉陶器、貿易陶磁器、黒色土器、瓦器、風字硯、土錘、塼、金銅製水煙、勾玉、吸子羽口、鉄・銅製品、鉄滓、砥石、骨なども出土している{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。以上の出土遺物などにより、[[平安時代]]末頃までの存続が推測される{{Sfn|播磨国分寺跡(平凡社)|1999年}}。
<gallery>
File:Harima Kokubunji-ato tourou.JPG|燈籠(復元)
File:Harima Kokubunji-ato tou-2.JPG|塔礎石<br />{{small|中央の心礎は出枘式。}}
File:Harima Kokubunji-ato chumon-2.JPG|中門跡
File:Harima Kokubunji-ato nandai-mon.JPG|南大門跡
File:Harima Kokubunji-ato tsuiji.JPG|築地塀(復元)
</gallery>
 
== 播磨国分尼寺跡 ==
[[File:Harima Kokubun-niji-ato sekihi.JPG|thumb|250px|right|{{center|播磨国分尼寺跡 石碑}}{{small|金堂跡付近に位置する。}}]]
尼寺跡は、僧寺跡の北方約600メートルに位置する({{ウィキ座標|34|49|36.46|N|134|43|55.56|E|region:JP-28_type:landmark|display=inline|位置|name=播磨国分尼寺跡}})。かつては「毘沙門廃寺」と称された{{Sfn|播磨国分尼寺跡(平凡社)|1999年}}。寺域は東西約134メートル・南北約180メートルと推定され{{Sfn|播磨国分寺跡(平凡社)|1999年}}、寺域端では築地塀が認められている{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=730-734}}。主要伽藍は、南門(推定)・中門(推定)・金堂・講堂が南から一直線(僧寺跡と同様に主軸は約4度西に傾く)に配されたと見られる{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=730-734}}。遺構の詳細は次の通り。
:; 金堂
:: 本尊を祀る建物。基壇規模・建物規模は不明。基壇の一部と見られる盛土が検出されている{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=730-734}}。
:; 講堂
:: 経典の講義・教説などを行う建物。推定雨落溝により基壇規模は東西23.3メートル以上・南北16.2メートルと推定されるが、基壇自体は検出されていない{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=730-734}}。
:; 回廊
:: 金堂・中門を結ぶ屋根付きの廊下。金堂左右から出て中門左右に取り付く。規模は東西約60メートル・南北約45メートルと推定される{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=730-734}}。
以上のほか、井戸2基・掘立柱建物2棟なども検出されている{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=730-734}}。また寺域からは、土師器・須恵器をはじめ、国産施釉陶器、貿易陶磁器、黒色土器、瓦器、製塩土器、転用硯、吸子羽口、砥石、磨石、漆椀、曲物、櫛などが出土している{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=730-734}}。以上の出土遺物などにより、[[13世紀]]初頭頃までの存続が推測される{{Sfn|播磨国分尼寺跡(平凡社)|1999年}}。
 
== 文化財 ==
=== 国の史跡 ===
* 播磨国分寺跡 - 大正10年3月3日に指定、昭和46年8月5日・昭和60年12月12日に追加指定<ref name="国指定">{{国指定文化財等データベース|401|1855|播磨国分寺跡}}</ref>。現在の指定範囲は45,539平方メートル{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010年|pp=714-720}}。
 
=== 兵庫県指定文化財 ===
* 有形文化財<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s110/2212786/_5222/_5244/_5245.html 県指定文化財(建造物)](姫路市ホームページ)。</ref>
** 石造宝篋印塔(建造物)<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s110/2212786/_5222/_5244/_5245/_5633.html 石造宝篋印塔](姫路市ホームページ)。</ref> - 室町時代の作。牛堂山国分寺の本堂東側にある。昭和45年3月30日指定。
 
== 現地情報 ==
'''所在地'''
* 現国分寺:兵庫県姫路市御国野町国分寺121
* 旧国分寺跡:[[兵庫県]][[姫路市]][[御国野町国分寺]]
 
'''交通アクセス'''
* 鉄道:[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[山陽本線]]([[JR神戸線]]) [[御着駅]] (北西へ徒歩約7分)
 
'''周辺'''
* [[壇場山古墳]]
* [[山之越古墳]]
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
* 史跡説明板
*山本博利「播磨国分寺跡」(『国史大辞典 15』(吉川弘文館、1996年) ISBN 978-4-642-00515-9)
* 地方自治体出版物
*[[佐藤信 (歴史学者)|佐藤信]]「播磨国分寺跡」(『日本歴史大事典 3』(小学館、2001年) ISBN 978-4-09-523003-0)
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2010|chapter=|title=姫路市史 第7巻 下(資料編 考古)|publisher=姫路市|isbn=|ref={{Harvid|姫路市史 第7巻 下|2010年}}}}
** {{Wikicite|reference={{PDFlink|[http://www.city.himeji.lg.jp/maibun-center/images/kokubunji.pdf 姫路市埋蔵文化財センター 平成18年度冬季企画展パンフレット「播磨国分寺」]}}(姫路市埋蔵文化財センター、2007年<!--年度ではなく出版年-->)|ref={{Harvid|姫路市埋蔵文化財センター|2007年}}}}。
* その他書籍
** 山本博利 「播磨国分寺跡」『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] 15』 吉川弘文館、1996年。ISBN 978-4-642-00515-9。
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1999|chapter=|title=[[日本歴史地名大系]] 29-2 兵庫県の地名 2|publisher=[[平凡社]]|isbn=4-582-49061-1|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=「国分寺村」|ref={{Harvid|国分寺村(平凡社)|1999年}}}}、{{Wikicite|reference=「播磨国分寺跡」|ref={{Harvid|播磨国分寺跡(平凡社)|1999年}}}}、{{Wikicite|reference=「播磨国分尼寺跡」|ref={{Harvid|播磨国分尼寺跡(平凡社)|1999年}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=中世諸国一宮制研究会編|author=|year=2000|chapter=|title=中世諸国一宮制の基礎的研究|publisher=岩田書院|isbn=4-87294-170-5|ref={{Harvid|中世諸国一宮制|2000年}}}}
** [[佐藤信 (歴史学者)|佐藤信]] 「播磨国分寺跡」『日本歴史大事典 3』 小学館、2001年。ISBN 978-4-09-523003-0。
** {{Wikicite|reference=[https://kotobank.jp/word/%E6%92%AD%E9%BA%BF%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA%E8%B7%A1-1444811 「播麿<!--ママ-->国分寺跡」]『国指定史跡完全ガイド』 [[講談社]](リンクは朝日新聞社「コトバンク」)|ref={{Harvid|国指定史跡完全ガイド}}}}。
 
== 外部リンク ==
{{coord|34|49|13|N|134|43|53|E|region:JP-28|display=title}}
{{Commonscat|Harima Kokubunji}}
{{DEFAULTSORT:はりまこくふんしあと}}
* {{国指定文化財等データベース|401|1855|播磨国分寺跡}}
[[Category:兵庫県にある国指定の史跡]]
* [http://www.city.himeji.lg.jp/s110/2212786/_5222/_5237/_5240/_5613.html 播磨国分寺跡] - 姫路市ホームページ
[[Category:日本の仏教遺跡]]
 
[[Category:姫路市の寺|廃はりまこくふんし]]
{{Buddhism2}}
[[Category:播磨国|寺はりまこくふんしあと]]
 
[[Category:姫路市の歴史]]
{{リダイレクトの所属カテゴリ
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