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{{基礎情報 軍人
| 氏名 = ウィリアム・ウォレス
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| 署名 =
}}
[[サー]]・'''ウィリアム・ウォレス'''({{lang-en|Sir '''William Wallace'''}}、
[[イングランド]]王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]の過酷なスコットランド支配に対して、スコットランド民衆の国民感情を高めて抵抗運動を行い、[[1297年]]の[[スターリング・ブリッジの戦い]]でイングランド軍に勝利をおさめた。この戦功で「[[ジョン・ベイリャル (スコットランド王)|ジョン]]王のスコットランド王国の守護官」に任じられるも、[[1298年]]の[[フォルカークの戦い]]でイングランド軍に敗れたため、職を辞した。その後も反エドワード活動を継続したが、スコットランド貴族の裏切りにあってエドワードに捕らえられ、残虐刑で処刑された。しかし彼の刑死によりスコットランドの国民感情は鼓舞され、ついにはエドワードのスコットランド支配を崩壊させるに至った<ref>[[#世界(1980,2)|世界伝記大事典 世界編2巻(1980)]] p.212-213</ref>。
== 生涯 ==
=== 出自・前半生など ===
ウォレスの前半生についてはほぼ不明だが<ref name="世界(1980,2)212">[[#世界(1980,2)|世界伝記大事典 世界編2巻(1980)]] p.212</ref>、[[レンフルーシャー]]のエルダズリーの地主マルコム・ウォレスの子とも伝わる<ref name="トラ(1997)98">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.98</ref>。
「ウォレス」というのは「ウェルシュ」がなまったものだが、これは[[ウェールズ人]]であることを意味しない。北方[[ゲール]]系[[ケルト人]]でなく、南部キムルー・ストラスクライド系ケルト人だったことを意味している<ref name="トラ(1997)98">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.98</ref>。
=== 抵抗運動の始まり ===
記録に出てくるなかでは、[[1296年]]8月にパースで「William le Waleys」なる盗賊が現れたとあるが、これがウィリアムかどうかは確認されていない<ref name="Fi(2004)947">[[#Fi(2004)|Fisher(2004)]] p.947</ref>。
ウィリアム・ウォレスの名が歴史上に出てくる確かな年代は[[1297年]]5月で、[[ラナーク]]の{{仮リンク|ハイ・シェリフ|en|High Sheriff}}を務めるイングランド人ウィリアム・ヘッセルリグを殺害した事件がそれである。この殺害について、ウォレスの愛人マリオン・ブレイドフュートがヘッセルリグの息子を振って殺され、その復讐という伝承もあるが<ref name="Fi(2004)947"/>、実際にはイングランド式の統治を推し進めていたヘッセルリグのアサイズ(巡回裁判)に反発したスコットランド人の一団がヘッセルリグの殺害を計画・実行し、この一団にウィリアムが関わっていたものと見られる<ref name="Fi(2004)947"/>。
ウォレスは、イングランドの過酷な統治に反発するスコットランド下級貴族・中間層・下層民の間で急速に支持を広げた<ref name="世界(1980,2)212"/><ref name="青山(1991)354">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.354</ref>。分散的だったスコットランド人の抵抗運動はウォレスの指導下にナショナルなゲリラ的抵抗の形をもって統一されていった<ref name="青山(1991)354"/>。一方スコットランド大貴族は親イングランド的だったうえ、ウォレスを身分の低い者と軽蔑していたので、積極的な協力はしなかった<ref name="世界(1980,2)212"/><ref name="トラ(1997)100">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.100</ref>。
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=== スターリング・ブリッジの戦い ===
[[File:The Battle of Stirling Bridge.jpg|250px|thumb|[[スターリング・ブリッジの戦い]]を描いた絵画]]
スコットランド北部で抵抗運動を行う{{仮リンク|アンドルー・モレー|en|Andrew Moray}}の軍と合流し、[[1297年]][[9月11日]]には[[スターリング (スコットランド)|スターリング・ブリッジ]]において、第6代{{仮リンク|サリー伯爵|en|Earl of Surrey}}{{仮リンク|ジョン・ド・ワーレン (第6代サリー伯爵)|label=ジョン・ド・ワーレン|en|John de Warenne, 6th Earl of Surrey}}率いるイングランド軍と戦った([[スターリング・ブリッジの戦い]])<ref name="青山(1991)354">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.354</ref>。
兵力はイングランド軍の方が優勢であり<ref name="世界(1980,2)212"/>、またイングランド軍は騎兵隊やウェールズ弓隊を擁していた<ref name="青山(1991)354">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.354</ref>。しかしウォレスは[[フォース川]]の架橋地点とその先の湿地帯が一本道になっているという地の利を生かしてイングランド軍の騎兵隊の機動力を奪い、勝利を収めることに成功した<ref name="トラ(1997)100">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.100</ref>。
イングランド王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]が前月8月からフランス出兵でイングランドを不在にしており、直接指揮をとっていなかったとはいえ、この勝利はスコットランド人の自信を大いに高めた<ref name="トラ(1997)100">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.100</ref>。
この戦功でウォレスは[[ナイト]]に叙され、「[[サー]]」の称号を得た。誰がウォレスをナイトに叙したのかは判然としないが、イングランド側の記録には「逆賊がスコットランドの大伯爵の手で騎士に叙された」と記されている<ref name="トラ(1997)102">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.102</ref>。当時イングランドに対して蜂起していたスコットランド伯爵は{{仮リンク|レノックス伯爵|en|Earl of Lennox}}{{仮リンク|メオル・チョルイム1世 (レノックス伯爵)|label=メオル・チョルイム|en|Maol Choluim I, Earl of Lennox}}と{{仮リンク|キャリック伯爵|en|Earl of Carrick}}[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ブルース]](後のスコットランド王ロバート1世)の二人だけなので、そのどちらかと思われる<ref name="トラ(1997)102">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.102</ref>{{#tag:ref|{{仮リンク|ナイジェル・トランター|en|Nigel Tranter}}はレノックス伯はスターリングブリッジの戦い以前はイングランド派だった人物で、戦いの後にスコットランド派に寝返った日和見的な貴族なので、ウォレスが彼に好感を持っていたとは思えないとして、ブルースがウォレスを騎士に叙したのであろうと推測している<ref name="トラ(1997)102"/>。|group=注釈}}。
さらに{{仮リンク|セルカーク|en|Selkirk, Scottish Borders}}における会議で<ref name="トラ(1997)102"/>、「[[ジョン・ベイリャル (スコットランド王)|ジョン]]王のスコットランド王国の守護官」に任じられた<ref name="世界(1980,2)212"/>。
ウォレス軍は勢いに乗ってイングランド北部[[ノーサンバーランド]]や[[カンバーランド]]に進攻した<ref name="青山(1991)354">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.354</ref>。
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=== フォルカークの戦い ===
しかしウォレスの破竹の勢いも長くは続かなかった。彼は貴族階級から軽蔑され続けたし、またベイリオル家の名のもとで戦ったため、ブルース家から支持を得られなかった<ref name="青山(1991)355">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.355</ref>。またフランスにいたエドワード1世は、ウォレス軍の勝利の報告を受けて、[[1298年]]1月に急遽フランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]と講和し、イングランドに舞い戻ってきた<ref name="青山(1991)355">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.355</ref>。
エドワード1世は破壊的な報復を開始し、ウォレスはゲリラ戦でこれに抵抗したが、徐々に追い詰められていき、[[1298年]][[7月22日]]にウォレス軍はエドワード1世率いるイングランド軍と[[フォルカーク]]での野戦を余儀なくされた([[フォルカークの戦い]])<ref>[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.102-103</ref>。ウォレス軍は数に勝るイングランド軍を相手によく奮戦したが、戦闘中、貴族率いる騎兵隊が一戦も交えずにウォレスを見捨てて撤退したため、ウォレスは騎兵無しで戦うことになり、決戦に持ち込めないまま、撤退を余儀なくされた<ref name="世界(1980,2)212"/><ref name="トラ(1997)103">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.103</ref>。
この戦いで多くの兵を失ったため、ウォレスは責任を取って「スコットランド王国の守護官」の職を辞した<ref name="世界(1980,2)212"/>。ウォレスの退任後はブルースと{{仮リンク|バデノッホ卿|en|Lord of Badenoch}}{{仮リンク|ジョン・コミン3世 (バデノッホ卿)|label=ジョン・コミン|en|John III Comyn, Lord of Badenoch}}が同職に就任した<ref name="トラ(1997)104">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.104</ref>。
この後の[[1298年]]から[[1303年]]にかけてのウォレスの動向はよく分かっていない。[[フランス]]や[[ローマ]]を訪問してエドワード1世への抵抗運動の援助を求める交渉にあたるも失敗したことのみ判明している<ref name="世界(1980,2)213">[[#世界(1980,2)|世界伝記大事典 世界編2巻(1980)]] p.213</ref>。
一方フォルカークの戦いに勝利したエドワード1世は、[[1300年]]からスコットランド侵攻を繰り返し、とうとう[[1303年]]5月に制圧に成功した<ref name="青山(1991)355">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.355</ref>。
=== 捕縛・処刑 ===
[[File:The Trial of William Wallace at Westminster.jpg|250px|thumb|大逆罪で[[ウェストミンスター]]の裁判所にかけられるウォレスを描いた絵画({{仮リンク|ダニエル・マクリース|en|Daniel Maclise}}画)]]
ウォレスはスコットランドに帰国したが、エドワード1世から執拗な追撃を受けた<ref name="世界(1980,2)213"/>。エドワード1世は「大逆者」ウォレスを捕らえようと血眼になり、賄賂と脅迫によってウォレスの部下たちにウォレスに対する裏切りを仕向けた<ref name="トラ(1997)103"/>。
[[1305年]][[8月5日]]、ウォレスはかつての部下だった[[ダンバートン]]総督{{仮リンク|ジョン・ド・メンティス|en|John de Menteith}}の裏切りにあってイングランドに引き渡された<ref name="世界(1980,2)213"/><ref name="トラ(1997)103"/>{{#tag:ref|このためジョン・ド・メンティスは「不実なるメンティス」と呼ばれ、今日に至るまでスコットランド人から忌み嫌われている<ref name="トラ(1997)103"/>。しかしナイジェル・トランターは直接ウォレスを裏切って捕らえたラルフ・ド・ハリバートンが最も罪が重く、メンティスの罪は副次的であるとしている<ref name="トラ(1997)103"/>。|group=注釈}}。
イングランドで裁判にかけられたウォレスはエドワード1世への大逆罪で有罪となり、[[8月23日]]に[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑]]という残虐刑で処刑された<ref name="世界(1980,2)213"/><ref name="トラ(1997)104">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.104</ref>。遺体の首は[[ロンドン橋]]に串刺しとなり、4つに引き裂かれた胴体はイングランドとスコットランドの4つの城で晒し物とされた<ref name="世界(1980,2)213"/>。
エドワード1世としてはウォレスに残虐刑を課すことでスコットランドの抵抗運動を恐怖で抑えつけようという意図であったが、それは成功しなかった<ref name="トラ(1997)103"/><ref name="世界(1980,2)213"/>。逆にスコットランド国民感情を鼓舞する結果となり、幾月もたたぬうちにエドワード1世のスコットランド支配は崩れ去ることになる<ref name="世界(1980,2)213"/>。
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== 人物・評価 ==
当時スコットランドに国民や国家のような概念がほとんどない中で、スコットランド人を愛国精神で立ち上がらせることに成功した人物である点が特筆される<ref name="トレ(1973)210-211">[[#トレ(1973)|トレヴェリアン(1973)]] p.210-211</ref><ref name="トラ(1997)99">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.99</ref>。
これについて{{仮リンク|ナイジェル・トランター|en|Nigel Tranter}}はウォレスを「スコットランド愛国精神の発明者」と評価している<ref name="トラ(1997)99"/>。一方{{仮リンク|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|label=ジョージ.トレヴェリアン|en|G. M. Trevelyan}}は、明確に発露したり自覚したりすることこそなかったものの、当時スコットランド国民にはすでに国民的感情や民主的感情があり、ウォレスは行動に移すことを呼びかけた人物であると評価している<ref name="トレ(1973)211">[[#トレ(1973)|トレヴェリアン(1973)]] p.211</ref>。
スコットランドでは現在に至るまで英雄として崇拝されている<ref name="トラ(1997)99">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.99</ref>。「スコットランドの[[オリヴァー・クロムウェル]]」とも渾名されている<ref name="青山(1991)355">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.355</ref>。
{{Gallery
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|File:Sir William Wallace statue.jpg|[[スコットランド]]・[[エディンバラ城]]のウォレス像
|File:Wallace Statue, Dryburgh.jpg|スコットランド・{{仮リンク|ドライボロ|en|Dryburgh}}に立つウォレス像
|File:The wallace tower ayr.JPG|スコットランド・[[エア (サウス・エアーシャー)|エア]]に立つウォレス・タワー
|File:Wallace Monument , Stirling, Scotland, in Autumn.jpg|スコットランド・{{仮リンク|アビー・クレイグ|en|Abbey Craig}}に立つ[[ナショナル・ウォレス・モニュメント]]
|File:Wallace's Monument, Elderslie.jpg|スコットランド・{{仮リンク|エルダスリー|en|Elderslie}}に立つウォレス・モニュメント
|File:Wm Wallace Druid Hill 1893.JPG|[[アメリカ]]・[[ボルチモア]]・{{仮リンク|ドルイド・ヒル・パーク|en|Druid Hill Park}}に立つウォレス像
}}
{{-}}
==
[[1995年]]公開のアメリカ映画『[[ブレイブハート]]』で主人公として描かれた。映画では[[メル・ギブソン]]が演じている<ref>{{Cite web |url=http://www.imdb.com/title/tt0112573/fullcredits?ref_=tt_cl_sm#cast |title=Braveheart (1995) Full Cast & Crew|accessdate= 2014-4-26|author= [[インターネット・ムービー・データベース|IMDb]] |work= [http://www.imdb.com/?ref_=nv_home IMDb] |language= 英語 }}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|1}}</div>
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|editor=[[青山吉信]]編|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈1〉先史~中世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460102|ref=青山(1991)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ナイジェル・トランター|en|Nigel Tranter}}|translator=[[杉本優]]|date=1997年(平成9年)|title=スコットランド物語|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469244014|ref=トラ(1997)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|label=G.M.トレヴェリアン|en|G. M. Trevelyan}}|translator=[[大野真弓]]|date=1973年(昭和48年)|title=イギリス史 1|publisher=[[みすず書房]]|isbn=978-4622020356|ref=トレ(1973)}}
*{{Cite book|和書|date=1980年(昭和55年)|title=世界伝記大事典〈世界編 2〉ウイーオ|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7XCOU|ref=世界(1980,2)}}
*{{Cite book|author=Andrew Fisher|date=2004|title=Wallace, Sir William|series = Oxford Dictionary of National Biography, vol.56|publisher=Oxford University Press|ref=Fi(2004)}}
== 外部リンク ==
{{commonscat|William Wallace}}
{{Wikisource1911Enc|Wallace, Sir William}}
* [http://www.braveheart.co.uk/macbrave/history/wallace/elder01.htm Location of William Wallace's home]
*[http://skyelander.orgfree.com/menu3.html William Wallace and Battles of Stirling and Falkirk]
*[http://www.stirling.gov.uk/services/education-and-learning/local-history-and-heritage/local-history/wallace-and-bruce Wallace and Bruce]
*[http://www.scottisharchivesforschools.org/ffa/lubeck.asp The Lübeck letter]
*[http://www.bbc.co.uk/news/uk-scotland-14959390?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter Wallace letters to go on show]
* {{npg name|id=67461|name=Sir William Wallace}}
{{DEFAULTSORT:うおれす ういりあむ}}
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[[Category:レンフルーシャー出身の人物]]
[[Category:刑死した人物]]
[[Category:13世紀生
[[Category:1305年没]]
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