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'''昭和三大馬鹿査定'''(しょうわさんだいばかさてい)と通称されるものは、昭和時代の莫大な税金の無駄遣いを表す比喩表現である。もともとは、[[大蔵省]][[主計局]]の職場内で使われていた[[隠語]]であり、「それに該当する三つが何か」という議論のことではなく、後世にそのような指摘をうけるような事業に予算をつけてなはらないという主計官の自戒の言葉である<ref name="検証大蔵省崩壊p31">{{harvtxt|検証 大蔵省崩壊|1996|pp=31}}</ref>。[[整備新幹線|整備新幹線着工]]のための予算措置をめぐる駆け引きのなかで、[[1987年]][[12月23日]]、翌年度(昭和六十三63年度)の予算原案の大蔵省内示の時、当時の[[大蔵省]][[主計局]]の担当主計官であった[[田谷廣明]]が、整備新幹線着工に予算をつけることへの反対意見を表明する発言の中で比喩的にこの表現を用い、物議をよんだかもした<ref name="毎日新聞19871224-M-P23">{{Cite news | title = 整備新幹線計画認めれば『昭和の三大バカ査定に』大蔵省主計官大胆に?本音| newspaper = [[毎日新聞]]朝刊 | location = 東京 | pagespage = 23 | date = 1987-12-24 }}</ref>。
 
== 背景 ==
=== 国鉄民営化と整備新幹線着工問題 ===
臨時行政調査会は巨額に膨れ上がった累積赤字を抱える国鉄を再建するために、「整備新幹線計画は当面見合わせる」と答申した。これを受け、[[1982年]][[9月24日]]、整備新幹線計画は凍結、新幹線の建設主体である日本鉄道建設公団も他との統廃合の対象とする、閣議決定がなされた<ref name="「政府の失敗」の社会学p28">{{harvtxt|「政府の失敗」の社会学|2001|pp=28}}</ref>。その後、国鉄は分割民営化される方針で議論が進んだ。[[1986年]][[10月28日]]、国鉄改革法案は衆議院で可決され、[[1987年]]の分割民営化が決まった。焦点は、民営化に取り残された形となった整備新幹線着工問題であった。整備新幹線を一般会計の枠組みの中で公共事業として行うことが模索された。しかし「整備新幹線を国の予算から出す場合には、運輸省の公共事業費を使ってもらう」というのが大蔵省の一貫した方針だった<ref name="毎日新聞19871224-M-P23">{{Cite news | title = ’89年度予算案のうらおもて 整備新幹線| newspaper = [[朝日新聞]]朝刊 | location = 東京 | pagespage = 2 | date = 1989-01-25 }}</ref>。
 
[[1986年]][[12月29日]]、強く整備新幹線着工を主張する自民党と政府の間で政治折衝が行われ、整備新幹線について逐次着工するという政治決着をみた<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp49">{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=49}}</ref><ref name="新世紀へ夢を運ぶp118">{{harvtxt|新世紀へ夢を運ぶ|2007|pp=118}}</ref>。そして、[[1987年]][[1月30日]]の閣議において、正式に、「整備新幹線の建設を当面見合わせる」とした閣議決定の解除した<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp53">{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=53}}</ref>。ただし、着工する前提条件として、「分割民営化後の新会社の判断」(原文ママ)と「財政問題、収支見通し」を付帯した<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp53"/>。この時の整備新幹線の議論をまとめると、以下の点になる。
 
* 巨額の建設費を、国・地方・[[JR]]でどのように負担するのか
* 運行を始めた後の営業赤字をどのように避けるのか
* 並行[[在来線]]をどのように扱うのか
 
=== 政治情勢 ===
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[[1987年]][[11月]]に禅譲という形で[[竹下内閣]]が成立した。自民党三役も一新し、幹事長に[[安倍晋太郎]]、政調会長に[[渡辺美智雄]]という布陣になった。しかし、政権与党であった自民党内に整備新幹線に対する温度差を生じさせた。
 
自民党幹事長の[[安倍晋太郎]]は整備新幹線促進の立場を明確にした。[[1987年]][[12月15日]]、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]社長の[[住田正二]]より、JR各社から整備新幹線財源問題等検討委員会の小委員会に提出した最終報告の概要説明が安倍晋太郎幹事長に対してなされた。この際、安倍晋太郎は、「全体として新幹線建設にJR各社は冷たいと言った感じだ」「キミは新幹線をつくらせたくないのか」「キミは運輸省で何をやってきたんだ<ref group="注釈">{{efn|[[住田正二]]は元運輸官僚</ref>}}。新幹線への地元住民の期待がこれだけ大きいのは、キミら運輸省が推進に一役買ってきたからじゃないか」と厳しく批判した<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp69">{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=69}}</ref>。こうした安倍幹事長の一連の積極発言は、着工へのレールを敷くことで自民党主導の政策決定を鮮明にし、ポスト竹下を狙うため整備新幹線の早期着工を求める議員の支持を取りつけたいとの思惑があったとの指摘がある<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp69"/>。
 
自民党政調会長についた[[渡辺美智雄]]は、[[1987年]][[12月7日]]、自民党本部で開かれた自民党同志会での会合で講演し、来年度予算案編成の焦点の一つである整備新幹線問題について「九州や北陸など関係地域の人たちのつけてくれという気持ちはよくわかるが、(建設するとなると)15)15兆とか2020兆とかかるうえ、赤字の垂れ流しになるのではという問題もある。せっかく国鉄改革をやったばかりなのに、第2の国鉄をつくってどうするのかということであり、なかなか結論の出せない、やっかいな問題だ」<ref>{{Cite news | title = | newspaper = [[朝日新聞]]朝刊 | location = 東京 | pagespage = 2 | date = 1987-12-08 }}</ref><ref name="新世紀へ夢を運ぶp129">{{harvtxt|新世紀へ夢を運ぶ|2007|pp=129}}</ref>、「新幹線は大飯くらいの嫁さんが来るようなものだ。家が潰れてしまう」<ref name="新世紀へ夢を運ぶp129"/>と、着工に消極的な考えを示した。
 
このように、ポスト竹下を狙う安倍晋太郎と渡辺美智雄の対立は、整備新幹線着工をめぐる問題で浮き彫りになり、前年に自民党が足並みをそろえて着工凍結の解除を迫ったときとは、大きく様相が変わっていた<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp71">{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=71}}</ref>。
 
一方で、[[1987年]][[12月13日]]、運輸大臣[[石原慎太郎]](当時)は[[リニア実験線|宮崎実験線]]で[[超電導リニア|リニアモーターカー]]に初めて試乗した<ref name="朝日新聞19871214-N-P12">{{Cite news | title = 運輸相、リニア実用化に前向き| newspaper = [[朝日新聞]](夕刊) | location = 東京 | pagespage = 12 | date = 1987-12-14 }}</ref>。この時の記者会見で、「5050キロなり100100キロなりの実験線など、実用化に向けた予算措置をする時期に来ているのではないか」と述べ、昭和六十三年度予算案にリニア関係調査費などを盛り込む考えを明らかにした<ref name="朝日新聞19871214-N-P12"/>。その後、ヨーロッパで[[磁気浮上鉄道]]の開発状況の視察を行い<ref name="朝日新聞19880122-M-P30">{{Cite news | title = ブタ小屋とトリ小屋の間ではリニア技術、世界に映えぬ| newspaper = [[朝日新聞]](朝刊) | location = 東京 | pagespage = 30 | date = 1988-01-22 }}</ref>、整備新幹線よりもリニアモーターカーの方に強い興味を持っていた<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp85">{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=85}}</ref>。また[[12月23日]]、自民党の[[松永光]]政調会長代理は「新幹線は三十年前の、[[高速道路]]も[[空港|エアポート]]も無かった時代の発想だ。二十一世紀はリニアの時代。整備新幹線は完成した時にはもう古いものになる。二十一世紀を考えなくてはならないのに、そうした将来計画が運輸省には何もない」(原文ママ)と発言<ref name="読売新聞19871224-M-P4">{{Cite news | title = 整備新幹線、推進へ気勢 本格着工、当初予算ではムリ | newspaper = [[読売新聞]](朝刊) | location = 東京 | pagespage = 4 | date = 1987-12-24 }}</ref>、将来のグランドデザインなき整備新幹線着工への議論の不毛さを指摘し、暗に整備新幹線促進派を批判した<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp87">{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=87}}</ref>。
 
=== 経済界の状況 ===
経済界は、当時進んでいた円高に危機感をもち、公共事業費の増額を望んでいた<ref name="朝日新聞19880124-M-P8">{{Cite news | title = 公共事業費でなお増額要望| newspaper = [[朝日新聞]](朝刊) | location = 東京 | pagespage = 8 | date = 1987-12-24 }}</ref>。整備新幹線については、日本建設業界団体連合会長は整備新幹線の着工を要望していることを表明した<ref name="朝日新聞19880124-M-P8"/>。しかし経済同友会代表幹事は「採算のメドがないままに着工に踏み切るのは避けるべきだ」と述べ、財源の裏打ちのないままでの着工反対を表明した<ref name="朝日新聞19880124-M-P8"/>。
 
=== 財政担当側の状況 ===
大蔵省は、[[1980年]](昭和5555年)から、財政再建路線をすす進めていた。中曽根内閣時代に大蔵大臣であった[[竹下登]]は緊縮財政を「おしん路線」と呼び<ref name="毎日新聞19871208-M-P9">{{Cite news | title = 風向き変わる<1> 税収増で議論再び| newspaper = [[毎日新聞]](朝刊) | location = 東京 | pagespage = 9 | date = 1987-12-08 }}</ref>、「昭和6565年度(平成2年度)赤字国債発行ゼロ」を掲げていた<ref name="毎日新聞19871208-M-P9"/>。そしてその達成は好調な税収に支えられて実現一歩手前まできていた<ref name="毎日新聞19871208-M-P9"/>。一方で[[竹下内閣]]で大蔵大臣についた[[宮澤喜一大蔵大臣]]は財政再建路線を堅持しつつも内需拡大のため積極財政への転換を模索するという状況であった<ref name="毎日新聞19871208-M-P9"/>。しかし、大蔵省が危惧したのは「一時的な好調に浮かれて財政再建の手を緩めると、タガがはずれて過去の苦労も水の泡になる」<ref name="毎日新聞19871208-M-P9"/>、「(一度放漫財政になれば)いざというときは財政赤字に足を引っ張られて何もできない。過去に何度も味わった苦悩を繰り返すことになる」<ref name="毎日新聞19871208-M-P9"/>ということであった。
 
そのような状況下で12月23日に示された政府予算大蔵原案は、整備新幹線について「調整中」とし、実質ゼロ査定となった<ref>{{Cite news | title = 自民、整備新幹線に重点| newspaper = [[日経新聞]](朝刊) | location = 東京 | pagespage = 3 | date = 1987-12-24 }}</ref>。この時の大蔵省が公共工事として整備新幹線の着工するために示した前提条件をまとめると、以下の3点である<ref>{{Cite news | title = 「着工反対」崩さず| newspaper = [[日経新聞]](朝刊) | location = 東京 | pagespage = 3 | date = 1987-12-28 }}</ref>。
 
* 国の建設費九割負担は無理
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=== 整備新幹線着工促進派の状況 ===
地元に整備新幹線の計画ルートを持つ着工促進派の議員を中心に、[[二階堂進]]を会長とした整備新幹線着工促進議員連盟を立ち上げた。整備新幹線計画予定のある地方自治体の関係者と共に、予算折衝の時期を通して大蔵省をはじめとする各方面に陳情合戦をくりひろげていた<ref name="AERA19890124-p13-15">{{Cite journal |journal = AERA |title = 平成元年度予算 潤う財布を自民がむしる |date = 1989-01-24 |pages = 13-15}}</ref>。この時の状況を、鎌田要人鹿児島県知事(当時)は新幹線のために自ら頭を下げてまわる姿を「コメツキバッタ」と自嘲した<ref name="AERA19890124-p13-15"/>。
 
このため、着工促進派は、「いま突破口を開けておかないと、当分進展は望めない。今年こそは決着をつけよう」と悲壮感を漂わせるまでになっていた<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp72">{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=72}}</ref>。このような攻勢の背景には、先に述べたように大蔵省が公共事業費の増額容認の方向を示したこのタイミングで、整備新幹線を着工問題を解決してしまいたいという思惑があった。一方で、先に述べた安倍晋太郎と渡辺美智雄の意見対立があり、双方のメンツを潰さないようにするため、本格着工問題をさらに先送りするのではないかという憶測もあった<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp75">{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=75}}</ref>。
 
促進派の国会議員や地方自治体の関係者は、六十三年度大蔵原案が提示される[[12月23日]]に、[[赤坂プリンスホテル]]で整備新幹線早期着工実現総決起大会を開き、昭和六十三63年度での着工を要求した<ref name="朝日新聞19871224-N-P14">{{Cite news | title = 沿線関係者走る!| newspaper = [[朝日新聞]](夕刊) | location = 東京 | pagespage = 14 | date = 1987-12-24 }}</ref>。二階堂進はこの決起総会で「新幹線の扱いがどうなるか、今年ほど真剣に心配している年はない。新幹線建設は自民党の第一の公約であり、これをやらないと国民をだますことになる」と、改めて早期本格着工を求める決意を述べた<ref name="読売新聞19871224-M-P4"/>。その熱意は凄まじく、例えば、この大会には自民党から共産党まで青森県議会議員の約9割が参加していた<ref name="朝日新聞19871224-N-P14"/>。
 
== 発言 ==
=== 状況 ===
当時ころ大蔵省主計局は、主計局長を筆頭に、その下に主計局次長が3名、さらにその下に担当別の主計官が9名という構成であった<ref name="新世紀へ夢を運ぶp122">{{harvtxt|新世紀へ夢を運ぶ|2007|pp=122}}</ref>。9人いる主計官のうち、整備新幹線の予算編成にあたっていたのが、運輸・郵政担当主計官とその上司である主計局次長であった<ref name="新世紀へ夢を運ぶp122"/>。
 
当時、大蔵原案がまとまると、記者クラブを対象に「レク」と呼ばれた原案に対する説明が行われる習慣があり、担当各主計官が約2020分ずつ大蔵原案の内容を説明を行なっていた<ref name="検証大蔵省崩壊p29">{{harvtxt|検証 大蔵省崩壊|1996|pp=29}}</ref>。[[1987年]][[12月2322日]]に、昭和六十三年度政府予算大蔵原案の「レク」が開催された。しかし、「レク」の時間が後ろに伸びるのは常で、この時も田谷の順番が回ってきたときはすでに時計の針日付深夜0時を回変わ[[12月23日]]になっており<ref name="サンデー毎日198890124-p32-33">{{Cite journal |journal = サンデー毎日 |title = 『三大バカ査定発言』で男をあげた大藏主計官の評判 | volume = 67 |issue = 3 | date = 1988-01-24 |pages = 32-33}}</ref>、記者の間にも疲労感が漂っていた<ref name="検証大蔵省崩壊p29"/>。またこの時、田谷は飲酒後に記者の前に現れていた<ref groupname="注釈検証大蔵省崩壊p30"/>{{efn|後日、岸のインタビューにバカ査定発言の時の状況について聞かれた田谷は「あの日は新橋で夕食を食いながら飲んでいた。そろそろ出番なんで記者クラブに行ったら、『おもしろおかしくやってよ』なんておだてられて、つい口走っちゃったんだ」と語っている<ref name="検証大蔵省崩壊p30">{{harvtxt|検証 大蔵省崩壊|1996|pp=30}}</ref>。}}
 
=== 田谷主計官の発言内容 ===
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(整備新幹線促進派の議員たちは)「建設費も維持費も国に出せ」といい、その上に「固定資産税も免除せよ」といっているが、それではまるで「オンブにダッコに、オシッコ」だ<ref name="大蔵省主計局p229"/>。
 
新幹線は完成まで十年か二十年かかる。どうせチンタラ造るんだろうから、できた時にはすでに前時代の遺物になっている<ref name="サンデー毎日198890124-p32-33"/>。
 
私が地方の住民なら新幹線がほしい。しかし建設しても利用者は少ない。一方で膨大な都会の通勤者が殺人的ラッシュにあえいでいる<ref name="毎日新聞19871224-M-P23"/>。
}}
 
=== 記者の反応 ===
田谷の発言を聞いていた記者たちは、強烈な内容に唖然とし、大爆笑であったという<ref name="サンデー毎日198890124-p32-33"/>。
 
== 発言に対する反応と対応 ==
=== 報道 ===
この田谷主計官の発言は「整備新幹線計画認めれば『昭和の三大バカ査定に』大蔵省主計官大胆に?本音」と見出しをつけ、毎日新聞東京朝刊が[[12月24日]]の社会面で報じた<ref name="毎日新聞19871224-M-P23"/>。サンデー毎日は「『三大バカ査定発言』で男をあげた大藏主計官の評判」<ref name="サンデー毎日198890124-p32-33"/>という記事を見開き2ページで掲載。週刊新潮は「『三大バカ査定』に続く『亡国』圧力団体の主役」として、[[本四連絡橋]]や農道空港の予算も無駄であるという趣旨と合わせて4ページの記事を掲載<ref name="週刊新潮198890124-p32-33">{{Cite journal |journal = 週刊新潮 |publisher = 新潮社 | title = 『三大バカ査定』に続く『亡国』圧力団体の主役 | volume = 33 |issue = 2 | date = 1988-01-15 |pages = 38-41}}</ref>。また週刊文春は白黒グラビアページに「昭和三大バカ査定この風景」と青森の新幹線建設予定地の風景グラビアを掲載した<ref>{{Cite journal |journal = 週刊文春 |publisher = 文藝春秋社 |title = 昭和三大バカ査定この風景 | volume = 30 |issue = 3 | date = 1988-01-21 |pages = 4}}</ref>。
 
=== 整備新幹線促進派の反応 ===
発言のあった[[12月23日]]に、[[赤坂プリンスホテル]]で開かれていた整備新幹線早期着工実現総決起大会に、すぐに伝わった<ref name="毎日新聞19871224-M-P23"/>。連盟幹事長の[[森喜朗]]は、すぐさま「不届きな発言でありそんな考え方を持っている大蔵省との関係はどうあるべきなのか」と強く非難した<ref name="毎日新聞19871224-M-P23"/>。また他の促進派からも「官僚の暴言だ。糾弾しろ」「その主計官を国会へ連れてきて、どういうことか糾明すべきだ」などの強行論が続出した<ref name="新世紀へ夢を運ぶp122"/>。「大蔵省は整備新幹線建設はバカな計画と言っているようだが、景気を良くするには公共事業の増大が一番。[[むつ (原子力船)|原子力船『むつ』]]のバカさ加減に比べれば、こっちのバカはまだ意味がある」といった開き直りとも取れるものもあった<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp87"/>。
 
以上のように、この発言は促進派の感情を刺激し、強反発を招いた。しかし促進派の有力国会議員であった[[小里貞利]]は自著のなかで「(この発言の後)私は田谷主計官と何度もあった。が、問題発言に関しては、ただの一度も抗議はしなかったし、話題にもしなかった」と述べている<ref name="新世紀へ夢を運ぶp124">{{harvtxt|新世紀へ夢を運ぶ|2007|pp=124}}</ref>。
 
=== 政府・閣僚の反応 ===
この発言について、促進派からの申し入れに対して、宮澤喜一大蔵大臣と西垣昭主計局長は「あの発言は適当でない」とした<ref name="大蔵省主計局p229"/>。
 
整備新幹線の担当である運輸大臣[[石原慎太郎]](当時)は、この発言のあった翌日の閣議後の記者会見において、「各省それぞれの言い分があるだろうが、大蔵省よりこっち(運輸省)の方が先見の明がある場合だってある」と整備新幹線担当大臣として大蔵省に反論した<ref name="毎日新聞19871224-M-P2-3">{{Cite news | title = | newspaper = [[毎日新聞]](夕刊) | location = 東京 | pagespage = 10 | date = 1987-12-24 }}</ref><ref group="注釈">{{efn|「また整備新幹線が戦艦大和・武蔵と同列に扱われたことについて石原大臣は『(野球でも)試合に負ければ、内野が悪い、キャッチャーが悪いと(結果論を)いうものだ』と不快感を示した」とも報じられた({{Cite news | title<ref name= | newspaper = [["毎日新聞]](夕刊) | location = 東京 | pages = 10 | date = 198719871224-12M-24 P2-3"/>。}})</ref>
 
=== 大蔵省内での対応・反応 ===
[[小粥正巳]]官房長(当時)は、田谷主計官を自室に呼んで「場所柄をわきまえず思慮が足らなかった」とひとしきり説教した<ref name="検証大蔵省崩壊p30">{{harvtxt|検証 大蔵省崩壊|1996|pp=30}}</ref>。その後、「そこで聞いていろ」と田谷を脇に置き、自民党の幹部に電話を入れて謝罪した<ref name="検証大蔵省崩壊p30"/>。
 
一方、田谷は後日のインタビューで、「バカ査定のような話はわが省のいいところで、皆私を庇おうとしてくれた。むしろ、ああいうときは庇わなかった人の方が非難される。組織として庇わないと、組織としての評判が落ちるから一枚岩になって守ってくれた。私も初めての経験で心配したが、省内の大半は『言い方が悪かったな』程度の反応で済み、向こう傷にはならなかった」と語り、この発言を大蔵省内では全面的に擁護してくれたと受け止めていた<ref name="検証大蔵省崩壊p30"/>。
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== 整備新幹線着工問題へのその後の影響 ==
=== 関係閣僚会議 ===
この発言のあった翌日の[[12月24日]]、整備新幹線関連関係する大臣による閣議が開かれた。ここで、[[宮澤喜一]]大蔵大臣は、「膨大な施設をただで貸し付けるのは問題だ」と発言<ref name="毎日新聞19871224-N-P1">{{Cite news | title = 整備新幹線で閣僚会議 慎重論体制占める| newspaper = [[毎日新聞]](夕刊) | location = 東京 | pagespage = 1 | date = 1987-12-24 }}</ref>。[[梶山静六]]自治大臣は「沿線自治体には過疎地域が多く、一割の拠出は大変だ。地方交付税で措置しろといっても、一部地域への巨大な交付は公平原則に反する」と述べ<ref name="毎日新聞19871224-N-P1"/>、整備新幹線建設に地方自治体の財源負担は無理であるとの見解を示していた。[[高鳥修]]総務庁長官は「国鉄改革をやったのだからJR各社に(赤字という)悪影響が出るのは避けて欲しい」<ref name="毎日新聞19871224-N-P1"/>と述べた。また整備新幹線担当の[[石原慎太郎]]運輸大臣も「運輸省は行政哲学として高速鉄道網はあくまで必要と考えているが、東京、大阪の通勤地獄の方がはるかに深刻で非人道的。金があればそちらに回したい」と述べた<ref>{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=76}}</ref>。このように関係閣僚からは改めて整備新幹線着工への消極的な発言が続出した。
 
=== 昭和六十三年度予算 ===
[[12月28日]]、政府原案を決定。東北、北陸、九州・鹿児島の3つに合計150億円の建設費が計上された<ref name="朝日新聞19871229-M-P2-3">{{Cite news | title = 新幹線に慎重論台頭 年度内着工なお多難 | newspaper = [[朝日新聞]](朝刊) | location = 東京 | pages = 2-3 | date = 1987-12-29 }}</ref>。しかし、執行には厳しい条件がつけられた。実質的には、政府側の慎重論に押される形となり、昭和六十三年度予算における整備新幹線問題の決着は、先送りされることになった。
 
* 東北・北陸・九州鹿児島の各ルートは順次建設に着手する
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促進派は、内部分裂をまねきかねない「着工順位付け」を飲むところまで譲歩したが、大蔵省の硬い姿勢を突き崩すことができなかった<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp83">{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=83}}</ref>。
 
しかし、比較的昭和六十三年度政府予算案で公共事業費は対前年19.7%19.7%増で、整備新幹線以外では認められた新規事業もあった<ref>{{Cite news | title = | newspaper = [[朝日新聞]](朝刊) | location = 東京 | pagespage = 1 | date = 1987-12-29 }}</ref>。リニアモーターカーに強い興味を持つ石原慎太郎運輸大臣の肝いりで新実験線の調査費が認めれた<ref name="毎日新聞19871229-M-P3">{{Cite news | title = 足並み乱れた「促進派」| newspaper = [[毎日新聞]](朝刊) | location = 東京 | pagespage = 3 | date = 1987-12-29 }}</ref>。これにより以前からリニア実験線の誘致を表明していた[[山梨県]]や[[北海道]]、[[宮崎県]]などが誘致に動き出した<ref name="毎日新聞19871229-M-P3"/>。
 
また[[ミニ新幹線|ミニ新幹線方式]]による福島・山形間([[山形新幹線]])の建設も六十年度予算ですんなり認められていた<ref name="毎日新聞19871229-M-P3"/>。つまり、予算要求側も整備新幹線着工で一枚岩ではなかった。整備新幹線と関係のない地域選出の議員は「増えた建設関係予算を整備新幹線ばかりに取られてはたまらない」と、整備新幹線には終始冷ややかな態度であった<ref name="毎日新聞19871229-M-P3"/>。これまで整備新幹線着工要求はこれまで公共事業抑制政策の不満のはけ口としてのシンボル的な問題であった。しかし、日本内外からの内需拡大要求という要因で、公共事業費そのものは増額された<ref name="朝日新聞19871229-M-P2-3"/>。その状況下で、整備新幹線着工問題は相対化され、公共事業増大というシンボルとしての役割が低下しつつあった<ref name="朝日新聞19871229-M-P2-3"/>。ただ、先延ばしの決定には「田谷主計官の『バカ査定』発言はそれなりの効果を残した」いう指摘もある<ref name="大蔵省主計局p229">{{harvtxt|大蔵省主計局|1990|pp=229}}</ref>。
 
=== 着工促進派の巻き返し ===
この先延ばし決定に、促進派は失望を隠さなかなった。[[鎌田要人]][[鹿児島県]]知事(当時)は「引き延ばし決着は自民党の公約違反であり、極めて遺憾に思っている。中央は地方の苦境を理解していない。第二次西南戦争を起こしたくらいだ」と述べ、不満を爆発させていた<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp84">{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=84}}</ref>。
 
大蔵省の壁を突破できない原因として特に自民党内の足並みの乱れとみた促進派は、整備新幹線に消極的な立場をとっていた幹事長の渡辺美智雄の説得に注力した<ref>{{harvtxt|新世紀へ夢を運ぶ|2007|pp=129}}</ref>。促進派の小里貞利は自民党本部、個人事務所、議員宿舎に連日、早朝、深夜、構わず訪問し陳情を行った<ref>{{harvtxt|新世紀へ夢を運ぶ|2007|pp=133}}</ref><ref group="注釈">{{efn|小里貞利の陳情の猛烈ぶりに、渡辺美智雄は「それはもう何百回となく聞いた。耳にタコなんてものじゃない。コブができた」と語った</ref>}}
 
渡辺美智雄は[[5月19日]]に開かれた第4回着工優先順位専門検討委員会で「部分着工、区間着工した場合はどうなるか具体的に検討してみてはどうか」と発言<ref>{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=93}}</ref>、この発言をうけ、運輸省が東北、北陸、九州・鹿児島ルートについて具体的な試算を行うことになった。
 
=== 運輸省試算と整備新幹線財源問題の合意 ===
先の部分着工の具体的検討を行った結果として、[[1988年]][[8月11日]]運輸省の「整備新幹線各線の暫定整備計画」、いわゆる運輸省試案が説明された<ref>{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=100}}</ref>。この試算結果では、スーパー特急方式およびミニ新幹線方式を導入することなどを柱に建築費見積りを圧縮した。その額は138003800億円であり、当初の292009200億円の半分以下になった。
 
しかしこの運輸省試案は、促進派を失望させた。一部では「ウナギを注文したのにアナゴやドジョウが出てきた」と不満を漏らした<ref>{{harvtxt|新世紀へ夢を運ぶ|2007|pp=140}}</ref><ref name="政治新幹線を発車させた男たちp104">{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=104}}</ref>。それに対して運輸省関係者は「腹がへっているならとりあえずドジョウを食べてみて、そのうえでウナギも必要かどうか考えてほしい」と反論<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp104"/>。また運輸大臣だった[[石原慎太郎]]は「将来は立派な新幹線になる出世魚と受け止めて欲しい」と理解を求めた<ref name="政治新幹線を発車させた男たちp104"/>。また大蔵省も「巨額の支出は認められぬ」とし、この運輸省案も反対の姿勢を明確にした<ref name="毎日新聞19880812-M-P3">{{Cite news | title = 「優先順位」「財源」が焦点 整備新幹線運輸省案| newspaper = [[毎日新聞]](朝刊) | location = 東京 | pagespage = 3 | date = 1988-08-12 }}</ref>。
 
同年[[8月31日]]、整備新幹線の着工順位が決定、北陸新幹線の高崎 - 軽井沢間が筆頭となった。残る課題はJR各社、地方と国の建設費の負担割合であった。最終的には自民党と政府との政治折衝に持ち込まれ、大蔵原案内示前の段階、[[1989年]][[1月17日]]に事実上の3ルートの同時着工で合意した<ref name="朝日新聞19890118-M-P3">{{Cite news | title = 整備新幹線 政治利害一致で決着| newspaper = [[朝日新聞]](朝刊) | location = 東京 | pagespage = 3 | date = 1989-01-18 }}</ref><ref name="毎日新聞19890118-M-P3">{{Cite news | title = 整備新幹線決着 選挙にらみ人気浮上策| newspaper = [[毎日新聞]](朝刊) | location = 東京 | pagespage = 3 | date = 1989-01-18 }}</ref><ref name="政治新幹線を発車させた男たちp140">{{harvtxt|政治新幹線を発車させた男たち|1994|pp=140}}</ref>。合意は要約すると以下の内容である。
 
* 線路部分の建設費の地方負担割合を10%
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* 建設を負担する地方自治体に地方債の発行を認める
 
復活折衝前の合意は異例のスピード決着であった<ref name="毎日新聞19890118-M-P3"/>。この背景には以下の様な目論見があったと言われている。

* 最終局面での政治折衝で着工を決めると、「消費税導入よる増収で着工に踏み切った」という印象を与えることを懸念したこと<ref name="朝日新聞19890118-M-P3"/>。そして、
* 竹下内閣の目玉政策であったが具体策に乏しい「ふるさと創生」の起爆剤にしようと考えたこと<ref name="朝日新聞19890118-M-P3"/><ref name="毎日新聞19890118-M-P3"/>。また、
* この年の夏に予定されていた参議院選挙対策という点があった<ref name="朝日新聞19890118-M-P3"/><ref name="毎日新聞19890118-M-P3"/>。
 
この時も整備新幹線担当であった田谷主計官は、同日の記者会見にて「評価、感想は一切言わないよう言われてきている」と冒頭に述べ、失言するなと事前にクギを刺されたことを明かし、大蔵省内の複雑な心境をにじませた<ref name="毎日新聞19890118-M-P26">{{Cite news | title = 寄り切られた大蔵 主計官、一転慎重| newspaper = [[毎日新聞]](朝刊) | location = 東京 | pagespage = 26 | date = 1989-01-18 }}</ref>。
 
== 発言そのもに対する批判および意見 ==
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当然、このような発言をした田谷主計官の個人的な資質や大蔵官僚に対する批判も起きた。
 
田谷は主計官に着任する前の[[1983年]]から[[1985年]]まで<ref name="サンデー毎日198890124-p32-33"/>、大蔵省から[[熊本県]]企画開発部長に出向していた経験があった<ref name="AERA19890124-p13-15"/><ref name="検証大蔵省崩壊p28">{{harvtxt|検証 大蔵省崩壊|1996|pp=28}}</ref><ref name="AERA19890124-p13-15"/>。このときは[[九州新幹線]]の熊本 - 鹿児島間の早期着工を国に求める旗振り役であり<ref name="AERA19890124-p13-15"/>、建設要求のための集会で、司会進行役を務めたことがあった<ref name="新世紀へ夢を運ぶp122"/>。これを知っている促進派の関係者からは、「立場変われば人変わる、を絵に描いたようだ」とか、「節操のない変節漢」など批判した<ref name="新世紀へ夢を運ぶp122"/>。[[鎌田要人]][[鹿児島県]]知事(当時)は「役人ってそんなものですよ。新幹線は大問題。安全運転ばかり考え、ババを引きたがらないから決断できない」と語った<ref name="AERA19890124-p13-15"/><ref group="注釈">{{efn|鎌田要人も自治省事務次官の経歴を持つ官僚出身者</ref>}}
 
また田谷の大蔵省時代の上司であったことがある加藤隆司はインタビューに答える形で、「(三大バカ査定とは)主計局に語り継がれてきた言葉で、三つのうち二つまでは名前を言ってもいい。戦艦大和でも戦艦武蔵でも青函トンネルでも二つまでは挙げていいが、三つ目は絶対挙げてはいけないという戒めの言葉なんだ。要するに三つ目は『お前がやったらバカ査定になるぞ』という戒めの意味が込められている。そういう職場言葉を、ましてや人前で喋るのは論外で、脇が甘すぎるとしか言いようがない」と田谷の官僚としての資質を批判した<ref name="検証大蔵省崩壊p31"/>。
 
一方、[[渡部恒三]]は「直言する骨太の主計官。やはり大蔵省の官僚は大したものだ」と発言<ref name="大蔵省主計局p229"/>。また「よく言ってくれた」と書いた新聞記事もあり<ref>{{Cite news | title = | newspaper = [[毎日新聞]](夕刊) | location = 東京 | pagespage = 1 | date = 1987-12-25 }}</ref>、「三大バカ査定」を歓迎する世論があった<ref name="新世紀へ夢を運ぶp124"/>。このような意見に対して、促進派の[[小里貞利]]は自著で「これは整備新幹線が『地域エゴ』であり、地方への利益誘導政策と受け取る大都市生活者が少なくなかったこと、があるだろう。残念ながら私たち地方在住者の思い、地方の渇望するところが正しく理解されていなかったのだ。私たちを取り巻く環境は厳しかった」と語っている<ref name="新世紀へ夢を運ぶp124"/>。
 
=== 表現手法としてのバカ査定発言 ===
この表現を下敷きにしたように思われる発言や表現が、度々登場する。例えば、[[太田誠一]]自民党行革推進本部長は[[本州四国連絡橋]]、[[東京湾アクアライン]]、[[関西国際空港]]を「20世紀末の三大バカ事業」と評した。
 
しかし、このような言葉の使い方に対して、[[甲南大学]]教授の杉村芳美は「財政当局の自戒としての言葉ならともかく、国家の歴史的大事業をカネの問題だけから取り上げる物言いは、それこそバカな査定感覚であろう」という批判した<ref name="職業を生きる精神p287">{{harvtxt|職業を生きる精神|2008|pp=287}}</ref>。さらに「公共投資・公共事業が税金をいくら使ってもよいわけはないし、赤字をたれ流ししてよいわけではない」としたうえで、「公共投資・公共事業は社会資本の形成という社会的便益のために行うのであって、投資が生み出す便益は多岐にわたりかつ社会全体に広がる。それゆえ、投資は当該事業の効率性や資金回収率だけで評価できるものではないし、するべきものではない」<ref name="職業を生きる精神p288">{{harvtxt|職業を生きる精神|2008|pp=289}}</ref>と自著で述べている。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author = 岸宣仁 |date = 1996 |title = 検証 大蔵省崩壊―権力の巨塔を襲った絶体絶命の危機|publisher = 東洋経済新報社|isbn= 4-492-21082-2 |ref = {{Harvid|検証 大蔵省崩壊|1996}} }}
* {{Cite book|和書|author = 栗林良光 |date = 1990 |title = 大蔵省主計局|publisher = 講談社|isbn= 4-061846205 |ref = {{Harvid|大蔵省主計局}} }}
* {{Cite book|和書|author = 船橋晴俊、湯浅陽一 |date = 2001 |title = 「政府の失敗」の社会学 |publisher = ハーベスト社|isbn= 978-4-93855153-7 |ref = {{Harvid|「政府の失敗」の社会学|2001}} }}
* {{Cite book|和書|author = 澤喜四郎 |date = 1994 |title = 整備新幹線 政治新幹線を発車させた男たち|publisher = 近代文芸社|isbn= 4-7733-3666-8 |ref = {{Harvid|政治新幹線を発車させた男たち|1994}} }}
* {{Cite book|和書|author = [[小里貞利]] |date = 2007 |title = 新世紀へ夢を運ぶ 整備新幹線|publisher = 文藝春秋企画出版部|isbn= 4-16008043-X |ref = {{Harvid|新世紀へ夢を運ぶ|2007}} }}
* {{Cite book|和書|author = 三菱総合研究所事業戦略研究室 |date = 1994 |title = 整備新幹線をどうつくるか―21世紀の交通ビジョンを探る|publisher = 清文社|isbn= 4-79205077-4|ref = {{Harvid|整備新幹線をどうつくるか|1994}} }}
* {{Cite book|和書|author = 杉村芳美 |date = 20062008 |title = 職業を生きる精神ー平成日本が失いしもの|publisher = ミネルヴァ書房|isbn= 978-4-623-05244-8|ref = {{Harvid|職業を生きる精神|2008}} }}
 
== 関連項目 ==
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[[Category:整備新幹線]]
[[Category:昭和時代戦後の政治]]
[[Category:大蔵省]]
[[Category:青函トンネル]]
[[Category:名数3]]