「アイザック・ニュートン」の版間の差分
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1642年、イギリス、現在の[[リンカーンシャー州]]のウールスソープ-カールスターワース (Woolsthorpe-by-Colsterworth) に産まれた。ニュートンが産まれる3ヶ月前に父親が死去し、二年後に母親はニュートンを祖母に預けて新しい夫の元へと去ったため、祖母に育てられた。ニュートンはいわゆる[[神童]]であった。
[[1655年]]に[[グランサム]]の[[グラマー・スクール]]入学、[[1661年]]には彼の叔父に当たるウィリアム・アスキューが学んでいた[[ケンブリッジ]]にある[[ケンブリッジ大学|トリニティーカレッジ]]に入学する。当時の大学での講義はまだ[[アリストテレス]]の説に基づく物であったが、ニュートンは[[ルネ・デカルト|デカルト]]や[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]、[[コペルニクス]]、[[ケプラー]]といった当時のより進んだ物理学者達によるアイディアを好んで学んだ。[[1665年]]に[[二項定理]]を発見し、数学の理論の構築を始め[[微分]]を発見し後に[[微分積分学]]へと発展することになった。1665年に学位を取った直後、[[ロンドン]]で[[ペスト]]が大流行したため、予防策として大学が閉鎖されたため、ニュートンは故郷のウールスソープへと帰り、その後2年間、微分積分学と[[光学]]、[[重力]]についての研究を行った。この1665年後半から1666年の一年半でニュートンは彼が生涯に成し遂げたほとんどの研究の成果を出しているため、脅威の一年半とも呼ばれる。しかしそれぞれの発表はかなり後のことになる。
ニュートン
[[1667年]]にケンブリッジ大学の教授となり、その歳に「無限級数の解析 ''(De Analysi per Aequationes Numeri Terminorum Infinitas)''」を書く。(刊行1671年]])また論文「流率の級数について''(De methodis serierum et fluxionum)''」を発表する。
ニュートンと[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]はそれぞれ独立に、異なった視点から微分積分法を発見した。ニュートンが発見したのは1666年のことであったが、発表はライプニッツよりも遅かった。そしてライプニッツの考案した英語に基づく記号の方が使い勝手がよかったため、現在では一般的にライプニッツの考案した記号が使用されている。(例外的にドイツではニュートンの考案した記号の方が一般的である。)ニュートンは最も聡明な天才の一人であったが、このことで自分が考案した微分積分法を、何らかの方法でライプニッツが盗んだと思い込み、この後25年間をライプニッツと微分積分学の発見者としての論争を行っている。
[[1669年]]にケンブリッジ大学の[[ルーカス教授職]]に就いた。
<!--晩年の彼は、[[聖書]]研究や[[錬金術]]の実験などに没頭していたことがわかったため、後世に「神学者」「最後の錬金術師」と呼ばれる場合もある。晩年、「[[二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述]]」を著すが、[[イギリス国教会]]からの弾圧を恐れ、生前には発表しなかった。([[1754年]]刊)-->
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