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'''熊野別当'''(くまのべっとう)は、9世紀前期から14世紀中頃にかけて、現地において[[熊野三山]]([[熊野本宮大社]]、[[熊野速玉大社]]、[[熊野那智大社]])の統にあたった最上位の役職をさす(諸本ある「熊野別当代々次第」や『二中歴』所収の「熊野別当」などによる)
 
 
== 概要 ==
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== 歴史 ==
史実としての熊野別当の初見は、『[[権記]]』の[[長保]]2年([[1000年]])正月20日条である。この条で言及されている人物は、別当[[増皇]]である<ref name="Miyake_1992a_16"/>。それによると、長保元年([[999年]])、熊野の修行僧・[[京寿]]が、[[解文]]を太政官に送り、自らを別当に補任するよう訴えたという。これに[[藤原説孝]]が加担し、増皇について偽りの罪状を奏上した。こうしたことから、中央政庁では増皇の解任と京寿の別当補任に議論が傾いたが、熊野の衆徒が事前にこれを察知し、こうした動きを差し止めるべく中央政庁に申し立てを行った。その結果、京寿の解文が偽りであることや、説孝の奏上が事実に反することが明らかになり、京寿の別当補任が撤回された<ref name="Miyake_1992a_16-17">宮家[1992a: 16-17]</ref>。
 
こうした記述から、熊野別当の職が、熊野の衆徒の推挙をもとに[[勅旨]]によって任命されていたことが分かる。半世紀後、別当に補任された15代別当[[長快 (熊野別当)|長快]]([[1037年]]~[[1122年]])にしても、こうした三山衆徒の推挙によってその職に就いたものであり、熊野別当は衆徒のなかの第一人者としての性格を帯びていたのである<ref name="Miyake_1992a_16-17"/>。