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'''熊野別当'''(くまのべっとう)は、9世紀前期から1314世紀末頃中期にかけて、現地において[[熊野三山]]([[熊野本宮大社]]、[[熊野速玉大社]]、[[熊野那智大社]])の統括にあたった最上位の役職をさす<ref>諸本ある「熊野別当代々次第」や『二中歴』所収の「熊野別当」などによる。阪本[2005: 29-37]参照。</ref>
 
== 概要 ==
[[熊野信仰]]の中心として一体のものと観念される[[熊野三山]]であるが、各々成立事情を異にし、当初は別個に発展してきたと考えられている<ref>宮家[1992a: 1]</ref>。[[長寛]]元年([[1163年]])に書かれた『[[長寛勘文]]』所収の「熊野権現垂迹縁起」が伝えるところによれば、10世紀前半頃から、[[熊野本宮]]でそれまではっきりした神格があげられていなかった主祭神を家津御子神(けつみこかみ、[[本地垂迹|本地仏]]は[[阿弥陀如来]])と呼ぶようになった。また、同時期の[[熊野新宮|新宮]]では、[[神倉神社|神倉社]]を経て[[阿須賀神社|阿須賀社]]に結神(熊野牟須美大神)・早玉神(熊野速玉大神)と家津御子神(熊野坐神)を祀ったとの記述が同じく「熊野権現垂迹縁起」に見られ、この時期に熊野三所権現が成立したことが分かる。そして、[[12世紀]]に入ると、[[藤原宗忠]]の参詣記(『[[中右記]]』)の[[天仁]]2年([[1109年]])条にあるように、三山が互いの主祭神を祀りあうようになっており、宗教思想上の一体化がなされ、[[熊野三所権現]]が成立していたことが判明する<ref>宮家[1992a: 2]</ref>。