「アルベルト・シュペーア」の版間の差分

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|所属政党 =[[image:Reichsadler.svg|20px]][[国家社会主義ドイツ労働者党]]
|称号・勲章 =
|世襲の有無 =
|親族(政治家) =
|配偶者 =
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=== ナチ党入党 ===
[[image:Bundesarchiv Bild 146-1971-016-29, Nürnberg, Adolf Hitler, Albert Speer.jpg|thumb|200px|ヒトラーとシュペーア(1933年)。前年に党員となったシュペーアは、ナチス政権獲得後の5月に開かれた大集会の会場設計を依頼され、その斬新な演出で一躍脚光を浴びた<ref name="zdf"/>。]]
シュペーアは[[1930年]]12月のビアホールでの党集会に参加したが、後に、当時は若者の一人として政治にはあまり関心も知識もなかったと主張している。彼はこの時に[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]をはじめて見たが、党のポスターに描かれているような茶色の制服姿ではなく身なりのきちんとした青いスーツ姿で参加していたことに驚いた。シュペーアはこのときヒトラーの説く、[[共産主義]]の脅威や[[ヴェルサイユ条約]]の破棄といった問題への解決方法に影響されたこともさることながら、何よりヒトラーという人物に強い影響を受けたと述べている。数週間後、シュペーアはまた党集会に出席したが、このときの司会は[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]であった。ゲッベルスが聴衆を逆上に追い込み感情を煽るやり方にシュペーアは嫌な思いをさせられたものの、ヒトラーから受けた強い印象を忘れることができなかったという<ref name="ナチス狂気の内幕29">『ナチス狂気の内幕 <small>シュペールの回想録</small>』(読売新聞社)29ページ</ref>。1931年3月1日、彼は[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)に入党した。党員番号は 474,481 であった<ref name{{sfn|クノップ|2001|p="ヒトラーの共犯者 上278">『ヒトラーの共犯者 上 <small>12人の側近たち</small>』(原書房)278ページ</ref>}}。党内で数少ない自家用車の所有者として[[国家社会主義自動車軍団|国家社会主義自動車軍団(NSKK)]]に入団した<ref name="ナチス狂気の内幕30">『ナチス狂気の内幕 <small>シュペールの回想録</small>』(読売新聞社)30ページ</ref>。
 
[[1932年]]春に助手としての給料が下げられ、更に助手の期限が切れたのを機にシュペーアはテセノウの下を離れ、ベルリンからマンハイムに戻った。マンハイムで建築家として独立して仕事を始めた。しかし父親から回してもらった貸し店舗の改築ぐらいしか仕事はなかったという<ref name="ナチス狂気の内幕31">『ナチス狂気の内幕 <small>シュペールの回想録</small>』(読売新聞社)31ページ</ref>。
 
1932年7月、ナチ党の選挙運動のためにベルリンへ赴いた際、ナチ党ベルリン[[大管区]]組織部長[[カール・ハンケ]](シュペーアは彼の別荘の改築を無償で請け負った事があった)がベルリンの党大管区の建物の改修を計画していたベルリン大管区指導者ヨーゼフ・ゲッベルスにシュペーアの事を紹介した。これがシュペーアにとって重大な転機となった<ref name="ナチス狂気の内幕33">『ナチス狂気の内幕 <small>シュペールの回想録</small>』(読売新聞社)33ページ</ref>。シュペーアはこの仕事に熱心に取り組んだ。ゲッベルスはこの時期[[1932年11月ドイツ国会選挙|11月6日の国会議員選挙]]の選挙活動に忙しく、たまに視察に現れるぐらいであったが、改築作業が終わった後にはシュペーアに宛てて「非常に短い期間であったにもかかわらず、貴殿が改築を期限内に終わらせ、その結果すぐに新しいオフィスで選挙活動に邁進できた事を、我々は極めて心地よく感じている。」と書いて送っている<ref name{{sfn|クノップ|2001|p="ヒトラーの共犯者 上279">『ヒトラーの共犯者 上 <small>12人の側近たち</small>』(原書房)279ページ</ref>}}
 
この仕事が終わった後、シュペーアはマンハイムに戻った。1933年1月30日の[[ナチ党の権力掌握|アドルフ・ヒトラーの首相就任]]もマンハイムで聞いた<ref name="ナチス狂気の内幕34">『ナチス狂気の内幕 <small>シュペールの回想録</small>』(読売新聞社)34ページ</ref>。1933年3月に宣伝大臣秘書官カール・ハンケから再びベルリンに招集され、宣伝大臣ゲッベルスの[[国民啓蒙・宣伝省]]の建物改修を任せられた。
 
[[Image:Bundesarchiv Bild 102-15444, Paul Ludwig Troost.jpg|200px|thumb|ヒトラー初期のお気に入り建築家、パウル・ルートヴィヒ・トロースト。ヒトラーは自らも建築家でありたいと思っていたが、大家のトローストには意見しにくく、共同作業が可能な若いシュペーアを歓迎した<ref name="zdf"/>。]]
ゲッベルスはシュペーアの仕事ぶりに感銘を受け彼をヒトラーに紹介し、ヒトラーは彼のお気に入りの建築家である[[新古典主義建築]]家の[[パウル・トロースト]]([[:de:Paul Troost]])教授が行なっていた[[総統官邸]](初代)の改修を手伝うよう命じた。シュペーアはヒトラーの依頼にこたえ、総統官邸のうちヒトラーが大衆の前に姿を見せるためのバルコニーを追加するという貢献を見せた。シュペーアはこうしてヒトラーの内輪の仲間の重要な一員かつ親しい友人となり、ナチ党の中でも独特の地位を得た。シュペーアによれば、ヒトラーは官僚的と見た人物には強い軽蔑を隠さず、一方でシュペーアのような芸術家の仲間たちには、彼自身がかつて建築や芸術への野心を持っていたためにある種の絆を感じたのか、非常に尊敬した態度を見せていた。こうした状況からシュペーアは、晩年人を遠ざけることが顕著になっていったヒトラーの素顔について一級品の証言を残している。
 
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会場は古代[[アナトリア]]の[[ヘレニズム]]期の建築、「[[ペルガモン]]の大祭壇」(ベルリンの[[ペルガモン博物館]]に収められているもの)の[[ドーリア式]]建築を参考とし、これを24万人を収容できる巨大な規模に拡大したものであった。[[1936年]]の党大会では、シュペーアはパレード会場を150基の対空[[サーチライト]]で囲み、夜間には垂直に照射して光の大列柱を作り出した。この「光の大聖堂」のヴィジュアルインパクトは今も語り草となっている。以後[[1938年]]まで毎年9月、この会場は[[ニュルンベルク党大会]]のために使用された。シュペーアは[[ニュルンベルク]]で他にもさまざまなナチ党の建築を計画したが、殆どは実現しなかった。例えば、[[近代オリンピック|オリンピック]]に代わる競技大会の会場となる、40万人収容のスタジアム、「[[ドイツ・スタジアム]]」([[:de:Deutsches Stadion (Nürnberg)]])はその一例である。
 
これら党建築の設計に当たり、シュペーアは「'''廃墟価値の理論'''(Ruinenwerttheorie)」を創案した。ヒトラーが熱烈に支持したこの理論によれば、今後新築されるすべての建築は、数千年先の未来において美学的に優れた[[廃墟]]となるよう建築されるべきだということであった。[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ]]の廃墟がその文明の偉大さを現代に伝えているように、ナチスドイツが残す廃墟は[[第三帝国]]の偉大さを未来にまで伝えるべきものであった。この理論から、鉄骨や[[鉄筋コンクリート]]による建築よりも、記念碑的な石造建築が多く生み出されることとなった<ref name="ナチス狂気の内幕67">『ナチス狂気の内幕 <small>シュペールの回想録</small>』(読売新聞社)67ページ</ref><ref>[[#パ上|パーシコ 1996 上巻]], p.268-269</ref>。
 
[[1937年]]にはシュペーアは[[パリ万国博覧会 (1937年)|パリ万博]]のドイツ・パビリオンを手がけた。この建物は、[[スターリン様式]]を代表する建築家[[ボリス・イオファン]]が手がけた[[ソビエト連邦|ソ連]]パビリオンの正面にあり、巨大さを競ソ連館よりも僅かに高合っていた。両バピリオンはそのデザインにより金メダルを同時受賞している。
 
{{Gallery
|Image:Bundesarchiv Bild 183-C12658, Nünrberg, Reichsparteitag, RAD-Parade.jpg|[[ニュルンベルク党大会]]
|Image:Bundesarchiv Bild 183-1982-1130-502, Nürnberg, Reichsparteitag, Lichtdom.jpg|「光の大聖堂」
|ImageFile:BundesarchivParis-expo-1937-pavillon Bildde 183l'Allemagne-S30757, Paris, Weltausstellung, Deutsches Haus02.jpg|[[パリ万国博覧会 (1937年)|パリ万博]]のドイツ・パビリオン
}}
 
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ベルリン市街は、[[ブランデンブルク門]]や[[国会議事堂 (ドイツ)|国会議事堂]]の西寄りに建設される、長さ 5km の巨大な南北軸([[:de:Welthauptstadt_Germania#Nord-S.C3.BCd-Achse|Nord-Süd-Achse]])の大通りに沿って再編成され、巨大な[[新古典主義建築|新古典様式]]の政府機関ビルや大企業本社ビルが通りの両側に並べられ、北端には「国民ホール([[:en:Volkshalle]])」と呼ばれる大会堂が建つことになっていた。これは[[ローマ]]の[[サン・ピエトロ大聖堂]]の大ドームに基づく巨大ドーム建築であったが、高さ 200m 以上、直径 300m と、サン・ピエトロ大聖堂の17倍大きなドームが予定されていた。
 
1939年4月のヒトラー50歳の誕生日前夜に東西幹線道路が開通し、シュアはヒトラーへの誕生日プレゼントとして、15年前にヒトラーがスケッチした凱旋門の模型を官邸に用意してヒトラーを喜ばせた<ref name="zdf"/>。
 
南北軸の南端には[[凱旋門]]が計画されたが、これも[[パリ]]の[[エトワール凱旋門]]を基にしながらもさらに巨大なもので、高さは 120m となるはずだった。南北軸の大通りには、南側と北側に巨大な鉄道駅、「南駅」、「北駅」を設ける計画だった。また大通りはたくさんの車線を設けるために幅広く確保して、凱旋門より南へも 40km に渡り伸びる予定だった。これらの大建築の設計の一部には、ヒトラーが若いころに構想してデッサンに残した建築デザインが使用された。
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1942年2月7日に軍需相(兵器・弾薬大臣)の[[フリッツ・トート]]が飛行機事故死した。シュペーアは後任の軍需相(正確には、1942 - 1943年兵器・弾薬大臣、1943 - 1945年軍需・軍事生産大臣)に就任する。はじめは門外漢であると固辞していたが、ヒトラーの熱心な要請に押される形で就任に至った<ref name="ナチス狂気の内幕209">『ナチス狂気の内幕 <small>シュペールの回想録</small>』(読売新聞社)209ページ</ref>。ヒトラーが若い彼を大抜擢したのは彼が過去の建築プロジェクトでみせた緻密な計画と組織経営力を兼ね備えた優秀な[[テクノクラート]]であったからと思われるが、シュペーア本人はヒトラーは指導的地位を素人で固める事を好み、[[ヒャルマル・シャハト]]のような専門家閣僚は好まなかったのが原因だろうと分析している<ref name="ナチス狂気の内幕212">『ナチス狂気の内幕 <small>シュペールの回想録</small>』(読売新聞社)212ページ</ref>。
 
[[image:Arno Breker, Albert Speer (1940).jpg|left|thumb|250px|シュペーアの彫像を制作する[[アルノ・ブレーカー]]]]
一般的に部品の共通化などの生産体制の効率を推し進め、軍需生産を増大させたのは全てシュペーアの功績であるように言われているが、実は彼が行った政策の殆どは前任者であるトートが既に考えていたものであった。しかしトートは、ヒトラーから政治的に全幅の信頼を寄せられていたシュペーアとは違い、政治的権力を持っていなかったため、各企業や省庁間などの利害関係の調整を纏めきれず、結果的にあまり成果を挙げることができないまま、事故死してしまう。
後任のシュペーアはヒトラーの信頼というバックボーンを活かし、トートが立案していた部品の共通化などの実現に向け関係企業・省庁を纏めあげ、見事生産体制の効率化を達成、結果的に功績は全て彼のものとなった。
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辞職願を受け取ったヒトラーは驚きすぐさま病院へ使いを出し「君に嫉妬する者が、あらぬ噂を煽り立てているだけだ。私は決して君を疎んじてなどいない。頼りにしている。病を治し一日も早く復帰することを願っている」と手紙を書き送った。5月になるとシュペーアは心労から立ち直り、現場に復帰した。その頃、米英による軍需施設や生産施設、輸送機関に対する空爆作戦でドイツの生産能力は甚大な被害を受けていた。シュペーアは燃料工場の9割が破壊されたことを受けこの時初めて「将来の破局」という直接的な表現をつかいヒトラーを戒めた。しかし、シュペーアに限らず部下の悲観的意見には決して耳を傾けることがなかったヒトラーはこの報告を無視したため、シュペーアは従来どおりの仕事を続けざるを得なかった。
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-J14589, Albert Speer, Panzer T-34.jpg|right|thumb|250px|ソ連軍から[[鹵獲]]した[[T-34]]に乗り込むシュペーア。1943年6月]]
[[1944年]]10月、イギリス軍やアメリカ軍を中心とした連合国軍によるドイツ西部侵攻が始まった。そしてその冬、ドイツ工業の心臓部ともいえるルール地方が連合国の激しい砲火によって壊滅した。シュペーアはルール地方を視察に訪れ、もはやドイツに戦争を継続し得るだけの能力がないことを確信し、これまでの「戦争に必要な物資をいかに生産調達するか」という方針から「いかに早く敗戦後のドイツが復興できるか」という方針に転換することを決意した。
 
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[[image:Bundesarchiv Bild 183-H28426, A. Speer, E. Milch, W. Messerschmitt.jpg|200px|left|thumb|[[エアハルト・ミルヒ]]、[[ウィリー・メッサーシュミット]]と(1944年5月)]]
しかし[[4月23日]]、ドイツ北部から飛行機で総攻撃真っ只中のベルリン・首相官邸地下壕を訪問し、ヒトラーと会談した。その内容は、シュペーア自身は『緊急の目的』とだけ語り、誰にも詳細を明かすことはなかった。しかし、シュペーアの副官M・V・ポーザーは、シュペーア自身がヒトラーから後継者に指名されることを懸念し、ヒトラーに反対の意を直訴したのではないかと推測している<ref>『ヒトラーと6人の側近達』</ref>{{sfn|クノップ|2001|p=314}}。結局、これが二人の最後の面会となった。
 
シュペーアはヒトラーの遺書の閣僚リストの中には入っていない{{sfn|クノップ|2001|p=314}}。
ベルリン脱出後、シュペーアは[[カール・デーニッツ]]海軍元帥の元に向かい、ヒトラー自殺後に後継指名されたデーニッツの政府で閣僚となった([[フレンスブルク政府]])。しかし連合軍は政府の存在を認めず、5月23日にシュペーアは他の閣僚たちとともに逮捕された。
[[File:Nazi Personalities BU6713.jpg|right|thumb|連合軍による[[フレンスブルク政府]]幹部逮捕の際の写真。左からシュペーア軍需相、[[カール・デーニッツ|デーニッツ]]大統領、国防軍最高司令部総長[[アルフレート・ヨードル|ヨードル]]上級大将。]]
ベルリン脱出後、シュペーアは[[カール・デーニッツ]]海軍元帥の元に向かい、ヒトラー自殺後に後継指名されたデーニッツの政府で閣僚となった([[フレンスブルク政府]])。ドイツ降伏後、シュペーアは[[ハンブルク]]のラジオ局から演説を行い、「今は敗戦を悲しむよりも復興のために働くべきだ」と訴えた。連合軍は政府の存在を認めず、5月23日にシュペーアは他の閣僚たちとともに逮捕された。
 
[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]が収容されていた[[ルクセンブルク]]の[[モンドルフ]]の[[パレス・ホテル]]に送られ、8月中旬までそこで過ごした{{sfn|マーザー|1979|p=76}}。その後、他の被告らとともにニュルンベルク裁判にかけるためにニュルンベルク刑務所へと移された。
ドイツ降伏後、シュペーアは[[ハンブルク]]のラジオ局から演説を行い、「今は敗戦を悲しむよりも復興のために働くべきだ」と訴えた。
 
{{-}}
=== ニュルンベルク裁判 ===
==== 開廷まで ====
[[ニュルンベルク裁判]]では、唯一戦争犯罪を認めた被告として注目を集めた。検察側に頑強に抵抗した[[ヘルマン・ゲーリング]]と対極的立場に立つことになり、両者は互いに罵りあった。シュペーアはアメリカ首席検事[[ロバート・ジャクソン (法律家)|ロバート・ジャクソン]]から高評価を得、ジャクソンからの反対尋問はシュペーアに有利になるような物が多かった<ref name="ニュルンベルク軍事裁判下217">『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)217頁</ref>。裁判の結果、1946年10月1日に[[禁錮]]20年の刑を受ける。
[[File:Albert Speer in jail cell Nuremberg Germany 1945.jpeg|180px|thumb|1945年11月24日、ニュルンベルク刑務所の独房のシュペーア。]]
[[ニュルンベルク裁判]]でシュペーアは全ての訴因(第一訴因「[[侵略戦争の共同謀議]]」、第二訴因「[[平和に対する罪]]」、第三訴因「[[戦争犯罪]]」、第四訴因「[[人道に対する罪]]」)において起訴された{{sfn|芝健介|2015|p=90}}。刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]博士から起訴状の感想を求められるとシュペーアは「裁判は必要である。独裁国家の官僚制度のもとでも、このような恐るべき犯罪に対して共通の責任がある」と述べた{{sfn|カーン|1974|p=76}}<ref name="パ上122"/>。
 
シュペーアは死刑を回避するには、ドイツの侵略・残虐行為や自分の責任を認めて懺悔し、それによってソ連を除く西側連合国の共感を得る必要があると考えていた{{sfn|マーザー|1979|p=288}}<ref name="パ上122">[[#パ上|パーシコ 1996 上巻]], p.122</ref>。ギルバートもシュペーアの懺悔の態度に好感を持ち、「シュペーアは裁判が始まる前からナチ党政権を支持した罪を認めており、彼の『私はこの裁判で自分の命を救おうとは思っていない』という言葉は本心から出たもののようである」と書いている<ref name="パ下20">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.20</ref>。この立場は検察側に頑強に抵抗した[[ヘルマン・ゲーリング]]と対極的であったため、彼は注目を集める被告となった。
因みに、ニュルンベルク刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が、開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると、シュペーアの[[知能指数]]は128であった<ref>[[レナード・モズレー]]著、[[伊藤哲]]訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、[[1977年]]、[[早川書房]] 166頁</ref>。
 
またシュペーアは逮捕された後、アメリカ戦略爆撃チームに貴重な情報を進んで提供した。シュペーアは、アメリカは公然とは認めないが、その情報を[[日本]]への空襲に役立てていると確信していた。そのため開廷間近の1945年11月17日には「私は適切な関係者にだけ明かすべき、軍事技術に関するある情報を持っております。ドイツ軍との空中戦で米軍の犯した過ち、二度と繰り返すべきではない過ちを知っているのは私だけです。いかなる産業であれ永久に操業できなくさせる方法も私は知っています。私を[[ソ連]]の手に渡すべきではありません。私の知識は米国側に留めるべきです。私が死刑になった場合には、その知識が全て消滅してしまう事になります」という手紙をアメリカ主席検事[[ロバート・ジャクソン (法律家)|ロバート・ジャクソン]]に宛てて書いている<ref>[[#パ上|パーシコ 1996 上巻]], p.171-172</ref>。
=== 戦後 ===
 
[[1966年]]に[[シュパンダウ刑務所]]を出獄後、誕生からニュルンベルク裁判までの半生を記録した回顧録を出版した。同書は数少ない、ヒトラーの側近が見たナチスの内幕を描いた貴重な証言として知られている。この本の内容は非常に鮮明に、自分とヒトラーとの出会いからニュルンベルク裁判までがこと細かに書かれている。ヒトラーに熱狂する人々や党内部の抗争、終戦間近になってからの[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]の異様な行動、[[マルティン・ボルマン|ボルマン]]の心情、[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]の言動、[[ロベルト・ライ|ライ]]の異様なまでの野心、正気を失っていくヒトラーとそれを共に滅びていく[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]など、生々しくも忠実に描写されている。また、ニュルンベルク裁判での[[カール・デーニッツ|デーニッツ]]や[[ルドルフ・ヘス|ヘス]]等被告人の様子も非常に詳しく描かれている。
==== 検察側論告 ====
[[File:Frick, Streicher, Funk, Papen, Seyß-Inquart, Speer, Neurath.jpg|thumb|250px|ニュルンベルク裁判被告人席。後列左から[[フランツ・フォン・パーペン|フォン・パーペン]]、[[アルトゥル・ザイス=インクヴァルト|ザイス=インクヴァルト]]、シュペーア、[[コンスタンティン・フォン・ノイラート|フォン・ノイラート]]。]]
裁判は1945年11月20日から開始された。シュペーアの法廷での席は後列右から3番目だった(左隣は[[アルトゥル・ザイス=インクヴァルト|ザイス=インクヴァルト]]、右隣は[[コンスタンティン・フォン・ノイラート|フォン・ノイラート]]){{sfn|芝健介|2015|p=94-95}}。
 
ギルバートの回顧によれば、検察が法廷で上映した強制収容所でのユダヤ人虐殺の記録映像にシュペーアはごくりと唾を飲み込んでいたという(一方ゲーリングは退屈そうに欠伸していたという){{sfn|芝健介|2015|p=100}}。
 
1946年1月3日には検察側証人として出廷した[[オットー・オーレンドルフ]]に対してシュペーアの弁護士エゴン・クブショクが反対尋問を行った。クブショクが「シュペーアがヒトラーの焦土作戦を阻止するために行動していたことを知っていますか」と質問すると、オーレンドルフは「知っています」と答えた。ついで「終戦時にシュペーアが[[ハインリヒ・ヒムラー]]を連合国に引き渡そうと考えていたことは知っていますか」と質問するとオーレンドルフは「そんな話は一度も聞いたことがありません」と答えた。さらに「1944年7月20日にヒトラー暗殺を謀った者たちが政府にシュペーアを加えようとしていたことを知っていますか」という質問にオーレンドルフは「それは知っています」と答えた。そして衝撃を呼んだのが次の質問だった。「シュペーアが戦争末期にヒトラー暗殺を計画していたことを証人はご存知ですか?」。法廷内にどよめきが広がり、被告席のゲーリングはシュペーアを睨んだ。オーレンドルフは「そのような計画は聞いたことがありません」と答えた。ここで休廷となったが、激怒したゲーリングはシュペーアの方に詰め寄り、「なんだってあんな反逆的な事を暴露した?被告人全体の共同戦線が崩れるではないか!」と非難した。シュペーアは「共同戦線ですって」と言ってゲーリングを突き放した{{sfn|モズレー|1977|p=165-166}}<ref>[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.282-283</ref>。
 
独房に戻ったゲーリングは「この嫌な世の中にも名誉というものがある。ヒトラーの暗殺だと!全くいい加減にしてもらいたいよ。私は穴があったら入りたいぐらいだった。私ならたとえ犯罪者ヒムラーであろうと敵に売り渡そうとは思わない。」と怒り心頭だった。翌日の昼食でもゲーリングは「敵が我々に対して何をしようと私は気にしない。だが同じドイツ人同士が互いに裏切るのを見ると胸糞悪い」と怒りを露わにし、顎でシュペーアを指しながら「あの阿呆にそのことを話してこい!」と[[バルトゥール・フォン・シーラッハ|フォン・シーラッハ]]に命じた。シーラッハはシュペーアのところへ行き、「貴方がドイツの名誉に傷をつけていることをゲーリングが怒っている」と告げたが、シュペーアは「ゲーリングはヒトラーが全ドイツ人を破滅に導いている時にこそ怒るべきだった。ドイツのナンバーツーとして彼は手段を講じる義務があった。しかし彼はヒトラーに対して何もできない臆病者だった。すべきことをしないで[[モルヒネ]]に溺れ、全ヨーロッパから美術品を略奪していただけの男が私を非難する資格などない」と反論した{{sfn|モズレー|1977|p=174}}。
 
以来ゲーリングとシュペーアは不倶戴天の敵となった。ゲーリングはシュペーアを全被告から孤立させようとしたが、シュペーアは逆にゲーリングの被告人統一戦線の破壊を目指した。刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉に「被告人が一緒に食事や散歩をするのはいい考えではありませんね。こんなことを許しているからゲーリングが叱咤激励して被告人に統一行動をとらせることができるのです。」と告げ口し、刑務所長バートン・アンドラスにその件を報告させた。結果ゲーリングは2月18日により一人で食事させられることになった{{sfn|モズレー|1977|p=174-176}}。
 
自分が証言台に立つ日が近づくとシュペーアは自分の反対尋問をするアメリカ次席検事[[トム・ドッド]]に次のように語った。「ゲーリングと自分は争っています。ゲーリングは喧嘩腰で検察に反抗する側の代表、自分はナチスの罪を認める側を代表しているわけです。ゲーリングの反対尋問をしたのは主席検事のジャクソンでしたが、私に対しては彼の部下である貴方が反対尋問を行うそうですね。貴方には大変失礼ですが、この差を他の被告人が見逃すでしょうか。彼らの目には私がゲーリングより劣っていると映り、彼らを私の方に引き入れるのが一層困難になるのではないでしょうか」。ドッドはこれをジャクソンに報告し、その結果シュペーアの質問はジャクソンが行うことになった。ドッドはジャクソンより有能な検事と評判だったのでシュペーアはゲーリングとの対立を利用してジャクソンに変更させたのではないかと噂された<ref>[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.208-209</ref>。
 
==== 弁護側尋問 ====
[[File:DefendantsTalk Nuremberg.jpg|250px|thumb|休廷中に弁護士と話し合う被告人たち。一番右端がシュペーア。]]
1946年6月19日からシュペーアの弁護側尋問がはじまり、シュペーアが証言台に立つことになった{{sfn|マーザー|1979|p=280}}。
 
シュペーアは弁護士フレックスナーとの事前の打ち合わせで労働力配置総監[[フリッツ・ザウケル|ザウケル]]に罪を着せようとしているという印象を判事団に持たれないようにしようと決めていたため、フレックスナーの「ザウケルによる労働力徴収に異議を唱えたか」という質問に対して「異を唱えるどころか、私はザウケルが提供してくれた労働者に関しては、常に彼に感謝していました。人手不足のために軍需生産の目的が達成できないことがしばしばあったので、そんな時には彼に苦情を言いました」と証言した<ref name="パ下210">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.210</ref>。他方「ザウケルは自分はシュペーアのために活動したと証言しているが、それについて何か言いたいことは?」という質問に対しては「もちろん私は、なによりも軍需生産のための労働力需要をザウケルが満たしてくれることを期待していました。しかし私の望んだ労働力を彼が完全にそろえてくれなかったことから分かる通り、私が彼を支配ないし管理していたわけではありません」と証言した。この証言を聞いたザウケルは飛び跳ねるように反応し自分の弁護士を呼び、異議を唱えようとしたが、弁護士に今は発言できないので堪えるよう説得された<ref>[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.210-211</ref>。
 
「侵略戦争の計画・準備に関わったか?」という質問に対しては「自分は1942年まで建築家として働いていたし、それまで自分が建設した物はすべて代表的な平和的建築物でした。これらの仕事は、多くの兵隊を前線勤務から遠ざけることになっただけでなく、膨大な費用と資材を要したので自分の活動によって結局は軍需工場や戦時経済の活動を弱めることになったでしょう」と証言した{{sfn|マーザー|1979|p=282}}。
 
「あなたは『工業技術関係の省』を指揮していたが、自分の責任をその範囲内に収めたいと考えるか?」という質問に対しては「いいえ。今回の戦争は考えられないほど壊滅的な被害をもたらしました。ドイツ国民の被った災厄に関して責任の一端を担うのが、私の義務であることは疑いありません。私はドイツ指導部の重要な一員として全体の責任の一部を引き受けます」と証言した。この発言は判事団に好感をもたれたようだった<ref>[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.211-212</ref>。
 
また自らがヒトラーの[[ネロ指令]]に反対してドイツ国民再建の基盤を残そうと尽力したことを証言し、さらに1945年2月に戦争を終わらせるためヒトラー暗殺計画を企てたことを証言した。そして「1945年1月以降に両陣営が払った犠牲は無益なものでした。この間に亡くなった人々は戦闘を継続した責任を負う男を糾弾すべきです」と述べてこの日の証言を終えた<ref name="パ下213">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.213</ref>。
 
==== アメリカ検察の反対尋問 ====
[[image:Albert-Speer-72-929.jpg|thumb|180px|ニュルンベルク裁判の証言台に座るシュペーア]]
6日21日に検察側反対尋問が行われた。アメリカ検事ジャクソンのシュペーアへの追及は弱く、シュペーアを擁護しようとしているのが露骨に見てとれた。
 
ジャクソンはまず「貴方は[[親衛隊 (ナチス)|SS隊員]]だったか?」と質問した。シュペーアは「いいえ、私はSS隊員ではありませんでした」と答えた。シュペーアがSS隊員になっていた事を証明する書類はいくらもあったが、ジャクソンは「貴方は入隊願書に記入したことがある、または誰かが代わりに記入したが、結局貴方は提出しなかったのではないかと私は思っているのだが」という尻すぼみでこの話題を終えた<ref name="パ下214">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.214</ref>。
 
さらにジャクソンは「ヒトラーの周辺で彼に面と向かい、戦争に負けると言えた者は貴方以外にはいなかったというのは事実ですか?」<ref name="パ下214">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.214</ref>、「貴方はドイツ国民が生活を立て直す機会を残したかった。そうですね?」「いっぽうヒトラーは自分が生き残れないならドイツが生き残ろうが生き残るまいが知ったことではないという立場をとった。そうですね?」<ref name="パ下215">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.215</ref>、「貴方は自国の破滅に責任ある人々を除去するために色々な陰謀に加わったのですね?」{{sfn|マーザー|1979|p=289}}など擁護質問を連発した
 
ジャクソンは、クルップ社での強制労働の惨状の証言を証拠書類としてあげたが、これも提出の前にジャクソン自ら「ただしこれから述べる状況の責任が貴方個人にあるというのではありません」と断っておく始末だった<ref name="パ下215">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.215</ref>。またジャクソンは「暗殺計画の後、危険を冒してヒトラーに会いに行ったのは何故か」という質問もしたが、シュペーアが「臆病者のように逃げるのではなく、もう一度ヒトラーに立ち向かうのが私の義務だと思いました。」と回答すると、それをそのまま受け入れ、それ以上詳しく追及しなかった<ref>[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.215-216</ref>。
 
最後にジャクソンは「閣僚として、また現代における指導者の一人として全体の政策には責任を負うが、施行された政策の詳細までは責任を負いかねる。こういえば貴方の立場を公正に述べたことになりますか?」と質問し、シュペーアは「はい。その通りです」と回答した。するとジャクソンは「これで私の反対尋問は終わったと考えます」と述べて反対尋問を終了させた{{sfn|マーザー|1979|p=292}}<ref name="パ下216">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.216</ref>。
 
ジャクソンはシュペーアにユダヤ人虐殺を知っていたかどうかもマウトハウゼン強制収容所の視察についても一切質問しなかった<ref name="パ下217">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.217</ref>。ジャクソンはこれ以前からシュペーアを「被告席最上の男」と呼ぶなど彼に共感を寄せていたので、二人の間には密約があるのではと疑われた。そしてそれは事実だった。ジャクソンもシュペーア当人も後年に密約を結んでいたことを認めている{{sfn|マーザー|1979|p=289}}。
 
==== ソ連検察の反対尋問 ====
一方ソ連検事補ラジンスキーは容赦なくシュペーアを攻め立てた。
 
ラジンスキーはシュペーアを侵略戦争の共同謀議罪に問おうと『我が闘争』(ラジンスキーはこれをソ連への侵略を想定したものだと主張していた)やヒトラーとの友人関係を追及する質問をしたが、その回答の中でシュペーアは「私は『我が闘争』を完全に通読したことがありません」「私はヒトラーと密接な接触をもっていましたし、ヒトラー個人の意見も耳にしました。この個人的意見という言葉からヒトラーがこの記録に示されているような種類の何らかの計画をもっていたと推測されては困ります。私は1939年にヒトラーがソビエトと不可侵条約を結んだ時、ことのほか安心しました。つまり貴国の外交関係者も『我が闘争』を読んでいたに違いないですが、にも関わらず貴国は不可侵条約を結んだからです。」と述べてラジンスキーをやりこめた{{sfn|マーザー|1979|p=283}}。
 
またイギリス人の裁判長[[ジェフリー・ローレンス (初代オークシー男爵)|サー・ジェフリー・ローレンス]](後の[[トレヴェシン及びオークシー男爵|初代オークシー男爵、第3代トレヴェシン男爵]])もしばしばシュペーアに味方し、ラジンスキーのシュペーア追及の動きを封じた{{sfn|マーザー|1979|p=285}}。シュペーアもこの連合国内の不和を感じ取って、ソ連の検事に対してのみ、回答を拒否する高飛車な態度をしばしば取った。たとえばシュペーアがヒトラー側近数名を批判したと証言した時、ラジンスキーは「その数名とは誰か?」と聞いたが、シュペーアは「いや、貴方にはそれは申し上げられません」と回答した。ラジンスキーが「貴方がその人たちの名を言いたくないのは実際には誰も批判してないからだろう。違うか?」と追及してくると、シュペーアは「私は批判しました。しかしここでその人の名前を言うのは正しくないと考えるのです」と回答した。ラジンスキーは「シュペーアが質問に答えない場合、非常に多くの時間が無駄になる」と抗議したが、裁判長は「しかしラジンスキー検事。すでにその証言聴取の初めからこの被告は、戦争捕虜と労働者が自らの意思に反してドイツへ連れてこられたことを自分は知っていると認めています。このことを彼は否定していないのです」と述べてラジンスキーをたしなめた{{sfn|マーザー|1979|p=287}}。
 
ソビエトに対してのみ頑固な態度をとるシュペーアの法廷戦術は概ね功を奏したといえる{{sfn|マーザー|1979|p288-289}}。反対尋問が終わった後のシュペーアは勝利を確信して上機嫌だったという<ref name="パ下216">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.216</ref>。
 
==== 最終弁論 ====
8月31日の最終弁論でシュペーアは次のように演説した。「ヒトラーは歴史上どのように位置づけられるのでしょうか。この裁判が終わればドイツ国民は悲惨な状況を作り出した人間として彼を非難し、軽蔑するでしょう。独裁政治についてはどうでしょうか。ドイツ国民はこれまでの出来事によって独裁政治を憎むようになるだけではなく、それを恐れるようになるでしょう。ドイツ国民のように進歩的で教養があり洗練された国民がどうしてヒトラーの悪魔的な支配力に屈してしまったのでしょうか。それは現代の通信手段 ―ラジオ、電話、電信― のせいです。いまや指導者は遠隔地にいる部下に独自の判断を下させるための権限を与える必要がなくなったのです。現代の通信手段を使えばヒトラーのような指導者が、自分のいいなりになる集団を通じて自分で支配できるのです。ですから世界の科学技術が進歩すればするほど、個人の自由と人々の自治が不可欠になるのです」「今回の戦争は無線制御のロケット、音速に近づく航空機、標的を自動探知する潜水艦と魚雷、原子爆弾が現れ、科学戦の起こる恐れのある中で終わりを告げました。今度のような戦争が再び起これば、並みはずれたロケット弾が大陸間を飛び交う恐れがあります。10人ほどの要員によって発射されたロケット弾の核爆発でニューヨーク市にいる百万人を数秒で殺害することもできるようになるでしょう。新たに大規模戦争が起これば終戦時には人類の文明は全て滅んでいるかもしれません。ですから、この裁判は将来そのような戦争が起こらないようにするために貢献しなければならないのです。将来を信じる国民は決して滅びません。神よ。ドイツ国民と西洋文明を守りたまえ」<ref>[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.245-246</ref>。
 
傍聴席の人々はこの演説を感動しながら聞いていたという<ref name="パ下246">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.246</ref>。
 
==== 判決 ====
アメリカ首席検事ジャクソンは被告人の中に無罪判決に値する者がいるとすればシュペーアだと考えていた<ref name="パ下275">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.275</ref>。アメリカ首席判事{{仮リンク|フランシス・ビドル|en|Francis Biddle}}は悩みつつも、はじめシュペーアの有罪・死刑を主張した。ソ連判事[[イオナ・ニキチェンコ]]がただちにこれに賛同した。あと一票で死刑に決まるところだったが、イギリス判事ローレンスとフランス判事[[アンリ・ドヌデュー・ド・ヴァーブル]]が死刑に賛成しなかった。そして最終的にはビドルも死刑賛成を取り下げたのでシュペーアは死刑を免れることとなった<ref>[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.264-265/280</ref>。
 
全被告人に判決文が読み上げられたのは、1946年10月1日だった。この日シュペーアは打ちひしがれた表情で顔は吹き出物でいっぱいだったという。シュペーアの判決は第一訴因「侵略戦争の共同謀議」と第二訴因「平和に対する罪」について無罪としつつ、「シュペーアはザウケルに労働力の提供を要求した時、強制的に徴収された外国人労働者を使うことになるのを知っていた」「強制収容所の囚人を自分の支配する産業の労働力として使用した」として第三訴因「戦争犯罪」と第四訴因「人道に対する罪」で有罪としていた。他方「シュペーア自身は奴隷労働計画の管理・執行における残虐行為には直接に関与していない。」「ザウケルに対する管理監督権を有していなかった。」「なおシュペーアはヒトラーによる焦土作戦に反対し、相当の個人的危険をおかして抵抗した」というフォローも判決文に入れられた。これは500万人の外国人労働者を奴隷労働に使用した責任はザウケル一人に負わせることを示す物だった<ref name="パ下275"/>。
 
その後、個別に言い渡される量刑判決でシュペーアは懲役20年を言い渡された。死刑は免れたが、刑務所から出る頃にはすっかり老人になっている20年禁固刑というのは勝利と言えるのかシュペーアは疑問に感じざるを得なかったという。無罪になった[[フランツ・フォン・パーペン|パーペン]]や[[ヒャルマル・シャハト|シャハト]]のように嘘と隠ぺいで自分の罪を否認する態度を取っていたほうがよい結果になっていたのではと感じたという<ref name="パ下280">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.280</ref>。
 
=== シュパンダウ刑務所 ===
[[File:Kriegsverbrechergefängnis Spandau - Wachablösung.JPG|250px|thumb|ニュルンベルク裁判で禁固刑を受けた戦犯が服役したシュパンダウ刑務所。シュペーアは[[1947年]]から[[1966年]]まで服役した。同刑務所は連合国4カ国が月ごとに交替で看守を出した。イギリスは1月・5月・9月、フランスは2月・6月・10月、ソ連は3月・7月・11月、アメリカは4月・8月・12月を担当した{{sfn|バード|1976|p=125}}。]]
シュペーア含む禁固刑を受けた7人の戦犯たちはしばらくニュルンベルク刑務所で服役を続けていたが、[[1947年]][[7月18日]]に[[DC-3]]機で[[ベルリン]]へ移送され、護送車でイギリス占領地域[[シュパンダウ区]]にある{{仮リンク|シュパンダウ刑務所|de|Kriegsverbrechergefängnis Spandau}}に投獄された。シュペーアの囚人番号は5番だった{{sfn|バード|1976|p=125-126}}。
 
刑務所内では手紙以外の執筆は認められておらず、回顧録の執筆も禁じられていたが、シュペーアは刑務所内で一章ずつこっそりと回顧録執筆を行い、オランダ人看護付添人(戦時中ドイツ軍捕虜収容所に入れられていたが、シュペーアのおかげでいい待遇を受けていた人物)を協力者にしてその原稿を刑務所外に持ち出してもらい、出版関係者に届けていた。出版社が彼の自伝を高額で買い取る交渉をしていたのは公然の事実だったという{{sfn|バード|1976|p=190-191}}。[[ルドルフ・ヘス|ヘス]]と並ぶ読書家であり、刑務所内で約5000冊読んだという{{sfn|バード|1976|p=255}}。
 
労作業では一生懸命働いた{{sfn|バード|1976|p=217}}。また囚人の中で最も率直な人物で寡黙だったという{{sfn|バード|1976|p=254}}。そのため模範囚と看做されていたシュペーアだったが、時々はっきりとした理由なく看守を罵りだして懲罰を受けることがあった。アメリカ管理官ユージン・バード大佐が何故そんな事をするのか聞いたところ、シュペーアは「たまにはこんな風にストレスを発散させないと私は発狂してしまいますよ。私はわざとこんなことをしているのであり、懲罰を受けることも先刻承知しています。正気でいるためにはこれしかないんですよ」と答えたという{{sfn|バード|1976|p=198}}。
 
1966年10月1日午前0時をもってシーラッハとともに20年の刑期満了で釈放された{{sfn|芝健介|2015|p=269}}。シーラッハは出獄の際にシュペーアに「ヘル・シュペール。過去のことは過去に、我々はこれからも連絡を取り合おう」と言って手を差しだした。シュペーアは「ああ、そうしよう」と答えて握手に応じたという{{sfn|バード|1976|p=268}}。
 
シュペーアを迎えに来た車の中にはシュペーアの妻と弁護士フレックスナーが乗っており、シュペーアは妻と手を握り合った。そして車に乗りこむと門の前に集まるマスコミの中を通過して[[西ベルリン]]内の{{仮リンク|ダーレム (ベルリン)|label=ダーレム|de|Berlin-Dahlem}}のホテルへ向かった{{sfn|バード|1976|p=268}}。
 
=== 釈放後 ===
釈放翌日の1966年10月2日には国内外のマスメディアの前に姿を現し、ドイツ語・フランス語・英語の三か国語で「生きて出られてとても嬉しい」と述べた。しかし記者に質問の時間は与えず、すぐに記者会見を終えるとアメリカ機に乗って西ベルリンを離れて[[ハノーファー]]へ向かい、さらにイギリス・[[チャーター機]]で[[シュトゥットガルト]]へ向かい、そこからバイエルンの家族のところへ帰っていった{{sfn|芝健介|2015|p=269-270}}。
 
西ドイツ政府は「シュペーアとフォン・シーラッハの釈放については承知・確認しているが、政治的見解を政府が特別に表明しなければならない謂われはない。ただ我々は人道的見地から罹患囚人の拘留環境緩和ないし刑期未満了釈放に努めてきた」という声明を出した{{sfn|芝健介|2015|p=271}}。西ドイツ雑誌『シュピーゲル』は「彼の社会への帰還は、ドイツ人が終戦以来、道徳・論理観の整理・展望もないままに懸命に試みてきた過去の清算過程において呼び覚まされた記憶の数々に一株のアイロニーを加えた。シュペーアは過去が現在であった時(ナチ党政権期)に、それを克服しようとした、まさに数少ないドイツ人の一人だからである。彼は第三帝国が崩壊する直前にヒトラーと決別していた」とシュペーアに好意的な論評を載せた{{sfn|芝健介|2015|p=270}}。
 
1970年には刑務所の中で書いた誕生からニュルンベルク裁判までの半生を記録した回顧録『第三帝国の内幕』([[英語|英]]:Inside the Third Reich、[[ドイツ語|独]]:Erinnerungen,もしくは Reminiscences)を出版し、ベストセラーとなった{{sfn|ヴィストリヒ|2002|p=127}}。同書は数少ない、ヒトラーの側近が見たナチスの内幕を描いた貴重な証言として知られている。この本の内容は非常に鮮明に、自分とヒトラーとの出会いからニュルンベルク裁判までがこと細かに書かれている。ヒトラーに熱狂する人々や党内部の抗争、終戦間近になってからの[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]の異様な行動、[[マルティン・ボルマン|ボルマン]]の心情、[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]の言動、[[ロベルト・ライ|ライ]]の異様なまでの野心、正気を失っていくヒトラーとそれを共に滅びていく[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]など、生々しくも忠実に描写されている。また、ニュルンベルク裁判での[[カール・デーニッツ|デーニッツ]]や[[ルドルフ・ヘス|ヘス]]等被告人の様子も非常に詳しく描かれている。
 
[[1981年]]、[[イギリス]]の愛人宅において[[心臓発作]]で倒れ、[[ロンドン]]のセント・メリー病院で死亡した。[[英国放送協会|BBC]]に出演するために渡英していた際の死亡とされ、現在では[[ハイデルベルク]]のベルクフリートホーフに夫婦そろって埋葬されている。
 
== 人物 ==
[[image:Bundesarchiv Bild 146-1979-026-23, Adolf Hitler und Albert Speer.jpg|thumb|200px|ヒトラーとシュペーア。1942年3月23日]]
身長は184センチだったという<ref>[http://www.imdb.com/name/nm0817553/bio?ref_=nm_ov_bio_sm IMDb]</ref>。
 
ニュルンベルク刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が、開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると、シュペーアの[[知能指数]]は128であった{{sfn|モズレー|1977|p=166}}。ギルバートはナチスの罪を認めたシュペーアはナチスの罪を認めないゲーリングより知的と思っていたので、シュペーアがゲーリング(IQ138)よりだいぶIQが低いことに衝撃を受けたという<ref name="パ上166">[[#パ上|パーシコ 1996 上巻]], p.166</ref>。
 
彼自身が後年に述べたところによると時々主人ヒトラーの邪悪さを垣間見ることはあったが、大勢の人に命令したり、何十億マルクもの金を意のままに使える権力を与えられて夢中になり、それを可能にしてくれたヒトラーに逆らう気など起きなかったという<ref name="パ上269">[[#パ上|パーシコ 1996 上巻]], p.269</ref>。1953年には戦後ヒトラー批判に転向した理由について「ベルリン改造プロジェクトは私の生きがいだった。すでに述べたように私はそれを忘れることができない。今日私がヒトラーを拒絶する深層を探れば、彼が明らかにしたあらゆる残虐性と並んで、私の失望も少し含まれている。彼は政治の権力ゲームから戦争に走り、生涯をかけた私の計画をぶち壊したという失望が」と述べている{{sfn|クノップ|2001|p=277}}。
 
いささか訛りがきついものの、流暢な英語を話すことができた<ref name="パ下20">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.20</ref>。
 
== 評価 ==
[[imageファイル:Bundesarchiv Bild 183-J14589, Albert- Speer, Panzer T-72-92934.jpg|right|thumb|250px200px|ニュルンベルク裁判ソ連軍から[[鹵獲]]した[[T-34]]出廷する乗り込むシュペーア。1943年6月]]
[[image:Bundesarchiv Bild 146-1979-026-23, Adolf Hitler und Albert Speer.jpg|thumb|250px|ヒトラーとシュペーア。1942年3月23日]]
シュペーアはニュルンベルク裁判の被告の中で唯一人、自己の戦争犯罪を認めた。また、釈放された後も積極的にマスコミ等でドイツの犯罪を批判し続けた。しかしその一方でユダヤ人虐殺については「自分は直接関知していない」「うすうす感じてはいたが積極的に知ろうとしなかったので知らなかった」などと述べている。
 
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== 語録 ==
[[image:Arno Breker, Albert Speer (1940).jpg|thumb|250px|シュペーアの彫像を制作する[[アルノ・ブレーカー]]]]
=== シュペーア本人の発言 ===
*「優れた専門知識を備えた指導者が、政治的意思の証として、数千年を経てなおも、その偉大な時代を証言する石造建築を生みだすのは、歴史上これが最初で最後となろう」(1934年)<ref name{{sfn|クノップ|2001|p="ヒトラーの共犯者 上285">『ヒトラーの共犯者 上 <small>12人の側近たち</small>』(原書房)285ページ</ref>}}
*「総統は期待なさっている。前線の兵士のために新しい武器を鍛えることが必要ならば、故国はいかなる犠牲もいとわない事を。我々は前線の兵士に誓う。我々の義務を引き続き遂行するだけではなく、最善を尽くして業績を上げ、休むことなく毎月生産力を向上させる事を」(1943年)<ref name{{sfn|クノップ|2001|p="ヒトラーの共犯者 上304">『ヒトラーの共犯者 上 <small>12人の側近たち</small>』(原書房)304ページ</ref>}}
*「まず[[ヴィルヘルム・カイテル|カイテル]]、つぎに[[ハンス・フランク|フランク]]、そして今度は[[バルトゥール・フォン・シーラッハ|シーラッハ]]が、自分の罪を認め、ナチ党政権を批判したことで、ゲーリングの唱えた共同戦線が崩壊していってるんですから喜ばしい事です。私とシーラッハは親友になりましてね。お互いに「きみ(ドゥー)」で呼びあっていますよ」(1946年5月23日、ギルバートに)<ref name="パ下199">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.199</ref>。
*「私は適切な関係者にだけ明かすべき、軍事技術に関するある情報を持っております。ドイツ軍との空中戦で米軍の犯した過ち、二度と繰り返すべきではない過ちを知っているのは私だけです。いかなる産業であれ永久に操業できなくさせる方法も私は知っています。私を[[ソ連]]の手に渡すべきではありません。私の知識は米国側に留めるべきです。私が死刑になった場合には、その知識が全て消滅してしまう事になります」([[ニュルンベルク裁判]]開廷直前に[[アメリカ]]主席検事[[ロバート・ジャクソン (法律家)|ロバート・ジャクソン]]に宛てて書いた手紙)<ref name="ニュルンベルク軍事裁判上172">『ニュルンベルク軍事裁判(上)』(1996年版)172頁</ref>
*「最近、弁護士から極刑につながるような戦争犯罪の告白は止めた方がいいという説得を受けました。しかし私は終身刑をせしめるために、真実を隠して、一生自己嫌悪に陥るつもりはありませんよ」(1946年6月、ギルバートに)<ref name="パ下209">[[#パ下|パーシコ 1996 下巻]], p.209</ref>。
*「被告人が一緒に食事や作業をするのはまずいですよ。ゲーリングが彼らを脅しつけて従わせようとしますからね」(アメリカ軍心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉に)<ref name="ニュルンベルク軍事裁判下20">『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)20頁</ref>
*「もし私が何もかも知っていたならば、私は別の行動を取っただろうか。私は何百万回もこの事を自問した。私が自分に出した答えはいつも同じだった。私はそれでもなお、この男が戦争に勝つように、なんとかして協力しただろう」(1979年){{sfn|クノップ|2001|p=277}}
*「まず[[ヴィルヘルム・カイテル|カイテル]]、つぎに[[ハンス・フランク|フランク]]、そして今度は[[バルトゥール・フォン・シーラッハ|シーラッハ]]が、自分の罪を認め、ナチ党政権を批判したことで、ゲーリングの唱えた共同戦線が崩壊していってるんですから喜ばしい事です。私とシーラッハは親友になりましてね。お互いに「きみ(ドゥー)」で呼びあっていますよ」(1946年5月23日、ギルバートに)<ref name="ニュルンベルク軍事裁判下199">『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)199頁</ref>
*「ゲーリングと自分は争っています。ゲーリングは喧嘩腰で検察に反抗する側の代表、自分はナチスの罪を認める側を代表しているわけです。ゲーリングの反対尋問をしたのは主席検事のジャクソンでしたが、私に対しては彼の部下である貴方が反対尋問を行うそうですね。貴方には大変失礼ですが、この差を他の被告人が見逃すでしょうか。彼らの目には私がゲーリングより劣っていると映り、彼らを私の方に引き入れるのが一層困難になるのではないでしょうか」(1946年6月、アメリカ次席検事[[トム・ドッド]]に)<ref name="ニュルンベルク軍事裁判下208">『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)208頁</ref>
*「最近、弁護士から極刑につながるような戦争犯罪の告白は止めた方がいいという説得を受けました。しかし私は終身刑をせしめるために、真実を隠して、一生自己嫌悪に陥るつもりはありませんよ」(1946年6月、ギルバートに)<ref name="ニュルンベルク軍事裁判下209">『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年) 209頁</ref>
*「もし私が何もかも知っていたならば、私は別の行動を取っただろうか。私は何百万回もこの事を自問した。私が自分に出した答えはいつも同じだった。私はそれでもなお、この男が戦争に勝つように、なんとかして協力しただろう」(1979年)<ref name="ヒトラーの共犯者 上277">『ヒトラーの共犯者 上 <small>12人の側近たち</small>』(原書房)277ページ</ref>
 
=== 人物評 ===
*「私が愛していると、シュペーアに伝えてくれ」(1944年春、[[アドルフ・ヒトラー]]。[[エアハルト・ミルヒ]]空軍元帥に語った言葉)<ref name{{sfn|クノップ|2001|p="ヒトラーの共犯者 上275">『ヒトラーの共犯者 上 <small>12人の側近たち</small>』(原書房)275ページ</ref>}}
*「シュペーアに関しては、彼が必ずしも我々古参の国家社会主義の血統ではない事を忘れてはならない。彼は何と言っても天性の技術者で、政治の事は常にほとんど気にかけてはいなかった。したがって彼はまた、このような危機にあっては、生粋のナチよりも、いくらか抵抗力に欠ける」(1944年、[[ヨーゼフ・ゲッベルス]])<ref name{{sfn|クノップ|2001|p="ヒトラーの共犯者 上275">『ヒトラーの共犯者 上 <small>12人の側近たち</small>』(原書房)275ページ</ref>}}
*「シュペーアは己の無罪を主張したいがために、あんな愚劣なことをしゃべった。あいつは昔から今に至るまで裏切り者なのだ」([[ニュルンベルク裁判]]で拘禁中、[[ヘルマン・ゲーリング]]。ブロス弁護士に語った言葉)<ref name="ゲーリング言行録">[[金森誠也]]著『ゲーリング言行録 :ナチ空軍元帥大いに語る』([[荒地出版社]]、[[2002年]])160頁-162頁</ref>
*「[[フリッツ・トート]]博士は、以前から私にシュペーアは陰険な嘘つきだと私に警告していた。その頃の私は同じ意見ではなかったが、今になってトート博士の意見の正しさが判明した」(ゲーリング。同上)<ref name="ゲーリング言行録"/>
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*[[ヒュー・トレヴァー=ローパー|H.R.トレヴァ=ローパー]]著、橋本福夫訳『ヒトラー最期の日』(筑摩叢書・[[筑摩書房]]、1975年)
**※ヒトラー研究の古典。著者はヒトラー政権幹部の中でシュペーアを高く評価し、その評価に多くの頁を割いている。
*[[三宅理一]]「神話の終焉--アルバート・シュペアーと1930年代建築」新建築、1982年1月号、シュペアーへのインタビュー「なぜ、古典的造形を追い求めるのか」を掲載。
* [[ロバート・ジェラトリー]]・編、[[レオン・ゴールデンソーン]]・著、[[小林等]]・[[高橋早苗]]・[[浅岡政子]]・訳 『ニュルンベルク・インタビュー 上』 [[河出書房新社]] 2005年11月 ISBN 4-309-22440-7
:*※上巻「第1部 被告」に、「軍需相 アルベルト・シュペーア」のインタビューを収録。
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== 本稿の参考文献 ==
*{{Cite book|和書|last=ヴィストリヒ| first=ロベルト|translator=[[滝川義人]]|year=2002|title=ナチス時代 ドイツ人名事典|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887215733|ref=harv}}
*グイド・クノップ 高木玲訳『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち』 原書房 2001年
*{{Cite book|和書|last=カーン|first=レオ|translator=[[加藤俊平]]|year=1974|title=ニュールンベルク裁判 暴虐ナチへ“墓場からの告発”|publisher=[[サンケイ出版]]|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|last=クノップ|first=グイド|translator=[[高木玲]]|year=2001|title=ヒトラーの共犯者 上巻|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562034178 |ref=harv}}
*アルバート・シュペール著、品田豊治訳 『ナチス狂気の内幕 -- シュペールの回想録』 [[読売新聞社]] 1970年
*{{Cite book|和書|author=[[芝健介]]|year=2015|title=ニュルンベルク裁判|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000610360|ref=harv}}
*[[阿部良男]]著、『ヒトラー全記録 :20645日の軌跡』、[[2001年]]、[[柏書房]]、ISBN 978-4760120581
*[[:en:Joseph{{Cite E. Persicobook|和書|author=[[ジョゼフ・E・パーシコ]]著 ([[:en:Joseph E. Persico|en]])|translator=[[白幡憲之]]訳『|year=1996|title=ニュルンベルク軍事裁判() 』、〉|publisher=[[原書房]]、[[1996年]]|isbn=978-4562028641|ref=パ上}}
*{{Cite book|和書|last=バード|first=ユージン||translator=[[笹尾久]]・[[加地永都子]]|year=1976|title=囚人ルドルフ・ヘス―いまだ獄中に生きる元ナチ副総統|publisher=[[出帆社]]|asin=B000J9FN36|ref=harv}}
*ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(下) 』、原書房、1996年
*{{Cite book|和書|author=ジョゼフ・E・パーシコ|translator=白幡憲之|year=1996|title=ニュルンベルク軍事裁判〈下〉|publisher=原書房|isbn=978-4562028658|ref=パ下}}
*{{Cite book|和書|last=マーザー|first=ウェルナー|translator=[[西義之]]|year=1979|title=ニュルンベルク裁判 <small>ナチス戦犯はいかにして裁かれたか</small>|publisher=[[TBSブリタニカ]]|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|last=モズレー|first=レナード|translator=[[伊藤哲]]|year=1977|title=第三帝国の演出者 下 ヘルマン・ゲーリング伝|publisher=[[早川書房]]|isbn=978-4152051332|ref=harv}}
 
=== 出典 ===
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{{ヒトラー内閣}}
{{ニュルンベルク裁判被告人}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:しゆへえあ あるへると}}
[[Category:ドイツ第三帝国期の政治家]]