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|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|34|11|6.6|N|135|11|24.09|E|region:JP-30_scale:20000|display=inline,title}}
|山号 = 紀三井山
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|宗派 =
|寺格 = 総本山
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|文化財 = 楼門・鐘楼・木造千手観音立像ほか(重要文化財)<br />本堂(和歌山県指定文化財)
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'''紀三井寺'''(きみいでら)は、[[和歌山県]][[和歌山市]]紀三井寺にある[[仏教]][[寺院]]。正式名は'''紀三井山金剛宝寺護国院'''(きみいさん こんごうほうじ ごこくいん)。[[西国三十三所]]第2番札所。救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)総本山<ref>宗派読みは次のサイトによる。{{Cite web|url=http://www.rirc.or.jp/xoops/modules/xwords/entry.php?entryID=199&categoryID=5|title=救世観音宗|work=[http://www.rirc.or.jp/xoops/modules/xwords/search.php 教団データベース(旧)]|publisher=[http://www.rirc.or.jp/xoops/ 宗教情報リサーチセンター(公益財団法人国際宗教研究所)]|accessdate=2015-07-08}}</ref>。
== 概要 ==
寺号は詳しくは'''紀三井山金剛宝寺護国院'''と称し、宗教法人としての公称は「'''護国院'''」であるが、古くから「紀三井寺」の名で知られる<ref>楼門前の石柱には「紀三井山護国院」、本堂前の石柱には「紀三井寺」とある。「紀三井山金剛宝寺」「金剛宝寺護国院」ともいう。</ref>。宗派はもと[[真言宗
</ref>。
== 歴史 ==
===開創===
伝承によれば、[[宝亀]]元年([[770年]])、[[唐]][[僧]]の為光が、日本各地を行脚していた時、
===中世から近世===
紀三井寺の中世の寺領と記録について、『紀伊続風土記』は次のように伝える。
{{Quotation|〔前略〕合せて四十九町中世以後寺領とす。天正十三年豊臣太閤征伐の時、皆没収せらる。此ノ時寺に伝ふる所の綸旨院宣種々の文書等皆散失す。|紀伊続風土記<ref name="Heibonsha_1997_224">平凡社[1997: 224]</ref>}}
このため、中世の紀三井寺について詳しいことは分からないが、各種の資料から断片的に見出される記述からは、[[日前神宮・國懸神宮|日前國懸社]]と深い関係にあると見られていたことが分かる。[[嘉禎]]4年([[1238年]])の日前宮文書によれば、毛見郷は日前宮領に属し、名草山を「三井之神山」と称しているほか、日前國懸社神主家57代国造紀俊文の詠歌にも名草山の名が見える。また、[[応永]]年間([[1394年]]~[[1428年]])には、日前國懸社の祭礼に警固を兵士を送ったという。その他、[[興国寺 (由良町)|興国寺]]の[[開山]]たる[[心地覚心|法燈国師覚心]]が招かれて、紀三井寺の南に、紀三井寺僧妙蓮のために建立された報恩寺仏殿の落慶法要を営んだと興国寺の記録にある<ref name="Heibonsha_1997_223"/>。
前出の通り、中世紀三井寺の寺領は49[[町 (単位)|町]]を算したが、紀州攻めの際に没収されて失われた。[[慶長]]6年([[1601年]])、[[浅野幸長]]は紀三井寺村内の13[[石 (単位)|石]]を寄進した。次いで、[[紀州徳川家 ]]初代の[[徳川頼宣]]は8石や燈明料を寄進したほか、境内の[[地子]]を免じ、[[正保]]4年([[1647年]])には境内における殺生を禁じた<ref name="Heibonsha_1997_224"/>。
[[室町時代]]には[[西国三十三所]]ないし熊野参詣の隆盛により、多くの参詣者が訪れるようになった。中世の紀三井寺は多くの僧侶・子院が一体混然として一山を形成する一山寺院であって<ref>[[#Yoshii1984|吉井[1984: 54]]]</ref>、妻帯僧が寺僧となり、本堂脇には造営・修造のための勧進を担う穀屋(今日の穀屋寺)<ref>穀屋寺は山門外にあるが、これは近世に本坊護国院との争論の結果である(吉井[1984: 67-68])。</ref>があったという。寺僧の中からは、法用を勤める法橋として年老14名が充てられ、これを当寺の詠歌の詠み手でもある[[花山天皇|花山院]]<ref name="Goeika">ご詠歌については次のウェブサイトを参照。{{Cite web|url=http://www.kimiidera.com/history/rekishi3.html|title=紀三井寺の詠歌|publisher=紀三井寺|accessdate=2015-04-05}}</ref>の[[永宣旨]]によって許可されたというが、その永宣旨は伝来しない<ref>平凡社[1997: 223]</ref>。穀屋は[[尼|比丘尼]]寺であって、観音御影や[[牛玉宝印]]の木版を所持し、参詣者に配札していた。
穀屋寺には複数の勧進関連の文書が伝来する。[[文安]]6年([[1449年]])の勧進状は、[[嘉吉]]元年([[1441年]])に何らかの壊滅的打撃(おそらく南朝残党と守護畠山氏の衝突による兵火)があったことを示唆する内容が記され、諸堂を再建したものの、未成の多宝塔復興のための勧進となったことが分かる<ref name="Heibonsha_1997_224"/>。[[大永]]2年([[1522年]])の勧進状で堂舎修理のための勧進を仰いでおり、堂塔の再興修復が穀屋によって担われてきたことが分かる<ref name="Heibonsha_1997_224"/>。また、[[元禄]]11年([[1698年]])の「穀屋寺移転ニ付口上書」には、穀屋比丘尼の春古は秀吉の紀州攻めに際して、秀吉との直接交渉に臨み山内安堵の証文を得て、焼討を回避した([[天正]]13年〈[[1585年]]〉)<ref>吉井[1984: 65]</ref>ことを伝え、このように積極的な活動を示した穀屋は、他の諸寺社にも見られるように堂舎の再興修復を通じて、それまで以上に大きな役割を果たし、寺内における地位を高めていた<ref>吉井[1984: 65-66]</ref>。
秀吉の紀州攻めの翌年、[[天正]]14年に本願坊が創建され、のちに[[明暦]]年間([[1655年]]~[[1658年]])に護国院と改称した。のちに本坊となる護国院はそれ自体が本願勢力であり<ref>大高康正『参詣曼荼羅の研究』(2012、岩田書院 ISBN 978-4-87294-765-6)p.217</ref>、初代の本願に任じられた良純房は、吉原村の出身で姓は林氏であったと伝えられる<ref name="Heibonsha_1997_224"/>。近世における徳川政権の寺院政策は、当初、それに先立つ[[織田信長|信長]]・秀吉のそれと同じく、武装解除と中世以来の寺領没収、および新たな[[朱印地・黒印地|朱印領]]の賦与であったが、のちに[[寛文]]5年([[1665年]])の[[諸宗寺院法度]]において一山寺院に対する統一した政策が出され、その一環として寺内秩序や勧進活動への制限が行われたことにより、本願勢力は地歩を後退させられることになった<ref>吉井[1984: 66-67]</ref>。紀三井寺では、[[宝永]]2年([[1705年]])に穀屋坊が山麓の楼門外に移転させられ<ref name="Heibonsha_1997_224"/>、[[宝暦]]3年([[1735年]])には紀三井寺と本末関係が結ばれて、かつては寺内の子院であった穀屋はいち末寺に格下げされた<ref>吉井[1984: 68]</ref>。
== 御詠歌 ==
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JR[[紀三井寺駅]]から徒歩10分ほどのところに境内入口の楼門が建つ。そこから231段の急な石段を上りきったところが境内の中心部で、正面に六角堂、右手に2002年建立の新仏殿、左手には本堂、鐘楼、大師堂などが建つ。本堂脇の石段をさらに上ったところには多宝塔、開山堂がある。
===本堂===
'''本堂(和歌山県指定文化財)''' ▼
[[ファイル:Kimiidera Wakayama11n4272.jpg|thumb|220px|大光明殿]]
*十一面観音立像 - 像高161.5センチメートル<ref>像高は久野健編『仏像巡礼事典』新訂版(山川出版社、1994)による。以下も同じ。</ref>。当寺の秘仏本尊。一木造、素地仕上げ。頭部のプロポーションが大きく、素朴な彫法の像で、平安時代、10世紀頃の作と推定される。
*千手観音立像 - 像高183.0センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。本尊とともに安置される秘仏で、一木造、素地仕上げとする。千手観音の彫像は42手をもって千手とみなすのが通例だが、本像は奈良・[[唐招提寺]]像などと同様、大手42本の他に多数の小手を表す「真数千手」像である。
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*十一面観音立像 - 像高156.7センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。一木造、彩色はほとんど剥落。大光明殿内の向かって右端に安置。衣文の彫りが簡略で、素朴な作風の像である。
[[ファイル:Kimiidera Wakayama06n3200.jpg|thumb|220px|仏殿]]
*
[http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/ わかやま文化財ガイド]|publisher=和歌山県|accessdate=2015-04-07}}</ref>。
* 護国院鐘楼(重要文化財) - [[安土桃山時代]]の建築、重層袴腰入母屋造。寺伝では[[天正]]16年([[1588年]])安倍太郎の再建という。[[天明]]元年([[1781年]])に加修、[[1937年]](昭和12年)に大修理を行った。旧鐘は[[文禄・慶長の役]]の折に没収されて[[筑後]]に移されたが現存しない<ref name="Heibonsha_1997_224"/><ref>{{Cite web|url=http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/cgi/search.cgi?action=view_id&view_id=28|title=護国院(紀三井寺)鐘楼/1棟|work=
[http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/ わかやま文化財ガイド]|publisher=和歌山県|accessdate=2015-04-07}}</ref>。
* 護国院多宝塔(重要文化財)- [[室町時代]]の建築、三間二層多宝塔造。[[文安]]6年([[1449年]])の勧進縁起が伝来することから同時期の建立と推定される。四天柱内の内陣に[[五智如来]]坐像を安置する<ref name="Heibonsha_1997_225"/>。各種の絵様、彫刻、[[須弥壇]]に室町時代中期の様式を示す<ref>{{Cite web|url=http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/cgi/search.cgi?action=view_id&view_id=26|title=護国院(紀三井寺)多宝塔/1基|work=[http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/ わかやま文化財ガイド]|publisher=和歌山県|accessdate=2015-04-07}}</ref>。
*六角堂 1棟 - [[江戸時代]]・[[寛延]]年間([[1750年]]頃)、初代・二代目雑賀弥左ェ門建立。西国三十三カ所御本尊をまつる<ref>{{Cite web|url=http://www.kimiidera.com/history/mamejtn1.html|title=紀三井寺の豆辞典1|publisher=紀三井寺|accessdate=2015-04-07}}</ref>。
== 三井水 ==▼
[[ファイル:Kimiidera Wakayama23n3200.jpg|thumb|220px|三井水]]
▲== 三井水 ==
▲}}</ref>[[名水百選]]に定められている。清浄水は参道石段の途中右側にある小滝である。楊柳水はそこから小道を入った突き当たりにある井戸。吉祥水は境内からいったん楼門を出て右(北)へ数百メートル行ったところにある井戸である。楊柳水と吉祥水は荒廃していたのを20世紀末に復旧整備したものである。
== 文化財 ==
=== 重要文化財 ===
* 護国院楼門 1棟 - [[重要文化財]](建造物)。[[1908年]]([[明治]]41年)4月23日指定<ref>{{国指定文化財等データベース2 |name = 護国院楼門 |register = 102 |item = 2810 |year = 1908 |jyear = 明治41 |month = 4 |date = 23|cat1 = 重要文化財 |accessdate = 2015-04-07 }}</ref>。
* 護国院鐘楼 1棟 - 重要文化財(建造物)。1908年(明治41年)4月23日指定<ref>{{国指定文化財等データベース2 |name = 護国院鐘楼 |register = 102 |item = 2809 |year = 1908 |jyear = 明治41 |month = 4 |date = 23|cat1 = 重要文化財 |accessdate = 2015-04-07 }}</ref>。
* 護国院多宝塔 1棟 - 重要文化財(建造物)。1908年(明治41年)4月23日指定<ref>{{国指定文化財等データベース2 |name = 護国院多宝塔 |register = 102 |item = 2808 |year = 1908 |jyear = 明治41 |month = 4 |date = 23|cat1 = 重要文化財 |accessdate = 2015-04-07 }}</ref>。
* 木造千手観音立像 - [[秘仏]]
* 木造十一面観音立像
* 木造十一面観音立像
* 木造梵天・帝釈天立像
重要文化財の仏像はいずれも[[平安時代]]中期~後期の作品である。
* 護国院本堂 1棟 - 和歌山県指定有形文化財(建造物)。[[1974年]]([[昭和]]49年)4月9日指定<ref name="Wakayama_Pref"/>。詳細は[[#本堂|前述]]。
===和歌山市指定文化財===
* [[紀三井寺参詣曼荼羅|穀屋寺紙本着色 紀三井寺縁起絵図]] 1幅 - 絵画。[[1969年]](昭和44年)12月11日指定<ref name="Wakayama_City">以下、和歌山市指定文化財について次のウェブサイトを参照。{{Cite web|url=http://www.city.wakayama.wakayama.jp/menu_1/gyousei/bunshin/bunkazai/index.html|title=和歌山市指定文化財一覧|publisher=和歌山市教育委員会|accessdate=2015-03-18}}</ref>。
* 紀三井寺遍照院の木彫釈迦如来 1躯 - 彫刻。1969年(昭和44年)12月11日指定。
* 紀三井寺の三井水 3箇所 - 名勝。[[1967年]](昭和42年)2月14日指定。
* 紀三井寺の樟樹 1本 - 天然記念物。1967年(昭和42年)2月14日指定。
* 紀三井寺の応同樹 1本 - 天然記念物。1969年(昭和44年)12月11日指定。
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== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
==参考文献==
*{{Cite book ja-jp|editor=平凡社|year=1997|title=大和・紀伊寺院神社大事典|publisher=平凡社|isbn=4582134025|ref=Heibon1997}}
*{{Cite journal ja-jp|author=吉井 敏幸|title=近世初期一山寺院の寺僧集団|year=1984|journal=日本史研究|serial=266|pages=45-72|publisher=日本史研究会|naid=40002929775|ref=Yoshii1984}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kimiidera}}▼
* [[西国三十三所]]
* [[佐々木只三郎]] - 墓所。慶応4年(1868年)、和歌山に敗走中、紀三井寺で死去。
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== 外部リンク ==
* [http://www.kimiidera.com 紀三井寺]
▲{{Commonscat|Kimiidera}}
{{名水百選}}
{{DEFAULTSORT:きみいてら}}
[[Category:名水百選]]
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[[Category:西国三十三所]]
[[Category:和歌山県の重要文化財]]
[[Category:区市町村指定有形文化財]]
[[Category:和歌山県の寺]]
[[Category:和歌山市]]
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