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'''西国三十三所'''(さいごくさんじゅうさんしょ、さいこくさんじゅうさんしょ)は、[[近畿]]2府4県と[[岐阜県]]に点在する33か所の[[観音菩薩|観音]]信仰の[[霊場]]の総称<ref>「西国三十三箇所」(さいごくさんじゅうさんかしょ)とする表記もあるが、近世以前にはもっぱら「三十三所」と称され、[http://www.saikoku33.gr.jp/ 西国三十三所札所会]や各種の文献でも同じく「三十三所」の表記を採る。また、「西国」は「さいこく」と清音で読む場合もある。</ref>。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。
 
「三十三」とは、『[[法華経|妙法蓮華経]]観世音菩薩普門品第二十五』([[観音経]])に説かれる、観音菩薩が[[衆生]]を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し<ref>三石[2005: 30]</ref>、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。
 
== 成立と歴史 ==
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前者の例として挙げられるのは、[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]の13回、[[後白河天皇|後白河院]]の27回といった参詣であり、こうした盛行に影響されて三十三所の順路が影響を受けて、12世紀後半には那智山を一番札所とするようになったと考えられている<ref name="Yoshii_1996_54"/>。
 
後者の西国三十三所における熊野那智山の位置付けであるが、熊野那智山には三十三所の開創や巡礼との関係が多数ある。伝説上の開創を[[裸形]]とし、[[奈良時代]]以前から特別な聖地であった那智山には、三十三所の伝説上の開創である花山院が[[寛和]]2年([[986年]])に参詣をしたことに由来して、多数の伝承が見られる。それらの伝承には、例えば[[那智滝]]で花山院が千日滝籠行を行ったとするほか、滝元千手堂の本尊を花山院に結びつけたり、[[阿弥陀寺 (那智勝浦町)|妙法山]]に庵や墓所があったとするものが見られ、那智山における花山院伝承は非常に重要である<ref name="Yoshii_1996_54"/>。また、中世には諸国を廻国遊行する廻国巡礼行者が多数いたが、三十三所を巡る三十三度行者なる行者に那智山の住僧が多数なっていただけでなく、その往来手形もまた那智山が管掌するところであったと青岸渡寺伝来の史料は伝えている<ref>吉井[1996: 54-55]</ref>。こうした点から分かるように、当初摂関期の観音信仰をもとにしていた三十三所は、院政期に熊野詣の盛行の影響下で熊野那智山を一番札所とするようになり、花山院の伝承の喧伝や三十三度行者の活動を通じて、熊野那智山により広められていった<ref>吉井[1996: 55]</ref>。なお、従来から三十三所に関わっていた園城寺も熊野三山検校職に任じられており、熊野那智山を一番札所とすることに影響したと考えられる。また、園城寺の影響下にある[[三室戸寺]]を一時期の結願札所としたのも園城寺の関係とされる。<ref>白木[2008: 34]</ref>三十三所が固定化し、東国からの俗人も交えて民衆化するのは15世紀半ばを下る時期のことであった<ref>吉井[1990: 20]、戸田[1992: 271]</ref>。結願札所が東国からの便が良い美濃谷汲山に移されたのもこの時期とされる
 
=== 中世三十三所寺院における信仰と巡礼 ===
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現在でも鉄道会社やバス会社によって多くの巡礼ツアーが組まれており利用者も多い<ref>[[京都京阪バス]]では西国三十三所の内数箇所と、番外としてツアーにより近隣の寺院数箇所とを組み合わせた巡礼ツアーを定番コースとして開催している。</ref>。
 
== 西国写し霊場との関係 ==
西国霊場巡礼が盛んになると、地方の大名などが自分の居住する周辺に西国霊場を勧請して新たな観音巡礼を作るようになった。これを'''「西国写し霊場」'''という。最も早期の西国写し霊場は[[源頼朝]]創建と伝える[[坂東三十三箇所]]であるが、これは鎌倉時代の天福二年(1234)以前には既にあったという確実な史料<ref>[http://www.bandou.gr.jp/about/history.php 坂東三十三観音公式サイト]</ref>があり、かなり古いものである。この時期には京都に[[洛陽三十三ヶ所]]も作られた。室町時代になると秩父に[[秩父三十四箇所]]も創建され、西国・坂東・秩父を合わせて「百観音」というようになり、百観音巡礼をする修験者なども増加した。
 
江戸時代になると全国あちこちに西国写し霊場が作られ、現在もあちこちに写し霊場が作られている。これらの写し霊場にはいくつかの類型があることが指摘されている。以下にその例を挙げる。<ref>以下の分類は、田上善夫『地方霊場の開創とその巡拝路について』富山大学教育学部紀要、2004などを参考とした。</ref>
江戸時代になると[[山形藩]]主最上家が信仰を奨励し、開創伝説にも最上家が深く関わっている[[最上三十三観音霊場]]のように、藩内に西国写し霊場を設けることで領民の信仰とリクリエーションを図る大名も出、[[江戸三十三観音]]のように、西国巡礼がなかなか出来ない庶民たちが江戸市中の西国霊場に似た寺社を西国の札所に見立てたものも出現した。
* 地方霊場
[[坂東三十三箇所]]・[[中国三十三観音霊場]]などのように、一地方に散在する観音奉安寺院を巡礼するもの。
* 一国霊場
[[和泉西国三十三箇所]]・[[播磨西国三十三箇所]]・[[最上三十三観音霊場]]などのように、[[令制国]]一国若しくは江戸時代の[[藩]]の領域にある観音奉安寺院を巡礼するもの。播磨西国三十三箇所のように地元の僧侶が西国霊場寺院を中心に巡礼ルートを設定するものや、[[山形藩]]主最上家が信仰を奨励し、開創伝説にも最上家が深く関わっている[[最上三十三観音霊場]]のように、藩内に西国写し霊場を設けることで領民の信仰とリクリエーションを図る大名によるものがある。
* 一郡霊場
[[江戸三十三箇所]]・鎌倉郡三十三箇所(現在の[[鎌倉三十三箇所]])のように、[[郡]]などの国や藩領よりも小さな領域に、西国巡礼がなかなか出来ない庶民たちが巡礼ルートを設置したもの。例えば江戸三十三箇所は[[洛陽三十三ヶ所]]にならい、江戸市中の西国霊場に似た寺社を西国の札所に見立てたものである。<ref>例を上げれば、東京上野の[[五條天神社]]・穴稲荷堂から見える[[不忍池]]の景色が西国13番石山寺から見える[[琵琶湖]]の景色によく似ていることから、明治以前は穴稲荷を江戸三十三箇所の一つとしていたように、西国霊場に似た景色や、由来の似た寺院を選定していた。</ref>
* 小規模(里山)霊場
[[里山]]に三十三所の本尊を模した石仏を三十三体(もしくは西国・坂東・秩父合わせて百体)建立し、修験道で信仰対象にされていた里山の山道に沿って巡礼できるようにしたもの。<ref>田上2004では、富山県東砺波郡井波町の八乙女山霊場、山形県の岩部山三十三観音霊場などが例として挙げられており、何れも修験道の影響力が強い地方であることを指摘している。</ref>
 
== 西国三十三所札所寺院の一覧 ==