削除された内容 追加された内容
流星 (航空機)
タグ: モバイル編集 モバイルアプリ編集
(16人の利用者による、間の182版が非表示)
1行目:
[[ファイル:Kamikaze zero.jpg|thumb|right|300px|1945年4月11日、[[戦艦]]「[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]」に突入直前の神風特別攻撃隊「第5建武隊」の[[零式艦上戦闘機]](石井兼吉二飛曹あるいは石野節雄二飛曹搭乗)]]
{{複数の問題|出典の明記=2012年1月|参照方法=2012年1月}}
[[ファイル:Chiran high school girls wave kamikaze pilot.jpg|300px|thumb|1945年4月12日、知覧陸軍飛行場より出撃する陸軍特別攻撃隊第20振武隊の[[一式戦闘機|一式戦闘機三型甲「隼」]]([[穴沢利夫]]少尉搭乗)と、それを見送る知覧町立高等女学校(現[[鹿児島県立薩南工業高等学校]])の女学生達]]
{{特殊文字}}
[[File:D4Y3 Yoshinori Yamaguchi colorized.jpg|250px|thumb|1944年11月25日、[[空母]]「[[エセックス (空母)|エセックス]]」に突入直前の第4神風特別攻撃隊「香取隊」の[[艦上爆撃機]]「[[彗星 (航空機)|彗星]]」(山口善則一飛曹・酒樹正一飛曹搭乗)。突入後アメリカ軍が回収した遺品により搭乗員が特定された例の一つ。]]
[[ファイル:Chiran high school girls wave kamikaze pilot.jpg|200px|thumb|1945年4月12日、知覧陸軍飛行場より出撃する陸軍特別攻撃隊第20振武隊の[[一式戦闘機|一式戦闘機三型甲「隼」]]([[穴沢利夫]]少尉搭乗)と、それを見送る知覧町立高等女学校(現[[鹿児島県立薩南工業高等学校]])の女学生達]]
[[File:HMS Formidable (67) on fire 1945.jpg|thumb|right|250px|1945年5月4日、[[空母]][[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]に[[零式艦上戦闘機]]が1機突入、56名が死傷し11機の艦載機が炎上]]
[[ファイル:Yokosuka D4Y3.jpg|200px|thumb|1944年11月25日、[[空母]]「[[エセックス (空母)|エセックス]]」に突入直前の第4神風特別攻撃隊「香取隊」の[[艦上爆撃機]]「[[彗星 (航空機)|彗星]]」(山口善則一飛曹・酒樹正一飛曹搭乗)。突入後アメリカ軍が回収した遺品により搭乗員が特定された例の一つ。]]
[[File:USS Lexington Impact site..jpg|thumb|right|300px|[[コーパスクリスティ (テキサス州)|コーパスクリスティ]]の[[レキシントン (CV-16)|レキシントン]]博物館。本艦が1944年11月5日に受けた特攻の説明(旭日旗の箇所に特攻機が命中)]]
[[ファイル:Kamikaze zero.jpg|thumb|right|200px|1945年4月11日、[[戦艦]]「[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]」に突入直前の神風特別攻撃隊「第5建武隊」の[[零式艦上戦闘機]](石井兼吉二飛曹あるいは石野節雄二飛曹搭乗)]]
[[ファイル:HMS Formidable (67) on fire 1945.jpg|thumb|200px|right|沖縄近海で特別攻撃隊機の攻撃を受け炎上する空母「[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]」]]
 
'''特別攻撃隊'''(とくべつこうげきたい)は、ほぼ生還の見込みがない決死の攻撃、もしくは[[戦死]]を前提とする必死の攻撃を行う[[戦術]][[部隊]]である。略称は'''特攻隊'''(とっこうたい)。'''特別攻撃'''(とくべつこうげき)とその略称の'''特攻'''(とっこう)も合わせて紹介する。
 
語源は、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の緒戦に[[大日本帝国海軍|日本海軍]]によって編成されたほぼ生還の見込みのない攻撃を行う特殊潜航艇「[[甲標的]]」の部隊に命名された「特別攻撃隊」の造語からである<ref>寺田近雄『完本 日本軍隊用語集』学習研究社117頁</ref>。[[太平洋戦争]]の末期には、[[爆弾]]や[[火薬|爆薬]]等を搭載した[[軍用機]]、[[高速艇]]、[[潜水艇]]等の各種[[兵器]]、もしくは専用の[[特攻兵器]]を使用して体当たりし自爆するといった戦死を前提とするものが中心となった。海外の例では、[[第二次世界大戦]]末期の[[ドイツ空軍 (国防軍)|独空軍]]における[[ゾンダーコマンド・エルベ]]がある。
 
転じて、軍事戦術以外でも「'''特攻'''」が戦略や事後の影響を度外視した捨て身による体当たり・自爆攻撃という意味で使われることもある。日本国外においても「''Tokko''」(トッコウ)、「''Kamikaze''」(カミカゼ)として通じている。パイロットは必ず「死ぬ・亡くなる」という必死条件の作戦だった。
17 ⟶ 16行目:
[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]は[[日露戦争]]において、[[白襷隊]]といった決死隊を臨時に編成したことはあったが、これは決して生還を期さない任務ではなく、ただ決死の覚悟で極めて困難で危険な任務を果たすというものであった。
 
第二次大戦末期に組織的な特攻が始まる以前より、自発的な自爆攻撃が現場で行われることはあった。[[1944年]](昭和19年)4月14日、[[アンダマン諸島]]へ向かう陸軍輸送船「松川丸」を護衛中の[[飛行第26戦隊]]の[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]]([[操縦者パイロット (航空)|操縦]]石川清雄[[曹長]])が、[[アメリカ海軍|米海軍]]の[[潜水艦]]が発射した[[魚雷]]3本を発見。[[機銃掃射]]しつつ魚雷目掛け海面に突入し、戦死するも爆破に成功した<ref>土井全二郎『失われた戦場の記憶』80-86頁(光人社 2000年)</ref>。1944年8月20日、[[アメリカ陸軍航空軍|米陸軍航空軍]]の[[B-29 (航空機)|B-29]][[爆撃機]]による[[八幡空襲]]において、迎撃に出た[[飛行第4戦隊]]の[[二式複座戦闘機|二式複座戦闘機「屠龍」]](操縦野辺重夫[[軍曹]]、後方射手高木伝蔵[[伍長]])が第794爆撃飛行隊の「[[ガートルードC]]号」に対し体当たり攻撃を敢行し、「ガートルードC号」は空中爆発し墜落、また破片の直撃を受けた[[僚機]]「[[カラミティ・スー]]」号も墜落している。「屠龍」は墜落し野辺・高木共に戦死するも、1機で2機のB-29を撃墜した。
 
[[1943年]](昭和18年)には現場において特攻の必要を訴える者が現われており、1943年3月初旬、[[ラバウル]]の[[飛行第11戦隊]]の上登能弘[[准尉]]は、防弾装備が整った大型の[[B-17 (航空機)|B-17]]爆撃機は[[弾丸]]を全弾命中させても撃墜できないため体当たり攻撃が必要、体当たり攻撃機を整備すべきと現地の上級部隊[[司令部]]に上申したが、陸軍中央へは届かなかった。5月上旬、同じ第11戦隊の小田忠夫軍曹はマダン沖でB-17に体当たりして戦死している。同年11月9日、ビルマで重爆撃機部隊の中隊長である西尾常三郎は、機体に500kg爆弾を装備しての組織的な体当たり攻撃を計画すべしと日記に記している例もある<ref>秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫505頁</ref>。
42 ⟶ 41行目:
万朶隊は初出撃を待つが11月5日、[[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]の命令で作戦打ち合わせに向かった隊長岩本大尉以下5名が米軍戦闘機と遭遇し戦死。富嶽隊もフィリピンに到着後、こちらも待機していたが11月7日早朝、初出撃した。しかしこの出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還。富嶽隊は13日に、隊長[[西尾常三郎]][[少佐]]以下6名が米機動部隊に突入して戦死(戦果未確認)。残った富嶽隊、万朶隊はその後順次出撃し、戦後の復員者は万朶隊の佐々木友治伍長のみであった。遠距離目標を指示されて未帰還となるなど、4航軍は焦りから無理な特攻隊運用を行っていた<!---出典:「特別攻撃隊」特別攻撃隊慰霊顕彰会 非売品--->。
 
1944年11月6日陸軍中央は新たに編成した6隊の特攻隊に「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。名前の由来は日本書紀(准南子)の「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。この6隊は第4航空軍司令官[[永恭次]]中将によって現地で行われた命名式で、八紘隊、一宇隊、靖国隊、護国隊、鉄心隊、石腸隊と改名された。その後も特攻隊は増加していったが、この命名式は終戦まで続けられた<ref>御田重宝『特攻』講談社242-243頁、戦史叢書48比島捷号陸軍航空作戦347頁</ref>。陸軍は比島での捷一号作戦だけで約210機を特攻に投入した<ref>戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 307頁</ref>。
 
==== 全軍特攻化 ====
48 ⟶ 47行目:
1944年末、陸軍航空総監部は『航空高級指揮官「と」号部隊運用の参考』の作成に着手、これは1945年4月ごろ関係部隊に配布された<ref>戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 311頁</ref>。1945年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行う<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 708-709頁</ref>。1945年1月29日陸軍中央は『「と」号部隊仮編成要領』を発令。2月6日参謀本部は特攻要員の教育を『「と」号要員学術科教育課程』の通り示達<ref>戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 307頁</ref>。2月23日、中央は[[と号部隊]]の第二次編成準備を指示。3月20日実行発令<ref>戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 311頁</ref>。
 
[[沖縄戦]]では、[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]所属の各'''[[振武隊]]'''と[[第8飛行師団 (日本軍)|第8飛行師団]]所属の各'''誠飛行隊'''が次々と編成され、出撃していった。また[[飛行第62戦隊]]の重爆撃機による特攻も行われた。このうち、6航軍[[司令官]]は菅原道大中将が務め、[[知覧町|知覧]]・[[都城市|都城]]などを基点に作戦が遂行された。また、海上から[[四式肉薄攻撃艇]](マルレ)を装備した[[陸軍海上挺進戦隊]]による水上特攻も行われた。6航軍[[参謀|航空参謀]][[倉澤清忠]]少佐によると、当時の陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の「戦闘部隊」と[[志願制|志願]]によって戦闘する「特攻部隊」に区別し、[[決号作戦]]のために航空機を温存するため、また操縦が容易な機体である[[九七式戦闘機]]などの旧式機が主に配備された<ref>[[日本放送協会|NHK]]「ETV特集」『許されなかった帰還 〜福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争〜』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育)</ref>。同作戦に参加した振武隊員1,276名のうち、機体故障などの理由によって帰投した605名は[[福岡県]]の[[振武寮]](福岡女学院女子寮)に収容され、その存在は秘匿された<ref>[[#重爆特攻]]3頁</ref>。特攻隊員の生き残りは、その後、[[本土決戦]]のための特攻要員として全国に配備された
 
終戦間際になると、東日本を統括している[[第1航空軍 (日本軍)|第1航空軍]]の指揮下で各'''神鷲隊'''が編成された。これらの隊は主に太平洋側に配備され、大戦最末期の[[1945年]](昭和20年)8月9日には第255神鷲隊([[岩手県|岩手]]より[[釜石市|釜石]]沖に出撃)が、13日には第201神鷲隊([[黒磯市|黒磯]]より[[銚子市|銚子]]沖に出撃)、第291神鷲隊([[東金市|東金]]より銚子沖に出撃)、第398神鷲隊(相模より[[下田市|下田]]沖に出撃)と3隊が出撃している。
72 ⟶ 71行目:
 
===== 航空特攻 =====
航空特攻は、前述の1943年7月ごろの[[城英一郎]]大佐による「特殊航空隊の編成に就て」が最初の具体的な提言と思われる。目的はソロモン、ニューギニア海域の敵艦船を飛行機の肉弾攻撃に依り撃滅すること、部隊構成、攻撃要領、特殊攻撃機と各艦船への攻撃法、予期効果がまとめられている。<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.322-323</ref>その後、軍令部第二部長[[黒島亀人]]の提案や1944年春に海軍省兵備局第3課長[[大石保]]から戦闘機による大型機に対する体当たり特攻が中央に要望されていたが、1944年6月[[マリアナ沖海戦]]敗北まで中央に考慮する動きはなかった<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 331-333頁</ref>マリアナ沖戦敗戦後既述した通常航空機の戦力ではもはや対抗困難という判断が各部署でなされ、特攻隊構想を考案検討の動きが活発化ており、[[城英一郎]]大佐から機動部隊長官[[小沢治三郎]]、[[連合艦隊司令部]]、[[軍令部]]に対して航空特攻採用の上申が行われる。1944年6月19日、341空司令[[岡村基春]]大佐は第二航空艦隊長官[[福留繁]]中将に「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」と意見具申した。数日後、福留は上京して、岡村の上申を軍令部次長[[伊藤整一]]中将に伝えるとともに中央における研究を進言した。伊藤は総長への本件報告と中央における研究を約束したが、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた。1944年7月11日第4航空技術研究所長[[正木博]]少将は「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」を起案し対艦船特攻の方法を研究し6つの方法を提案している。<ref>戦史叢書87陸軍航空兵器の開発・生産・補給455-456頁</ref>また、また7月[[サイパンの戦い|サイパンの失陥]]で国民からも海軍省、軍令部に対して必死必殺の兵器で皇国を護持せよという意見が増加した<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 331-333頁</ref>。
 
[[マリアナ沖海戦]]前後に[[海軍省]]の航空本部、航空技術廠で研究が進められていた偵察員[[大田正一]]少尉発案の航空特攻兵器「[[桜花 (航空機)|桜花]]」を軍令部も承認して1944年8月16日正式に桜花の試作研究が決定する<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 331-333頁、秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫512-513頁</ref>。1944年10月1日桜花の実験、錬成を行う第七二一海軍航空隊(神雷部隊)を編制。この編制ではまだ特攻部隊ではなく、普通の航空隊新設と同様の手続きで行われている<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦704頁</ref>。
[[File:Takijiro Onishi.jpg|thumb|left|250px|大西瀧治郎中将]]
 
{{main|神風特別攻撃隊}}
1944年10月5日、[[大西瀧治郎]]中将が[[第一航空艦隊]]司令長官に内定し、10月20日[[神風特別攻撃隊]]を創設。神風特攻隊は大西独自の動きであり、事前に報告はあったが、同攻撃隊の編成に海軍部が関与することはなかった<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 346頁</ref>。大西はフィリピンに出発する前に海軍省大臣[[米内光政]]に現地で特攻を行う決意を語り承認を得て<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』p.224</ref>、軍令部総長[[及川古志郎]]に対しても決意を語り、「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します。」<ref>丸『特攻の記録』光人社NF文庫13-16頁</ref>「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と及川の承認も得た。大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 705頁</ref>。また大西は発表に関する打ち合わせも行い、事前に中央は発表に関して大西からの指示を仰ぐ電文も用意し、事後に発信している<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 108-109頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 503-504、538頁</ref>{{#tag:ref|大海機密第261917番電 1944年10月13日起案,26日発信「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」発信中沢佑、起案源田実。「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」人事局主務者の意見<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 108-109頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 503-504、538頁</ref>。「神風」の名前が既にあるため大西は出発前にすでに名前も打ち合せていたとも言われる。しかし、命名者の[[猪口力平]]は19日に提案したと証言している。最初の編成命令を起案した[[門司親徳]]によれば起案日は誤記で23日ではないかと話している<ref>御田重宝『特攻』講談社32頁、神立尚紀『特攻の真意──大西瀧治郎 和平へのメッセージ』文藝春秋126-127頁</ref>。電文の起案を担当した[[源田実]]も名前はフィリピンに出張した際に大西から直接聞いたと証言している<ref>御田重宝『特攻』講談社32頁</ref>。|group="注"}}。
127 ⟶ 126行目:
特攻に反対した[[美濃部正]]は「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない。」と語っている<ref>[[渡辺洋二]]『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』[[光人社]]NF文庫p.109</ref>。
 
多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが、戦後は復興が重要と約束を破り、守ったのは大西と宇垣などわずかであったことを批判する声もある<ref>半藤一利・保阪正康・中西輝政・戸高一成・福田和也・加藤陽子『あの戦争になぜ負けたのか』(文春新書)249-250頁</ref>。また、中央から特攻の命令があったかについても論争がある<ref>『日本海軍400時間の証言 軍令部参謀たちが語った敗戦』NHKスペシャル取材班</ref>。機体故障などでやむをえず引き返生還した陸軍特攻の一部を[[振武寮]]に隔離し片っ端から「おめおめ帰っ、再教育と称しきおって!貴様たちそんなに命が惜いのか!」とリンチく罵倒したことで知られる第6航空軍参謀[[倉澤清忠]]少佐は死の直前まで拳銃と軍刀を手放せず、特攻隊員や遺族からの報復に怯えながら2003年死の床についた<ref>[[#重爆特攻]]4頁</ref>。
 
旧軍人、元特攻隊員は戦後復興・経済発展のために日本を支え、戦死者の慰霊顕彰にも尽力している。戦後息子が特攻死した指導者の寺岡謹平と特攻指導者の菅原道大特攻平和観音奉賛会を設立し、菅原道大の三男の菅原道煕は特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会理事長を務めている。
 
フランスの作家・政治家の[[アンドレ・マルロー]]は次のように述べて、特攻隊員の精神を高く賞賛した ― 「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは世界のどんな国でも真似できない神風特別攻撃隊である。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」。またマルローは内閣閣僚として日本を訪れた際、[[昭和天皇]]との会談で、特攻隊について触れ、その精神への感動を伝えている。
 
ビルマ(現:ミャンマー)独立の英雄の[[バー・モウ]]も神風特攻隊に激しく感動した一人である。タイの王室主催の晩餐会でスピーチを求められたバー・モウは、流暢な英語で特攻隊について語っているうちに涙で声が詰まり、それを聞く晩餐会出席者もまた感涙に堪えなかったという([[深田祐介]]『大東亜会議の真実』{{要ページ番号|date=2015-06-22}})。
 
フランスのジャーナリストの[[ベルナール・ミロー]]は、著書『神風』の中で、「[[散華]]した若者達の命は・・・無益であった。しかしこれら日本の[[英雄]]達はこの世界の純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた」と述べ評価している。且つ「西洋文明においてあらかじめ熟慮された計画的な死と言うものは決して思いもつかぬことであり、我々の生活信条、道徳、思想と言ったものと全く正反対のものであって西欧人にとって受け入れがたいものである」とも述べている。
 
一方で、[[フランス文学]]者、歴史学者で東京大学客員教授・[[モーリス・パンゲ]]は主著『自死の日本史』第12章において特にアメリカ人や西洋人一般にみられた嘲笑や中傷を否定し、『[[きけ わだつみのこえ]]』を基に特攻隊員が軍閥の言いなりではなく「正しいものにはたとえ敵であっても、誤りにはたとえ味方であっても反対する」という崇高な念に殉じたと彼らに称賛の意を示している<ref>パンゲ、[[竹内信夫]]訳『自死の日本死』第12章『奈落の底へ』ISBN 4062920549 {{要ページ番号|date=2015-06-28}}</ref>。
 
戦後生き残った特攻隊員は、戦中に嫌だと言える空気でなかったが戦死した隊員や遺族を思い生きていても地獄と思いながら生き、特攻を命令した陸軍参謀は、自分の命は惜しいから現に生きて[[恩給]]を貰い、特攻は本人志願と語っていた。<ref>2014年6月1日深夜[[RKB毎日放送]][[報道の魂]]「命の滴(しずく)~記録作家・[[林えいだい]]と特攻~」</ref>
144 ⟶ 143行目:
 
これに対し日本国内ではかつての米国との戦争、そして特攻は肯定的に評価しながら、現代の米国へのテロや抵抗は批判していた[[保守]]層から、「特攻はあくまでも敵兵と軍事標的のみが目的。民間人を標的とする「卑劣なテロ」とは違う」という反論が生じた。しかし、日本国外では「有志による自爆攻撃=カミカゼ」というレッテルはなお根強く、また[[米艦コール襲撃事件|ミサイル駆逐艦コールへの自爆攻撃]]等、武装組織が正規軍へなんらかの武力抵抗を行った場合の評価、そして武装組織とテロ組織の「線引き」自体が曖昧で、国際的な議論、再評価を巻き起こすには至っていない(戦時国際法では武装勢力(含むテロ組織)は正規軍に準じる存在と位置づけられ、戦闘員の身分は基本的に保証されているが、「テロとの戦い」が「戦時」に該当するか、戦時国際法が適用されるかどうか自体が曖昧である)。また正規軍の民間人に対する武力行使は戦時国際法で厳格に禁止され、罰則対象になっているが、この条項自体が事実上空文化している(代表的なところでは米軍の原爆投下や無差別絨毯爆撃、イラク戦争の掃討作戦、イスラエル軍の入植地攻撃、ロシアのアフガン、チェチェン侵攻など)ため、この辺りもテロ行為と特攻の線引きを難しくしている。さらには当の武装勢力(含むテロ組織)の[[タミル・イーラム解放のトラ]]や[[ハマス]]でも、なぜ自爆テロを行なうのかとの問いには「カミカゼ」の答えが返って来るという<ref>[http://tanakaryusaku.seesaa.net/article/125807698.html 「自爆テロ」 旧日本軍が世界に残した負の遺産―ハマス党員、スリランカのLTTE兵士にまでその名をはせる「カミカゼ」]田中龍作ジャーナルより</ref>。
 
これらの諸事情に加えて戦争体験の風化もあり、[[イラク戦争]]以降は特攻が論じられ、評価されること自体が少なくなっている。
 
== 戦法 ==
159 ⟶ 156行目:
=== 空中特攻 ===
==== 対艦船特攻 ====
最初の航空特攻隊となった神風特攻隊の目標は、[[連合艦隊]]による[[捷号作戦]]成功の為、創始者の[[大西瀧治郎]]中将の「米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」との提案通り<ref>冨永謙吾・安延多計夫『神風特攻隊―壮烈な体あたり作戦』秋田書店 p47</ref>、空母を一時的に使用不能とすることであったが、最初の特攻で大きな戦果があり、特攻の効果が期待より大きかった為に、その後日本軍の主戦術として取り入れられ、目標に敵主要艦船も加えられた。そして1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった<ref>千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社280-281頁</ref>。しかし、日本軍は過大な戦果報道とは裏腹に、特攻の命中率は現実的な評価をしており、沖縄戦の戦訓として当時の日本軍は航空特攻の予期命中率について対機動部隊に対しては9分の1、対上陸船団に対しては6分の1と判断していた<ref>戦史叢書88海軍軍戦備(2)開戦以後141-142頁</ref>。
対艦船特攻の研究は日本陸海軍で存在し、1943年7月ごろ[[城英一郎]]大佐が対艦船特攻を研究し「特殊航空隊の編成に就て」にまとめた。目的はソロモン、ニューギニア海域の敵艦船を飛行機の肉弾攻撃に依り撃滅すること、部隊構成、攻撃要領、特殊攻撃機と各艦船への攻撃法、予期効果がまとめられている<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.322-323</ref>。1944年7月11日第4航空技術研究所長[[正木博]]少将は「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」を起案し対艦船特攻の方法を研究し6つの方法を提案している<ref>戦史叢書87陸軍航空兵器の開発・生産・補給455-456頁</ref>。
 
本来であれば、航空機で艦艇に攻撃するためには、まず米軍の迎撃(護衛[[戦闘機]])隊を、次いで目標艦艇とその僚艦による対空砲火の弾幕を掻い潜らなければならない。こうした敵艦隊の防空網を突破するためには、本来なら最新鋭の機体に訓練を積んだ操縦者を乗せ、敵迎撃機を防ぐ戦闘機を含む大部隊が必要であり、さらに無事雷爆撃を成功させるためには十分な訓練による技量が必要であったが、それまでに熟練搭乗員を大量に喪失していた日本軍は、補充の搭乗員の育成が間に合わず、搭乗員の質が低下が止まらなかった。1943年1月に海軍航空隊搭乗員の平均飛行訓練時間は600時間であったが、1944年1月には500時間と100時間減少すると、1945年1月には250時間に1年で半減し、終戦時には100時間を切っていた。<ref>米国戦略爆撃調査団編纂 大谷内和夫訳『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 』光人社p129 表J</ref>
神風特攻隊の目標は、最初の隊は敵空母の使用不能を目的とし1944年10月27日には目的を達成した。しかしレイテ島付近で戦闘が続いたため目標に敵主要艦船も加えられた。そして1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった<ref>千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社280-281頁</ref>。特攻に使われた零戦はもともと空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で舵も鈍くなるため正確に突入するのは難しい<ref>神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ193</ref>。沖縄戦の戦訓として当時の日本軍は航空特攻の予期命中率について対機動部隊に対しては9分の1、対上陸船団に対しては6分の1と判断していた<ref>戦史叢書88海軍軍戦備(2)開戦以後141-142頁</ref>。
 
しかも戦争後半には、レーダーによる対空管制、優秀な新型戦闘機による迎撃、また戦闘機の迎撃を突破しても、[[近接信管]]の対空砲や多数の搭載対空機関砲よる対空弾幕が待ち構えており、[[マリアナ沖海戦]]や[[台湾沖航空戦]]の様に通常の攻撃では、米軍の艦隊に接近する事も困難になっていた。
航空特攻は、通常数機の特攻機と護衛の[[直掩機]]から編成されていた。直掩機は戦場まで特攻機を護衛し、戦場に到達した後は特攻機による突入を見届けた後、帰還して戦果の報告を行った。しかし、直掩機も特攻機とともに連合軍艦隊の防空圏に突入を行うわけであり、特攻隊とともに未帰還になる機体も少なくなかった。
 
そのような状況下で、特攻は、熟練搭乗員でなくとも実施することができる為に、積極的に推進された。また訓練についても通常の搭乗員と比較すると簡単な課程で足り、陸軍航空隊は飛行時間70時間、海軍航空隊は30時間で出撃可能と考えられ、搭乗員の大量育成が可能なのも推進された理由であった。<ref>米国戦略爆撃調査団編纂 大谷内和夫訳『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 』光人社p132</ref>
目標艦艇に突入するためには、まずアメリカ軍やイギリス軍をはじめとする連合国軍の迎撃(護衛[[戦闘機]])隊を、次いで目標艦艇とその僚艦による対空砲火の弾幕を掻い潜らなければならない。こうした敵艦隊の防空網を突破するためには、本来なら最新鋭の機体に訓練を積んだ操縦者を乗せ、敵迎撃機を防ぐ戦闘機を含む大部隊が必要であり、さらに無事雷爆撃を成功させるためには十分な訓練による技量が必要であった。しかも戦争後半には、VT信管装備の砲弾による対空射撃やレーダー管制による迎撃、優秀な新型戦闘機の投入等が大きな難関となっていった。そのため、戦果を挙げるにはその外縁に位置する哨戒用の艦艇、すなわち駆逐艦を狙わざるを得なくなった。こうした事情から、日本軍の攻撃対象は本来狙うべき正規[[航空母艦|空母]]や[[戦艦]]などの主力艦艇から、駆逐艦や[[護衛空母]]などの補助艦艇に移行していった。実際、沖縄戦で特攻機によってアメリカ軍が受けた被害は、輸送船や駆逐艦に集中している。
 
戦法としては、海軍航空隊は高度500m~2000mを突撃点とし、艦船の致命部を照準にして、角度35°~55°で急降下すると徹底された。艦船の致命部というのは空母なら前部リフト、戦闘艦なら艦橋もしくは船首から長さ1/3くらいの箇所であったが、これは艦船に甚大な損傷を与えられるだけでなく、攻撃を避けようと旋回しようとする艦船は、転心<ref group="注">船が回頭する際の軸。前進中ならば船首から船の重心までの距離の約1/3にあたる</ref>を軸にして回るため、その転心が一番動きが少ない安定した照準点とされた。<ref>「丸」編集部編集 『特攻の記録 』光人社NF文庫 P360~363 表3・表4</ref>
当初は、連合国軍の意表をついてそれなりの戦果を挙げることができた。しかし、アメリカ海軍を中心とした連合国軍は次第に特攻に対する防衛策を整えるようになった。先ずレーダーピケット艦や偵察機で出来るだけ特攻機を早く発見し、邀撃機で迎撃し、それらを通り抜け艦隊に達した特攻機に対しては、大型艦は円運動を小型艦は直線高速運動を行って、レーダーと連動した防御砲火によって、突入体勢に入る前に撃墜を容易にし、突入体制に入れても艦船への命中を難しくした。それでも防御可能射程範囲内へ突入されれば命中率は通常の攻撃よりかなり高く、硫黄島や沖縄での海軍艦艇の損害のほとんどが特攻機によるものであり米軍を悩ませた。速度超過を防止するための[[空力ブレーキ|ダイブブレーキ]]を持たない零戦のような機体は、突入直前に機体が浮き上がってしまったり、操縦不能になったり、被弾で[[フラッター現象]]等を起こし空中分解してしまうため、操縦者にはこれを抑制する技量や自制心も必要になった。また突入に成功しても機体強度と運動エネルギーが艦艇の装甲強度を上回れず、艦艇に命中しても機体ごと[[装甲]]に弾き返されることもあった。特に飛行甲板に厚い装甲を施したイギリス空母にその傾向が見られた<ref group="注">英軍の空母の被害は米軍よりもかなり少ない。</ref>。[[桜花 (航空機)|神雷部隊]](零戦の新造機を使用した「建武隊」)などの一部の部隊では、突入直前に爆弾を投下する戦術も用いられている。
 
陸軍航空隊は、奇襲と強襲の場合に分けていた。 <ref>戦史叢書『陸軍航空の軍備と運用〈3〉』p399~p400</ref>
末期には、本土決戦用に新型機や高性能機を温存させるために、本来戦闘には適さない低性能の機体、陸軍の[[九九式高等練習機|九九高練]]、[[二式高等練習機|二式高練]]、海軍の機上作業練習機「[[白菊 (航空機)|白菊]]」、複葉練習機(いわゆる「[[九三式中間練習機|赤トンボ]]」)などの[[練習機]]も特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦で特攻作戦に使用された。練習機は、ガソリンを極力温存するためにアルコールを混入した「八〇丙」と言う劣悪な燃料でも飛行可能であったのも投入理由の一つである。実戦機に比べ非力な300馬力から800馬力程度のエンジンを積み、元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していたため、極端に速度が遅く、航続距離も短い複葉機や固定脚を突き出した旧式機で編成したこれらの特攻隊は敵機の好餌であり、ほとんど戦果をあげられなかった<ref group="注">当時のアメリカ軍の戦闘機は2000馬力級、時速600-700km級。</ref>。
 
*強襲の場合
艦隊網の外部に位置し早期警戒を行う[[レーダーピケット艦]]に、「現在特攻機を追跡中」<ref group="注">「艦艇で追跡出来てしまう程に遅い」という皮肉。</ref>という打電をされたという逸話もある。だがまったく使えなかったわけでもなく、古い羽布張りの複葉機などの場合VT信管が作動しなかったり、機関砲弾が命中しても貫通するだけで炸裂しなかったり、また低速で突入艦への狙いがつけやすいこと等から、わずかながらも戦果を挙げている。[[九三式中間練習機]]による特攻は、1945年7月29日出撃の「第3龍虎隊」が駆逐艦「キャラハン」を撃沈し、30日には「キャシン・ヤング」と「プリチェット」に突入して損害を与えた。
 
高高度より敵艦に接近し、逐次降下しながら、突撃開始点までに1,200~1,500mまでに下降する。その後角度を35°~40°、初速を300km/hで急降下し、敵艦の致命部(海軍と同じ)を目指す。
「特攻では片道の燃料しか積んでいなかった」と言われることもあるが、実際は[[レーダー]]を避けるための低空飛行と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多くの燃料が積み込まれた。零戦の主任設計者である[[堀越二郎]]技師は、戦後に自著で「零戦を爆戦(戦闘爆撃型、52型以降)として運用するために胴体下に爆弾、両翼下に増加燃料タンクを振り分けたが、翼下燃料タンクの投下装置の不具合によって特攻作戦において中止帰投や未帰還となる例があった」としている。特に被害の大きかったアメリカ軍からは、「燃料が突入時の火災を大きくする効果があった」という評価もある。
 
*奇襲の場合
しかし、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、[[鹿屋市|鹿屋]]からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦や戦闘機による[[戦闘空中哨戒]](CAP)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向を変更するのが成功率を上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察や目標の位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃・撃墜され、特攻機自らが目標を索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえるために」必要とされた。ベテラン搭乗員の多くが戦死し、訓練のための燃料も機体も少なくなっていたために搭乗員の技量の低下が激しい当時、航法を誤ればあっという間に燃料をむだに消費してしまうわけで、日本側がわざわざ焼夷効果を狙って燃料を増載していた、「特攻だから片道燃料としていた」という話には疑問が出ている。一方で、陸軍第六航空軍の[[青木喬]]参謀副長が「特攻隊に帰りの燃料は必要ない」と命令していた姿も目撃されている<ref>[[#重爆特攻]]155-156頁</ref>。
 
奇襲、夜間攻撃、雲底が低い場合は、超低空水平攻撃を実施する。高度は800m~1,200mで初速は270~300km/hで加速しながら艦船の中央部を目指す。水平で体当たりするか、降下するかは、敵艦に至った時点の高度で決まる。<br>
陸軍航空隊の、特攻機搭乗員訓練カリキュラムは、重装備による薄暮の離着陸、空中集合、中隊の運動に10時間、前述の攻撃法の訓練に10時間、海上航法に6時間とされており、他に地上での訓練や講習を含めても約1ヶ月という短期間で育成されていた。 <ref>戦史叢書『陸軍航空の軍備と運用〈3〉』p400</ref><br>
 
以上の特攻戦術で、フィリピン戦ではそれまで通常航空攻撃で殆ど戦果を挙げられなかった日本軍が、特攻により多大な戦果を挙げた。その為、米海軍を中心とした連合国軍は次第に特攻に対する防衛策を講じるようになった。(詳細は後述 特攻対策の項を参照)<br>
その米軍の対策により、フィリピン戦で26.8%あった特攻の有効率は沖縄戦では14.7%に減少している。しかし日本軍も、特攻対策の中心的存在であった米軍のレーダーを欺瞞する為に、錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言う[[チャフ]])をばら撒いたり、レーダー欺瞞隊と制空部隊ら支援隊と特攻機隊が、別方向から敵艦隊に突入する「時間差攻撃」を行ったり<ref>「丸」編集部編集 『特攻の記録 』光人社NF文庫 P372</ref>敵艦隊に接近するまではレーダーを避ける為に低空飛行し、敵艦隊に接近したら上昇し、その後急降下で攻撃するという戦法などで対抗している。 <ref>冨永謙吾・安延多計夫『神風特攻隊―壮烈な体あたり作戦』秋田書店 p48</ref>
 
特攻機の攻撃隊は、偵察機と特攻機と護衛の[[直掩機]]から編成されていた。
まずは偵察機が敵艦隊まで誘導し、直掩機は戦場まで特攻機を護衛し、戦場に到達した後は特攻機による突入を見届けた後、帰還して戦果の報告を行った。
偵察機は、海軍[[彩雲 (航空機)|彩雲]]、陸軍[[一〇〇式司令部偵察機]]の高性能機が充てられたが、数が少ない上に、偵察機を操縦できる搭乗員も不足しており、十分な運用ができなかった。
また、直掩機も特攻機とともに連合軍艦隊の防空圏に突入を行うわけであり、特攻隊とともに未帰還になる機体も少なくなかった。<ref>「丸」編集部編集 『特攻の記録 』光人社NF文庫 P367</ref>
 
大戦末期には、本土決戦用に新型機や高性能機を温存させるために、本来戦闘には適さない低性能の機体、陸軍の[[九九式高等練習機|九九高練]]、[[二式高等練習機|二式高練]]、海軍の機上作業練習機「[[白菊 (航空機)|白菊]]」、複葉練習機([[九五式一型練習機]]・[[九三式中間練習機]])などの[[練習機]]も特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦で特攻作戦に使用された。練習機は、ガソリンを極力温存するためにアルコールを混入した「八〇丙」と言う劣悪な燃料でも飛行可能であったのも投入理由の一つである。実戦機に比べ非力な300馬力から800馬力程度のエンジンを積み、元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していたため、極端に速度が遅く、航続距離も短い複葉機や固定脚を突き出した旧式機で編成したこれらの特攻隊は敵機の好餌であり、戦果を挙げるのが困難であった。
 
[[File:Kyushu K11W Shiragiku.jpg|thumb|left|240px|大戦末期に特攻機として投入された練習機[[白菊 (航空機)|白菊]]、低速であったが操縦性・安定性は優秀で特攻以外の実戦任務にも投入されていた]]
 
早期警戒を行う[[レーダーピケット艦]]に、「現在特攻機を追跡中」<ref group="注">「艦艇で追跡出来てしまう程に遅い」という皮肉。実際は九三式中間練習機が爆装しても140㎞/hは出る為不可能。</ref>という打電をされたという逸話もある。しかし、古い羽布張りの複葉機などの場合VT信管が作動しなかったり、機関砲弾が命中しても貫通するだけで炸裂しなかったり、また低速で突入艦への狙いがつけやすいこと等から、戦果を挙げている部隊もある。[[九三式中間練習機]]による特攻は、1945年7月29日出撃の「第3龍虎隊」が駆逐艦「キャラハン」を撃沈し、30日には「キャシン・ヤング」と「プリチェット」に突入して損害を与えた。
また[[白菊 (航空機)|白菊]]も1945年6月21日に輸送駆逐艦[[バリー (DD-248)|バリー]] と中型揚陸艦 LSM-59の2隻を撃沈する戦果を挙げている。<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社p.187</ref>
 
しかし、アメリカ側は別の評価をしており、アメリカの著名な歴史家で、アメリカの海軍史研究の第一人者の[[サミュエル・モリソン]]は「しかし、こうした戦術(特攻)は、複葉機やヴァル([[九九式艦上爆撃機]])の様な固定脚の時代遅れの航空機でも使用できるという付随的な利点があった」と、特攻では、旧式機でも戦力になると前向きな評価をしている。<ref>サミュエル・E・モリソン『モリソンの太平洋海戦史』大谷内一夫訳 429頁</ref>
 
「特攻では片道の燃料しか積んでいなかった」と言われることもあるが、実際は[[レーダー]]を避けるための低空飛行と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多くの燃料が積み込まれた。零戦の主任設計者である[[堀越二郎]]技師は、戦後に自著で「零戦を爆戦(戦闘爆撃型、52型以降)として運用するために胴体下に爆弾、両翼下に増加燃料タンクを振り分けたが、翼下燃料タンクの投下装置の不具合によって特攻作戦において中止帰投や未帰還となる例があった」としている。特に被害の大きかった米軍からは、「航空燃料が突入時の火災を大きくする効果があった」という評価もある。
 
しかし、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、[[鹿屋市|鹿屋]]からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦や戦闘機による[[戦闘空中哨戒]](CAP)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向を変更するのが成功率を上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察や目標の位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃・撃墜され、特攻機自らが目標を索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえるために」必要とされた。また、日本側がわざわざ焼夷効果を狙って燃料を増載していていたという証言もあり、「特攻だから片道燃料としていた」という話には疑問が出ている。一方で、陸軍第六航空軍の[[青木喬]]参謀副長が「特攻隊に帰りの燃料は必要ない」と命令していた姿も目撃されている<ref>[[#重爆特攻]]155-156頁</ref>。
 
特攻隊員たちが憂いなく出発できるように、出撃機には可能な限りの整備がなされたとも言われるが、現実問題として日本の工業生産力はすでに限界に達しており、航空機の品質管理が十分ではなかった<ref group="注">工場生産における品質管理の思想が日本に入るのは戦後の[[朝鮮特需]]の時であり、この当時は量産品に関しては生産量優先で品質は全く考慮されていない。例としては[[層流翼]]を採用した[[紫電改|紫電]]の完成機は、工作不良による左右の主翼揚力や主翼取付け角の不均衡により真っ直ぐ飛ばない機体の方が多かったと言われる</ref>ことや、代替部品の欠乏による不完全な整備から、特攻機の機体不調による帰投は珍しいことではなかった。
192 ⟶ 213行目:
こう言った戦死が相次ぐ一方で、2回体当たりして2回とも生き残り、遂には沖縄艦船特攻で戦死した飛行第244戦隊の四之宮徹中尉や、同じくB-29に2回体当たりを敢行して生還した中野松美伍長<ref group="注">うち1回は、1機のB-29の水平尾翼を自機のプロペラでかじり取った後、そのまま、そのB-29の背面に馬乗りになった状態で飛行し、そのB-29が失速して高度を下げ始めた直後に、体当たり時に損傷を受けた機体を巧みに操縦して東京郊外の農地に不時着した。終戦時は軍曹。現在も健在</ref>のような例もあり、搭乗員は落下傘降下やもしくは損傷した機体で生還出来る可能性があったため、対艦船特攻のように100%死を覚悟しなければならないものではなかったが、死亡率は極めて高く、やはり特攻であることに変わりは無かった。
 
なお、これらの特攻は衆人環視の中で行なわれたものであったため、戦果の翌日は写真付で新聞紙面を飾ることが少なくなかった(参照:[[震天制空隊]]、[[飛行第244戦隊]])。実際、衆人環視の中で落下傘が開かず墜死する操縦者を見たという証言は多く、そのうち何人かは宮城([[皇居]])に向かって[[敬礼]]しつつ墜ちていったと伝えられている
 
海軍では、組織的な空対空特攻は、[[第二二一海軍航空隊|221空]]が1944年12月に[[ルソン島]]で[[B-24 (航空機)|B-24爆撃機]]迎撃のために編成した「金鵄隊」と、訓練のみで終わった「天雷特別攻撃隊」にとどまった。金鵄隊は250kg爆弾で爆装した零戦6機で編成されたが、3度の出撃で体当りに成功しないまま3機未帰還となり、残機は対艦特攻任務へと切り替えられた<ref>渡辺洋二 「特攻隊、海軍にただ一つ」『重い飛行機雲―太平洋戦争日本空軍秘話』 文藝春秋〈文春文庫〉、1999年、119頁以下。</ref>。海軍でも自発的な空対空特攻は相次いだ。陸軍空対空特攻隊の初出撃に先駆けること3日前の昭和19年11月21日、第三五二海軍352空所属の坂本幹彦中尉が零戦で迎撃戦闘中、北九州上空でB-29に体当たりして撃墜、戦死している。
 
だが、一部では1機で2機を体当たり撃墜したような戦果もあったものの、全体的に見ると重防御を誇るB-29は2機の体当たりを受けても生還出来た機体があったように、総合的な戦果はあまり芳しくなかった。B-29の日本本土爆撃において1回の攻撃あたりの最大の損失率は15.9%、平均1.38%であったと言われる。機数での数字としては延べ約33,000機の出撃に対し戦闘での喪失機数は450機であった。勿論この数字は特攻だけでなく、昼間戦闘機、夜間戦闘機、高射砲の戦果も含んだ数であり、対敵飛行機特攻のみの戦果はかなり低くなる。そして昭和19年6月15日の北九州初空襲以来、終戦までにB-29によって本土に落とされた爆弾は14万7,000トン<ref group="注">単純に全てをTNT火薬だとすると広島型原爆約10発分の威力</ref>にのぼると言われている。)
 
結局こうした苦心の策も、硫黄島を占領され、B-29が[[P-51 (航空機)|P-51]]を初めとする優秀な最新鋭戦闘機を護衛に引き連れてくるようになると、組織的な空対空特攻隊の編成は下火となっていった。また空母艦載機群が本土空襲を始め、日本本土の各航空基地に来襲するようになると、地上撃破されていった。しかし、そのような状況の中でもわずかながら戦果を挙げている<ref name="ta">一例として、1945年5月29日[[飛行第5戦隊 (日本軍)|飛行第5戦隊]]が[[静岡県]][[榛原町 (静岡県)|榛原町]]上空にて[[横浜市|横浜]]へ爆撃([[横浜大空襲]])に向かう[[B29]]B-29の大編隊に対して[[屠龍]]にて体当たり攻撃を行い、1機撃墜し[[散華#戦死を指す散華|散華]]した河田清治少尉がいる(参考資料:[http://comrade.at.webry.info/200505/article_12.html]・[http://web.archive.org/web/20060517234951/http://www.onebyone.co.jp/tenseiji5/raibura/honbun01/honbun010811.html ]([[インターネット・アーカイブ]])・『内なる祖国へ』ISBN 978-4-562-03873-2){{要ページ番号|date=2015-06-28}}</ref>。
 
==== 空挺特攻 ====
生還が極めて困難な[[エアボーン]]方式の[[コマンド部隊|コマンド作戦]]が行われた例があり、特別攻撃隊として評価されることがある。いずれも敵飛行場に航空機を用いて強行着陸し、地上部隊を突入させるものであった。最初の実行例は、[[レイテ島の戦い]]で[[高砂義勇隊|高砂義勇兵]]によって編成された「薫空挺隊」を輸送機で強行着陸させようとした「[[義号作戦#薫空挺隊|義号作戦]]」である。同じレイテ戦では、正規空挺部隊である[[挺進連隊|挺進部隊]]の大規模空挺作戦の「[[テ号作戦]]」でも、一部が海岸地帯の生還困難な飛行場へ強行着陸を試みている。[[沖縄戦]]でも一時的に飛行場を制圧して対艦特攻を間接支援する目的で、挺進連隊の一部が「義烈空挺隊」として強行着陸を行っており、これも「[[義号作戦]]」と呼称している。沖縄戦中の1945年5月24日に12機の[[九七式重爆撃機]]に分乗した136名の義烈空挺隊が沖縄の読谷と嘉手納の飛行場に攻撃を謀ったが、激しい対空射撃で強行着陸できたのは読谷飛行場の1機のみであった。しかし搭乗していたわずか12名の空挺隊員は戦闘機3機・爆撃機2機・輸送機3機を完全撃破、他22機にも損害を与え、約70,000ガロンの航空燃料を焼き払い、海兵隊に22名の死傷者を出させた後に全滅した。同飛行場は丸一日使用不能に陥っている<ref>『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 』米国戦略爆撃調査団編集 大谷内和夫訳p.159</ref>このほか、マリアナ諸島の飛行場および原爆貯蔵施設を標的とした[[剣号作戦]]が計画されたが、終戦で実行に至らなかった。
 
=== 水中特攻/水上特攻 ===
211 ⟶ 232行目:
 
=== 陸上特攻 ===
[[日中戦争]]以降、日本末期に陸軍では[[九七式中戦車]]に対戦車地雷を取り付けて敵戦車に体当たりする戦法や、歩兵が爆弾を抱えて敵戦車に体当たりする戦法が行われることが多数あった。
 
対戦車特攻で有名なのはフィリピン、[[バギオ]]近郊イリサンでの丹羽戦車部隊による[[M4中戦車]]に対する戦車特攻である。1945年4月12日、軍司令部の置かれていたバギオに対して侵攻してきたアメリカ陸軍に対して、[[第14方面軍 (日本軍)|第14方面軍]][[軍司令官|司令官]][[山下奉文]]大将は司令部直轄戦車隊であった[[戦車第10連隊]]第5中隊に対して決死特攻隊の編成を命じ、アメリカ陸軍戦車部隊の侵攻阻止を厳命した。
 
この命を受け、丹羽治一准尉以下11名が[[九五式軽戦車]]、[[九七式中戦車]]1両の戦車前方に先端に20kgの爆薬を取り付けた長さ1mの突出し棒を取付け、体当り特攻を仕掛けることとなった。17日午前9時、イリサン橋西北200mの曲がり角に差し掛かったアメリカ陸軍のM4中戦車に対して丹羽戦車隊が奇襲。不意の出現に慌てたアメリカ陸軍の先頭戦車は操縦を誤り50mの崖下に転落。さらに丹羽戦車隊の2両が後続車に体当りを仕掛け、双方の戦車4両が大破、炎上した。狭隘な道であったためにこれらの残骸の除去は難航。アメリカ陸軍は約1週間の足止めを受け、その間にバギオの司令部は整然と撤退したのである。日本の公刊戦史ではこれを「戦車の頭突き」と称している。
 
[[File:Attack on bloody ridge.jpg|thumb|right|200px|沖縄戦の激戦地[[嘉数の戦い]]で、日本軍の速射砲と肉弾攻撃で撃破された[[M4中戦車]]。沖縄戦全体で225両の米軍戦車が撃破された]]
このような戦法を採らざるを得なかったのは、陸軍に対戦車火器が不足していたからである。砲や砲弾の製造技術が低かったこと、成形炸薬弾や携行射出装置(他国ではアメリカの[[バズーカ]]やドイツの[[パンツァーファウスト]]、イギリスの[[PIAT]]として大戦中に使用)への注目の遅れ、全体的な生産力や先見性の欠如などから対戦車火器の欠乏は絶望的であり、歩兵がM4や[[T-34]]などの連合軍戦車を正面から撃破することはほぼ不可能だった(これは、民間人に対し、竹槍を用いた白兵ゲリラ戦訓練が強制されていたことからも窺える)。火力の不足は血で贖われ、効果の薄い挺身肉薄攻撃で多くの将兵が命を落とした。追い詰められた日本軍はさらに生還の可能性が無い自殺攻撃に手を染めるようになる。[[沖縄戦]]では本来軍が守るべき民間人(学生)を現地徴用した[[鉄血勤皇隊]]に地雷や爆薬を抱えて戦車に体当たりする戦法を行わせることまでしている。
このような戦法を採らざるを得なかったのは、陸軍に対戦車火器が不足していたからである。歩兵携帯の対戦車装備(他国ではアメリカの[[バズーカ]]やドイツの[[パンツァーファウスト]]、イギリスの[[PIAT]]として大戦中に使用)の開発の遅れや、戦車開発技術の劣後により、日本軍の対戦車戦闘は[[速射砲]]や[[野砲]]が中心であり、相応の効果を挙げたものの数が絶対的に不足していた。([[一式機動四十七粍速射砲|一式機動四十七粍砲]]や[[九〇式野砲]]を多数装備していた沖縄の第32軍は、多数の[[M4中戦車]]を撃破している<ref>[http://www.history.army.mil/books/wwii/okinawa/"UNITED STATES ARMY IN WORLD WAR II The War in the Pacific OKINAWA:THE LAST BATTLE"]</ref>)
<p> 対戦車火器の不足を補う為に、様々な形式の対戦車挺身肉弾攻撃が行われている。一番多く行われた肉弾攻撃は、[[九九式破甲爆雷]]を戦車の装甲板に吸着し爆発させる攻撃で、当初は効果があったが、米軍が戦車同士の連携を強化したり、随伴歩兵が接近してくる肉弾兵を警戒したり、装甲板にコンクリートなどを塗布して磁石を無効にする対策を取った結果、効果が大きく減じられ損害が増大する事となった。それでも[[沖縄戦]]の激戦地となった嘉数高地やシュガーローフの戦いでは同爆雷などの肉弾攻撃に撃破されるM4中戦車も多かった。<ref>[ジェームス・H. ハラス著 『沖縄シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間』光人社NF文庫]</ref>但し吸着地雷自体は日本軍のみが運用したものでなく、ドイツ軍も同様の攻撃を大戦末期[[パンツァーファウスト]]の運用が軌道にのるまで広く行っていた。また同様の攻撃の防止の為[[ツィンメリット・コーティング]]を自軍の戦車の装甲板に施している。</p>
また[[刺突爆雷]]といって円錐状の成形炸薬弾頭を棒の先に取り付け、敵の戦車を文字通り刺突し爆発させるという兵器も開発して、実際に運用している。
他にも、日本軍は大量の爆薬を背負って戦車に突撃をしたり、砲弾や地雷を背負って戦車の下部に潜り込む様な肉弾攻撃も行ったが、効果はそう上がらなかった。沖縄戦ではこのような対戦車肉弾攻撃を、学生を現地徴用した[[鉄血勤皇隊]]にまで行わせている。
 
[[満州国]]に展開していた関東軍では、ソ連軍の侵攻に備えて肉攻(特攻)班が編制された。これは国境線上に掘った蛸壺に隠れた2人1組の兵士が2人がかりで[[野砲]]の15センチ榴弾を抱え、先端の信管をソ連軍戦車にぶつけて破壊しようという戦法であった。実際に戦果がどの程度あったかは不明である。
 
=== 特攻部隊一覧兵器 ===
※沖縄戦出撃機数及び未帰還機数(海軍のみ)は[[戦史叢書]]『沖縄方面海軍作戦』付表「沖縄方面特別攻撃隊一覧表」より
出撃ごとに編成される特攻隊の総称。もしくは出撃ごとに特攻隊を編成するために特攻要員で編成された部隊。
 
'''海軍'''
;決死隊
; 戦闘機
*特別攻撃隊([[甲標的]])
* [[零式艦上戦闘機]]   沖縄戦特攻出撃延機数 602機 内未帰還 320機
 
; 爆撃機・攻撃機
;航空特攻
* [[九六式艦上爆撃機]]  沖縄戦特攻出撃延機数 12機 内未帰還 10機
*[[神風特別攻撃隊]](海軍)
* [[九九式艦上爆撃機]]  沖縄戦特攻出撃延機数 135機 内未帰還 105機
*[[八紘飛行隊]](陸軍)
* [[彗星 (航空機)|艦上爆撃機「彗星」]] 沖縄戦特攻出撃延機数 251機 内未帰還 140機
*[[神雷部隊]]([[桜花]]装備)
* [[九七式艦上攻撃機]]  沖縄戦特攻出撃延機数 95機 内未帰還 73機
*[[震天制空隊]](陸軍)
* [[流星 (航空機)|艦上攻撃機「流星」]] 沖縄戦特攻出撃延機数 21機 内未帰還 13機
*[[天雷特別攻撃隊]](海軍)
* [[天山 (艦上攻撃機)|艦上攻撃機「天山」]] 沖縄戦特攻出撃延機数 39機 内未帰還 28機
*[[ゾンダーコマンド・エルベ|エルベ特別攻撃隊]](ドイツ)
* [[一式陸上攻撃機|陸上攻撃機「一式陸上攻撃機」]] 沖縄戦特攻出撃延機数 78機 内未帰還 51機(桜花母機としての出撃)
* [[銀河 (航空機)|陸上爆撃機「銀河」]] 沖縄戦特攻出撃延機数 155機 内未帰還 78機
 
; 練習機
;水中・水上特攻
* [[白菊 (航空機)|白菊]] 沖縄戦特攻出撃延機数 115機 内未帰還 56機
*[[陸軍海上挺進戦隊]](マルレ装備)
* [[九三式中間練習機]] 沖縄戦特攻出撃延機数 11機 内未帰還 7機
*[[震洋]]隊([[震洋]]装備)
*[[回天]]特別攻撃隊([[回天]]装備)
*[[海上特攻隊]](戦艦)
 
; 偵察機
=== 特攻兵器 ===
* [[零式水上偵察機]] 沖縄戦特攻出撃延機数 水偵合計 75機 内未帰還 39機
{{main2|詳細は[[特攻兵器]]}}
* [[零式水上観測機]]
* [[九四式水上偵察機]]
 
; [[特殊潜航艇]]
; 戦闘機機
* [[甲標的]]
* 海軍機
** [[零式蛟竜 (潜水上戦闘機)|蛟龍]]
 
* 陸軍機
; 特攻専用兵器
** [[九七式戦闘機]](終戦直後の[[満州]]において、侵攻してきていたソビエト軍の機甲部隊に突入・自爆した「[[神州不滅特別攻撃隊]]」も、同機を使用した)
* [[回天]]
** [[一式戦闘機|一式戦「隼」]]
* [[震洋]]
** [[二式複座戦闘機|二式複座戦闘機「屠龍」]]
* [[海龍 (潜水艇)|海竜]]
** [[三式戦闘機|三式戦闘機「飛燕」]]
** [[四式戦闘桜花 (航空)|四式戦「疾風」桜花]]
など。
 
 
; 爆撃機・攻撃機
'''陸軍'''
* [[九九式双発軽爆撃機]]
; 戦闘機
* [[九七式戦闘機]](終戦直後の[[満州]]において、侵攻してきていたソビエト軍の機甲部隊に突入・自爆した「[[神州不滅特別攻撃隊]]」も、同機を使用した)
* [[一式戦闘機|一式戦「隼」]]
* [[二式複座戦闘機|二式複座戦闘機「屠龍」]]
* [[三式戦闘機|三式戦闘機「飛燕」]]
* [[四式戦闘機|四式戦「疾風」]]
 
; 爆撃機・襲撃機
* [[九九式双発軽爆撃機|九九式双軽爆撃機]]
* [[九九式襲撃機]]
* [[九九艦上爆撃機|四式重爆撃機「飛龍」]]
* [[彗星 (航空機)|艦上爆撃機「彗星」]]
* [[九七式艦上攻撃機]]
* [[流星 (航空機)|艦上攻撃機「流星」]]
* [[天山 (艦上攻撃機)|艦上攻撃機「天山」]]<ref group="注">「彗星」や「銀河」などと比較すると、特攻に投入された機体は極めて少数であった。</ref>
* [[銀河 (航空機)|陸上爆撃機「銀河」]]
 
; 練習機
* [[九九式高等練習機]]
* [[二式高等練習機]]
* [[白菊 (航空機)|白菊]]
* [[九三式中間練習機]]
など。
 
; 偵察機
; 特攻専用兵器
* [[九八式直協機|九八式直協偵察機]]
* [[回天]]
* [[一〇〇式司令部偵察機]]
* [[震洋]]
 
* [[マルレ]]
; 特攻専用機
* [[海龍 (潜水艇)|海竜]]
* [[蛟竜 (潜水艦)|蛟龍]]
* [[桜花 (航空機)|桜花]]
* [[剣 (航空機)|剣]]
* [[四式重爆撃機|四式重爆撃機「飛龍」桜弾機(キ167)]]
 
; 攻撃艇
; その他の機体
* [[四式肉薄攻撃艇|四式肉薄攻撃艇(マルレ)]]
* [[百式司令部偵察機]]
* [[九八式直協機]]
* [[零式水上偵察機]]
* [[零式水上観測機]]
* [[九四式水上偵察機]]
など。
 
 
末期は数を揃えるために様々な機体が特攻用に爆弾装備可能に改修され実戦に投入された。
陸海軍問わず太平洋戦争末期は、数を揃えるために様々な機体が爆弾装備可能に改修され、特攻に投入された。
 
== 効果 ==
[[ファイル:USS Bunker Hill burning.jpg|thumb|right|200px|1945年5月11日、2機の特攻機に攻撃された空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]]]
=== 影響 ===
1946年に提出された米国戦略爆撃調査団の報告書は、日本側に十分な航空機があり、それによる一斉特攻があった場合、米軍側が想定していた許容範囲を超える損害が出た可能性はある、と指摘している<ref>同上</ref>。報告書によれば、沖縄戦時の特攻による奏功率は18.6%となっている(この数値は史料ごとに異なっており、山本親雄『大本営海軍部 (文庫版航空戦史シリーズ (21))』によると、沖縄戦時の特攻による奏功率13.4%、命中率6.8%となっている)<ref>同上</ref>。この命中率は、日中戦争勃発時における日本海軍の艦爆隊の命中率60~70%、インド洋海戦時の急降下爆撃命中率80~90%と比べると<ref>[http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln10/2003cl/Suisei.html "古典航空機電脳博物館"]</ref>、著しく低いが、大戦末期にはパイロットの練度が低下していたため、「彼ら[=日本側]が所有する唯一の資産は、パイロットの自決意思」(The one and only asset which they still possessed was the willingness of their pilots to meet certain death.)であり<ref>[http://www.anesi.com/ussbs01.htm "United States Strategic Bombing Survey Summary Report (Pacific War)"], Washington, 1 July 1946</ref>、日本の航空戦力が既に壊滅していたことを意味している。
 
=== 有効率 ===
アメリカでは特別攻撃隊の報道はアメリカ軍兵士の戦意喪失を招き、銃後の家族に不安を与えるとして規制され、後に一括して報道された。神風特攻隊を受けたアメリカ軍はパニックで神風ノイローゼに陥るものもいた。健康検査では戦闘を行える健常者が30%まで落ちた艦もあった<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p.225</ref>。
1946年に提出された米国戦略爆撃調査団の報告書は特攻への総括として'''''「日本が(特攻で)より大きな打撃力で集中的な攻撃を持続し得たなら、我々の戦略計画を撤回若しくは変更させ得たかもしれない」'''''と指摘している<ref>[http://www.anesi.com/ussbs01.htm "United States Strategic Bombing Survey Summary Report (Pacific War)"], Washington, 1 July 1946</ref>。<br>
 
報告書によれば、特攻による有効率は下表のとおりである。<br>
米資料には、フィリピンであと100機の特攻があれば、日本上陸侵攻は何か月も遅れただろうと残っている。1945年7月2日スチムソン陸軍長官は、日本上陸計画を準備しているが、特攻が激しくなっており、この調子では日本上陸後も抵抗にあい、アメリカに数百万人の被害が出ると話し、天皇制くらい認めて降伏勧告をすべきと大統領に意見した。大統領付幕僚レーヒ提督は、無条件降伏に固執せず、被害を大きくするべきではないと意見した<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p.225</ref>。
 
'''特攻作戦有効率([[米国戦略爆撃調査団]]統計 USSBS Report 62, Japanese Air Power)'''<ref>[http://ja.scribd.com/doc/60048408/USSBS-Report-62-Japanese-Air-Power-OCR"USSBS Report 62, Japanese Air Power p76"]</ref>
=== 戦果 ===
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
1945年1月25日までのフィリピンでの航空特攻で米軍が公式に認めている艦船の損害は、空母(護衛空母含む)撃沈2、被撃18、戦艦 被撃5、巡洋艦 被撃8、駆逐艦 撃沈3、被撃22、上陸用舟艇 撃沈14、計撃沈19、被撃53である。ただし、これらの損害に米海軍所属外の艦船の被害は含まれていない。
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:18%;"|
! style="width:18%;"|フィリピン戦
! style="width:18%;"|沖縄戦
! style="width:18%;"|合計
|- sytle="border:1px solid #000000;"
| 特攻機損失数 || 650機 || 1,900機 || 2,550機
|-
| 命中もしくは有効至近命中<ref group="注">有効至近命中は米軍艦艇に損傷を与えたもののみ計上</ref> || 174機 || 279機 || 475機<ref group="注">合計が合わないが原資料のまま</ref>
|-
| 有効率 || 26.8% || 14.7% || 18.6%
|-
|}
この特攻有効率は、[[真珠湾攻撃]]58.5%、インド洋作戦時率88~89%、[[珊瑚海海戦]]53%の急降下爆撃命中率<ref>小沢郁郎「特攻隊論 つらい真実」 たいまつ社 P89~P90</ref> と単純に比較し、著しく低いと恣意的な誘導をされる場合も多いが<ref>[http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data2.html"毎日新聞 数字は証言する太平洋戦争-2回-神風は吹いたのか?"]</ref>、これは攻撃目標に達し、実際に爆撃した急降下爆撃機による爆撃の命中率であって(例、インド洋海戦時の空母[[ハーミーズ (空母・初代)|ハーミーズ]]への命中弾37発/[[ハーミーズ (空母・初代)|ハーミーズ]]を攻撃した[[九九式艦上爆撃機]]45機=82%)、特攻機損失機数と有効攻撃数の比率から算出された上記の特攻の有効率(命中及び有効至近命中475機/特攻機総損失数2,550機=18.6%)とは分母が違う、全く異なる確率であり、単純に比較はできない事を注意すべきである。<ref group="注">インド洋作戦での急降下爆撃では、2隻の重巡に合計45発、[[ハーミーズ (空母・初代)|ハーミーズ]]37発で合計82発の命中に対し、[[九九式艦上爆撃機]]の損失10機であり、特攻と同じ算式で有効率を計算すると、82発/10機=820%という比較不可能な有効率になる</ref>。 <br>
また、上記に挙げた命中率は、日本軍側の資料によるもので、米軍側の被害資料と異なっている。<ref group="注">珊瑚海海戦で日本側の戦闘詳報では2空母に急降下爆撃18発、魚雷12発命中としているが、実際の命中は[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]に爆弾2発魚雷2発、[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]に爆弾1発と乖離があった。</ref>。 <br>
 
'''日米主要海戦での、艦爆・艦攻による攻撃命中率・有効率''' <ref group="注">命中は米軍側の記録に基づく、命中率は艦爆の総出撃数と命中の比率、有効率は特攻の有効率の算式と同じ、総損失数と命中の比率</ref><ref group="注"> 機動部隊主力攻撃時のみを表示(珊瑚海海戦でのタンカーネオショー撃沈時などの補助艦攻撃時は除外)</ref><ref group="注">特攻機は全て艦爆に計上</ref>
 
※参考書籍<ref>『戦史叢書』各巻</ref> <ref>サミュエル・E・モリソン『モリソンの太平洋海戦史』大谷内一夫訳</ref>
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:25%;"|
! style="width:10%;"|艦爆出撃機
! style="width:10%;"|艦爆損失数
! style="width:10%;"|艦攻出撃機
! style="width:10%;"|艦攻損失数
! style="width:15%;"|命中弾
! style="width:10%;"|命中率
! style="width:10%;"|有効率
|- sytle="border:1px solid #000000;"
| [[珊瑚海海戦]] || 33機 || 14機 || 18機 || 9機 || 爆弾5発 魚雷2本 || 13.7% || 30.4%
|-
| [[ミッドウェー海戦]] || 18機 || 13機 || 10機 || 5機 || 爆弾3発 魚雷2本 || 17.9% || 27.8%
|-
| [[第二次ソロモン海戦]] || 54機<ref group="注">この内第二次攻撃隊27機は接敵できず(5機不時着水)</ref> || 23機 || - || - || 爆弾3発 || 5.6% || 13.0%
|-
| [[南太平洋海戦]] || 62機 || 39機 || 49機 || 12機 ||爆弾9発<ref group="注">内1発は艦攻の水平爆撃</ref>魚雷3発 || 10.8% || 23.5%
|-
| [[マリアナ沖海戦]] || 167機<ref group="注">戦闘爆撃機の零戦を含む</ref> || 102機 || 50機 || 30機 || 爆弾1発<ref group="注">他3発の至近弾と1機の体当りあり</ref> || 0.6% || 0.9%
|-
| '''通常攻撃合計''' || '''334機''' || '''191機''' || '''127機''' || '''56機''' || '''爆弾21発 魚雷7本''' || '''6.1%''' || '''11.3%'''
|-
| 第一回神風特攻隊(フィリピン1944年10月25日) || 18機<ref group="注">この内若桜隊4機は接敵できず帰投(1機未帰還)</ref> || 13機 || - || - || 7機 || 38.9 % || 53.8%
|-
| 神風特攻第二御盾隊(硫黄島1945年2月21日) || 32機 || 32機 || - || - || 11機 || 34.4% || 34.4%
|-
| [[菊水作戦]]一号作戦(沖縄1945年4月6~日7日) || 464機<ref group="注">特攻機のみ</ref> || 356機 || - || - || 46機 || 9.9% || 12.9%
|}
 
日米機動部隊が激突した海戦では、真珠湾攻撃やインド洋作戦時点の英海軍相手のように、一方的に爆撃できる状況では無かったため、敵艦を攻撃前に失われる艦爆も多く、日米の戦力が拮抗していた時期ですら、出撃機数から計算した命中率や有効率は、特攻の平均有効率と大きな差はない。<br>
大戦期間中、米艦隊の対空能力は驚異的な進化を遂げており、大量の迎撃戦闘機や護衛艦の激しい対空射撃で、日本軍機は攻撃はおろか艦隊に近づくのすら次第に困難になっていき、特攻が開始された時期となる太平洋戦争後半の日本軍航空機による通常攻撃の有効率は、[[マリアナ沖海戦]]や[[台湾沖航空戦]]の例を見ても判る通り著しく下がっていた。
 
米軍は大戦末期となるフィリピン戦から沖縄戦の日本軍による、航空特攻攻撃と航空通常攻撃の比較をしている。<ref>[http://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/a/anti-suicide-action-summary.html "Anti-Suicide Action Summary"UNITED STATES FLEET HEADQUARTERS OF THE COMMANDER IN CHIEF NAVY DEPARTMENT WASHINGTON 25, D. C. 31 August 1945]</ref>
 
'''1944年10月~1945年4月(沖縄戦初期)米艦の対空装備の射程内に入った特攻機と通常攻撃機の有効攻撃数(U.S.NAVY Anti-Suicide Action Summary Table I)'''
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:15%;"|
! style="width:18%;"|フィリピン戦(1944年10月~45年1月)
! style="width:18%;"|硫黄島戦・沖縄戦初期(1945年2月~4月)
! style="width:18%;"|1945年4月までの合計
|- sytle="border:1px solid #000000;"
| 日本軍機合計 || 1,616機 || 1,320機 || 2,936機
|-
| 特攻機 || 376機 || 408機 || 784機
|-
| 通常攻撃機 || 1,240機 || 912機 || 2,152機
|-
| 特攻機命中 || 120機(命中率31.9%) || 96機(命中率23.5%) || 216機(命中率27.6%)
|-
| 通常攻撃命中 || 41機(命中率3.3%) || 17機(命中率1.9%) || 58機(命中率2.7%)
|}
攻撃機数は特攻が約1/3の機数であるが、攻撃命中数は約4倍であり、命中率は10倍であった。
 
'''1944年10月~1945年6月(沖縄戦末期)特攻機と通常攻撃機の有効性の比較(U.S.NAVY Anti-Suicide Action Summary Table VI)'''
 
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:10%;"|
! style="width:10%;"|特攻機
! style="width:10%;"|通常攻撃機
|- sytle="border:1px solid #000000;"
| 命中までの平均攻撃回数 || 3.6回 || 37回
|-
| 命中率 || 27% || 2.7%
|-
| 命中までの平均損失数 || 3.6機 || 6.1機
|}
特攻の方が、命中までに要する攻撃回数1/10、命中率10倍、命中を与えるまでの損失機数は約半分と、攻撃の有効性は圧倒的に上回っていた。
 
'''1945年2月14日から菊水10号作戦(6月22日)までの、日本海軍航空隊の出撃機数'''<ref>戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」P690</ref>
 
※機数は延べ機数
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:15%;"|出撃基地
! style="width:18%;"|攻撃機
! style="width:18%;"|哨戒偵察機
! style="width:18%;"|制空直援機
! style="width:18%;"|合計
|- sytle="border:1px solid #000000;"
| 九州基地より出撃 || 3,167機 || 919機 || 3,004機 || 7,095機
|-
| 台湾基地から出撃 || 580機 || 94機 || 109機 || 783機
|-
| 通常作戦機合計 || 3,747機 || 1,013機 || 3,113機 || 7,878機
|-
| 特攻機合計 || || || || 1,868機
|}
[[ファイル:USS Bunker Hill burning.jpg|thumb|right|250px|1945年5月11日、2機の特攻機に攻撃された空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]、特攻単独では最多となる戦死者402名、負傷者264名の甚大な損害を受けた]]
意外ではあるが、日本側の資料でも、前表の米軍統計通り、日本軍が全軍特攻を打ち出した硫黄島戦以降も、特攻機よりは通常攻撃機の出撃機数が多かったが、攻撃の有効性は、通常攻撃機の約半数であった特攻機の方が遥かに高かった。<br>
 
特攻攻撃が通常攻撃より有効であった理由として、米軍は特攻を'''「自爆攻撃(特攻)は、米艦隊が直面したもっとも困難な対空問題」'''指摘した上で下記の様に分析していた。<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/rep/Kamikaze/AAA-Summary/AAA-Summary-1.html"ANTIAIRCRAFT ACTION SUMMARY SUICIDE ATTACKS 1945 april"]</ref><br>
 
* 従来の対空戦術は特攻機に対しては効力がない
 
* 特攻機は撃墜されるか、操縦不能に陥るほどの損傷を受けない限りは、目標を確実に攻撃する
 
* 目標となった艦船の回避行動の有無に関わらず、損傷を受けていない特攻機はどんな大きさの艦船にでも100%命中できるチャンスがある
 
台湾沖で、神風特攻新高隊の零戦2機の特攻攻撃を受け大破炎上、144名戦死203名負傷の甚大な損害を被り、自らも重傷を負った空母[[タイコンデロガ (空母)|タイコンデロガ]]のディクシー・キーファー艦長は、療養中にアマリロ・デイリー・ニュースの取材に対して「日本のカミカゼは、通常の急降下爆撃や水平爆撃より4~5倍高い確率で命中している。」と答えている。<ref>Amarillo Daily News Friday, July 20, 1945 Page 15</ref>また、「通常攻撃機からの爆撃を回避するように操舵するのは難しくないが、舵を取りながら接近してくる特攻機から回避するように操舵するのは不可能である。」とも述べている。<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風上巻』時事通信社p.338</ref>また英国の著名な戦史作家バリー・ピッドも「日本軍の特攻攻撃がいかに効果的であったかと言えば、沖縄戦中1900機の特攻機の攻撃で実に14.7%が有効だったと判定されているのである。これはあらゆる戦闘と比較しても驚くべき効率であると言えよう。」との評価をしている<ref>『世界が語る神風特別攻撃隊』吉本貞昭 ハート出版p.221</ref>。
 
<p> アメリカ国立公文書館に保管されているアメリカ軍の機密文書の中には、アメリカ軍が視認できる距離まで接近できた特攻機のうち、至近自爆を含む命中効果率を半年間で56%と算定している資料もある(日本側は特攻初期のフィリピン海域での特攻命中率を26 - 28%と推定)<ref>Yahoo!ニュース時事通信2006年11月15日「旧日本軍の航空特攻作戦、命中効果率は56%=予想以上の戦果-米軍機密文書」(参考資料[http://forum.kijiji.co.jp/about230.html][http://b.hatena.ne.jp/entry/3249945])より</ref><ref name="hara">原勝洋『写真が語る「特攻」伝説』ベストセラーズ ISBN 9784584189795 {{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。また、アメリカ軍損害分分析班が1945年4月に行った集計では、特攻作戦が始まった1944年10月から1945年3月までにアメリカ海軍艦隊の視界に入った特攻機は計356機で、うちアメリカ海軍艦船への命中が140機(39%)、至近距離での爆発による被害が59機(17%)だった。半年間の航空特攻作戦でアメリカ海軍艦船20隻が沈没した(データには視界に入る前に米軍機によって撃墜された特攻機は含まれていない)<ref>神戸新聞 2006年11月15日(時事通信 後半部分:[http://nishiha.blog43.fc2.com/blog-entry-437.html 参考資料])より</ref>。他にも特攻機が敵に損害を与えた最終的な確率は諸説あるが、2割弱<ref>小沢郁郎『つらい真実─虚構の特攻隊神話』ISBN 978-4-88621-014-2 {{要ページ番号|date=2015-06-28}}</ref><ref>[http://landinggear.hp.infoseek.co.jp/kamikaze/senka.htm 特集「神風特別攻撃隊」特攻による戦果]より</ref>との見方が比較的多くなっている。</p>
 
=== 特攻についての米軍高官の評価 ===
 
米軍公式の特攻作戦の有効性への評価は'''「日本人によって開発された唯一の、最も効果的な航空兵器は特攻機(自殺航空機)であり、戦争末期数か月に日本全軍航空隊によって、連合軍艦船に対し広範囲に渡って使用された。」'''<ref>『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 』大谷内和夫訳p.157</ref>。とその有効性を高く評価している。
[[File:President Franklin D. Roosevelt in conference with General Douglas MacArthur, Admiral Chester Nimitz, and Admiral... - NARA - 520651.tif|thumb|right|300px|ハワイで[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領に作戦説明を行う[[チェスター・ニミッツ]]、同席してるのは[[ダグラス・マッカーサー]]と[[ウィリアム・リーヒ]]]]
アメリカ海軍上層部の特攻に対する評価としては、太平洋艦隊司令[[チェスター・ニミッツ]]元帥が,フィリピン戦での特攻での損害を見て「神風特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」<ref>『ニミッツの太平洋海戦史』チェスター・ニミッツ 恒文社p.407</ref>と特攻が非常な脅威であったことを認めている。<br>
また、ニミッツの太平洋艦隊広報はこの後沖縄戦後に至るまで、特攻に関するニュースを全て検閲していた。特攻の成功を絶対に日本軍に知らせまいとするニミッツからの指示であった。逆に大和を撃沈した際は大々的に広報し、陸軍記念日の演説で全部隊に放送している。 <ref>『提督ニミッツ』E・B・ポッター 南郷洋一郎訳 フジ出版社 p.514</ref> <br>
 
沖縄戦でも、特攻により激増する損害を懸念したニミッツは、日本軍の固い防衛線に苦戦し、中々進軍できない沖縄方面連合軍最高指揮官の第10軍司令官[[サイモン・B・バックナー・ジュニア]]中将に苛立ちを覚え、指揮を混乱させかねないため現場の指揮には一切口を出さないと言う自らの不文律を犯して、4月23日に沖縄にてバックナーと会談している。 <ref>『提督ニミッツ』E・B・ポッター 南郷洋一郎訳 フジ出版社 p.519</ref> <br>
そこでニミッツはバックナーに「海軍は、毎日1.5隻ずつ艦船を失っている。その為、五日以内に第一線が動かなければ、このいまいましいカミカゼから逃れる為に、他の誰かを司令官に変えて前進させる。」と、異例とも言える更迭も含んだ督戦をしている。<ref>『提督ニミッツ』E・B・ポッター 南郷洋一郎訳 フジ出版社 p.519</ref><ref>ジョセフ·H.アレクサンダー『The Final Campaign: Marines in the Victory on Okinawa』Diane Pub Co p26</ref><br>
それで沖縄戦が終わると「我が海軍が(沖縄戦で)被った損害は、大戦中のどの海戦よりも、はるかに大きかった。沈没30隻、損傷300隻以上、9000人以上が死亡、行方不明または負傷した。この損害は主に日本の航空攻撃とくに特攻攻撃によるものであった。」と沖縄戦での特攻を総括している<ref>『世界が語る神風特別攻撃隊』吉本貞昭 ハート出版p.215</ref>。
 
第五艦隊司令[[レイモンド・スプルーアンス]]大将は「特攻は非常に効果的な兵器で、我々はこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域内にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解する事はできないと信じる」と第五艦隊参謀長でもある親友のカール・ムーア大佐に送った手紙に書き綴っている<ref>『提督スプルーアンス』トーマス・ブュエル著 小城正訳 学研 p.546</ref>また、当時潜水艦の艦長だった息子のエドワードと、[[グアム]]で面会した際に「神風特別攻撃隊が沖縄の沖合で、アメリカ艦隊にあたえた恐るべき人命と艦艇の損害について非常に憂慮している。日本本土に向かって進攻することになったならば、さらに大きな打撃をうける事になるであろう」と語り、エドワードは「父は今まで会った中でもっとも憂慮している様子だった」と感想を述べている。<ref>『本土決戦の真実』太佐順 学研M文庫p.216</ref>。
 
またスプル-アンスは、増え続ける特攻からの損失に音を上げて「特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。[[第20空軍]]を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」 という、海軍上層部への切実な戦況報告と意見具申をしている。
 
沖縄戦にあたって、[[第20空軍]]の[[B-29]]は海軍の強い要請により日本本土の都市や工場等への戦略爆撃任務から、九州の特攻機基地への戦術爆撃任務に振り向けられていたが<ref>[http://www.anesi.com/ussbs01.htm "United States Strategic Bombing Survey Summary Report (Pacific War)"], Washington, 1 July 1946</ref>、第20空軍は戦略爆撃任務に戻りたがっていた。しかしスプールアンスの切実な意見具申を受けて[[海軍作戦部長]]の [[アーネスト・キング]]が陸軍航空隊に対し「陸軍航空隊が海軍を支援しなければ、海軍は沖縄から撤退する。陸軍は自分らで防御と補給をすることになる」と脅迫し、引き続き、第20空軍による特攻基地爆撃継続を応諾させている。<ref>『提督ニミッツ』E・B・ポッター 南郷洋一郎訳 フジ出版社 p.515</ref>その為、一か月半に渡って日本本土への戦略爆撃が特攻により軽減される事となった。<ref>[http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/m4504.html"第21爆撃機集団任務要約1945年4月"]</ref><ref>[http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/m4505.html"第21爆撃機集団任務要約1945年5月"]</ref>
 
スプルーアンス自身も沖縄戦で二度に渡って座乗していた旗艦に特攻攻撃を受けている。一度目は重巡洋艦[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]座乗中に艦尾に特攻攻撃を受け損傷、同艦は応急修理の失敗もあり航行不能となり<ref group="注">破損したスクリューを修理中に誤って水没させている。</ref>その後本土で修理され、旗艦として復帰する帰路に[[テニアン島]]へ原爆を輸送したが、原爆を揚陸後[[伊号第五十八潜水艦]]に撃沈された。<ref group="注">伊58潜は回天作戦中であったが、橋本艦長の判断により、通常魚雷で攻撃し撃沈している。</ref>その後、臨時旗艦戦艦[[ニューメキシコ (戦艦)|ニューメキシコ]]に座乗するが、同艦も特攻攻撃を受け戦死54名、負傷者119名の大損害を被る。スプルーアンスは艦内を移動中に、物陰に隠れて難を逃れたが、一時は行方不明になり、幕僚らが混乱状態に陥ってる。スプルーアンスは沖縄戦途中で異例の[[ウィリアム・ハルゼー]]への指揮権交代をしているが、その際にハルゼーの幕僚らはスプルーアンスの幕僚らのやつれ具合にショックを受けている。<ref>『提督スプルーアンス』トーマス・ブュエル著 小城正訳 学研 p.547 p.553</ref>
[[File:USS Franklin (CV-13) and USS Belleau Wood (CVL-24) afire 1944.jpg|thumb|right|300px|フィリピンで特攻により炎上する正規空母[[フランクリン (空母)|フランクリン]]と軽空母[[ベローウッド (空母)|ベローウッド]]]]
艦隊指揮官として、一番最初に特攻の洗礼を受けたのは[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア]]大将であった。ハルゼーは、1944年11月29日に配下の [[第三艦隊]]の高速空母群に次々と特攻機が損害を与えるのを見て「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を受けている。<ref>『キル・ジャップス ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』E・B・ポッター 秋山信雄訳 光人社 p.499</ref> <br>
 
その後も特攻機による空母の損害が増えて、11月26日にハルゼーが計画していた、日本船舶に対する艦載機による大規模な攻撃は中止に追い込まれた。ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 偉大な部隊での戦局を決定的にする攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求している。<ref>『キル・ジャップス ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』E・B・ポッター 秋山信雄訳 光人社 p506</ref>
 
沖縄戦では、特攻により心身疲労したスプルーアンスに代わり、5月26日より艦隊の総指揮をとることになったが、あまりの艦隊の惨状にショックを受け、特に甚大な損害を受けていた[[レーダーピケット艦]]を問題視して、なぜこのような大殺戮に合う必要があったのか?早くにレーダーサイトを建設していれば、こんなに損害を受けることはなかったと怒りを露わにしている。 <ref>『キル・ジャップス ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』E・B・ポッター 秋山信雄訳 光人社 p532</ref>
 
海軍以外でも[[ダグラス・マッカーサー]]元帥が「沖縄では、大部分が特攻機から成る日本軍の攻撃で、米側は、艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害を出した。‌‌
これらの数字は、南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間に出した米側の損害の総計を超えている」 <ref>『世界が語る神風特別攻撃隊』吉本貞昭 ハート出版p.215</ref>と沖縄戦で特攻による大損害を回顧しているが、そのマッカーサー自身もフィリピンのリンガエン湾で、 軽巡洋艦[[ボイシ (軽巡洋艦)|ボイシ]]座乗中に 特殊潜航艇の雷撃と特攻機の攻撃を受けている。 <br>
雷撃はボイシの巧みな操艦で回避し、特攻機は接近中に対空砲火で撃墜され難を逃れたが、当のマッカーサーは、雷撃回避の際は甲板上に仁王立ちし戦闘を眺め、特攻機撃墜時は艦内の喧噪を他所に、居室で眠っていた。マッカーサー配下の[[第七艦隊]]の兵士らは、それまでの特攻の猛攻で恐怖が頂点に達していたのに、その指揮官のマッカーサーの剛胆ぶりに担当軍医のエグバーグ医師は驚かされている。 <ref>ウィリアム・マンチェスター『ダグラス・マッカーサー下』鈴木主税 高山圭訳 河出書房新社 p.46</ref>
 
1945年7月2日[[ヘンリー・スティムソン]]陸軍長官は、日本上陸計画を準備しているが、特攻が激しくなっており、この調子では日本上陸後も抵抗にあい、アメリカに数百万人の被害が出ると話し、天皇制くらい認めて降伏勧告をすべきと大統領に意見した。合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長[[ウィリアム・リーヒ]]提督は、無条件降伏に固執せず、被害を大きくするべきではないと意見した<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p.225</ref>。
 
=== 総合戦果 ===
 
特攻の戦果は、航空特攻で撃沈57隻 戦力として完全に失われたもの108隻 船体及び人員に重大な損害を受けたもの83隻 軽微な損傷206隻(元英軍従軍記者オーストラリアの戦史研究家デニス・ウォーナー著『ドキュメント神風下巻』)<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社p.288</ref>。
航空特攻で撃沈49隻 損傷362隻 回天特攻で撃沈3隻 損傷6隻 特攻艇で撃沈7隻 損傷19隻 合計撃沈59隻 損傷387隻(イギリスの戦史研究家ROBIN L. RIELLY著『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR Ⅱ 』)<ref>ROBIN L. RIELLY『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR Ⅱ 』Mcfarland p.318~p.324</ref>など諸説ある。
米軍の特攻損害の公式統計は、「44ヵ月続いた戦争のわずか10ヵ月の間に、米軍全損傷艦船の48.1% 全沈没艦船の21.3%が特攻機(自殺航空機)による成果であった」<ref>『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 』米国戦略爆撃調査団編集 大谷内和夫訳p.199</ref>。'''「アメリカが(特攻により)被った実際の被害は深刻であり、極めて憂慮すべき事態となった」'''<ref>[http://www.anesi.com/ussbs01.htm "United States Strategic Bombing Survey Summary Report (Pacific War)"], Washington, 1 July 1946</ref>と米軍の損害が極めて大きかったと総括している。'''
 
=== 連合軍の人的損失 ===
 
特攻の効果で、連合軍を苦しめたものの一つが、大きな人的損失であった。
 
連合軍の人的損失については、特攻のみによる死傷者の公式統計は無い為、推計の域は出ないが、米軍の公式記録等を調査したROBIN L. RIELLY著『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR Ⅱ 』では米軍の戦死者6,805名負傷者9,923名合計16,728名、<ref>ROBIN L. RIELLY『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR Ⅱ 』Mcfarland p.318~p.324</ref> Steven J Zaloga著『Kamikaze: Japanese Special Attack Weapons 1944-45』では戦死者7,000名超<ref>Steven J Zaloga『Kamikaze: Japanese Special Attack Weapons 1944-45』Osprey Publishing p.12</ref>と集計している。他にイギリス軍オーストラリア軍オランダ軍でも数百名の死傷者が出ている。<br>
連合軍全体では、戦死者12,260名 負傷者33,769名に達したという推計もある。<ref>北影雄幸 『これだけは読んでおきたい特攻の本』 光人社 p.12 フランスの軍事評論家クロンステル著『空戦』からの引用</ref><ref>[http://lalobuendia.com/buendia/variados/LA%20EPOPEYA%20KAMIKAZE%20-%20Julio%202011.pdf"La Epopeya kamikaze"]</ref><br>
米海軍の太平洋戦域での戦闘における(除事故・病気等の自然要因)死傷者の米軍公式統計は、特攻が開始された1944年以降に激増し、1944年から1945年8月の終戦までで45,808名に上り、太平洋戦争での米海軍の死傷者合計71,685名の63.9%にも達したが(1945年の8か月だけでも26,803名で37.4%)、<ref>[http://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/u/us-navy-personnel-in-world-war-ii-service-and-casualty-statistics.html"US Navy Personnel in World War II Service and Casualty Statistics"]</ref>1944年以降の米艦船の戦闘による撃沈・損傷等は約80%以上が特攻による損失であり<ref>戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」p677</ref><ref>[http://www.navsource.org/Naval/1944.htm"http://www.navsource.org/Naval/1944"]</ref><ref>[http://www.navsource.org/Naval/1945.htm"http://www.navsource.org/Naval/1945"]</ref>特攻が米海軍の死傷者を激増させた大きな要因となった事が覗える。 <br>
また海軍以外でも、輸送艦などに乗艦していた、陸軍・海兵隊の兵士や輸送艦の船員なども多数死傷している。
 
[[File:Gen H Lumsden circa 1943 IWM.jpg|thumb|right|200px|1945年1月6日チャーチルの名代としてフィリピン戦観戦中に、戦艦ニューメキシコの艦上で特攻により戦死した英陸軍ハーバード・ラムズデン中将。[[バーナード・モントゴメリー]]大将の配下で[[エル・アラメインの戦い]]の勝利にも貢献した。]]
 
特攻による死傷者の中には高級将官も多く含まれていた。第二次世界大戦での英陸軍且つ特攻で戦死した最高位の軍人となるハーバード・ラムズデン中将や、米海軍最高位の戦死者セオドア・チャンドラー少将らである。(同じ米海軍少将の戦死者としては真珠湾攻撃での[[アイザック・C・キッド]]少将、第三次ソロモン海戦での[[ダニエル・J・キャラハン]]少将と[[ノーマン・スコット]]少将の3名がいる)ラムズデン中将が戦死した戦艦[[ニューメキシコ (戦艦)|ニューメキシコ]]艦橋には、英軍太平洋艦隊([[東洋艦隊 (イギリス)]]から改編)司令[[ブルース・フレーザー]]大将も同乗していたが、少し席をはずした際に、特攻機が命中した為難を逃れている。[[東洋艦隊 (イギリス)]]は[[マレー沖海戦]]で前任者である司令の[[トーマス・フィリップス]]提督が戦死しており、2代に渡って[[イギリス海軍|大英帝国海軍]]の艦隊司令が太平洋戦域で戦死するところであった。
 
また第58任務部隊司令[[マーク・ミッチャー]]中将は、沖縄戦で旗艦空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]で特攻機が至近に命中した。奇跡的にミッチャー自身は無傷であったが幕僚13名が戦死、また司令官個室も破壊され機密文書もすべて焼失してしまった。その後旗艦を空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]としたが、同艦も特攻攻撃を受け大破し、空母[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]に再び旗艦を変更せざるを得なくなった。<ref>マクスウェル・テイラー・ケネディ 『特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ』 中村有以(訳)ハート出版 P539</ref>ミッチャーはこの後も特攻対策で心労が重なり、体重は45㎏と女性並みまで落ち込み、舷側の梯子を単独では登れない程まで心身ともに追い込まれ、上官のスプルーアンスと同じように、沖縄戦途中に異例の艦隊指揮交代となっている。<ref>E・B・ポッター 『キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』秋山信雄(訳)光人社P534</ref>
 
アメリカでは特別攻撃隊の報道はアメリカ軍兵士の戦意喪失を招き、銃後の家族に不安を与えるとして規制され、後に一括して報道された。神風特攻隊を受けたアメリカ軍はパニックで神風ノイローゼに陥るものもいた。健康検査では戦闘を行える健常者が30%まで落ちた艦もあった<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p.225</ref>。
 
=== 主力艦に対する戦果 ===
 
特攻機が撃沈したとされるアメリカ海軍の護衛空母は3隻であるが、[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]はフィリピン上陸作戦、[[オマニー・ベイ (護衛空母)|オマニー・ベイ]]はフィリピン攻防戦、[[ビスマーク・シー (護衛空母)|ビスマーク・シー]]は硫黄島上陸作戦において撃沈されている。空母は特攻作戦の全期間を通じて最重要目標とされたが、その理由は日本軍守備隊への最大の脅威が航空攻撃であったためであり、護衛空母は攻略目標近傍においてCAP(戦闘空中哨戒)を形成し、アメリカ軍の地上部隊の援護を行うため特攻機の目標とされた。碇泊中の米軍機動部隊への奇襲も計画され、3月11日、[[第五航空艦隊]]の「銀河」24機(7機故障脱落)・[[二式飛行艇]]3機(誘導)の梓隊がウルシー泊地の空母[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]を中破させた。
 
しかし、特攻機が撃沈できた正規空母や戦艦などの主力艦は1隻もないとの指摘もあり、その事が特攻の成果に対する低評価に繋がっている。<ref>[http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data2.html"毎日新聞 数字は証言する太平洋戦争-2回-神風は吹いたのか?"]</ref> </p>
また、イギリス海軍の[[イラストリアス級航空母艦]]の[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]が5月4日に、[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]が5月9日に攻撃を受け、沈没こそ免れたものの大きな被害を出した。
 
特攻により、巡洋艦以上の主力艦が沈まなかった事には、以下の要因が挙げられる。
アメリカ海軍は沖縄戦において駆逐艦12隻を含む撃沈26隻、損傷164隻(31隻沈没、368隻損傷<ref>ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』153頁</ref>)、航空機768機を失った。人的損害は1945年4月から6月末で死者4,907名、負傷者4,824名となっている。特攻の主力艦に対する戦果は、2月21日に香取基地を飛び立った海軍第二御楯特別攻撃隊が[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]沖において正規空母[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]に突入、これを大破させ、修理完了後1945年6月3日に真珠湾へ戻り練習空母として従事。空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]は5月11日に特攻機2機の突入を受けて大損害を受けブレマートンに帰投を余儀なくされ、1945年7月19日に修理完了。空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]も5月14日の特攻機による損傷大破で炎上し、[[ピュージェット・サウンド海軍工廠]]に帰還しており、修理が終わって8月14日、エンタープライズはピュージェット・サウンド海軍工廠の埠頭に停泊中に終戦を迎える。1945年3月19日に一般的な爆弾攻撃で沖縄戦直前の空母[[フランクリン (空母)|フランクリン]]の大破戦線離脱を含めると1隻の正規空母を戦列離脱させることができた。なお、同年に終戦で戦線に参加できなかった空母は1945年4月16日[[ボクサー (空母)|ボクサー(CV-21)]]、1945年6月3日[[レイク・シャンプレイン (空母)|レイク・シャンプレイン(CV-39)]]、1945年11月18日[[プリンストン (CV-37)|プリンストン(CV-37)]]がいた。
 
*<p>特攻は攻撃の性質上、艦艇の上部構造物は破壊できるが、喫水線以下に大きなダメージを与えることが困難であり、中型以上の艦艇を沈没まで至らせるほどの効果があるのか当初から懸念されていた。桜花や[[桜弾]]機[[四式重爆撃機]]飛龍の様な特攻専用機が開発されたのもその懸念による。</p>
なお、沖縄戦で特攻機が撃沈できた正規空母・軽空母は1隻もないとの見方もある<ref>[http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data2.html 戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争(2) - 毎日新聞]</ref>。その要因として、
* <p>特攻機は零戦などの小型機が主力であり、搭載爆弾は250㎏~500㎏爆弾となるため爆弾が威力不足であった。水上艦は250㎏~500㎏爆弾1~2発程度の命中では、積載弾薬や燃料の連鎖的な誘爆でもない限りは簡単に沈むものではない。[[南太平洋海戦]]までのように、損傷艦への反復攻撃を行えていたのであれば、損傷した主要艦艇に追い打ちをかけ撃沈することも可能であったが、大戦後半期の日本軍にその戦力的な余力はなかった。([[南太平洋海戦]]の[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]は日本軍航空機により、800キロを含む爆弾5発・魚雷3本及び体当たり攻撃2機を受けるも沈まず、更に自沈させようとした米軍の魚雷6本、5インチ砲無数を撃ちこまれるも沈まず、放棄された後に日本軍駆逐艦による酸素魚雷3本12.7cm砲24発によりようやく沈没してる。日本の空母でもエンガノ岬沖海戦の空母[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]は魚雷7本爆弾8発命中によりようやく沈んでいる)</p>
* 特攻機の攻撃力は元々かなり低く、一定の装甲防御を有する中型以上の艦艇に対する効果は当初から懸念されていた。桜花のような専用機が開発されたり、大改造を施された飛龍のような事例が生まれたのはこの問題への根本的な対応を図るためである。
* <p> アメリカ海軍の正規空母の飛行甲板の装甲防御や、艦内のレイアウト等[[ダメージコントロール]]のノウハウが日本軍との戦闘を通じて飛躍的に向上していた。特に艦に致命的な打撃を与える火災への対応については、現役の消防士を教官とした消防学校が各海軍基地に設立され、ダメージコントロール要員は繰り返し訓練された。水を霧状に細分化できる消防ホースや、泡沫による消火システムや、艦内が停電しても使用できるガソリン駆動の移動式ポンプや、ダメージコントロール要員が着用する耐火服などの防火装備一式など、現代並みの消火設備を各艦に装備させた。 <ref>サミュエル・E・モリソン『モリソンの太平洋海戦史』大谷内一夫訳 p.409 </ref> </p>
* <p>アメリカ海軍が制空権・制海権を握っていたため、曳航退避が可能だった。例えば[[ミッドウェー海戦]]で沈んだ日本空母4隻のうち、「[[赤城 (空母)|赤城]]」と「[[飛龍 (空母)|飛龍]]」は曳航可能だったが、米軍制空権下では処分するしかなかった。</p>
* イギリス海軍の正規空母は戦艦のそれに匹敵する76ミリ厚の装甲を持ち、甲板上にいた航空機は大きな被害を受けたが、沈没に至るようなダメージは受けずに済んだ。
等が挙げられる。とはいえダメージコントロールや曳航も断念せざるを得ないとの判断が一時的にせよ下されるほどの損害<ref group="注">例えば45年3月19日の[[九州沖航空戦]]時の空母[[フランクリン (空母)|フランクリン]](これは、日本海軍機の急降下奇襲爆撃による被害であるが)では、戦死だけで739名というダメージコントロールにあたる人員そのものが大量に失われた</ref>を特攻機が与えた事例もある。
 
しかし、これらのは特攻に限った問題ではなく、大戦後半期の米海軍艦艇は小型艦に至るまで撃沈が困難になっていた。
特攻による攻撃隊は、突入機が1隊あたり2機から6機、多くて10機、少ないときは1機という規模の小ささであり、連合国軍からすれば1日の来襲機数は直掩機を含めても空母1隻分の攻撃隊にも満たないものであった。南太平洋海戦までのような反復攻撃を行えていたのであればさらなる戦果拡大も望めたと見られるが、現実には日本軍の戦力は特攻作戦に傾注してなお日に20機も数を揃えることができず、主要艦艇の撃沈のための攻撃を行える水準についに復帰できなかった。
 
米軍が太平洋戦域で1944年以降に特攻以外の戦闘(除天候要因・事故)で失った水上艦は軽空母1、重巡1、護衛空母1、駆逐艦8、戦車揚陸艦1、輸送艦4、その他小型艦艇2 合計18隻、中でも大戦末期の沖縄戦では 艦隊掃海艦スカイラーク(機雷)
唯一、1945年4月6日の菊水1号作戦発動時に、翌7、8日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入されたが、襲撃時刻を統一しなかったために散発的な攻撃となる。突入に成功した機は比較的多かったものの、飛行技術の未熟さや興奮などの諸条件により、小型艦艇を目標にした特攻機が多かった<ref>ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』148頁</ref>。その結果、駆逐艦「ブッシュ」、「コルホーン」、高速輸送艦「デッカーソン」、掃海駆逐艦「エモンズ」、輸送船「ローガンビクトリー」、「ホッブスビクトリー」、揚陸艇LST-447が沈没。護衛空母「サン・ジャシント」(至近距離突入)、正規空母「ハンコック」、戦艦「メリーランド」、駆逐艦「モリス」、「ハッチングス」、「ベネット」、「ロイツェ」、「マラニー」、「ハリソン」、「ニューコム」、「ホーワース」、「ヘインズワース」、「ハイマン」、「タウジング」、「ロングショー」、「グレゴリー」、護衛駆逐艦「ウィッター」、「フィバーリング」、「ウェスン」、敷設駆逐艦「ハリー・F・バウワー」、掃海駆逐艦「ロッドマン」、「ハーディング」、掃海艇「ファシリティ」、「ディフェンス」、「ラムソン」、「デバステーター」、掃海特務艇311号、321号、81号が損傷を受けた。また陸上砲撃により戦艦「ネバダ」が損傷を受け、水上特攻艇により駆逐艦「チャールズ・J・バジャー」、「ポーターフィールド」、資材輸送艦「スター」、「LSM-89」が損傷。他にも友軍艦からの誤射や衝突で数隻が損傷した。米戦艦を護衛中だった駆逐艦「ニューコム」では、特攻機が戦艦ではなく自分達に突入したことに対し、乗員が「どうして我々なんだ?」と困惑していたという<ref>ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』150頁</ref>。東京のラジオは、米戦艦2隻、巡洋艦3隻、小型艦船57隻撃沈、米空母5隻を含む61隻を撃破したと報じた<ref>ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』153頁</ref>。
駆逐艦ロングショウ(陸上砲撃)
艦隊用曵船アリカラ(陸上砲撃)
200tタンカー(陸上砲撃)の4隻に過ぎないが、特攻の沖縄戦での戦果は、駆逐艦(各用途の駆逐艦の合計)17隻、戦車揚陸艦1、中型揚陸艦5隻、輸送艦3隻、その他艦艇6隻、合計32隻(含水中・水上特攻)と特攻の戦果が圧倒的に上回っている。<ref>[http://www.navsource.org/Naval/1944.htm"http://www.navsource.org/Naval/1944"]</ref><ref>[http://www.navsource.org/Naval/1945.htm"http://www.navsource.org/Naval/1945"]</ref>従って、むしろ日本軍にとって、大戦後半期は特攻が米艦艇を撃沈できる最有力の手段であったと言える。
 
撃沈に至らなくても、正規空母等の主力艦が特攻により甚大な損傷を受け、修理の為に長期間に渡って戦線離脱する事が米軍にとって作戦上の大きな痛手となっていた。 [[海軍反省会]]においても、元海軍将校の視点より同様な指摘があっている。 <ref>『海軍反省会5』戸高一成編 PHP社 p300 </ref>
アメリカ国立公文書館に保管されているアメリカ軍の機密文書には、アメリカ軍が視認できる距離まで接近できた特攻機のうち、至近自爆を含む命中効果率を半年間で56%と算定していた(日本側は特攻初期のフィリピン海域での特攻命中率を26 - 28%と推定)<ref>Yahoo!ニュース時事通信2006年11月15日「旧日本軍の航空特攻作戦、命中効果率は56%=予想以上の戦果-米軍機密文書」(参考資料[http://forum.kijiji.co.jp/about230.html][http://b.hatena.ne.jp/entry/3249945])より</ref><ref name="hara">原勝洋『写真が語る「特攻」伝説』ベストセラーズ ISBN 9784584189795</ref>。また、アメリカ軍損害分分析班が1945年4月に行った集計では、特攻作戦が始まった1944年10月から1945年3月までにアメリカ海軍艦隊の視界に入った特攻機は計356機で、うちアメリカ海軍艦船への命中が140機(39%)、至近距離での爆発による被害が59機(17%)だった。半年間の航空特攻作戦でアメリカ海軍艦船20隻が沈没した(データには視界に入る前に米軍機によって撃墜された特攻機は含まれていない)<ref>神戸新聞 2006年11月15日(時事通信 後半部分:[http://nishiha.blog43.fc2.com/blog-entry-437.html 参考資料])より</ref>。他にも特攻機が敵に損害を与えた最終的な確率は諸説あるが、2割弱<ref>小沢郁郎『つらい真実─虚構の特攻隊神話』ISBN 978-4-88621-014-2</ref><ref>[http://landinggear.hp.infoseek.co.jp/kamikaze/senka.htm 特集「神風特別攻撃隊」特攻による戦果]より</ref>との見方が比較的多くなっている。
<p>例えば、米海軍の主戦力であった主力機動部隊[[第58任務部隊]]の所属正規空母・軽空母は殆どの艦が、特攻攻撃を受けて損傷し戦線離脱に追い込まれた事がある。 </p>
※所属は沖縄戦開始時、但し離脱艦は損傷を受けた時点での所属。
*【第58任務部隊第1群】[TG58.1]
** [[ホーネット (CV-12)|ホーネット]] なし
** [[ベニントン (空母)|ベニントン]] なし
** [[ワスプ (CV-18)|ワスプ]] 1945年3月19日九州沖航空戦で大破 戦死者101名 負傷者269名(原因は急降下爆撃<ref>[http://www.navsource.org/Naval/1945.htm"http://www.navsource.org/Naval/1945"]</ref>・特攻機<ref>ワスプ復員軍人会『USS Wasp Vol. Ⅱ』p.175</ref><ref>Peter C Smiyh『Kamikaze: To Die for the Emperor』p.89</ref><ref> Dick Atkins 『American Sailor Serves His Country 』Xulon Press p.283</ref>いずれか )
** [[ベローウッド (空母)|ベローウッド]] 1944年10月30日フィリピン戦で大破 戦死者92名 負傷者56名
** [[サン・ジャシント (空母)|サン・ジャシント]] 1945年4月6日沖縄戦で損傷 戦死者1名 負傷者5名
*【第58任務部隊第2群】[TG58.2]
** [[レキシントン (CV-16)|レキシントン]] 1944年11月5日フィリピン戦で大破 戦死者50名 負傷132名(沖縄戦開始時は本土で修理中)
** [[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]] 1945年4月11日及び5月14日、沖縄戦で損傷と大破、合計戦死者18名 負傷者86名
** [[ランドルフ (空母)|ランドルフ]] 1945年3月11日ウルシー環礁で特攻機により中破 戦死25名 負傷者106名
** [[フランクリン (空母)|フランクリン]] 1944年10月30日フィリピン戦で大破 戦死者56名 負傷者14名(沖縄開始時では1945年3月19日、[[銀河 (航空機)|陸上爆撃機「銀河」]]の緩降下爆撃で大破 戦死者739名 負傷者264名を出し本土曳航中)
*【第58任務部隊第3群】[TG58.3]
** [[タイコンデロガ (空母)|タイコンデロガ]] 1945年1月21日台湾沖で大破 戦死者144名 負傷203名(沖縄戦開始時では本土で修理中)
** [[エセックス (空母)|エセックス]] 1944年11月25日フィリピン戦で中破 戦死者15名 負傷者44名
** [[ハンコック (空母)|ハンコック]] 1945年4月7日沖縄戦で特攻機により大破、戦死者62名 負傷者71名
** [[バンカーヒル (空母)|バンカーヒル]] 1945年5月11日沖縄戦で特攻機により大破、戦死者402名 負傷者264名
** [[カボット (空母)|カボット]] 1944年11月25日フィリピン戦で損傷、戦死者36名 負傷者16名
** [[バターン (空母)|バターン]] 1945年4月18日沖縄戦で損傷、戦死者9名 負傷者50名
*【第58任務部隊第4群】[TG58.4]
** [[ヨークタウン (CV-10)|ヨークタウン]] なし
** [[イントレピッド (空母)|イントレピッド]] フィリピン戦1944年10月30日損傷、1945年11月25日大破、九州沖航空戦1945年3月18日損傷、沖縄戦1945年4月16日大破、戦死者合計97名 負傷者236名
** [[ラングレー (CVL-27)|ラングレー]] 1945年1月21日台湾沖で損傷
** [[インディペンデンス (CVL-22)|インディペンデンス ]] なし
*【第58任務部隊第5群】[TG58.5]※硫黄島戦時に編成
**[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]] 1945年2月21日硫黄島戦で大破、戦死者123名、負傷者192名(沖縄戦開始時は本土で修理中)
 
以上の通り第58任務部隊の20隻の正規空母・軽空母の内、特攻で損害を受けた事のない艦はたった4隻である。
以下は日本軍特攻攻撃によって損傷・沈没した主要な連合軍艦艇である。
 
特に以下の艦は甚大な損傷を負っている。
* [[戦艦]]
** [[ニューヨーク (戦艦)|ニューヨーク]] (''USS New York, BB-34'')
** [[ネバダ (戦艦)|ネバダ]] (''USS Nevada, BB-36'')
** [[ニューメキシコ (戦艦)|ニューメキシコ]] (''USS New Mexico, BB-40'')
** [[ミシシッピ (戦艦)|ミシシッピ]] (''USS Mississippi, BB-41'')
** [[アイダホ (戦艦)|アイダホ]] (''USS Idaho, BB-42'')
** [[テネシー (戦艦)|テネシー]] (''USS Tennessee, BB-43'')
** [[カリフォルニア (戦艦)|カリフォルニア]] (''USS California, BB-44'')
** [[コロラド (戦艦)|コロラド]] (''USS Colorado, BB-45'')
** [[メリーランド (戦艦)|メリーランド]] (''USS Maryland, BB-46'')
** [[ウェストバージニア (戦艦)|ウェストバージニア]] (''USS West Virginia, BB-48'')
** [[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]] (''USS Missouri, BB-63'')
 
*<p>空母[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]</p>
* [[航空母艦]]
2月21日に香取基地を飛び立った海軍第二御楯特別攻撃隊より[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]沖にて集中攻撃を受けた。2機の特攻機の体当たりと、撃墜された2機の特攻機の爆弾が喫水線と舷側に跳弾して命中、最後に特攻機が投下した800kg爆弾が命中。搭載されていた艦載機が次々と誘爆すると共に、艦内の航空燃料にも引火して大破炎上したが辛うじて沈没は逃れた。本艦は本土にて大修理の後に、1945年6月3日に真珠湾へ戻り練習空母として復帰したが、戦後に日本軍の戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]などと原爆実験艦として処分された。
** [[フランクリン (空母)|フランクリン]](''USS Franklin, CV/CVA/CVS-13, AVT-8'') - ただし、大破は一般的な爆弾攻撃による。
** [[バンカーヒル (空母)|バンカーヒル]](''USS Bunker Hill, CV/CVA/CVS-17,AVT-9'') - 大破
** [[サラトガ (空母)|サラトガ]] (''USS Saratoga, CV-3'') - 大破
** [[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]] (''USS Enterprise, CV-6'') - 大破
** [[ハンコック (空母)|ハンコック]](''USS Hancock, CV-19'') - 中破
** [[ランドルフ (空母)|ランドルフ]](''USS Randolph, CV-15'') - 中破
** [[エセックス (空母)|エセックス]] (''USS Essex, CV-9'')
** [[イントレピッド (空母)|イントレピッド]] (''USS Intrepid, CV-11)
** [[レキシントン (CV-16)|レキシントン]] (''USS Lexington, CV-16)
** [[ベローウッド (空母)|ベローウッド]] (''USS Beleau Wood, CVL-24)
** [[サンガモン (護衛空母)|サンガモン]] (''USS Sangamon, CVE-26)
** [[スワニー (護衛空母)|スワニー]] (''USS Suwannee, CVE-27)
** [[サンティー (護衛空母)|サンティー]] (''USS Santee, CVE-29)
** [[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]] (''USS St.Lo, CVE-63'') - 沈没
** [[オマニー・ベイ (護衛空母)|オマニー・ベイ]] (''USS Ommany Bay, CVE-79'') - 沈没
** [[ビスマーク・シー (護衛空母)|ビスマーク・シー]] (''USS Bismarck Sea, CVE-95'') - 沈没
** [[サラマウア (護衛空母)|サラマウア]] (''USS Salamaua, CVE-96'') - 大破
** [[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]] (''HMS Victorious, R38)
** [[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]] (''HMS Formidable, 67)
** [[インドミタブル (空母)|インドミタブル]] (''HMS Indomitable, 92)
 
[[File:Fire fighting on USS Enterprise (CV-6) after Kamikaze 1945.jpg|thumb|right|300px|富安中尉搭乗の零戦の特攻で[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]の前部リフトは120mもの上空に吹き上げられた]]
* [[重巡洋艦]]
*<p>空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]</p>
** [[ルイビル (重巡洋艦)|ルイビル]] (''USS Louisville, CA-28)
5月14日の特攻機による損傷大破で炎上し、[[ピュージェット・サウンド海軍工廠]]に帰還、修理後に海軍工廠の埠頭に停泊中に終戦を迎えた。太平洋戦争をほぼ全期間戦い抜いた不死身のビッグEをようやく長期間離脱に追いやり、米海軍関係者から、本艦に特攻した富安俊助中尉に対して「これまで日本海軍が3年かかってもできなかったことを、たった一人で一瞬の間にやってのけた。」と称賛の言葉が送られている。空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]はその後、復員船として運用された後に除籍された。
 
* [[軽巡洋艦]]
** [[コロンビア (軽巡洋艦)|コロンビア]] (''USS Columbia, CL-56)
** [[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]] (''USS Nashville, CL-43)
 
*<p>空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]</p>
* [[駆逐艦]]
は5月11日に特攻機2機の突入を受けて大損害を受け長期の戦線離脱を余儀なくされた、空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]は、[[ピュージェット・サウンド海軍工廠]]で修理を受けた艦船の中では最悪の損傷レベルであり<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 p.166</ref>。修理後に復員船として運用された後は、空母としての運用をされることはなかった。他のエセックス級空母が近代化改装を受け後年まで活躍する中、通常爆撃で大破した同型艦[[フランクリン (空母)|フランクリン]]と共に近代化改装されることもなく、埠頭に係留されたまま電子実験のプラットフォームなどに利用された後に解体された。<ref>[http://www.navsource.org/archives/02/17.htm"NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive USS BUNKER HILL (CV-17)"]</ref>
** [[ドーシー (駆逐艦)|ドーシー]] (''USS Dorsey, DD-117)
** [[ワード (駆逐艦)|ウォード]] (''USS Ward, DD-139)
** [[ブルックス (駆逐艦)|ブルックス]] (''USS Brooks, DD-232)
** [[バリー (DD-248)|バリー]] (''USS Barry, DD-248)
** [[ベルナップ (駆逐艦)|ベルナップ]] (''USS Belknap, DD-251)
** [[マグフォード (駆逐艦)|マグフォード]] (''USS Mugford, DD-389)
** [[ラルフ・タルボット (駆逐艦)|ラルフ・タルボット]] (''USS Ralph Talbot, DD-390)
** [[ウィルソン (駆逐艦)|ウィルソン]] (''USS Willson, DD-408)
** [[ヒューズ (駆逐艦)|ヒューズ]] (''USS Hughes, DD-410)
** [[アンダーソン (駆逐艦)|アンダーソン]] (''USS Anderson, DD-411)
** [[モリス (駆逐艦)|モリス]] (''USS Morris, DD-417)
** [[ハッチンス (駆逐艦)|ハッチンス]] (''USS Hutchins, DD-476'') - 本艦はマルレ艇の攻撃により艦首を損傷し後に座礁、放棄された。
** [[プリングル (駆逐艦)|プリングル]] (''USS Pringle, DD-477)
** [[ロイツェ (駆逐艦)|ロイツェ]] (''USS Leutze, DD-481)
** [[サッチャー (DD-514)|サッチャー]] (''USS Thahcher, DD-514)
** [[ルース (DD-522)|ルース]] (''USS Luce, DD-522)
** [[アブナー・リード (DD-526)|アブナー・リード]] (''USS Abner Read, DD-526)
** [[ブッシュ (DD-529)|ブッシュ]] (''USS Bush, DD-529)
** [[エヴァンズ (DD-552)|エヴァンズ]] (''USS Evans, DD-552)
** [[ハガード (駆逐艦)|ハガード]] (''USS Haggard, DD-555)
** [[モリソン (駆逐艦)|モリソン]] (''USS Morrison, DD-560)
** [[ニューコム (駆逐艦)|ニューコム]] (''USS Newcomb, DD-586)
** [[ツイッグス (DD-591)|ツイッグス]] (''USS Twiggs, DD-591)
** [[キャラハン (駆逐艦)|キャラハン]] (''USS Callaghan, DD-792)
** [[リトル (DD-803)|リトル]] (''USS Little, DD-803)
** [[エモンズ (駆逐艦)|エモンズ]] (''USS Emmons, DD-457)
** [[マナート・L・エベール (駆逐艦)|マナート・L・エベール]] (''USS Mannert L. Abele, DD-733'') - 本艦は、[[桜花 (航空機)|桜花]]の体当たりによって撃沈された唯一の艦艇
** [[ドレクスラー (駆逐艦)|ドレクスラー]] (''USS Drexler, DD-741)
** [[ハーディング (DD-625)|ハーディング]] (''USS Harding, DD-625)
** [[バトラー (駆逐艦)|バトラー]] (''USS Butler, DD-636)
** [[シュブリック (DD-639)|シュブリック]] (''USS Shubrick, DD-639'')
** [[キッド (DD-661)|キッド]](''USS Kidd, DD-661'')
 
また、イギリス海軍の [[インディファティガブル (空母)|インディファティガブル]] が1945年4月1日、[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]が5月4日、[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]が5月9日に攻撃を受け、沈没こそ免れたものの大きな被害を出している
他損傷艦多数。補助艦艇の撃沈破された艦は割愛。
 
=== 特攻の威力についての評価 ===
 
特攻の威力関し、一部で、特攻が米軍主力艦を撃沈できなかったのは、特攻という攻撃方法に威力がなく、それは特攻機の突入速度が通常爆撃と比較して遅いのが原因と分析されることがある。<ref>[http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data2.html"毎日新聞 数字は証言する太平洋戦争-2回-神風は吹いたのか?"]</ref>
 
日本軍は爆弾の速度や貫通力について、様々な実験や推計をしているが、一番大掛かりに行ったのは、1935年4月頃から半年間に渡って鹿島爆撃場で行った実験で、[[レキシントン級航空母艦]]の一部の50㎜の鋼板を張った実物大標的を作り、急降下爆撃で250㎏爆弾を投下し、その貫通力を調査すると共に、高速度写真撮影機を持ち込み、撃角(貫通する爆弾の命中角度)と均衡撃速(鋼板を貫通できて、貫通後は速度が0になる速度、つまり鋼板を貫通可能な最低速度)を測定した。<br>
た25㎡の爆撃目標に50㎜~70㎜の鋼板を張り、戦艦に見立てて、500㎏爆弾と800㎏爆弾で同様な実験をしているが、その結果が下記の表となる。<ref>日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史(1)用兵編』時事通信社 p735~p736</ref>。
 
'''250㎏爆弾~800㎏爆弾の貫通力、撃速、撃角、投下高度実験(昭和10年 日本海軍鹿島爆撃場)'''
 
{| class="wikitable"
|-
! 弾種 !! 艦種(想定) !! 鋼板厚 !! 均衡撃速 !! 撃角 !! 投下高度
|-
| 250㎏爆弾 || 空母 || 50㎜ || 496.8㎞/h || 69.3度 || 900m
|-
| 500㎏爆弾 || 戦艦 || 50㎜ || 378㎞/h || 67.11度 || 600m
|-
| 500㎏爆弾 || 戦艦 || 70㎜ || 468㎞/h || 67.6度 || 750m
|-
| 800㎏爆弾 || 戦艦 || 70㎜ || 450㎞/h || 66.52度 || 700m
|}
 
また、特攻が開始された後、日本海軍[[第五航空艦隊]][[参謀]]野村中佐が、[[爆戦]]の[[零式艦上戦闘機]]による、投下爆弾の終速(目標命中時の速度)と零戦本体の終速を推計している。<ref>『特攻の記録 』「丸」編集部編集 光人社NF文庫 356頁 第二図</ref>
 
''' [[爆戦]]による投下爆弾と爆戦本体の終速の推計(突撃角度を35度~55度、攻撃開始速度を360km/hと設定)'''
[[File:Mitsubishi A6M kamikaze attacking USS Enterprise (CV-6) 1945.jpg|thumb|left|280px|空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]に急降下で突撃する富安俊助中尉の[[爆戦]]零戦六二型]]
{| class="wikitable"
|-
! 投下高度 !! 終速
|-
| 2,000m || 1,027㎞/h
|-
| 1,000m || 860㎞/h
|-
| 500m || 713㎞/h
|-
| 零戦本体 || 720km/h
|}
 
'''特攻に主に使われた零戦の降下制限速度'''
{| class="wikitable"
|-
! 零戦型式 !! 零戦52型 !! 零戦52型甲乙丙型 !! 零戦62型
|-
| 降下制限速度 || 666.7㎞/h || 740.8㎞/h || 740.8㎞/h
|}<br>
 
日本海軍の急降下爆撃の理想的な攻撃法は、真珠湾攻撃以降は「緩降下しつつ接敵し、高度2000mから角度45°以上の急降下で突入、高度400mで投弾(真珠湾以前は700m)、ただちに引き起こし、海面より200m程を高速で退避する」というもので<ref>『零(ゼロ)の戦記:堀越二郎、坂井三郎、岩本徹三…空のサムライたちの物語』 秋月達郎 PHP研究所 p.45)</ref>、従って急降下爆撃は400m~700mで投弾される為、以上の日本海軍の実験・推計の通り、攻撃時の状況が爆撃と特攻が同じであれば、急降下爆擊により投弾された爆弾単体より、特攻機の突入速度の方が遅いという事はない。
 
一方で、投弾高度が高くなればなるほど、空気抵抗が少なく加速がつく為、爆弾の速度が速くなるが、逆に命中率は著しく下がっていった。<br>
日本海軍において、航空隊要員の教育・練成や戦技研究を担当した[[横須賀海軍航空隊]]が、急降下爆撃の投弾高度に対し「しかるに800m以上にては命中率著しく低下するをもって」と所見を述べている。<ref>日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史(1)用兵編』時事通信社 p695</ref><br>
その為、1939年の横須賀航空隊並びに航空本部の所見では「基準投下高度を700mとし、本高度をもって訓練するを適当と認む。」とされた。 <ref>日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史(1)用兵編』時事通信社 p.693</ref> <br>
 
更に、高高度からの水平爆撃により、航行中の艦船に命中させるのは非常に困難であった。<br>
日本軍は、艦船への水平爆撃を他国と比較しても熱心に取り組んでおり、停泊中の目標については、[[真珠湾攻撃]]で停泊中の戦艦[[アリゾナ (戦艦)|アリゾナ]]を轟沈するなどの戦果を挙げている。一方で航行中の艦船に対しては、[[マレー沖海戦]]では陸攻25機が、戦艦2隻合計で2発~3発の命中弾を得たが、<ref>[http://www.bbc.co.uk/history/ww2peopleswar/timeline/factfiles/nonflash/a1152299.shtml" History WW2 People's War Fact File : HMS 'Prince of Wales' and HMS 'Repulse' Sunk 10 December 1941"] </ref>続く[[珊瑚海海戦]]では九六陸攻19機が米機動部隊に水平爆撃を行ったものの<ref>森史朗 『暁の珊瑚海』 文春文庫、2009年 250P</ref>1発の命中弾もなかった<ref>千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫p.80-81</ref>など、大戦中目ぼしい成果を挙げる事ができず、航行中の目標への水平爆撃の兵術的価値を判定できる戦例は、少数ながらも命中弾があったマレー沖海戦のみとなってしまった。<ref>日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史(1)用兵編』時事通信社 p.748</ref><br>
 
このような戦績も踏まえ、戦後に[[桑原虎雄]]元中将以下、多数の元海軍航空隊関係者で組織された日本海軍航空史編纂委員会が、その著書『日本海軍航空史』にて、日本軍の水平爆撃に対して「大東亜戦争開戦前に至ってようやく訓練方法も確立し、その精度も向上して用兵的に期待し得る練度に達したものの、なおその程度は艦船攻撃における急降下爆撃並びに雷撃に比すれば、その期待度ははるかに低いものであった。」と総括し、米軍が動的水平爆撃をする環境(優勢な航空戦力、優秀な照準器)は整っていたのに、動的水平爆撃を実施した戦例が無かった事も指摘し、航行中の艦船への水平爆撃の有効性に疑問を投げかけている。<ref>日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史(1)用兵編』時事通信社 p.748</ref>。<br>
 
[[誘導爆弾]]であれば、投下高度と命中精度を両立でき、実際に運用されたドイツ軍の誘導爆弾[[フリッツX]]はイタリア軍の戦艦[[ローマ (戦艦)|ローマ]]を撃沈し、英軍戦艦[[ウォースパイト (戦艦)|ウォースパイト]]を大破する戦果を挙げている。<br>
高度6000mから投下されたフリッツXは音速近い速度が出たと言われるが<ref>[http://www.ausairpower.net/WW2-PGMs.html"The Dawn of the Smart Bomb"] </ref>、オペレーターが目視で手動で誘導しなくてはならなかった為、誘導兵器でありながら、命中率や命中誤差はオペレーターの技量に大きく依存していた。またオペレーターの誘導の為に、母機が命中まで目標上空まで飛行しなければならず<ref>クリストファー・ジョン『The Race for Hitler's X-Planes: Britain's 1945 Mission to Capture Secret Luftwaffe Technology』The Mill, Gloucestershire: History Press p.134</ref>母機の損害が増大し、運用が中止されている。<br>
日本軍も[[誘導爆弾]]である[[イ号一型乙無線誘導弾]]を開発し<ref>丸編集部 『特攻の記録 十死零生非情の作戦』 光人社 p400</ref>、実際にテストも行われた。<ref group="注">熱海湾外で行われた初回のテストの際に、誤って旅館に命中し、4名の死傷者が出ている</ref>但しフリッツXと同様に、敵艦艇の防空砲火射程外から投下できても、母機は誘導爆弾を誘導する為に敵艦に接近せねばならず、防空砲火の絶好の目標となってしまうと、誘導爆弾の開発に携わった陸軍航空部坂本英夫部員は指摘している<ref>丸編集部 『特攻の記録 十死零生非情の作戦』 光人社 p404</ref>。更に、ドイツ軍による戦艦[[ローマ (戦艦)|ローマ]]撃沈時とは異なり <ref group="注">イタリア艦隊を護衛してた戦闘機はなく、ドイツ軍を刺激しないように積極的な対空射撃も禁じられていた。</ref> 、レーダー管制された多数の迎撃機が待ち構える米艦隊に、大重量の誘導爆弾を搭載して接近することが困難な事であった。それは桜花の戦績を見ても明らかであった。<br>
その為に、母機からの誘導が必要ない[[パッシブホーミング]]方式(現代の[[サイドワインダー (ミサイル)]]と同様に目標の赤外線を探知し自律的に誘導する)を採用した、[[ケ号爆弾]]も開発<ref>丸編集部 『特攻の記録 十死零生非情の作戦』 光人社 p406</ref>したが実用には程遠かった。<br>
従って、爆弾の終速が特攻機より速くなる高高度からの爆撃は、誘導爆弾であっても命中率や実用性が特攻と比較できる水準になく、終速が速く威力があったとしても、艦船攻撃戦術としての有効性は特攻に大きく及ばなかったと言える。<br>
 
しかし、特攻に主に使われた零戦は、もともと空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で舵も鈍くなるため正確に突入するのは難しかった。<ref>神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ193</ref>。
速度超過を防止するための[[空力ブレーキ|ダイブブレーキ]]を持たない零戦のような機体は、突入直前に機体が浮き上がってしまったり、操縦不能になったり、被弾で[[フラッター現象]]等を起こし空中分解してしまうため、操縦者にはこれを抑制する技量や自制心も必要になった。<br>
それが原因で、特攻機の爆弾が敵艦を貫通しないケースも少なからずあった。戦果確認機からの過大戦果報告に疑念を感じていた[[軍令部]]次長[[大西瀧治郎]]中将が、[[海軍航空技術廠|第一航空技術廠]]長の多田力三中将に特攻の効果についての実験を要請している。<br>
その要請を受けて、第一航空技術廠と[[横須賀海軍航空隊]]は1945年5月に協同で、250㎏爆弾を搭載した無人の零戦をカタパルトで射出し、様々な角度で鋼板に衝突させる実験を行った。その結果、30°以上の角度では爆弾も機体も鋼板を貫通するが、30°未満の角度では鋼板の上を滑って機体も爆弾も跳躍してしまう事が判明した。<br>
この実験結果を見て[[大西瀧治郎]]中将は、搭乗員の心理作用で突入角度が浅くなるケースもあるので、今後はその点を注意する必要があると述べたという。<ref>日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史(1)用兵編』時事通信社 p489</ref>
 
しかし、護衛空母 [[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]] に命中した敷島隊の零戦は、まるで着艦でもする様な高度(30m)で接近してきて、そのまま時速480km/hで浅い角度で体当たりしたが<ref>Dogfights - Episode 12: Kamikaze (History Documentary)セント・ロー乗組員(電気技師)オービル・ビサード氏証言</ref>搭載爆弾は甲板を貫通、格納庫で爆発し、燃料や弾薬を誘爆させそのまま爆沈したように、いずれにしても、実戦においては、爆撃も特攻もその状況に応じて、終速や命中角度や効果は大きく異なるため、一律に爆撃が速いとか、特攻の突入角度が浅いとか評価する事はできない。<br>
[[File:Damaged USS RANDOLPH resulting from a Japanese suicide attack. Damage to overhead hangar and flight deck aft. - NARA - 520655.tif|thumb|left|250px|1945年3月11日、特攻機[[銀河 (航空機)|陸上爆撃機「銀河」]]の突入で飛行甲板に大穴が開き、艦内が大破した空母[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]。]]
 
日本海軍[[軍令部]]が1945年3月2日に海軍省に対して説明した特攻の威力は下記の通りであった。<ref>戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」P709</ref>
 
'''特攻機の威力'''
{| class="wikitable"
|-
! !! 桜花 (炸薬量1300kg) !! 800㎏爆弾を搭載した特攻機 !! 500㎏爆弾を搭載した特攻機 !! 250㎏爆弾を搭載した特攻機
|-
| 威力点 || 5点 || 3点 || 2点 || 1点
|}
 
'''撃沈に要する威力'''
{| class="wikitable"
|-
! !! 正規空母 !! 巡改(軽)空母 !!   護衛空母   !!   戦  艦   !!   巡洋艦  
|-
| 所要弾薬 || 桜花1機と800kg特攻機1機 || 桜花1機と800kg特攻機1機 || 800kg特攻機1機 || 桜花2機 || 桜花1機
|-
| 所要威力点 || 8点 || 8点 || 3点 || 10点 || 5点
|}
ただこれは目安であって、実戦でこの通りになると言うわけではない。<br>
護衛空母[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]は1機の250㎏爆弾搭載零戦、[[ビスマーク・シー (護衛空母)|ビスマーク・シー]] は同2機の特攻で撃沈されているし、それぞれ5機の特攻を受けて沈まなかった駆逐艦[[ニューコム (駆逐艦)|ニューコム]]やラフェイみたいな例もある。<br>
逆に、ニューコムやラフェイの例を、特攻に威力がないとする例に出される事があるが、駆逐艦[[アブナー・リード (DD-526)|アブナー・リード]]や[[キャラハン (駆逐艦)|キャラハン]]などは1機の特攻で撃沈されているし、排水量であれば軽巡洋艦クラスの艦隊随伴給油艦ポーキュパイン(基準7,219トン 満載10,674トン)も1機の特攻機で撃沈されており、撃沈に至った特攻機の命中機数で一概に特攻攻撃の威力を測ることはできない。
 
日本陸軍の特攻の威力に対する評価は、戦後に米国戦略爆撃調査団の事情聴取に対し、[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]の高級参謀が、「特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる、さらに適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速く、命中率が高くなる」と供述している。<ref>『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 』米国戦略爆撃調査団編纂 大谷内和夫訳</ref>。
 
実際に、大戦中に数多く被弾しながら長期の戦線離脱をしなかった空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]が、沖縄戦中に富安中尉の爆装零戦1機の突入を受け大破し、空母として復帰出来ないほどの甚大な損傷を受けたり、神風特攻金剛隊の零戦1機が[[ニューメキシコ (戦艦)|ニューメキシコ]]の艦橋に突入し、装甲が厚い戦艦艦橋を破壊、艦長以下本艦幕僚の殆どが死傷したり、少数の特攻機の突入で、主力艦に深刻な損害を与えた事例は枚挙に暇がない。
 
一方で、米軍の分析は特攻という攻撃方法そのものではなく、「45隻の艦船が沈没したが、その多くは駆逐艦だった。日本は大型艦を沈めたという膨張された主張に彼等自身騙され、大型艦を沈めるにはより重量のある爆発弾頭が必要であるという技術者達の忠告を無視した」<ref>[http://www.anesi.com/ussbs01.htm "United States Strategic Bombing Survey Summary Report (Pacific War)"], Washington, 1 July 1946</ref>と特攻機に搭載された爆弾の威力不足を指摘していた。
 
大本営も特攻機に搭載される爆弾の威力不足は認識しており、海軍省軍務局長・海軍航空本部・海軍艦政本部両総務部長に対して、現用特攻機の装備と攻撃法では大型艦に致命的打撃威力を発揮できないとして、画期的威力増大策の研究を指示している。
 
その概案としては
 
1、特攻攻撃により爆弾を敵艦船の水線下に確実に命中させる方法 <br>
 
2、特攻機突入時の擊速増大の方法、突撃時攻撃機の翼を切断し速力を急増し、敵の迎撃を局限すると共に擊速を増大させる( [[キ115]]の開発と増産 ) <br>
 
3、[[成形炸薬弾]]頭であるV爆弾の実戦配備。([[成形炸薬弾]]頭とは[[モンロー/ノイマン効果]]を利用した弾頭)<br>
 
4、液体酸素、過酸化水素、黄燐等の炸裂威力助成剤を搭載し爆発威力を増大させる <br>
 
5、旧型魚雷に過酸化水素を充填し代用爆弾とする。 <br>
 
などが考えられた。 <ref>戦史叢書「海軍軍戦備(2)開戦以後」p145-146</ref>
 
この内、 3の[[成形炸薬弾]]の開発の為に、未完成で建造中止された空母[[阿蘇 (空母)|阿蘇]]で威力実験される事となった。<ref>戦史叢書「海軍軍戦備(2)開戦以後」p145-146</ref><br>
 
1945年7月に、[[倉橋島]]大迫[[特殊潜航艇]]基地沖で実施された実験で、海軍はV弾頭の250㎏爆弾、V弾頭500㎏爆弾を空母[[阿蘇 (空母)|阿蘇]]艦上に設置し爆発させている。250kg爆弾では飛行甲板が大きくめくれ上がり使用に耐えない損傷を負わせ、500㎏爆弾では防御甲板が破壊され、舷側より浸水が始まり、かなりの効果が認められたが、V弾頭の爆弾は更なる実験中に終戦を迎えた。<ref> 日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史 (3)制度・技術編』 時事通信社 p679</ref> その後に陸軍の対艦大型成型炸薬爆弾[[桜弾]]を艦上で爆発させた。<ref>福井静夫 『福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第七巻 日本空母物語』 光人社 p278</ref>桜弾の爆発は艦底まで達したが、爆発時点での浸水は限定的で5度傾いただけであった。しかし、その後次第に浸水し最終的に着底した。<ref group="注">米軍機の攻撃により着底したという説もあり</ref>
桜弾は単体で2.9トンもあり、当実験前より陸軍の[[四式重爆撃機]]飛龍に桜弾を搭載した特攻専用機、桜弾機 キ-167が運用されていたが、あまりの重量に離陸すらあやうく、福岡大刀洗基地より4機出撃し2機が未帰還であったが戦果は無かった。<ref>[証言記録 兵士たちの戦争]重爆撃機 攻撃ハ特攻トス ~陸軍飛行第62戦隊~ 2008年放送</ref><br>
その以前にも、同じ[[四式重爆撃機]]飛龍に、海軍より支給された800㎏爆弾2発を搭載する代わりに、軽量化の為に無線・爆撃装備や副操縦席に至るまで全て撤去され、機種と尾部の風防ガラスをベニヤ板に変えられた特攻専用機「ト」号機も開発され、陸軍特攻「富嶽隊」として出撃が繰り返されたが、戦果は確認されていない。<ref>丸編集部 『特攻の記録 十死零生非情の作戦』 光人社 p409</ref><br>
 
搭載爆弾を大型化すれば、威力向上するのを日本軍も理解し様々な対策を講じたが、爆弾が大型化すればするほど特攻機の搭載重量は増え運動性は低下する為、飛行が困難になるばかりでなく敵の迎撃の好餌となってしまった。
特に大重量爆弾を搭載できる双発機は、米軍の特攻対策マニュアル「Anti-Suicide Action Summary」にて「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機を再優先で攻撃すること。」と徹底されており、<ref>[http://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/a/anti-suicide-action-summary.html "Anti-Suicide Action Summary"UNITED STATES FLEET HEADQUARTERS OF THE COMMANDER IN CHIEF NAVY DEPARTMENT WASHINGTON 25, D. C. 31 August 1945]</ref>米戦闘機の優先攻撃目標となっていた為に、敵艦への接近が非常に困難になっていた。
 
米軍は戦後に、「大型機を別にすれば、陸海軍機のすべては、威力不十分な爆弾を使用していた。連合軍の主力艦が自殺機によって、1隻も撃沈されなかった理由のひとつも、このあたりにあった」と総括し<ref>米国戦略爆撃調査団編纂 『大谷内和夫訳 『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 』光人社 』 光人社 p185</ref>、日本側も「中央当局の努力にもかかわらず終戦までに具体的に搭乗員の崇高なる特攻精神にふさわしい威力を具備した特攻機は出現しなかった。」と総括している。<ref>戦史叢書「海軍軍戦備(2)開戦以後」p145</ref>
 
[[File:LST-472.jpg|thumb|right|250px|1944年12月15日LST472号に特攻機が命中し火災が発生、積載されていた戦車や車両に次々と引火し沈没した。特攻機により発生する火災は米海軍の大きな脅威となった。]]
 
特攻機による損害艦は死傷者が多い事が特徴だったが、それは搭載している航空燃料による激しい火災が主な要因で、負傷者の大半が火傷によるものだった。後送される特攻による負傷者は、包帯を全身に巻かれミイラの様になっており、チューブで辛うじて呼吸し、静脈への点滴でどうにか生き延びているという惨状であった<ref>サミュエル・E・モリソン『モリソンの太平洋海戦史』大谷内一夫訳 429頁</ref>、また、火傷が原因で後日死亡する負傷者も多かった。 <ref group="注">護衛空母セント・ローは沈没時に113名戦死したが、その後に負傷が原因で30名が死亡</ref> <br>
その為米海軍は水兵に対して、「対空戦闘に必要最低限の人数以外は退避させる」「一か所に大人数で集まることを禁止」「全兵員が長袖の軍服を着用し袖や襟のボタンをしっかりとめる、顔など露出部には火傷防止クリームを塗布する」「全兵員のヘルメット着用義務化」「対空戦闘要員以外はうつ伏せになる」など事細かに特攻による兵員の死傷の防止策を指導していた。<ref>[https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=tM04SHgAKtA"Combating suicide plane attacks"]</ref>。
 
=== 沖縄戦での特攻 ===
 
特攻作戦が最大規模で実施されたのは、沖縄戦中の1945年4月6日の菊水1号作戦発動時であり、翌7、8日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入され多大な戦果を挙げている。<ref>ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』148頁</ref>。駆逐艦「ブッシュ」、「コルホーン」、輸送駆逐艦「デッカーソン」、掃海駆逐艦「エモンズ」、輸送船「ローガンビクトリー」、「ホッブスビクトリー」、揚陸艇LST-447が沈没。軽空母「サン・ジャシント」、正規空母「ハンコック」、戦艦「メリーランド」、駆逐艦「モリス」、「ハッチングス」、「ベネット」、「ロイツェ」、「マラニー」、「ハリソン」、「ニューコム」、「ホーワース」、「ヘインズワース」、「ハイマン」、「タウジング」、「ロングショー」、「グレゴリー」、護衛駆逐艦「ウィッター」、「フィバーリング」、「ウェスン」、敷設駆逐艦「ハリー・F・バウワー」、掃海駆逐艦「ロッドマン」、「ハーディング」、掃海艇「ファシリティ」、「ディフェンス」、「ラムソン」、「デバステーター」、掃海特務艇311号、321号、81号が損傷を受けた。また陸上砲撃により戦艦「ネバダ」が損傷を受け、水上特攻艇により駆逐艦「チャールズ・J・バジャー」、「ポーターフィールド」、資材輸送艦「スター」、「LSM-89」が損傷。他にも友軍艦からの誤射や衝突で数隻が損傷した。米戦艦を護衛中だった駆逐艦「ニューコム」では、特攻機が戦艦ではなく自分達に突入したことに対し、乗員が「どうして我々なんだ?」と困惑していたという<ref>ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』150頁</ref>。東京のラジオは、米戦艦2隻、巡洋艦3隻、小型艦船57隻撃沈、米空母5隻を含む61隻を撃破したと報じた<ref>ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』153頁</ref>。
 
このように、駆逐艦に損害が集中したのが沖縄戦の特攻作戦の特徴と言える。米軍は、フィリピン戦での特攻による大損害を分析し、様々な特攻対策を講じたが、その中の一つが戦艦や空母といった主力艦隊の外周を、レーダー搭載の駆逐艦等の[[レーダーピケット艦]]で取り囲み早期警戒網を張り巡らし、特攻機が主力艦隊に到達する前に効果的な迎撃を行うというものであった。<ref>[http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data2.html"毎日新聞 数字は証言する太平洋戦争-2回-神風は吹いたのか?"]</ref>
 
この対策により、空母等の主力艦への突入機数は減少したが、逆に[[レーダーピケット艦]]の損害は増大する事となり、さながら『弱いヤギ(ピケット艦)を犠牲に、狼(特攻機)から群れ(主力艦艇)を守る様なもの』とも揶揄されている<ref>ドキュメント番組『Kamikaze in Color』メディア販売 Goldhill Home Media社</ref>。米海軍水陸両用部隊司令[[リッチモンド・K・ターナー]]中将の幕僚は、「艦隊より優秀な艦を選んでレーダーピケット艦としたが、それはそのピケット艦と乗組員に対する死刑宣告も同然だった」と述懐し<ref>安延多計夫著『あヽ神風特攻隊』光人社NF文庫</ref>、また特攻による駆逐艦の損害があまりに多く、第54任務部隊司令[[モートン・デヨ]]少将は指揮下の駆逐艦が、次々と撃沈されたり損傷して戦線離脱し、ついに12隻となった為「駆逐艦の消耗具合が容易ならざる水準に達している」<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風・下巻』時事通信社P87</ref>と危機感を募らせている。<br>
 
レーダーピケット艦の消耗により、早期警戒網を突破して主力艦隊に突入する特攻機も増え、戦艦・空母といった主力艦の損害も次第に増加していくこととなった。[[モートン・デヨ]]少将が座乗していた旗艦戦艦[[テネシー (戦艦)|テネシー]]にも2機の特攻機が命中し、死傷者199名の甚大な損傷を受けている。[[モートン・デヨ]]少将自身も、艦橋目がけて突入してきた特攻機が直前で撃墜されて、九死に一生を得ている。その際、集中射撃しても中々撃墜できなかった特攻機を見て「彼奴らの体は何でできているのだろうか。」と驚嘆している<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風・下巻』時事通信社P90</ref>。<br>
 
アメリカの著名な歴史家で、アメリカの海軍史研究の第一人者の[[サミュエル・モリソン]]は自分の著作で沖縄戦の特攻攻撃を「ゼウス神の電光の様に青空からうなり出てくる炎の恐怖」や「かつてこのような炎の恐怖、責め苦の火傷、焼けつくような死に用いられた兵器は無かった」と表現し、その特攻と戦った米軍の駆逐艦乗りに対して「沖縄の戦いの中で、来る日も来る日も、これらの艦船の乗組員が示した持続する勇気、臨機応変の才、敢闘精神は海軍の歴史にいくつもの類例を残している」と称賛している。<ref>サミュエル・E・モリソン『モリソンの太平洋海戦史』大谷内一夫訳 437頁</ref>
 
特攻で損傷した艦艇は、8隻の[[工作艦]]が配置された慶良間諸島沖で応急修理がなされ、それでも修理できない甚大な損害を被った艦は米海軍の前線基地であった[[ウルシー環礁]]やハワイ・米本土に送られた。多数の損傷艦が送られた慶良間諸島沖は、常に多数の損傷艦で溢れ、駆逐艦の墓場と呼ばれていた。特攻機はその“墓場”に配置された[[工作艦]]にも攻撃し損傷艦が出ている。
 
この後菊水作戦は第10号まで行われ、米海軍は沖縄戦において艦船36隻沈没、368隻損傷<ref>ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』153頁</ref>、航空機768機、人的損害として1945年4月から6月末で死者4,907名、負傷者4,824名を失ったが、これは米海軍の第二次世界大戦上で最悪の損害であった。
 
しかし一方で、沖縄戦での特攻は米軍の特攻対策が強化された事により、有効率が下がり日本側の犠牲も多かった。その為、特攻の効果があったのは奇襲的効果のあったフィリピン戦のみで<ref>[http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data2.html "毎日新聞 数字は証言する太平洋戦争-2回-神風は吹いたのか?"]</ref><ref>NHK『証言記録 兵士たちの戦争“特攻の目的は戦果にあらず”』2011-08-15放送</ref>、末期の沖縄戦の特攻は効果もないのに、軍の面子や惰性で続けられたとする表現も多く<ref>小説版『永遠の0』など</ref>、日本ではとかく過小評価されがちであるが、有効率がフィリピン戦26.8%から沖縄戦14.7%で12%減に対し、攻撃機数は約3倍(フィリピン戦650機、沖縄戦1,900機)であり、米海軍の損害は沖縄戦の方が遥かに大きかった。
 
特攻で海軍艦艇が大損害を被った沖縄戦は、米軍にとって大戦で最大級の衝撃であり、沖縄戦での特攻作戦を'''「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である。」'''と総括している。<ref>[http://www.anesi.com/ussbs01.htm "United States Strategic Bombing Survey Summary Report (Pacific War)"], Washington, 1 July 1946</ref>また、米海軍は公式文書で特攻に対して'''「この死に物狂いの兵器は、太平洋戦争で最も恐ろしい、最も危険な兵器になろうとしていた。フィリピンから沖縄までの血に染まった10ヶ月のあいだ、それは、我々にとって疫病のようなものだった」'''と率直に苦しみぬいた状況を吐露している。<ref>『世界が語る神風特別攻撃隊』吉本貞昭 ハート出版p.218</ref>更に、もし日本本土決戦になっていた場合の想定として'''「オリンピック作戦(九州上陸作戦)に対抗して、九州防衛の為の特攻機が準備され、これより規模の小さい準備がジッパー作戦に対抗してシンガポール防衛の為になされた。これらの特攻機の使用により、上陸作戦時の連合軍艦隊が、連合軍が計画した多様な効果的対策に関わらず大きな損害を受けたであろうことは疑問の余地はない。」'''と特攻により大損害を被るという予測もしていた。<ref>『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 』米国戦略爆撃調査団編纂 大谷内和夫訳 p201</ref>
 
陸海で、米軍が第二次世界大戦最大級の損害を被った沖縄戦がようやく終わると、大英帝国首相[[ウィンストン・チャーチル]]は[[ハリー・S・トルーマン]]米大統領に向けて「この戦いは、軍事史の中で最も苛烈で名高いものであります。我々は貴方の全ての部隊とその指揮官に敬意を表します」と慰労と称賛の言葉を送っている。<ref>サミュエル・E・モリソン『モリソンの太平洋海戦史』大谷内一夫訳 438頁</ref>
 
== 特攻攻撃により損害を受けた連合軍の艦船 ==
参考文献<ref>米国海軍省戦史部編纂 (財)史料調査会訳『第二次世界大戦 米国海軍作戦年誌』出版協同社</ref><ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風上巻・下巻』時事通信社</ref><ref>森山康平、太平洋戦争研究会 編『図説 特攻』(ふくろうの本 太平洋戦争の戦場) 河出書房新社</ref><ref>原 勝洋『真相・カミカゼ特攻 必死必中の300日』 KKベストセラーズ </ref><ref>安延多計夫『南溟の果てに―神風特別攻撃隊かく戦えり』 自由アジア社 </ref><ref>『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 』米国戦略爆撃調査団編集 大谷内和夫訳p.157</ref><ref>木俣 滋郎 『日本潜水艦戦史』図書出版社</ref><ref>ROBIN L. RIELLY『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR Ⅱ 』Mcfarland </ref><ref>Peter C Smiyh『Kamikaze: To Die for the Emperor』</ref><ref>Robert Stem『Fire From the Sky: Surviving the Kamikaze Threat』Naval Institute Press</ref><ref>Harold "Bud" Kalosky『Harm's Way—Every Day』Naval Institute Press</ref><ref>Robert Stem『Fire From the Sky: Surviving the Kamikaze Threat』Naval Institute Press</ref><ref>Paul Silverstone『The Navy of World War II, 1922-1947』 Routledge</ref>
 
※米軍死傷者の数は参考文献、米軍公式資料、各被害艦のホームページ記載の中の最大値を記載。
=== 特攻攻撃によって沈没した連合軍艦艇 ===
[[File:USS Ward (DD-139) afire.jpg|thumb|right|300px|1944年12月5日、特攻により沈んだ輸送駆逐艦[[ワード (駆逐艦)|ワード]]。本艦は[[真珠湾攻撃]]の際に日本軍の攻撃前に[[特殊潜航艇]]を撃沈し日米の戦端を開いた艦。]]
[[File:USS William D. Porter (DD-579) sinking.jpg|thumb|right|300px|1945年6月10日、特攻機が至近弾となって大きく傾いた駆逐艦ウィリアム・D・ポーター、懸命の復旧作業も実らず、この後に横転し沈没した。]]
 
;航空特攻
{| class="wikitable"
|-
! 沈没日 !! 艦名 !! 艦種 !! 場所 !! 戦死者 !! 負傷者
|-
| 1944年10月24日 || ソノマ || 艦隊曳航船 || フィリピン || 7 || 36
|-
| 1944年10月24日 || LCI1065 || 歩兵揚陸艦 || フィリピン || 13 || 8
|-
| 1944年10月25日 || [[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]] || 護衛空母 || フィリピン || 143 || 370
|-
| 1944年11月1日 || [[アブナー・リード (DD-526)|アブナー・リード]] || 駆逐艦 || フィリピン || 23 || 56
|-
| 1944年11月27日 || SC-744 || 駆潜艇 || フィリピン || 6 || 7
|-
| 1944年12月5日 || LSM-20 || 中型揚陸艦 || フィリピン || 8 || 9
|-
| 1944年12月7日 || マハン || 駆逐艦 || フィリピン || 18 || 31
|-
| 1944年12月7日 || LSM-318 || 中型揚陸艦 || フィリピン || 3 || 3
|-
| 1944年12月7日 || [[ワード (駆逐艦)|ワード]] || 輸送駆逐艦 || フィリピン || 0 || 5
|-
| 1944年12月10日 || PT-323 || 魚雷艇 || フィリピン || 0 || 10
|-
| 1944年12月10日 || レイド || 駆逐艦 || フィリピン || 150 || 不明
|-
| 1944年12月11日 || ウィリアム S. ラッド || リバティ型輸送艦 || フィリピン || 0 || 10
|-
| 1944年12月15日 || LST-472 || 戦車揚陸艦 || フィリピン || 6 || 5
|-
| 1944年12月15日 || LST-738 || 戦車揚陸艦 || フィリピン || 1 || 11
|-
| 1944年12月18日 || PT-300 || 魚雷艇 || フィリピン || 8 || 7
|-
| 1944年12月21日 || LST-460 || 戦車揚陸艦 || フィリピン || 約100 || 不明
|-
| 1944年12月21日 || LST-749 || 戦車揚陸艦 || フィリピン || 30 || 10
|-
| 1944年12月28日 || [[ジョン・バーク (リバティ船)|ジョン・バーク]] || 弾薬輸送艦 || フィリピン || 69 || 0
|-
| 1944年12月30日 || ポーキュパイン || 艦隊給油艦 || フィリピン || 7 || 8
|-
| 1945年1月4日 || [[オマニー・ベイ (護衛空母)|オマニー・ベイ]] || 護衛空母 || フィリピン || 98 || 65
|-
| 1945年1月5日 || リュース・L・ダイチ || 弾薬輸送艦 || フィリピン || 71 || 0
|-
| 1945年1月6日 || ロング || 駆逐艦 || フィリピン || 1 || 35
|-
| 1945年2月21日 || [[ビスマーク・シー (護衛空母)|ビスマーク・シー]] || 護衛空母 || 硫黄島 || 318 || 99
|-
| 1945年4月2日 || ディカーソン || 輸送駆逐艦 || 沖縄 || 54 || 97
|-
| 1945年4月6日 || [[ブッシュ (DD-529)|ブッシュ]] || 駆逐艦 || 沖縄 || 94 || 32
|-
| 1945年4月6日 || コルホーン || 駆逐艦 || 沖縄 || 35 || 21
|-
| 1945年4月6日 || [[エモンズ (駆逐艦)|エモンズ]] || 掃海駆逐艦 || 沖縄 || 64 || 71
|-
| 1945年4月6日 || ホッブス・ビクトリー || 弾薬輸送船 || 沖縄 || 13 || 2
|-
| 1945年4月6日 || ローガン・ビクトリー || 弾薬輸送船 || 沖縄 || 15 || 9
|-
| 1945年4月7日 || LST-447 || 戦車揚陸艦 || 沖縄 || 5 || 17
|-
| 1945年4月12日 || [[マナート・L・エベール (駆逐艦)|マナート・L・エベール]] || 駆逐艦 || 沖縄 || 82 || 32
|-
| 1945年4月12日 || LCS-36 || 上陸支援艇 || 沖縄 || 4 || 29
|-
| 1945年4月16日 || [[プリングル (駆逐艦)|プリングル]] || 駆逐艦 || 沖縄 || 65 || 100
|-
| 1945年4月22日 || スワロー || 掃海艇 || 沖縄 || 2 || 9
|-
| 1945年4月22日 || LCS-15 || 上陸支援艇 || 沖縄 || 15 || 11
|-
| 1945年4月27日 || カナダ・ビクトリー || ビクトリー型輸送艦 || 沖縄 || 3 || 5
|-
| 1945年5月3日 || [[リトル (DD-803)|リトル]] || 駆逐艦 || 沖縄 || 30 || 79
|-
| 1945年5月4日 || LSM(R)-195 || 中型揚陸艦 || 沖縄 || 8 || 16
|-
| 1945年5月4日 || モリソン || 駆逐艦 || 沖縄 || 152 || 102
|-
| 1945年5月4日 || [[ルース (DD-522)|ルース]] || 駆逐艦 || 沖縄 || 150 || 94
|-
| 1945年5月4日 || LSM(R)-190 || 中型揚陸艦 || 沖縄 || 13 || 18
|-
| 1945年5月4日 || LSM(R)-194 || 中型揚陸艦 || 沖縄 || 13 || 23
|-
| 1945年5月9日 || オバーレンダー || 護衛駆逐艦 || 沖縄 || 54 || 51
|-
| 1945年5月25日 || ベイツ || 輸送駆逐艦 || 沖縄 || 21 || 35
|-
| 1945年5月25日 || LSM-135 || 中型揚陸艦 || 沖縄 || 11 || 10
|-
| 1945年5月28日 || ドレクスラー || 駆逐艦 || 沖縄 || 158 || 51
|-
| 1945年6月10日 || ウィリアムD. ポーター || 駆逐艦 || 沖縄 || 0 || 61
|-
| 1945年6月16日 || トゥィッグス || 駆逐艦 || 沖縄 || 193 || 34
|-
| 1945年6月21日 || LSM-59 || 中型揚陸艦 || 沖縄 || 2 || 8
|-
| 1945年6月21日 || [[バリー (DD-248)|バリー]] || 輸送駆逐艦 || 沖縄 || 0 || 30 <ref group="注">5月25日の大破時の負傷者、沈没時には死傷者なし</ref>
|-
| 1945年7月28日 || [[キャラハン (駆逐艦)|キャラハン]] || 駆逐艦 || 沖縄 || 47 || 73
|-
| 合計 || 51隻 || || || 2,353名 || 1,905名
|}
 
※ソノマとLCI1065は、日本で最初の特攻と言われる神風特攻隊[[敷島隊]]等より前の沈没艦であるが、米軍公式記録上は特攻機(suicide plane)によるものとなっている。<ref>[http://www.navsource.org/Naval/1944.htm"http://www.navsource.org/Naval/1944"]</ref>
 
;水中特攻(回天)
 
[[File:USS Mississinewa (AO-59) 20 November 1944B.jpg|thumb|right|300px|1944年11月20日、[[仁科関夫]]中尉搭乗の回天が命中し沈没した武装タンカー[[ミシシネワ (AO-59)|ミシシネワ]]。]]
 
{| class="wikitable"
|-
! 沈没日 !! 艦名 !! 艦種 !! 場所 !! 戦死者 !! 負傷者
|-
| 1944年11月20日 || [[ミシシネワ (AO-59)|ミシシネワ]] || 武装タンカー || ウルシー || 63 || 95
|-
| 1945年1月12日 || LCI-560 || 歩兵揚陸艇 || ウルシー || 3 || 0
|-
| 1945年7月24日 || [[アンダーヒル (護衛駆逐艦)|アンダーヒル]] || 護衛駆逐艦 || フィリピン || 112 || 約100
|-
| 合計 || 3隻 || || || 178名 || 195名
|}
 
;水中特攻(特殊潜航艇)
 
{| class="wikitable"
|-
! 沈没日 !! 艦名 !! 艦種 !! 場所 !! 戦死者 !! 負傷者
|-
| 1942年5月30日 || ブリティッシュ・ロイヤリティ <ref group="注">引き上げられて再利用されたが、その後にドイツ軍のUボートの雷撃で大破、沈まなかったが放棄された。</ref> || タンカー || ディエゴ・スアレス || 不明 || 不明
|-
| 1942年5月31日 || クッタブル || 宿泊艦 || シドニー || 19 || 0
|-
| 1945年3月26日 || ハリガン<ref group="注">米軍公式記録では機雷により沈没となっているが、戦後暫く経ってからの調査で甲標的丙型の雷撃による撃沈の可能性も高い事が判明した(木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」図書出版社,1993/8/15 http://www.combinedfleet.com/Okinawa.htm )</ref> || 駆逐艦 || 沖縄 || 162 || 不明
|-
| 合計 || 3隻 || || || 181名 || 不明
|}
※セブ島に展開していた第33特別根拠地隊が、駆逐艦1隻を撃沈したという資料もあるが<ref>中村秀樹『本当の特殊潜航艇の戦い』光人社NF文庫</ref>米軍公式記録に該当する駆逐艦の沈没なし(第33特別根拠地隊が作戦活動した1944年11月~1945年3月頃迄に潜水艦に撃沈された駆逐艦は護衛駆逐艦[[エヴァソール (護衛駆逐艦)|エヴァソール]]のみ、但しこれは[[伊号第四十五潜水艦]]の戦果)
;水上特攻(震天・マルレ)
{| class="wikitable"
|-
! 艦種 !! 隻数 !! 戦死者 !! 負傷者
|-
| 上陸支援艇 || 3隻 || 27名 || 22名
|-
| 歩兵揚陸艇 || 2隻 || 8名 || 11名
|-
| 哨戒艇 || 2隻 || 5名 || 5名
|-
| 合計 || 7隻 || 40名 || 38名
|}
 
=== 特攻攻撃の損傷で除籍となった連合軍艦艇 ===
 
※米本土に曳航されたが修理不能と判定され除籍されたか、戦後に行われた損傷艦艇の検査の際に、新造以上のコストがかかると判定され、海軍作戦部長命で廃艦指示された艦<ref> アーノルド・S・ロット 他1名 沖縄特攻 (文庫版航空戦史シリーズ (27)) 朝日ソノラマ社 P277</ref>。
 
[[File:USS Newcomb Damage 1945.jpg|thumb|right|240px|1945年5月6日、5機の特攻機が命中した駆逐艦[[ニューコム (駆逐艦)|ニューコム]]。損傷が酷く本土に曳航後除籍。特攻では撃沈に至らなくても、本艦と同様に除籍された艦も多い。]]
;航空特攻
{| class="wikitable sortable"
|-
! 損傷日 !! 艦名 !! 艦種 !! 場所 !! 戦死者 !! 負傷者
|-
| 1945年1月5日 || ブルックス || 輸送駆逐艦 || フィリピン || 3 || 11
|-
| 1945年1月6日 || ベルナップ || 輸送駆逐艦 || フィリピン || 38 || 49
|-
| 1945年4月6日 || [[ロイツェ (駆逐艦)|ロイツェ]] || 駆逐艦 || 沖縄 || 8 || 33
|-
| 1945年4月6日 || [[ニューコム (駆逐艦)|ニューコム]] || 駆逐艦 || 沖縄 || 43 || 64
|-
| 1945年4月6日 || ウィッター || 掃海駆逐艦 || 沖縄 || 6 || 6
|-
| 1945年4月6日 || モリス || 駆逐艦 || 沖縄 || 13 || 45
|-
| 1945年4月16日 || ハーディング || 掃海駆逐艦 || 沖縄 || 22 || 10
|-
| 1945年4月29日 || ハガード || 駆逐艦 || 沖縄 || 11 || 40
|-
| 1945年5月3日 || アーロン・ウォード || 掃海駆逐艦 || 沖縄 || 45 || 49
|-
| 1945年5月4日 || シェイ || 掃海艦 || 沖縄 || 27 || 97
|-
| 1945年5月4日 || [[サンガモン (護衛空母)|サンガモン]] || 護衛空母 || 沖縄 || 46 || 116
|-
| 1945年5月9日 || イングランド || 護衛駆逐艦 || 沖縄 || 35 || 27
|-
| 1945年5月11日 || ヒュー・w・ハドレイ || 駆逐艦 || 沖縄 || 28 || 67
|-
| 1945年5月11日 || エヴァンス || 駆逐艦 || 沖縄 || 30 || 29
|-
| 1945年5月20日 || チェ―ス || 掃海駆逐艦 || 沖縄 || 0 || 35
|-
| 1945年5月20日 || サッチャー || 駆逐艦 || 沖縄 || 14 || 53
|-
| 1945年5月25日 || スペクタクル || 掃海艦 || 沖縄 || 29 || 6
|-
| 1945年5月25日 || バトラー || 掃海駆逐艦 || 沖縄 || 9 || 不明
|-
| 1945年5月26日 || PC1603 || 駆潜艇 || 沖縄 || 3 || 15
|-
| 1945年5月29日 || シュブリック || 駆逐艦 || 沖縄 || 32 || 28
|-
| 1945年6月6日 || ウィリアム・ディッター || 掃海駆逐艦 || 沖縄 || 10 || 27
|-
| 合計 || 21隻 || || || 449名 || 794名
|}
 
;水上特攻(震洋・マルレ)
{| class="wikitable"
|-
! 損傷日 !! 艦名 !! 艦種 !! 場所 !! 戦死者 !! 負傷者
|-
| 1945年1月10日 || ウォー・ホーク || 攻撃輸送艦 || 沖縄 || 61 || 32
|-
| 1945年4月27日 || ハッチンス || 駆逐艦 || 沖縄 || 0 || 20
|-
| 合計 || 2隻 || || || 61名 || 52名
|}
 
=== 特攻攻撃によって損傷した連合軍の主力艦(巡洋艦以上) ===
[[File:USS Intrepid (CV-11) - Nov 44 b.jpg|thumb|right|300px|1944年11月25日、特攻攻撃で大破し175名の死傷者を出した空母[[イントレピッド (空母)|イントレピッド]]での戦死者の水葬。]]
[[File:USS Franklin (CV-13) war damage report 30 October 1944.jpg|thumb|right|300px|1944年10月30日、特攻機により大破した空母[[フランクリン (空母)|フランクリン]]の被害報告書。]]
 
{| class="wikitable"
|-
! 艦名 !! 艦種 !! 損傷場所 !! 戦死者 !! 負傷者 !! 備考
|-
|[[コロラド (戦艦)|コロラド]] || 戦艦 || フィリピン || 19 || 72 ||
|-
| [[メリーランド (戦艦)|メリーランド]] || 戦艦 || フィリピン.沖縄(合計2回) || 62 || 68 ||
|-
| [[ニューメキシコ (戦艦)|ニューメキシコ]] || 戦艦 || フィリピン・沖縄(合計2回) || 84 || 206 || フィリピンでは艦橋に特攻機が命中、英陸軍ラムズデン中将と本艦艦長フレミング大佐戦死し、[[タイム (雑誌)|タイム]]誌の従軍記者も死亡した
|-
| [[カリフォルニア (戦艦)|カリフォルニア]] || 戦艦 || フィリピン || 45 || 151 ||
|-
| [[ミシシッピ (戦艦)|ミシシッピ]] || 戦艦 || フィリピン・沖縄(合計2回) || 27 || 71 ||
|-
| [[ネバダ (戦艦)|ネバダ]] || 戦艦 || 沖縄 || 11 || 47 ||
|-
| [[メリーランド (戦艦)|メリーランド]] || 戦艦 || 沖縄 || 31 || 38 ||
|-
| [[ウェストバージニア (戦艦)|ウェストバージニア]] || 戦艦 || 沖縄 || 4 || 23 ||
|-
| [[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]] || 戦艦 || 沖縄(合計2回) || 0 || 3 ||
|-
| [[テネシー (戦艦)|テネシー]] || 戦艦 || 沖縄 || 23 || 176 ||
|-
| [[アイダホ (戦艦)|アイダホ]] || 戦艦 || 沖縄(合計2回) || 0 || 13 ||
|-
| [[ニューヨーク (戦艦)|ニューヨーク]] || 戦艦 || 沖縄 || 0 || 2 ||
|-
| [[オクラホマ (戦艦)|オクラホマ]] || 戦艦 || 真珠湾 || 429 || 32 || 1999年~2009年にかけ、軍事専門家のピーター・フス氏の研究グループや、米海軍史研究家のパークス・スティーブンソン氏らの研究グループなど複数のグループが、真珠湾攻撃で[[甲標的]]の発射した魚雷が命中し、転覆の原因となったと発表<ref name="latimes">Maugh, Thomas H., II, [http://www.latimes.com/news/nation-and-world/la-sci-minisub7-2009dec07,0,6991792.story "Pearl Harbor mini-submarine mystery solved? Researchers think they have found the remains of a Japanese mini-submarine that probably fired on U.S. battleships on Dec. 7, 1941"], ''Los Angeles Times'', December 7, 2009</ref>、米海軍戦史研究所発行の月刊誌「Naval History」にも掲載され、TⅤでも報道された<ref>http://www.pbs.org/wgbh/nova/military/killer-subs-pearl-harbor.html</ref>
|-
| [[ラミリーズ (戦艦・2代)|ラミリーズ]] || 英軍戦艦 || ディエゴ・スアレス || 不明 || 不明 || [[甲標的]]の雷撃で大破。修理と改装に1年を要した。
|-
| [[イントレピッド (空母)|イントレピッド]] || 正規空母 || フィリピン.室戸沖・沖縄(合計4回) || 97 || 236 || 米軍艦艇では最多の特攻被害艦
|-
| [[フランクリン (空母)|フランクリン]] || 正規空母 || フィリピン(合計2回) || 57 || 24 || 修理から復帰後に[[九州沖航空戦]]で緩降下爆撃により甚大な損害を被った
|-
| [[レキシントン (CV-16)|レキシントン]] || 正規空母 || フィリピン || 50 || 132 ||
|-
| [[エセックス (空母)|エセックス]] || 正規空母 || フィリピン || 15 || 44 ||
|-
| [[ハンコック (空母)|ハンコック]] || 正規空母 || フィリピン.沖縄(合計2回) || 62 || 73 ||
|-
| [[タイコンデロガ (空母)|タイコンデロガ]] || 正規空母 || 台湾沖 || 143 || 202 ||艦長のディクシー・キーファー大佐も65か所の傷を負い、腕を骨折する重傷を負った。終戦まで完治せず、1945年11月に軍用機墜落で事故死したが、その際も未だ腕を吊ったままだった。<ref>[http://www.history.navy.mil/research/histories/bios/kiefer-dixie.html"Dixie Kiefer"]</ref>
|-
| [[サラトガ (CV-3)|サラトガ]] || 正規空母 || 硫黄島 || 123 || 192 ||
|-
| [[ランドルフ (空母)|ランドルフ]] || 正規空母 || ウルシー || 25 || 106 ||
|-
| [[ワスプ (CV-18)|ワスプ]] || 正規空母 || 室戸沖 || 101 || 269 || 原因は急降下爆撃<ref>[http://www.navsource.org/Naval/1945.htm"http://www.navsource.org/Naval/1945"]</ref>もしくは特攻機<ref>ワスプ復員軍人会『USS Wasp Vol. Ⅱ』p.175</ref><ref>Peter C Smiyh『Kamikaze: To Die for the Emperor』p.89</ref><ref> Dick Atkins 『American Sailor Serves His Country 』Xulon Press p.283</ref>いずれか 
|-
| [[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]] || 正規空母 || 沖縄(合計2回) || 18 || 86 ||
|-
| [[バンカーヒル (空母)|バンカーヒル]] || 正規空母 || 沖縄 || 402 || 264 || 特攻攻撃単独では最大の人的被害
|-
| [[インディファティガブル (空母)|インディファティガブル]] || 英軍正規空母 || 沖縄 || 27 || 21 || 本艦も含めた沖縄戦従軍の英軍正規空母は、全艦特攻攻撃で損傷している
|-
| [[イラストリアス (空母)|イラストリアス]] || 英軍正規空母 || 沖縄 || 0 || 0 ||
|-
| [[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]] || 英軍正規空母 || 沖縄 || 9 || 59 ||
|-
| [[インドミタブル (空母)|インドミタブル]] || 英軍正規空母 || 沖縄 || 0 || 0 ||
|-
| [[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]] || 英軍正規空母 || 沖縄 || 4 || 24 ||
|-
| [[ベローウッド (空母)|ベローウッド]] || 軽空母 || フィリピン || 92 || 54 ||
|-
| [[カボット (空母)|カボット]] || 軽空母 || フィリピン || 36 || 16 ||
|-
| [[ラングレー (CVL-27)|ラングレー]] || 軽空母 || 台湾沖 || 0 || 0 ||
|-
| [[サン・ジャシント (空母)|サン・ジャシント]] || 軽空母 || 沖縄 || 1 || 5 ||
|-
| [[バターン (空母)|バターン]] || 軽空母 || 沖縄 || 9 || 50 ||
|-
| [[スワニー (護衛空母)|スワニー]] || 護衛空母 || フィリピン(合計2回) || 107 || 160 ||
|-
| [[サンティー (護衛空母)|サンティー]] || 護衛空母 || フィリピン || 16 || 27 ||
|-
| [[キトカン・ベイ (護衛空母)|キトカン・ベイ]] || 護衛空母 || フィリピン(合計2回) || 18 || 56 || 1回目は機体命中したが爆弾が海上に落下、2回目は爆弾が不発で致命的な損傷を逃れている
|-
| [[ホワイト・プレインズ (護衛空母)|ホワイト・プレインズ]] || 護衛空母 || フィリピン || 1 || 20 ||
|-
| [[カリニン・ベイ (護衛空母)|カリニン・ベイ ]] || 護衛空母 || フィリピン || 5 || 55 ||
|-
| [[マーカス・アイランド (護衛空母)|マーカス・アイランド]] || 護衛空母 || フィリピン || 1 || 1 ||
|-
| [[マニラ・ベイ (護衛空母)|マニラ・ベイ]] || 護衛空母 || フィリピン || 22 || 56 ||命中した1機は遺品により 半世紀ぶりに第十八金剛隊丸山隆中尉機と判明した<ref>[http://www.naniwa-navy.com/senbotu-maruyama-sugawara.html"米護衛空母に突入した特攻隊員の遺族を捜せ"なにわ会HPより]</ref>
|-
| [[サボ・アイランド (護衛空母)|サボ・アイランド]] || 護衛空母 || フィリピン || 0 || 0 ||
|-
| [[カダシャン・ベイ (護衛空母)|カダシャン・ベイ]] || 護衛空母 || フィリピン || 29 || 22 ||
|-
| [[サラマウア (護衛空母)|サラマウア]] || 護衛空母 || フィリピン || 15 || 88 ||
|-
| [[ルンガ・ポイント (護衛空母)|ルンガ・ポイント]] || 護衛空母 || 硫黄島 || 0 || 11 ||
|-
| [[ウェーク・アイランド (護衛空母)|ウェーク・アイランド]] || 護衛空母 || 沖縄 || 0 || 0 ||
|-
| [[ナトマ・ベイ (護衛空母)|ナトマ・ベイ]] || 護衛空母 || 沖縄 || 1 || 4 ||
|-
| [[ルイビル (重巡洋艦)|ルイビル]] || 重巡洋艦 || フィリピン・沖縄(合計3回) || 45 || 152 || フィリピン戦では米第七艦隊・第77.2任務部隊旗艦であったが、特攻攻撃により司令のセオドア・チャンドラー少将が戦死した。また命中したのは神風特攻旭日隊吹野匡中尉と三好精策少尉搭乗の彗星であったことが、元乗組員が持ち帰った破片から判明した。 <ref>菅原完『知られざる太平洋戦争秘話』 光人社NF文庫</ref>
|-
| [[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]] || 重巡洋艦 || フィリピン || 0 || 2 ||
|-
| [[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]] || 重巡洋艦 || 沖縄 || 9 || 20 || 艦尾に特攻攻撃を受け航行不能、米本土での修理後に原爆輸送の特殊任務に従事、任務後に回天作戦中の[[伊号第五八潜水艦|伊58]]により撃沈(通常魚雷の雷撃による)
|-
| [[オーストラリア (重巡洋艦)|オーストラリア]] || 豪軍重巡洋艦 || フィリピン(合計5回) || 87 || 120 || 軽微な損傷を含めると5回(6回という説もあり)の最多の特攻被害艦、一回目は神風特攻隊「ゼロ号」の男こと[[久納好孚]]中尉機とも言われている<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫91-92頁</ref>
|-
| [[デンバー (軽巡洋艦)|デンバー]] || 軽巡洋艦 || フィリピン || 0 || 4 ||
|-
| [[モントピリア (軽巡洋艦)|モントピリア]] || 軽巡洋艦 || フィリピン || 0 || 11 ||
|-
| [[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]] || 軽巡洋艦 || フィリピン || 133 || 190 || 特攻攻撃された2か月前までは[[ダグラス・マッカーサー]]が旗艦として座乗していた
|-
| [[セントルイス (軽巡洋艦)|セントルイス]] || 軽巡洋艦 || フィリピン || 16 || 43 ||
|-
| [[コロンビア (軽巡洋艦)|コロンビア]] || 軽巡洋艦 || フィリピン || 37 || 113 ||
|-
| [[ビロクシ (軽巡洋艦)|ビロクシ]] || 軽巡洋艦 || 沖縄 || 0 || 2 || 命中した特攻機の500㎏爆弾が不発で損傷は軽微だった
|-
| [[バーミンガム (軽巡洋艦)|バーミンガム]] || 軽巡洋艦 || 沖縄 || 51 || 81 || レイテ沖海戦で軽空母プリンストンの爆発に巻き込まれ大破、その復帰後間もなく再度の戦線離脱に追い込まれた
|-
| 合計 || || || 2,599名 || 3,997名 ||
|}
 
=== 特攻攻撃によって甚大な損害を被った連合軍艦艇(駆逐艦以下) ===
[[File:USS Lindsey (MMD-32).jpg|thumb|right|300px|1945年4月12日、特攻攻撃で艦首を失う甚大な損傷を被った掃海駆逐艦リンゼー。]]
{| class="wikitable"
|-
! 艦名 !! 艦種 !! 損傷場所 !! 戦死者 !! 負傷者
|-
| リドル || 輸送駆逐艦 || フィリピン || 36 || 22
|-
| コールドウェル || 輸送駆逐艦 || フィリピン || 33 || 40
|-
| アウリック || 駆逐艦 || フィリピン || 32 || 64
|-
| ドゥ・ページ || 駆逐艦 || フィリピン || 32 || 157
|-
| オブライエン || 駆逐艦 || 沖縄 || 50 || 76
|-
| マラニー || 駆逐艦 || 沖縄 || 30 || 36
|-
| キッド || 駆逐艦 || 沖縄 || 38 || 55
|-
| ホワイトハースト || 輸送駆逐艦 || 沖縄 || 37 || 37
|-
| リンゼー || 掃海駆逐艦 || 沖縄 || 52 || 60
|-
| シグピー || 駆逐艦 || 沖縄 || 22 || 74
|-
| ラッフェイ || 駆逐艦 || 沖縄 || 32 || 71
|-
| ブライアント || 駆逐艦 || 沖縄 || 34 || 33
|-
| イシャーウッド || 駆逐艦 || 沖縄 || 42 || 41
|-
| ヘーゼルウッド || 駆逐艦 || 沖縄 || 46 || 36
|-
| バーチェ || 駆逐艦 || 沖縄 || 57 || 32
|-
| ブレイン || 駆逐艦 || 沖縄 || 66 || 78
|-
| カシンヤング || 護衛駆逐艦 || 沖縄(合計2回) || 23 || 104
|-
| ボリー || 駆逐艦 || 沖縄 || 48 || 66
|-
| マシューPデェディ || リバティ型輸送艦 || フィリピン || 61 || 104
|-
| ジェレミーMデイリー || リバティ型輸送艦 || フィリピン || 106 || 43
|-
| トーマス・ネルソン || リバティ型輸送艦 || フィリピン || 168 || 88
|-
| アキレス || ドッグ艦 || フィリピン || 33 || 28
|-
| マーカス・デイリー || リバティ型輸送艦 || フィリピン || 203 || 49
|-
| オレステス || 魚雷艇補給艦 || フィリピン || 59 || 109
|-
| キールⅤジョンソン || リバティ型輸送艦 || フィリピン || 130 || 9
|-
| ヘンライコ || 攻撃輸送艦 || 沖縄 || 49 || 125
|-
| コンフォート || 病院船 || 沖縄 || 30 || 48
|-
| ピンクニ― || 傷病者輸送艦 || 沖縄 || 35 || 12
|-
| テラー || 掃海艦 || 沖縄 || 48 || 123
|-
| ラグランジ || 攻撃輸送艦 || 沖縄 || 21 || 89
|-
| 合計 || 30隻 || || 1,677名 || 2,025名
|}
 
他、軽微な損傷の小艦艇及び補助艦艇は省略
 
== 特攻対策 ==
フィリピン戦での特攻による損害を重く見た米海軍は、最初の特攻被害からわずか1ヶ月後の1944年11月24日から26日の3日間に渡り、サンフランシスコにて、ワシントンから米海軍省首脳と、真珠湾から太平洋艦隊司令部幕僚と、フィリピンの前線から第三艦隊司令[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア|ハルゼー]]中将と第38任務部隊司令[[マーク・ミッチャー|ミッチャー]]少将の、海軍中央から実戦部隊までの幕僚らが一堂に会して、異例とも言える特攻対策の集中会議を行った。<ref>冨永謙吾・安延多計夫『神風特攻隊―壮烈な体あたり作戦』秋田書店 p75</ref>。
航空特攻に対しては、[[対空砲火]]、[[射撃管制装置|射撃指揮レーダー]]、[[レーダーピケット艦]]、[[戦闘機]]による[[迎撃]]、[[近接信管|VT信管]]などの対策がとられた。フィリピンで特攻による損害を強いられた連合国軍は、沖縄戦の頃にはピケット艦や空母艦載機編成の改編等様々な対策を採っており、特攻の有効性は大きく減じられることとなった。
 
その後も対策会議は継続的に行われ、航空特攻に対して、回避運動、[[射撃管制装置|射撃指揮レーダー]]や[[近接信管]]を駆使した[[対空砲火]]、、[[レーダーピケット艦]]、[[戦闘機]]による迎撃、などの対策が次々と講じられ、特攻の有効性が減じられる事となった。
ニミッツはこれらの特攻対策が強化された事と、本土決戦準備の航空機温存策で日本軍の特攻攻撃が減衰した沖縄戦末期の6月上旬ごろには「神風特攻の脅威を自信をもってはね返すとこまで来ていた」と胸を張っている。<ref>『ニミッツの太平洋海戦史』チェスター・ニミッツ 恒文社p.443</ref>
 
=== 回避運動 ===
443 ⟶ 1,201行目:
下表<ref>“Naval Weapons of World War Two” (Conway) より</ref>はアメリカ軍が比島戦時に通常攻撃と特攻に対して、対空砲火の有効性を判定したものである。ただしアメリカ軍側からのみの判定であり、特攻と通常攻撃が一部混同されている可能性が高いことを付記しておく。
 
一般特攻を無化した評価されている<ref> NHK取材班編 『太平洋戦争 日本の敗因3 電子兵器 カミカゼを制す』 角川文庫</ref><ref>小沢郁郎『つらい真実─虚構の特攻隊神話』ISBN 978-4-88621-014-2 {{要ページ番号|date=2015-06-28}}</ref>5インチ[[近接信管|VT信管]]、実際には特攻に対しては意外に大きな効果を挙げておらず、対して[[ボフォース 40mm機関砲|40mmボフォース]]は通常攻撃より少ない投射弾数で撃墜判定に至っていることがわかる。つまり通常攻撃機は追い払うか攻撃を失敗させれば良いが、特攻機は突入を図ってくるため確実に撃墜しなければならないこと、高角砲のレンジ(射程)では有効な打撃を与えきれずにボフォースのレンジへの突入をしばしば許していることがこの判定結果に現れている(さらに言えば撃墜判定数が少ない場合は小数機に多数の砲が集中されているということであり、結果的に消費弾量が大きく増加している)。
その為、特攻機に対し一番有効であった[[ボフォース 40mm機関砲|40mmボフォース]]が大幅に増設され、エセックス級空母では、当初は4連マウント×8基=32門だったのが、最多で18基=72門まで増設され、[[Mk.51 射撃指揮装置]] により射撃管制されていた。<ref>多田智彦「エセックス級のメカニズム (特集 米空母エセックス級)」、『世界の艦船』第761号、海人社、2012年6月、 84-91頁、</ref>
 
この高角砲の威力不足は深刻な問題とされ、戦後ボフォース4連装がVT付き[[Mk 33 3インチ砲|3インチ両用砲]]に換装される大きな動機となった。
496 ⟶ 1,255行目:
|-
|}
 
=== レーダーピケットライン ===
[[File:US_Navy_Battle_of_Okinawa_radar_picket_stations_1945.jpg|thumb|left|250px|沖縄本島残波岬(米軍呼称BOLO)を起点としたレーダーピケットライン]]
沖縄本島の残波岬を中心点とし、沖縄本島を取り囲む様に16ブロックの海域に分け、各ブロックに複数の対空レーダーを装備した駆逐艦等のピケット艦を配置した。<br>
さらに各ブロックは、中心点より70~100km離れた遠距離ブロックと、15~50㎞の近距離ブロックに分けられた。そのブロックに、駆逐艦数隻と駆逐艦より多数の補助艦艇で編成されたピケットチームが配置されたが、各艦は警戒網に穴が出来ないように、ブロック海域内に円状に展開していた。<br>
また沖縄本島から離れた海域に展開していた[[第58任務部隊]]周囲にも、多数のピケット艦を配置した。<br>
それで特攻機の接近を探知すると、各艦に設置された[[戦闘指揮所]](CIC)からの通知で、上空待機している戦闘機を最適位置に迎撃に向かわせると共に、ピケット艦と戦艦・巡洋艦を特攻機進入海域に集中させ、対空砲火を濃密にした。<ref>ハンソン・ボールドウィン『sea fight and ships wrecks』挿入図</ref><br>
その為に沖縄戦では、常に多数の敵戦闘機が待ち受け、その追撃は執拗であったと海軍航空隊参謀安延大佐が回想している。<ref>吉村貞昭『世界が語る神風特別攻撃隊』ハート出版 p194</ref><br>
また早期警戒能力強化の為、沖縄本島の北部と沖縄周辺の小島に、[[レーダーサイト]]を多数設置した。<ref>『ニミッツの太平洋海戦史』チェスター・ニミッツ 恒文社p.443</ref><br>
しかし、日本軍は電探紙(今で言う[[チャフ]])を投下し、レーダー妨害策を取った。また、特攻機がピケットライン分断の為に[[レーダーピケット艦]]を攻撃目標とした事により、ピケット艦の損害が増大した為、米軍はピケット艦自身に護衛機を付けるという対策で対抗している。<ref>『ニミッツの太平洋海戦史』チェスター・ニミッツ 恒文社p.443</ref><br>
 
=== 戦闘機による迎撃 ===
 
正規空母の標準搭載機の[[艦上爆撃機]]と[[艦上攻撃機]]を減らし、[[艦上戦闘機]]を倍増した。<br>
 
'''空母[[エセックス (空母)|エセックス]]の標準搭載機数の変遷'''<ref>[http://www.researcheratlarge.com/Ships/Airgroups/CV-9.html"U.S.NAVY AIR GROUPS CV-9 Essex"]</ref>。<br>
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:18%;"|
! style="width:18%;"|[[F6F (航空機)|F6F(艦上戦闘機)]]<ref group="注">夜間戦闘機型も含む</ref>
! style="width:18%;"|[[SB2C (航空機)|SB2C(艦上爆撃機)]]
! style="width:18%;"|[[TBF (航空機)|TBF(艦上攻撃機)]]
! style="width:18%;"|[[F4U (航空機)|F4U(艦上戦闘機)]]
|- sytle="border:1px solid #000000;"
| 1944年7月(特攻開始前) || 39機 || 36機 || 20機|| -
|-
| 1945年4月(沖縄戦開始時) || 38機 || 15機 || 15機|| 36機
|-
|}
艦爆・艦攻減による攻撃力低下は、艦戦(ⅤF)の一部を戦闘爆撃機(ⅤBF)として運用することによって対応し、増加搭載する戦闘機は海兵隊戦闘機(ⅤMF)より補充した。<br>
しかし、海兵隊のパイロットは空母の発着艦ができない為、急遽集中訓練が行われたが、事故が多発し、空母[[エセックス (空母)|エセックス]]だけでも、最初の9日間で13機の戦闘機が訓練中の事故で失われ、7名の海兵隊パイロットが事故死している。<ref>冨永謙吾・安延多計夫『神風特攻隊―壮烈な体あたり作戦』秋田書店 p77</ref>。<br>
 
== 特攻隊員 ==
504 ⟶ 1,294行目:
特攻隊員には自決するための特攻隊用短刀が下賜された。東京・秋葉原にあった陸海軍御用鞘師(佐官待遇)の処にて刀身が製作された。鞘に[[物心一如]]と[[真言宗]][[空海]]の言葉が鞘書きされている。[[ハバキ]]は木製。刀袋に入れて特攻隊員に授与された。[[File:特攻隊用短刀.jpg|thumb|特攻隊の自決用に製作された短刀。神風特攻隊、人間魚雷回天、陸軍の特攻隊員に下賜された。刀身は不錆刀。]]
 
日本陸軍の[[振武寮]]では、特攻振武隊員として出撃したが何らか1,276名要因うち、機体故障などの理由により攻撃に至らずに基地にってした特攻隊員605名の内の一部が[[福岡県]]の[[振武寮]](福岡女学院女子寮)対し、隔離された。中では担当者だった[[倉澤清忠]]らによって再教育と称し、反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経などをさせられ「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵倒されるなど、差別的待遇を受けた<ref>[[#重爆特攻]]3頁</ref>。その存在は秘匿されていたとの事で、軍の公式資料では詳細を確認できない。再教育の後、特攻隊員の生き残りは、[[本土決戦]]のための特攻要員として全国に再配置された
<p>[[振武寮]]は、小説[[月光の夏]]でその存在が広まったが、存在した期間は1か月余、隔離された人数も最大で80名<ref>[NHK特集 許されなかった帰還 ~福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争~]</ref>とされている。
その為、陸軍振武隊の生還者でも全員が[[振武寮]]に隔離されたとする証言をしているという事でもない。<ref>[http://www.navsource.org/Naval/1945.htm"板津忠正氏証言"]</ref></p>
 
日本海軍では、航空機による体当たり攻撃を「神風特別攻撃隊」として統一名で呼称した。名称は[[猪口力平]]中佐の発案によるもので、郷里の道場「神風(しんぷう)流」から名付けたものである<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p.52-53</ref>。一方で第201航空隊飛行長[[中島正]]少佐の証言では「かみかぜ」と読む<ref>押尾一彦著 モデルアート1995年11月号臨時増刊「神風特別攻撃隊」196頁</ref>。神風特攻隊は、心構えを厳粛にするため特別扱いはしない、勝手な体当たりの禁止と[[大西瀧治郎]]によって決められた<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 706頁</ref>。初期には特攻隊員は出撃前にぼた餅やいなり寿司をもらう儀式があったが、後に省略されていった。
但し特攻の前日の食事は豪勢であり、ビールなどの酒類も振る舞われたが、手を付けない隊員も多かったと言う。
戦艦の突入による玉砕攻撃は、[[豊田副武]]によって「海上特攻隊」と命名された<ref>奥宮正武『海軍特別攻撃隊』朝日ソノラマ78頁</ref>。
 
=== 志願 ===
[[ファイル:Lt Yukio Seki in flightgear.jpg|105px250px|thumb|right|最初の特別攻撃隊となる第1神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長として戦死し軍神と畏敬された[[関行男]]大尉]]
;日本陸軍
陸軍初の特攻部隊の1つ[[富嶽隊]]の選出方法は「志願を募ればみんな志願するので指名すればそれでいい」というものであった。もう1つの[[万朶隊]]は飛行隊長が面接を行い志願を募った<ref>戦史叢書48比島捷号陸軍航空作戦346-347頁</ref>。終戦後、アメリカ戦略爆撃調査団からの質問に対して、陸軍航空本部次長の[[河辺虎四郎]]中将は「志願者に不足することはなかった」と証言している<ref>小沢郁郎『つらい真実』同成社111頁</ref>。
 
藤井一中尉は、熊谷陸軍飛行学校の少年飛行兵の教官であったが、教え子が次々と特攻出撃し戦死する中で、自らも教え子と共に特攻出撃をする事を願い陸軍に二度に渡り特攻を志願するが、妻子があることや専門の搭乗員ではなかった為いずれも却下された。夫の固い決意を知った妻女は「私たちがいたのでは後顧の憂いとなり、十分な活躍ができないと思いますので、一足先に逝って待ってます。」との遺書を遺し、子供2人と入水自殺を遂げた。その後3回目の志願を血書で陸軍に提出、陸軍もようやく藤井中尉の志願を受理し、昭和20年5月28日四十五振武隊快心隊の隊長として出撃し戦死している。<ref>[http://www.geocities.jp/kamikazes_site/tokko_episode/fujiichui.html"特攻エピソード 「一足お先に逝って待っています」藤井一少佐「ドキュメント神風」より"]</ref>。
大倉巌陸軍少尉機は親戚の女性(許嫁)を同乗させ、谷藤徹夫陸軍少尉は自機に新妻を乗せて特攻した<ref>押尾一彦著「陸軍特別攻撃隊」(163頁)および「特別攻撃隊の記録 陸軍編」の神州不滅特別攻撃隊の項。</ref>。
 
陸士57期堀山久生中尉は、躊躇なく特攻志願しているが、その理由を「陸軍士官学校では、戦争が危急の際は率先して陸軍士官学校出の将校が危険な任務に就くべきと叩きこまれており、それが現役士官の取る道と考え、全員が志願した」と述べている。<ref>公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会 会報「特攻」89号 平成23年11月</ref>
 
大倉巌陸軍少尉機は親戚の女性(許嫁)を同乗させ、谷藤徹夫陸軍少尉は自機に新妻を乗せて特攻した<ref>押尾一彦著「陸軍特別攻撃隊」(163頁)および「特別攻撃隊の記録 陸軍編」の神州不滅特別攻撃隊の項 {{要ページ番号|date=2015-06-29}}。</ref>。
 
[[大刀洗]]陸軍飛行場に隣接した料亭経の娘は、黙々と酒を飲む組と、軍指導部を批判して荒れる組の二種類に分かれ、憲兵ですら手が出せず、朝まで酒を飲んで出撃していったと証言している<ref>[[#重爆特攻]]131-133頁</ref>。[[二等兵]]だった記者の[[渡邉恒雄]]は太平洋戦争終盤に行われていた特攻に関して「彼らが『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったと言うことは全て嘘であり、彼らは[[屠殺]]場の羊の身だった」「一部の人は立ち上がることが出来なくて機関兵士達により無理矢理飛行機の中に押し入れられた」と語っている<ref>New York Times,[http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F50C11FB3E5A0C728DDDAB0894DE404482 ''THE SATURDAY PROFILE; Shadow Shogun Steps Into Light, to Change Japan.''] Published: February 11, 2006. accessed February 15, 2007<br/>International Herald Tribune, [http://www.iht.com/articles/2006/02/10/news/MOGUL.php ''Publisher dismayed by Japanese nationalism.''] Published: February 10, 2006. accessed March 11, 2007</ref>。
525 ⟶ 1,322行目:
最初の神風特攻隊編成では、編成を一任された[[玉井浅一]]によれば、大西の決意と特攻の必要性を説明して志願を募ると、皆喜びの感激に目をキラキラさせ全員もろ手を上げて志願したという<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p.112</ref>。しかし当時の志願者の中には、特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井中佐が「行くのか行かんのか」と叫び、さっと一同の手が上がったと証言するものもいる<ref>森史朗『特攻とは何か』文春新書87-88頁</ref>。志願した浜崎勇によれば「仕方なくしぶしぶ手をあげた」という<ref>渡辺大助『特攻絶望の海に出撃せよ』新人物往来社36頁</ref>。志願者した山桜隊の高橋保男によれば「もろ手を挙げて志願した。意気高揚した。」という<ref>森史朗『特攻とは何か』文春新書105-107頁</ref>。志願した佐伯美津男によれば強制ではないと説明されたという<ref>『零戦、かく戦えり!』零戦搭乗員会編 文芸春秋307-308頁</ref>。志願者井上武によれば、中央は特攻に消極的だったため現場には不平不満がありやる気がうせていた、現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた、志願は親しんだ上官の玉井だからこそ抵抗もなかったという<ref>御田重宝『特攻』講談社15-16頁</ref>。
 
特攻第一号の隊長[[関行男]]大尉は海軍兵学校出身者という条件で上官が指名したものであった。人選に関わった[[猪口力平]]によれば指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせてください」と即答したという<ref name="kiroku">中島正/猪口力平『神風特別攻撃隊の記録』 ISBN 4-7928-0210-5 {{要ページ番号|date=2015-06-28}}</ref>が、人選した[[玉井浅一]]によれば関は「一晩考えさせてください」と即答を避け翌朝受けると返事をしたという。報道官に関は「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語った<ref>文芸春秋編『完本太平洋戦争下』124頁</ref>。
 
フィリピンの201空の奥井三郎は志願は氏名を書き封筒に入れ提出する方法で募集されたという<ref>御田重宝『特攻』講談社98-99頁</ref>。クラーク基地で神風特攻隊の志願者は前へと募集がかかると全員志願したため、多いので選考し連絡するということになった。志願者杉田貞雄によれば葛藤もあったが早いか遅いかの違いで行くものは誇るように残るものは取り残された気分になったという<ref>『零戦、かく戦えり!』零戦搭乗員会編 文芸春秋292-294頁</ref>。
 
[[菅野直]]大尉は特攻に再三志願したものの技量が高く直掩、制空に必要なため受理されなかった<ref>碇義朗『最後の撃墜王』光人社NF文庫304頁</ref>。[[杉田庄一]]上飛曹も特攻に志願したが菅野と同様の理由から許可されなかった<ref>神立尚紀『零戦最後の証言2』光人社NF文庫410-411頁</ref>。
 
[[角田和男]]少尉によれば特攻出撃前日の昼間に喜び勇んで笑顔まで見せていた特攻隊員たちが、夜になると一転して無表情のまま宿舎のベッドの上でじっと座り続けている光景を目の当たりにし、部下に理由を尋ねたところ、目をつぶると恐怖から雑念がわいて来るため、本当に眠くなるまであのようにしている。しかし朝が来ればまた昼間のように明るく朗らかな表情に戻ると聞かされ、どちらが彼らの素顔なのか分からなくなり割り切れない気持ちになったという<ref>『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』光人社 ISBN 4-7698-1041-5 {{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。搭乗前に失禁、失神する隊員もおり、怖じ気づいて整備兵に抱えられて搭乗するものもいた<ref>『昭和の名将と愚将』 ISBN 978-4-16-660618-4{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。
 
[[清水芳人]]によれば、海上特攻は否応なしの至上命令であったという<ref>神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ276頁</ref>。末期にはパイロットはすべて特攻要員に下命されたが、田中国義は何度でも行くからせめて爆撃をやらせてほしかったが誰にも言えることではなかったという<ref>『零戦、かく戦えり!』零戦搭乗員会編 文芸春秋54頁</ref>。
545 ⟶ 1,342行目:
殆どの特攻隊員は[[下士官]]・[[兵 (日本軍)|兵]]と[[学徒出陣]]の[[士官]]([[将校]])である。海軍では下士官・兵は[[予科練]]、陸軍では[[少年航空兵|少年飛行兵]]出身であり、部隊編成上特攻の主軸となった。そして学徒出陣の士官は海軍は主に[[海軍予備員|飛行予備学生]]、陸軍は主に[[幹部候補生 (日本軍)|甲種幹部候補生]]・[[特別操縦見習士官]]出身者からなる。特攻指導者[[冨永恭次]]陸軍中将の長男である冨永靖を始め、[[阿部信行]][[朝鮮総督]](陸軍大将、第36代総理大臣)、[[松阪広政]]司法大臣といった陸軍および政府高官の子息の一部も特攻隊員ないし特攻で戦死している。
 
海軍の全航空特攻作戦において士官クラス(少尉候補生以上)の戦死は769名。その内飛行予備学生が648名と全体の85%を占めた<ref name="kai">『海軍飛行科予備学生・生徒史』より {{要ページ番号|date=2015-06-28}}</ref>。これは当時の搭乗員における予備士官の割合をそのまま反映したものといえる。
 
あ号・捷号・天号作戦期間中の海軍搭乗員の戦死者数を下表<ref name="sen"/>に挙げる。比島戦期間中の数字には同時期に行われた501特攻隊・第一御盾隊の戦死者数が含まれる。
610 ⟶ 1,407行目:
* 海上挺進戦隊関連戦没者:1,573名
* 空挺部隊関連戦没者:100名
* その他(終戦時自決、[[神州不滅特別攻撃隊]]、大分701空による「'''宇垣軍団私兵特攻'''」など)戦没者:34名
* 合計:8,164名
 
以上合計14,009名を数える<ref>『特別攻撃隊全史』(特攻隊慰霊顕彰会)より{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。
 
=== 元特攻隊員の著名人 ===
659 ⟶ 1,456行目:
*1945年6月23日、沖縄での組織的戦闘が終結。以後、兵力、機材、燃料の枯渇及び本土決戦のための兵力温存のため散発的な特攻攻撃となる。
*1945年7月1日、第180振武隊が都城より出撃し、陸軍の沖縄航空特攻終わる。
*1945年7月28日、宮古島より出撃した神風特攻第三龍虎隊が駆逐艦キャラハン撃沈(他にも駆逐艦プリチェット、カシンヤング損傷)特攻による最後の撃沈艦。
*1945年8月11日、[[喜界島]]から海軍第2神雷爆戦隊2機が沖縄の連合軍艦船群に突入。沖縄への航空特攻終結。
*1945年8月13日、[[喜界島]]から海軍第2神雷爆戦隊2機が沖縄の連合軍艦船群に突入。攻撃輸送艦ラグランジ大破、戦死21名負傷89名、特攻による最後の損傷艦、沖縄への航空特攻終結。
*1945年8月15日、
**木更津から[[流星 (航空機)|流星]]1、百里原から彗星8が特攻出撃。最後の組織的特攻となった。
**正午に玉音放送があり終戦する。
**午後(夕刻)、[[宇垣纒]]海軍中将、計11機を指揮して大分基地から沖縄に特攻出撃。8機突入、戦果無し<ref group="注">この攻撃は玉音放送後の戦闘行動として、特攻扱いにはならず、また戦死扱いにもなっていない。</ref><ref>「特別攻撃隊」特攻隊慰霊顕彰会</ref>。
*{{要出典範囲|date=2015-06-29|1945年8月19日、神州不滅特別攻撃隊、大虎山飛行場から今田均少尉以下十名が赤峰付近に進駐し来るソ連戦車群に体当り全員自爆を遂げた<ref group="注">{{要出典範囲|date=2015-06-29|この攻撃は玉音放送後の戦闘行動、さらに2名女性を同乗させた軍紀違反の理由により、特攻扱いにはならず、また戦死扱いにもなっていない}}。</ref><ref group="注">記録には存在しない{{要出典番号|date=2015-06-29|幻の特攻隊と呼ばれている}}{{誰2|date=2015-06-29}}。公式記録では8月15日が最後の特攻とされているが{{要出典番号|date=2015-06-29|実は8月19日が正しいと一部ではいわれている}}{{誰2|date=2015-06-29}}。</ref><ref>[[世田谷観音]]「神州不滅特別攻撃隊之碑」碑文</ref>。
 
== 特別攻撃隊を描いた作品 ==
687 ⟶ 1,485行目:
* 『[[連合艦隊 (映画)|連合艦隊]]』
* 『[[永遠の僕たち]]』
* 『[[真夏のオリオン]]』
* 『[[永遠の0]]』2013年12月21日より、全国東宝系で公開。
* 『[[永遠の0]]』
* 『[[大日本帝国 (映画)|大日本帝国]]』
 
=== 音楽 ===
694 ⟶ 1,494行目:
* 『特攻隊節』(作者不詳、作曲:[[白頭山節]]から取った[[兵隊ソング]])
* 『あゝ特別攻撃隊』(作詞:[[川内康範]]、作曲:[[吉田正]]、歌:[[橋幸夫]]、1964年4月[[ビクターレコード]])
* 『あゝ回天』(作:[[山門芳馨]]/作曲:[[長津義司]]/歌:[[山田実]]、1973年[[テイチクレコード]])
* 『神風特攻隊』(作詞・作曲・歌:[[長渕剛]]、アルバム「[[Come on Stand up!]]」収録)
* 混声合唱組曲『初恋物語』(原詩:[[森村誠一]]、作曲:[[池辺晋一郎]])
709 ⟶ 1,509行目:
* ドラマ『[[愛と哀しみの海 戦艦大和の悲劇]]』
* ドキュメンタリー[[ドラマ]]『[[千の風になって ドラマスペシャル#第5弾『なでしこ隊〜少女達だけが見た特攻隊・封印された23日間〜』|なでしこ隊〜少女達だけが見た“特攻隊”封印された23日間〜]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])
* 『[[永遠の0]]』
* [[アニメ]]、[[コミックス]]『[[空手バカ一代]]』:主人公「飛鳥拳」([[大山倍達]]がモデル)が特攻くずれという設定。
 
=== DVD ===
* ドキュメンタリー『ドキュメント 特攻〜日本海軍による対艦体当たり攻撃機の記録〜前篇・後篇(全2巻)』[[DVD]]、[[アートデイズ]] [[2007年]]
* ドキュメンタリー『Kamikaze in Color』[[DVD]]、Goldhill Home Media 2006年
 
=== 舞台 ===
732 ⟶ 1,533行目:
* 『特攻 絶望の海に出撃せよ』([[渡辺大助]])
* 『[[永遠の0]]』([[百田尚樹]]) - [[2013年]]に映画化。[[山崎貴]]監督。
* 『[[空手バカ一代]]』([[漫画]]):主人公「飛鳥拳」([[大山倍達]]がモデル)が特攻くずれという設定。
* 『[[ゼロの白鷹]]』[[本宮ひろし]]([[漫画]])
* 『[[戦場まんがシリーズ]]』[[松本零士]]([[漫画]])
* 『[[紫電改のタカ]]』[[ちばてつや]]([[漫画]])
* 『[[新装版 いつまでもいつまでもお元気で]]』[[知覧特攻平和会館]]([[単行本]])
 
他多数
 
== 注釈 ==
742 ⟶ 1,550行目:
== 参考文献 ==
<!---著者名五十音順--->
* 秋月達郎『零(ゼロ)の戦記:堀越二郎、坂井三郎、岩本徹三…空のサムライたちの物語』 PHP研究所 ISBN 4569816908
* 安延多計夫『南溟の果てに―神風特別攻撃隊かく戦えり』 自由アジア社 1960年
* アーノルド・S・ロット 他1名 沖縄特攻 (文庫版航空戦史シリーズ (27)) 戦史刊行会 訳 朝日ソノラマ社 ISBN-10: 4257170271
* NHK取材班編 『太平洋戦争 日本の敗因3 <small>電子兵器 カミカゼを制す</small>』 角川文庫 ISBN 4041954142
* 大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮 証言 帰還兵は地獄を見た』 講談社 ISBN 4062155168
* 海軍飛行予備学生第十四期会 編『あゝ同期の桜 <small>かえらざる青春の手記</small>』 光人社 ISBN 4769807139
* 加藤浩『神雷部隊始末記』学習研究社 ISBN-10: 4054042023 ISBN-13: 978-4054042025
* 金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫 ISBN 476980993X
* 北影雄幸『特攻の本 <small>これだけは読んでおきたい</small>』 光人社 ISBN 476981271X
* {{Citation|last=草鹿|first=龍之介| year = 1979 | title = 連合艦隊参謀長の回想 | publisher = 光和堂}} - 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』、および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになった米軍側の情報などは敢えて訂正していないと言う(p.18)。
* 木俣 滋郎 『日本潜水艦戦史』図書出版社 ISBN 4809901785
* [[草柳大蔵]]『特攻の思想 <small>大西滝治郎伝</small>』 文藝春秋 文春文庫 ISBN 4167315017
* クリストファー・ジョン『The Race for Hitler's X-Planes: Britain's 1945 Mission to Capture Secret Luftwaffe Technology』 Spellmount Ltd Pub ISBN-10: 0752464574
* 佐藤早苗『特攻の町・知覧 <small>最前線基地を彩った日本人の生と死</small>』 光人社 ISBN 4769808291
* ジェームス・H. ハラス著 『沖縄シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間』光人社NF文庫 ISBN 4769826532
* ジョセフ·H.アレクサンダー『The Final Campaign: Marines in the Victory on Okinawa』Diane Pub Co ISBN 0788135287
* 鈴木勘次『特攻からの生還 <small>知られざる特攻隊員の記録</small>』 光人社 ISBN 4769812337
* 太佐順『本土決戦の真実』 学研M文庫 ISBN 4059010855
* [[高木俊朗]]『陸軍特別攻撃隊』 1~3 文藝春秋 文春文庫 1 ISBN 4167151049、2 ISBN 4167151057、3 ISBN 4167151065
* 高木俊朗『特攻基地知覧』 角川書店 角川文庫 ISBN 4041345014
* 多田智彦「エセックス級のメカニズム (特集 米空母エセックス級)」、『世界の艦船』第761号、海人社 NAID 40019305383。
* 知覧高女なでしこ会『群青 知覧特攻基地より』 高城書房出版 ISBN 4924752622
* デニス・ウォーナー『ドキュメント神風上巻』時事通信社 ASIN: B000J7NKMO
* デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 ASIN: B000J7NKMO
* 特攻隊慰霊顕彰会 「特別攻撃隊」非売品
* 冨永謙吾・安延多計夫『神風特攻隊―壮烈な体あたり作戦』秋田書店 ASIN: B000JBQ7K2
* {{Cite book|和書|author=[[長嶺五郎]]|coauthors=|year=1998|month=11|title=二式大艇空戦記 {{small|海軍八〇一空搭乗員の死闘}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2215-4|ref=二式大艇空戦記}} 長嶺は梓隊誘導機操縦。
* トーマス・B・ブュエル 著/小城正 訳『提督スプルーアンス』学習研究社 ISBN 4-05-401144-6
* 長嶺五郎『二式大艇空戦記 海軍八〇一空搭乗員の死闘』光人社NF文庫 ISBN 4769822154
* [[日本戦没学生記念会|日本戦没学生記念会(わだつみ会)]] 編『新版 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』 岩波書店 岩波文庫 ISBN 4003315715
* {{Cite book|和書|author=[[林えいだい]]|year=2009|title=重爆特攻「さくら弾」機 {{small|日本陸軍の幻の航空作戦}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2608-8|ref=重爆特攻}}
* 日本戦没学生記念会 編『きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記〈第2集〉』 岩波書店 岩波文庫 ISBN 4003315723
* 日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史(1)用兵編』時事通信社
* 原 勝洋『真相・カミカゼ特攻 必死必中の300日』 KKベストセラーズ ISBN 4584187991
* 米国海軍省戦史部編纂 (財)史料調査会訳『第二次世界大戦 米国海軍作戦年誌』出版協同社 1956年
* 米国戦略爆撃調査団編纂 大谷内和夫訳 『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 』光人社 ISBN 4769807686
* [[保阪正康]]『「特攻」と日本人』 講談社現代新書 講談社 ISBN 4061497979
* 保阪正康『『きけわだつみのこえ』の戦後史』 文春文庫 文藝春秋 ISBN 4167494051
* ラッセル・スパー『戦艦大和の運命 <small>英国人ジャーナリストのみた日本海軍</small>』[[左近允尚敏]]訳、新潮社、1987
* 三浦耕喜『ヒトラーの特攻隊 <small>歴史に埋もれたドイツの「カミカゼ」たち</small>』作品社 ISBN 9784861822247
* 「丸」編集部編集 『特攻の記録 』光人社NF文庫 ISBN 978-4-7698-2675-0
* ロバート・C・ミケシュ「破壊された日本機」三樹書房
* マクスウェル・テイラー・ケネディ『特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ』中村有以(訳)ハート出版 ISBN 978-4-89295-651-5。
* 宮本雅史『「特攻」と遺族の戦後』 角川書店 ISBN 4048839136
* 森史朗『暁の珊瑚海』(光人社、2004年) ISBN 4-7698-1228-0
* 森山康平、太平洋戦争研究会 編『図説 特攻』(ふくろうの本 太平洋戦争の戦場) 河出書房新社 ISBN 4309760341
* 平義克己『我敵艦ニ突入ス <small>駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実</small>』扶桑社、2002
* 吉本貞昭『世界が語る神風特別攻撃隊』ハート出版 ISBN 4892959111
 
* ラッセル・グレンフェル著 田中啓眞訳『プリンス オブ ウエルスの最期 主力艦隊シンガポールへ 日本勝利の記録』 錦正社 ISBN 4764603268
* ロバート・C・ミケシュ「破壊された日本機」三樹書房
* ワスプ復員軍人会『USS Wasp Vol. Ⅱ』
* C.W.ニミッツ『ニミッツの太平洋海戦史 』恒文社 ASIN B000JAJ39A
* Dick Atkins 『American Sailor Serves His Country 』Xulon Press社 ISBN 1600343260
* E・B・ポッター 『キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』秋山信雄(訳)光人社 ISBN 4-7698-0576-4
* Peter C Smiyh『Kamikaze: To Die for the Emperor』Pen & Sword社 ISBN 1781593132
* Paul Silverstone『The Navy of World War II, 1922-1947』 Routledge ISBN 041597898X
* ROBIN L. RIELLY『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR Ⅱ 』Mcfarland社 ISBN 0786446544
* Robert Stem『Fire From the Sky: Surviving the Kamikaze Threat』Naval Institute Press社 ISBN 1591142679
* Steven J Zaloga『Kamikaze: Japanese Special Attack Weapons 1944-45』Osprey Publishing ISBN 1849083533
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Suicide attack}}
* [[神風特別攻撃隊]]
* [[特攻兵器]]
* [[菅原道大]]
* [[大西瀧治郎]]
* [[菅原道大]]
* [[関行男]]
* [[知覧特攻平和会館]]
* [[振武寮]]
* [[バンザイ突撃]]
* [[テンニンギク]](特攻花)
 
== 外部リンク ==
* [http://www.tokkotai.or.jp/ (財)特攻隊戦没者慰霊平和記念協会]
* [http://groups.yahoo.co.jp/group/tsuburaya/links/kamikaze_001075034929/ 特別攻撃隊 関連リンク集]
* [http://www.geocities.jp/kamikazes_site/ 神風KAMIKAZE TOP PAGE]
* [http://www.kamikazeimages.net/ Kamikaze Images]{{en icon}}
* [http://navweaps.com/index_tech/tech-042.htm Kamikaze Damage to US and British Carriers]
* [http://www.navsource.org/archives/03/061.htm NavSource Online]
{{DANFS}}
 
{{太平洋戦争・詳細}}