「那智参詣曼荼羅」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Ikedat76 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
Ikedat76 (会話 | 投稿記録)
(同じ利用者による、間の2版が非表示)
4行目:
== 那智参詣曼荼羅と熊野比丘尼 ==
{{See also|熊野比丘尼|熊野観心十界曼荼羅}}
主として[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけて、[[霊場]]([[神社]]・[[寺院]])へ参詣者を勧誘する目的をもって作製された一群の絵図を、[[社寺参詣曼荼羅]]と総称する<ref>下坂[2003: 449]。ただし現存する作例のうち、半数以上は17世紀以降の作であり、[[18世紀]]から[[19世紀]]にかけてもなお作製され続けていた[[立山曼荼羅]]のような例もある [大高 2012: 24-25] が、ここでは16世紀から17世紀にかけてを作製時期とする定説の定義 [大高 2012: 25] に従う。</ref>。社寺参詣曼荼羅は、霊場はもとより、[[縁起|縁起譚]]や[[仏事]]・[[神事]]のような宗教的な事物から、参詣習俗や周辺の[[名所]][[旧跡]]のような世俗的な事物までが描きこまれるという特色があり<ref>下坂[2003: 449]</ref>、描写の対象となっている霊場の名で呼ばれる。なかでも[[熊野那智大社|熊野那智山]]を描いたものを那智参詣曼荼羅という。作例として3536点が確認されており、現存する150例余の参詣曼荼羅の作例の中で、1種の参詣曼荼羅の作例としては突出して多い<ref name="Nei_2008_635">根井[2008: 635]</ref><ref>現存する参詣曼荼羅の作例の一覧については、大高[2012: 26-32] を参照。</ref>。これらは、[[室町時代]]末期から近世にかけての多数の作例が知られている<ref name="Nei_2003_164">根井[2003: 164]</ref><ref>那智参詣曼荼羅の作例を挙げた文献として、黒田[1986]、根井[2001][2003][2008]など。根井ら研究者が指摘する通り、今後にわたって探索と発見が進めば、順次この数字は大きなものになってゆくと見られている。</ref>(→[[#那智参詣曼荼羅の作例]])。いかなる受容のされ方をしたのかを示す直接的な史料はいまだ発見されていない<ref name="Nei_2003_164"/>が、いくつかの傍証から[[熊野比丘尼]](くまのびくに)による[[絵解|絵解き]]に用いられていたことは間違いないと考えられている<ref >黒田[1986]、西山[1988]、根井[2001][2003][2007]など。</ref>。
 
[[熊野比丘尼]]とは、[[熊野三山本願所]]を本寺として、その組織と統制に服する[[僧]]形の女性聖職者(比丘尼)である。熊野比丘尼は、熊野三山の造営・修復のための勧進にあたる勧進職としての職分を本寺より得て、各地で貴庶から勧進奉加を募っては、本寺へ送り届けることを務めとした<ref>根井[2007: 377-378]</ref>。熊野比丘尼が勧進奉加を募る手段は複数あったと考えられているが、[[熊野牛王符|牛玉宝印]]や大黒札の配札と並んで代表的な手段であったのが、絵解きである。絵解きとは、観衆に対して宗教的絵画を提示し、説教・唱導を目的として、絵画の内容を当意即妙な語りで説き明かす行為のことである<ref>林[1993: 6]</ref>。絵解きの具体的な様相を伝える絵画史料として『住吉大社祭礼図屏風』([[フリーア美術館]]所蔵)がある。『住吉大社祭礼図屏風』の中で、熊野比丘尼と見られる女性は剃りあげた頭に頭巾をまとい、観衆に対して絵図を掲げ、手にした指し棒で指している。彼女が指す絵図の中央にある月輪で囲まれた「心」の一文字と、絵図上方に描かれている、人物が円弧状にならぶ坂道が目を惹く。この絵図は『[[熊野観心十界曼荼羅]]』(地獄絵、熊野の絵)と呼ばれ、全国で数十例の作例が発見されている。那智参詣曼荼羅のうちかなりの作例が熊野観心十界曼荼羅とセットで発見されていることから、熊野観心十界曼荼羅と同じく熊野比丘尼によって絵解きされたものと考えられている<ref name="Nei_2003_164"/><ref>萩原[1983: 第3章]</ref>。
59行目:
 
==== 那智社社頭 ====
田楽場を通り過ぎると、那智社社頭である。那智社の塀の中は、社殿の他は狛犬と烏のみが描かれる聖域として表現されている一方で、塀と本堂の間の空間には院とおぼしき貴人の参詣が、本堂には社僧と参詣者、本堂周辺には琵琶法師や俗人参詣者、そして門外には高野聖などが描かれており<ref>岩鼻[1996: 136]</ref>、聖域との関係の差異における身分制の構造が描かれている<ref>岩鼻[1988: 26]</ref>。向かって右から飛瀧権現(瀧宮)、証誠殿、中御前早玉宮、西御前結宮、若宮の社殿が並び、那智の主祭神である西御前結宮の社殿にだけ、丸い印が描かれた扇が掛けられている<ref>黒田[1986: 120]、西山[1988: 119]</ref>。この曼荼羅は宗教的絵画であるにもかかわらず、[[本尊]]や神像の類が一切描かれていない。それは那智参詣曼荼羅のみに見られることではなく、社寺参詣曼荼羅一般に見られることであって、この曼荼羅における社殿に描かれた丸い印とは[[懸仏]]を単純化した描写と考えられる<ref name="Nishiyama_1988_119">西山[1988: 119]</ref>。
 
丸い印が描かれた扇が登場するのは、この箇所が初めてではない。[[#参詣道|振架瀬橋]]のたもとで竜の上に乗って出現した少年は、同じ意匠の扇を手に香衣をまとった高僧を如意輪堂へ導いており、少年が何らかの神的存在であることを意味している。すなわち、少年は西御前結宮の[[本地垂迹|本地仏]]である[[千手観音]]であり、僧を導くための仮の姿で現われているのである<ref>黒田[1986: 120]</ref>。
330行目:
 
== 参考文献 ==
{{Cite journal ja-jp|author=岩鼻 通明|year=1988|title=参詣曼荼羅ことはじめ - 社寺参詣曼荼羅の世界1|journal=月刊百科|serial=313|publisher=平凡社|url=http://jairo.nii.ac.jp/0035/00002823|format=PDF|naid=120003039810|pages=24-27}}
* {{Cite book ja-jp|author=‐ |year=1996|chapter=西国霊場の参詣曼荼羅にみる空間表現|editor2=真野 俊和|title=本尊巡礼|series=講座日本の巡礼 第1巻|publisher=1996|isbn=4-639-01363-9|pages=127-141}}
* {{Cite book ja-jp|editor=大阪市立博物館|year=1987|title=社寺参詣曼荼羅|publisher=平凡社|isbn=4-582-28302-0}}
* {{Cite book ja-jp|author=太田 直之|year=2008|title=中世の社寺と信仰 - 勧進と勧進聖の時代|publisher=弘文堂|series=久伊豆神社小教院叢書6|isbn=978-4-335-16051-6}}