「豊臣氏」の版間の差分
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|後裔=[[羽柴氏]]([[武家]]・[[公家]])<br>[[木下氏]]([[武家]])
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'''豊臣氏'''(とよとみし/とよとみうじ
== 豊臣氏の誕生と拡大 ==
秀吉ははじめ[[平氏]]を称していた
そして[[天正]]13年([[1585年]])7月、秀吉は[[関白]]に就任するにあたり、前関白[[近衛前久]]の猶子とな
その後、秀吉はさらに
理由については諸説あり、秀吉が自らの[[右筆]]である[[大村由己]]に執筆させた『任官之事』(別名『関白任官記』)では「古姓を継ぐは鹿牛の陳跡を踏むがごとし」と単純な前例踏襲は拒否することを述べ「われ天下を保ち末代に名あり。ただ新たに別姓を定め濫觴たるべし」として、秀吉は特別に傑出した人物であるから[[源氏|源]][[平氏|平]][[藤原氏|藤]][[橘氏|橘]]にならぶ第五の新しい氏を創始できるのだ、と高らかに宣言している。
「豊臣」の語源については諸説あるが、いずれも推測の域を出ず信ずるにたりない。
秀吉
なお、しばしば誤解されるが、秀吉は「[[羽柴氏|羽柴]]」から「豊臣」に改めたのではない。「藤原」から「豊臣」に改めたのである。「羽柴」は[[名字]](苗字)であり「豊臣」は氏(ウジ)であって、互いにまったく異質のものである。
== 秀吉死後の豊臣氏 ==
豊臣氏の拡大は、秀吉が個人的な権力により官位叙任権を独占し
たとえば、家康の将軍任官と同じ慶長8年([[1603年]])、[[池田輝政]]が[[近衛府|右近衛権少将]]に任じられているが、これは「豊臣朝臣輝政」としての任官である。また同年[[山内一豊]]が[[従四位]]下に叙せられ土佐守に任官しているが、これも「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。また、これも慶長8年([[1603年]])のこと、[[加藤清正]]は[[関ヶ原の戦い]]の恩賞として[[肥後国|肥後]]一国を一円領有することになったのを記念して、主計頭から肥後守に
その後も、池田輝政の長男輝直(後の[[池田利隆|利隆]])、加藤清正の次男清孝([[加藤忠正|忠正]])、[[福島正則]]の次男忠清(後の[[福島忠勝|忠勝]])など、
== 江戸時代の豊臣氏 ==
[[慶長]]20年([[1615年]])7月に[[大坂の陣]]で大坂城の羽柴宗家が滅亡すると、それまで羽柴の名字や豊臣の氏の公称を続けていた大名たちは一斉にその使用をやめている。たとえば福島正則の福島家では、羽柴から福島に名字を改めるとともに、旧姓の平氏ではなく新たに藤原氏に改めている。これは特に幕府から禁止されたということではなく、宗家の滅亡にともなって自然消滅とみなされたもの
また、[[朝廷]]の[[地下人|地下官人]]のうちでかつての[[滝口武者]]を再興した「滝口」36軒があったが、そのうちの1軒である木下家は本姓を豊臣氏と称していた。この家は、[[明和]]5年([[1768年]])に[[木下秀峯]]が滝口に補せられたのを創始とする。秀峯は当初「しげみね」と名乗っていたが、[[安永]]7年([[1778年]])に「ひでみね」と改めた。あきらかに「秀吉」を意識した諱であるが、秀峯の前歴・系譜関係などは不明である。秀峯-秀時-秀敬-秀邦-秀幹-秀有と相承して[[幕末]]に至る。衛府の志(さかん)から尉(じょう)を経て諸国の国司(おおよそ[[
なお、その後、[[明治]]時代に[[氏姓制度|「氏」制度]]が廃止されるまで、新たな氏はついに創設されなかった。
== 豊臣氏の組織 ==
すでに[[平安時代]]には解体し形骸化していた氏であるが、[[藤氏長者]]・[[源氏長者]]などの役職、[[氏爵]]などの慣習が儀礼的に存続していた。秀吉も、関白に就任するにあたり、それに付随するものとして藤氏長者を兼ねている。豊臣氏もこれを引き継ぐかたちで[[氏長者]]を設置している。「豊氏長者」(ほうしちょうじゃ)である。[[天正]]19年([[1591年]])12月、秀吉が養子[[豊臣秀次|羽柴秀次]]に関白を譲った際に、関白職任命にともなって作成された各種官位叙任文書が『[[足守木下家文書]]』に伝来しているが、そのなかに「関白内大臣、よろしく豊氏長者たるべし」云々と秀次を豊氏長者に補任する内容を持つ[[宣旨]]が含まれている。秀吉の関係文書には同様のものは見当たらないが、当然、秀吉も豊氏長者の地位にあったものと考えられる。
なお、豊氏長者は、同時に藤氏長者の地位と権限をも掌握していた。秀吉は関白に就任する際、[[近衛家]]に対して、将来的には[[近衛前久|前久]]の子息[[近衛信尹|信輔]]に関白職を返す約束をしたというが、秀吉はこれを反故にしただけでなく、それまで[[
== 豊臣姓
[[村川浩平]]「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」([[1996年]])の「豊臣姓一覧表」、同「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」(『駒沢史学』80号所収、[[2013年]])より被下賜者を年代順に並べた。なお、豊臣氏の氏長者及びそれに準じる立場の[[豊臣秀吉]]
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| 1589年 || [[鍋島直茂]]、[[内藤政長]]、[[大友義乗|大友義述]]、[[大宝寺義勝]]、[[毛利秀包]]、[[粟屋元吉]]、[[児玉元次]]、[[出羽元蔵]]、[[平佐元貞]]、[[鍋島勝茂]]、[[須田満親]]
|-
| 1590年 || [[富田知信]]、[[朽木元綱]]、[[堀秀治]]、
|-
| 1591年 || [[小早川秀秋]]、[[豊臣秀保]]、[[駒井重勝]]、[[堀親良]]、[[佐竹義久|東義久]]、
|-
| 1592年 || [[浅野長政]]、[[福智政直]]、[[柴田勝政]]、[[松野重元]]、[[毛利秀元]]、[[佐野信吉]]、
|-
| 1593年 || [[石田正澄]]、[[前田利政]]、[[山中長俊]]、[[柳沢元政]]
|-
| 1594年 || [[長束直吉]]、[[今枝重直]]、[[戸田重治]]、[[津田重久]]、[[加藤貞泰]]、[[中川秀成]]、[[生駒直勝]]、[[上田重安]]、[[宇都宮国綱]]、[[真田信繁]]、
|-
| 1595年 || [[小笠原秀政]]、[[奥平家昌]]、[[内藤清成]]、[[松平康重|松井康重]]、[[三浦重成]]、[[二宮就辰]]、[[末次元康|毛利元康]]、[[宍戸元次]]
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| 1596年 || [[小出秀政]]、[[宮城豊盛|宮城定勝]]、[[田丸直昌]]、[[富田景政]]、[[山高親重]]、[[永井直勝]]、[[伊達秀宗]]、[[阿部正勝]]、[[天野元政|毛利元政]]、[[平賀元相]]、[[榎本元吉]]、[[熊谷元直]]、[[益田元祥]]、[[関一政]]、
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| 1597年 || [[福原長堯|福原長成]]、[[吉田忠文]]、[[佐久間政実]]、[[寺西是成]]、[[分部光嘉]]、[[水野忠重]]、[[徳川秀忠]]、[[五島玄雅]]、[[宇喜多秀高|宇喜多秀徳]]、[[石川康長|石川三長]]、
|-
| 1598年 || [[平野長泰]]、
|-
| 1599年 || [[伊東祐兵]]、[[大村喜前]]、[[相良頼房]]、[[大須賀忠政]]、[[毛利秀就]]、
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| 1600年 || [[有馬慶氏]]、
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| 1602年 || [[福島正則]]、[[吉田保三]]
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| 1604年 || [[堀尾吉晴]]
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| 1605年 || [[片桐且清]]、[[津田正勝]]、[[佐々正重]]、[[池田利隆]]、
|-
| 1606年 || [[加藤忠正|加藤清孝]]
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