「豊臣氏」の版間の差分

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|後裔=[[羽柴氏]]([[武家]]・[[公家]])<br>[[木下氏]]([[武家]])
}}
'''豊臣氏'''(とよとみし/とよとみうじ、{{旧字体|豐臣氏}})は、[[日本]]の[[氏#古代氏族としての氏|氏]](ウジ)のひとつ。[[カバネ|姓]](カバネ)は[[朝臣]]。
 
== 豊臣氏の誕生と拡大 ==
秀吉ははじめ[[平氏]]を称していた<ref>。たとえば、秀吉が『[[公卿補任]]』の[[天正]]11年([[1583年]])の項に「参議 従四位下」としてはじめて記載されてから、関白になる直前の天正13年(1585年)の「内大臣正二位」まで、その姓名は「'''平''' 秀吉」と記されてい<ref>ただし、秀吉が天正11年に参議に任じたという記載ぶりは事実を反映していない。</ref>。氏素性のはっきりしない秀吉であるから、これは主君[[織田信長]]の氏を模倣したものであると考えられている。
 
そして[[天正]]13年([[1585年]])7月、秀吉は[[関白]]に就任するにあたり、前関白[[近衛前久]]の猶子となる。この際、平氏から[[藤原氏]]に改めている。藤原氏でなければ関白にはなれないからである。
 
その後、秀吉はさらにこの「豊臣」氏に改める。改姓の時期については明確でない。[[局務]][[押小路家#中原氏流|押小路家]]に伝来した『押小路家文書』には「請う、藤原姓を以て豊臣姓に改めんことを」云々と記す秀吉の[[上奏]]文と、これに応えた天正13年(1585年)9月9日付の改姓を許可する[[宣旨]]が残されている。一方『[[公卿補任]]』では、天正14年([[1586年]])の項に、秀吉について「藤秀吉」(藤原秀吉)と記載したうえで「ーー藤原姓を改め豊臣姓となすと云々」と注している。「ーー」とは「月日不明」という意味である。これによれば、改姓は天正14年(1586年)になってから行われたことになる。『公卿補任』で秀吉が「豊秀吉」(豊臣秀吉)となるのは天正15年([[1587年]])からである。実は、秀吉の官位叙任については、天正10年([[1582年]])10月3日の任左近衛少将、天正11年([[1583年]])5月22日の任参議など、そのことを示す文書は残っているものの、あとから日付を仮構して偽作したとされているものが少なくない。当時の秀吉にとっては日付を操作して文書を偽作することは常套手段であった。また公家たちにとっても、天皇に日付を遡及した文書の発給を求めることは半ば日常的なことであった。『押小路家文書』の上奏文と[[宣旨]]も同様の性質のものとみなされている(『大日本史料』第11編之20 天正13年9月9日条など)。実際に秀吉が藤原氏から豊臣氏に改めたのは、天正14年([[1586年]])12月19日の[[太政大臣]][[任官]]を契機としているものとみるのが通説である(『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』など)。
 
理由については諸説あり、秀吉が自らの[[右筆]]である[[大村由己]]に執筆させた『任官之事』(別名『関白任官記』)では「古姓を継ぐは鹿牛の陳跡を踏むがごとし」と単純な前例踏襲は拒否することを述べ「われ天下を保ち末代に名あり。ただ新たに別姓を定め濫觴たるべし」として、秀吉は特別に傑出した人物であるから[[源氏|源]][[平氏|平]][[藤原氏|藤]][[橘氏|橘]]にならぶ第五の新しい氏を創始できるのだ、と高らかに宣言している。
 
「豊臣」の語源については諸説あるが、いずれも推測の域を出ず信ずるにたりない。
 
秀吉は、機会あるごとに、家臣だけでなく陪臣にまで広範に豊臣の氏をバラま与えてた。本人豊臣政権下では、官位叙任は秀吉本姓意志源氏すべてであろうる。秀吉から口頭で官位叙任を告げられれば、その場ですぐにその官位を正式に名乗るこ藤原氏あろきた。秀吉が戦争のために京都を離れている時期に、そのよな例が頻々見られる。[[朝廷]]から発給さは単にそを追認して事後に[[宣旨]][[口宣案]]などの官位叙任文書を作成するにすぎなかったが、その文書には、本人の本姓が源氏であろうと藤原氏であろうと、一律にすべて「豊臣朝臣某」という名が記載されることになっていたのである。豊臣氏はこうして膨大な数の構成員を獲得していくことになった。
 
なお、しばしば誤解されるが、秀吉は「[[羽柴氏|羽柴]]」から「豊臣」に改めたのではない。「藤原」から「豊臣」に改めたのである。「羽柴」は[[名字]](苗字)であり「豊臣」は氏(ウジ)であって、互いにまったく異質のものである。
 
== 秀吉死後の豊臣氏 ==
豊臣氏の拡大は、秀吉が個人的な権力により官位叙任権を独占してい、同時に官位叙任文書の内容を意のままに改変できたことに基づくものであり、[[慶長]]3年([[1598年]])に秀吉が死去すると当然その拡大は停止し逆に縮小に向かった。[[徳川家康]]とその一門が「羽柴」の名字と「豊臣」の氏の使用をやめ、慶長8年([[1603年]])には家康が「新田」「徳川」などの名字を称し「源朝臣家康」として[[征夷大将軍]]となったのは周知のとおりである。しかし、家康は、この段階ではまだ、生前の秀吉のように官位叙任権を排他的に独占するにはいたっていない。秀吉の後継者で羽柴宗家の当主である[[豊臣秀頼|秀頼]]は、大坂城に拠りながら、自らの直属家臣に対する豊臣姓の下賜官位叙任を相変わらず独自に続けていた。また、諸大名が羽柴の名字や豊臣の氏を使用するかしないかは、基本的に本人の判断にゆだねられたままであった。
 
たとえば、家康の将軍任官と同じ慶長8年([[1603年]])、[[池田輝政]]が[[近衛府|右近衛権少将]]に任じられているが、これは「豊臣朝臣輝政」としての任官である。また同年[[山内一豊]]が[[従四位]]下に叙せられ土佐守に任官しているが、これも「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。また、これも慶長8年([[1603年]])のこと、[[加藤清正]]は[[関ヶ原の戦い]]の恩賞として[[肥後国|肥後]]一国を一円領有することになったのを記念して、主計頭から肥後守に転任改名しているが、同時にそれまでの「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」に改めている。池田輝政は1588年に秀吉よりいわゆる“豊臣姓を下賜されてい恩顧”の大名の代表格であが、加藤清正・山内は別として、輝政は家康の女婿であり、一豊など1603年「小山評定」逸話で著名な親徳川派であるが、ため、秀頼から件では特に家康へ下賜と遠慮のようものは見いだせない
 
その後も、池田輝政の長男輝直(後の[[池田利隆|利隆]])、加藤清正の次男清孝([[加藤忠正|忠正]])、[[福島正則]]の次男忠清(後の[[福島忠勝|忠勝]])など、すでに豊臣姓を下賜された者子にも下賜の記録があるため、豊臣姓再生産一代限りのものであったとされ続いている。福島忠勝の例では、諱では将軍[[徳川秀忠]]の偏[[諱]]を与えられており、明らかに江戸幕府を通じての官位叙任であるが、ほぼ同時期もかかわらず、幕府は豊臣の氏の使用下賜されて阻止できないでいる。これ秀頼がなお健在であるという前提があるといえ福島氏の嫡男で秀吉が達成した既成事実は大きく重い豊臣姓使用を許されなかったこを示て幕府にのしかかってい
 
== 江戸時代の豊臣氏 ==
[[慶長]]20年([[1615年]])7月に[[大坂の陣]]で大坂城の羽柴宗家が滅亡すると、それまで羽柴の名字や豊臣の氏の公称を続けていた大名たちは一斉にその使用をやめている。たとえば福島正則の福島家では、羽柴から福島に名字を改めるとともに、旧姓の平氏ではなく新たに藤原氏に改めている。これは特に幕府から禁止されたということではなく、宗家の滅亡にともなって自然消滅とみなされたものであるらしい
 
その例としてただ、秀吉の正妻[[高台院]]の兄弟たち及びその子孫たちは、羽柴から木下に名字を改めたものの、豊臣の氏はそのまま名乗り続けている。『[[寛政重修諸家譜]]』には、豊臣を本姓とする[[大名]]家として、備中[[足守藩|足守]]25,000石の木下家と豊後[[日出藩|日出]]25,000石の木下家の2軒、同じく[[旗本]]として、足守木下家の分家1軒と日出木下家の分家2軒を掲載する。
 
また、[[朝廷]]の[[地下人|地下官人]]のうちでかつての[[滝口武者]]を再興した「滝口」36軒があったが、そのうちの1軒である木下家は本姓を豊臣氏と称していた。この家は、[[明和]]5年([[1768年]])に[[木下秀峯]]が滝口に補せられたのを創始とする。秀峯は当初「しげみね」と名乗っていたが、[[安永]]7年([[1778年]])に「ひでみね」と改めた。あきらかに「秀吉」を意識した諱であるが、秀峯の前歴・系譜関係などは不明である。秀峯-秀時-秀敬-秀邦-秀幹-秀有と相承して[[幕末]]に至る。衛府の志(さかん)から尉(じょう)を経て諸国の国司(おおよそ[[受領]]まで)となるのを[[極位極官|極官]]とした。[[極位極官|極位]]は[[正六位]]であった。
 
なお、その後、[[明治]]時代に[[氏姓制度|「氏」制度]]が廃止されるまで、新たな氏はついに創設されなかった。
 
== 豊臣氏の組織 ==
すでに[[平安時代]]には解体し形骸化していた氏であるが、[[藤氏長者]]・[[源氏長者]]などの役職、[[氏爵]]などの慣習が儀礼的に存続していた。秀吉も、関白に就任するにあたり、それに付随するものとして藤氏長者を兼ねている。豊臣氏もこれを引き継ぐかたちで[[氏長者]]を設置している。「豊氏長者」(ほうしちょうじゃ)である。[[天正]]19年([[1591年]])12月、秀吉が養子[[豊臣秀次|羽柴秀次]]に関白を譲った際に、関白職任命にともなって作成された各種官位叙任文書が『[[足守木下家文書]]』に伝来しているが、そのなかに「関白内大臣、よろしく豊氏長者たるべし」云々と秀次を豊氏長者に補任する内容を持つ[[宣旨]]が含まれている。秀吉の関係文書には同様のものは見当たらないが、当然、秀吉も豊氏長者の地位にあったものと考えられる。
 
なお、豊氏長者は、同時に藤氏長者の地位と権限をも掌握していた。秀吉は関白に就任する際、[[近衛家]]に対して、将来的には[[近衛前久|前久]]の子息[[近衛信尹|信輔]]に関白職を返す約束をしたというが、秀吉はこれを反故にしただけでなく、それまで[[摂家|五摂家]]のものであった藤氏長者までも奪ったのである。そのことを誇示するように、秀吉は豊臣に改姓したあとの天正16年([[1588年]])1月に、藤原氏の氏神[[春日大社|春日社]]の最高責任者の一人である[[正預]]職の任命権を行使している。また、同年12月には、藤原氏の始祖[[藤原鎌足]]を祀る[[談山神社|多武峯寺]]に、弟[[豊臣秀長|羽柴秀長]]の居城のある[[大和郡山市|郡山]]への遷宮を命じ、実行に移している。このとき用いられた命令文書は、本来は藤原氏の[[大学別曹]]である[[勧学院]]の別当([[弁官]]が務めることから弁別当といい、また「南曹弁」ともいう)が氏長者の意志を奉じて発給する奉書である[[長者宣]](藤氏長者宣)であり、時の南曹弁は、[[藤原北家]][[勧修寺流]]に属する[[右中弁]][[中御門資胤]]であった。秀次の関白就任にあたっても、上述の豊氏長者に補する宣旨のほか、藤氏長者を意味する「氏長者」に補す旨の宣旨が別途作成されている。
 
== 豊臣姓下賜一覧表を称した者のリスト(暫定) ==
[[村川浩平]]「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」[[1996年]]豊臣姓一覧表」、同「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」(『駒沢史学』80号所収、[[2013年]])より被下賜者を年代順に並べた。なお、豊臣氏の氏長者及びそれに準じる立場の[[豊臣秀吉]]豊臣吉子([[高台院]])[[豊臣秀頼]]及び信憑性3名は村川作成の表には含まれていない。また、豊臣姓を名乗ったとされることが多い[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]][[里見義康]][[鳥居忠政]][[山口宗永|山口正弘]]が一覧表より除外されの4名についいる。その他[[村川浩平]]「天正・文禄・慶長期、武家叙任は信憑性が低い豊臣姓下賜」[[2013年]]により、追加た。<ref>『駒沢史学』80号、2013年て表から除いている</ref>
 
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| 1589年 || [[鍋島直茂]]、[[内藤政長]]、[[大友義乗|大友義述]]、[[大宝寺義勝]]、[[毛利秀包]]、[[粟屋元吉]]、[[児玉元次]]、[[出羽元蔵]]、[[平佐元貞]]、[[鍋島勝茂]]、[[須田満親]]
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| 1590年 || [[富田知信]]、[[朽木元綱]]、[[堀秀治]]、(?)之孝、(?)忠長
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| 1591年 || [[小早川秀秋]]、[[豊臣秀保]]、[[駒井重勝]]、[[堀親良]]、[[佐竹義久|東義久]]、(?)宣武、(?)吉勝。
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| 1592年 || [[浅野長政]]、[[福智政直]]、[[柴田勝政]]、[[松野重元]]、[[毛利秀元]]、[[佐野信吉]]、(?)成直。
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| 1593年 || [[石田正澄]]、[[前田利政]]、[[山中長俊]]、[[柳沢元政]]
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| 1594年 || [[長束直吉]]、[[今枝重直]]、[[戸田重治]]、[[津田重久]]、[[加藤貞泰]]、[[中川秀成]]、[[生駒直勝]]、[[上田重安]]、[[宇都宮国綱]]、[[真田信繁]]、(?)政春、(?)直正、(?)満一
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| 1595年 || [[小笠原秀政]]、[[奥平家昌]]、[[内藤清成]]、[[松平康重|松井康重]]、[[三浦重成]]、[[二宮就辰]]、[[末次元康|毛利元康]]、[[宍戸元次]]
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| 1596年 || [[小出秀政]]、[[宮城豊盛|宮城定勝]]、[[田丸直昌]]、[[富田景政]]、[[山高親重]]、[[永井直勝]]、[[伊達秀宗]]、[[阿部正勝]]、[[天野元政|毛利元政]]、[[平賀元相]]、[[榎本元吉]]、[[熊谷元直]]、[[益田元祥]]、[[関一政]]、(?)宗信、(?)土佐守政長
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| 1597年 || [[福原長堯|福原長成]]、[[吉田忠文]]、[[佐久間政実]]、[[寺西是成]]、[[分部光嘉]]、[[水野忠重]]、[[徳川秀忠]]、[[五島玄雅]]、[[宇喜多秀高|宇喜多秀徳]]、[[石川康長|石川三長]]、(?)伊賀守政長、(?)長治、(?)賢忠、(?)宗保、(?)盛吉、(?)長則
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| 1598年 || [[平野長泰]]、(?)武吉([[村上武吉]]?)ヵ)
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| 1599年 || [[伊東祐兵]]、[[大村喜前]]、[[相良頼房]]、[[大須賀忠政]]、[[毛利秀就]]、(?)元次、(?)重成
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| 1600年 || [[有馬慶氏]]、(?)忠能
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| 1602年 || [[福島正則]]、[[吉田保三]]
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| 1604年 || [[堀尾吉晴]]
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| 1605年 || [[片桐且清]]、[[津田正勝]]、[[佐々正重]]、[[池田利隆]]、(?)吉元
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| 1606年 || [[加藤忠正|加藤清孝]]