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|国略称 = {{DEU1935}}
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1907|5|9|no}}
|出生地 = {{DEU1871}}<br>[[File:Flag of Prussia 1892-1918.svg|25px]] [[プロイセン王国]]、[[ベルリン]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1907|5|9|1974|8|8}}
|死没地 = [[ファイル:Flag of Germany.svg|25px]] [[ドイツ連邦共和国]]<br>[[ファイル:Flag of Rhineland-Palatinate.svg|25px]] [[ラインラント=プファルツ州]]、[[クレフ (ドイツ)|クレフ]]
|出身校 = [[ミュンヘン大学]]
|前職 =
|現職 =
|所属政党 = [[image:Reichsadler.svg|25px]] [[国家社会主義ドイツ労働者党]]
|称号・勲章 = [[突撃隊大将]]<ref name="Axis">[http://www.geocities.com/~orion47/ Axis Biographical Research]の"HITLERJUGEND (HJ)"の項目</ref><br>、予備役陸軍少尉、[[黄金ナチ党員バッジ]]<ref name="Axis"/>、[[二級鉄十字章]]
|世襲の有無 =
|親族(政治家) =
|配偶者 = ヘンリエッテ・フォン・シーラッハ(旧姓ホフマン)
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|退任日4 = [[1945年]][[5月8日]]
}}
'''バルドゥール・ベネディクト・フォン・シーラッハ'''(Baldur Benedikt von Schirach, [[1907年]][[5月9日]] - [[1974年]][[8月8日]])は、[[ドイツ]]の[[政治家]]。
{{基礎情報 軍人
 
| 氏名 = 軍人としての経歴
'''バルドゥール・ベネディクト・フォン・シーラッハ'''(Baldur Benedikt von Schirach, [[1907年]][[5月9日]] - [[1974年]][[8月8日]])は、[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の全国青少年指導者、[[ヒトラー・ユーゲント]]指導者としてドイツの青少年を[[国家社会主義]]思想の下に指導、育成した。後に[[ウィーン]]の総督兼[[帝国大管区]]指導者となり、ウィーンの[[ユダヤ人]]の追放に関与した。戦後[[ニュルンベルク裁判]]の被告人の一人となり、ユダヤ人追放の廉で[[人道に対する罪]]で有罪となり、禁固20年の刑に処せられた。
| 各国語表記 =
| 生年月日 =
| 没年月日 =
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 渾名 =
| 生誕地 =
| 死没地 =
| 所属政体 = {{DEU1935}}
| 所属組織 =
[[File:Balkenkreuz.svg|20px]] [[ドイツ国防軍]][[ドイツ陸軍 (国防軍)|陸軍]] (1940‐1945)
| 軍歴 =
| 最終階級 = 予備役[[少尉]]
| 指揮 =
| 部隊 = [[グロースドイッチュラント師団|大ドイツ連隊]]
| 戦闘 = [[第二次世界大戦]]<br />
*[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|対フランス戦]]
| 戦功 =
| 賞罰 = [[二級鉄十字章]]
| 除隊後 = [[ニュルンベルク裁判]]被告人<br>禁固20年判決<br>[[シュパンダウ刑務所]]囚人
}}
'''バルドゥール・ベネディクト・フォン・シーラッハ'''(Baldur Benedikt von Schirach, [[1907年]][[5月9日]] - [[1974年]][[8月8日]])は、[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の全国青少年指導者、[[ヒトラー・ユーゲント]]指導者としてドイツの青少年を[[国家社会主義]]思想の下に指導、育成した。後に[[ウィーン]]の総督兼[[帝国大管区]]指導者となり、ウィーンの[[ユダヤ人]]の追放に関与した。
 
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[File:Henry Middleton by Benjamin West.jpg|180px|thumb|left|シーラッハの先祖の一人である[[アメリカ独立宣言]]調印者[[ヘンリー・ミドルトン]]<small>(1717-1784)</small>]]
1907年5月9日に[[ドイツ帝国]][[領邦]][[プロイセン王国]]首都[[ベルリン]]に生まれる。父はプロイセン近衛胸甲騎兵連隊将校カール・ベイリー・ノリス・フォン・シーラッハ(Carl Baily Norris von Schirach)。母は[[アメリカ人]]のエマ・ミドルトン(Emma Middleton)<ref name="クノップ98">クノップ、98頁</ref>。
 
シーラッハは、ナチ党幹部には珍しく、裕福な貴族の出であった。父カールのシーラッハ家はオーストリア女王[[マリア・テレジア]]の時代に文芸分野の功績で貴族の称号を賜った家柄であった<ref name="クノップ100">クノップ、100頁</ref>。母エマは[[アメリカ]]・[[フィラデルフィア]]出身で、シーラッハ家以上に裕福な家の女性だった<ref name="クノップ98"/><ref name="クノップ100">クノップ、100頁</ref>。母の祖先には[[アメリカ独立宣言]]に調印した先祖が二人いる<ref name="{{sfn|ヴィストリヒ|2002|p=125">ヴィストリヒ、125頁</ref>}}。母エマはシーラッハ家に嫁いだ後も[[ドイツ語]]を話したがらず、英語で通した<ref name="ジークムント294">ジークムント、294頁</ref>。父もアメリカ人の血を引いていて英語がしゃべれたので、シーラッハ家の日常会話は[[英語]]でおこなわれていた。シーラッハ家の五人の子供も英語で育てられた。そのためシーラッハは母国語の[[ドイツ語]]以上に英語が得意だった<ref name="クノップ100">クノップ、100頁</ref>。
 
父は1908年に軍を退役し、[[ヴァイマル]]の宮廷劇場の支配人に任じられた。そのためシーラッハ一家はヴァイマルへ引っ越した<ref name="{{sfn|ヴィストリヒ|2002|p=125"/>}}<ref name="クノップ100"/>。シーラッハも幼少期音楽をたしなみながら育つこととなった。子供の頃から詩を書いたり、バイオリンの練習にいそしんだ<ref name="クノップ100"/>。
 
アメリカの血を強くひいているためか、シーラッハ家はプロイセン貴族にありがちなガチガチの権威主義教育を好まず、自由放任主義的なのびのびした教育の気風を持っていた。1917年に[[バート・ベルカ]]([[:de:Bad Berka|de]])の寄宿学校に入学。この学校は改革教育学者[[ヘルマン・リーツ]]の理念に根ざしており、大都市が持つ「退廃的な影響」から青少年を遠ざけ、自主性や自立性を育てるのを教育目標としていた。教師と子供はお互い「キミ(du)」で呼び合い、「若者は若者によって指導される」という理念の下、年長の生徒は年下の生徒を指導していた。この寄宿学校の理念はシーラッハのヒトラー・ユーゲント指導に強く影響を及ぼしたという<ref name="クノップ100"/><ref name="ジークムント294"/>。
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ナチ党の政権掌握以降、ヒトラー・ユーゲントへの加入者は激増した。1933年末には10歳から18歳までの青少年230万人がヒトラー・ユーゲントに加盟している。これはヒトラーが政権掌握した直後(ユーゲント団員数はせいぜい11万人ほどだった)に比べると20倍の団員増加である。そして「ヒトラー・ユーゲント法」導入後の1936年末には600万人以上の団員数となった<ref name="クノップ134">クノップ、134頁</ref>。
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-H0122-0501-001, Nürnberg, Reichsparteitag, HJ-Generalprobe.jpg|thumb|250px|left|[[ナチ党党大会|党大会]]におけるヒトラー・ユーゲント演奏会の[[ゲネプロ]]を見守るシーラッハ。1938年9月、ニュルンベルクにて。]]
シーラッハは全てのドイツの青少年を監督下に置き、さらにその教育を掌握しようと奔走した。彼はそのために「ヒトラー・ユーゲント法」を起草した。教育相[[ベルンハルト・ルスト]]は「学校教育がすみに追いやられてしまう」としてこれに猛反対したが、[[1936年]]12月1日にヒトラーは「ヒトラー・ユーゲント法」に署名して公布した。この法律により、それまでナチ党の私的な組織だったヒトラー・ユーゲントは公式に国家機関となり、それ以外の青少年組織は禁止された。そして10歳から18歳までの青少年が強制加入させられ、ヒトラー・ユーゲントは、[[第三帝国]]の青少年組織の総称となった。ただし実際にヒトラー・ユーゲントへの加入が義務化されたのは1939年3月25日からだった<ref name="クノップ143">クノップ、143頁</ref>。
 
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=== 陸軍入隊 ===
1939年9月1日、[[ドイツ国防軍]]の[[ポーランド侵攻]]で[[第二次世界大戦]]が開戦するとシーラッハはユーゲント指導者であるシーラッハは周囲から、ドイツの青少年の模範として従軍することを周囲から求められるようになった。そこでシーラッハはユーゲント指導者を休職し国防軍に従軍することの希望志願届をヒトラーに提出した。、ヒトラーは1939年11月末にヒトラーのこれを許可が降りた<ref name="平井147">平井、147頁</ref>。シーラッハはベルリン郊外の[[デベリッツ]]で新兵として4ヶ月間訓練を受けた。しかし訓練は特別扱いで彼専用の教官や宿所をあてがわれていた<ref name="クノップ148">クノップ、148頁</ref>。
 
ドイツ陸軍エリート部隊「[[グロースドイッチュラント師団|大ドイツ連隊]]」に配属され、はじめ伝令、のちに機関銃小隊の[[伍長]]となり、[[セダン]]、[[ソンム川]]、[[ダンケルク]]攻撃などに動員された<ref name="クノップ148">クノップ、148頁</ref>。[[少尉]]に昇進し、[[二級鉄十字章]]と[[白兵戦章]]を受章した。ドイツ軍はイギリス軍とフランス軍を下し、1940年6月20日にドイツとフランスは休戦協定に署名した。1940年6月末にシーラッハ少尉はヒトラーのいる総司令部に招集された。ヒトラーは「君が無事に帰還してくれてうれしい」と述べるとともに「総督兼大管区指導者としてウィーンに行ってもらいたい」と命じた。シーラッハの軍歴はこれとともに終わった<ref name="クノップ148">クノップ、148頁</ref><ref name="平井148">平井、148頁</ref>。
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ソ連軍の接近により、シーラッハ自身も1945年4月6日にウィーンから逃れている<ref name="クノップ169">クノップ、169頁</ref>。
 
=== 戦後逮捕 ===
副官とともにオーストリア・[[インスブルック]]郊外[[シュヴァーツ]]で「リヒャルト・ファルク」という偽名で潜伏生活を送った。シーラッハはウィーンの戦闘で死亡したという噂が流れていたため、連合国はシーラッハの捜索をしなかった<ref name="{{sfn|マーザー|1979|p=65">マーザー、65頁</ref>}}。しかし結局、シーラッハは、6月4日に[[アメリカ軍]]に投降した<ref name="クノップ172">クノップ、172頁</ref><ref name="{{sfn|マーザー|1979|p=66">マーザー、66頁</ref>}}
[[File:Joachim von Ribbentrop and Baldur von Schirach.jpg|thumb|200px|ニュルンベルク裁判でのシーラッハ(立っている人物)。手前に座っているのは[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ|リッベントロップ]]。]]
副官とともにオーストリア・[[インスブルック]]郊外[[シュヴァーツ]]で「リヒャルト・ファルク」という偽名で潜伏生活を送った。シーラッハはウィーンの戦闘で死亡したという噂が流れていたため、連合国はシーラッハの捜索をしなかった<ref name="マーザー65">マーザー、65頁</ref>。しかし結局、シーラッハは、6月4日に[[アメリカ軍]]に投降した<ref name="クノップ172">クノップ、172頁</ref><ref name="マーザー66">マーザー、66頁</ref>。
 
インスブルック郊外のルム収容所に収容された後、1945年[[9月10日]]に[[ニュルンベルク裁判]]にかけるために[[ニュルンベルク]]へ移送された<ref name="ジークムント318">ジークムント、318頁</ref>。なお、シーラッハはニュルンベルク裁判で訴追された被告人の中で最も若かった。
 
=== ニュルンベルク裁判 ===
因みに、ニュルンベルク刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が、開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると、シーラッハの[[知能指数]]は130であった<ref>[[レナード・モズレー]]著、[[伊藤哲]]訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、[[1977年]]、[[早川書房]] 166頁</ref>。
[[File:Nuremberg Trials defendants in the dock 1945.jpeg|thumb|250px|1945年11月22日、ニュルンベルク裁判。後列左から三人目のサングラスの人物がシーラッハ。]]
[[ニュルンベルク裁判]]においてシーラッハは、ドイツ全国青少年指導者としての行為から第一訴因「[[侵略戦争の共同謀議]]」、ウィーン大管区指導者としてウィーン・[[ユダヤ人]]を追放した行為から第四訴因「[[人道に対する罪]]」で起訴された{{sfn|芝健介|2015|p=90}}。法廷での席は後列左から3番目だった(左隣は[[エーリヒ・レーダー|レーダー]]、右隣は[[フリッツ・ザウケル|ザウケル]]){{sfn|芝健介|2015|p=94-95}}。
 
ヘンリエッテは1946年春に女性収容所から釈放されて、夫のための証人や証拠探しに駆け回り、頻繁にニュルンベルクを訪れた。シーラッハ自身は裁判で「ヒトラーは虐殺者」「アウシュヴィッツは史上最悪の大量殺りく」と認めた。一方で自分自身については「ユダヤ人の移送は承認したが、ジェノサイドについては全く知らなかった」と主張した<ref name="{{sfn|ヴィストリヒ|2002|p=127">ヴィストリヒ、127頁</ref>}}
[[ニュルンベルク裁判]]においてシーラッハは、ドイツ全国青少年指導者としての行為とウィーンの[[ユダヤ人]]を追放した行為を訴因として裁かれた。
 
ヘンリエッテは1946年春に女性収容所から釈放されて、夫のための証人や証拠探しに駆け回り、頻繁にニュルンベルクを訪れた。シーラッハ自身は裁判で「ヒトラーは虐殺者」「アウシュヴィッツは史上最悪の大量殺りく」と認めた。一方で自分自身については「ユダヤ人の移送は承認したが、ジェノサイドについては全く知らなかった」と主張した<ref name="ヴィストリヒ127">ヴィストリヒ、127頁</ref>。
 
判決を前に妻ヘンリエッテはアメリカ首席判事{{仮リンク|フランシス・ビドル|en|Francis Biddle}}に宛てて「私どもの子供はアメリカが大好きです。子供たちにとっては祖母の国です。[[ディズニー映画]]や[[アイスクリーム]]という楽しいイメージがあります。アメリカの国旗や歴史にも、ドイツと同じほどに親しみがあります。そのアメリカが、貴方達のお父さんを、最も忌まわしい方法で死なせたのよ、などと教えなければならないのでしょうか。」と[[英語]]で書いた<ref name="パーシコ下274">パーシコ下巻、274頁</ref>。
 
これが功を奏したのか、イギリス判事{{仮リンク|ジェフリー・ローレンス (初代オークシー男爵)|label=サー・ジェフリー・ローレンス|en|Geoffrey Lawrence, 1st Baron Oaksey}}とソ連判事[[イオナ・ニキチェンコ]]がシーラッハの死刑を主張する中、アメリカ判事ビドルは死刑に反対するフランス判事[[アンリ・ドヌデュー・ド・ヴァーブル]]の立場を支持し、結果、シーラッハは死刑を免れることとなった<ref name="パーシコ下263">パーシコ、下巻263頁</ref>。
 
1946年10月1日、他の被告人達とともにシーラッハの判決が読み上げられた。法廷はシーラッハについて「彼はユダヤ人移送計画の立案者ではないが、ユダヤ人が望めるのは、運が良くても東部のゲットーで悲惨な生存が許されるだけだということを知りながら、その移送に加担していた」とし、第四訴因[[人道に対する罪]]」で有罪とした<ref name="{{sfn|ヴィストリヒ|2002|p=127">ヴィストリヒ}}。一方127頁</ref>。全国青少年指導者だった時期の起に関する第一事実因「侵略戦争の共同謀議」については却下され無罪だった<ref name="クノップ172">クノップ、172頁</ref>。
 
その後シーラッハは個別に言い渡される量刑判決で禁固20年の判決を受けた。彼は[[死刑]]判決を免れた10人の被告の一人だった。証人用宿所のラジオの側で判決の実況を聞いていた妻ヘンリエッテはこの判決を聞いて「生きられるのよ!死ななくてすむなら何でもいいわ!」と叫んで大喜びしたという<ref name="パーシコ下279">パーシコ下巻、279頁</ref>。
 
=== シュパンダウ刑務所 ===
シーラッハはベルリン・[[シュパンダウ区|シュパンダウ]]の戦犯監獄に収監された。妻ヘンリエッテは夫の服役中、一人で様々な仕事をして生計を立てて、子供たちを育てた。1950年11月初めにシーラッハとヘンリエッテは離婚している。しかしヘンリエッテはその後も元夫シーラッハのために減刑嘆願を行った<ref name="ジークムント323">ジークムント、323頁</ref>。しかし結局減刑はなく、シーラッハは[[1966年]]に刑期満了で釈放された<ref name="クノップ172">クノップ、172頁</ref>。
[[File:Kriegsverbrechergefängnis Spandau - Wachablösung.JPG|250px|thumb|ニュルンベルク裁判で禁固刑を受けた戦犯が服役したシュパンダウ刑務所。シーラッハは[[1947年]]から[[1966年]]まで服役した。同刑務所は連合国4カ国が月ごとに交替で看守を出した。イギリスは1月・5月・9月、フランスは2月・6月・10月、ソ連は3月・7月・11月、アメリカは4月・8月・12月を担当した{{sfn|バード|1976|p=125}}。]]
シーラッハ含む禁固刑を受けた7人の戦犯たちはしばらくニュルンベルク刑務所で服役を続けていたが、[[1947年]][[7月18日]]に[[DC-3]]機で[[ベルリン]]へ移送され、護送車で[[シュパンダウ刑務所]]に送られてそこに投獄された。シーラッハの囚人番号は1番だった{{sfn|バード|1976|p=125}}。
 
刑務所内ではシーラッハは[[ヴァルター・フンク|フンク]]と仲が良く、シュペーアやヘスとはほとんど没交渉だったが、刑務所内が彼の他にこの二人だけになってしまうと二人に歩み寄るようになったという{{sfn|バード|1976|p=234-235}}。
刑務所の中で書いた『私はヒトラーを信じた(Ich Glaubte an Hitler)』を1967年に出版した。その中で彼は「ヒトラーが自分をはじめ若い世代を虜にしてしまった」「ナチズムの再生はあってはならない。ナチス再生信仰を破壊することが自分の責務」「強制収容所を阻止するためもっと行動すべきところを、何の手も打たなかったのは歴史の前に恥じるばかり」と自責の念を漏らしている<ref name="ヴィストリヒ127">ヴィストリヒ、127頁</ref>。釈放後は南西ドイツに隠棲した。1974年8月8日に[[クレフ (ドイツ)|クレフ]]({{Lang|de|Kröv}})のホテルで就寝中にそのまま死去した<ref name="ヴィストリヒ127"/>。
 
刑務所のアメリカ管理官ユージン・バード大佐によると刑務所の中でシーラッハは傲慢でおしゃべりだったという{{sfn|バード|1976|p=234}}。彼はバード大佐に「私は今まで尊敬できる人物にあったことがない。ヒトラーも含めてね」「今日はヒトラーの暗殺未遂事件記念日だが、ヘマをするのは陸軍の専門だ。実に立派な陸軍だ!爆弾入りの鞄を置くなんて臆病なやり方は聞いたことがないよ。そのおかげで何千人という人々が死に追いやられた。一番勇敢な方法と言ったらヒトラーの頭にピストルを突き付けることだったろうに。」「一つお聞かせしよう。私は総統の『信頼すべき人物』のリストに載っていた。彼の部屋に入るときには、みな身体検査されたが、私はそんなことをされない人間の一人だった。だから私はピストルを忍ばせて、それを使うこともできたんだよ!」と語っていたという{{sfn|バード|1976|p=217-219}}。
 
[[1965年]][[1月25日]]に網膜乖離で失明に近い状態になって倒れた。アメリカ・イギリス・フランスは病院へ搬送して目の手術することを求めたが、ソビエト連邦がそれに強硬に反対した。他の国に「人道的になれ」と言われてもソ連は一切聞き入れなかった。そのためシーラッハは将来的に盲目になることを覚悟し、「後1年で釈放だから、私が家に戻って周囲になじむまで視力が残っているといいのだが。寝室や階段や家具になじむのに三週間は必要だろう。盲目になる前までにやりたいことは孫たちに会うことだけだ」と述べた{{sfn|バード|1976|p=239-243}}。アメリカの粘り強い交渉の末、ついにソ連が折れて、5月22日になってシーラッハは刑務所外の病院で手術できた。このおかげでシーラッハは盲目にならずにすんだ。その後、手術した医師が刑務所に診察に訪れた際、シーラッハはその医師の手を握って「目を直してくれてありがとう」と言ったが、囚人が他の人と握手するのは規則で禁じられていたので彼は懲罰を受けた。彼は「目を治してくれた人にお礼も言えないのか」と不満を述べた{{sfn|バード|1976|p=245}}。
 
シーラッハはベルリン・[[シュパンダウ区|シュパンダウ]]の戦犯監獄に収監された。一方妻ヘンリエッテは夫の服役中、一人で様々な仕事をして生計を立てて、子供たちを育てた。1950年11月初めにシーラッハとヘンリエッテは離婚している。しかしヘンリエッテはその後も元夫シーラッハのために減刑嘆願を行った<ref name="ジークムント323">ジークムント、323頁</ref>。しかし結局減刑はなく、シーラッハは[[1966年]]10月にシュペーアとともに刑期満了で釈放された<ref name{{sfn|芝健介|2015|p="クノップ172">クノップ、172頁</ref>269}}
 
=== 晩年 ===
シーラッハは獄中にいた頃から離婚やアメリカ人の母からの莫大な遺産が米政府によって封鎖されたままである件などで西ドイツ・マスコミの話題を集めている人だったので、釈放後もマスコミの彼への関心は高かった。しかしシーラッハは記者会見を断り、三人の息子とともにバイエルンへ帰った{{sfn|芝健介|2015|p=269-270}}。西ドイツ政府は「シュペーアとフォン・シーラッハの釈放については承知・確認しているが、政治的見解を政府が特別に表明しなければならない謂われはない。ただ我々は人道的見地から罹患囚人の拘留環境緩和ないし刑期未満了釈放に努めてきた」と声明した{{sfn|芝健介|2015|p=271}}。
 
刑務所の中で書いた『私はヒトラーを信じた(Ich Glaubte an Hitler)』を1967年に出版した。その中で彼は「ヒトラーが自分をはじめ若い世代を虜にしてしまった」「ナチズムの再生はあってはならない。ナチス再生信仰を破壊することが自分の責務」「強制収容所を阻止するためもっと行動すべきところを、何の手も打たなかったのは歴史の前に恥じるばかり」と自責の念を漏らしている<ref name="{{sfn|ヴィストリヒ127">ヴィストリヒ、127頁</ref>。釈放後は南西ドイツに隠棲した。1974年8月8日に[[クレフ (ドイツ)|クレフ]]({{Lang2002|de|Krövp=127}})のホテルで就寝中にそのまま死去した<ref name="ヴィストリヒ127"/>
 
1974年8月8日に[[クレフ (ドイツ)|クレフ]]({{Lang|de|Kröv}})のホテルで就寝中にそのまま死去した{{sfn|ヴィストリヒ|2002|p=127}}。
 
== 人物 ==
[[File:Joachim von Ribbentrop and Baldur von Schirach.jpg|thumb|200px|ニュルンベルク裁判でのシーラッハ(立っている人物)。手前に座っているのは[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ|リッベントロップ]]。]]
因みに、ニュルンベルク刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が、開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると、シーラッハの[[知能指数]]は130であった<ref>[[レナード・モズレー]]著、[[伊藤哲]]訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、[[1977年]]、[[早川書房]] 166頁</ref>。
 
ニュルンベルク裁判中に精神医学者レオン・ゴールデンソーンから受けたインタビューの中でヒトラー・ユーゲントについて次のように語った。「私はあらゆる階級の青少年が共に学べる場をつくろうとした。それは貴族階級の子供だけでなく、労働者階級の子供もいる青少年国家だ。したがって最高指導部は青少年の生活に関心を持つ全ての省庁に代表者を送り込むことができた。我々は全ての青年に年18日の休暇を与えようと奮闘し、成果を上げた。これらの目標を達成できたのはひとえに若者の力のおかげだ。全ての立法機関には若者自身のコミュニティからやって来て青少年問題に取り組む者がいたからだ。このようなことはナチ党やナチズムが批判され、ヒトラー・ユーゲントがナチズムの手先としか看做されない時代にあっては正当に評価してもらえないだろう。しかし何年か経って世界が落ち着きを取り戻せば、私の計画にはプラスの面もあったことを認めてもらえるはずだ。」「私の計画が国家主義を連想させるのは、それがあの当時の青少年運動だったからだ。この運動を発展させるには国家社会主義の力を借りるより他になかった。」「自己統率や克己心という理念(全ての少年が自分に責任を持ち、自分のささやかな仕事に責任を持つこと)と青少年国家の建設。それらの理念は発展途上とはいえ非常に重要な物ばかりだった。ナチ党の青年運動はナチ党の添え物にすぎなかったなどと言われたくはない。仮にそう言ったところで国民は認めないだろう。彼ら、特に労働者階級の人々は何かを得たわけだし、そうでなければ私の計画をあれほど熱狂的に受け入れはしなかっただろう。労働者階級は自分たちに出世の可能性があることを悟ったのだ」「我々はいつもありとあらゆる関心ごとについて語りあったものだ。私は組織の運営上やむをえない場合を除き、命令を下さなかった。工場の取締役会のようなものだった。我々は座って雑談したり、意見を出し合ったりするが、最終的には最高責任者が仕事の方針や段取りを伝えるというわけだ。」<ref name="ゴ上206">[[#ゴ上|ゴールデンソーン 2005 上巻,]] p.206-209</ref>。
 
ユダヤ人虐殺が起こった原因について次のように述べた。「ドイツ人の気質には攻撃に傾きがちな何かがある」「ドイツ人は何事によらず改良に改良を重ねたがる。」「理想主義というより完全主義と言った方がいいかもしれない。」「最初のうち過大視はなかった。たしかに多少の反ユダヤ主義やスラブ諸国劣等視の宣伝はあった。それはユダヤ人に権力を与えまいとする政策として始まった。しかしドイツ人はシュトライヒャーのように極端に走ってしまった。そのシュトライヒャーでさえ、10年後に言うことを10年前には言わなかった。やがてヒムラーとヒトラーはユダヤ人を絶滅させねばならないと言ったが、完全主義と過大視を好むドイツ人気質によって、それは文字通りに受け止められた」「状況がドイツと同じならどこの国でも起こりえただろう。つまり、敗戦、ヴェルサイユ条約のような厳しい条約、失業問題、劣悪な住宅事情、食糧不足といった状況だ。」<ref name="ゴ上202">[[#ゴ上|ゴールデンソーン 2005 上巻,]] p.202-203</ref>
 
ウィーン大管区指導者としてユダヤ人追放を行ったことについては次のように述べた。「問題は私の考えが甘かったことだ。1938年以来私はヨーロッパ中のユダヤ人をゲッベルス博士と彼の強襲から遠ざけておくことが最善の策だと考えた。ユダヤ人をポーランドに送りだせば、彼らはそこで人並みに暮らせるようになるのだから、これは妙案だと私は思った。少なくとも、何が起こるか分からないドイツに置いておくよりはマシだと思ったのだ。」「私に言わせればオーストリア・ナチ党員の方が過激だった。急進主義的な彼らがいつも指摘したのは、私がユダヤ人問題に消極的な態度をとっているという点だった。そんなわけで私はユダヤ人をウィーンから移送するというヒトラーのアイディアは理にかなっていると思った。過激派は終始反ユダヤ暴動を起こすのだから。」「自分が5万人から6万人のウィーンのユダヤ人を立ち退かせた結果として人命が失われたかと思うと辛くて仕方ない。実のところ、彼らを立ち退かせたことには罪悪感はないのだが、演説のおかげであのような卑劣な犯罪(ユダヤ人絶滅政策)に手を染めたと思われるようになってしまった。今では人々を強制移送することは方法や理由のいかんに問わず言語道断だと思っている」<ref name="ゴ上214">[[#ゴ上|ゴールデンソーン 2005 上巻,]] p.214-216</ref>。
 
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|last=マーザー|first=ウェルナー・マーザー著『|translator=[[西義之]]|year=1979|title=ニュルンベルク裁判 <small>ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』[[西義之]]訳、</small>|publisher=[[TBSブリタニカ]]、1979年|ref=harv}}
* Charles Hamilton著『LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1』p238-239、R James Bender Publishing、[[1996年]]、ISBN 0912138270
* [[:en:Joseph E. Persico|ジョゼフ・E・パーシコ]]著 [[白幡憲之]]訳『ニュルンベルク軍事裁判(上) 』、[[原書房]]、[[1996年]]
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* [[平井正]]著、『ヒトラー・ユーゲント:青年運動から戦闘組織へ』、[[中公新書]]、[[2001年]]、ISBN 978-4121015723
* [[グイド・クノップ]]著、[[高木玲]]訳、『ヒトラーの共犯者 下 12人の側近たち』、[[2001年]]、[[原書房]]、ISBN 978-4562034185
* {{仮リンクCite book|ロベルト・S・和書|last=ヴィストリヒ|en|Robert S. Wistrich}}著、first=ロベルト|translator=[[滝川義人]]訳、『|year=2002|title=ナチス時代 ドイツ人名事典』、[[2002年]]、|publisher=[[東洋書林]]、ISBN |isbn=978-4887215733|ref=harv}}
* {{仮リンクCite book|レオン・和書|author=|last=ゴールデンソーン|en|Leon Goldensohn}}著、first=レオン|translator=[[小林等]]・[[高橋早苗]]・[[浅岡政子]]訳『|editor=[[ロバート・ジェラトリー]]([[:en:Robert Gellately|en]])編|year=2005|title=ニュルンベルク・インタビュー( )』、|publisher=[[河出書房新社]]、[[2005年]]|isbn=978-4309224404|ref=ゴ上}}
*{{Cite book|和書||last=ゴールデンソーン| first=レオン|translator=[[小林等]]・[[高橋早苗]]・[[浅岡政子]]|editor=[[ロバート・ジェラトリー]]([[:en:Robert Gellately|en]])編|year=2005|title=ニュルンベルク・インタビュー 下|publisher=河井書房新書|isbn=978-4309224411|ref=ゴ下}}
*{{Cite book|和書|author=[[芝健介]]|year=2015|title=ニュルンベルク裁判|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000610360|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|last=バード|first=ユージン||translator=[[笹尾久]]・[[加地永都子]]|year=1976|title=囚人ルドルフ・ヘス―いまだ獄中に生きる元ナチ副総統|publisher=[[出帆社]]|asin=B000J9FN36|ref=harv}}
* アンナ・マリア・ジークムント著、[[平島直一郎]]・[[西上潔]]訳、『ナチスの女たち 秘められた愛』、2009年、[[東洋書林]]、ISBN 978-4887217614
* シーラッハ著 日本青年外交協会研究部訳『青年の旗のまへに』、日本青年外交協会出版部、1941年
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{{ニュルンベルク裁判被告人}}
{{Normdaten}}
 
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