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{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = ヨハン・シュトラウス2世<br />{{lang|de|Johann StraußStrauss II}}
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| Birth_name = ヨハン・バプティスト・シュトラウス<br />({{lang|de|Johann Baptist StraußStrauss}})
| Alias = ワルツ王<br />ウィーンの太陽<br />ウィーンのもう一人の皇帝
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}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''ヨハン・シュトラウス2世'''('''Johann StraußStrauss II'''),全名は'''ヨハン・バプティスト・シュトラウス'''('''Johann Baptist StraußStrauss''', [[1825年]][[10月25日]] - [[1899年]][[6月3日]])は[[オーストリア]]の[[ウィーン]]で活躍した[[作曲家]]/[[指揮者]]/[[ヴァイオリニスト]]。音楽家[[ヨハン・シュトラウス1世]]の長男。弟には、次男の[[ヨーゼフ・シュトラウス]]と三男の[[エドゥアルト・シュトラウス]]がいる
 
生涯の多くを[[ヨハウィシュトラウス1世ワルツ]]の長男。弟作曲捧げ次男絶大な人気を獲得。オーストリアみならず[[ヨーゼフ・シュトラウスロッパ]]と三男の[[エドゥアルト・シュトラウス]]がいる各地で活躍した生涯多くを名声世紀末の風潮への社会的不安・商業演奏活動なども相まって[[世紀末ウィナ・ワルツ]]の作曲に捧げで一世を風靡し、「'''ワルツ王'''」「'''ウィーンの太陽'''<ref name="志鳥(1985) p.201"> 志鳥(1985) p.201</ref>」「'''ウィーンのもう一人の皇帝'''」などと評され。また、[[ワルツ]]の他[[オペレッタ]]、[[ポルカ]]なども作曲。毎年、元日に行われる[[ウィーン・フィルハーモニー管弦団|ウィーン・フィル]][[ニューイヤーコンサート]]は、彼やシュトラウス・ファミリーの作品を中心にプログラムを組まと称される。音楽の都「ウィーンの代表的な作曲家であり、その肖像はかつて、オーストリアの100[[シリング]][[紙幣]]に描かれていた。
 
毎年、元日に行われる「[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団|ウィーン・フィル]]の[[ニューイヤーコンサート]]」は、彼を中心とする[[シュトラウス家|シュトラウス・ファミリー]]の作品をメインにプログラムを組まれる。
 
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
父のシュトラウス1世は、すでに[[ウィンナ・ワルツ]]の作曲家として著名であったが、息子たちが音楽家としての道を歩むことには反対していた。音楽の基礎的素養は母親から受けていた。シュトラウス2世も、父と同じく音楽家としての才能に恵まれていたが、父の考えで大学では音楽とは関係のない経済学を専攻させられる。やがて、父親に愛人ができ、家族内で関係が悪化。やがて、父親は愛人と蒸発してしまう<ref>1849年に父シュトラウス1世が亡くなった時に、愛人の女性がその遺体をそのままに、持ち運びできる荷物を全て持ったまま去った為、シュトラウス2世とアンナがその遺体を引き取らなければならなくなった。この際シュトラウス2世はショックを受け、生涯にわたり死の恐怖におびえ続けたらしい。DEAGOSTINI刊、The Classic Collection第8号より</ref>。従って、ヨハンが作曲家として活動しはじめたのは、父から独立してからであり、父と同じく管弦楽団を設立。たちまち、人気の楽団になり、父とはライバル作曲家となる。互いに競争を余儀なくされるも、父親が1849年に他界してからは、いよいよ2世が正真正銘の「ワルツ王」として君臨することになった。
[[File:Johann Strauss II Birthplace by Ludwig Wegmann.jpg|thumb|right|[[1890年]]に取り壊されたヨハン2世の生家。Ludwig Wegmannによるインク絵。]]
[[1825年]][[10月25日]]、ウィーンの数キロ南に位置するザンクト・ウルリッヒ地区の、ロフラノ通り76番地で誕生した<ref name="増田(1998) p.88"> 増田(1998) p.88</ref><ref name="小宮(2000) p.13"> 小宮(2000) p.13</ref>。父は音楽家[[ヨハン・シュトラウス1世]]、母は居酒屋の娘[[マリア・アンナ・シュトレイム]]である。[[婚前妊娠]]であり、母がヨハンを身ごもったと発覚したことが両親の結婚のきっかけとなった<ref name="小宮(2000) p.39"> 小宮(2000) p.39</ref>。
 
ヨハンとその弟たちは幼い頃、母アンナから次のような話を言い聞かされて育ったという。アンナの祖父は[[スペイン王国]]のさる[[大公]]だったが、刃傷沙汰を起こしたためウィーンに逃れてきた、と<ref name="小宮(2000) p.13"/>。それは明らかな作り話であるが、[[シュトラウス家]]は蔑視されていた[[ユダヤ人]]の子孫であったため、アンナは子供たちに劣等感を持たずに成長してほしいと願い、母方にはスペインの高貴な血が流れているのだという作り話をしたのだろう、と[[小宮正安]]は推測している<ref>小宮(2000) p.14</ref>。
 
ヨハンは生前、自分の少年時代について何も語ろうとしなかった。親友がその話題に触れたとき、当惑した表情で「それは、つらい思い出だ。」と呟いたという<ref>小宮(2000) p.38</ref>。父ヨハンは厳格な人間であった。父ヨハンは自身の率いる「シュトラウス楽団」において、賃金、練習時間、演奏活動など、あらゆることを思いどおりにしており、逆らう者は即刻解雇にした。父のその厳しさは家庭でも変わらず、自分に逆らえばたとえ妻子であろうとも容赦なく暴力をふるった<ref name="小宮(2000) p.39"/>。その多忙さから父は、自宅には寝に帰るか、仕事を片付けに立ち寄るだけであった。
 
=== 音楽への関心 ===
自分の誕生時にはすでに[[ウィンナ・ワルツ]]の作曲家として著名だった父ヨハンに影響を受けて、ヨハンは音楽家に憧れるようになった。しかし父のほうは、音楽家が浮き草稼業であることを知っていたので、息子たちを音楽家にだけは絶対にさせるつもりはなかった<ref name="『新訂 大作曲家の肖像と生涯』 p.189"> 『新訂 大作曲家の肖像と生涯』 p.189</ref><ref name="小宮(2000) p.44"> 小宮(2000) p.44</ref><ref name="倉田(2006) p.176"> 倉田(2006) p.176</ref>。そのため、父ヨハンは[[ピアノ]]を練習することは認めたが<ref name="増田(1998) p.91"> 増田(1998) p.91</ref>、息子たちがそれ以外の楽器に触れることを固く禁じた<ref name="『世界人物逸話辞典』p.483"> 『世界人物逸話辞典』p.483</ref>。幼少期のヨハンは、サルマンスドルフという村にある母方の祖父母の家でよく夏を過ごしていた<ref name="河野(2009) p.188"> 河野(2009) p.188</ref>。[[1830年]]、6歳の時に祖父の家の小さな卓上ピアノで、36小節のみからなるワルツを作曲し、アンナがそれを譜面に写し『最初の着想』と名付けた<ref name="河野(2009) p.188"/>。また、5分で曲を作って弟[[ヨーゼフ・シュトラウス|ヨーゼフ]]に歌わせたこともある、とのちに本人が証言している<ref>[http://www5f.biglobe.ne.jp/~strauss/nyconcert/ny14.pdf ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2014曲目解説]〈ことこと回れ〉を参照。</ref>。
 
音楽家に憧れるヨハンにしてみれば、父から許されたピアノを弾くだけというのは到底満足がいかないものだった。父のように[[ヴァイオリン]]を弾きたかったため、わずか8歳の時には、同じアパートに住む14歳の少女と近所の裁縫師の息子をピアノの弟子とし、授業料を取るようになった<ref name="『世界人物逸話辞典』p.483"/>。こうして自ら貯めた金銭をもとにヴァイオリンを買ったヨハンは、鏡の前に立って父親をまねてヴァイオリンの練習をするのを日課とした<ref name="小宮(2000) p.13"> 小宮(2000) p.13</ref>。ところがある日、この練習が父ヨハンに見つかってしまう。父は激怒し、ヨハンが手に持っていたヴァイオリンを奪って叩き壊してしまった<ref name="河野(2009) p.188"/>。
 
やがて父ヨハンは、[[エミーリエ・トランプッシュ]]という若い愛人をつくって彼女のもとに入り浸るようになる。父はアンナのもとにはろくに生活費を送らず、愛人に貢ぐようになった<ref name="小宮(2000) p.39"/>。父がヨハンの音楽への興味関心をへし折ろうとしていたのとは逆に、母アンナは息子を応援した<ref name="倉田(2006) p.176"/><ref name="小宮(2000) p.46"> 小宮(2000) p.46</ref>。夫が息子のヴァイオリンを壊した先述の出来事の後、アンナはすぐさま新たなヴァイオリンを息子に買い与えた<ref name="小宮(2000) p.46"/>。アンナの胸中には、息子を夫以上の音楽家に育てて、愛人のもとに入り浸って家庭を顧みようとしない夫に復讐してやろうという思いがあったのである<ref name="小宮(2000) p.46"/>。
 
ヨハンは技師学校での勉強をやめ、ひそかに父のシュトラウス楽団の楽団員からヴァイオリンを学んだが、これを知った父ヨハンはその楽団員をすぐさま解雇した<ref name="増田(1998) p.90"> 増田(1998) p.90</ref>。その後ヨハンは商学部に入学して[[簿記]]などを学んだが、[[1842年]]にこれを退学して音楽に専念することにした<ref name="増田(1998) p.91"/>。今度は教会のオルガン奏者{{仮リンク|ヨーゼフ・ドレヒスラー|de|Joseph Drechsler}}に師事し、ドレヒスラーのもとで[[和声]]を中心とする楽典を叩きこまれた<ref name="小宮(2000) p.47"> 小宮(2000) p.47</ref>。ほぼ独学で音楽を学んだ父ヨハンとは対称的に、ヨハン2世は正統的な学習によって音楽の基礎を築こうとしたのである<ref name="小宮(2000) p.47"/>。
 
=== 音楽家デビュー ===
[[File:JohannStraussSohnca1850.jpg|thumb|left|200px|当時18歳、デビューしたてのヨハン・シュトラウス2世。]]
[[1844年]]、ヨハン2世は修行を終え、デビューコンサートに向けて準備を開始した<ref name="小宮(2000) p.48"> 小宮(2000) p.48</ref>。ライバルだった[[ヨーゼフ・ランナー]]が[[1843年]]に世を去った後、父ヨハンはウィーンのダンス音楽の覇権を掌握していた。そんな状況において、自身と同名の息子が挑戦してきたことに父は強い危機感を覚えた。息子のデビューを妨害すべく、父はウィーン中の名だたる飲食店に圧力をかけ、配下の楽団員には息子に味方することを禁じ、さらには新聞記者を買収して息子の中傷記事を書かせようとすらした<ref name="小宮(2000) p.48"/>。これらの父の動きに対し、ヨハンも負けじと対抗した。まだ父の息のかかっていない新しい飲食店に徹底的にアピールし、そして埋もれた有能な若手を中心とした音楽家の発掘に努め、さらに[[提灯記事]]を書いてくれる新聞社とも契約を結んだ<ref name="小宮(2000) p.49"> 小宮(2000) p.49</ref>。
 
当時の法律により、音楽家になるには20歳以上でなければならなかったが、当時ヨハンはまだ18歳であった。そこでヨハンは役所に行き、「父親が家庭を顧みないために生活が苦しく、私ひとりで母や弟の面倒を見なければならないのです」と涙ながらに訴えた<ref name="小宮(2000) p.49"/>。有名人の息子の願い出に対し、ついには頑固な役人も首を縦に振った。おまけに、家族を助ける青年音楽家という美談がウィーンに広まり、ヨハン2世の印象を良いものにしてくれた<ref name="小宮(2000) p.49"/>。
 
デビューコンサートは10月15日、[[シェーンブルン宮殿]]近くの{{仮リンク|カジノ・ドームマイヤー|de|Café Dommayer}}に決まった。発掘してきた音楽家で独自の楽団を作ったヨハンは、定刻の午後6時に登場し<ref name="志鳥(1985) p.200"> 志鳥(1985) p.200</ref>、父と同じスタイルの「ヴァイオリンを演奏しながら華麗に指揮をする」というやり方で、指揮者としてデビューした<ref name="小宮(2000) p.49"/>。この日のために、『初舞台のカドリーユ』、『どうぞごひいきに』などのデビューを意識した題名の新曲が作られ、演奏された<ref name="小宮(2000) p.49"/>。ヨハン2世は、指揮者としての、ヴァイオリン奏者としての、そして作曲家としての才能を自らが備えているということを公衆の前で証明してみせたのである<ref name="小宮(2000) p.50"> 小宮(2000) p.50</ref>。10月19日付の『Der Wanderer』誌上でフランツ・ヴィーストは、「おやすみランナー、こんばんはシュトラウス1世、おはようシュトラウス2世!」という有名な言葉を残した<ref name="若宮(2011) p.158"> 若宮(2011) p.158</ref>。
 
演奏会は大成功であったが、宣伝のチラシには大きく「ヨハン・シュトラウス」と印字されていたし、デビューコンサートを締めくくったのは父の代表作『ローレライ・ラインの調べ』であった<ref name="小宮(2000) p.50"/>。宮廷舞踏会の音楽監督にまでなった父ヨハンの人気を無視することは不可能だったのである<ref name="小宮(2000) p.50"/>。ともかく、こうして父とはライバル作曲家となり、互いに競争を余儀なくされることになった<ref name="志鳥(1985) p.200"/>。第二の「ワルツ合戦」が幕を開けたこの年、母アンナは夫に離縁状を叩きつけ、離婚が正式に成立した。[[1846年]]から[[1847年]]の間に、シュトラウス親子は同じオペラに基づく楽曲3つをそれぞれ作曲した<ref name="鍵山(2006) p.30"> 鍵山(2006) p.30</ref>。これらはいずれも[[カドリーユ]]であることから、「'''カドリーユ対決'''」と呼ばれる<ref name="鍵山(2006) p.30"/>。やがて親子は和解し、音楽上の協力までするようになったという<ref name="増田(1998) p.91"/>。
 
=== 1848年革命への加担 ===
ヨハン2世が東欧への演奏旅行に行っていた際、[[1848年革命]]が起こる。これに際してヨハン2世は、ただちに祖国に戻ってオーストリア南部の[[シュタイヤーマルク]]からウィーンの革命のなりゆきを傍観した<ref name="小宮(2000) p.55"> 小宮(2000) p.55</ref>。そして市民側が優勢と判断し、革命支持者を名乗ってウィーンへ戻った。そして、『革命行進曲』、『学生行進曲』、『自由の歌』などを作曲し、学生を中心とする若い革命参加者の先頭に立った<ref name="小宮(2000) p.55"/><ref name="倉田(2006) p.177"> 倉田(2006) p.177</ref>。挙句の果てには、当時オーストリアでは禁制だったフランスの革命歌『[[ラ・マルセイエーズ]]』を演奏してみせた<ref>小宮(2000) p.56</ref><ref name="倉田(2006) p.177"/>。このような反政府的活動によって、当時の宮廷からは嫌われることになった<ref name="倉田(2006) p.177"/>。
 
やがてヨハン2世は革命運動に嫌気がさしてきて、革命が鎮圧されるとヨハン2世はバリケードを片付け、元の生活に戻ろうとした。皇帝が[[フェルディナント1世]]から[[フランツ・ヨーゼフ1世]]に代わると、ヨハン2世は一転し『皇帝フランツ=ヨーゼフ行進曲』を作曲するも、皇帝からは何の反応もなかった<ref name="倉田(2006) p.177"/>。ヨハン2世は、ラ・マルセイエーズを演奏したことから、要注意人物として警察に監視されるようになってしまった<ref name="小宮(2000) p.62"> 小宮(2000) p.62</ref>。警察への出頭を命じられ、この時の様子を激しく細かく尋問された<ref name="小宮(2000) p.62"/>。ここでヨハン2世は、確固とした思想によるものではなく、単なる出来心にすぎない、と繰り返し供述した。最後には「もう二度と、このような馬鹿なまねはいたしません。ですから、どうかお許しを。」と深く後悔した様子で警察官に誓った<ref>小宮(2000) p.63</ref>。
 
=== 父ヨハンの死、弟たちのデビュー ===
[[File:Josef Strauss (1827-1870).jpg|thumb|left|180px|長弟[[ヨーゼフ・シュトラウス]]。ヨハンよりも才能があると評されることもあった。]]
[[File:EduardStraussFoto.jpg|thumb|right|180px|末弟[[エドゥアルト・シュトラウス]]。主に指揮者として名声を獲得した。]]
[[1849年]]、父ヨハン1世が死去する。父の葬儀を済ませた後、ヨハンはシュトラウス楽団を自分の楽団に吸収した<ref>志鳥(1985) p.201</ref>。それまで親子に分散されていた仕事が、父の死によってヨハンのもとに集中するようになった。この時期のヨハンは非常に忙しく、一晩に舞踏場やレストランを5軒以上も演奏に回ったとされ、馬車の中で作られたワルツもあるとさえ伝えられる<ref name="團(1977) p.85"> 團(1977) p.85</ref>。5か所以上の演奏場に自身の名を冠したオーケストラを置いたため、シュトラウス楽団は一時期200人を超える大所帯だったという<ref name="團(1977) p.85"/>。
 
[[1851年]]秋、フランツ・ヨーゼフ1世の命名日を祝う式典に便乗して、カドリーユ『万歳!』を作曲し、皇帝に献呈した<ref>小宮(2000) p.68</ref>。それが功を奏したのか、[[1852年]]の[[謝肉祭]]において、ヨハンは宮廷のダンスの指揮をやっと許された<ref name="倉田(2006) p.177"/>。[[1853年]]に皇帝襲撃事件が起き、皇帝の命が助かった際には『フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』を作曲するなど、[[ハプスブルク家]]との結びつきを次第に強めていった。こうしてヨハンは宮廷での仕事も持つようになった。
 
あまりの忙しさのため、ヨハンはしばしば再起不能かと思われるほどの重病に倒れた<ref name="小宮(2000) p.102"> 小宮(2000) p.102</ref>。そこで母アンナは1853年、次男ヨーゼフに兄の代役として指揮者を務めさせた<ref name="小宮(2000) p.102"/>。結果的にはヨハンが倒れたことが、技師だった弟に音楽家人生を歩ませるきっかけとなったのである。
 
法律家協会、医師会、技術家協会、芸術家協会などの団体が公開舞踏会を催す際には、きまってヨハンのもとに新曲の依頼が飛び込んできた。兄弟で仕事を分担するようになってもヨハンの生活は相変わらず多忙をきわめ、「いつも夜会服を着て暮らす男」と呼ばれることもあった<ref name="増田(1998) p.91"/>。
 
=== 海外への演奏旅行 ===
[[File:Charlemagne AI Celebr 25th anniv of TsarSelo railroad in PavlovskConcertHall 1862, gouache.jpg|thumb|right|290px|[[パヴロフスク]]駅舎での演奏会の様子。]]
[[File:PeaceJubilee Coliseum Interior 1872.jpg|thumb|right|290px|ボストン世界平和記念祭。]]
父と同じく、ヨハンの音楽活動はオーストリア国内には留まらなかった。[[1856年]]に[[ロシア]]の鉄道会社と契約を結び、夏のシーズンには[[パヴロフスク]]の駅舎で演奏会を指揮するようになった([[1862年]]からは、弟ヨーゼフにすべて任せるか、二人で一緒に赴くようになる)<ref>若宮(2012) p.66</ref>。
 
[[1872年]]6月17日、[[アメリカ]]の[[ボストン]]で世界平和記念祭および国際音楽祭が開催された<ref name="シュヴァープ(1986) p.140"> シュヴァープ(1986) p.140</ref>。この指揮者として招かれたのが、当時トップクラスの人気を誇る音楽家だったヨハンである。聴衆10万人という当時としては空前の規模の演奏会であった。『美しく青きドナウ』の指揮の際、2万人の歌手に正しいテンポを与えるため、100人の副指揮者が補助として配置された。以下に、ボストン世界平和記念祭についてのヨハンの弁を記す<ref name="シュヴァープ(1986) p.140"/>。
{{quotation|私ができたのは、すぐそばの人に理解させることくらいだった。練習も合わせることが問題で、演奏や芸術的完成などまるで考えられなかった。だがこれを断ると、返すのに一生かかるほどの違約金を払わねばならない!10万人のアメリカ人の前に立った私の姿を想像してみてください。どうやって始めたらいいのか……どうやって終わらせたらいいのか?突然大砲の音が響き渡った。私たち2万人にコンサートを始めろという優しいウィンクである……私が指示を出すと、配下の副指揮者100人は、できるかぎり迅速に、それに従った。こうして英雄劇ともいうべき[[スペクタクル]]が始まった。これは一生忘れることができない。全員がだいたいのところ、同じ瞬間にはじめられたので、私の全神経はこんどは同時に終わることに集中した。おかげさまで、それもできた。これが人間のできる限界である。聴衆10万人の拍手が鳴り響き、私はほっとした。ふたたび外の空気に触れ、しっかりとした大地に足を下ろしたような感じだった……。翌日、私はアメリカ全土を回る楽旅の先がけとして、カリフォルニア全土の演奏旅行を私に約束しに来る興行師の一連隊から逃げなければならなかった。}}
なお、この成功にもかかわらず、ヨハンはアメリカの「馬鹿げた音楽の聴衆」を軽蔑したといわれる<ref>増田(1998) p.92</ref>。
 
=== オペレッタへの進出 ===
[[File:Offenbach and Strauss.jpg|thumb|left|180px|シュトラウスと[[ジャック・オッフェンバック|オッフェンバック]]の風刺画。「1作目のオペレッタで、シュトラウスはすでにオッフェンバックをしのいでしまった」]]
[[1870年]]はヨハンの身内が次々と世を去った不幸な年だった。母アンナ、弟ヨーゼフ、さらには叔母が息を引き取り、死に対して病的な恐怖心を抱いていたとされるヨハンは精神的にすっかり参ってしまった。作曲意欲を失ったヨハンに対して妻ヘンリエッテや周囲の人間は、オペレッタの作曲を熱烈に勧めた。こうして[[1871年]]に出来上がったのが、最初のオペレッタ『[[インディゴと40人の盗賊]]』である。台本の評価はあまり良くないが、ヨハンの音楽と舞台の華やかさ、晴れやかな踊りのおかげで大成功を収めた。
 
オペレッタに進出した1871年以降、ヨハンは新しいダンス音楽をほとんど書かなくなった<ref name="小宮(2000) p.162"> 小宮(2000) p.162</ref>。苦労して手に入れた宮廷舞踏会音楽監督の地位も、あっさりと末弟エドゥアルトに譲ってしまった<ref name="小宮(2000) p.162"/>。これ以降ヨハンはオペレッタに活動の場を移し、またエドゥアルトはシュトラウス楽団の頂点に君臨することとなった。
 
=== 音楽家生活50周年 ===
1844年のデビューから50年後の[[1894年]]、10月15日前後にヨハンの音楽家生活50周年のための一連の祝賀行事が盛大に催された<ref name="若宮(2011) p.158"/>。12日、アンデア・ウィーン劇場において「祝賀オペレッタ」としてヨハンによる14作目のオペレッタ『りんご祭り』が初演されたのが、祝賀行事の皮切りだった<ref name="若宮(2011) p.158"/>。翌13日にはバレエ『ウィーン巡り』がウィーン宮廷歌劇場で初演され、14日には[[ウィーン楽友協会]]で「作曲家ヨハン・シュトラウスの50周年祝賀演奏会」が開かれた。同日夕方5時半からは、弟エドゥアルト率いるシュトラウス楽団により、「作曲家ヨハン・シュトラウスの50周年を祝う祝賀演奏会」が開催された<ref name="若宮(2011) p.158"/>。15日の夜10時からは、[[リングシュトラーセ]]沿いのグランド・ホテルで華々しい晩餐会が開かれた<ref name="若宮(2011) p.159"> 若宮(2011) p.159</ref>。そして、28日に『こうもり』をウィーン宮廷歌劇場で上演してすべての祝賀行事が締めくくられた<ref name="若宮(2011) p.159"/>。これらの祝賀諸行事は「シュトラウス祝賀委員会」が取り仕切り、ヨハンはすべての行事に出席した<ref name="若宮(2011) p.159"/>。
 
この他にも、「シュトラウス祝賀委員会」とは関係のない祝賀行事が、ウィーンの街の至るところで開かれ、16日付の『Fremden-Blatt紙』は「ウィーン音楽が演奏される酒場において、祝われるべき人に思いをはせなかったところはひとつもない」と評した。{{仮リンク|フォルクスガルテン|de|Volksgarten (Wien)}}、クアサロン、造園協会、ゾフィーエンザール、ホプフナー(旧ドームマイヤー)、プラーターの第2コーヒーハウスなど、ウィーンの名だたる娯楽場で、シュトラウスを祝賀する演奏が催され、ウィーンの新聞各紙は文芸欄でこぞってヨハンの功績を褒め称えた<ref name="若宮(2011) p.159"/>。
 
=== 最期 ===
[[ファイル:Johann Strauss (1825–1899) Todesanzeige death notice.jpg|thumb|right|220px|ヨハン2世の死を知らせる掲示。]]
[[ファイル:Johann Strauß auf dem Todtenbette 1899 J. Löwy.png|thumb|220px|left|横たえられたヨハン2世の遺体。]]
歳を取ってもヨハンは、黒々とした髪、ゆたかな髭、若々しい肌、伸びた背筋を保っていた<ref name="小宮(2000) p.5"> 小宮(2000) p.5</ref>。そのためヨハンはしばしば「永遠の若者」と呼ばれたが、髪の黒さは染め粉、髭は[[ポマード]]、肌は紅、背筋は[[燕尾服]]の下の[[コルセット]]のおかげであった<ref name="小宮(2000) p.5"/>。人々の前では元気にふるまいながらも、家に帰れば疲れ果てた様子でソファーに倒れこむような状態だった<ref name="小宮(2000) p.5"/>。老いは確実にヨハンの体を蝕んでいたのである。
 
死の直前に作られた行進曲『狙って!』は「我等ひとつのドイツ」をテーマに掲げたドイツ射撃連盟のイベントに寄せられたものであり、晩年はドイツへ国籍を移したことも含め[[大ドイツ主義]]的な立場への傾斜が窺われる。代表作『皇帝円舞曲』もドイツ皇帝とオーストリア皇帝に捧げられベルリンで初演されている。もっともこれらは、長らくドイツ人の主流でありながら統一ドイツから除外されてしまったオーストリア国民の気分を反映したものといえ、オーストリア人とプロイセン人の組み合わせによる3組のカップルが誕生して終わる喜歌劇『ウィーン気質』のストーリーにも濃厚に窺える。
 
マーラーから、ウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲(『灰かぶり姫』というシンデレラ物語)を委嘱されたが、ヨハンの存命中には完成せず、未完のまま世を去ることになる。[[1899年]]の5月下旬、劇場で自作曲の指揮をしていたヨハンはひどい悪寒をおぼえ<ref name="志鳥(1985) p.210"> 志鳥(1985) p.210</ref>、数日後に無理を押してサイン会を開いた後、その晩から寝込んでしまった<ref name="小宮(2000) p.210"> 小宮(2000) p.210</ref>。何人かの医師が診察した結果、当時は命取りの病とされた[[肺炎]]であることが判明した<ref name="志鳥(1985) p.210"/>。妻アデーレはヨハンに本当の病状を隠し、「神経痛ですから、しばらく我慢してね。すぐに良くなるわよ」と嘘をついた<ref name="志鳥(1985) p.210"/>。書きかけのバレエがよほど気になっていたようで、作業を中断せざるをえない悔しさを幾度となく口にした<ref name="小宮(2000) p.210"/>。肺炎に侵された体をむりやり起こし、作曲の筆をとろうとした。高熱に襲われ、幻覚症状におちいったヨハンには、周囲の人形がバレリーナに見えたらしい<ref name="小宮(2000) p.210"/>。
 
[[6月3日]]、前の晩から付きっきりで看病していた妻アデーレから「あなた、お疲れでしょう。少しお休みになったら……」と言われたヨハンは、微笑んで「そうだね。どっちみちそうなるだろう……」と答えて目をつぶった<ref name="志鳥(1985) p.210"/>。これがヨハンの最後の言葉だった<ref name="志鳥(1985) p.210"/>。その日の午後4時15分、妻に看取られて死去した<ref name="志鳥(1985) p.210"/>。マーラーが未完の作品を上演することはなかった。
 
=== 死後 ===
[[File:Das Johann Strauß Denkmal im Wiener Stadtpark (15340084335).jpg|thumb|250px|right|黄金の[[ヨハン・シュトラウス記念像]]。]]
[[File:100 Schilling Johann Strauss obverse.jpg|thumb|200px|left|100[[オーストリア・シリング]]紙幣に描かれたヨハン2世。]]
ヨハンが死去したという知らせを受けた[[ウィーン市]]は、ただちにウィーンの中央墓地の中に特別墓地を設けることを決定した<ref name="小宮(2000) p.213"> 小宮(2000) p.213</ref>。6月6日、ヨハンの亡骸をおさめた棺は、沿道の大勢の人々に見送られ、特別墓地に埋葬された<ref name="小宮(2000) p.213"/>。葬式には10万人の市民が参列したとされ<ref name="『新訂 大作曲家の肖像と生涯』 p.191"/>、この際ヨハンの「新曲」がいくつも追悼として演奏された<ref name="小宮(2000) p.213"/>。未亡人となったヨハンの妻アデーレが、夫の未発表作品を世に送り出し、さらには遺された膨大なスケッチを集め、別の作曲家に依頼してそれらをたくみにつなげさせ、新作として発表したのである<ref name="小宮(2000) p.214"> 小宮(2000) p.214</ref>。死後数年を経てからも、ヨハンの「新曲」は次々と世に出された。その後ウィーンでは、『我らがワルツ王の思い出』『シュトラウスの家』などの歌が流行した<ref name="小宮(2000) p.214"/>。
 
ヨハンの死から5年後の[[1904年]]、シュトラウス記念像を建立しようとする動きが高まった<ref name="小宮(2000) p.218"> 小宮(2000) p.218</ref>。その名を知らぬ者はいないほどの有名人であったにも関わらず、その銅像は一つもなかったのである<ref name="小宮(2000) p.218"/>。委員会が設置され、記念像建立のための募金が始められたが、その途上で[[サラエボ事件]]が起こり、活動も挫折を余儀なくされる<ref name="小宮(2000) p.218"/>。[[第一次世界大戦]]に負けて帝国は瓦解し、シュトラウスが生きていた時代はますます遠のいた。「ヨハン・シュトラウスとともに、ハプスブルク帝国も死んだ」などと言われることもある<ref name="小宮(2000) p.219"> 小宮(2000) p.219</ref>。
 
[[1921年]]、ついに黄金に輝くシュトラウス記念像が建立されたが<ref name="小宮(2000) p.219"/>、贅沢すぎるとの批判を受けて黒色に塗り替えられた<ref name="小宮(2000) p.220"> 小宮(2000) p.220</ref>。[[1991年]]にあらためて元の金色に塗り直されたシュトラウス記念像は現在、ウィーンの代表的な観光名所のひとつとして親しまれている<ref name="小宮(2000) p.8"> 小宮(2000) p.8</ref>。
 
== 女性関係 ==
[[File:Olga Smirnitskaja (1837-1920).JPG|thumb|right|180px|オルガ・スミルニツキー。(1837-1920)]]
ヨハン・シュトラウス2世は、生涯に3度の結婚を経験している。3人の妻との間に子女はいない。ヨハンは生前さまざまな女性と浮き名を流しており、肉体関係を結んだ相手も数知れず、好色がたたって[[性病]]にかかったこともある<ref name="小宮(2000) p.216"> 小宮(2000) p.216</ref>。性病のために子供ができなかったという噂や<ref name="小宮(2000) p.216"/>、早世した弟ヨーゼフの未亡人カロリーネに手を出したとの噂もささやかれた<ref>小宮(2000) p.108</ref>。未亡人となった最後の妻アデーレはこのような噂を必死になって否定し、ヨハンの清潔さを喧伝した<ref name="小宮(2000) p.216"/>。
 
毎夏[[パヴロフスク]]へ演奏旅行していたヨハンは、30歳の頃にオルガ・スミルニツキーという娘と知りあった<ref name="小宮(2000) p.217"> 小宮(2000) p.217</ref>。ふたりは結婚の約束まで交わしたが、彼女の両親の反対によって別れたという。アデーレはこの件に関して、亡夫の遺したオルガとの手紙を残らず世間に公表した<ref name="小宮(2000) p.217"/>。この清純な悲恋物語は、アデーレによってかなり誇張されて世に出回った<ref name="小宮(2000) p.217"/>。アデーレは、世間に知られたくない夫の側面を隠し通そうとしたのである<ref name="小宮(2000) p.216"/>。
 
オルガの他にも、シュトラウスの自宅付近に住んでいたエリーゼという女性との結婚を考えたこともある。エリーゼは母アンナが息子の花嫁候補と考えた女性であり、実現はしなかったがヨハンも彼女との結婚に乗り気で、『エリーゼ・ポルカ』(作品151)を作曲している。
 
以下、ヨハンの夫人となった女性を挙げる。括弧内は婚姻期間である。
 
=== ヘンリエッテ (1862 - 1878) ===
[[File:Henrietta (Jetty) treffz (1818-1878) e Johann Strauss jr..JPG|thumb|left|180px|最初の妻ヘンリエッテ。]]
[[File:Jetty Treffz.jpg|thumb|right|190px|オペラ歌手「イエッティ」時代のヘンリエッテ。]]
ヨハンが最初に結婚したのは、銀行家の{{仮リンク|モーリッツ・フォン・トデスコ|de|Moritz von Todesco}}男爵の愛人で、すでに二人の子持ちで、しかもヨハンよりも11歳も年上の女性{{仮リンク|イエッティ・トレフツ|label=ヘンリエッテ・トレフツ|de|Jetty Treffz}}だった。ヨハンは社交界の花形であり、彼の周囲にはいつも美しい女性が集まっており、彼がどんな女性と結婚するかはウィーンの街角を賑わせた話題だった<ref name="志鳥(1985) p.201"/>。そのような状況で、ヨハンが選んだ相手にウィーンの人々は驚いた。特にウィーンの女性は、このニュースを聞いて呆然としたという<ref name="志鳥(1985) p.202"> 志鳥(1985) p.202</ref>。
 
ヘンリエッテはかつて「イエッティ」という芸名でオペラ歌手として舞台に立ち、名歌手の[[ジェニー・リンド]]に匹敵する人気があったといわれる<ref name="志鳥(1985) p.202"/>。ヨハンが彼女と初めて出会ったのは、トデスコ男爵家で催された舞踏会に指揮者として招かれた時のことである<ref name="志鳥(1985) p.202"/>。この時ヨハンは男爵と同棲していたヘンリエッテに一目惚れし、しばしば男爵家の彼女のもとへ通うようになった。やがてヨハンとヘンリエッテが相思相愛の仲になったことを知ると、トデスコ男爵はふたりの結婚を快く認めた<ref name="志鳥(1985) p.202"/>。
 
[[1862年]]8月末、[[聖シュテファン教会]]において彼女との結婚式が執り行われた。新郎ヨハンは36歳、新婦ヘンリエッテは47歳であった<ref name="志鳥(1985) p.202"/>。実家のすぐ近くに新居を構え、新婚生活を送るようになった<ref name="小宮(2000) p.148"> 小宮(2000) p.148</ref>。母アンナは息子の妻には家柄や身持ちのしっかりした女性をと望んでいたので、最初のうちはヘンリエッテを快く思っていなかったようである<ref name="志鳥(1985) p.202"/>。しかし、ヨハンが国外に演奏旅行に出かけた留守中に一緒に暮らすようになってからは、アンナのヘンリエッテに対する気持ちも変わったといわれている<ref name="志鳥(1985) p.204"> 志鳥(1985) p.204</ref>。
 
ヘンリエッテにはかなりの財産があり、社交界でも花形的存在であったことから、ウィーンの上流社会に有力なコネを持っていた。結婚の2年後にヨハンは宮廷舞踏会の楽長に就任することができたが、これもヘンリエッテの影の力があったからだといわれる<ref name="志鳥(1985) p.204"/>。ヨハンは妻のことを「僕の財布」と呼び、ヘンリエッテは夫のことを「私の坊や」と呼んだ<ref name="小宮(2000) p.148"/>。財政的にも豊かになったおかげで仕事を選べるようになり、ヨハンは指揮よりもむしろ作曲に力を注ぐようになった<ref name="志鳥(1985) p.204"/>。また、ヘンリエッテは音楽家の妻として理想的な性格であったことから、ヨハンは彼女と結婚したことによって音楽家として大きく成長することができた<ref name="志鳥(1985) p.204"/>。
 
[[1870年]]、母アンナと弟ヨーゼフが相次いで世を去り、ヨハンは大変なショックを受けた<ref name="『新訂 大作曲家の肖像と生涯』 p.191"> 『新訂 大作曲家の肖像と生涯』 p.191</ref>。宮廷舞踏会楽長などのすべての公的な仕事から手を引いたヨハンに、ヘンリエッテは[[オペレッタ]]の作曲を勧めた。当初ヨハンは、「自分にはその才能がない」「歌詞のあるものに作曲するのは苦手だ」などといって断ったが<ref name="『新訂 大作曲家の肖像と生涯』 p.190"> 『新訂 大作曲家の肖像と生涯』 p.190</ref>、ヘンリエッテが熱心に勧めるのでオペレッタを手掛けるようになった。ヘンリエッテはヨハンの曲を歌ってみて、それにいろいろとアドバイスを与えて励ましたという<ref name="志鳥(1985) p.206"> 志鳥(1985) p.206</ref>。
 
ヘンリエッテが60歳を超えて急激に老け始めると<ref name="志鳥(1985) p.206"/>、妻に対するヨハンの愛情は冷めていき、浮気を重ねた<ref>小宮(2000) p.149</ref>。
ヘンリエッテが死んだ際、死を病的なまでに怖がっていたヨハンは、葬儀の一切を末弟エドゥアルトに任せて、ウィーンから雲隠れしてしまったとされる<ref name="志鳥(1985) p.207"> 志鳥(1985) p.207</ref>
 
=== アンゲリカ (1878 - 1882) ===
[[File:Angelika (Lili) Dittrich (1850-1919).JPG|thumb|right|170px|二番目の妻アンゲリカ。]]
ヘンリエッテの死から半月も経たないうちに、20歳の歌手アンゲリカ・ディットリヒが、ヨハンの知人の指揮者の紹介でヨハンのもとにやってきた<ref name="志鳥(1985) p.207"/>。ヨハンは27歳も年下のアンゲリカに一目惚れして夢中になって求婚し<ref name="志鳥(1985) p.207"/>、ヘンリエッテの死のわずか2か月後に再婚した<ref name="小宮(2000) p.150"> 小宮(2000) p.150</ref>。ヨハンの作品400『キス・ワルツ』には、「愛する妻アンゲリカへ」という献辞が添えられており<ref>[http://www5f.biglobe.ne.jp/~strauss/nyconcert/ny13.pdf ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2013曲目解説]〈キス・ワルツ〉を参照。</ref>、ヨハンの熱の上げようが窺える。
 
肉体的にも精神的にも、この年の差夫婦が釣り合うはずがなかった<ref name="志鳥(1985) p.207"/>。華やかな音楽家の生活に憧れてヨハンと結婚したアンゲリカは、すぐにヨハンとの結婚に失望した<ref name="志鳥(1985) p.207"/>。ヨハンのことを「老いぼれ!」と罵り、平然と浮気をするようになった<ref name="志鳥(1985) p.207"/>。アンゲリカは結婚5年目に、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場の若い監督と恋に落ち、ヨハンを捨てて彼のもとに走った<ref name="志鳥(1985) p.208"> 志鳥(1985) p.208</ref>。面目を失ったヨハンは、オーストリア国外に逃れようとすら考えたという<ref name="小宮(2000) p.150"/>。
 
[[1926年]]、ヨハンの手紙をまとめて出版した。
 
=== アデーレ (1887 - 1899 ) ===
[[File:JohannAdeleStrauss.jpg|thumb|left|170px|三番目の妻アデーレ。]]
ある日、フェルディナント橋のたもとでアデーレ・ドイッチェに出会う<ref name="志鳥(1985) p.208"/>。彼女はヨハンの幼馴染で、シュトラウスというヨハンと同姓の家に嫁いだが、夫に先立たれ未亡人となっていた<ref name="志鳥(1985) p.208"/> 。ヨハンはアデーレが少女だった頃から好意を寄せていたので、フェルディナント橋での再会後、ときおり贈り物をしたりして彼女に近づくようになり、ついにはその心を射止めた<ref name="志鳥(1985) p.208"/> 。
 
しかし、アデーレとの結婚にはいくつか障壁があった。駆け落ちした妻アンゲリカは結局恋人に捨てられ、ヨハンとよりを戻そうとしていた。そのため、アンゲリカは正式な離婚になかなか応じようとしなかったのである<ref name="志鳥(1985) p.209"> 志鳥(1985) p.209</ref>。また、アデーレは[[プロテスタント]]でしかもユダヤ人であり、[[カトリック]]のヨハンが彼女とウィーンで結婚するのは面倒なことが多かった<ref name="志鳥(1985) p.209"/>。ヨハンには離婚の前歴があるため、カトリックの教理によって再婚は無効と見なされたのである<ref>小宮(2000) p.181</ref>。
 
そこでヨハンは、オーストリア国籍を捨てて[[ドイツ帝国]]内の[[ザクセン・コーブルク・ゴータ公国]]に籍を移し、さらにプロテスタントに改宗した<ref name="志鳥(1985) p.209"/>。この国籍変更には、ヨハンの熱心な信奉者であった公爵[[エルンスト2世 (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|エルンスト2世]]の尽力があった<ref name="小宮(2000) p.182"> 小宮(2000) p.182</ref>。ヨハンとアデーレはただ国籍を移しただけで、その後もウィーンで暮らした。公国内に家を構え、税金も納めたが、それらはあくまでも結婚のための方便にすぎなかった<ref name="小宮(2000) p.182"/>。
 
アデーレは最初の妻ヘンリエッテのように献身的な女性であり、彼女との夫婦生活は幸福なものであった。また、子供のいないヨハンは、彼女の連れ子であるアリーチェを実の娘のように可愛がったという。
 
== 評価 ==
[[ファイル:Strauss und Brahms.jpg|thumb|right|[[ブラームス]]と共に]]
作曲家[[ヨハネス・ブラームス]]と厚い親交を結んでいたことは有名で、ブラームスは「シュトラウスの音楽こそ、ウィーンの血であり、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の流れを直接受けた主流である」と言っている<ref name="増田(1998) p.117"> 増田(1998) p.117</ref>。その他に[[フランツ・リスト]]、[[リヒャルト・ワーグナー]]などとも交流があった。[[ジャック・オッフェンバック]]の勧めで後半生にはオペレッタなども手がける。台本選びが苦手だったといわれ、その大部分は今日では忘れ去られているが、「[[こうもり (オペレッタ)|こうもり]]」はドイツオペラ(とオペレッタ)の中でもトップクラスの人気演目となっている。他に「ジプシー男爵」「ヴェネチアの一夜」、既成曲を繋いだ「ウィーン気質」が今日でもしばしば上演されている。
 
ワーグナーはシュトラウスのワルツを指揮して、「自分にこのような軽い音楽を書けないのが残念だ」と語り、またシュトラウスについて「彼はヨーロッパ音楽の最高峰の一つである。われわれの古典は[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]からシュトラウスまで一筋に続いている」と評したという<ref name="増田(1998) p.117"/>。[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]も彼の作品を愛したひとりで、[[バレエ]]音楽「[[くるみ割り人形]]」の「花のワルツ」は、シュトラウスの様式に倣っている。
また、作曲家[[ヨハネス・ブラームス]]と厚い親交を結んでいたことは有名で、他に[[フランツ・リスト]]、[[リヒャルト・ワーグナー]]などとも交流があった。[[ジャック・オッフェンバック]]の勧めでオペレッタなども後半生には手がける。台本選びが苦手だったといわれ、その大部分は今日では忘れ去られているが、「[[こうもり (オペレッタ)|こうもり]]」はドイツオペラ(とオペレッタ)の中でもトップクラスの人気演目となっている。他に「ジプシー男爵」「ヴェネチアの一夜」、既成曲を繋いだ「ウィーン気質」が今日でもしばしば上演されている。
 
若き日はウィーン宮廷歌劇場の総監督として名声高かった[[グスタフ・マーラー]]は、それまでオペレッタを上演することがなかった同歌劇場でオペレッタ「こうもり」を正式にレパートリーとした(1897年)。
生涯を通じ、作曲・演奏活動などで欧米各地でも活躍。父の名声、世紀末の風潮への社会的不安・商業演奏活動なども相まって世紀末のウィーンで一世を風靡した。ワーグナーはシュトラウスのワルツを指揮して、「自分にこのような軽い音楽を書けないのが残念だ」と語ったといわれる。[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]も彼の作品を愛したひとりで、[[バレエ]]音楽「[[くるみ割り人形]]」の「花のワルツ」は、シュトラウスの様式に倣っている。
 
[[リヒャルト・シュトラウス]](同姓であるが血縁関係はない)は、ヨハン2世のことを「世界に歓びを分けあたえるべく天性の素質に恵まれている者のなかで、ヨハン・シュトラウスこそ、とりわけ私を惹きつけはなさぬ最高の人」と称賛しており<ref>小林(1977) p.151</ref>、ヨハン2世を思い浮かべることなしに『[[ばらの騎士]]』のワルツを生み出すことはあり得なかったと言っている<ref>小林(1977) p.152</ref>。
三度目の結婚に際し、法的な制限から国籍をドイツ(連邦帝国内のザクセン・コーブルク・ゴータ公国)へ移籍。住居はウィーンのままだったが、死の直前に作られた行進曲「狙って!」は“我等ひとつのドイツ”をテーマに掲げたドイツ射撃連盟のイベントに寄せられたものであり、晩年は大ドイツ主義的な立場への傾斜が伺われる。代表作「皇帝円舞曲」もドイツ皇帝とオーストリア皇帝に捧げられベルリンで初演されている。もっともこれらは、長らくドイツ人の主流でありながら統一ドイツから除外されてしまったオーストリア国民の気分を反映したものといえ、オーストリア人とプロイセン人の組み合わせによる3組のカップルが誕生して終わる喜歌劇「ウィーン気質」のストーリーにも濃厚に伺える。
 
== 逸話 ==
19世紀を代表する作曲家であり、若き日はウィーン宮廷歌劇場の総監督として名声高かった[[グスタフ・マーラー]]は、それまでオペレッタを上演することがなかった同歌劇場でオペレッタ「こうもり」を正式にレパートリーとした(1897年)。さらに、ウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲(「灰かぶり姫」というシンデレラ物語)をJ.シュトラウスに委嘱した。しかしJ.シュトラウス存命中には完成せず、書きかけのバレエを気にしながら6月3日に世を去った。<ref>{{Cite book|和書|author=[[小宮正安]]|year=2000|month=12|title=ヨハン・シュトラウス ワルツ王と落日のウィーン|series=中公新書|publisher=中央公論新社|isbn=4-12-101567-3|ref=小宮2000}}</ref>
*1849年に父ヨハン1世が亡くなった時に、愛人の女性がその遺体をそのままに、持ち運びできる荷物を全て持ったまま去ったため、ヨハン2世とアンナがその遺体を引き取らなければならなくなった。この際ヨハン2世はショックを受け、生涯にわたり死の恐怖におびえ続けた<ref>[[デアゴスティーニ]]刊『The Classic Collection』第8号より</ref>。「死」という単語を目にしただけで狂乱状態に陥った<ref>小宮(2000) p.125</ref>。最初の妻ヘンリエッテの葬儀や埋葬に一切出席しなかったのも、これが理由のひとつであると考えられる。
*速い乗り物が苦手であり、鉄道を病的なまでに嫌っていた。列車に乗らざるをえないときには、すさまじい勢いで飛び去ってゆく外の風景が見えないように窓のカーテンを閉め、床にしゃがみ込んでシャンパンをあおりつづけたという<ref>小宮(2000) p.90-91</ref>。
*鉄道嫌いのみならず、田舎や自然も大嫌いであった。自然の中へ出かけることに強い恐怖を抱いていた<ref>小宮(2000) p.132</ref>。
*荒天を好んだとされる。嵐の日には笑みを浮かべて外の風景を飽くことなく眺めていたという<ref>小宮(2000) p.133</ref>。
*ヨハンの指揮は[[テンポ]]や[[ディナーミク]]の変化が少なく、指揮の腕前はけっして良いとは言えないものだった<ref name="渡辺(1989年4月) p.270"> 渡辺(1989年4月) p.270</ref>。フランス人アルベール・ド・ラサールが、ヨハンの指揮を「生きたメトロノーム」と評しているほどである<ref name="渡辺(1989年4月) p.270"/>。
*ヨハンを自宅に招いて自分のために作らせたワルツで踊る、というのが当時の貴族や富豪たちの間で流行したという<ref name="『新訂 大作曲家の肖像と生涯』 p.189"/>。とある金持ちの老婆の「私が死んだら、ヨハンの指揮でワルツを演奏してくださいよ」という遺言に応えて、ヴァイオリンを持って駆けつけたこともある<ref name="『新訂 大作曲家の肖像と生涯』 p.190"/><ref name="小宮(2000) p.213"/>。
*ワルツの作曲家として有名なヨハンであるが、ワルツを踊ることについてはさっぱりだめで、どのようなことがあっても決して踊ろうとしなかったという<ref name="『新訂 大作曲家の肖像と生涯』 p.191"/>。
 
== 経歴 ==
{{右|
[[ファイル:Eisenmenger-Strauss.jpg|thumb|none|ヨハン・シュトラウス2世]]
[[ファイル:Johann Strauss Denkmal.jpg|thumb|none|ウィーンにあるヨハン・シュトラウス像]]
[[ファイル:Strauss und Brahms.jpg|thumb|none|[[ブラームス]]と共に]]
}}
*1825年10月25日:ウィーンに生まれる
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*1851年11月:ドイツへ演奏旅行
*1852年11月:ドイツ・プラハへ演奏旅行
*1854年4月:皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]][[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリザベート女王]]との婚礼祝典舞踏会で指揮
*1856年夏:ロシアへ初の演奏旅行
*1862年8月2日:ヘンリエッテ・チャルベツキー(通称イエッティ・トレフツ)と結婚
*1863年:宮廷舞踏会監督就任(1872年まで)
*1865年:チャイコフスキーの性格的な舞曲を初演
*1867年2月15日:美しく青きドナウ(合唱版)Op)Op.314初演
*1867年夏:パリ万国博覧会に出演
*1867年6月10日:イギリスへ演奏旅行
*1870年2月23日:母アンナ69歳で死去。(ウィーン中央墓地へ埋葬。当日のウィーンの舞踏会はすべて中止)
*1871年2月10日:シュトラウス初の喜歌劇「インディゴと40人の盗賊」を初演
*1872年6月1日:ブレーマーハーフェンよりアメリカへの演奏旅行に旅立つ
*1872年6月15日:ニューヨークへ到着(13(13日とも)
*1872年6月17日:世界平和記念祭コンサートに出演
*1872年7月13日:アメリカより帰途に就く
*1872年夏:バーデン=バーデンにてハンス・フォン・ビューロー、リヒャルト・ジュネと知り合う。
      [[プロシア皇帝イセン]]王[[ウィルヘルム1世]]より「赤鷲」の勲章を賜わる。
*1874年4月5日:喜歌劇「こうもり」初演
*1892年1月1日:宮廷歌劇場にてはじめて彼の作品(オペラ「騎士パスマン」)が上演された
79 ⟶ 215行目:
 
=== ワルツ ===
*格言詩(Sinngedichte)Op(Sinngedichte)op.1
**「記念の歌」という場合もあり
*統一の調べ(Einheits-Klange)OpKlange)op.62
*メフィストの地獄の叫び(Mephistos Hollenrufe)OpHollenrufe)op.101
*ウィンザーの調べ(Windsor-Klange)OpKlange)op.104
*まつゆき草(Schnee-Glockchen)OpGlockchen)op.143
*戴冠式の歌(Kronungslieder)Op(Kronungslieder)op.184
*サイクロイド曲線(Cycloiden)Op(Cycloiden)op.207
*サンクト・ペテルブルクの別れ(Abschied von St. Petersburg)OpPetersburg)op.210
*思想の飛翔(Gedankenflug)Op(Gedankenflug)op.215
*[[加速度円舞曲]](Accelerationen)Op(Accelerationen)op.234
*モーター(Motoren)Op(Motoren)op.265
*[[朝の新聞]](Morgenblatter)Op(Morgenblatter)op.279
**「朝刊」と言う場合もあり
*市民の歌(Burgerweisen)Op(Burgerweisen)op.306
*[[ウィーンの[[ボンボン菓子|ボンボン]](Wiener Bonbons)OpBonbons)op.307
*[[美しく青きドナウ]](An der schonen blauen Donau)OpDonau)op.314
**代表作。「第二の[[オーストリア]]の国歌」とも。映画『[[2001年宇宙の旅]]』のメインBGMとして使われた。元々は[[普墺戦争]]の敗北でショックを受けたオーストリア国民を励ますために作られた男声合唱曲だった。この曲は[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]を感動させ、「残念ながら、ヨハネス・ブラームスの作品にあらず」という言葉を残したほどである。
*[[芸術家の生活]](Kunstlerleben)Op(Kunstlerleben)op.316
**「芸術家の生涯」という場合もあり
*電報(Telegramme)Op(Telegramme)op.318
*ジャーナリスト(Die Publicisten)OpPublicisten)op.321
*[[ウィーンの森の物語]](Geschichten aus dem Wienerwald)OpWienerwald)op.325
*コヴェント・ガーデンの思い出(Erinnerungen an Covent Garden)OpGarden)op.329
*[[酒、女、歌]](Wein, Weib und Gesang)OpGesang)op.333
*人生を楽しもう(Freuet euch des Lebens)OpLebens)op.340
*千夜一夜物語(Tausend und eine Nacht)OpNacht)op.346
**[[オペレッタ]]「インディゴと40人の盗賊」からの旋律を元にした作品。
*[[ウィーン気質]](Wiener Blut)OpBlut)op.354
*謝肉祭の風景(Carnevalsbilder)Op(Carnevalsbilder)op.357
*我が家で(Bei uns z'Haus)OpHaus)op.361
*レモンの花咲くところ(Wo die Zitronen bluh'n)Opn)op.364
**「シトロンの花咲くところ」という場合もあり
*親しき仲(Du und Du)OpDu)op.367
*カリオストロ・ワルツ(Cagliostro-Walzer)OpWalzer)op.370
*おお、美しい5月よ!(O schoner Mai!)Op)op.375
*私は誰?(Kennst du mich?)Op)op.381
*[[南国のバラ]](Rosen aus dem Suden)OpSuden)op.388
**オペレッタ「女王のレースのハンカチーフ」の旋律を元にした作品。
*北海の絵(Nordseebilder)Op(Nordseebilder)op.390
*ミルテの花(Myrthenbluten)Op(Myrthenbluten)op.395
*キス・ワルツ(Kus-Walzer)OpWalzer)op.400
*イタリア・ワルツ(Italienischer Walzer )Op)op.407
*[[春の声]](Fruhlingsstimmen)Op(Fruhlingsstimmen)op.410
**ソプラノの歌詞も付いている。
*入り江のワルツ(Lagunen-Walzer)OpWalzer)op.411
*宝のワルツ(Schatz-Walzer)OpWalzer)op.418
*ドナウの乙女(Donauweibchen)Op(Donauweibchen)op.427
*[[皇帝円舞曲]](Kaiserwalzer)Op(Kaiserwalzer)op.437
*大ウィーン(Gros-Wien)OpWien)op.440
*もろ人手をとり(Seid umschlungen,Millionen)OpMillionen)op.443
**ブラームスに捧げられた曲。[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]・[[歓喜の歌]]の一節をタイトルにしたワルツ。
*私はあなたにぴったり!(Ich bin dir gut!)Op)op.455
*今日は今日(Heut' ist heut')Op)op.471
*エルベ河のほとりで(An der Elbe)OpElbe)op.477
 
=== ポルカ ===
*心からの楽しみ(Herzenslust)Op(Herzenslust)op.3
**「こころゆくまで」とも訳す。1844年10月15日に行われたヨハン・シュトラウス2世のデビュー・コンサートで演奏。
*ホプサー・ポルカ(Hopser-Polka)OpPolka)op.28
*[[爆発ポルカ]](Explosions-Polka)OpPolka)op.43
**曲の最後に爆発音が入る。
*冗談ポルカ(Scherz-Polka)OpPolka)op.72
*ハイリゲンシュタットのランデブー(Heiligenstädter Rendezvous)OpRendezvous)op.78
*アルビオン・ポルカ(Albion-Polka)OpPolka)op.102
*電磁気ポルカ(Elektro-magnetische Polka)OpPolka)op.110
*花祭り(Blumenfest-Polka)OpPolka)op.111
*アンネン・ポルカ(Annen-Polka)OpPolka)op.117
*すみれのポルカ(Veilchen-Polka)OpPolka)op.132
*ミューズ・ポルカ(Musen-Polka)OpPolka)op.147
*エリーゼ・ポルカ(Elisen-Polka)OpPolka)op.151
*小さなもの(Etwas Kleines)OpKleines)op.190
*気まぐれ(Spleen)Op(Spleen)op.197
*無邪気な子供(L'Enfantillage)OpEnfantillage)op.202
*ヘレーネ・ポルカ(Helenen-Polka)OpPolka)op.203
*[[シャンペン・ポルカ]](Champagner-Polka)OpPolka)op.211
**曲の中間部と最後の部分にシャンペンの音が入っている。
*[[トリッチ・トラッチ・ポルカ]](Tritsch-Tratsch-Polka)OpPolka)op.214
*オーロラ舞踏会ポルカ(Auroraball-Polka)OpPolka)op.219
*パリの娘(Die Pariserin)OpPariserin)op.238
*狂乱のポルカ(Furioso-Polka)OpPolka)op.260
*[[取りこわしポルカ]] Opop.269
*[[観光列車]](Vergnügungszug)Op(Vergnügungszug)op.281
*訴訟[[ネヴァ川ポルカ(Proceß]](Newa-Polka )Op)op.294288
*訴訟ポルカ(Proceß-Polka )op.294
*[[浮気心]](Leichtes Blut)Op.319
*[[浮気心]](Leichtes Blut)op.319
*フィガロ・ポルカ(Figaro-Polka)Op.320
*フィガロ・ポルカ(Figaro-Polka)op.320
*[[雷鳴と稲妻]](Unter Donner und Blitz)Op.324
*[[雷鳴と稲妻]](Unter Donner und Blitz)op.324
*ハンガリー万歳!(Éljen a Magyár!)Op.332
*ハンガリー万歳!(Éljen a Magyár!)op.332
*クラップフェンの森で(Im Krapfenwald'l)Op.336
*クラップフェンの森で(Im Krapfenwald'l)op.336
**鳥の鳴き声を真似る笛が使われる
*自由の身(Auf freiem Fuße)OpFuße)op.345
*突進!(Im Sturmschritt!)Op)op.348
*陽気な役人(Lust'ger Rath)OpRath)op.350
*インドの舞姫(Die Bajadere)OpBajadere)op.351
*こうもりポルカ(Fledermaus-Polka)OpPolka)op.362
*[[チック・タック・ポルカ]](Tik-Tak-Polka)OpPolka)op.365
**オペレッタ こうもり から旋律を流用。
*モルダウのほとり(An der Moldau)OpMoldau)op.366
*[[狩り (ポルカ)|狩り]](Auf der Jagd)OpJagd)op.373
**オペレッタ「ウィーンのカリオストロ」の旋律をモチーフにしている。
*電光石火(Rasch in der That!)Op)op.409
*外交官のポルカ(Diplomaten-Polka)OpPolka)op.448
*[[新ピチカートポルカ]](Neue Pizzicato-Polka)OpPolka)op.449
*[[ピツィカート・ポルカ]](Pizzicato-Polka)
**ヨーゼフ・シュトラウスとの合作
 
=== ポルカ・マズルカ ===
*女性賛美(Lob der Frauen)OpFrauen)op.315
*町と田舎(Stadt und Land)OpLand)op.322
*心と魂(Ein Herz und ein Sinn)OpSinn)op.323
*蜃気楼(Fata Morgana)OpMorgana)op.330
*オーストリアへの挨拶(Gruß aus Österreich)OpÖsterreich)op.359
*アンニーナ(Annina)Op(Annina)op.415
*ボルガ川のほとり(An der Wolga)OpWolga)op.425
 
=== カドリーユ ===
*デビュー・カドリーユ(Debut-Quadrille)OpQuadrille)op.2
*ニコライ・カドリーユ(Nikolai-Quadrille)op.65
*ノクターン・カドリーユ(Nocturne-Quadrille)OpQuadrille)op.120
*インドラ・カドリーユ(Indra-Quadrille)OpQuadrille)op.122
*サタネッラ・カドリーユ(Satanella-Quadrille)OpQuadrille)op.123
*芸術家のカドリーユ(Künstler-Quadrille)OpQuadrille)op.201
*[[オルフェウス・カドリーユ]](Orpheus-Quadrille)OpQuadrille)op.236
*仮面舞踏会によるカドリーユ(Un ballo in maschera Quadrille)OpQuadrille)op.272
*インディゴ・カドリーユ(Indigo-Quadrille)OpQuadrille)op.344
*ロトゥンデ館のカドリーユ(Rotunde-Quadrille)OpQuadrille)op.360
*こうもりカドリーユ(Fledermaus-Quadrille)OpQuadrille)op.363
*カリオストロ・カドリーユ(Cagliostro-Quadrille)OpQuadrille)op.369
*メトゥザレム・カドリーユ(Methusalem-Quadrille)OpQuadrille)op.376
*歌劇場仮面舞踏会カドリーユ(Opern-Maskenball-Quadrille)OpQuadrille)op.384
*レースのハンカチーフ・カドリーユ(Spitzentuch-Quadrille)OpQuadrille)op.392
*ジプシー男爵カドリーユ(Zigeunerbaron-Quadrille)OpQuadrille)op.422
*ニネッタ・カドリーユ(Ninetta-Quadrille)OpQuadrille)op.446
*ヤーブカ・カドリーユ(Jabuka-Quadrille)OpQuadrille)op.460
*くるまば草カドリーユ(Waldmeister-Quadrille)OpQuadrille)op.468
 
=== 行進曲 ===
*愛国者行進曲(Patriotenmarsch)Op(Patriotenmarsch)op.8
*革命行進曲(Revolutions-Marsch)OpMarsch)op.54
*ナポレオン行進曲(Napoleon-Marsch)OpMarsch)op.156
*[[ペルシャ行進曲]](Persischer Marsch)OpMarsch)op.289
*[[エジプト行進曲]](Ägyptischer Marsch)OpMarsch)op.335
**[[スエズ運河]]開通を記念した作品。
*インディゴ行進曲(Indigo-Marsch)OpMarsch)op.349
**ヨハン・シュトラウス2世の音楽を使ったバレエ「卒業記念舞踏会」(アンタル・ドラティ編曲)のフィナーレで使用
*オーストリア万歳!(Hoch Österreich!)Op)op.371
*愉快な戦争(Der lustige Krieg)OpKrieg)op.397
*いざ戦場へ!(Frisch in's Feld!)Op)op.398
*ハプスブルグ万歳!(Habsburg Hoch!)Op)op.408
*ロシア行進曲(Russischer Marsch)OpMarsch)op. 426
*騎兵行進曲(Reitermarsch)Op(Reitermarsch)op.428
*[[スペイン行進曲]](Spanischer Marsch)OpMarsch)op.433
*ニネッタ行進曲(Ninetta-Marsch)OpMarsch)op.447
*祝典行進曲(Fest-Marsch)OpMarsch)op.452
*乾杯!(Zivio!)Op)op.456
*[[我らの旗が翻るところ]](Wo uns're Fahne weht)Opweht)op.473
*狙いをつけろ(Aufs Korn)OpKorn)op.478
 
=== バレエ ===
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=== オペレッタ ===
 
*[[インディゴと40人の盗賊]](Indigo und die vierzig Rauber / Tausend und eine Nacht)
**千夜一夜物語とも。3幕。1871年初演。
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=== その他 ===
* [[常動曲 (ヨハン・シュトラウス2世)|常動曲]](Perpetuum mobile)Opmobile)op.257
**「無窮動」とも。TV番組『[[オーケストラがやってきた]]』のテーマ曲であった。
 
== 映画 ==
*『グレートワルツ』 [[ジュリアン・デュヴィヴィエ]]監督により1938年に製作された若き日のシュトラウスを主人公とする映画。
*『ウィーンの森の物語』(1963年のアメリカ映画<ref>アメリカのTV番組"Walt Disney's Wonderful World of Color"( [[ディズニーランド (テレビ番組)]]参照) の2回分として制作されたが、日本では1本にまとめられ映画館で公開された。</ref>、スティーヴ・プレヴィン監督作品。原題:''The Waltz King'')
*『ヨハン・シュトラウス/白樺のワルツ』(1971年の[[ソ連]]映画、ヤン・フリード監督作品。[[w:ru:Прощание с Петербургом|ロシア語ページ]])
* ''Die Strauß-Dynastie'' (1991年にオーストリアで製作されたテレビドラマ。全6部。海外版のDVDが出ている)
*映画音楽での使用としては、[[スタンリー・キューブリック]]監督の「[[2001年宇宙の旅]]」での宇宙飛行場面における「美しく青きドナウ」が高名である。同曲は日本映画「[[下妻物語]]」([[中島哲也]]監督2004年)の女暴走族の乱闘場面にも用いられており、いずれも原曲のイメージから大きく飛躍した使用となっている。また、ほぼシュトラウス作品で音楽を固めた日本映画として1988年[[東陽一]]監督によるソフトポルノ「[[うれしはずかし物語]]」があり、「こうもり」にやや似た物語となっている。
 
== 注・出典参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[音楽之友社]]|date=1962年4月30日|title=新訂 大作曲家の肖像と生涯|publisher=[[音楽之友社]]}}
*{{Cite book|和書|author=[[團伊玖磨]]||date=1977年1月14日|title=朝日小事典 オーケストラ|publisher=[[朝日新聞社]]}}
*{{Cite book|和書|author=[[小林利之]]|date=1977年12月10日|title=大作曲家は語る|publisher=[[東京創元社]]}}
*{{Cite book|和書|author=[[志鳥栄八郎]]|year=1985|month=6|title=大作曲家をめぐる女性たち|publisher=[[音楽之友社]]|isbn=4-276-21071-2|ref=志鳥1985}}
*{{Cite book|和書|author=[[ハインリヒ・W・シュヴァープ]]|date=1986年3月20日|title=人間と音楽の歴史 Ⅳ(1600年から現代まで) 第2巻 コンサート 17世紀から19世紀までの公開演奏会|publisher=[[音楽之友社]]|isbn=4-276-01142-6}}
*{{Cite book|和書|author=[[渡辺護]]|date=1989年4月20日|title=ウィーン音楽文化史(下)|publisher=[[音楽之友社]]|isbn=4-276-11062-9}}
*{{Cite book|和書|author=[[朝倉治彦]]、[[三浦一郎]]|date=1996年2月23日|title=世界人物逸話辞典|publisher=[[角川書店]]|isbn=4-04-031900-1}}
*[https://tezukayama.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=611&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=13&block_id=21 増田芳雄「ウィーンのオペッレター 1.ヨハン・シュトラウスの“こうもり"(DieFledermaus)について」](人間環境科学 第7巻、1998年)
*{{Cite book|和書|author=[[小宮正安]]|year=2000|month=12|title=ヨハン・シュトラウス ワルツ王と落日のウィーン|series=[[中公新書]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4-12-101567-3|ref=小宮2000}}
*[http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/4597/1/KJ00004857977.pdf 鍵山由美「バルフの<ボヘミアの少女>とシュトラウス父子の<ジプシー娘のカドリーユ> : 19世紀中頃の音楽の流通と伝播に関する一考察」](お茶の水音楽論集 第8号、2006年4月)
*{{Cite book|和書|author=[[倉田稔]]||date=2006年(平成18年)|title=ハプスブルク文化紀行|publisher=[[日本放送出版協会]]|isbn=4-14-091058-5}}
*{{Cite book|和書|author=[[河野純一]]|date=2009年11月|title=ハプスブルク三都物語|series=[[中公新書]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4-12-102032-1|ref=河野2009}}
*[http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nelsext&lang=jp&id=http://www.media.saigaku.ac.jp/bulletin/pdf/vol11/human/14_wakamiya.pdf 若宮由美「ヨーゼフ・バイヤー作曲のバレエ≪ウィーン巡り≫(1894)――ヨハン・シュトラウスの位置づけ――」]([[埼玉学園大学]]紀要(人間学部篇) 第11号、2011年12月)
*[https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/kyoiku37-07.pdf 若宮由美「ヨーゼフ・シュトラウスによる初期ピアノ曲の記譜法」]([[帝京大学]]文学部教育学科紀要、2012年3月)
*[http://www.media.saigaku.ac.jp/bulletin/pdf/vol14/human/07_wakamiya.pdf 若宮由美「ヨーゼフ・シュトラウスの<ロメオとジュリエット>―グノーのオペラに基づくポプリ―」]([[埼玉学園大学]]紀要第14号、2014年)
 
=== 脚注 ===
{{脚注ヘルプ}}
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|3}}</div>
{{Reflist}}
 
{{commons|Category:Johann Strauss II}}
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* {{PTNA|composers|77|シュトラウス二世,ヨハン/Strauss,Johann(II)}}
* {{IMSLP|id=Strauss_Jr.%2C_Johann|cname=ヨハン・シュトラウス2世}}
* [http://www.strausspianoedition.com/'''シュトラウス・ピアノ・エディション'''] ヨハン・ヨーゼフのワルツの原典版での貴重な演奏、エドゥアルト・シュトラウスの今まで「音源」のなかった約200200曲を「ピアノ1台でオーケストラの様に演奏」したユニークなCD(CD(2525枚予定)である(日・英ヨハン・シュトラウス協会推薦)
 
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[[Category:1825年生]]
[[Category:1899年没]]
[[Category:オーストリアの作曲家]]
[[Category:オペレッタの作曲家]]
[[Category:ユダヤ人の後裔シュトラウス家|よはん2]]
[[Category:ハンガリー・ユダヤ系オーストリア人]]
[[Category:オーストリア・シリング紙幣の人物]]
[[Category:オーストリア=ハンガリー帝国の人物]]
[[Category:1825年生]]
[[Category:1899年没]]