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|国略称 ={{DEU1935}}
|生年月日 =[[1877年]][[1月22日]]
|出生地 ={{PRU}}<br>[[シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州]]<br>[[{{仮リンク|ティングレフ]] |da|Tinglev}}
|没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1877|1|22|1970|6|3}}
|死没地 = {{FRG}}<br>[[バイエルン州]]、[[ミュンヘン]]
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|所属政党 = [[ドイツ民主党]](1926年離党)
|称号・勲章 =
|世襲の有無 =
|親族(政治家) =
|配偶者 =
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== 経歴 ==
=== 前半生 ===
当時[[プロイセン王国]]の[[シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州]]([[:de:Provinz Schleswig-Holstein]])に属していた[[{{仮リンク|ティングレフ]]([[:|da:|Tinglev]])}}に生まれる(現在は[[デンマーク]]領)。父はヴィルヘルム・レオンハルト・ルートヴィヒ・マクシミリアン・シャハト(William Leonhard Ludwig Maximillian Schacht)。母はコンスタンツェ・ユスティーネ・ゾフィー・シャハト(Constanze Justine Sophie Schacht)(旧姓フォン・エッガース(von Eggers))。母は男爵令嬢だった<ref name="{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=172">ゴールデンソーン、上巻172頁</ref>}}
 
両親とともに[[アメリカ合衆国]]へ移住。父ヴィルヘルムはアメリカ合衆国市民権を取得した<ref name="ヴィストリヒ92">ヴィストリヒ、92頁</ref><ref name="{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=171">ゴールデンソーン、上巻171頁</ref>}}。父ヴィルヘルムはアメリカのジャーナリズムの先進性に感銘を受け<ref name="Hamilton331">Hamilton,p331</ref>、シャハトの名前もアメリカのジャーナリスト[[ホレス・グリーリー]]に因んでいる<ref name="パーシコ下183">パーシコ、下巻183頁</ref>。
 
1895年から1899年にかけてドイツの[[キール]]や[[ベルリン]]、[[ミュンヘン]]などの大学で経済学を学んだ<ref name="ヴィストリヒ92"/><ref name="LeMO">[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/SchachtHjalmar/index.html LeMO]</ref>。[[1899年]]に[[経済学]]の[[博士号]]を取得した。
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しかし1937年初頭には経済分野での指導権をゲーリングに奪われ{{sfn|大島通義|1988|pp=29}}、1937年11月に経済相と戦争経済全権委員を解任された。ただし代わりに無任所相に任じられ、形式的な閣僚の地位はその後もしばらく保持した。またライヒスバンク総裁職は保持しつづけたが、本来ライヒスバンクに属していた通貨信用政策と資本市場に対する統制権も奪われていった{{sfn|大島通義|1988|pp=29}}。軍事費による政府支出と借り入れはますます増大し、1938年にはライヒ政府の国庫は危機的な状態となり、財務相の[[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク]]との関係も悪化した{{sfn|大島通義|1988|pp=26}}。1939年1月7日、シャハトは軍事費が増えすぎたせいでインフレーションが起こっているとして、財政金融政策、特に軍事財政の中止を訴える手紙をライヒスバンク理事全員と連名で、ヒトラーに送った{{sfn|大島通義|1988|pp=28}}。1939年1月19日にはライヒスバンク総裁からも解任された<ref name="成瀬403">阿部、403頁</ref>。無任所相の地位は形式的に保持していたが、1943年1月に失った<ref name="ヴィストリヒ94"/>。シャハトはナチ党政権中枢に最後まで残っていた[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]代表であった<ref name="ヴィストリヒ94">ヴィストリヒ、94頁</ref>。
 
しかし[[1944年]]7月20日に、[[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク]]大佐を中心にした[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂]]事件が発生。シャハトは事前にこの暗殺計画への参加を持ち掛けられてはいたが、「ヒトラー内閣に代わって樹立され新政府についてもう少し知る必要がある」曖昧な返答して距離を保ち計画には加わっていなかった。しかし事件後には連座していたとされて1944年7月29日に逮捕されて[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]、ついで[[フロッセンビュルク強制収容所]]に“特殊囚人”として収容された。1945年4月に[[アメリカ軍]]によって解放された<ref name="ヴィストリヒ94パーシコ下183">パーシコ、下巻184頁</ref>。
 
[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]、ついで[[フロッセンビュルク強制収容所]]に“特殊囚人”として収容されたが、1945年4月に[[アメリカ軍]]によって解放された<ref name="ヴィストリヒ94"/>。
 
=== ニュルンベルク裁判 ===
[[File:Hjalmar-Schacht crop.jpg|thumb|200px|ニュルンベルク裁判の証言台かけられるついたシャハト]]
解放後は、一転ナチス独裁政権の強化に貢献した疑いでアメリカ軍により逮捕された。[[ヘルマン・ゲーリング]]、[[カール・デーニッツ]]、[[アルベルト・シュペーア]]、[[ヴィルヘルム・カイテル]]など大物捕虜を集めた[[ルクセンブルク]]・[[バート・モンドルフ]]の収容所に収容された<ref name="マーザー77">マーザー、77頁</ref>。
 
[[ニュルンベルク裁判]]にかけるために1945年9月に他の被告人達とともにニュルンベルク刑務所へ移送された。シャハトは第一起訴事項「侵略戦争の[[共同謀議]]」と第二起訴事項「[[平和に対する罪]]」で起訴された。起訴状を届けられた際に刑務所付精神分析官[[グスタフ・ギルバート]]に感想を求められると「私がなぜ起訴されるのか全く分からない」と答えた{{sfn|カーン|1974|p=76}}
 
シャハトは自分がナチスと無縁であることを示すために他の被告と関わりたがらず、自ら進んで孤立していた。「何の罪も犯していない」自分が被告人にされたことについてシャハトは「[[ロバート・ジャクソン (法律家)|ジャクソン]]氏は、裁判が公正である事を示すために一人無罪になる者を入れようとして、私を被告人にしたのだよ」と語っていた<ref name="パーシコ下182-183">パーシコ、下巻182-183頁</ref>。
因みに、ニュルンベルク刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が、開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると、シャハトの[[知能指数]]は143で、全被告人中では一番知能の高い人物であるとのことであった(ただシャハトは高齢であることを考慮されて実際の素点の数値より15から20多く出されている。調整前の素点では141の[[アルトゥル・ザイス=インクヴァルト]]が一位であった)<ref>[[レナード・モズレー]]著、[[伊藤哲]]訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、[[1977年]]、[[早川書房]] 166頁</ref><ref name="パーシコ上166">パーシコ、上巻166頁</ref>。
 
シャハトは他裁判被告と関わり証人席にがらず、自ら進んで孤立してい。「何の罪も犯していない」自分が被告人にされたことについてのうちシャハトだけが[[ドイツ語]]でなく[[ロバート・ジャクソン (法律家)|ジャクソン英語]]氏は、裁判が公正ある事を示す証言しめに一人無罪になる者を入れよう。恐らくアメリカして、私の関係が深い自分の出自被告人にし印象付けるよ」などと語ていと思われる<ref name="パーシコ下182-183">パーシコ、下巻182-183頁</ref>。
 
裁判の証人席しかしアメリカ検事ジャクソンはシャハトたった手心を加えるつもりはなく、「被告うち中でも最も軽蔑すべき人物はシャハトだ。シャハトには選択の自由[[ドイツ語]]あった。ナチ党に協力することもはなく[[英語]]きれば、反対することも証言きたんだ。ナチスを政権に押上げる上で、あの男ほど一個人として貢献した者はおらんよ」と語っていた<ref name="パーシコ下183272">パーシコ、下巻183272頁</ref>。
[[File:Bundesarchiv Bild 183-V01715, Nürnberger Prozess, Papen, Schacht, Fritzsche.jpg|250px|thumb|left|ニュルンベルク裁判で無罪判決を受けて釈放された三人。手前から[[ハンス・フリッチェ|フリッチェ]]、シャハト(タバコを吸っている人物)、[[フランツ・フォン・パーペン|パーペン]]。]]
証言台に立ったシャハトは自分がいかにヒトラーに抵抗して戦争回避に努力したかを強調した<ref name="時事145">[[#時事|『ニュルンベルク裁判記録』、p.145]]</ref>。1946年4月30日からの弁護側尋問で「私はドイツの軍備が近隣諸国と同程度にならなければならないと確信したが、絶対にそれ以上のものであってはならないと考えた。最初のうちは立派な人たちがナチ党に加入したり、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]の[[親衛隊名誉指導者|名誉隊員]]に加わったりした。そのため私はヒトラーが戦争を回避できる男だと思っていた。しかし幻滅の時が来た。それでも私は政府に留まる決心をした。それ以外に私がブレーキを果たす機会がないからだ。」「私は1934年の[[長いナイフの夜|レーム一揆]]でのヒトラーの非合法的な粛清を批判し、同年の[[シャルンホルスト (戦艦)|シャルンホルスト艦]]上での祝賀会でもヒトラーに二通の覚書を手渡し、ナチ党の教会に対する敵意、ユダヤ人への虐待、[[ゲシュタポ]]の非合法活動がドイツの通商に大打撃を与えている事実を警告した。同年8月にも[[ケーニヒスベルク]]での演説で同じことを主張し、[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]の反対を無視してその演説内容を25万部印刷して各方面にばらまいた。それによって私はヒトラーの信頼を失った」「わたしは[[四カ年計画]]の立案でも無視され、一言の相談を受けなかった。ゲーリングが私の職責である経済問題に手を伸ばし始めたので、私は1937年8月に辞表を叩きつけた。しかしヒトラーは私の国内外での名声を考慮して辞表を受けたがらなかった」と証言した。また1940年春にフランスから凱旋したヒトラーがシャハトの賛辞と軍備増強に反対したことへの反省の言葉を期待して得意げに「シャハト君、どうだね?」と聞いてきたが、自分は「神の御加護がありますように」と述べて突き放したと証言した<ref>[[#時事|『ニュルンベルク裁判記録』、p.144]]</ref>。さらに戦争でふところを肥やしたという非難に対して「私がヒトラーからもらったのは絵画1枚だけだ。よく調べてみたらそれは偽物だったので突き返した」と述べた。この証言で法廷が爆笑に包まれた<ref name="時事145"/>。
 
5月2日から始まった検察側尋問でアメリカ検事ジャクソンは四カ年計画責任者ゲーリングへ宛てて送ったシャハトの手紙を提出した。その中でシャハトは「世界市場においてドイツの開かれた機会をつかむために一時軍備を削減する必要」を訴えており、「そうすれば輸出が増大し、近い将来軍備増強ができる」「軍備の一時停止は将兵の訓練の時間を与えることにもつながり、これまでの.軍備の技術的結果を再検討して改善の余地を与える物である」と説いていた。これによってジャクソンはシャハトが平和のために軍備増強の停止を訴えていたのではないという印象を法廷に持たせようとした。これに対してシャハトは「それは戦術的な書簡である。私の希望は軍備増強ではなく、軍備の制限にあるのだ。だがゲーリングに率直に言っては聞き入れられるわけがないからだ」と返答した<ref>[[#時事|『ニュルンベルク裁判記録』、p.145-146]]</ref>。
シャハトについてソ連判事[[イオナ・ニキチェンコ]]は有罪を主張し、アメリカ判事もニキチェンコに同調したが、イギリスとフランスの判事が無罪を主張した。結局ニキチェンコの反対にもかかわらず、再軍備計画自体は犯罪ではないとしてシャハトは無罪となった<ref name="ヴィストリヒ94">ヴィストリヒ、94頁</ref><ref name="シャハト下261">パーシコ、下巻261頁</ref>。
[[File:Fritzsche, Papen, Schacht with Andrus.jpg|250px|thumb|ニュルンベルク裁判で無罪判決を受けて釈放された三人。左から[[ハンス・フリッチェ|フリッチェ]]、刑務所長{{仮リンク|バートン・アンドラス|en|Burton C. Andrus}}大佐、[[フランツ・フォン・パーペン|パーペン]]、シャハト。]]
ジャクソンはシャハトが党幹部とともに行進している写真、[[ナチ式敬礼]]をしている写真、ユダヤ人の店の顧客になる者を「反逆者」と批判した演説、シャハトがナチ党に献金していたことなどを次々と証拠として提出した<ref name="パーシコ下183">パーシコ、下巻183頁</ref>。さらにジャクソンは1940年にヒトラーがパリより凱旋した時のニュース映像を法廷で流した。そこにはシャハトが自らヒトラーの方へ近づいていって、両手でヒトラーの手を握って激しくふっている姿が映っていた。これによって1940年の対仏勝利の際にヒトラーを冷たく突き放したというシャハトの証言が信用ならないことを証明した<ref name="時事147">[[#時事|『ニュルンベルク裁判記録』、p.147]]</ref>。さらに1938年のアンシュルスでオーストリア中央銀行をライヒスバンクに併合する際にシャハトが「私が総裁である限り、ライヒスバンクは国家社会主義的であることをやめない」と演説したことを指摘した。そのうえで「これらは被告がナチス政権に対する誓いを放棄したと称している時期と相反しているが、どういうことなのだろうか」と追及した。シャハトもこれにはぐうの音も出ず、「私はドイツの敵となった男に対してはどんな事もする決心であった。私は自分の手でヒトラーを殺したかったのだ」とだけ述べて証言台を去った<ref name="時事147">[[#時事|『ニュルンベルク裁判記録』、p.147]]</ref>。
 
1946年10月1日の判決は「シャハトはドイツの再軍備計画の中心人物であり、彼の取った手段、特にナチ政権の初期におけるそれは、ナチ・ドイツを軍事勢力として急速に上昇せしめたことに対して責任がある。しかし再軍備そのものは憲章のもとでの犯罪ではない。憲章6条のもとでの平和に対する罪とするためには、シャハトが侵略戦争を遂行するためのナチ計画の一部として、再軍備を実行したことが示されなければならない。シャハトは他の欧州諸国と平等の立場にたった外交政策を遂行できるように強力で独立したドイツ建設を目指して再軍備計画に参加したと主張しており、ナチが侵略目的のために再軍備しつつあることを発見するや、彼は再軍備の速度の遅滞化に努めたと陳述した。シャハトは最初は地位から去ることによって、後には暗殺によってヒトラーを除去する計画に参加した。1936年に早くもシャハトは再軍備の制限を主張し始めた。もし彼の主張した通りの政策が実行されていれば、ドイツは欧州戦争準備をなすことはなかったであろう」としてシャハトを第一起訴事項、第二起訴事項ともに無罪とした<ref>[[#時事|『ニュルンベルク裁判記録』、p.309]]</ref>。
 
彼は無罪判決を当然の物として受け取った<ref name="シャハト下273">パーシコ、下巻273頁</ref>。ただこの判決は連合国内でも意見が真っ二つに分かれた物であり、シャハトはかろうじて無罪判決を受けたにすぎなかった。シャハトについてソ連判事[[イオナ・ニキチェンコ]]は有罪を強硬に主張し、アメリカ判事もニキチェンコに同調していたが、イギリスとフランスの判事が無罪を主張した。結局ニキチェンコの反対にもかかわらず、再軍備計画自体は犯罪ではないとしてシャハトは無罪となった<ref name="ヴィストリヒ94">ヴィストリヒ、94頁</ref><ref name="シャハト下261">パーシコ、下巻261頁</ref>。
 
=== 戦後 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-B1107-0043-016, Bahamas, Stafford Sands und Dr. Hjalmar Schacht.jpg|180px|thumb|1962年10月、[[バハマ]]。バハマ経済大臣{{仮リンク|スタッフォード・サンズ|en|Stafford Sands}}(左)とシャハト(右)。]]
その後[[シュトゥットガルト]]の[[非ナチ化裁判]]にかけられ、第一審では「主要戦犯」として労働奉仕8年の刑を受けたが、1948年9月2日に上告審で無罪判決を受け釈放された<ref name="ヴィストリヒ94"/>。
 
釈放後は[[デュッセルドルフ銀行]]で[[ブラジル]]、[[エチオピア帝国]]、[[インドネシア]]、[[イラン帝国]]、[[エジプト]]、[[シリア]]、[[リビア]]など発展途上国の経済・財政に関するアドバイザーとして活動した<ref name="ヴィストリヒ94"/>。1970年にミュンヘンで死去した<ref name="ヴィストリヒ94"/>。
 
== 人物 ==
[[File:Hjalmar Schacht.jpg|180px|thumb|ヒャルマル・シャハト]]
身長は191センチという<ref>[http://www.imdb.com/name/nm0769498/bio IMDb]</ref>。
 
因みに、ニュルンベルク刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が、開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると、シャハトの[[知能指数]]は143で、全被告人中では一番知能の高い人物であるとのことであった(ただシャハトは高齢であることを考慮されて実際の素点の数値より15から20多く出されている。調整前の素点では141の[[アルトゥル・ザイス=インクヴァルト]]が一位であった)<ref>[[レナード・モズレー]]著、[[伊藤哲]]訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、[[1977年]]、[[早川書房]] 166頁</ref>。この試験を受ける時、シャハトは不安そうに「単純な計算問題は苦手なんだ」と述べたという。ギルバートが「ドイツ再軍備のために財政を切り盛りした天才がですか?」と聞くと、シャハトは「計算が得意で、しかも金儲けも名人だなんて奴は、十中八九詐欺師だね」と述べた。自分がトップだという結果を聞いたシャハトは安堵し、「まさに私の予想したとおりになったな」と自慢げに語った<ref name="パーシコ上166">パーシコ、上巻165-166頁</ref>。
 
シャハトはプライドが高く、ニュルンベルク裁判で戦犯として告訴されたことについて「他の被告連中は罪人だが、私は違う」と強く反発していた。事あるごとに自分がいかにヒトラーやナチスと無縁であるかを強調した。特に1934年と1935年の訪米の事をよく話し、「[[フランクリン・ルーズヴェルト|ルーズヴェルト]]と親しく会談した」ことや、「ナチスに目を付けられる危険を冒してアメリカ・ユダヤ人の有力者たちと会見して彼らの前で演説した」ことを誇った{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=154-156}}。
 
=== ゴールデンソーンのインタビュー ===
ニュルンベルク裁判中にレオン・ゴールデンソーンから受けたインタビューの中でヒトラー政権に参加した理由について、経済的混乱の中でドイツ国民は中産階級政党も社会民主党も信じなくなり、選択肢は共産主義かヒトラーしかなくなっていたとしたうえで次のように語った。「共産党員は神は無意味で不合理と吹聴し、無理からぬ国民感情をないがしろにして国際主義を唱道した。対してヒトラーは共産主義が否定した二つの物、国家の尊厳と宗教を擁護しようとした。」「最終的にヒトラーは宗教に背信し、国民主義を返上することによって全ての人を裏切り、自分の理念さえも裏切ったので、今となっては皮肉なことだが、当時は誰もがヒトラーを信じた。1932年7月にはヒトラーが全議席の四割を獲得した。ドイツの歴史上一つの政党がこれほどの議席を獲得した例はなかった。」「その時点でヒトラーの悪人ぶりを知る者はいなかった。彼が国民を裏切るとは誰も思っていなかった。」「私について言えば民主的な思想を持ち、民主的な手法や議会運営に慣れていただけに選択の余地はなかった。」「1932年7月にヒトラーが当選すると彼が合法的に国民から選ばれたという事実を受け入れるしかなかった」「ヒトラーなんかお呼びじゃないと言ってしまえば私は一民間人の立場に引かざるをえなかっただろう。私は祖国のために働きたかったのだ。」「引退して一市民として暮らしたり、彼一人に権力を握らせておいたりしたら、彼の行動にブレーキをかけることなどできない。それなら現場にいて彼の行く手を阻む方がずっと利口ではないか」「彼の政策が非道徳的であることは明らかだったし、私は1935年頃から疑念を持ち始めていた。そして教会の弾圧、[[ゲシュタポ]]、ユダヤ人問題といった非合法的な事柄や一般的良識に反するその他諸々に関して機会あるごとにヒトラーに抗議した。公私の区別なく、本人に面と向かって反論したのだ。信じてもらえるかは別として、私はそれをやった唯一の人間だ。聖職者、政治家、科学者、実業家の誰一人として私が公私にわたって彼に言ったことを彼に言おうとしなかった。」「私は彼が戦争をしようとしていると察知して経済相を辞任した。ヒトラーは無任所大臣のポストに留まるなら辞表を受理すると言った。彼は自分の犯罪的な政府と国際的に有力で信用される経済学者・銀行家 ―つまり私― との間に対立がないことを世界にアピールしたがっていたのだ。私がこの条件を呑まねば彼は辞表を受理しなかった。さらに私は国立銀行から国への融資も停止した。それ以上私になにができたのだ。どこが問題だというのかね。」{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=162-168}}。
 
何故[[トーマス・マン]]のようにドイツを出なかったのかという質問に対しては「祖国を離れた人々は何か国民のためになることをしたのだろうか。トーマス・マンは何の役にも立っていない。」と一蹴した{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=169}}。
 
ユダヤ人迫害については次のように述べた。「私は人種的迫害には賛成しなかった。私が経済相と国立銀行総裁を務めていた1933年から1938年まではユダヤ人が経済や金融で不利益を被ることはなかった。その間もナチスはユダヤ人を標的とする迫害や略奪を行っていたが、それは私の管轄外なので責任は負えない。私はユダヤ人の友人をドイツ国外に逃がすことで助けていた。ただユダヤ人問題はいくつか原因があった。もちろんヒトラーは常に反ユダヤ主義者だったが、彼が政権を獲る直前のドイツではユダヤ人が数々の金融不正事件に関与していた。しかもユダヤ人は東方から続々とやって来てドイツに定住し、ビジネスを展開中だった。そのうえユダヤ人の中にはおびただしい数の[[ドイツ共産党|共産党員]]がいた。」「私は部下である一人のユダヤ人に命じてドイツのユダヤ人中央委員会に伝言を届けさせた。その内容はユダヤ中央委員会がユダヤ人の共産党入党を禁じる決議案を採択することを求めたものだった。この部下は数日後に戻ってきたが、残念ながらユダヤ中央委員会は私の勧告にしたがって行動する気はなかった。」{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=156-157}}。
 
ここまで聞いたゴールデンソーンが「ある組織がそのメンバーに政治思想の自由を禁じるのは市民的自由への侵害であると思う。貴方のユダヤ中央委員会への勧告はそもそもファシズム的ではないか」と追及すると、シャハトはむっとした様子になって「もちろん私は信仰の自由と同じく政治思想の自由も認めている。しかし[[共産主義]]は例外だ。これだけは認めてはならない。私がやろうとしたことはユダヤ人が共産主義に染まらないようにしたに他ならない」「私が不安なのは君たちアメリカ人が先の大戦と同じ轍を踏むのではないかということだ。つまり君たちがドイツを引き揚げ、ヨーロッパを後にすれば[[ソビエト連邦|ソ連]]が好き勝手にふるまうようになるということだ。そうなれば民間事業や個人の自由はナチ党政権と同程度に侵害されるだろう。恐ろしい!」と返答した{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=157}}。
 
共産主義には強い拒絶感を示し、「ナチズムより[[ボルシェヴィキ|ボルシェヴィズム]]の方がはるかに危険だと思う。確かにボルシェヴィキは民族根絶やしを目論んだことはないが、この一点を除けば、民間企業軽視など、極左の方が人の道から外れている。」「ソ連占領地域では財産を無償で接収する法律が既に公布されている。ザクセン州にある5000の製造業者が無償で財産を奪い取られた。私有財産制度を廃止すれば社会生活の根幹が揺らいでしまうというのに。」「他人の財産に手を出すのは犯罪だ。この手口はボルシェヴィキとヴェルサイユ条約によって採用された。これほど大きな過ちはない。」と述べた{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=179}}。
 
ゴールデンソーンが[[ヴァルター・フンク|フンク]]とヘーメンから聞いた話としてシャハト支配下の経済省がユダヤ人を経済的の追い詰める政策を行ったことによってユダヤ人迫害が強まったと指摘すると、シャハトは次のように述べて反論した。「フンクは自分の罪を私に着せようとしているのだ。ヘーメンのことは話に聞いているが、彼は信用できる人物ではない。私が自ら公布した法律を反ユダヤ主義法と称したことはない。たしかにユダヤ人が公職に就くことや特定の事業分野に占めるユダヤ人の割合を制限する法律を一つだけ公布したと思うが、それはヒトラーに命令されて、やむなく公布したのだ。しかしそれは理不尽と呼べるほどの内容ではなかったし、迫害とは違うと思う」{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=170}}。
 
そして最後にシャハトは「ヒトラーには忍耐力も理解力もなかった。私は彼の政策にそういう要素を盛り込もうと奮闘したが、失敗に終わった。それが私の悲劇の人生だ。しかたがない。いままで生きてきてこれほど惨めなことはない。私が戦争を支持したことはない。戦争は勝っても負けても人道に対する罪だ。今手にしているこの雑誌によると月はいずれ地球に落ちてくるそうだが、その日が来るまで我々は世界をもっと住みよい場所にしようと努力しなければならない。今はそういう心境だ」と述べた{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=181-182}}。
 
ゴールデンソーンはシャハトの印象を次のように述べた。「彼は自分の発言を批判されたり、疑われたりすることが耐えられないようだ。私が時折彼の身の潔白や邪心の無さをあからまさに疑ったりすると、彼はいらだち、甲高い声を張り上げることもあった。例によって彼は怒れる無実の人間を気どり、律義な銀行家としては憤懣やるかたないという態度を取っている。」{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=171}}。
 
==邦訳著書==
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:博士論文を公刊したもの。原著1900年
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|last=カーン|first=レオ|translator=[[加藤俊平]]|year=1974|title=ニュールンベルク裁判 暴虐ナチへ“墓場からの告発”|publisher=[[サンケイ出版]]|ref=harv}}
*[[レオン・{{Cite book|和書|last=ゴールデンソーン]]著([[:en:Leon| Goldensohnfirst=レオン|en]])、translator=[[小林等]]・[[高橋早苗]]・[[浅岡政子]]訳『|editor=[[ロバート・ジェラトリー]]([[:en:Robert Gellately|en]])編|year=2005|title=ニュルンベルク・インタビュー( )』、|publisher=[[河出書房新社]]、[[2005年]]|isbn=978-4309224404|ref=harv}}
*[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]著『ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの』、[[1963年]]、[[中公新書]]、ISBN 978-4121000279
*[[ウェルナー・マーザー]]著『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』[[西義之]]訳、[[TBSブリタニカ]]、1979年
136 ⟶ 173行目:
*[[阿部良男]]著、『ヒトラー全記録 :20645日の軌跡』、[[2001年]]、[[柏書房]]、ISBN 978-4760120581
*[[ロベルト・ヴィストリヒ]]([[:en:Robert S. Wistrich|en]])著、[[滝川義人]]訳、『ナチス時代 ドイツ人名事典』、[[2002年]]、[[東洋書林]]、ISBN 978-4887215733
*[[レオン・ゴールデンソーン]]著([[:en:Leon Goldensohn|en]])、[[小林等]]・[[高橋早苗]]・[[浅岡政子]]訳『ニュルンベルク・インタビュー(上)』、[[河出書房新社]]、[[2005年]]
*{{Cite book|和書|author=[[栗原優]]|date=1997年(平成9年)|title=ナチズムとユダヤ人絶滅政策 <small>ホロコーストの起源と実態</small>|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623027019|ref=栗原(1997)}}
*Charles Hamilton,"''LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1''",R James Bender Publishing,1996,ISBN 9780912138275([[英語]])