「山谷えり子」の版間の差分

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<tr><td>選挙区</td><td>[[参議院]]比例区</td></tr>
<tr><td>当選回数</td><td>1回(衆議院1回)</td></tr>
<tr><td>所属党派</td><td>(民社党→)<BR>(民主党→)<BR>(保守新党→)<BR>自由民主党([[清和政策研究会|森派]])</td></tr>
<tr><td>党の役職</td><td>-</td></tr>
<tr><td>会館号室</td><td>参議院・第一議員会館611538号室</td></tr>
<tr><td>ウェブサイト</td><td>[http://www.yamatani-eriko.com/ 参議院議員 山谷えり子]</td></tr>
</table>
'''山谷 えり子'''(やまたに えりこ、本名・小川 惠里子、[[1950年]][[9月19日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]所属の[[参議院]][[議員]](1期)。[[衆議院]]議員(1期)。[[東京都]][[武蔵野市]]出身。中学までは父の出身地である[[福井県]][[福井市]]で育つ。
 
[[1973年]][[聖心女子大学]]文学部を卒業、[[出版産経新聞]]入社、のち渡米。[[19851988年]]3月[[サンケイリビング新聞]]編集長になる。テレビキャスター、エッセイスト。中央児童福祉審議会委員などを歴任
[[1989年]]第[[15回参議院議員通常選挙]]に[[民社党]]から比例代表5位で出馬し落選。[[1995年]]民社党と語る会幹事に就任。
[[1989年]]第[[15回参議院議員通常選挙]]の[[民社党]]比例候補。[[2000年]]6月の[[第42回衆議院議員総選挙]]に[[民主党 (1996-)|民主党]][[比例区]][[東海ブロック]]より出馬し初当選 。その後党内で折り合いがつかず、2002年12月、[[熊谷弘]]らとともに民主党を離党。民主党から除籍。[[保守新党]]結党し参加。[[2003年]]の[[第43回衆議院議員総選挙]]では当初東京3区からの立候補を表明し地元に事務所も開設したが、[[石原慎太郎]]東京都知事の三男[[石原宏高]]が出馬表明したため、山谷は自民入党比例出馬の可能性を探るが交渉は不調に終わり3区からの立候補を断念し東京4区から出馬、しかし落選。[[2004年]]7月の[[第20回参議院議員通常選挙]]では自民党より比例区に出馬し[[仏所護念会教団]]など[[宗教右派]]の支援を受け初当選。[[2005年]]4月自民党福井県連に加入、9月の総選挙では福井1区から立候補した[[刺客]]候補の[[稲田朋美]]弁護士を全面的に支援、11月[[安倍晋三]][[内閣官房長官]]の後押しを受け[[内閣府]][[大臣政務官]]に就任。自由民主党立党50年記念党大会では開会式司会を務める。[[日本会議]]国会議員懇談会監事、[[神道政治連盟]]国会議員懇談会の副幹事長として首相の靖国神社参拝を求める運動を推進している。但し本人は[[カトリック教会|カトリック]]信徒。
 
[[世界基督教統一神霊協会|統一協会]]系の『[[世界日報 (日本)|世界日報]]』紙に繰り返し登場しており、自民党における[[性教育]]・[[ジェンダーフリー]]・[[男女共同参画社会|男女共同参画]]・[[夫婦別姓]]に対する一連の保守的なバッシングの最先鋒である。
 
著書に『嫁姑合戦―えり子の場合』『走りつづけてー父・山谷親平五千六百一回目レディになるため魅力講座』など多数。
 
父親は[[ニッポン放送]]で「お早うニッポン」(後に[[高嶋ひでたけのお早よう!中年探偵団]])を担当、「パーソナリティ」という言葉を日本で初めて使ったといわれる故・山谷親平(元[[福井新聞]]、産経新聞記者)。
 
== 関連項目 ==