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== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
1940両親は[[韓国]][[慶尚南道]][[昌寧郡]]大合面出身<ref name="yomiuri201589">{{Cite news |title = 「戦後70 あの夏」<8>熱風私をかばった母…元プロ野球選手 張本勲さん |newspaper = [[読売新聞]] |date = 2015-8-9 |author = |url = http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150808-OYT8T50000.html |accessdate = 2015-10-30 |publisher = [[YOMIURI ONLINE]] |archiveurl = http://web.archive.org/web/20151029121005/http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150808-OYT8T50000.html |archivedate = 2015-10-30 }}</ref><ref name="サンデー毎日1976620">「シリーズ劇的人間 張本勲とその母 『中傷のヤジは許さない!』 復活ジャイアンツの目 被爆選手36年の汗と涙」『[[サンデー毎日]]』1976年6月20日号広島生まれ[[毎日新聞出版]]、p114-121</ref><ref>[[吉田豪]]『男気万字固め』[[エンターブレイン]]、2001年、p90</ref>。母親は[[身重]]のまま、3人の子を連れて[[日本統治時代の朝鮮|当時日本領だった朝鮮]]から海を越えて[[日本内地]]に渡り、広島で勲を生んだ<ref name="mediacenter">[http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story{{Cite news |title =2011012111501691_ja 人は幸せへ切磋琢磨を ~張本勲さん古里広島で語る~ |newspaper = [[中国新聞]] |date = 2011-1-4 |author = 西本雅実 |url = http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=2011012111501691_ja |accessdate = 2015-10-30 |publisher = ヒロシマ平和メディアセンター |archiveurl = http://web.archive.org/web/20151029090555/http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=2011012111501691_ja |archivedate = 2015-10-30 }}</ref><ref name="新家の履歴書">「新・家の履歴書 張本勲」『[[週刊文春]]』2009年3月26日号、[[文藝春秋]]、p90-93</ref>。一家は六畳一間の[[トタン]][[屋根]]の[[バラック]]に住んだ<ref name="在日はなぜ" />。4歳の冬、土手で焚き火[[左義長|とんど]]<ref name="新潮4520091">歌代幸子「私と母(1) 張本勲」『[[新潮45]]』2009年1月号、[[新潮社]]、p148-154</ref>を囲んでいた際に、急にバックしてきたトラックを避けようとしたところバランスを崩し、焚き火とんどに右半身から飛び込む形になり、右手の親指、ひとさし指、中指以外の自由を失う大[[火傷]]を負う<ref name="yomiuri201589"/><ref name="bt1339">『別冊宝島 1339 プロ野球無頼派選手読本』</ref><ref name="kumepipo">『[[クメピポ! 絶対あいたい1001人]]』、[[毎日放送]]、2009年7月15日</ref><ref>[[澤宮優]]『プロ野球残侠伝―サムライ達のいる風景』[[パロル舎]]、2009年、p25-26</ref>。[[1945年]][[8月6日]]、5歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原新町(現在の[[南区 (広島市)|南区]][[段原]])で[[広島市への原子爆弾投下|被爆]]<ref name="mediacenter"/><ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/08/06/kiji/K20120806003842900.html 核廃絶訴える張本氏が始球式「魂を感じて投げました」 スポニチ]</ref><ref name="sinbun">[[毎日新聞]]、2008年8月2日、13頁。[[読売新聞]]、2007年8月4日、21頁。</ref>。[[比治山]]の影となっていた段原は直接の熱線が届かなかったが、爆風に見舞われ家は倒壊した。この際、勤労動員で比治山の西側にいた長姉は、大火傷を負い数日後に亡くなった<ref name="mediacenter"/><ref name="sinbun"/><ref>[[新潮45]]、[[新潮社]]、2009年1月号、148-154頁</ref>。
 
[[1945年]][[8月6日]]、5歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原新町(現在の[[南区 (広島市)|南区]][[段原]])で[[広島市への原子爆弾投下|被爆]]<ref name="mediacenter"/><ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/08/06/kiji/K20120806003842900.html 核廃絶訴える張本氏が始球式「魂を感じて投げました」 スポニチ]</ref><ref name="sinbun">[[毎日新聞]]、2008年8月2日、13頁。[[読売新聞]]、2007年8月4日、21頁。</ref>。[[比治山]]の影となっていた段原は直接の熱線が届かなかったが、爆風に見舞われ家は倒壊した<ref name="yomiuri201589"/><ref name="新潮4520091"/>。この際、勤労動員で比治山の西側にいた長姉は、大火傷を負い数日後に亡くなった<ref name="mediacenter"/><ref name="sinbun"/>。
終戦後、父親が朝鮮半島に戻り、生活基盤を整えてから一家も呼び寄せることになっていたが、父親が帰国後急死し、またヤミ船が下関沖で転覆した事件を受けて、母親が子供3人の身を案じて帰国を諦めることになった<ref name="mediacenter"/>。
 
終戦後、父親が朝鮮半島に戻り、生活基盤を整えてから一家も呼び寄せることになっていたが、父親が帰国後急死し、またヤミ船が下関沖で転覆した事件を受けて、母親が子供3人の身を案じて帰国を諦めることになった<ref name="mediacenter"/>。母親は[[闇市]]で牛や豚の[[臓物]]を仕入れて自宅で大工や工員相手に[[ホルモン焼き]]屋を始めた<ref name="yomiuri201589"/><ref name="サンデー毎日1976620"/>。
子供の時から体が大きく、ガキ大将としていつも大勢の子分を連れて歩いた。小学5年のときに町内の野球チーム(同世代のチームではなく、社会人が趣味で集まっていたチーム)に誘われたのをきっかけに野球を始める。当初は右投げ左打ちだったが、右手の怪我の影響で[[変化球]]を投げづらかった(鷲掴みにしか出来ない)ことから、[[サウスポー]]に転向。[[利き手]]を変える大改造を行なった。
 
子供の時から体が大きく、ガキ大将としていつも大勢の子分を連れて歩いた。広島市立比治山小学5年のときに町内の野球チーム(同世代のチームではなく、社会人が趣味で集まっていたチーム)に誘われたのをきっかけに野球を始める<ref name="我が道3">[[スポーツニッポン]]連載『張本勲の我が道』(3)、2008年11月13日</ref>。当初は右投げ左打ちだったが、右手の怪我の影響で[[変化球]]を投げづらかった(鷲掴みにしか出来ない)ことから、[[サウスポー]]に転向<ref name="我が道3"/>。[[利き手]]を変える大改造を行なった。
[[広島市立段原中学校|段原中学校]]時代には2年生のときにレギュラーになり、エースで4番打者として広島県大会で優勝。中学時代は野球とケンカに明け暮れ、『[[仁義なき戦い]]』のモデルになったような人たちにも憧れ、「あのまま広島にいたら[[ヤクザ]]になっていたと思う」とも話している<ref name="kumepipo" /><ref>[http://www.sponichi.co.jp/osaka/ente/200808/01/ente213599.html 張本勲氏 壮絶半生語る!NHK・BSハイビジョン9・3放送 ― スポニチ ]</ref>。
 
[[水泳]]が一番得意だったが、進学した[[広島市立段原中学校|段原中学校]]時代には水泳部がなく、仕方なく野球部に入部<ref name="新潮4520091"/><ref name="我が道3"/>。段原中時代の2年生のときにレギュラーになり、エースで4番打者として広島県大会で優勝した<ref name="サンデー毎日1976620"/>。中学時代は野球とケンカに明け暮れ、『[[仁義なき戦い]]』のモデルになったような人たちにも憧れ、「あのまま広島にいたら[[ヤクザ]]になっていたと思う」とも話している<ref name="kumepipo">『[[クメピポ! 絶対あいたい1001人]]』、[[毎日放送]]、2009年7月15日</ref><ref>[http://www.sponichi.co.jp/osaka/ente/200808/01/ente213599.html 張本勲氏 壮絶半生語る!NHK・BSハイビジョン9・3放送 ― スポニチ ]</ref>。
この頃、[[広島東洋カープ|広島カープ]]の[[広島県総合グランド野球場|広島総合球場]]の場外の木によじのぼり、よく試合の無料見物をしていたという<ref name="mediacenter"/><ref>[[吉田豪]]『男気万字固め』[[エンターブレイン]]、2001年、p105-106</ref>。その折に覗き見た[[読売ジャイアンツ]]の宿舎の食事風景が、その後の張本の人生を大きく変えることとなった<ref name="mediacenter"/>。戦後の物資不足や飢餓をまだ引きずる時代に、選手たちは分厚い肉を食べ、桐箱に入った贈答品として当時は珍重されることも多かった生卵を3つも4つも茶碗に放り込んでいたのである。以来、張本のプロ野球選手への憧れは増大し、「母親に広い家をプレゼントする」、「美味しい食べ物を腹一杯食べる」という二つの夢を胸に来る日も来る日も吊るした古タイヤに向かってバットを振り続け野球へと打ち込んでいった<ref>張本の兄がタクシーの運転手だったため、使えなくなったタイヤを譲ってもらっていた(『別冊宝島 1339 プロ野球無頼派選手読本』より)。</ref>。
 
この頃、[[広島東洋カープ|広島カープ]]の[[広島県総合グランド野球場|広島総合球場]]の場外の木によじのぼり、よく試合の無料見物をしていたという<ref name="mediacenter"/><ref>[[読売新聞]]連載『時代の証言者 最多安打 張本勲』(5)、2009年1月27日</ref><ref>[[吉田豪]]『男気万字固め』[[エンターブレイン]]、2001年、p105-106</ref>。その折に覗き見た[[読売ジャイアンツ]]の宿舎の食事風景が、その後の張本の人生を大きく変えることとなった<ref name="mediacenter"/><ref name="新潮4520091"/>。戦後の物資不足や飢餓をまだ引きずる時代に、選手たちは分厚い肉を食べ、桐箱に入った贈答品として当時は珍重されることも多かった生卵を3つも4つも茶碗に放り込んでいたのである<ref name="新家の履歴書"/><ref name="我が道4">スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(4)、2008年11月14日</ref>。以来、張本のプロ野球選手への憧れは増大し、「トタン屋根の長屋から抜け出すにはこれしかない」<ref name="我が道4"/>、「母親に広い家をプレゼントする」、「美味しい食べ物を腹一杯食べる」という二つの夢を胸に来る日も来る日も自宅近くの[[猿猴川]]土手に吊るした古タイヤに向かってバットを振り続け野球へと打ち込んでいった<ref name="我が道4"/><ref name="在日はなぜ" >康煕奉『在日はなぜスポーツに強いのか』[[KKベストセラーズ]]、2001年、ISBN 4584120099 p16-31</ref>{{#tag:ref|張本の兄がタクシーの運転手だったため、使えなくなったタイヤを譲ってもらっていた(『別冊宝島 1339 プロ野球無頼派選手読本』より)。</ref>|group="注"}}
 
=== 高校時代 ===
甲子園出場を夢に、地元の強豪・[[広島県立広島商業高等学校|広島商業]]、[[広陵高等学校 (広島県)|広陵高校]]への入学を希望したが、素行不良との理由で叶わず<ref name="mediacenter"/><ref name="新家の履歴書"/><ref>スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(5)、2008年11月15日</ref>、野球では全く無名の松本商業高校(現・[[広島県瀬戸内高等学校|瀬戸内高校]])定時制に進学。入学後1か月ケンカしなかったら普通科に転入させるという約束での入学であり<ref>『男気万字固め』p97-98</ref>、昼間は[[学生食堂]]で働き、夜は学業に勤しんだため、野球をする時間が全く取れなく、甲子園出場の夢を叶えられそうにないことを悟る<ref name="新家の履歴書"/>。松本商業の野球部監督が「いっそ広島から出したらどうだ。あの子は化けるよ」と兄にアドバイス<ref name="新家の履歴書"/>。自身も理髪店で「常勝!平安、浪商」と書かれた雑誌を見てまず[[京都府|京都]]の[[龍谷大学付属平安中学校・高等学校|平安高校]]に問い合わせたが途中からは無理と断られ<ref name="新家の履歴書"/>、[[大阪府|大阪]]の浪華商業高等学校<!---在学時の校名--->(浪商高等学校を経て現・[[大阪体育大学浪商高等学校|大体大浪商]])野球部に自らを[[梁川郁雄]](梁川在雄)と一緒に売り込みにいき同校に転校する<ref name="新家の履歴書"/><ref name="我が道6">スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(6)、2008年11月16日</ref>
 
浪商では1年の終わり頃に4番になるが、張本が入部する前の部内の暴力事件で1年間の対外試合禁止処分(1年の秋から2年の秋)を受け、この際に恩師である中島春雄も監督の座を退くことになった。
 
2年の初夏、中島春雄の戦友であり、度々同校を訪ねていた当時[[読売ジャイアンツ]]監督の[[水原茂]]に、高校を中退して左投手としての入団を勧誘される<ref name="サンデー毎日1976620"/><ref name="新家の履歴書"/>。張本もその気でいたが、高校だけは卒業して欲しいという兄の意向<{{#tag:ref>|幼い頃に父を亡くした張本に取っては兄は絶対的な存在であり、また浪商に転校する際にも多大な経済的な援助を受けていた。</ref> |group="注"}}により、誘いを断る<ref name="新家の履歴書"/>。その直後、オーバーワークにより肩を故障。投手としての未来図を描いていた張本は挫折するも、中島の説得によりその後は打者に専念するようになる。秋の近畿大会で対外試合に初出場。13試合で打率5割6分、本塁打11本という驚異的な成績を残した。
 
3年時の[[全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]直前、部室内での暴力事件が発覚<ref name="新家の履歴書"/>。張本含む数人の休部処分により、チームの甲子園出場は認められた<ref name="yomiuri201589"/>。張本曰くこの件に関しては全くの濡れ衣であるという(事件が起きた際、そもそも部室にいなかった)<ref name="新家の履歴書"/>。張本は竹内監督の韓国人嫌いに端を発した差別としている<ref name="mediacenter"/>。また、前監督の中島が退任した後も引き続き中島に教えを乞いに行くことがあり、竹内との関係は良くなかったとも回想している<ref>自著「最強打撃力 バットマンは数字で人格が決まる」</ref>。
 
同事件により、甲子園の夢を絶たれた張本は自殺も考えたと言うが、野球部の同級生で同じく休部処分を受けた[[山本集]]<{{#tag:ref>|[[オリジナルビデオ|Vシネマ]]にもなった山本の自伝的著書『浪商のヤマモトじゃ!』(南風社、2002年)では、張本に関する数々のエピソードがフィクションも交えて紹介されている。</ref> |group="注"}}が親身になって相談に乗り、張本は話を聞いてもらっている内に涙が出てきて母校のグラウンドで夜通し走っていたという。
 
この年[[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]高校生で構成する日韓親善高校野球の選手に選抜され渡韓し、生まれて初めて「祖国の土」を踏む<ref name="サンデー毎日1976620"/><ref name="mediacenter"/>。主軸打者として韓国各地を転戦、選抜チームも14勝1敗と圧勝した<ref name="新家の履歴書"/>。張本のバッティングは祖国の野球ファンも驚かせ、韓国メディアも大きく報道した<ref name="韓国野球の源流">大島裕史著 『韓国野球の源流』 新幹社、2006年、p154頁</ref>。その一方で観衆から[[チョッパリ|パンチョッパリ]]と侮蔑表現で呼ばれ、[[アウェー]]であることも実感したという。ここで甲子園出場が叶わず萎えかけていた気持ちを奮い起こした。後年、張本はこのときのことを「甲子園に出場出来なかった事は凄く悲しく悔しかった。でも一時的に日本を離れ、試合を重ねる内に野球に集中できた。それが良かったんです。生きる気力が湧いてきて、心機一転した上で日本に戻り一からやり直す事が出来たんです」と語っている。後に日本のプロ野球を代表する強打者となる張本は、母国訪問での活躍によって祖国でも有名になり、韓国の野球少年にとって憧れの存在となる<ref name="韓国野球の源流"/>。
 
=== プロ野球選手時代 ===
甲子園出場の夢は叶わなかったが、野球関係者の間で「東の[[王貞治|王]]、西の[[板東英二|板東]]、張本」とその名が知れ渡っていた存在をプロが見逃すはずもなく、各球団からスカウトが訪れた<ref name="yakyutsuku">[http://www.yakyutsuku-online.com/library/special/vol21/ 張本 勲|プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2]</ref>。兄は広島カープへの入団を願って知人を通じて打診したが断られ<ref name="sundaymainichi">[[サンデー毎日]]、[[毎日新聞社]]、1975年12月14号、153頁</ref>、本人は巨人への入団を熱望し、監督の[[水原茂]]とも相思相愛だったが、球団社長は興味を示さず、獲得に乗り出さなかった。[[青木一三]]も熱心に口説いたが[[大映ユニオンズ|大映]]のオーナー・[[永田雅一]]が野球経営に熱心でなく<ref name="ここだけの話">[[青木一三]]『ここだけの話 プロ野球どいつも、こいつも』、[[ブックマン社]]、1989年、P183-187</ref>、大映が[[高橋ユニオンズ|高橋]]と合併、さらに[[千葉ロッテマリーンズ|毎日]]とも合併して選手の数が膨れ上がり、「これ以上選手はいらん」と入団できず<ref name="ここだけの話"/>。最終的に[[中日ドラゴンズ]]と[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]の一騎打ちになったが、東京への憧れもあり、{{by|1959年}}[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]に入団<ref name="yakyutsuku"/><!---<ref>岩本監督が広島まで来たことに感激して入団を決意した([[サンデー毎日]]、[[毎日新聞社]]、1975年12月14号、153頁)</ref>--->。当時の東映は同郷の先輩である[[岩本義行]]を始め<ref name="新家の履歴書"/><ref>スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(9)、2008年11月19日</ref>、母校である浪商の先輩を多数抱えていた<ref name="新家の履歴書"/><ref name="我が道6"/>。契約金は200万(中日は600万を提示していた)<ref name="新家の履歴書"/>。まだテレビがなくセ・リーグの方が人気があるとは知らなかった<ref name="新家の履歴書"/>。わかっていたら中日に入団していたと思うと話している<ref name="新家の履歴書"/>。なお、この入団と前後して東映のオーナー[[大川博]]は当時プロ野球の規約で「外国人選手は2人まで」となっていた問題の改正に取り組み、「生まれた時に日本の国籍を持っていた選手」は外国人選手に含めないと改正させている。先の青木一三は、張本は大映が獲得を断念した後、[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]のテストを受けたが不合格になり、これだけの逸材をどうしてもプロに置いておきたいと考えた私が、東映の[[松木謙治郎]]打撃コーチに張本を紹介したと述べている<ref name="ここだけの話"/>
 
最終的に[[中日ドラゴンズ]]と[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]の一騎打ちになったが、東京への憧れもあり、{{by|1959年}}[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]に入団<ref name="yakyutsuku"/><!---<ref>岩本監督が広島まで来たことに感激して入団を決意した([[サンデー毎日]]、[[毎日新聞社]]、1975年12月14号、153頁)</ref>--->。当時の東映は同郷の先輩である[[岩本義行]]を始め、母校である浪商の先輩を多数抱えていた。契約金は200万(中日は600万を提示していた)。なお、この入団と前後して東映のオーナー[[大川博]]は当時プロ野球の規約で「外国人選手は2人まで」となっていた問題の改正に取り組み、「生まれた時に日本の国籍を持っていた選手」は外国人選手に含めないと改正させている。
 
[[松木謙治郎]]打撃コーチの「打率も残せ、ホームランも打て、盗塁もできる完璧な打者を目指せ」という指導のもと、猛練習に励んだ。松木の回想によると(後述の怪我により)右手をほとんど使えず、ほぼ左手のみのバッティングで、高めの直球しか打てないバッターだったため、右手の強化や打撃フォームや立ち位置の細かい修正(この際にレベルスイングになった)に臨んだ。今では常識となっている野球ネットへのヒッティング練習を導入。また高校時代は投手としての練習しかしていなかったため、野手としての練習は苛烈を極めた。当初は張本の長身と風貌から[[一塁手]]として育てる予定だったが、打撃練習の際に怪我のことを初めて知り、即日外野手に回したという。
 
大川博東映社長の意向もあって1軍に抜擢され、高卒の新人外野手ながら[[開幕戦]]の[[スタメン]]に名を連ねた{{#tag:ref|同年、王貞治も新人で開幕スタメン出場。NPBで18歳の高卒新人の開幕スタメンは以後1965年の[[飯田幸夫]]、1988年の[[立浪和義]]、2006年の[[炭谷銀仁朗]]、2011年の[[後藤駿太|駿太]]、2013年の[[大谷翔平]]しかいない。高卒新人外野手としては駿太まで以後52年間出なかった。|group="注"}}。デビュー戦は阪急戦で、[[米田哲也]]の剛速球に全くついていけず三振、直後の守備でバンザイをして即交代させられた。翌日の阪急戦で第1打席で[[秋本祐作]]から二塁打を打ち初ヒット、第2打席で[[石井茂雄]]から初本塁打を放つ。6月23日からは4番を打つ。入団1年目からレギュラーに定着。13本塁打を放ち、[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得した。
 
2年目には[[打率]]3割をマークし、3年目には打率.336で21歳にして[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]となった。以降引退まで、通算7度の首位打者に輝いた。首位打者7度はイチローと並ぶ日本記録である。4年目の{{by|1962年}}には[[最優秀選手 (野球)|MVP]]と、同年から新設された[[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]を獲得した。{{by|1970年}}には打率.383、本塁打34本、打点100という自己最高の成績を残している。このうち、打率は[[大下弘]]が持っていたシーズン最高打率(.3831)を3毛更新するもので、{{by|1986年}}に[[ランディ・バース]]が更新するまで16年間日本記録であった。{{by|1972年}}8月19日の[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]戦で、[[東尾修]]投手から史上7人目となる2000本[[安打]]を達成。「'''安打製造機'''」の異名を取り<{{#tag:ref>|「安打製造機」の異名は、張本以前には[[榎本喜八]]が取っており、[[1990年代]]以降では[[イチロー]]がそう呼ばれることがある。</ref>|group="注"}}、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]の[[野村克也]]らと共に1960年代から[[1970年代]]の[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]で活躍した。
 
日拓ホームフライヤーズとなった{{by|1973年}}の後期<{{#tag:ref>|1973年から1982年まで、パ・リーグでは[[2シーズン制|前後期制]]を採用していた。</ref> |group="注"}}からは、選手兼任でコーチ(ヘッド兼打撃コーチ)を務めた<ref name="ichiro">『イチロー論 一流とはなにか プロフェッショナルとはなにか』青志社、2009年</ref>。コーチになった理由は後期から監督になった[[土橋正幸]]が「おまえは兼任でヘッドコーチをやれ。選手をまとめろ。2、3年でバトンタッチするから」と言われたが結局、球団は翌74年に日本ハムに身売り、土橋は退団した<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/27/kiji/K20130827006491150.html 張本氏「寂しいよ。あんちゃん」昭和の侍が、また1人消えた…]</ref>。この頃から毎年、[[ストーブリーグ]]を賑わせた<ref name="週刊朝日19751212" >「ワンちゃんは『静』ぼくは『動』来年のHO砲に期待してくれ 張本勲」『[[週刊朝日]]』1975年12月12日号、[[朝日新聞出版]]、p26-27</ref>。{{by|1974年}}には[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]とトレード話がほぼまとまりかけながら御破算となる。{{by|1975年}}前期リーグ終了後、ロッテが張本獲得に乗り出す。日本ハムの[[三原脩]]球団社長が「張本は球界のガンだ」と発言するなど<ref name="sundaymainichi"/>張本を無理やり放出しようとし、三原社長と[[中西太]]監督との間の感情はこじれにこじれた。日本ハム製品が韓国でよく売れていたため、[[大社義規]][[オーナー]]としても“韓国の英雄”である張本の気持ちを無下にはできず、新任の[[大沢啓二]]監督も日本ハムから出たい張本の気持ちを変えることはできなかった。大沢は著書『球道無頼』(集英社、1996年)の中で、三原から張本が巨人に行きたがっていると聞かされて、チーム改革のために「迷わず、ふたつ返事でOKした」と記している(同書144頁)。
 
前年のオフに[[大杉勝男]]・[[白仁天]]らが移籍し、次は自分と考えていた張本は「もし不要なら出してほしい」と直訴すると、三原に「希望する球団に行かせよう」と言われ、強さへの憧れからファンでもあった巨人を挙げた。当時[[阪神タイガース]]監督の[[吉田義男]]に誘われて一時阪神行きを決意し、家まで用意していた。しかし突然巨人からも誘われ、しかも決定項として扱われていたため慌てて吉田に連絡を取ると、吉田は憎まれ口ひとつ言わず「ええ話やないか。巨人に行けよ」と了承した。現在でも吉田とは「あの時、ウチ(阪神)へ来とったら面白かったなあ」という話になるという<ref name="yakyutsuku"/><ref>週刊ベースボール2009年6月8日号17頁</ref>。 
 
{{by|1976年}}、[[長嶋茂雄]]監督が「王の前に大砲が欲しい」という希望があり<ref name="sundaymainichi"/>、[[高橋一三]]・[[富田勝]]との交換トレードで巨人へ移籍<ref>[http://column.fp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=001-20131223-04&uid=NULLGWDOCOMO ビッグトレードの当事者が語る「1975」 | 週刊ベースボール速報]</ref><ref>スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(14)、2008年11月24日</ref>。。憧れであった巨人に入団したことで発奮し、オフやキャンプで徹底した走り込みを敢行した。同年、翌{{by|1977年}}と続けて高打率を残し、2年連続でリーグ2位の打率を記録。1976年においては、首位打者を獲得した[[谷沢健一]]との打率差がわずか1毛(厳密には6糸)で、歴代で最も1位と2位との差が小さい記録である。親友の[[王貞治]]と組んだ'''[[OH砲]]'''は、第一期[[長嶋茂雄]]監督時代の2度の優勝に貢献した。{{by|1978年}}[[7月24日]]、日本プロ野球名球会が設立され、規定([[昭和]]<ref>1940年=昭和15年</ref> 生まれ、通算2000本安打記録)を満たす張本も入会。
 
{{by|1980年}}、[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ・オリオンズ]]に移籍。同年5月28日、地元[[川崎球場]]での[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]との対戦において、[[山口高志]]投手から日本プロ野球史上初となる3000本安打を本塁打で達成。この快挙を記念したメモリアルプレートが同球場に展示された。翌年の{{by|1981年}}に[[現役引退]]。現役最後の安打は[[森繁和]]から打っている。そのままロッテの監督に昇格の話もあったが実現せず<ref name="文春1981123">「オレは新選組"特注"局長だ」『週刊文春』1981年12月3日号、文藝春秋、p16-19</ref>。[[1990年]]、[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入り。
 
通算打率は歴代3位(4000打数以上)であり、7000打数以上では歴代1位である。通算打撃部門の全ての上位に名を連ねていることから、日本プロ野球史上屈指の強打者との誉れが高い。通算安打は'''3085本'''で日本記録である<{{#tag:ref>|2009年に[[シアトル・マリナーズ]]のイチローが日米通算3086安打を記録し、日本メディアは「日本記録更新」と報道したが、NPBでは日本記録と認められておらず、NPBの最高責任者である[[加藤良三]][[プロ野球コミッショナー]]も張本の3085安打が日本記録だと明言している(『週刊現代』2009年5月9日号、講談社)。</ref>|group="注"}}。自身も通算最多安打を記録していることを誇りに思っており、「イチローがたとえ日米通算4000本安打を記録しても、日本記録保持者は私ですから」とコメントしているが、その理由として、「メジャーリーグの野球は日本の野球よりもシーズンの試合数が多いから、イチローの通算安打は参考記録にしかならない」ことをあげている。
 
[[野球の背番号|背番号]]はプロ1年目から引退まで一貫して'''10'''を着用した。
 
=== 引退後 ===
引退後は、[[1982年]]より[[東京放送ホールディングス|東京放送]]([[TBSテレビ]]・[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]])<{{#tag:ref>|2001年9月まで、[[ラテ兼営|ラジオ・テレビ兼営放送局]]であったが、10月にラジオを[[子会社]]として分離、2009年4月には[[持株会社]]化(東京放送ホールディングスへの社名変更)に伴いテレビも子会社として分離(TBSの略称もTBSテレビに継承)された。|group="注"}}</ref> 野球解説者、[[スポーツニッポン]]野球評論家を務める。また、TBSテレビの『[[サンデーモーニング]]』のスポーツコーナー『[[サンデーモーニング#主なコーナー|週刊 御意見番]]』でも、[[大沢啓二]]と共にレギュラー解説者(御意見番)として出演(2000年頃より。2010年10月の大沢死去後も引き続き出演)。[[2006年]]まではテレビ・ラジオの中継に出演していたが、[[2007年]]以降は「週刊 御意見番」の出演にとどまっている。中継から外れて以降も、各出版社が発売している一部プロ野球名鑑に掲載される解説者・評論家名鑑<ref>参考:
* 『プロ野球選手カラー名鑑2007』
* 『週刊ベースボール』プロ野球全選手写真名鑑(2009年版のみ解説者・評論家名鑑は未掲載)
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臨時コーチを何度も務めている。[[中日ドラゴンズ|中日]]の沖縄秋季キャンプの臨時コーチを務めた1992年には、一旦挫折しかけた[[大豊泰昭]]の[[一本足打法]]を完成させるきっかけを作っている<ref>[[東京スポーツ]]、2009年1月14日、3頁</ref>。自身の著書で、監督の打診を受けたことがあったものの「入り込んでしまうからやめた方がいい」と母親に猛反対されたので断ったと記している<ref name="ichiro"/>。ロッテの[[ゼネラル・マネージャー]]だった時期の[[広岡達朗]]から、[[ボビー・バレンタイン]]監督の下でのヘッド兼打撃コーチの打診を受けたことがあったが、張本がトップ(監督)でやりたいと言って断っている<ref name="ichiro"/>。[[週刊文春]]2015年10月1日号の[[阿川佐和子]]のこの人に会いたいでは球団は言えないが3球団から監督の要請があったことを明かしている。
 
1982年に発足した韓国プロ野球統括団体であるKBOのコミッショナー特別補佐官を[[2005年]]まで務めた<ref name="ugbc">[http://ugbc.net/event/pdf/07_0516.pdf 記 念 講 演 誇り~胸を張って歩んだ道のり~]</ref><ref name="simoda">[[下田武三]]『プロ野球回顧録』ベースボール・マガジン社、1988年、p121-124、165-168</ref><ref>スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(18)、2008年11月28日</ref>。[[2007年]]、民間人に与えられる韓国最高の勲章「無窮花章」が授与された<ref name="Sponichi20080123">。
[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2008/01/23/kiji/K20080123Z00001530.html 張本氏祝賀会でONと豪華3ショット - スポニチ Sponichi Annex]</ref><ref>[http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?newsid=9235 無窮花章受勲張勲氏を祝う 都内のホテルで - mindan]</ref>。韓国プロ野球創設の際の組織作り・人材派遣などの支援等、日韓のスポーツ界並びに在日韓国人社会の発展に貢献した功績によるものだった<ref name="yomiuri201589"/>。「無窮花章」は日本の[[勲等|勲一等]]にあたる<ref name="Sponichi20080123"/>。日本のスポーツ選手として韓国の文化勲章を受けた唯一の人物となる。
 
韓国の野球発展にも多大な功績を残し<ref name="mediacenter"/>、[[1982年]]から始まった[[韓国野球委員会|韓国プロ野球]]は、李容一初代事務総長、李虎憲同次長、張本の3人で立ち上げたものという<ref name="sponiti2009325">[[スポーツニッポン]]、2009年3月25日、5頁</ref>。張本は「わたしにとって日本プロ野球は『育ての親』、逆に韓国プロ野球にとってわたしは『生みの親』になる」と語っている<ref name="sponiti2009325"/>。
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=== 守備 ===
守備では主に、打撃への負担が比較的少ない左翼を守った。打撃や走塁においては優れた成績を残した張本だったが、守備は得意ではなく、とりわけ巨人時代にはファンから「守っても安打製造機」と揶揄されるほどお粗末なプレーが目立った。前述の通り、幼少時のヤケドの影響と高校時代の左肩の故障という二重苦のため、現役中は一貫して思うような守備ができなかったという。障害のため右手が完全に開かなかったため、特注のグラブで守備を行っていた。
 
このようなハンディがありながらも、守備率を示すRF(刺殺+補殺+失策)÷試合数の数値では、1964〜1967年(24歳〜27歳時)に4年連続で2点以上(これは平均以上の数値であり、2.5を越えれば一流と言われる)を記録し、1959年(19歳時)の1.41から大幅に上昇させている<ref name="baseballstats2011.jp">http://baseballstats2011.jp/archives/36039976.html</ref>。
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ただし、1975年にパリーグでDH制が導入されたため1年間守備が免除された後、巨人に移籍し左翼の守備に返り咲いた翌年の1976年以降は、守備力の衰えが顕著になる。例えば1966年(26歳時)には、外野部門(100試合以上出場)でRFが2.08(3位)、刺殺数233(4位)、補殺11(2位)、エラー1(2位)と高い数値を記録していたにもかかわらず、巨人に移籍した1976年(36歳時)にはRFが1.37(12位)、刺殺数167(9位)、補殺4(8位)、エラー7(13位)と、数値が大幅に下落している<ref name="baseballstats2011.jp"/>。
 
阪神との[[1962年の日本シリーズ]]第7戦の(1点リードから同点に追い付かれた)10回裏にベンチに下げられ、その後12回裏に日本一決定の瞬間を迎えるという経験をしている<{{#tag:ref>|[[水原茂]]監督曰く「点を取るゲームではなく点を取らせないゲームにしたいため、守備のうまい選手が必要だった」という</ref>。|group="注"}}。また、巨人時代、レフトへライナーやゴロが飛ぶと、遊撃手の[[河埜和正]]がカバーに入ることが多かった。リードして迎えた試合終盤には、[[守備固め]]の[[二宮至]]と交代させられることが何度もあった。長嶋監督に[[失策]]の理由を聞かれた時には、「あれは空中イレギュラーです」と答えていたという。
 
== 人物 ==
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NHKの番組で張本の右手を取り上げる企画が予定されたが、張本は拒否。その後、NHKの解説者を務めていた[[川上哲治]]にだけ、現役引退後の座談会で右手を見せたが、川上は「よくもそんな手で…」と涙を流しながら絶句していたという<ref>朝日新聞2013年10月7日夕刊『人生の贈りもの―張本勲』</ref>。
 
プロ野球出身者で直接の被爆により[[被爆者健康手帳]]を交付されたのは、張本と[[濃人渉]]の2人のみである<{{#tag:ref>|原爆投下後に被爆地に入った「入市被爆者」では[[岩本義行]]も交付を受けている。</ref>|group="注"}}
 
被爆者であることを、ずっと隠していた<ref name="sinbun"/>。思い出すのが怖くて野球に没頭し、バットを振り続けることで、当時の記憶を心の片隅に追いやってきたという。しかし2005年頃に「原爆の落ちた場所を知らない」とテレビ番組で発言した若者に怒りを覚え、被爆体験を語り始めるようになった<ref name="mediacenter"/><ref name="sinbun"/>。2006年8月15日放送の[[テレビ朝日]]系『[[徹子の部屋]]』に出演した際には、被爆体験や幼少期の生活、母に対する思いなどを語った。それをきっかけとして「われわれの世代が戦争を、そして原爆でやられた体験を語り残さなければならんのです」と答えたという。[[新潮社]]発行月刊誌『[[新潮45]]』[[2009年]]1月号『私と母』という連載記事にも取り上げられ後は多くのメディアで被爆体験を話している(取材・構成はライターが担当)<ref name="yomiuri201589"/><ref name="mediacenter"/><ref name="新潮4520091"/>
 
=== 現役時代 ===
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[[退場]]処分を受けたことは1度もないが、東映時代の1964年3月26日の阪急戦の9回表、張本は牽制球で三本間に挟まれ本塁に突入した際、捕手の[[山下健]]に体当たりした<ref name="日本プロ野球事件史">日本プロ野球事件史―1934ー2013、2013年、ベースボール・マガジン社、P86</ref>。この行為で[[足立光宏]]が「ひどいじゃないか」と言うと、張本は激高して足立を数回小突いた。[[ダリル・スペンサー]]が「ノープッシュ」と言うと、張本は岩下光一からバットを奪ってスペンサーを殴ろうとした。東映ナインがなだめ、一時はベンチに戻るも、またベンチからバットを持ち出してスペンサーにめがけて走り出し、これも寸前で止められ、大事には至らなかった<ref name="日本プロ野球事件史" />。
 
日本ハム時代と巨人時代に、それぞれ1回ずつ警察の取り調べを受けたことがある。暴言とおぼしき発言をされたとして試合前に[[城之内邦雄]](当時ロッテ)を殴った件と、1976年4月16日、宿舎に帰るために停まっていた巨人選手の乗ったバスが、試合中の判定トラブルから広島のファン500人に包囲された際、広島ファンが「張本に殴られた」と騒ぎ立てた件である<ref name="新潮4520091"/><ref name="東スポ2008117" >東京スポーツ・2008年1月17日付 3面「加藤初・鉄仮面の告白」第7回</ref>。この広島での事件は、張本が[[セ・リーグ]]の巨人に移籍して最初の広島遠征だった日で、故郷に錦を飾っただけに母や兄も招待していた<ref name="在日はなぜ" /><ref name="週刊朝日197557" >「ジャイアンツ"張本暴行事件"にみる現代版"藪の中"」『週刊朝日』1975年5月7日号、朝日新聞出版、p22-23</ref>。ところが故郷に錦を飾るどころか、張本は広島ファンに目の敵にされ、民族蔑視的なヤジを集中的に浴びた<ref name="在日はなぜ" /><ref name="週刊朝日197557" />。6-4と広島リードの9回表に巨人が1点を返し、なお二死一、二塁から[[山本功児]]がセンター前ヒットを放ち、同点と思われたが、[[山本浩二]]の好返球と[[水沼四郎]]の好ブロックで二塁ランナー[[土井正三]]が本塁タッチアウトになった<ref name="東スポ2008117" />。微妙な判定に長嶋監督以下、コーチ陣、巨人ナインが本塁上の審判に詰め寄り猛抗議を繰り広げた<ref name="東スポ2008117" /><ref name="週刊朝日197557" />。それに怒った広島ファンがグラウンドに飛び出し長嶋監督に殴りかかろうとした<ref name="東スポ2008117" />。これは張本と[[原田治明]]、[[黒江透修]]コーチらがブロックし事なきを得たが、広島ファン500人が巨人の帰りのバスを取り囲んだ<ref name="東スポ2008117" />。広島ファンは口々に「張本あやまれ!」と連呼。広島出身の張本が宿敵・巨人に移籍したのを快く思わないファンも多く、また前年球団創立初のリーグ優勝を果たした広島だったが、この年は開幕ダッシュに失敗し、この試合まで5敗2分けと低迷し、広島ファンのフラストレーションが溜まっていた<ref name="東スポ2008117" />。張本が特に標的にされ、帰りのバスに乗り込む際に暴漢が張本を襲った<ref name="新潮4520091"/>。相手を避けるために張本が手で払いのけたとき、後輩選手がバットで暴漢をコンと叩いたら頭が割れて血が出た。すると周囲のファンが「張本にやられた」と騒ぎ始めた<ref name="在日はなぜ" /><ref name="東スポ2008117" />。張本は傷害容疑で事情聴取されたが自分をかばってくれた選手の名を明かさなかった<ref name="新潮4520091"/>。母や兄も現場をしっかり見ていたから「やったのは自分じゃないとなぜ言わないのか」と責めたが「私を助けようとした後輩の名前はいえない」と頑なに話さなかった<ref name="在日はなぜ" />。後に暴漢が[[槌田誠]]に頭を叩かれる場面を偶然撮影した写真が出て張本の嫌疑は晴れた<ref name="在日はなぜ" /><ref>スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(15)、2008年11月25日</ref>。しかし疑われたときに出た山のような報道に比べると真実を伝える記事はごく僅かだった。この事件で張本が最もショックを受けたのは[[在日本大韓民国民団|民団]]の幹部が「やったんなら、手錠をかけて刑務所へ連れていけ」と発言したことだったという<ref name="在日はなぜ" />。
日本ハム時代と巨人時代に、それぞれ1回ずつ警察の取り調べを受けたことがある。暴言とおぼしき発言をされたとして試合前に[[城之内邦雄]](当時ロッテ)を殴った件と、1976年4月16日、宿舎に帰るために停まっていた巨人選手の乗ったバスが、試合中の判定トラブルから広島のファン500人に包囲された際、広島ファンが「張本に殴られた」と騒ぎ立てた件である。
 
プライベートでは[[傷害罪]]で現行犯逮捕されている。1965年7月9日の午後10時、港区榎坂町4の溜池通りで車を運転していた張本が[[タクシー]]とぶつかりそうになり、張本はタクシーを蹴り上げて出てきた運転手に暴行を加えて1週間のけがを負わせた。後続車の飲食業の男性2人が仲裁に入ったが、張本はこの2人も殴って1週間のけがを負わせて検挙された。張本自身は相手の帽子を張っただけで手は出していないと話している<ref>『男気万字固め』p120-121</ref>。この年、張本は[[1965年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]を辞退している。
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=== 交友関係 ===
==== 王貞治との関係 ====
プロの同期であり同学年、互いに出自を日本以外の国に持ち、巨人時代にはともにクリーンアップも形成した王貞治とは、プロ入り当初からの親友同士である。新人の頃は、張本の広島の実家に王が泊まったこともある<ref name="週刊朝日19751212" />
 
実績を残し始め、やや慢心が見えていた1963年のオールスターゲームでの打撃練習で、王が張本とは明らかにレベルの違う打球を連発していた。張本はその打球を見て「何を俺は一流打者面をして甘ったれていたんだ」と改心したという<ref name="bt1339" />。王が長年の低迷を乗り越え、監督として福岡ダイエーホークスを悲願の初優勝に導いた際には、「今までワンちゃん(王貞治)を馬鹿にしてきた奴は、皆坊主になって謝れ」と言い放った。また、雑誌の企画などで「プロ野球最強打者は?」という質問には、いつも王を挙げる程彼の実力を認めている。
 
1979年オフ、網膜の病気で視野が狭くなり成績が落ちたため<{{#tag:ref>|当時は年齢による衰えと思われていた。後に視野は回復した。</ref>|group="注"}}、ロッテへの放出が内定していた。ところが巨人軍の納会の席で、それまで一回もフロントに意見したことのなかった王が、当時オーナーの[[正力亨]]に「張本君に巨人で3000本安打を達成させてあげてください」と張本の巨人残留を必死に直訴した。この王の発言に正力は「王君どうしたんだ?酔っているのか?」と驚いたが、王は「いえオーナー、私は酔っていません、お願いです」と迫った。張本は思いがけない展開に感動のあまり、泣きながらそれを止めたという。後年「それ以降、ワンちゃん(王貞治)に対しては、どんなことがあっても絶対服従と誓った」と語っている。さらに、2009年のワールド・ベースボール・クラシック監督には王しかいない、と主張<し{{#tag:ref>|実際は読売ジャイアンツの[[原辰徳]]が監督に就任し、日本代表を連覇に導いている。</ref> し|group="注"}}、王に対しても「([[胃癌]]手術を終えた王に)何かあったら、私があんたの面倒を一生見るから」とまで伝えたという。
 
[[メジャーリーグベースボール]]や[[ギネス・ワールド・レコーズ]]に対し、王が放った868本の本塁打記録を正式な世界記録として認定するようにテレビ出演時に度々訴えている。
 
==== 弟分・大杉勝男との関係 ====
東映時代から[[大杉勝男]]と[[クリーンナップ]]を組んだ。大杉は境遇が似て公私で付き合出身も近かったこともありよくかわいが深かった<ref name="時代の証言者16" >読売新聞連載『時代の証言者 最多安打 張本勲』(16)、2009年2月12日</ref>。張本はテスト生だった大杉の打撃を見て、「こいつは三冠王を取る」と断言し、後日「大杉に感じた才能は、後の[[落合博満]]にも感じたものと共通した」と打ち明けるほど、当時の打撃コーチ・[[藤村富美男]]と同じく、いち早く大杉の才能を見出した一人でもある<ref name="時代の証言者16" /><ref>『別冊宝島 珠玉の好敵手』</ref>。
 
東映時代、宿舎でメンバーがプロレスごっこで遊んでいる時、目付け役の張本が「お前ら何をしとる! 全員そこに並べ!」と整列させ、鉄拳を見舞ったが、大杉だけは「お前はあっちにいっとれ」と制裁を避けたほど、大杉を可愛がっていた<ref>『大杉勝男のバット人生』</ref>。張本は大杉の死後、「永い付き合いだった。もう兄弟のように。これほど純粋で素朴なホームランバッターは過去にいませんでしたね。それと、新聞記者泣かせなんですよね。だいたい8回裏9回表は勝負が決まるんですよね、だから流れをみて原稿を書いちゃうんですよね。そこへ同点2ラン逆転3ランばっかり彼(大杉)はやるもんですから、原稿を洗いざらいしなくちゃならない。だから新聞記者泣かせの勝負強いバッターだったですね。」と振り返っている<ref>1996年放送『知ってるつもり!?』の番組内より</ref>。
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|accessdate = 2015-2-26
|quote =
}}</ref><ref>東京スポーツ・2009年1月14日付 3面「大豊泰昭・八転び七起き」第37回</ref>。
}}</ref>。
 
=== 在日韓国人として ===
張本はプロ入り前はもとより、幼少期から在日韓国人を隠さずに名乗っており、引退後も日本に帰化していない。そればかりでなく、帰化ならびに日本国籍取得の意思のないことを公言している(国籍は[[大韓民国]])。これは、日本に渡って来て死ぬまで日本語を覚えようとしなかった母親の影響が大きいためであった<ref name="hari02">[http://shinsho.shueisha.co.jp/column/zainichi2/001/ 在日二世の記憶 001 張本勲]集英社新書</ref>。しかし当人は日本語を話し、且つ日本語名を名乗っているため、張本が日本の人間だと思う日本人も多い。現代では、自らを在日韓国人と明かす者が増えてきているが、張本の時代に始めから出自を公表した人間は極めて稀である<ref name="在日はなぜ" />。その一方で、{{by|2004年}}のアテネオリンピックに出場する[[野球日本代表]]の選手たちに対して「日本の国威を背負っていると思って欲しい」と語っていた。
 
民族教育は受けなかったが、家庭内では幼い頃から韓国語で育ち、韓国語に堪能である。[[1991年]]に日本で行われた[[日韓プロ野球スーパーゲーム|第1回日韓野球スーパーゲーム]]の中継では、韓国テレビ局側の野球解説者として出演した。
 
同胞のプロレスラー・[[力道山]]は張本を可愛がり<ref name="男気92" />、力道山が東京にいる時はいつもついて回った<ref name="我が道13" >スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(13)、2008年11月23日</ref>。初めて力道山の邸宅に招かれ、六十畳ほどある居間で飲んでいると、力道山はお手伝いを帰してドアに鍵をかけた。ラジオのつまみを回すと韓国の放送が流れてきて、力道山は軽音楽に合わせて機嫌よく踊り始めた。出自を伏せていた力道山から韓国人<{{#tag:ref>|ただし、力道山が生まれ育ったのはのちの[[朝鮮民主主義人民共和国]]である。</ref> |group="注"}}だと告げられると、張本は「噂は本当だったんだ」と嬉しくなり、高揚した気分で「韓国人なら韓国人と言えば良いじゃないですか」と口に出した<ref name="我が道13" />。すると力道山は「お前は植民地時代の苦労をろくに知らないから、そんなことが言えるんだ! 生意気なこと言うな!」と激怒して張本の肩を突き飛ばした<ref name="hari02" /><ref name="我が道13" />。その後、2人の間で民族の話が出ることは2度となかったという<ref>『力道山がいた』、[[朝日新聞社]]、[[村松友視]]、2000年3月、306ー308頁</ref>。
 
張本は力道山が好んで使った「闘魂」という言葉が好きで、一時は色紙に書いていたが、野球選手に「闘魂」は似合わないと思い、止めたという<ref name="男気92"/>。また、日本橋人形町にあった[[日本プロレス]](力道山の所属団体)の道場で、[[バーベル]]を使った筋力トレーニングをしていた。当時は[[アントニオ猪木]]がまだ[[モヤシ]]のような体であったため、[[ジャイアント馬場]]が野球を辞めて数年の頃までは、張本が一番力が強かった<ref name="男気112">『男気万字固め』p112-113</ref>。力道山の課す練習は過酷で、[[金田正一]]も呼ばれてジムへ行ったが、3日で止めたという<ref name="男気112"/>。
 
韓国プロ野球コミッショナー特別補佐官として<ref name="ugbc"/><ref name="simoda"/>、KBO発足に先立ち、当時の[[コミッショナー (日本プロ野球)|日本プロ野球コミッショナー]]・[[下田武三]]に「日本球団の韓国籍選手を新発足の韓国プロ野球にまわして欲しい」と協力を要請した。これに対する日本側の好意的反応を確かめたのち、KBOは、日米両国との間に選手協定の締結交渉を行い、まず野球の先進国たるアメリカとの間で最初の選手協定を結び、次に日本との間で日韓協定を1983年に締結させた<ref name="simoda"/>。また韓国野球界との太いパイプを生かして、日本のプロ野球でプレーした在日選手を数多く母国に紹介した<ref name="在日はなぜ" />。「先輩!自分のおじいちゃん、おばあちゃんの国でやってみたいんです」と言われ「そうか、やってくれるか」と送り出し、在日の選手は韓国で大歓迎されると思っていたら、母国で「パンチョッパり(半分だけ日本人)」などと疎んじられ「我々の国籍は日本海ですか」と訴えられた<ref name="在日はなぜ" />。
 
来歴に記したように、韓国の野球界にも多くの支援を行った<ref name="yomiuri201589"/>。[[長嶋茂雄]]は「ぼくは張が韓国プロ野球実現のために努力していることに対して、陰ながら拍手を送っていたんです」と韓国政府の要請を受けて<ref name="文春1982211">「張本勲がゆく番外篇 聞きにくいことばかり聞いてみた 長嶋茂雄の『わが胸中』 人生はトータル。一年二年がなんだ!」『[[週刊文春]]』1982年2月11日号、[[文藝春秋]]、p136-139</ref>張本の仲介で1982年1月、韓国[[ソウル]]で野球セミナーを行った<ref name="文春1982211"/>。韓国球界の至宝・重鎮と言われ、[[中日ドラゴンズ]]で活躍した[[宣銅烈]]も、張本の前では直立不動だったという。
 
その一方、韓国球界に渡った在日韓国人が、通過儀礼である兵役の義務を果たしていないことなどを理由に、差別を受けてしまう負の問題にも切り込み、(韓国プロ野球の)シーズンオフの関係者会議に「同じ韓国人で韓国の言葉が分からないと誰が言ったのか。日本で生まれ教育されて、習う機会がどこにある?それをパンチョッパリ、半日本人だといった人の顔が見たい。『お前たち、よく帰ってきたな。随分苦労したな』と応援してくれるのが普通なのに『日本でのうのうと暮らしやがって、我々は苦しい思いをしたんだ』なんぞと冗談じゃない。あなた方は小さな国ひとつ守れなかったじゃないか、しかもまっぷたつに切られて」と怒鳴り込んだことがある<ref>[[船戸与一]]対談集「諸士乱想」p16</ref>。
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=== 俳優 ===
プロ野球選手時代から、俳優として何度か[[映画]]に出演することもあるした。東映フライヤーズ在籍中の[[1966年]]に球団<親会社{{#tag:ref>|厳密には、所有権を持つ東急ベースボール倶楽部株式会社([[東京急行電鉄]]の[[子会社]])から運営権を受託された東映興業株式会社。</ref> 親会社|group="注"}}の[[東映]]配給で公開された『地獄の野良犬』では、監督の[[水原茂]]やエースピッチャーの[[尾崎行雄 (野球)|尾崎行雄]]とともに特別出演を果たしている。現役引退した1981年に東映時代から「兄貴」と慕った[[萬屋錦之介]]に口説かれて<ref name="文春1981123"/><ref name="サンデー毎日1981126">「必殺の白刃はバットに通ず 張本の扇流剣法」『サンデー毎日』1981年12月6日号、毎日新聞出版、p193-195</ref>、萬屋主演の「[[新春ワイド時代劇]]」『[[竜馬がゆく#1982年版|竜馬がゆく]]』([[テレビ東京|東京12チャンネル]]、1982年1月2日放送)に[[新選組]]局長・[[近藤勇]]役で友情出演した<ref name="文春1981123"/><ref name="サンデー毎日1981126"/>。その後も、[[ヤクザ映画]]に複数出演したほか、名球会の協力により制作された野球映画『ドリームスタジアム』にも同会員のひとりとして出演した。また東映つながりで[[菅原文太]]と付き合いがあり、『[[仁義なき戦い]]』の菅原の[[広島弁]][[セリフ]]を指導したと話している<ref>[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/12/02/kiji/K20141202009388190.html 張本勲氏 東映つながりで親交 「広島弁指導させてもらった」]</ref>
 
== 詳細情報 ==
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=== 記録 ===
* 通算3085安打 ※日本記録。
* 通算500本塁打300盗塁 ※史上唯一。
* シーズン打率.350以上を両リーグで記録(東映=1970年、1972年 巨人=1976年)※史上唯一。
* シーズン打率3割以上:16回(1960年 - 1962年、1964年、1966年 - 1974年、1976年 - 1978年)※日本記録。
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* [[わたしが子どもだったころ (テレビ番組)|わたしが子どもだったころ]]([[NHKデジタル衛星ハイビジョン|NHK BShi]]…2008年9月3日、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]…2008年10月6日)
* [[スタジオパークからこんにちは]](NHK総合テレビ…2011年2月3日)
* [[竜馬がゆく#1982年版|竜馬がゆく]]([[テレビ東京]]・・・1982年1月2日) - [[近藤勇]]役
 
=== 出演映画 ===
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* [[極道・高山登久太郎の軌跡 鉄 KUROGANE]](2004年)
 
== ==
{{脚注ヘルプ}}
<references group="注"/>
 
== 出典 ==
{{reflist|3}}