「カール1世 (オーストリア皇帝)」の版間の差分
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|人名=カール1世
|各国語表記={{Lang|de|Karl I.}}
|君主号=[[オーストリア
|画像=Karl of Austria.jpg
|画像サイズ=230px
|画像説明=カール1世
|在位=[[1916年]][[11月21日]] – [[1918年]][[11月12日]]
|戴冠日=[[1916年]][[12月30日]]、於[[マーチャーシュ聖堂]](ハンガリー国王)
|別号=
|全名={{Lang|de|Karl Franz Joseph Ludwig Hubert Georg Maria von Habsburg-Lothringen}}<br />カール・フランツ・ヨーゼフ・ルートヴィヒ・フーベルト・ゲオルク・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
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|サイン=
}}
'''カール1世'''({{Lang-de|Karl I.}}、[[1887年]][[8月17日]] - [[1922年]][[4月1日]])は、
大伯父[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の後継者として[[オーストリア=ハンガリー帝国]]を統治した。[[第一次世界大戦]]に敗戦したことを受けて「国事不関与」を宣言したが、自身の退位は認めなかった。皇室財産をほとんど共和国政府に没収された後、2度にわたって[[カール1世の復帰運動]]を企てたが失敗し、[[ポルトガル]]領[[マデイラ島]]に流されて困窮の中で病死した。
[[カトリック教会]]への篤い信仰心を持ち、[[フランス]]首相[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]からは「[[中欧]]における教皇」と、時の[[ローマ教皇]][[ベネディクト15世]]からは「私のお気に入りの子」と呼ばれ、[[20世紀]]の[[国家元首]]として初めて[[福者]]に認定された。
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
[[File:Persenbeug, Lower Austria, Austro-Hungary-LCCN2002708373.jpg|thumb|left|210px|[[1895年]]頃の{{仮リンク|ベルゼンボイク城|de|Schloss Persenbeug}}。]]
[[1887年]][[8月17日]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の皇族[[オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ|オットー・フランツ大公]]と[[ザクセン王国|ザクセン]]国王[[ゲオルク (ザクセン王)|ゲオルク]]の娘[[マリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン|マリア・ヨーゼファ]]の長男として、[[ドナウ川]]の河畔に位置する{{仮リンク|ベルゼンボイク城|de|Schloss Persenbeug}}に生まれる。
当時は、皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の
=== 少年期 ===
[[File:Otto Franz Austria Maria Josepha.jpg|thumb|left|210px|[[1900年]]頃のオットー・フランツ大公一家の写真。左下の少年がカール。母に抱かれているのは弟[[マクシミリアン・オイゲン・フォン・エスターライヒ|マクシミリアン・オイゲン]]。]]
一家の領地である{{仮リンク|ヴィラ・ヴァルトホルツ|en|Villa Wartholz}}や父オットー・フランツ大公が帝国陸軍の司令官を務めていた[[プラハ]]で、カールは特に母マリア・ヨーゼファの寵愛を受けて育った。父オットー・フランツは素行にやや問題のある大公として知られ、軍帽と剣以外のものを一切身につけずに[[ホテル・ザッハー]]のロビーを横切るという事件を起こしたこともあった<ref>ホフマン(2014) p.280</ref>。そのため母マリア・ヨーゼファは、カールたちを父親の悪い影響から避けるために腐心したという。
[[ドミニコ会]]士のNorbert Geggerleによって宗教教育が開始され、のちにGottfried Marshall司教が担当を交代した。この宗教教育によってカールは、[[ローマ・カトリック教会]]への篤い信仰心を持つようになった。カールは家の礼拝堂での祈りを欠かさず、毎日夕方になると良心の糾明をし、Tafertの[[聖母マリア]]の聖堂に行くのを好んだ。ある日、{{仮リンク|ライヒェナウ|en|Reichenau an der Rax}}の領民が火事で家を失って困っていることを知ったカールは、自分の貯金箱を壊して貯めたお金をその家族に渡した。またある日、無造作に投げた木の枝が聖母マリアに捧げられた聖堂に当たってしまい、[[神の母]]を傷つけたという思いで泣き出してしまったという。
[[1896年]]、祖父カール・ルートヴィヒ大公が他界し、伯父フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者に決定した。しかしフランツ・フェルディナント大公は、将来の皇后としては身分不相応の伯爵令嬢[[ゾフィー・ホテク]]と恋に落ち、子孫の帝位継承権を放棄することを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に誓ったうえで[[1900年]]に[[貴賤結婚]]した。これによって、将来フランツ・フェルディナント大公からその弟オットー・フランツ大公の血脈に帝位が移ることがほぼ確定的になった。
[[1903年]]、16歳のときに帝国陸軍に入隊して[[大佐]]となり、同時に[[金羊毛騎士団]]に入団した。この騎士団の団員はどこにいても毎日[[ミサ]]に参加できる特権があり、カールはこれを気に入っていた。カールは、彼らの中で自分の信仰についてためらうことなく公言したという。[[1906年]]、不摂生が過ぎたために父オットー・フランツ大公が41歳で早世すると、カールの帝位継承順位は伯父フランツ・フェルディナント大公に次いで第2位となった。
=== パルマ公女ツィタとの結婚 ===
[[File:Hochzeit Erzh Karl und Zita Schwarzau 1911c.jpg|thumb|right|300px|[[1911年]][[10月21日]]、[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]公女との結婚式。写真右側の老人は皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]。この日、[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]と[[ブルボン=パルマ家]]のほとんどの人々が一堂に会した<ref name="江村(2013) p.388"> 江村(2013) p.388</ref>。]]
[[マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル]]の用意周到な計画によって、[[1909年]]に[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]と出会う<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.53"> グリセール=ペカール(1994) p.53</ref>。マリア・テレサは亡き祖父カール・ルートヴィヒ大公の3度目の妻で、すなわちカールの義理の祖母にあたり<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.54"> グリセール=ペカール(1994) p.54</ref>、さらにツィタにとっては母の妹であった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.53"/>。カールとツィタは幼少期に何度か会ってはいるが、まともに顔を合わせたのはこの時が初めてだった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.54"/>。カールとツィタはこれ以降、宮廷内のほとんどの人間に気付かれることなく親密な交際をするようになった。
将来の皇帝となるであろうカールに、フランツ・ヨーゼフ1世は自身の孫娘[[エリーザベト・フランツィスカ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ|エリーザベト・フランツィスカ]]を嫁がせようと考えたが、血縁関係が近すぎることを心配するカールの母マリア・ヨーゼファの反対に遭った<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.60"> グリセール=ペカール(1994) p.60</ref>。そこでフランツ・ヨーゼフ1世は、今度は[[オルレアン家]]の血を引く[[デンマーク]]王女[[マルグレーテ・ア・ダンマーク (1895-1992)|マルグレーテ]]をカールと結婚させようと考えた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.60"/>。
[[1910年]]秋、カールはフランツ・ヨーゼフ1世に呼び出され、そろそろ自分に合った結婚相手を決定するように命令された<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.61"> グリセール=ペカール(1994) p.61</ref>。結婚相手とする女性には、「カトリック信者であること」「現在または過去において統治に与った君主の子女」という2つの条件が付けられていた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.61"/>。[[1911年]]5月中旬、カールはツィタに求婚し、婚約に至った。マリア・ヨーゼファから婚約の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は、カールを本気でデンマーク王女と結婚させようと考えており、ツィタと真剣に交際していることを知らなかったため、大いに驚いた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.62"> グリセール=ペカール(1994) p.62</ref>。しかし旧[[パルマ公国]]の公女でカトリック信者であるツィタに老帝は納得し、この婚約を祝福した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.62"/>。
[[1911年]][[10月21日]]、{{仮リンク|シュヴァルツアウ|de|Schwarzau am Steinfeld}}の城館において、カールとツィタの結婚式が挙行された。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はよほど嬉しかったとみえて、異例なことにカメラマンの注文にも喜んで応えた<ref name="江村(2013) p.388"/>。翌[[1912年]][[11月20日]]、長男[[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]]が誕生する。
=== 第一次世界大戦、勃発 ===
[[File:Prestolonaslednik Karel na tirolski fronti.jpg|thumb|right|230px|[[チロル]]前線を視察するカール。(1915年)]]
[[File:Bosniaks in Italy 1915.jpg|thumb|right|230px|[[イゾンツォ川]]前線の[[ボスニア]]人部隊を視察するカール。(1915年)]]
表面的には平穏な日常が続いていたが、[[1914年]][[6月28日]]、[[サラエボ事件]]で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたのを契機として、[[第一次世界大戦]]が勃発した。サラエボ事件当日、食事の時間にいくら待っても主食が出てこないのを不審に思ったカール夫妻は、やがて侍従が電報を持って入ってきたのを見た<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.96"> グリセール=ペカール(1994) p.96</ref>。その電報に目を通したカールは、顔面蒼白になって「フランツ伯父が暗殺された」と一言ツィタに言ったという<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.96"/>。
やがてカールのもとには時のローマ教皇[[ピウス10世]]からの手紙が届いた。カールは皇帝にこの戦争の危険性を十分に認識させるようにローマ教皇から助言されたが、しかし当時カールはウィーンの政治中枢から一貫して外されており、一度たりとも開戦についての意見を求められたことはなかった。[[セルビア王国]]への[[オーストリア最後通牒|最後通牒]]についても、カールはある銀行筋からの電話で知ったありさまだった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.105"> グリセール=ペカール(1994) p.105</ref>。カールは新たな皇位継承者になったにも関わらずこのような扱いを受けていることに悲憤したが、のちにこれはカールに開戦責任が全くないことを証明した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.105"/>。
参謀本部長[[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]は、開戦後もカールに活躍の場を与えようとしなかった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.113"> グリセール=ペカール(1994) p.113</ref>。カールの日程は歓迎会、謁見、練兵場への訪問などの実働を伴わない公務で埋められていたが、[[1915年]]7月にようやく皇帝の側近に任命され、決済の済んだ報告書を見せられるようになった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.113"/>。カールはオーストリア首相とハンガリー首相から政治の講義を受けるようになったが、この生活は長続きしなかった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.114"> グリセール=ペカール(1994) p.114</ref>。若い大公を側近から外すよう求める声に、フランツ・ヨーゼフ1世が屈してしまったのである<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.114"/>。そしてカールは新設のイタリア第20部隊に派遣されることになった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.114"/>。
[[イタリア戦線 (第一次世界大戦)|イタリア戦線]]においてカールは、[[イゾンツォの戦い]]の際に、皇位継承者でありながら自ら水中に飛び込んで川に溺れかけた男を助けた。また、従軍司祭であったロドルフォ・スピッツルによれば、アシエロへの過酷な行軍の中で、傷のために歩行不可能となった兵士を助けるためにとりなしたという。
=== 老帝の崩御、即位 ===
[[File:Funeral Procession for Emperor Franz Josef 1916.jpg |thumb|right|300px|[[カプツィーナー納骨堂]]へのフランツ・ヨーゼフ1世の葬送行列のなかの新皇帝「'''カール1世'''」。従来は故皇帝の棺の後ろに立つのは新皇帝のみで、その後に大公・皇后という順序であったが、カールは慣例化した様式を廃止し、皇后ツィタ・皇太子オットーと並んだ<ref>グリセール=ペカール(1994) p.125</ref>。]]
[[1916年]]11月12日、イタリア戦線にいたカールは、フランツ・ヨーゼフ1世の体調悪化の報を受けてウィーンに帰還した。同月21日の午前には、老帝は高熱を発しながらも執務室で書類に目を通しており、カール夫妻が面会に来たと聞いて軍服に着替えようとする元気はあった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.120"> グリセール=ペカール(1994) p.120</ref>。しかし同日の午後になると、老帝はため息をつきながらこう語ったとされる<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.120"/>。「朕は、多事多難な折に帝位に就き、さらに困難を極める時期に帝冠を譲り渡さねばならなくなった……」。同日夜21時5分、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は86歳で崩御し、カールはオーストリア皇帝「'''カール1世'''」と呼ばれることとなった。
新皇帝となったカールは、ただちに宮廷改革に取りかかった。仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れたり、勤務形態や社交形式などを改めさせた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.127"> グリセール=ペカール(1994) p.127</ref>。[[ハンガリー人]]の官吏には母国語で話すことを許し、それまで皇帝との謁見の際に義務付けられていた[[燕尾服]]の着用を不要とするなどした<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.127"/>。侍従武官{{仮リンク|アルバート・マルグッティ|de|Albert von Margutti}}はカール1世の一連の改革について、「移行措置などまったく聞き入れず、ハリケーンのごとし」と述べている<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.128"> グリセール=ペカール(1994) p.128</ref>。
先帝フランツ・ヨーゼフ1世が頑迷なまでに日常生活の形を崩そうとしなかったのに対して、カール1世は「不快である」の一言で計画を中止にすることも多々あった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.128"/>。多くのことを即時即決で行ったため、「思いつきのカール」と宮廷であだ名されるようになった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.128"/>。
1916年12月30日、カールはハンガリー国王「'''カーロイ4世'''」として即位することとなった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.139"> グリセール=ペカール(1994) p.139</ref>。[[聖イシュトヴァーンの王冠]]を戴かなければ正統なハンガリーの統治者とは認められないため、戦時中にも関わらず荘厳華麗な即位式がブダペストの[[マーチャーシュ聖堂]]で挙行された<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.139"/>。この即位式においてカールはこう宣誓した。「ハンガリーとその周辺諸国の国境を、我々はこれまで通り存続させ、縮小させることなく、可能な限り拡大していこう」と<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.146"> グリセール=ペカール(1994) p.146</ref>。カールは皇族時代にひそかに帝国の完全連邦化を構想していたが、この宣誓は明らかにカールが念頭に置いていた新体制を阻害するものだった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.146"/>。
{{Gallery
|File:Karloath.jpg|[[マーチャーシュ聖堂]]で挙行された、ハンガリー国王「'''カーロイ4世'''」としての即位の宣誓。
|File:Kroenung Budapest Karl und Zita 1916a.jpg|ハンガリー国王・王妃・王太子となったカール・ツィタ・オットー。
}}
=== ジクストゥス事件 ===
[[1917年]]3月23日夜、カールは{{仮リンク|ラクセンブルク城|en|Laxenburg castles}}において、皇后ツィタの二人の兄[[シスト・ディ・ボルボーネ=パルマ|パルマ公子ジクストゥス]]と[[サヴェリオ・ディ・ボルボーネ=パルマ|グザヴィエ公子]]と密談した。カールが彼らと密談した理由は、あくまで勝利のみを追求する同盟国ドイツ抜きに、オーストリア=ハンガリー帝国と英仏の単独講和を締結するためであった。ドイツ帝国はまだしも、オーストリア=ハンガリー帝国の食糧事情は深刻で、もはや戦争を続行できるほどの国力が残っていなかったのである。
カールは前線の兵士や窮乏生活に忍従している国民のことを気をかけており<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.160"> グリセール=ペカール(1994) p.160</ref>、証言によれば戦場を訪問した際にカールは思い余って落涙したことが何度もあるという<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.160"/>。戦争を終わらせたいという思いからカールは単独講和を試みたのだが、彼らに渡したこの時の手紙が、のちにヨーロッパ中を騒然とさせることになる<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.158"> グリセール=ペカール(1994) p.158</ref>。
*ドイツ帝国によるフランスへの[[アルザス・ロレーヌ]]地方返還の支援
*ベルギー復興の支援
*[[アドリア海]]への通行権を伴った[[セルビア王国]]の独立の保証
*ロシア皇帝[[ニコライ2世]]退位後の[[サンクトペテルブルク]]の状況が明確になった時点での、[[コンスタンティノープル]]のロシアへの割譲の賛成
といった内容であり、さらに手紙には次のように明記してあった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.158"/>。
{{Quotation|朕はジクストゥスを通して、フランス大統領[[レイモン・ポアンカレ]]氏に内密に通告する。同盟国の皇帝として、アルザス・ロレーヌ地域のフランスへの返還は正当であると認め、あらゆる手段を行使して、これを支援する考えである。}}
フランス政府は、パルマ公子を仲介としてのオーストリア=ハンガリー帝国との講和を、フランツ・ヨーゼフ1世の存命時から画策していた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.163"> グリセール=ペカール(1994) p.163</ref>。パルマ公子に皇位継承者カールと接触させようとフランス政府は考えていたが、当時カールには何の権限もなかったために計画のみで終わった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.163"/>。カールが即位すると、フランスはパルマ公子に交渉の開始を促した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.163"/>。つまり、この単独講和交渉は、フランスとオーストリア=ハンガリーの思惑が一致してのものであった。
しかし、1918年にフランス首相[[クレマンソー]]がこの秘密交渉を暴露してしまった。当初カールは手紙を書いたこと自体を否定し<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.182"> グリセール=ペカール(1994) p.182</ref>、次にその手紙の存在を認め、「フランスの正統な返還要求の支援」については記述がなかったと言ってしまった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.182"/>。ドイツ軍部はこのカールの秘密交渉に激怒し<ref name="バウアー(1989) P.89"> バウアー(1989) P.89</ref>、またオーストリア=ハンガリーでは虚偽の発言を重ねるカールのせいで帝室の信望は失墜した。皇帝夫妻が同盟国ドイツを裏切ったことは、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった<ref name="バウアー(1989) P.89"/>。この皇帝の失態を好機と見た反君主制活動家の[[プロパガンダ]]も広まり、敵国イタリアとフランスの双方にルーツを持つ[[ブルボン=パルマ家]]出身の皇后ツィタを非難する声も高まった。
=== 帝国諸民族の離反 ===
[[1918年]]、[[中央同盟国|同盟国]]側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反([[チェコスロバキア]]、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]などが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。オーストリアの休戦要請に対する協商国からの返答がない中、カール1世は帝国内の諸民族と直接交渉しようと試みた。10月12日、帝室の保養地[[バーデン]]にすべての民族の32名の代議士を招き、「諸民族内閣」を発足させようと試みた。しかし[[チェコ人]]と[[南スラヴ]]人は「オーストリア政府内でこれ以上何もすることはない」と答えた<ref>バウアー(1989) P.112</ref>。[[ボヘミア]]、[[クロアチア]]、[[ガリツィア]]などで暴動が起きようとしているのを知ったカールは、これを食い止めるため10月16日に連邦制への国家改造の宣言に署名した<ref>バウアー(1989) P.113</ref>。
{{Quotation|オーストリアを、すべての種族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家にすべきである。このことにより、ポーランド独立国家とオーストリアのポーランド地域の統一は、いかなる理由によっても侵害されてはならない。}}
カール
=== 「国事不関与」の宣言 ===
[[File:Verzichtserklärung Karl I. 11.11.1918.jpg|thumb|right|210px|[[シェーンブルン宮殿]]で署名したオーストリア版「国事不関与」の文書。]]
[[File:Eckartsaui nyilatkozat.jpg|thumb|right|210px|{{仮リンク|エッカルトザウ宮殿|de|Schloss Eckartsau}}で署名したハンガリー版「国事不関与」の文書。]]
11月9日、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が退位を宣言した。その直後ドイツでは[[ドイツ社会民主党]]の主導する政権が誕生したことを受けて、[[オーストリア社会民主党]]はカール1世の退位を要求し始めた<ref>ジェラヴィッチ(1994) p.131</ref>。{{仮リンク|キリスト教社会党 (オーストリア)|label=キリスト教社会党|de|Christlichsoziale Partei (Österreich)}}は王党派であったが、彼らも最終的には皇帝退位に同意した。
11月11日午後3時、[[シェーンブルン宮殿]]内の「青磁の間」において、カール1世は次の声明文に署名した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.226"> グリセール=ペカール(1994) p.226</ref>。
{{Quotation|今般の戦争責任は朕の負うところではないが、帝位継承以来、忌まわしい戦禍から国民を救出すべく不断の努力を重ねてきたつもりである。国民が憲法に則った国民生活を確立し、独立国家発展への道を開拓することに対して、これを阻止する考えはない。わが国民を愛する心に変わりはなく、自由にはばたかんとする国民の前途に、朕自身が障害となることは本望ではない。朕はドイツ系オーストリア暫定政府が決定した今後の国家体制を以前から承認してきた。
国民は今後、政府代表者の手に委ねられよう。'''朕はすべての国事行為の遂行を断念するとともに、現内閣の解散をここに宣言する。'''
国民が一致融和の精神のもとに、新体制を確立していくことを切に望む。
国民の至福が、朕の当初からの篤い祈願であり、国内の平穏によってのみ、戦禍は癒されよう。}}
これは{{仮リンク|ハインリッヒ・ラマシュ|de|Heinrich Lammasch}}首相と内務大臣ガイヤーの起草によるもので、カールは同日の午前11時頃にこの草稿を見せられた後、「これは退位声明ではないか!朕は退位なぞするつもりはない!」と激高した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.222-223"> グリセール=ペカール(1994) p.222-223</ref>。ラマシュとガイヤーは「断念」とは国事行為であって帝位ではないことをカールに保証した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.222-223"/>。続いてこの最終的草稿文は皇后ツィタにも見せられたが、ツィタもカールと同様に「これは退位以外の何物でもありません」と怒った<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.224"> グリセール=ペカール(1994) p.224</ref>。この際にも、退位宣言ではないことが起草者によって保証された<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.224"/>。午後3時にカールが署名を決断した時、すでに街の広告塔から「皇帝退位」は国民に知らされていた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.226"/>。
2日後の13日、今度はハンガリーの統治を断念する類似の書類にカールは署名した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.230"> グリセール=ペカール(1994) p.230</ref>。この際にもカールは「朕はハンガリー王になることを神に宣誓した。その宣誓を破棄するか否かの決定を下すのは神のみだ」と自身の立場が[[王権神授説]]にもとづいていることを述べ、国王退位は明確に否定した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.230"/>。
=== スイス亡命 ===
[[File:Schloss Eckartsau mit Schlosspark.jpg|thumb|left|210px|エッカルトザウ宮殿。「国事不関与」宣言後の4ヵ月間、カール一家はここで過ごした。]]
[[File:Zasche Heimkehr-Habsburger-1919.jpg|thumb|right|350px|共和国の夜明けを描いた絵。中世以来の[[ハプスブルク家]]の歴代君主がオーストリアから去ってゆく様子。最後尾がカール1世。(1919年)]]
「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちに[[シェーンブルン宮殿]]を退去した。皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿から{{仮リンク|エッカルトザウ宮殿|de|Schloss Eckartsau}}に移った。
[[1919年]]1月、共和国初代首相[[カール・レンナー]]がエッカルトザウ城のカールのもとを訪れた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.232”> グリセール=ペカール(1994) p.232</ref>。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフスキー伯爵に会談させた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.232”/>。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.232”/>。実際、2月にはエッカルトザウの周辺を300人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官10人では安全面に相当の不安があった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.234”> グリセール=ペカール(1994) p.234</ref>。カールは[[スイス]]への亡命を真剣に考え始めた。
近々オーストリア皇帝一家が虐殺されるとの情報を「確かな筋」から受け取ったイギリス政府は、[[ロシア革命]]の際に[[ロマノフ家]]を英国王室と縁戚関係にあるにも関わらず見殺しにしたと非難されたため、今度のハプスブルク家の出国には積極的に協力せざるをえなかった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.234”/>。イギリスから派遣されてきたストラット大佐は、ハプスブルク家をめぐって共和国首相レンナーと激しく対立した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.234”/>。皇帝の退位がなければ出国させずに逮捕すると激高するレンナーに対し、ストラット大佐は「オーストリア政府が、皇帝の出国を妨害している。バリケードを築くとともにオーストリア向け救援物資の一切の凍結を命令する」という電文をあらかじめ作成しておき、レンナーにちらつかせた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.238-239”> グリセール=ペカール(1994) p.238-239</ref>。これにランナーは絶句し、無条件で「皇帝」として御召列車で出国するカールを見逃さざるをえなかった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.238-239”/>。
3月23日、皇帝一家はオーストリアを出国した。翌日、オーストリア最西端のフェルトキルヒ駅で、カールはすでに用意してあった次の声明文に署名した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.242"> グリセール=ペカール(1994) p.242</ref>。
{{Quotation|ドイツ・オーストリア共和国政府暫定国民議会は、1918年11月11日以来、朕と朕の家族を無きものとして決議してきた。……戦時の混乱期に、朕は帝位を継承し、国民に平和をもたらすことを切望し続けてきた。彼らにとって、誠実にして情ある国父でありたかった……。}}
この時期に赤軍を刺激したくはなかったため、カールのこの声明文は[[ローマ教皇]]やオーストリア首相の手元のみに送付された<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.242"/>。
=== カール1世の復帰運動 ===
{{main|カール1世の復帰運動}}
=== マデイラ島への配流、崩御 ===
[[File:Portugal in its region (Madeira special).svg|thumb|right|210px|大西洋上の[[マデイラ島]]の位置。]]
[[File:Nossa Senhora do Monte Madeira4.jpg|thumb|right|210px|フンシャルの[[:en:Monte (Funchal)|ノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会]]に安置されたカール1世の棺。]]
11月19日午後3時、カール夫妻を乗せた英国軍艦は、大西洋に浮かぶポルトガル領[[マデイラ島]]に到着した。カール夫妻は島民に温かく迎えられ、中心都市フンシャルに「ヴィラ・ヴィクトリア」という比較的快適な住居を与えられた<ref>グリセール=ペカール(1994) p.279</ref>。しかし皇帝一家の財産は尽きかけており、翌[[1922年]]2月中旬には劣悪な環境の山荘に転居せねばならなかった。ツィタの日記によれば、マデイラ島上陸の数日後に英国領事から「もしカールが正式に退位するならば、旧ハプスブルク諸国に没収されている皇室財産を返還するだけでなく、英国も経済的援助を惜しまない」といった内容の手紙が届いた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.280"> グリセール=ペカール(1994) p.280</ref>。しかしカールは「私の帝冠は換金できるものではないと、皆さんにお伝えください」と返事を送ったという<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.280"/>。
やがてバターも買えないほど皇帝一家は困窮し、ベビーシッターの給料も3ヶ月間未払いだった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.288"> グリセール=ペカール(1994) p.288</ref>。当時の随員のひとりは、皇帝一家の困窮した生活を次のように回想している<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.288"/>。
{{Quotation|電気もなく、トイレも一ケ所で住居は非常に手狭だった。暖房用に生木が使われたため、煙がいつも立ち込めていたが、それでも暖房は不可欠だった。太陽もあまり当たらないので、フンシャルの生活が懐かしく思われた。ここでは部屋中がいつもカビだらけだった。(中略)皇帝は夕食にも肉料理を食べることができず、野菜と[[クヌーデル]]だけの粗末な食事だった。また皇妃の出産には助産婦も医師もおらず、やってきたのは未経験の保母ひとりだった。}}
3月9日、四男[[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]]の4歳の誕生日プレゼントを買いたいという子供たちを連れてフンシャルに出かけた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.289"> グリセール=ペカール(1994) p.289</ref>。このときカールは風邪をひいてしまったが、医療費が心配で、医者の診察を受けなかった。風邪はしだいに悪化していき、そのうちカールは呼吸困難に陥ってしまった。ツィタは慌てて医者を呼んだが、すでに片肺が侵されているとの診断が下された<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.289"/>。治療の甲斐なく、やがてカールは両肺を侵されてしまった。
カールはツィタに「これからはスペイン国王[[アルフォンソ13世]]を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると約束してくれた」「11月の私がハンガリー王でないという宣言は無効だ」と弱々しい声で遺言し、[[1922年]][[4月1日]]12月23分に崩御した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.293"> グリセール=ペカール(1994) p.293</ref>。享年34歳。なお、アルフォンソ13世は、カールが死去した晩にどういうわけかツィタと子供たちの面倒を見なくてはという義務感に突如取りつかれたと後に述べている<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.293"/>。カールの篤い信仰心に島民は深い敬意を抱いていたため、その葬儀には3万人が参列したという。
=== 死後 ===
[[File:Pfarrkirche Liesing - Kirchenfenster-KarlI.jpg|thumb|left|210px|[[福者]]カールを描いた教会の[[ステンドグラス]]。]]
[[File:Wieden - Krypta cesarska - statua Karola I Habsburga.JPG|thumb|right|210px|[[カプツィーナー納骨堂]]の皇帝カール1世の胸像。]]
カールの死後、長男オットーが「オーストリア皇帝およびハンガリー王」として亡命オーストリア宮廷の頂点に立った。オットーは[[1961年]]にオーストリア帝位請求権の放棄を宣言するまで、自身を正統な君主であるとみなし、帝冠について一貫して父カールと同様の態度を取った。
[[1982年]][[8月17日]]、ツィタは国外追放以来63年ぶりにオーストリアへの入国を果たした<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.351"> グリセール=ペカール(1994) p.351</ref>。ツィタがこの日に帰郷日を決定した理由は、8月17日がカールの誕生日だったからである<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.351"/>。もしカールが生きていたとしたとしたら、この日に95歳を迎えるはずだった。
[[1989年]][[3月14日]]、ツィタは96歳で崩御。4月1日に[[シュテファン大聖堂]]で葬儀が営まれたが、この日もマデイラ島でカールが崩御した1922年4月1日に合わせてのものだった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.360"> グリセール=ペカール(1994) p.360</ref>。ツィタの心臓とともにカールの心臓も壺に入れられ、{{仮リンク|ムーリ修道院|en|Muri Abbey}}に安置されている<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.360"/>。
[[2003年]]10月3日、ローマ教皇[[ヨハネ・パウロ2世]]によってカールは[[列福]]され、20世紀の国家元首として[[福者]]に認定された最初の人物となった。しだいに名誉回復されつつある最後の皇帝カールであるが、その遺骸は心臓以外いまだマデイラ島フンシャルにあり、死してなおウィーンへの帰還を許されていない。皇帝廟カプツィーナー納骨堂の地下室には、棺の代わりとしてカールの胸像が安置されている。
== 家族 ==
[[File:IV. Károly és családja.jpg|thumb|right|270px|カール1世とその家族。左から右へ、[[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]]、[[フェリックス・ハプスブルク=ロートリンゲン|フェリックス]]、{{仮リンク|オーストリア女大公シャルロッテ|label=シャルロッテ|en|Archduchess Charlotte of Austria}}とツィタ、[[ルドルフ・ハプスブルク=ロートリンゲン|ルドルフ]]とカール1世、{{仮リンク|オーストリア女大公アーデルハイト|label=アーデルハイト|en|Archduchess Adelheid of Austria}}、オットー、[[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]]。([[1921年]]、[[スイス]]にて)]]
皇后[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]との間に5男3女をもうけた。末子のエリーザベトは死後に誕生している。
* [[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]]
* アーデルハイト(1914年1月3日 - 1971年10月2日)
* [[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]](1915年2月8日 - 1996年2月7日)
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* エリーザベト(1922年5月31日 - 1993年1月6日)
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* {{Cite book|和書|author=[[オットー・バウアー]]|translator=[[酒井晨史]]|date=1989年|title=オーストリア革命|publisher=[[早稲田大学出版部]]|isbn=4-657-89619-9|ref=バウアー(1989)}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|バーバラ・ジェラヴィッチ|en|Barbara Jelavich}}|translator=[[矢田俊隆]]|date=1994年|title=近代オーストリアの歴史と文化 ハプスブルク帝国とオーストリア共和国|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-65600-0|ref=ジェラヴィッチ(1994)}}
* {{Cite book|和書|author=[[リチャード・リケット]]|translator=[[青山孝徳]]|date=1995年|title=オーストリアの歴史|publisher=[[成文社]]|isbn=4-915730-12-3|}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|タマラ・グリセール=ペカール|en|Tamara Griesser Pečar}}|translator=[[関田淳子]]|date=1995年5月10日|title=チタ――ハプスブルク家最後の皇妃|publisher=[[新書館]]|isbn=4-403-24038-0}}
* {{Cite book|和書|author=[[江村洋]]|date=2013年12月10日|title=フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝|publisher=[[東京書籍]]|isbn=978-4-309-41266-5|ref=江村(2013)}}
* {{Cite book|和書|author=[[ティモシー・スナイダー]]|translator=[[池田年穂]]|date=2014年4月25日|title=赤い大公――ハプスブルク家と東欧の20世紀|publisher=[[慶応義塾大学出版会]]|isbn=978-4-7664-2135-4|ref=スナイダー(2014)}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ポール・ホフマン|de|Paul Hofmann (Journalist)}}|translator=[[持田鋼一郎]]|date=2014年7月15日|title=ウィーン――栄光・黄昏・亡命|publisher=[[作品社]]|isbn=978-4-86-182-467-8|ref=ホフマン(2014)}}
== 外部リンク ==
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[[Category:オーストリア皇帝]]
[[Category:ドイツ帝国の元帥]]
[[Category:オーストリア=ハンガリー帝国の人物]]
[[Category:第一次世界大戦期の
[[Category:福者]]
[[Category:金羊毛騎士団員]]
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