「アルテュール3世 (ブルターニュ公)」の版間の差分
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'''アルテュール・ド・リッシュモン'''(Arthur de Richemont, [[1393年]][[8月24日]] - [[1458年]][[12月26日]])は、[[中世]][[フランス王国|フランス]]の貴族・軍人。[[百年戦争]]後半にフランス王軍[[コネターブル|司令官]]([[:en:Constable of France|fr]])として活躍した。「正義の人」(Le Justicer)の異名がある。後に[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]]'''アルテュール3世'''(Arthur III de Bretagne, [[ブルトン語]]:Arzhur III a Vreizh, 在位:[[1457年]] - 1458年)ともなった。
▲[[File:Arthur III de Bretagne.png|250px|thumb|right|アルチュール・ド・リッシュモン]]
'''アルチュール・ド・リッシュモン'''(Arthur de Richemont, [[1393年]][[8月24日]] - [[1458年]][[12月26日]])は、[[百年戦争]]後半に[[フランス王国|フランス]]王軍司令官として活躍した軍人。「正義の人」(Le Justicer)の異名がある。[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]][[ジャン4世 (ブルターニュ公)|ジャン4世]]と[[ジョーン・オブ・ナヴァール|ジャンヌ・ド・ナヴァール]]の次男で、当初[[パルトネ]]卿、[[リッチモンド伯]](名目のみ)、後に甥(兄の子)の[[ピエール2世 (ブルターニュ公)|ピエール2世]]の跡を継ぎブルターニュ公'''アルチュール3世'''(Arthur III de Bretagne, [[ブルトン語]]:Arzhur III a Vreizh, 在位:[[1458年]])となった。他に[[トゥーレーヌ]]公、[[モンフォール]]伯、[[イヴリー]]伯の称号も併せ持ち、[[トネール]]伯領も併せ持った。また、[[フランス元帥]]([[:en:Constable of France|connétable de France]])の地位に就いた。▼
▲
リッチモンド伯は、[[ノルマン・コンクエスト]]以来ブルターニュ公にたびたび与えられてきた[[イングランド]]の爵位であるが、ジャン4世の死後は[[ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]に与えられていた。しかしブルターニュ公家ではその後も伯位を自称してアルチュールに与えたため、アルチュールは'''リッシュモン'''(リッチモンドのフランス語読み:リシュモン、或いはリシュモーンが発音に近いが、日本ではリッシュモンと慣用的に呼ぶ)と呼ばれた。'''リッシュモン元帥'''とされることが多い。▼
▲リッチモンド伯は、[[ノルマン・コンクエスト]]以来ブルターニュ公にたびたび与えられてきた[[イングランド王国|イングランド]]の爵位であるが、ジャン4世の死後は[[ベッドフォード公爵|ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]に与えられていた。しかしブルターニュ公家ではその後も伯位を自称してアル
アルチュールは様々な称号を持つものの、その前半生においては実収をそれらの領地からはほとんど得ることができず、実兄の[[ジャン5世 (ブルターニュ公)|ジャン5世]]の援助などに頼っていた。▼
▲アル
== 概要 ==
[[1410年]]から[[1414年]]のフランスの内乱では
ブルターニュ公の一族であるため、単なる軍人としてではなく政治的な動きも多く、フランス、イングランド、ブルゴーニュの間で揺れたり、その仲を取り持ったりと複雑な動きをしている。またシャルル7世の宮廷においても、王妃[[マリー・ダンジュー]]の母である[[アラゴン王国|アラゴン]]王女[[ヨランド・ダラゴン]]派として宮廷闘争に加わっている。しかし、決定的な戦闘における勝利と王軍の改革に貢献し、
== 誕生以前 ==
フランス西北部の[[ブルターニュ]]の住民[[ブルトン人]]は[[ケルト人]]と考えられている。[[サクソン人]]などの[[ゲルマン人]]との混血が進んだイングランド人よりも純血性を保持していて、どちらかというと[[フランク族]]などのゲルマン諸族との混血が行われたフランスの他の地方よりも、海峡を隔てた[[グレートブリテン島]]の方が文化的にも近く、半独立状態を保っていた。イングランド王家が隣のノルマンディーから出ていることもあり、英仏両国の複雑な事情から一概にフランスに帰属すべき地方だとは言い切れないのが当時の状況であった。歴代のブルターニュ公は半独立を貫こうとし、それは後に公位を継いだアルテュールも例外ではなかった<ref>エチュヴェリー、P12 - P28。</ref>。
[[1341年]]に[[ジャン3世 (ブルターニュ公)|ジャン3世]]が正嫡なくして死ぬと、同名で異母弟のモンフォール伯[[ジャン・ド・モンフォール|ジャン]]と姪のパンティエーヴル女伯[[ジャンヌ・ド・パンティエーヴル|ジャンヌ]]の後継者争い([[ブルターニュ継承戦争]])が起こった
フィリップ6世はパンティエーヴル女伯を「コンフランの決定」で支持してフランス軍を派遣、モンフォール伯を捕らえたが、妃ジャンヌが対抗のためイングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]に忠誠を誓い、イングランドも加勢したためブルターニュ継承戦争は百年戦争と並行して代理戦争の様相を呈した。[[1345年]]にモンフォール伯が死去、[[1346年]]の[[クレシーの戦い]]でフランス軍がイングランド軍に大敗、後ろ盾を無くしたブロワ伯が翌[[1347年]]にイングランド軍に捕縛されてもパンティエーヴル女伯が徹底抗戦したため、両陣営は決定打を欠き戦争は長期化していった。
一方でイングランドから亡命してきていたヘンリー・(オブ)・ボリングブロク(後の[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]])は、ジャン4世の妻で[[ナバラ王国|ナバラ王]][[カルロス2世 (ナバラ王)|カルロス悪人王]]の娘である[[ジョーン・オブ・ナヴァール|ジャンヌ・ド・ナヴァール]]を誘惑した。ヘンリー4世はイングランドに戻り[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]から王位を簒奪すると、ジャン4世の死後にジャンヌ・ド・ナヴァールと結婚した。▼
[[1364年]][[9月29日]]の[[オーレの戦い]]でブロワ伯がイングランド軍に敗死したことで戦争は[[1365年]][[4月12日]]の[[ゲランド条約]]で終結、フランス王[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]](フィリップ6世の孫)はモンフォール伯の同名の息子をブルターニュ公ジャン4世と認め、以後は[[ドルー家|モンフォール家]]が代々世襲でブルターニュを治めること、モンフォール家断絶後はパンティエーヴル家に移る、ブルターニュはフランス王への名目的な服従を示す単純服従のみ許されるなど、対イングランド戦略を進めたいシャルル5世とモンフォール側の妥協が成立した。しかしフランス側が[[ベルトラン・デュ・ゲクラン]]や[[オリヴィエ・ド・クリッソン]]らブルターニュの有力貴族を味方につけた(パンティエーヴル女伯の息子ジャンとクリッソンの娘マルグリットの婚姻など)縁でジャン4世は幼馴染のクリッソンと宿敵関係となりはじめ、ジャン4世の方もイングランドと秘密条約を結びフランスからの離反を画策して[[1378年]]にブルターニュ併合の危機を招く、[[1392年]]にクリッソンの[[暗殺]]未遂事件を起こした家臣を匿いフランス王[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]による遠征が計画されるなど無節操な振る舞いを繰り返したが、いずれもシャルル5世とゲクランの死去やシャルル6世の発狂で切り抜け、[[1395年]]にクリッソンと和睦して[[1399年]]に亡くなるまでブルターニュを保持した<ref>エチュヴェリー、P41 - P61、樋口、P30 - P32、佐藤、P32 - P38、P79 - P80、P92 - P94、P104 - P105。</ref>。
▲一方で1399年にイングランドから亡命し
== 生涯 ==
=== 幼年期から虜囚時代 ===
アル
[[1400年]]、父からリッシュモンら兄弟の後見人に指名されたクリッソンはフランス王シャルル6世と相談して、兄弟達がイングランドへ連れて行かれないように手を打ち、シャルル6世の叔父に当たるブルゴーニュ公[[フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ2世]](豪胆公)に兄弟を託した。兄が無事に公位を継ぐ一方で、リッシュモンは[[パリ]]で[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]](シャルル6世の弟)および豪胆公の後見を受けてブルゴーニュへ迎えられた。クリッソンらの配慮のおかげで母が[[1402年]]にヘンリー4世の妻として娘達を連れてイングランドに行ってしまうも兄弟はフランスに留まった。
一方、宮廷でオルレアン公と無怖公は同族同士で反目していたが、これは英仏両王家のみならず、ブルターニュを巡るモンフォール家とパンティエーヴル家の争いをも再燃させ、無怖公は娘イザベルをパンティエーヴル女伯とクリッソンの孫に当たる[[オリヴィエ・ド・ブロワ]](ジャン・ド・ブロワとマルグリット・ド・クリッソンの子)と結婚、対するジャン5世は妹ブランシュをアルマニャック伯[[ベルナール7世 (アルマニャック伯)|ベルナール7世]]の息子ジャンと結婚させた。宮廷がオルレアン派とブルゴーニュ派に割れる中リッシュモンは兄と共にオルレアン派に属し、[[1407年]]にオルレアン公が無怖公の刺客に暗殺されると、息子でオルレアン公位を継いだ[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]および舅のアルマニャック伯らが結成したアルマニャック派に入りブルゴーニュ派と戦った。
リッシュモンは当時の習慣である戦闘後の略奪を嫌っており、[[1411年]]のパリ北部の都市[[サン=ドニ]]陥落において配下の兵に略奪を禁じたことが記されている。これは後の兵制改革にも通じる。一方、アルマニャック派がヘンリー4世と密約を結ぶ工作を進めると、リッシュモンは[[1412年]]にノルマンディーに上陸した[[クラレンス公]][[トマス・オブ・ランカスター|トマス]]が率いるイングランド軍の出迎えおよびブルゴーニュ派が包囲したベリー公の支配地[[ブールジュ]]を救援、翌[[1413年]]にポンティユ伯シャルル(後のシャルル7世)やアラゴン王女ヨランド・ダラゴンと面会、1414年にブルゴーニュ派の拠点である[[コンピエーニュ]]・ソワソンなどを落とす戦功を挙げる。ベリー公と王太子からは恩賞として騎士叙勲、パルトネーの領有権を与えられたが、ここに居座る領主と揉めている時にイングランド軍が上陸、パルトネーを実効支配出来なかった<ref>エチュヴェリー、P65 - P83。</ref>。
[[1413年]]に義父ヘンリー4世が没すると、後継者[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]がイングランド兵を率いてフランス北部に上陸した。ヘンリー5世はフランス王位を要求し、さらに王の娘[[キャサリン・オブ・ヴァロワ|カトリーヌ]]との結婚を要求した。これに対して王家に忠誠を誓うフランスの[[アルマニャック派]]と呼ばれる貴族達は結集したが、ブルゴーニュ公は親イングランド的中立を維持し、息子フィリップ(後の善良公)が参戦することを禁止した。ブルターニュはフランスと同盟し、ブルターニュ公ジャン5世は8,000の兵を率いて戦場へ向かったが、これは間に合わなかった。▼
▲
イングランドとフランスの両軍は史上名高い[[アジャンクールの戦い]]で衝突し、リッシュモンはフランス国王軍の一員として参加した。[[百年戦争]]の通例通り、野戦においては統率もなく騎士道精神の名の下に各人の功名と名誉心で突撃を行うフランス軍は、長弓部隊を中核とするイングランド常備軍に惨敗し、フランス貴族の多くは戦死するか捕虜となった。リッシュモンも怪我をした後に捕らえられ、母のいるイングランドへ連行された。▼
▲イングランドとフランスの両軍は史上名高い[[10月25日]]のアジャンクールの戦い
「アーサー(アルチュール)の名を持つブルトン(ブルターニュ)人がイングランドを征服する」という迷信をヘンリー5世は気にしており、兄の度重なる身代金支払いにもかかわらず、リッシュモンは釈放されなかった。イングランドにおいて、母は既に継子であるヘンリー5世からは疎まれ、迫害されていて、彼の助けにはならなかっただけではなく人質にもなっていた。その間フランスでは庇護者の王太子とベリー公が12月と[[1416年]][[6月15日]]に相次いで亡くなり([[1417年]]に別の王太子[[ジャン・ド・ヴァロワ (トゥーレーヌ公)|ジャン]]も死去、ポンティユ伯シャルルが王太子となる)、アルマニャック伯も[[1418年]]にブルゴーニュ派に殺害されアルマニャック派は大打撃を受けた。[[1419年]][[9月10日]]にパリを奪回した無怖公もアルマニャック派の報復に襲われ暗殺、両派の内乱を尻目にイングランド軍はノルマンディーと[[イル=ド=フランス地域圏|イル=ド=フランス]]を制圧、無怖公の後を継いだフィリップ善良公はイングランドと同盟を結び、1420年[[5月21日]]にトロワ条約締結でヘンリー5世の将来のフランス王即位が明文化されるまでになった。ジャン5世も遺恨のあるパンティエーヴル家に一時監禁されるなどリッシュモンにとって不利な状況が相次ぎ苦難の時を過ごした。
リッシュモンはたびたび宣誓の下での自由を得て、兄にイングランドとの同盟を促すための使者となったが、騎士道の習慣と母が人質状態であることから、宣誓を破り完全な自由を得ることはなかった。虜囚は5年続き、1420年7月に条件付きで解放、宣誓状態での虜囚状態は1422年のヘンリー5世の死まで続く(同年にシャルル6世も死去)<ref group="注">リッシュモンはこの時期にヘンリー5世からイヴリー伯に叙爵され臣従関係を結んだため、トロワ条約を認めたことになる。エチュヴェリー、P117 - P119。</ref><ref>エチュヴェリー、P82 - P123、樋口、P98 - P99、佐藤、P121 - P130。</ref>。
=== 元帥就任と勢力争い ===
ヘンリー5世の死後、幼い[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]が即位し、ヘンリー5世の弟である
ところが1424年、ベッドフォード公が些細なことからリッシュモンを侮辱したために、彼はイングランド陣営を去り、2度と戻らなかった。ヘンリー5世の死の時点でリッシュモンとヘンリー5世の間の宣誓が無効になったかどうかは意見が分かれるところであるが、ヘンリー5世が死に臨んで、あるいはベッドフォード公が独断で宣誓から解放した証拠はない。ただし、この事件はただでさえ長い間虜囚の目にあっていたリッシュモンを決定的に反イングランド的な立場に追いやった。以後、彼は反英親仏の立場を貫き、その影響を受けてジャン5世も親仏的中立またはフランスとの同盟の立場に立った。
リッシュモンは虜囚時代後期の限定的な自由を得ている状態で、密かに[[サヴォイア公国]]およびブルターニュ公国とフランス王家及びブルゴーニュ公国との大同盟の策謀に加わっており、2人の兄の死により王太子となっていたシャルル(後のシャルル7世)の妃[[マリー・ダンジュー]]の母である[[アラゴン王国|アラゴン]]王女[[ヨランド・ダラゴン]]の信任を得ていた。ヨランドはシャルルに働きかけ、空位となっていた元帥の位に推した。リッシュモンは兄ジャン5世のアドバイスと支持を受けて、またジャン無怖公の支持をも取り付けた上で元帥位を受けた。▼
▲リッシュモンは虜囚時代後期の限定的な自由を得ている状態で、密かに[[サヴォイア公国]]およびブルターニュ公国とフランス王家及びブルゴーニュ公国との大同盟の策謀に加わっており、2人の兄の死により王太子となりフランス王となっていた
フランス元帥([[:en:Constable of France|connétable de France]])は機能上は王国第2の位であり、戦時には一時的に国王の権限を上回る軍事的な指揮権を持ち、全軍の先鋒の司令官となる一方で、国王の入城の際には抜刀して先導する栄誉ある役職であった。リッシュモンは王国の資金でブリトン(ブルターニュ)人4,000人の部隊を編成する権利が与えられた。この部隊は最後まで彼の軍の中核となり、忠誠を誓い続けた。そしてこれが後の国王常備軍へ発展するための中核となった。▼
▲フランス元帥
しかし、リッシュモンは元帥位に就きながら、その直言と頑固と思われるような信念の固さから、シャルル7世には疎まれており、またその取り巻きからは私腹を肥やす上で重大な障害と見なされた。シャルル7世の厭戦癖と取り巻きの公私混同により、リッシュモンは実質的な宰相として王国軍を運用維持していたが、周囲の妨害もあり、2度目にして生涯最後の戦闘での敗北もこの時期に喫している。リッシュモンは君側の奸を取り除くべくジアック卿を排斥した。ジアックを即決裁判で処刑すると、[[カミュ・ド・ボーリユ]]が即座にその穴を埋めた。リッシュモンは今度はボーリユを処刑し、その際に[[ラ・トレムイユ]]と手を組んだ。シャルル7世は相次ぐ寵臣の処刑に対し、リッシュモンに不信感を隠せなかった。▼
▲しかし、リッシュモンは元帥位に就きながら、その直言と頑固と思われるような信念の固さから、シャルル7世には疎まれており、
リッシュモンはボーリユの後任の筆頭侍従にラ・トレムイユを推薦したが、ラ・トレムイユは政争においてリッシュモンの上を行っており、早速リッシュモンは宮廷から追放され、実質的な権限を停止させられてしまった。ラ・トレムイユはリッシュモンを利用してジアックら政敵を葬ると、今度は使い終えた道具であるそのリッシュモンをさらに処分することに成功したのである。リッシュモンは包囲されたモンタルジの救援を、[[ラ・イル]]と[[ジャン・ド・デュノワ|デュノワ伯ジャン]]を率いて成功させたものの、[[1427年]]に追放された。シャルル7世の重用をよいことに、ラ・トレムイユは国王の軍資金を横領して私腹を肥やした。また、着服した軍資金で私兵を雇い、最大の政敵であるリッシュモンを追い払うことまでしており、両軍の兵はたびたび衝突している。▼
▲リッシュモンはボーリユの後任の筆頭侍従にラ・トレ
翌[[1428年]]の秋、史上に名高い[[オルレアン]]の攻防戦が始まった。リッシュモンはシャルル7世とその取り巻き以外からは声望は高く、オルレアン救援の要請が各方面から出されたが、シャルル7世からの命令で近づくことができなかった。しかし、[[1429年]]に[[ジャンヌ・ダルク]]が認められてオルレアン救出に乗り出すと、戦況が一変した。1429年6月には[[ジャン2世 (アランソン公)|アランソン公ジャン2世]]をはじめとする軍勢が、ジャンヌ・ダルクに率いられて[[ロワール川]]の掃討戦役を開始したため、リッシュモンの軍は合同の姿勢を見せた。シャルル7世とラ・トレムイユはジャンヌとアランソン公にリッシュモンの軍を追い払うように命令するが、ラ・イルなどの将軍はリッシュモンとの合同がイングランド軍との決戦には必要と支持した。ジャンヌ・ダルクはリッシュモンの指揮を受け入れ、[[パテーの戦い]]で大勝利を収めた。ラ・イルの奇襲が成功し、百年戦争の大規模野戦でフランス軍が勝利する嚆矢となった。このパテーの戦いが、ジャンヌとリッシュモンの最初で最後の共闘となった。▼
▲
ジャンヌはリッシュモンを陣営に留めるべく努力を続けたが、シャルル7世やラ・トレムイユだけでなく、甥に当たるアランソン公やラ・トレムイユの従兄弟である[[ジル・ド・レイ]]、リッシュモンの従兄弟のデュノワ伯などとは折り合いが悪かった。信念を曲げぬ頑固さが対立を生んだのみならず、名声が一頭地を抜いているために嫉視されたのも原因であろう。すでに家柄と実力で、内外からフランスの第一人者として認められていたといってよい。▼
▲ジャンヌはリッシュモンを陣営に留めるべく努力を続けたが、シャルル7世やラ・トレ
リッシュモンは[[ランス (マルヌ県)|ランス]]での戴冠式にも参加できず、他方面でイングランド軍の実質的な総帥ベッドフォード公と対決していた。王の義理の母であるヨランド・ダラゴンはリッシュモンの復権を狙っていたが、シャルル7世とラ・トレムイユの反発にあって実現しないどころか、ブルターニュをイングランド方に追いやりかねないような行動に出た。ベッドフォード公はリッシュモンとブルターニュ公ジャン5世にイングランド側へ寝返るべく工作に出たが、リッシュモンは反イングランド的立場を変えず実現しなかった。▼
▲宮廷から返事が無いことに失望したリッシュモンはジャンヌらと別れパルトネーへ戻り、7月の[[ランス (マルヌ県)|ランス]]でのシャルル7世の戴冠式にも参加できず、他方面でイングランド軍の実質的な総帥ベッドフォード公と対決していた。
[[1430年]]にジャンヌ・ダルクがブルゴーニュ軍に捕らえられ、イングランドに引き渡された。ラ・イルやジル・ド・レイなどのジャンヌ崇拝者は独自に救援を試みるが、シャルル7世とラ・トレムイユはジャンヌを見殺しにした。ジャンヌ・ダルクの登場によりフランスに国民意識が誕生していたために、シャルル7世とその取り巻きに対して反発が強まり、再度のリッシュモン復権の動きが現れた。リッシュモンとヨランド・ダラゴンはラ・トレムイユを捕らえて幽閉し、国王の侍従にはヨランドの息子で王妃の弟である[[シャルル4世・ダンジュー|メーヌ伯シャルル]]が穴を埋めた。この政変により、リッシュモンは再び王国の総司令官の地位に名実共に返り咲いた。▼
▲[[1430年]]にジャンヌ
=== 兵制改革とフランス再統一 ===
シャルル7世も、この頃からリッシュモンの私欲のなさを認め始めた。リッシュモンはデュノワ伯、ラ・イル、[[ジャン・ポトン・ド・ザントライユ|ザントライユ]]といった武将を使い、イングランドに対して反対攻勢に出た。
リッシュモンは略奪でなく、国王の名の下による徴税によって[[常備軍]]を編成することを考えた。これはかつてシャルル5世の下で一部試みられていたことであった。またリッシュモンは[[砲兵]]の活用を積極的に推進、[[ジャン・ビューロー]]と[[ガスパール・ビューロー]]兄弟の助けを得て改良した大砲を攻城戦で使用した。これによって[[ルーアン]]や[[シェルブール=アン=コタンタン|シェルブール]]などの、かつては不落であったイングランドの諸拠点が次々に陥落することになる。またイングランドの長弓部隊にまさる射程をもつ砲兵は、間接的にイングランドの切り札を封じた。
また、リッシュモンは対イングランド戦争および対ブルゴーニュ公国外交と同時に、国内に大混乱を引き起こす元凶であった[[傭兵]]部隊の略奪対策を強力に推進した。1439年[[11月2日]]にシャルル7世が招集した[[三部会]]の同意の下で勅令が制定、略奪を行っている傭兵部隊は次々に駆逐されるか、報酬と引き換えに故郷へ返された。一方で、それまでの不安定な[[封建]]貴族の私兵の寄せ集めや傭兵隊長の雇用による王国軍を常備制へと変換させる兵制改革を進めた。この財源として、リッシュモンは貴族の勝手な徴税を禁じ、貴族にも税をかけた。これは大きな反発を呼んだが、結果として王権の相対的上昇をもたらし、[[絶対王政]]を成立させる大きな要因となった。
課税に対する貴族の反発は[[1440年]]に[[プラグリーの乱]]として表れ、デュノワ伯、アランソン公、ラ・トレモイユや[[ブルボン公]][[シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル1世]]などが王太子[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ]](後のルイ11世)を擁立して反乱を起こした。対するリッシュモンはシャルル7世と連携して素早く反乱を鎮圧、改革を一層推し進めることが出来た。ジル・ド・レの領地没収に伴い発生した兄とジルの一族との調停も行い、同年処刑されたジルの遺領の一部を兄から分け与えられ所領は増えたが、[[1442年]]に妻マルグリット、兄やヨランドなど身内や庇護者を失いながらも[[アキテーヌ地域圏|ギュイエンヌ]]遠征やジャンヌ・ダルブレとの再婚、甥のブルターニュ公[[フランソワ1世 (ブルターニュ公)|フランソワ1世]]の後見などを務め、[[1445年]]と[[1448年]]の勅令で常備軍制定に尽力した<ref group="注">1445年の軍隊編成は兵士としての優秀性を基準に選抜した馬6頭と兵士6人の槍隊を100組に編成、拡大して1500組(9000人)を15人の隊長の指揮下に置いた。1448年ではさらに徴兵を追加する勅令を発し、[[教区]]ごとに50人単位で訓練を受け、弓兵を1人選抜する制度を作り、約1万人が招集された。エチュヴェリー、P262 - P264、佐藤、P156 - P157。</ref>。[[1446年]]にフランソワ1世をシャルル7世に臣従させブルターニュとフランスの提携を実現、モンフォール家とパンティエーヴル家の和解にも尽力し、こちらも[[1448年]]に両家が相続規定と領地交換の取り決めにより手を結び<ref group="注">服従といってもブルターニュ公国自体は単純服従、フランソワ1世個人がフランス内に領有している土地は絶対服従を誓う、ブルターニュの従来の半独立姿勢は堅持していた。モンフォール家とパンティエーヴル家の和解内容は、パンティエーヴル家がブルターニュ要求を放棄、引き換えに新たな土地をモンフォール家から貰うことで成立したが、後に土地提供を巡り両家は再び対立していった。エチュヴェリー、P266 - P268。</ref>、背後を固めたリッシュモンはノルマンディー遠征に向けて準備を整えていった<ref>エチュヴェリー、P234、P240 - P269、樋口、P134 - P135、P152 - P157、佐藤、P154 - P157、P164 - P165。</ref>。
[[1449年]]にはルーアンが陥落し、[[ノルマンディー]]の大半が奪還された。イングランド王家にとって故地の喪失は許されることでなく、イングランドは大軍を編成して再上陸した。それに対してフランス軍は、[[1450年]]に[[フォルミニーの戦い]]において大勝利を収めた。フランス軍はリッシュモンの将であるクレルモンの独断開戦で各個撃破の窮地に陥りそうになったが、リッシュモンは主力を率いて直ちに救援に向かい、反撃に出て勝利を収めた。これにより要港シェルブールへの道が開け、砲兵の機動的活用により陥落させた。リッシュモンがフランス北部を警戒しているために、イングランドは[[ボルドー]]方面から反撃を試みたが、イングランドは[[カスティヨンの戦い]]で止めを刺された。▼
▲[[1449年]]3月、イングランド軍がブルターニュ領の[[フージェール]]を奪ったことでフランス軍は8月から11月にかけてノルマンディー遠征を開始、リッシュモン麾下の軍はノルマンディー
[[1456年]]には王都[[パリ]]がようやく国王を受け入れ、ほぼ全土がフランス王の主権の下に回復された。▼
フランス南西のギュイエンヌは残るイングランドの領土で、[[1451年]]にギュイエンヌ奪取を目指すフランス軍の遠征にリッシュモンは外され、デュノワ伯、ジャン・ビューローらが[[ボルドー]]を含むギュイエンヌを占領した。リッシュモンがフランス北部を警戒しているために、イングランドはボルドー方面から反撃を試み[[1452年]]10月に[[シュルーズベリー伯爵]][[ジョン・タルボット (初代シュルーズベリー伯)|ジョン・タルボット]]率いるイングランド軍を上陸させギュイエンヌ回復を図ったが、[[1453年]][[7月17日]]の[[カスティヨンの戦い]]で[[アンドレ・ド・ラヴァル]]とビューローらフランス軍がタルボットを討ち取りイングランド軍を撃破、[[10月19日]]のボルドー陥落で止めを刺されギュイエンヌはフランスが奪い返した<ref>エチュヴェリー、P269 - P297、樋口、P169 - P177、佐藤、P157 - P159。</ref>。
=== ブルターニュ公時代 ===▼
兄ジャン5世が[[1442年]]に死去すると、その息子[[フランソワ1世 (ブルターニュ公)|フランソワ1世]]を後見した。フランソワ1世が[[1450年]]に死去すると(フランソワ1世は娘[[マルグリット・ド・ブルターニュ|マルグリット]]とマリーをもうけたのみで男子がなかった)、遺言により末弟[[ピエール2世 (ブルターニュ公)|ピエール2世]]が後を継ぎ、ピエール2世に男子がない場合はピエール2世の女子よりもリッシュモンの継承順位が上にくることになった。ピエール2世は[[1457年]]は実子のないまま死去したため、リッシュモンはブルターニュ公位を継ぎ、ブルターニュ公アルチュール3世となった。▼
▲=== ブルターニュ公時代 ===
リッシュモンは元帥位を名誉に思い、返上せずに名乗り続けた。しかしながらブルターニュ公領の半独立は貫き続けた。彼はブルターニュの外に持っていた所領に関しては絶対服従を誓ったが、ブルターニュ公領については名目的な服従を示す単純服従のみであった。これがリッシュモンのフランスにおける評価を微妙にさせている最大の原因の一つである。▼
▲
▲リッシュモンは元帥位を名誉に思い、返上せずに名乗り続けた
翌1458年にリッシュモンは
== 家族 ==
リッシュモンは3度結婚しているが、嫡子はいなかった。庶子にジャクリーヌという名の娘がおり、[[1443年]]に嫡出子に改めている。
* [[マルグリット・ド・ブルゴーニュ (1393-1442)|マルグリット・ド・ブルゴーニュ]]([[1423年]][[10月10日]]結婚、[[1441年]]死亡) - ブルゴーニュ公[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無怖公
* ジャンヌ・ダルブレ([[1442年]][[8月29日]]結婚、[[1444年]]死亡) - ドルー伯[[シャルル2世・ダルブレ (ドルー伯)|
* [[カトリーヌ・ド・サン=ポル]]([[1445年]][[7月2日]]結婚、[[1492年]]死亡) - サン=ポル伯[[ピエール1世・ド・リュクサンブール (サン=ポル伯)|
== 脚注 ==
<references />
== 注釈 ==
{{reflist|group="注" }}
== 参考文献 ==
* ジャン=ポール・エチュヴェリー著、[[大谷暢順]]訳『百年戦争とリッシュモン大元帥』[[河出書房新社]]、1991年。
* レジーヌ=ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著、福本直之訳『ジャンヌ・ダルク』[[東京書籍]]、1992年。
* 樋口淳『フランスをつくった王 <small>~シャルル七世年代記~</small>』[[悠書館]]、2011年。
* [[佐藤賢一]]『ヴァロワ朝 <small>フランス王朝史2</small>』[[講談社]]([[講談社現代新書]])、2014年。
== 関連項目 ==
* [[カマレ=シュル=メール]]
{{先代次代|[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]]</br>[[File:CoA dukes of Bretagne 1316-1514 (chivalric).svg|50px]]|1457年 - 1458年|[[ピエール2世 (ブルターニュ公)|ピエール2世]]|[[フランソワ2世 (ブルターニュ公)|フランソワ2世]]}}
{{Normdaten}}
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[[Category:百年戦争の人物]]
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