「真田十勇士」の版間の差分

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{{Otheruses|真田十勇士の概要|同名の作品}}
{{出典の明記|date=2016年3月3日 (木) 15:56 (UTC)}}
'''真田十勇士'''(さなだじゅうゆうし)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期から[[江戸時代]]初期にかけての武将・[[真田信繁|真田信繁(真田幸村)]]に仕えたとされる、10人の家臣のこと。あくまで伝承上の架空の人物といえるが、歴史的な由来を持つ人物もいる。
 
[[立川文庫]]以来、基本的な構成は、[[猿飛佐助]]、[[#霧隠才蔵|霧隠才蔵]]、[[#三好清海入道・三好伊三入道|三好清海入道]][[#三好伊三入道|三好伊三入道]]、[[#穴山小介(穴山小助|穴山小介(穴山小助]]、[[#由利鎌之|由利鎌之介(鎌之助]]、[[#筧十蔵|筧十蔵]]、[[#海野六郎|海野六郎]]、[[#根津甚八|根津甚八]]、[[#望月六郎|望月六郎]]の10人となっているが、作品によって差異が見られる。
 
== 概要 ==
真田幸村とそれに従う家臣という形の原型は江戸時代中期の[[軍記物]]および[[草双紙|絵本]]の『真田三代記』に見られるが、「真田十勇士」という表現をはじめて用いたのは、[[明治]]・[[大正]]時代に刊行された[[立川文庫]]である。以後の「[[ヒーロー]]としてのイメージ」は、立川文庫という創作物によって定着した。
 
現在に至るまで、多くの派生作品が制作されており([[#派生作品]])、彼らに影響されたキャラクターが数多く生み出されている。
 
{{要出典|実在を唱える説、実在の人物がモデルであるとする説もある。真田氏の領地付近に戸隠流忍術の戸隠の里があり、そこから真田イコール戸隠忍者の主人との考えから生まれているという考えもある。|date=2016年3月}}
 
== 十勇士の成立 ==
「ヒーローとしての真田幸村」の登場は、[[寛文]]12年([[1672年]])に書かれた[[軍記物]]『[[難波戦記]]』である。[[元禄]]江戸後期には小説『真田三代記』が成立し、[[真田昌幸]]・幸村・[[真田幸昌|大助]]の三代が徳川家に対して奮戦するストーリーが人気を博した。この『真田三代記』において猿飛佐助後に十勇士望月六郎をのぞく8呼ばれる物や、似た名前原型人物多数登場し(筧十蔵、霧隠才蔵同姓元になったと思われ人物も含め筧十兵衛霧隠鹿右衛門猿飛佐助以外の人物記載されこの時点で登場している)、「真田もの」の[[講談]]の流行によって、真田主従は民衆のヒーローとなった。明治後期の講談は[[神田伯龍]]『難波戦記』(1899年)などの口演[[速記本]]が書き残されている。講談師たちは『真田三代記』にはない[[忍者|忍術つかい]]の「猿飛佐助」<ref>[http://www.office-kimiko.com/kiji/03.html 旭堂小南陵(現・南陵)「「立川文庫」前からの講談ネタ確認」]{{リンク切れ|date=2016年2月}} 南陵によれば、「猿飛佐助」の初出は1901年2月、「霧隠の才蔵」の初出は1900年6月まですくなくとも遡ることができるといい、「猿飛佐助」を立川文庫執筆者が創作したとの説を退けている。</ref>を生み出し、「霧隠才蔵」ら真田家の英雄豪傑の物語を膨らませていった。
 
[[1911年]]に大阪で発刊された立川文庫は、講談師[[玉田玉秀斎]]らが中心となって講談を読み物として再編集したもので、その後の[[大衆文学]]に大きな影響を与えた。この立川文庫において、『知謀 真田幸村』(第5編)に続き、
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# 『真田三勇士'''由利鎌之助'''』
# 『真田三勇士忍術名人'''霧隠才蔵'''』(第55編)
を「真田三勇士」とする三部作が創られた。次いで『真田家豪傑'''三好清海入道'''』など、真田家の豪傑の逸話をあつめた作品が刊行され、{{要出典|のちに『'''真田十勇士'''』が刊行された|date=2016年2月}}。立川文庫は人気作品となり、新しいメディアである映画でも忍術使い猿飛佐助を中心とする作品群が作られた<ref>[http://www.jmdb.ne.jp/ 日本映画データベース]によれば、『猿飛佐助』(1915年7月、天活)、『真田十勇士』(1918年12月、天活)など。</ref>。今日の真田十勇士という枠組みは、ここに起源を持っている。
 
=== 真田三代記 ===
海野六郎、根津甚八、望月六郎の名は、[[真田氏]]の同族である[[滋野氏|滋野三家]]([[海野氏]]、[[根津氏|禰津氏]]、[[望月氏]])に由来しており、『真田三代記』には、海野六郎、根津甚八の名が記載されている。
 
== 十勇士一覧 ==
ここでは真田十勇士の一覧と、簡単な人物設定を記述する。なお真田十勇士は、成立したとされる明治大正期以降、現代に至るまで講談や小説などで様々に脚色がなされ、作品によって設定のバラエティーも非常に豊富である。ここではオリジナルとみなされる立川文庫での設定、あるいはその取材元と目ぼしい『真田三代記』などの江戸期での展開のみを記述する。
=== 猿飛佐助 ===
'''猿飛 佐助'''(さるとび さすけ)は、真田十勇士でも屈指の実力と人気を持つ。架空の[[忍者]]といわれているが、モデルになった人物には、木下藤吉郎家臣の猿飛仁助の子孫、上月佐助、三雲佐助賢春の名が上がっている
{{main|猿飛佐助}}
 
=== 霧隠才蔵 ===
'''霧隠才蔵'''(きりがくれ さいぞう)は、猿飛佐助と並び真田十勇士の中でも忍術を得手とする。[[伊賀忍者]]の頭領・[[百地丹波|百地三太夫]]の弟子とされており、同時代に生きた盗賊・[[石川五右衛門]]は兄弟弟子にあたるという。立川文庫の55冊目に『真田三勇士忍術名人 霧隠才蔵』の巻があり、真田十勇士では猿飛佐助に次いで人気があり、前述の「霧隠才蔵」以降でも主役を務めることがある。江戸以前の資料では『真田三代記』に「霧隠鹿右衛門」という忍者が登場する。
霧隠 才蔵(きりがくれ さいぞう)は、「霧隠鹿右衛門を元にした架空の忍者」とされる。
 
[[伊賀忍者]]の頭領・[[百地丹波|百地三太夫]]の弟子とされている。立川文庫の55冊目に『真田三勇士忍術名人 霧隠才蔵』の巻があり、その中でキャラクターが構成されたと考えられている。真田十勇士では猿飛佐助に次いで人気があり、主役を務めることもある。
 
;霧隠才蔵を主人公にした作品
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*『[[忍びの者 新・霧隠才蔵]]』(1966年、監督:[[森一生]]、演:市川雷蔵)
 
=== 三好清海入道・三好伊三入道 ===
'''三好清海入道'''(みよし せいかい にゅうどう)三好弟の伊三入道(みよし いさ にゅうどう)。この兄弟は、『真田三代記』幸村に仕える僧体の豪傑ある。出羽国亀田の領主出身、立川文庫は[[、遠戚に当たる真田家を頼って仕えたという。『真田好氏]]出身代記』でも亀田破戒僧領主と設定されており、兄弟共に非常に高齢。大坂夏の陣で兄弟共に戦没している。
 
三好清海入道のモデルは、大坂の陣において豊臣方で討死した[[三好政康]](入道名・清海)と考えられている。政康の弟の[[三好政勝]](法名・為三)が伊三入道のモデルとされるが、史実の政勝は徳川方について大坂の陣に出陣した。いずれも80代という高齢での出陣であった。
 
なお、信繁と側室・隆清院([[豊臣秀次]]の娘で、[[三好吉房]]の孫)の間に生まれた[[三好幸信]]は父の死後、[[亀田藩]]に仕えており、この史実が『真田三代記』の記述にも影響している。
 
;三好清海入道を主人公にした作品
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*『[[BEHIND MASTER]]』([[坂本あきら (漫画家)|坂本あきら]])
 
=== 穴山小介(穴山小助)三好伊三入道 ===
'''三好伊三入道'''(みよし いさにゅうどう)は、三好清海入道の弟で、やはり幸村に仕える僧体の豪傑。兄と同じく元は出羽国亀田の出身で、兄とともに真田家に仕官した。『真田三代記』でも兄とともにその名が見られ、大坂夏の陣では共に戦没した。
穴山 小介(あなやま こすけ)、もしくは穴山 小助。『真田三代記』によれば、「武田旧臣の[[穴山信君]]([[武田氏]]の家臣)の縁戚」と言われる。十勇士の穴山小介は、「史実の彼を元にしている」という説と、「創作された架空の人物」という説がある。
 
=== 穴山小助 ===
史実の穴山小介については、以下の通り。
'''穴山小助'''(あなやま こすけ)は、真田幸村の側近の一人。作品によっては幸村の影武者となる。『真田三代記』では幸村の家臣としては特に登場頻度が多い股肱の臣として描かれている。同作によると諱は安治、幼名は岩千代。雲洞軒と号していた時期もあった。父の名は穴山小兵衛といい、真田家譜代の家臣の家柄に生まれる。大坂の陣では幸村から影武者を演じるように命じられ、そのまま戦死。関東方を欺く事に成功している。
; 生没年、出自など
: [[永禄]]11年([[1568年]])? - [[慶長]]20年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]([[1615年]][[6月3日]]))
: 穴山信光の長男。名は安治とも伝わる。通称、岩千代。号は雲洞軒。
: 実在の人物と言われている一方で、実在を疑う声もある。
: 真田幸村の家臣。
; 役割、最期
: [[大坂の役|大坂夏の陣]](1615年)において幸村の[[影武者]]を務め、戦死したとされる。
 
=== 由利鎌之 ===
'''由利 鎌之助'''(ゆり かまのすけ)。『は、真田三代記』幸村も、由利鎌之介仕えた豪傑名で登場する一人講談本の立川文庫には、彼を主役とした『真田三勇士 由利鎌之助』の巻がある。十勇士の由利鎌之介は、「史実の彼を元に『真田三代記』でも豪傑・武将としている」登場。諱を基幸という説と「創作さ最初は野田菅沼家に仕えていたが、真田軍に敗て捕虜となっ架空の人物」と後に真田家へ加わってう説があ。鎖鎌の名手
 
史実の由利鎌之介については、以下の通り。
; 生没年、出自など
: [[天正]]元年([[1573年]])? - 慶長20年(1615年)?)
: 名は基幸とも伝わる。
: 実在の人物と言われている。
: 真田幸村の家臣。
; 真田氏との関係
: 本来は[[真田氏]]と敵対していた。[[真田昌幸]]・幸村親子を繰り返し狙っていたが、幸村に捕まり、それをきっかけに家臣となったという。
: 以後、真田親子の配下として戦闘で功績を挙げた、と言われる。
; 最期
: 「大坂の陣以前に死んでいた」とも言われ、また「大坂の陣で討ち死にした」とも言われる。
 
=== 筧十蔵 ===
''' 十蔵'''(かけい じゅうぞう)は、真田幸村の側近の一人。父は真田家の重臣である筧十兵衛。『真田三代記』登場しないが、父と同名である筧十兵衛の名前で登場する。[[火縄銃]]の名手。十勇士の筧十蔵のモデルは、筧十兵衛、又虎秀筧金六郎、あるいその息子足軽言われる。まいう低い身分だっ「創作さ真田幸隆・昌幸に仕えて取り立てられた架空。そ人物」とほか同作では、筧金六郎など筧姓の真田家武将が登場してう説もある。
 
史実の筧十蔵については、以下の通り。
; 生没年、出自など
: 天正元年(1573年)? - 慶長20年(1615年)?)
: 姓名は筧十兵衛<!--[[筧十兵衛]]は[[GetBackers-奪還屋-の登場人物]]へのリダイレクト-->とも伝わる。
: 実在の人物と言われている。
: 真田幸村の家臣。
; 活躍
: 豪胆な性格だったといわれる。針などを使いこなし、大坂夏の陣で徳川方を散々に苦しめた、と伝えられる。
; 最期
: 夏の陣で戦死したとされるが、実態は不明。「九州落ちに同行した」と、兵庫の一部地域の筧家には伝わっている。
; 十蔵の父
: 父の筧虎秀は真田昌幸の家臣であったが、当初は[[足軽]]でしかなかった。[[丸太]]を使って敵軍の囲みを破った功績により大将に出世し、家来を持てるようになったと言われている。
; 子孫
: 真田側についた筧家は九州から兵庫に多く、家康側についた筧家は静岡や関東全域に多いとされている。
 
=== 海野六郎 ===
'''海野 六郎'''(うんの ろくろう)は、真田幸村の側近の一人。真田家重臣の家柄で、叔父は真田家の侍大将を務めていた。『真田三代記』には同名の人物こそ登場するが「真田幸隆の義理の甥」という立場であり、同一人物とは認めがたい。幸村の時代には海野六郎兵衛利一としていう人物が登場する。十勇士の海野六郎のモデルとしては、他に海野小平太の名も上がっている。
 
史実の海野六郎については、以下の通り。
; 生没年、出自など
: [[元亀]]2年(1571年)? - 慶長20年(1615年)?)
: 海野輝幸の三男と伝わる。
: 実在の人物と言われている。
: 真田幸村の家臣。
; 活躍、最期
: 大坂夏の陣では、幸村の命で敵軍にニセ情報を流し、大いにかく乱したと言う。
: 夏の陣で戦死したという説があるが、実態は不明。
; 真田氏との関係
: 真田氏は東信濃[[小県郡]]の[[海野氏]]の出身とされるが、海野氏直系が絶えた後、城代や家老級の重臣に海野姓を与えている。従って、海野姓であっても、真田一族に連なっている保証は無い。
; 幸村の家臣になった経緯
: 次のエピソードが伝わっている。海野六郎は[[出雲阿国]]の歌舞伎踊りが好きで、ある日、それを見に行った。そして六郎が一緒に踊ったところ、その演出に幸村が感激したため、影武者役に任命したという。
 
=== 根津甚八 ===
'''根津甚八'''(ねづ じんぱち)は、真田幸村の家臣の一人。『真田三代記』でも幸村の家臣・根津甚八郎貞盛として登場。大坂夏の陣の最終局面で幸村の影武者となって討死した。同作には根津姓の真田家臣も複数登場している。
根津 甚八(ねづ じんぱち)。モデルについては、禰津小六、[[浅井井頼]]などがある。
 
史実の根津甚八については、以下の通り。
; 生没年、出自など
: [[永禄]]12年([[1569年]])? - 慶長20年5月7日(1615年6月3日))
: 通称、小六。諱は貞盛。
: 実在の人物と言われている一方で、実在を疑う声もある。
: 真田幸村の家臣。
; 活躍、最期
: [[水軍]]の指揮に長けた人物とされている。
: 大坂の陣で真田幸村の影武者として討ち取られる。
; 真田氏との関係
: 真田家は海野氏の出自を名乗っている。根津甚八の出自については、その海野氏と同じ[[滋野氏|滋野三家]]の一つである[[根津氏|禰津氏(根津氏)]]の禰津政直の子とする説や、[[浅井長政]]の子を自称する浅井井頼とする説などがある。
: 禰津氏は[[諏訪神党]]に属する神氏であることから、「根津'''神'''八」とする事もある。
 
=== 望月六郎 ===
'''望月 六郎'''(もちづき ろくろう)は、真田幸村の側近の一人爆弾製造作品長けよっいたは望月主水、望月三郎などとも呼ばれる。『真田三代記』では望月卯左衛門幸忠として主水が登場するモデルはそのほか望月宇右衛門、望月甚左衛門、望月卯兵衛、望月卯左衛門幸忠など、諸説あり姓の真田家臣が数多く登場する
 
史実の望月六郎については、以下の通り。
; 生没年、出自など
: 元亀3年([[1572年]])? - 慶長20年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]](1615年[[6月4日]])
: 実在の人物と言われている。
: 真田幸村の家臣。
; 活躍、最期
: 大坂の陣では、幸村の嫡男・[[真田幸昌|大助]]配下となった。敵を情報でかく乱させ、さらに武力を行使して徳川方を尼ヶ崎に敗走させた、と伝えられている。
: 同年、大助に殉死したと言う説もあるが、実態は不明。
; 真田氏との関係
: 真田氏は、海野氏(東信濃の名族、滋野氏嫡流を名乗る)の出自。一方、[[望月氏]]も滋野氏から分かれており、佐久市'''望月'''を拠点とした一族である。このことから、望月六郎も同族出身の可能性がある。
 
== 派生作品 ==
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== 外部リンク ==
* [http://museum.umic.ueda.nagano.jp/sanada/sakuhin/juyusi.html 真田十勇士]、[[長野県]][[上田市]][[デジタル]][[アーカイブ]]
* [http://www.rokumonsen.com/index.htm 真田氏データベース] 内 [http://www.rokumonsen.com/source-of-future/sanada-db/s-juyushi/index.htm 真田十勇士]
* [http://museum.umic.ueda.nagano.jp/sanada/sakuhin/juyusi_saizou.html 真田十勇士・霧隠才蔵]
 
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