「アメリカン航空191便墜落事故」の版間の差分

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{{Infobox Airlineraircraft incidentoccurrence
|occurrence_type = Accident
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|Image caption=墜落する直前の191便をとらえた写真
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'''アメリカン航空191便墜落事故'''(アメリカンこうくうひゃくきゅういちびんついらくじこ、{{lang-en|'''American Airlines Flight 191'''}})とは、[[1979年]][[5月25日]]、[[アメリカ合衆国]]の航空会社である[[アメリカン航空]]所属のが運航する[[DC-10 (航空機)|DC-10型機]]が墜落した[[航空事故]]である。191便はアメリカ合衆国の[[シカゴ・オヘア国際空港]]発、[[ロサンゼルス国際空港]]行きの定期旅客便であり、オヘア国際空港を離陸直後に墜落した。乗客乗員271人と地上で巻き込まれた2人が死亡し、2016年現在、テロ事件を除く航空事故においてアメリカ航空史上最大の犠牲者数となっている。
 
事故のきっかけは、離陸のための機首上げ操作中に左主翼下の第1エンジンとパイロンが分離したことであった。これにより油圧系統が損傷し、左翼外側のけ[[高揚力装置|スラット]]が意図せず格納されてしまった。これにより、左翼だけが低速で失速しやすい状態となった。あわせて第1エンジンに関する電気系統も損傷したことで、パイロットは機体の[[空気力学]]特性と操縦性が意図しない状態となったことを認識できなかった。パイロットはエンジン停止時の緊急時の手順通りに離陸・上昇を継続したが、その手順では飛行速度を落とすことになっていた。そのため、左翼のみ失速域に入ってしまい、急激に機体が左に傾きだした。さらに左旋回と機首下げが始まって制御不能に陥り、空港の近郊に墜落した。
 
当初、事故原因として設計不良が疑われ、アメリカ[[連邦航空局]] (Federal Aviation Administration) は、DC-10型機の運航停止命令を発行した。この措置はアメリカ国外にも波及し、世間からDC-10型機の安全性に厳しい目が向けられた。エンジンとパイロンが分離した原因は、航空会社の不適切な整備手順であることが判明した。事故調査報告書の発行後、航空会社への罰則金が課せられたほか、連邦航空局による整備手順の監督体制が強化され、機体の設計変更命令も発行された。
 
== 事故当日のアメリカン航空191便 ==
{{Location map+ |USA
* 使用機材:ダグラス DC-10-10
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** [[機体記号]]:N110AA([[1972年]]製造)
* 予定飛行経路:[[イリノイ州]] |caption=191便の出発地である[[シカゴ]][[オヘア国際空港]]発、[[カリフォルニア州]] (ORD) と目的地であった[[ロサンゼルス|ロサンゼルス市国際空港]]・[[ロサンゼルス (LAX) の位置。事故はオヘア国際空港]]行き離陸直後に発生した。
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* 搭乗人数:271名
{{Location map~ |USA |lat_deg=41 |lat_min=58 |lat_sec=43 |lat_dir=N |lon_deg=087 |lon_min=54 |lon_sec=17 |lon_dir=W |position=left |marksize=10 |label=ORD}}
** 運航乗員:3名
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*** [[機長]]:ウォルター・ラックス(53歳)
}}
*** [[副操縦士]]:ジェームズ・ディラード(49歳)
アメリカン航空191便は、[[アメリカ合衆国]]の国内定期便で、[[イリノイ州]][[シカゴ]]の[[シカゴ・オヘア国際空港|オヘア国際空港]]発、[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]の[[ロサンゼルス国際空港]]行きであった{{sfn|加藤|2001|p=38}}<ref name=asn/>。1979年5月25日の便には乗客258人、乗員13人の計271人が搭乗していた{{sfn|加藤|2001|p=38}}。
*** [[航空機関士]]:アルフレッド・ウドヴィッチ(56歳)
** [[客室乗務員]]:10名
** [[乗客]]:258名
 
[[File:McDonnell Douglas DC-10-10, American Airlines JP5931060.jpg|thumb|left|1974年にオヘア国際空港にて撮影された事故機]]
== 事故の概要 ==
使用機材は、[[マクドネルダグラス DC-10|DC-10-10]]型機であった{{sfn|NTSB|1979|p=76}}。DC-10型機は左右の主翼下に1基ずつと、垂直尾翼の付け根に1基の計3基のエンジンを備えた旅客機である{{sfn|NTSB|1979|p=76}}。[[機体記号]]は「N1100AA」であり、エンジンは[[GE・アビエーション|ゼネラル・エレクトリック]]社の[[ゼネラル・エレクトリック CF6|CF6-6D]]だった{{sfn|NTSB|1979|p=76}}。1972年2月25日にアメリカン航空に納入され、事故までの7年間の飛行時間は20,000時間弱であった{{sfn|NTSB|1979|p=76}}。[[航空日誌|飛行記録]]やメンテナンス記録の調査によると、事故前日の1979年5月24日までに機械的不具合は記録されていなかった{{sfn|NTSB|1979|p=76}}。事故当日の記録は機体のログブックに綴じられており、事故によって喪失した{{sfn|NTSB|1979|p=76}}。
[[Image:McDonnell Douglas DC-10-10, American Airlines JP5931060.jpg|thumb|right|300px|1974年に撮影された事故機]]
この日は[[金曜日]]で、晴天で視界もよく、航空機が飛行するには理想的な天候であった。アメリカン航空191便は[[オヘア国際空港]]の32R滑走路からアメリカ中部夏時間午後3時2分に離陸を開始した。
 
この日の191便の[[機長]]は53歳で、1950年にアメリカン航空に入社した{{sfn|NTSB|1979|p=75}}。機長は[[コンベア240]]、[[コンベア990]]、[[ロッキード L-188|ロッキードL-188]]、[[ボーイング727]]、[[ボーイング707|707]]、[[ダグラス DC-6|ダグラスDC-6]]、[[ダグラス DC-7|DC-7]]などの運航資格を有し、1971年12月にDC-10型機の運航資格を取得した{{sfn|NTSB|1979|p=75}}。機長は22,500時間の飛行時間を有し、DC-10型機の機長としての飛行経験は3,000時間であった{{sfn|NTSB|1979|p=75}}。[[副操縦士]]は49歳で1966年にアメリカン航空に入社し、1977年7月にDC-10型機の運航資格を取得した{{sfn|NTSB|1979|p=75}}。9,275時間の飛行時間を有し、そのうち1,080時間がDC-10型機によるものだった{{sfn|NTSB|1979|p=75}}。[[航空機関士]]は56歳で、1955年にアメリカン航空へ入社し、1971年9月にDC-10型機の運航資格を取得した{{sfn|NTSB|1979|p=75}}。航空機関士としての飛行時間は約15,000で、DC-10型機での飛行は750時間であった{{sfn|NTSB|1979|p=75}}。[[客室乗務員]]は10名で、全員DC-10型機の乗務に必要な要件を満たしていた{{sfn|NTSB|1979|p=75}}。
しかし離陸してすぐに左翼の第1エンジンがパイロン諸共脱落、主翼の上を通過して滑走路上に転がった。191便は高度600フィート(約200m)まで上昇したが左翼から燃料の白煙を引きながら左に112度傾いた。コックピットから翼は見えないため、おそらく左エンジンの脱落を乗員は最期まで把握することはできなかったが、右に舵をとりつつエンジンパワー喪失時の緊急マニュアルに従い操作してこの状況から脱しようとした。一方、エンジン脱落の瞬間を目の当たりにした管制官は慌てた様子で、「あれを見ろ、あれを!(191便の)エンジンが吹き飛んだ!手配だ、緊急着陸の手配だ!(Look at this! Look at this! He blew up an engine! Equipment! We need Equipment!)」と叫び、「アメリカン航空191便ヘビー<ref>[[後方乱気流]]の影響を避けるため、最大離陸重量が30万ポンド以上の航空機においてコールサインの後に必ずつける専門用語</ref>、引き返したいか、どの滑走路に着陸したいか?(American Air 191 Heavy, you wanna come back and to what runway?)」と尋ねたが応答はなかった。
 
== 出発から墜落まで ==
通常エンジンを一機失った際、左右の推力差で機体がロールするのを防ぐため、ほかのエンジン推力を80%前後まで落とす。また、高度に余裕を持たせるため通常より早く上昇させる必要がある。しかし191便は左に傾き下降しはじめ、水平飛行ができなくなった。この時にアマチュア写真家が撮った写真には、左翼エンジンが外れた191便がほぼ直角に傾き墜落していく様子が写されていた<ref>[[:en:American_Airlines_Flight_191]]</ref>。この時の機体の高度はわずか高度325フィート(およそ107m)で、急速に降下し始めた。
アメリカ[[中部夏時間]]14時59分<ref group="注釈">本項における時間表記は、アメリカ中部夏時間とし24時間表記を用いる</ref>、[[オヘア国際空港]]のゲートから滑走路32Rまで[[タキシング|地上滑走]]した{{sfn|NTSB|1979|p=2}}。エンジン始動から[[プッシュバック]]と地上滑走の開始までを見守っていた整備員は特に異常を感じることはなかった{{sfn|NTSB|1979|p=2}}。
 
当時の天候は晴れで視程は{{convert2|15|mile|km|abbr=off}}、地上付近は風速{{convert2|22|kn|mph km/h|abbr=off}}の北西の風が吹いていた{{sfn|NTSB|1979|pp=1–2}}。15時02分、191便は離陸許可を得て滑走路32Rにて離陸滑走を開始した{{sfn|NTSB|1979|p=2}}。[[ブラックボックス (航空)|コックピットボイスレコーダ]]には、V{{sub|1}}([[離陸決心速度]])、V{{sub|R}}(引き起こし速度)を読み上げる声が記録されていた{{sfn|NTSB|1979|p=2}}。
離陸を始めてから34秒後の午後3時4分に4,600フィート離れた格納庫付近に墜落し、大爆発を起こした。機体は原形をとどめないほど破壊され、現場には犠牲者の遺体の一部が散乱していた。この事故で191便に搭乗していた271名全員と地上にいた2名(整備士)が死亡、2名が重傷を負った。本件事故での死者数は1978年9月に起きた[[パシフィックサウスウエスト航空182便墜落事故]]の数字を上回り、[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ]]に伴う旅客機による自爆テロを除けば、アメリカ民間航空史上最悪の数字である。
 
[[File:DC-10-3engines.svg|thumb|DC-10型機のエンジン配置。]]
== 事故原因 ==
ここまで順調に離陸滑走が続いたが、浮揚のための機首上げ操作時に、左翼から第1エンジンがパイロン(エンジンを翼下に吊り下げる構造部)とともに分離した{{sfn|加藤|2001|p=40}}。パイロンとエンジンは翼の前方上側に巻き上がり、翼の上を通過して滑走路に落下した{{sfn|NTSB|1979|p=2}}<ref name=GaM/>。さらに、左翼の前縁部 0.9 メートルも脱落した{{sfn|加藤|2008|loc=位置No.927/3446}}。第1エンジンのパイロンが外れた辺りから白煙または霧状ものが出ているのも目撃されている{{sfn|NTSB|1979|p=2}}。エンジン分離を目の当たりにした管制官は、直ちに「アメリカン航空191便、引き返したいか?どの滑走路か? (Alright, American 191 heavy--do you want to come back and to what runway?) 」と無線で尋ねたが返答はなかった<ref name=chicago-tribune-20040525/><ref>{{Cite web |first1=Douglas |last1=last1Feaver |first2=Rob |last2=Warden |title=270 Killed in Chicago Jet Crash |date=1979-05-29 |work=The Washington Post |url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1979/05/26/270-killed-in-chicago-jet-crash/8ffec85e-dadb-4de0-8b84-ed0ecce85715/ |accessdate=2016-10-29}}</ref>。
[[Image:AA191-responders.png|thumb|right|300px|191便の残骸を調査する事故調査官]]
本件事故以前に[[DC-10 (航空機)|DC-10]]には貨物ドアの設計ミスから墜落する事故を起こした前例があった(詳細は[[トルコ航空DC-10パリ墜落事故]]を参照)。
 
191便は離陸を継続し、アメリカン航空が定めたエンジン停止時の緊急手順に従ってパイロットは飛行速度を調整した{{sfn|加藤|2001|p=64}}。機体が地面から{{convert2|140|feet|m|abbr=off}}まで上昇した時点で、速度は{{convert2|172|knot|km/h|abbr=off}}に達していた<ref name=FAA/>。機体は上昇を続けたが、ここから減速し始めて{{convert2|325|feet|m|abbr=off}}まで上昇したところで速度は{{convert2|159|knot|km/h|abbr=off}}となった<ref name=FAA/>。ここで機体が左へ傾きだし、毎秒4度以上の急激な[[ローリング|ロール]]が始まった{{sfn|加藤|2001|pp=36, 40–41, 60–63}}{{sfn|岩瀬|2009|p=15}}。続いて急激に左への機首振り([[ヨーイング|ヨー運動]])が始まり、さらに機首が下がって降下しだした{{sfn|加藤|2001|pp=36, 40–41, 60–63}}。ロール運動は垂直を超えるまで続き、15時04分頃、左翼と機首を下げた姿勢で墜落した{{sfn|加藤|2001|p=36, 41}}。
事故発生の直後に行われたパイロン(継ぎ手)の緊急検査で複数の機体に亀裂が生じていることが判明した。そのため、機体の欠陥によって再びこのような大惨事を起こしたと見なされ、アメリカ連邦航空局はDC-10の[[耐空証明]](自動車の車検に相当)の効力を一時停止したことから、アメリカ国籍の全てのDC-10は地上待機を余儀なくされた。また、他の国の航空当局も追随して同様の処置を執ったため全世界のDC-10が運航停止となり、[[日本航空]]をはじめとするDC-10を運用している他国の航空会社にも影響が波及し、大きな経済的損失を与えた。
 
[[File:AA191-crash-site.png|thumb|191便の墜落現場の空撮写真。]]
=== パイロンの亀裂 ===
墜落地点は、滑走路32Rの離陸側終端から北西に約{{convert2|4600|feet|m|abbr=off}}にある開けた土地だった{{sfn|NTSB|1979|p=6}}。機体は爆発し、墜落の衝撃と火災で破壊された{{sfn|加藤|2001|p=36}}。残骸は墜落地点とその隣にあったトレーラー・パークに飛散した{{sfn|NTSB|1979|p=6}}{{sfn|加藤|2001|p=41}}。火災により倉庫として使用されていた古い格納庫など墜落地点付近の6棟が全焼し、トレーラーハウスも5棟が全半焼した{{sfn|Job|1996}}<ref name=asahi-19790527-23/>。墜落地点から約100メートルの場所にいた目撃者は、「見上げると炎の雨が降ってきた」と述べている<ref name=chicago-tribune-20040525/>。
[[Image:DC-10 engine-pylon.svg|thumb|right|300px|事故の引きがねになったDC-10のエンジンとパイロン構造]]
事故機から外れて滑走路上に遺された第一エンジンを調査した結果、パイロンのバルクヘッドに通常では起こりえない亀裂が生じ、離陸時のわずかな衝撃でバルクヘッドが破損し、エンジンが脱落したことが判明した。そして、バルクヘッドの亀裂は、マニュアルから逸脱した整備方法に起因していた事が明らかになった。このマニュアルから逸脱した整備方法は経済性向上のために導入されたもので、緊急点検の際に事故調査官がその作業手順を目の当たりにしたことで発覚した。
 
乗客乗員271人は全員死亡し、地上にいた2人も巻き込まれて死亡、2人が火傷を負った{{sfn|加藤|2001|pp=41–42}}。犠牲者の遺体は墜落の衝撃と火災で激しく離断・損傷して散乱し、現場に駆けつけた消防士は「遺体が男性か女性か、あるいは大人か子供かも判らない状況だった」と証言している{{sfn|Job|1996}}。
マニュアルに記載されたエンジンの正しい[[オーバーホール]]手順では、専用の整備器具を用意した上でエンジンと主翼を連結している給油ホースや電気系統ケーブルをパイロン附近で分離し、エンジンを外してからパイロンを取り外さなければならない。191便を整備していた航空会社では、この過程を省略することで作業効率の向上を狙い、[[フォークリフト]]で下からエンジンを支え、パイロンとエンジンを分離せぬままに両者を翼から外していた。パイロンからエンジンをはずすためには200箇所近い固定部分をはずさなくてはならなかったが、パイロンはボルト三本だけで翼に固定されているため、パイロンごと取り外すと大幅に時間が削減できた。
 
シカゴの[[クック郡病院]]では事故の知らせを受けて、ただちに災害対応の緊急体制が敷かれた<ref name=chicago-tribune-20150524/>。しかし、1時間も経たないうちに生存者がいないとの連絡とともに体制が解除され、病院職員たちは衝撃を受けた<ref name=chicago-tribune-20150524/>。
取り外し作業こそ問題がなかったものの、取り付ける際にはエンジンとパイロンで合計7トンもあるためフォークリフトで持ち上げるしかなかった。しかしフォークリフトは1cm程度の操作が限界であり、運転手からは見えないため別の作業者が位置や高さを指示していた。また、クレバスと呼ばれる翼側の固定部の間にパイロンのバルクヘッドを入れる際、上昇させすぎてクレバスの先端がバルクヘッドに接触することがあった。
 
== 事故調査 ==
事故機も墜落の8週間前にエンジンの取り付けを行っており、このときに亀裂が生じたと推測された。エンジンは前後に推進力とその反作用を生み出すだけではなく、左右に揺れるため亀裂は徐々に広がり、191便として離陸した瞬間に限界に達した。その後の調査でこのような亀裂は、同様の整備方法を採っていたアメリカン航空と他の航空会社1社の複数のDC-10にもあったことが判明した。また、同じ方法で整備を行っていた別の航空会社([[コンチネンタル航空]])でも同様の事象が見られ、本件事故発生前の時期にマニュアルに則った方法で修理がなされていた。この整備方法を考案したオヘア空港の整備担当主任は事故調査委員会での証言直前に自宅で自殺している(アメリカ人の引責自殺は極めて稀)。
アメリカの[[国家運輸安全委員会]] (National Transportation Safety Board; NTSB) が事故調査を行った<ref name=asn/><ref name=asahi-19790526-1-1/><ref name=asahi-19791222-19/>。
 
墜落地点の機体の残骸は、激しく分解して散乱しており、それらからは有益な情報をほとんど得られなかった{{sfn|加藤|2001|p=42}}。しかし、[[ブラックボックス (航空)|フライトデータレコーダとボイスレコーダ]]は火災や熱を免れ回収に成功した{{sfn|加藤|2001|p=42}}<ref name=asahi-19790528-9/>。構造的な損傷により2か所で計6秒分のデータが欠落したが、大部分のデータは復元された{{sfn|加藤|2001|p=42}}。フライトデータレコーダは離陸滑走中のデータを50秒間、空中でのデータを31秒間記録していた{{sfn|加藤|2001|p=43}}。一方、コックピットボイスレコーダは第1エンジンの分離とほぼ同時に機能停止していた{{sfn|NTSB|1979|p=4}}{{sfn|加藤|2001|p=43}}。これは、コックピットボイスレコーダの電力を第1エンジンの発電機から得ていたため、エンジン分離により給電が停止したためであった{{sfn|NTSB|1979|p=4}}{{sfn|加藤|2001|p=43}}。コックピットボイスレコーダに最後に残された音声は "Damn!"(クソッ!、チクショウ!の意)であった{{sfn|NTSB|1979|p=4}}{{sfn|加藤|2001|p=43}}<ref name=asahi-19790528-9/>。また、フライトデータレコーダでも、第1エンジンから電源を得ていたデータだけ同じタイミングで記録を停止した{{sfn|NTSB|1979|p=4}}。
===エンジン喪失に伴う機能停止===
事故機は墜落のおよそ50秒前に二つの[[ブラックボックス (航空)|ブラックボックス]]の記録が終わっていた。これはブラックボックスの電力が第一エンジンから供給されていたからである。[[コックピットボイスレコーダー]]に最後に記録されていたのは大きな音(エンジンが脱落した際の音と思われる)と、副操縦士の発した「クソッ!("Damn!")」という言葉だった。管制官はエンジン脱落の際、パイロットに無線で空港に引き返すかどうかを尋ねているが、応答はなかった。その後の調査で無線システムにも機能不全が起こった可能性が示唆されている。
 
また、空港の敷地内に落ちていた第1エンジンのパイロン関係部品は有力な手掛かりとなった{{sfn|加藤|2001|pp=42–55}}。第1エンジンとパイロンが、滑走路32Rの出発側の端から6953フィート (約219メートル) を超えたところで、中心線から右へ19フィート (約5.8メートル) それた地点から回収された{{sfn|加藤|2001|p=42}}。また、同エンジンのカウリング(覆い)とパイロン直上の主翼前縁の一部もその付近で発見された{{sfn|加藤|2001|p=42}}。
電力が絶たれ、機能を停止したのはブラックボックスと無線システムだけではなかった。第一エンジンから電力を得ていた[[失速警報装置]]と[[高揚力装置|スラット]]不一致センサーも機能停止した。パイロットはエンジン停止時のマニュアルに従い機体を上昇させ、まず高度を確保しようとした。これは通常通りの操作だったが、事故機はエンジン脱落の際に左翼の油圧配管が損傷し油圧が抜けたため、右側のスラットはすべて出ていたが、左主翼のスラットはエンジンから外側のスラットが格納されてしまった。このため左翼の揚力が急減少し、機体は左にロールした。さらに揚力が減ったため通常の上昇速度でも失速する状態になっていた。
 
乗員の検死結果からは、操縦に影響する生理学的問題があった証拠は発見されなかった{{sfn|NTSB|1979|p=11}}。
しかし失速警報装置とスラット不一致センサーが止まっていたため、パイロットはエンジンパワーをあげることなく操縦桿を必死に右に傾け、機体を上昇させようとした。
 
目撃者の証言やフライトデータレコーダの記録、そして機体部品の落下状況から、「エンジンとパイロンが一体で機首上げ時かその直後に分離し、同じ頃機体が浮揚した」ことは確実と言えた{{sfn|加藤|2001|p=46}}。このとき事故機の速度は離陸決心速度 (V{{sub|1}}) を超えていたことから、パイロットは規定通り離陸を続行しており、当時の状況では適正な判断であった{{sfn|加藤|2001|p=46}}。
後のフライトシミュレーションによる検証では、このような状況下であっても失速警報が機能していれば、パイロットは警報がなった時点で失速からの回復動作を行い上昇すれば安全に離陸でき、そのうえ無事に緊急着陸できたことが判明した。しかし、これは本件事故の事例分析から導き出された結論であり、事故に関して191便の操縦乗員に一切の責任は無い。<ref>実際、シミュレーターで事故機と同じ状況(失速警報不作動)でパイロットに操縦させたところ、事故機と同じように墜落した</ref>
 
=== なぜパイロンが分離したか ===
== 事故への対策 ==
[[File:DC-10 engine-pylon.svg|thumb|right|350px|'''{{Visible anchor|図A}}''' DC-10型機の第1エンジンとパイロンの断面図。"Fwd Wing/Pylon Attach Point" の位置にフォワード・パイロン・バルクヘッド、"Aft Wing/Pylon Attach Point" の位置にアフト・パイロン・バルクヘッドがある。]]
この事故を招いた原因は、経済効率第一主義の航空会社の不適切な整備方法(本件事故発生以降はマニュアル通りの整備作業手順に戻された)であったが、それを見逃した航空当局と製造メーカーも非難された。また、DC-10の翼前面の高揚力装置が再び離陸中に格納されないようにするため、油圧配管にバルブを設置し油圧が抜けないような処置がとられた。そして、失速警報やブラックボックスなどの重要な装置の電源は、必ず複数の電力系統から得ることを義務付けられた。
[[File:FedEx MD-10-10F; N556FE@LAX;18.04.2007 463xe (7282838026).jpg|thumb|DC-10型機を左側から見る。写真は貨物型だが、翼やエンジンは基本的に事故機と同じである。]]
事故調査委員会は、なぜ第1エンジンとパイロンが分離したかを調査した{{sfn|加藤|2001|pp=43–55}}。DC-10型機の第1エンジンと左主翼の断面図が[[#図A|図A]]である。エンジンは、パイロンを介して主翼の下側前方に吊り下げられている{{sfn|加藤|2001|pp=41, 43}}。エンジンとパイロンは基本的に前後2か所で接合されており、パイロンと主翼も前後2か所で接合されている{{sfn|加藤|2001|pp=41, 43–44}}。パイロンが主翼と接合される構造物の中で強度的役割を果たすのは「バルクヘッド」と呼ばれ、前側が「フォワード・パイロン・バルクヘッド」(図ではFwd Wing/Pylon Attach Pointにあたる)、後ろ側が「アフト・パイロン・バルクヘッド」(図ではAft Wing/Pylon Attach Pointにあたる)である{{sfn|加藤|2001|pp=41, 43–44}}。
 
パイロンの接合部は徹底的に調査され、パイロンの分離は、アフト・パイロン・バルクヘッドの上部から始まったと結論づけられた{{sfn|加藤|2001|pp=45, 47}}。フォワード・パイロン・バルクヘッドの分離点における破壊や変形は、全て過荷重によるものであった{{sfn|加藤|2001|p=46}}。一方、アフト・パイロン・バルクヘッドでは、上部[[フランジ]]の一部に3インチ (約7.6センチメートル) の疲労亀裂があり、それ以外の破壊や変形は全て過荷重によるものであった{{sfn|加藤|2001|p=49}}。また、アフト・パイロン・バルクヘッドの上側は、翼側に残っていた{{sfn|加藤|2001|p=49}}。変形や破壊の状況から、パイロンの分解はアフト・パイロン・バルクヘッドからはじまり、これがパイロンの後端を下方内側へ動かし、パイロン全体の分離に至ったと結論づけられた{{sfn|加藤|2001|p=49}}。機首上げ時にバルクヘッドには垂直下向きの引っ張り荷重かかっており、パイロン分離の順序や動きの方向はこの荷重と辻褄があっていた{{sfn|加藤|2001|p=49}}。事故調査委員会は、バルクヘッドがどの時点で破壊したかを正確には特定できなかったが、離陸滑走時の機首上げ時に破壊したことはほぼ確実であった{{sfn|加藤|2001|p=50}}。
== 備考 ==
* 前述の耐空証明の効力停止は7月11日には解除されたが、事故を理由にこのような措置を取られたのは西側では[[デ・ハビランド DH.106 コメット|デハビランド コメット]](原因は胴体の強度不足)以来の事態であった。世界各国のDC-10の運航乗員の多くは地上待機を強いられた。
 
アフト・パイロン・バルクヘッドの上部フランジには、翼側の固定部品が接触したことを示す変形が残っていた{{sfn|加藤|2001|pp=50, 54}}。バルクヘッドを翼に取り付けた状態では、フランジと翼側部品との間には、通常0.5インチ (約1.3センチメートル) の隙間ができるはずであった{{sfn|加藤|2001|p=50}}。フランジの接触痕は、フランジに生じた過大応力による亀裂が、整備時のパイロンの付け外し作業中に発生したことを示すものだった{{sfn|加藤|2001|p=50}}。
* 日本の運輸省(当時)もアメリカの措置の翌日の[[6月7日]]に耐空証明を取り消したが、当時[[ニューヨーク]]から東京に向かっていた日本航空のDC-10(機体記号:JA8534)は経由地の[[テッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港|アンカレッジ]]で飛行停止に追い込まれた。そのため、日本航空は運航基地の[[成田国際空港]]へ回送するため、アメリカの航空当局から既に航空機とは見なされていないDC-10の片道回送飛行の許可を超法規的措置で受け、[[6月10日]]に日本へ帰国した。
 
=== 推奨手順から逸脱した整備 ===
*[[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]が放送している「衝撃の瞬間4」(第9話:シカゴ航空機事故)と「[[メーデー!:航空機事故の真実と真相]]」(シーズン10 第7話:AMERICA'S DEADLIEST)でこの事故の検証番組が放送されている。
事故機の第1エンジンと第1パイロンは、事故の8週間前に一度取り外されていた{{sfn|加藤|2001|p=50}}。この時の作業は、マクドネル・ダグラス社がユーザに出した技術情報に基づき、パイロンと翼を繋ぐ軸受けを交換するためのものであった{{sfn|加藤|2001|p=50}}。同じ整備プログラムで、アメリカン航空とコンチネンタル航空のDC-10型機がエンジンとパイロンの取り外し作業を行っていた{{sfn|加藤|2001|p=50}}。事故機以外に、アメリカン航空の4機とコンチネンタル航空の2機から、アフト・パイロン・バルクヘッドに事故機と同様の亀裂が発見された{{sfn|加藤|2001|pp=50–51}}。亀裂が整備作業中に生じたことは、別の2機からも確証が得られた{{sfn|加藤|2001|pp=50–51}}。コンチネンタル航空では、この事故前にパイロンの脱着作業中にバルクヘッドを2度損傷していたが、それぞれマクドネル・ダグラス社が認めた方法で再修理されていた{{sfn|加藤|2001|pp=50–51}}。コンチネンタル航空は、この時の損傷を整備ミスに起因し、重要な問題ではないと判断した{{sfn|"Deadly Efficiency"|p=3}}。同社はマクドネル・ダグラス社には報告していたが、アメリカの[[連邦航空局]] (Federal Aviation Administration; FAA) には報告しなかった{{sfn|"Deadly Efficiency"|p=3}}。
 
アフト・パイロン・バルクヘッドの上部フランジの過荷重による亀裂は、航空会社の整備手順に起因することが判明した{{sfn|加藤|2001|p=51}}。メーカーであるマクドネル・ダグラス社が推奨した正規手順では、まずエンジンをパイロンから取り外し、その後パイロンを翼から取り外すことになっていた{{sfn|加藤|2001|p=51}}。しかし、両航空会社は整備時間を短縮するため、推奨手順から逸脱した手順を開発した{{sfn|加藤|2001|pp=51–52}}<ref name="FAA"/>。その手順とは、エンジンとパイロンを一体のままで、その全重量をフォークリフトで支えて取り下ろす方法であった{{sfn|加藤|2001|p=52}}。エンジンを取り外す際には油圧系統や燃料系統の配管や電気配線などを切り離す必要がある{{sfn|NTSB|1979|p=26}}。エンジンを外した後にパイロンを外す正規の手順では、72か所の切り離し作業が必要であったが、アメリカン航空方式では27か所で済んだ{{sfn|NTSB|1979|p=26}}。アメリカン航空は、この手順の是非をマクドネル・ダグラス社に問い合わせていた{{sfn|NTSB|1979|p=26}}。マクドネル・ダグラス社は、推奨できない方法だと回答したが、同社は航空会社の手順に対して承認や禁止する権限を持っていなかった{{sfn|NTSB|1979|p=26}}。アメリカン航空は、エンジンとパイロンを一体で取り外す手順を採用することを決定した{{sfn|NTSB|1979|pp=26–29}}。
 
1979年3月29日から31日にかけて、フォークリフトを用いて事故機のエンジンを着脱する作業が実施された{{sfn|NTSB|1979|p=29}}。その時の手順は次のとおりであった{{sfn|加藤|2001|p=52}}。まず、エンジンの保持台をエンジンにあてがい、エンジン、パイロン、そして保持台全体の重心位置にフォークリフトを移動させた{{sfn|加藤|2001|p=52}}。次に、エンジン・パイロン・保持台の全重量をフォークリフトにより支えた{{sfn|加藤|2001|p=52}}。そして、パイロンと主翼の接合部を外して、フォークリフトを下げた{{sfn|加藤|2001|p=52}}。パイロンと翼を繋ぐ軸受けを点検・交換した後、再びフォークリフトを上げて翼との結合部を固定した{{sfn|加藤|2001|p=52}}。
 
DC-10型機の第1エンジンは翼の前方に突き出しており、フォークリフトで支える重心位置はフォワード・パイロン・バルクヘッドより前方にあった{{sfn|加藤|2001|p=55}}。また、パイロンと翼の結合部における構造部材間の距離はわずかであった{{sfn|加藤|2001|p=52}}。アメリカン航空の手順では、パイロンを翼から外す際に、アフト・パイロン・バルクヘッドの結合部から外していた{{sfn|加藤|2001|p=54}}。この時、フォークリフトがエンジンを支える力が抜けると、フォワード・パイロン・バルクヘッドを旋回軸として、パイロン後部が翼に接触することになる{{sfn|加藤|2001|pp=54–55}}。フォークリフトはその仕組み上、運転者が感知できない程度にフォークが下がってしまう可能性があり、精密な調整が困難であった{{sfn|加藤|2001|pp=52–53}}<ref name=FAA/>。事故機の作業に当たった整備員のうち2人が、アフト・パイロン・バルクヘッドの上部が、翼側の固定部品に当たっているのを見たと証言した{{sfn|加藤|2001|p=53}}{{sfn|NTSB|1979|p=29}}。この動きは、アフト・パイロン・バルクヘッドの上部フランジの変形と整合性のあるものであった{{sfn|加藤|2001|p=53}}。事故後の実験により、事故機と同程度にフランジが変形すると、過荷重による亀裂が発生することが確認された{{sfn|加藤|2001|p=53}}。実際、事故機のアフト・パイロン・バルクヘッドには、過荷重による破壊と疲労により事故前に発生していたと判定される亀裂が見つかった{{sfn|加藤|2001|pp=53–54}}。この亀裂は、整備時のパイロンと翼の接触に起因すると結論づけられた{{sfn|加藤|2001|pp=53–54}}。
 
=== 墜落直前の損傷状況 ===
事故調査でもう一つ焦点となったのは、なぜ事故機が墜落したかということであった{{sfn|加藤|2001|p=56}}。通常、複数のエンジンを装備する航空機は、エンジン1基が停止しても飛行を継続できるよう設計されている{{sfn|加藤|2001|p=56}}。事故当時、分離した第1エンジンとパイロンは、前方上側を回転して翼の上を通過するのが目撃された{{sfn|加藤|2001|p=56}}。残骸の調査結果から、エンジンとパイロンが、揚力面や操縦翼面にぶつかった形跡は見つからなかった{{sfn|加藤|2001|p=56}}。墜落直前に撮影された事故機の写真を解析した結果、尾翼や尾部への損傷は見られなかった{{sfn|NTSB|1979|p=11}}。エンジン脱落による推力喪失や主翼前縁の破壊による左右非対称効果は、航空機を制御不能にするほどではなかった{{sfn|加藤|2001|p=56}}。そのため、事故調査委員会は、パイロン以下が分離した影響を詳細に調査した{{sfn|加藤|2001|p=56}}。
 
DC-10型機の第1エンジンは、No. 1 油圧系統の油圧ポンプ、およびNo. 1 交流電源系統の発電機も駆動していた{{sfn|加藤|2001|p=56}}。通常のエンジン停止時には、これらの油圧・電源系統は残りのエンジンによって油圧や電力が維持されるよう設計されている{{sfn|加藤|2001|pp=56–57}}。油圧や電気系統の[[冗長化|冗長設計]]により、第1エンジンにより駆動される機能が失われても、それがただちに航空機の制御に影響し無いよう考慮されている{{sfn|加藤|2001|pp=58–59}}。しかし、本事故ではパイロンもろともエンジンが分離したため、油圧配管や電気配線などが損傷を受けた{{sfn|加藤|2001|pp=56–59}}。
 
油圧系統では、左主翼前縁を通る4本の油圧管が破損し、3系統ある油圧系統のうち2系統(No. 1 および No. 3 系統)から油漏れが発生した{{sfn|加藤|2001|p=59}}。これにより、[[スポイラー]]の一部と左翼外側にある[[高揚力装置|スラット]]が機能しなくなった{{sfn|加藤|2001|p=59}}。スラットとは、翼の前縁の一部を前方下側に押し出すことで揚力を増やし、高い迎角まで失速を防ぐ装置である{{sfn|加藤|2001|p=60}}<ref>{{Citation|和書 |last=李家 |first=賢一 |contribution=高揚力装置 |editor= 飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |pages=221–223 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>。
スラットは油圧アクチュエータにより伸展され、制御バルブを閉じることで油圧作動液が油圧管の中に閉じ込められ、出し位置が固定される{{sfn|加藤|2001|p=60}}。事故を起こしたDC-10-10型機は、スラット出し位置を油圧のみによって維持する設計になっていた<ref name=FAA/>。
 
油圧管の損傷部位は、スラットを出し入れする油圧アクチュエータとそれを制御するバルブの間であった{{sfn|加藤|2001|pp=58–59}}。このため作動液が流失し、空気力の荷重によりスラットが押し戻され格納されてしまった{{sfn|加藤|2001|p=60}}。ただし残りの動翼については、スポイラーの一部を除くと操縦翼面(機首を上げ下げする[[昇降舵]]、左右に向ける[[方向舵]]、機体を左右に傾ける[[補助翼]])は全て機能していた{{sfn|加藤|2001|p=59}}。
 
電気系統では、パイロン内の[[ワイヤーハーネス]]が損傷し、その中には、第1エンジンの発電機から No. 1 交流系統への給電線も含まれていた{{sfn|加藤|2001|p=57}}。ただし、この給電線は、残存していた給電線から電力を得る経路も用意されていた{{sfn|加藤|2001|p=57}}。しかし、発電機故障の影響が広がるのを防ぐための保護回路が作動し、No. 1 交流系統から供給されるNo, 1 直流給電線、左緊急交流給電線、左緊急直流給電線への電量が断たれた{{sfn|加藤|2001|p=57}}。これらの給電線は、墜落まで復旧しなかった{{sfn|加藤|2001|p=57}}。左の緊急交流給電線と緊急直流給電線は、操縦室内の緊急スイッチによりそれぞれ回復可能であった{{sfn|加藤|2001|p=57}}。しかし、この操作が行われた形跡は見つからなかった{{sfn|加藤|2001|p=58}}。事故調査報告書では、「運航乗務員は、失われた電力系統の回復操作を恐らく試みなかった」としておりその理由は「緊急事態全体の性質が、電気系統の問題より緊急性が高かった、または、電気的問題に対処する時間的余裕がなかった」とまとめている{{sfn|NTSB|1979|p=52}}{{sfn|加藤|2001|p=58}}。離陸から墜落までの時間がわずか30秒しかなかった点も指摘されている{{sfn|井戸|1980|pp=38–39}}。
 
電力が回復しなかったことで、機長席の{{仮リンク|フライト・ディレクター|en|Flight director (aeronautics)}}と一部のエンジン計器が機能停止した{{sfn|加藤|2001|p=58}}。そして、事故調査報告書は最も重要なこととして、失速警報装置とスラット不一致警報装置も作動しなくなったことを指摘している{{sfn|加藤|2001|p=58}}。フライト・ディレクターは、パイロットに操縦桿をどう動かすべきかを指示する飛行計器である{{sfn|加藤|2001|p=58}}。失速警報装置は、スティック・シェイカーと呼ばれ、失速領域に入った場合に操縦桿を振動させて操縦者に警告を与えるもので、事故機では機長席にのみ装備されていた{{sfn|加藤|2001|p=58}}{{sfn|井戸|1980|p=40}}。スラット不一致警報装置は、スラット状態が左右非対称の場合に点灯する{{sfn|加藤|2001|p=58}}。
 
=== 墜落に至る飛行特性の変化 ===
以上の損傷の積み重ねで、次のような飛行状態となった。まず、左外側のスラットのみが格納されてしまったことで、左翼だけ揚力が減少し、左翼が失速する速度が上昇した{{sfn|加藤|2001|p=60}}。すなわち、左翼だけが低い速度で失速しやすい状態となった{{sfn|加藤|2001|p=60}}。事故機の[[空気力学]]特性と操縦性はパイロットの意図しない状態となった{{sfn|加藤|2001|pp=60–65}}。
 
事故機は、航空会社が規定したエンジン停止時の手順に従って飛行していた{{sfn|加藤|2001|p=61}}。機長席のフライト・ディレクターが機能停止していたことから、副操縦士が操縦を担当していたと推察されている{{sfn|加藤|2001|p=61}}。副操縦士は、フライト・ディレクターの指示に従い[[ピッチング|ピッチ]]姿勢(機首上げ角)を維持した{{sfn|加藤|2001|p=61}}。この操縦は、航空機を安全離陸速度 (V{{sub|2}}) まで減速することを意味した{{sfn|加藤|2001|p=61}}。そして、V{{sub|2}}+6ノット (時速約11キロメートル)まで減速したとき、機体は左に傾き始めた{{sfn|加藤|2001|p=61}}。この時の速度は、159ノット (時速約294キロメートル) であり、スラットが格納された左翼の失速速度であった{{sfn|加藤|2001|pp=60–61}}。
 
コックピットから主翼とエンジンを目視できず、スラットの位置を示すシステムも停止していた{{sfn|加藤|2001|p=61}}。そのため、パイロットはスラットが格納されたこととそれによる飛行特性の変化を知ることはできなかった{{sfn|加藤|2001|p=61}}。電気系統の損傷により、失速警報装置とスラット不一致警告装置も機能しなかった{{sfn|加藤|2001|p=64}}。したがって左翼の失速が始まった時、警告は殆どあるいは全くなかったと考えられている{{sfn|加藤|2001|p=61}}。失速すると、翼の周りの気流が剥離する<ref>{{Citation|和書 |last=李家 |first=賢一 |contribution=飛行機の失速 |editor= 飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |page=268–270 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>。剥離した気流が後方の水平安定板にあたるとバフェッティングという振動を生じ、これは失速状態を知る手段の一つとなる{{sfn|加藤|2001|p=61}}。しかし、事故機の左内側のスラットは正常に伸展していたので、尾翼には剥離流が当たらなかった{{sfn|加藤|2001|pp=61–62}}。さらに、フライトデータレコーダによると、当時若干の気流の乱れがあり、バフェッティングをわかりにくくしたとも推察されている{{sfn|加藤|2001|p=61}}。
 
機体が左に傾き始めた速度は、V{{sub|2}}プラス6ノット (時速11キロメートル) であり、「運航乗務員は機体の失速速度より充分大きいと信じていた」と推測されている{{sfn|加藤|2001|p=62}}。事故調査報告書は、「乗員が左への傾き(ロール)が失速によるとは認識しておらず、混乱させた。なぜならスティック・シェイカーが作動していなかったからである」と述べている{{sfn|加藤|2001|p=62}}。
 
=== シミュレータ試験 ===
[[フライトシミュレータ]]を用いたシミュレータ試験が実施された{{sfn|NTSB|1979|pp=22–25}}。フライトデータレコーダのデータ、事故機を模擬した風洞実験から得られた空気力学特性、そして事故当時の気象条件がフライトシミュレータに反映された{{sfn|NTSB|1979|pp=22–25}}。このシミュレータ試験では、以下の条件が再現された{{sfn|NTSB|1979|pp=22–25}}:
# 第1エンジンとパイロンが無くなったことによる空気力学特性や操縦性の変化
# 左外側スラットの意図しない格納
# No. 1 およびNo. 3 油圧系統の損傷
また、失速警報装置は機能する場合と停止する場合のそれぞれがシミュレートされた{{sfn|NTSB|1979|pp=22–25}}。シミュレータ試験には、13人のパイロットが参加した{{sfn|NTSB|1979|p=23}}。シミュレータ試験では70回の離陸と2回の着陸が実施された{{sfn|NTSB|1979|pp=22–25}}。それぞれの試行において、事故機のフライトデータレコーダから得られた飛行状況を再現するよう試みた{{sfn|NTSB|1979|pp=22–25}}。
 
シミュレータ試験の結果、159ノット (時速約294キロメートル) を超える速度では、非対称な左右の揚力を打ち消し、安定した飛行が可能であった{{sfn|加藤|2001|pp=60, 62}}。しかし、速度が159ノットまで下がると、失速が始まった{{sfn|NTSB|1979|pp=22–25}}。この際、ロールの開始を失速と認識できた場合は、多くのパイロットが機首を下げて加速して失速域から離脱し、操縦を回復できた{{sfn|加藤|2001|pp=62–63}}。ただし、この時のパイロットは、事故の状況を事前に承知していた{{sfn|加藤|2001|p=63}}。シミュレータ試験に参加した全てのパイロットは「第1エンジンと左翼を目視できず失速警報装置も働かなかった状況では、事故機のパイロットが、ロール開始を失速と認識して失速から回復させるのは合理的ではない」と証言した{{sfn|NTSB|1979|p=24}}{{sfn|加藤|2001|p=63}}。事故調査委員会も同じ見解を示した{{sfn|加藤|2001|p=63}}。
 
スラットが左右非対称になった状態でのDC-10型機の離陸・着陸条件を見極めるため、アメリカ連邦航空局は、追加のシミュレータ試験を実施した{{sfn|NTSB|1979|pp=24–25}}。墜落直前のスラットの状態を再現したシミュレーション飛行を行い、約84回の離陸と28の着陸を実施した{{sfn|NTSB|1979|pp=24–25}}。この試験では、失速警報装置とスラット不一致警報装置は正常に機能させた{{sfn|NTSB|1979|pp=24–25}}。シミュレータ試験では、事故時と同じ飛行特性であっても、事故当時のアメリカン航空の手順に従い着陸可能であることが示された{{sfn|加藤|2001|p=63}}。
 
着陸進入の最終段階での速度余裕はわずかだが、非常に危険というほどではなかったとFAAは結論付けている{{sfn|加藤|2001|p=63}}{{sfn|NTSB|1979|pp=24–25}}。これは、飛行経路の調整などで必要な推力の余裕があり、利用可能であったためである{{sfn|加藤|2001|p=63}}{{sfn|NTSB|1979|pp=24–25}}。また、着陸進入中に片側のスラットを失うことは、操縦上の大きな問題にはならなかった{{sfn|加藤|2001|p=63}}。事故機のパイロットは、アメリカン航空が定めたエンジン停止時の手順を守って飛行速度を落としたことで、結果的に失速域に入ってしまった{{sfn|加藤|2001|p=64}}。もしパイロットがより高い速度を維持していれば、墜落を回避できた可能性があった{{sfn|加藤|2001|p=64}}。
 
=== 事故原因 ===
国家運輸安全委員会は、1979年12月21日に事故調査報告書を発行し、事故の推定原因を次のとおり述べている{{sfn|加藤|2001|pp=64–65}}{{sfn|NTSB|1979|p=69}}。
{{Quotation|事故原因は、非対称な失速と続いて発生した機体のロールである。これは、第1エンジンとパイロンが離陸時に最も危険となる場面で分離したことで、左翼外側の前縁スラットが意図せず格納され、さらに失速警報装置とスラット不一致警報装置が機能停止したために起きた。エンジンとパイロンの分離の原因は、不適切な整備手順により発生したパイロン構造部の損傷である。
 
さらに、本事故につながった要因として以下が挙げられる。まず、パイロン接続部の設計が整備時の損傷に絶えうる強度ではなかったことと、前縁スラットのシステムが脆弱であり非対称な飛行特性を招いたこと。そして、連邦航空局 (FAA) の監視・報告体制が不適切な整備手順が実施されていたことを発見し防止できなかったことと、FAAが事故前に発生していた整備時の機体損傷の原因を特定し周知できなかったこと。さらに、規定されていた運航手順が、本事故の緊急事態に対処できるものでなかったことである。}}
 
事故機が制御を失ったのは、次の3事象が同時に起きたためである{{sfn|加藤|2001|p=64}}:
# 左翼外側の前縁スラットが格納されたこと
# スラット不一致警報装置が機能しなかったこと
# 失速警報装置が機能しなかったこと
これらは、個別に発生してもパイロットが制御不能になるほどではなかったが、本事故では飛行の最も重要な局面で同時に発生した{{sfn|加藤|2001|p=64}}。そして事故機の状況下では、パイロットは、続いて発生する失速を認識することもそれを防ぐことも困難であった{{sfn|加藤|2001|p=64}}。
FAAの[[耐空証明]]に必要な条件にはスラット・システムの複合故障は含まれていなかった{{sfn|福島|1981|p=8}}。要求事項ではなかったが、マクドネル・ダグラス社はエンジン1基の故障と片翼のスラット故障が同時発生した場合の[[FMEA|故障モード影響解析]]を独自に実施し、記録を必要時に閲覧できるよう残していた{{sfn|福島|1981|pp=8–9}}。それによると、「最も悪い飛行条件あるいは離陸の条件のときのみ危機的 (Critical)になろう」と注意していた{{sfn|福島|1981|pp=8–9}}。そして、この条件が揃う確率は100億分の1未満と算出されていた{{sfn|福島|1981|pp=8–9}}。
 
== 事故の余波 ==
本事故の273人という死亡者数は、2016年現在に至っても、[[アメリカ同時多発テロ事件]]を除くとアメリカ航空史上最大である<ref>{{Cite web |url=https://aviation-safety.net/statistics/worst/worst.php?list=worstground |title=Aviation Safety Network > Statistics > Worst accidents > 100 worst accidents |accessdate=2016-10-12 |date=2016-10-11}}</ref><ref>{{Cite web |title=First responders recollect chilling visions of Flight 191 crash |date=2016-05-25 |work=Daily Herald |url=http://www.dailyherald.com/article/20111014/news/710149919/ |accessdate=2016-10-22 |first=Madhu |last=Krishnamurthy}}</ref>。左翼エンジンを失った191便がほぼ垂直に傾き墜落していく写真、そしてが墜落の爆発による火柱が上がる写真が墜落の目撃者により撮影され、[[シカゴ・トリビューン]]紙に掲載された<ref name=chicago-tribune-20140524/>(写真は[[:en:File:Aa191 ohare.jpg|英語版参照]])。
 
本事故から2日後の5月27日、事故調査に当たっていたNTSBのエルウッド・ドライバー副委員長は、「エンジンを翼に固定していたボルトが折れてエンジンが脱落したのが原因と見られる」と発表し、自ら折れたボルトを持って報道陣に公開した<ref>{{cite journal |last1= |first1= |last2= |first2= |journal=JET |volume=56 |issue=13 |page=5 |title=Tuskegee Airman Heads Chicago Air Crash Probe |date=June 14, 1979 |url=https://books.google.com/books?id=BMADAAAAMBAJ&pg=PA5&lpg=PA5&dq=elwood+driver+DC-10&source=bl&ots=02rclAmVmO&sig=_XCZgXL_D8E3YUKW1DKs0QwOzXk&hl=en&ei=JiUiTNflJ5T0nQfJgYnNCw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CBkQ6AEwAQ |accessdate=April 16, 2011 }}</ref><ref name=asahi-19790528-9/>。当初、このボルトが事故原因と疑われた<ref name=asahi-19790528-9/>{{sfn|North|1979|p=46–48}}。FAAは、5月29日以降のDC-10型機の運航を停止し、問題のボルトを点検するよう指示した<ref name=asahi-19790529-1/>{{sfn|North|1979|p=46–48}}。またアメリカ以外の航空会社にも同様の措置をとるよう勧告した<ref name=asahi-19790529-1/>。
 
後の調査により問題ボルトが直接の事故原因ではないと判断された{{sfn|NTSB|1979|p=69}}。一方で、FAAが指示した点検によって、複数のDC-10型機からパイロン構造部の損傷が発見された<ref name=asahi-19790530-1/><ref name=asahi-19790530-11/>{{sfn|North|1979|p=47}}{{sfn|福島|1981|p=10}}。構造の欠陥による金属疲労が疑われたことで、FAAは新たな飛行停止措置を取った<ref name=asahi-19790530-1/><ref name=asahi-19790530-11/>。点検・修理が済んだ機体から飛行再開したが、点検により191便同様の亀裂も発見された<ref name=asahi-19790531-15/>。さらには[[ユナイテッド航空]]のDC-10型機からは製造工程に起因する亀裂も見つかり、製造会社の品質管理が問われた{{sfn|北野原|1980|pp=45–46}}{{sfn|福島|1981|p=10}}。同様の点検を実施したボーイング747やロッキードL-1011と比べて異常が多かったことから、設計不良も疑われた<ref name=asahi-19790531-15/><ref name=asahi-19790602-22/>。そして1979年6月6日、FAAはDC-10型機の[[型式証明]]の効力を緊急停止する命令を発行した{{sfn|岩瀬|2009|p=15}}<ref name=asahi-19790607-1/>。マクドネル・ダグラス社はこの措置に異議を唱えたが、当時のFAA長官ラングホーン・ボンドは、安全を優先すると述べた{{sfn|North|1979|p=47}}<ref name=asahi-19790617-3/>。型式証明の停止措置は相互協定を結んでいた各国へも波及し、日本でもDC-10型機を運航していた[[日本航空]]に対し[[運輸省]](当時)が運航停止を指示した{{sfn|North|1979|p=47}}<ref name=asahi-19790607-1/>。
 
本事故までにDC-10型機では、貨物扉の破損に起因した大きな事故が2件起きていた{{sfn|"Pylon inspections follow DC-10 crash"|p=1972}}。1972年の[[アメリカン航空96便貨物ドア破損事故]]と、1974年の[[トルコ航空DC-10パリ墜落事故]]である{{sfn|"Pylon inspections follow DC-10 crash"|p=1972}}。これらの事故では、マクドネル・ダグラス社の設計不良が非難された(ただし、191便の事故前には同問題への改修対応がされていた)<ref name="DC-10 retirement"/>。今回の事故により、改めてDC-10型機の安全性に対して世間から厳しい目が向けられた<ref name="DC-10 retirement"/>。アメリカで乗用車「[[シボレー・コルヴェア]]」の安全性問題など消費者運動に取り組んでいた[[ラルフ・ネーダー]]は、DC-10型機を「翼を持ったシボレー・コルヴェア」と批判した<ref name=chicago-tribune-20040525/>。アメリカン航空は、事故時までDC-10型機に施していた "DC-10 LuxuryLiner" のロゴ塗装を、"American Airlines LuxuryLiner" へ変更した<ref name="DC-10 retirement"/>。また、FAAの指導監督が不十分であったとの批判も上がった{{sfn|福島|1981|p=10}}。
 
ヨーロッパなどでは各国の規制当局の判断により順次飛行再開されたが<ref name=asahi-19790707-11/>、6月26日、FAAはアメリカ領空内でのDC-10型機の飛行を禁止する規制を発行した<ref name=asn/>。FAAは、NTSBの事故調査と並行してマクドネル・ダグラス社、[[アメリカ空軍]]、および民間航空技術者らの協力を得て、DC-10型機の設計がFAAの示す基準を満たしているか総合的な調査を行った{{sfn|小林|1980|p=15}}。FAAは設計データの再調査、諸元や確率の再計算、生産記録の再確認、飛行試験などを実施し、疑問点を一つ一つ解消した{{sfn|北野原|1980|p=46}}。その結果、日本では7月12日<ref name=asahi-19790712-14/>、アメリカでは7月13日に飛行停止措置が解除され、併せて短期間ごとに検査を行うことが指示された<ref name=asahi-19790714-22/><ref name=asn/>{{sfn|小林|1980|p=15}}。結果的に主要な事故原因は、不適切な整備手順であることが判明したが、DC-10型機への世間からの信頼は低下した<ref name="DC-10 retirement"/>。1979年11月、フォークリフトを用いた不適切な整備手順を実施したという理由で、FAAはアメリカン航空に500,000ドルの罰金を科した<ref name=asn/>{{sfn|"Deadly Efficiency"|p=4}}。同様の理由で、コンチネンタル航空にも100,000ドルの罰金を科した{{sfn|"Deadly Efficiency"|p=4}}。1980年1月、FAAは調査報告書を発行し、同型機の主翼パイロンの設計に欠陥はなく、十分な強度を有することを認定した{{sfn|小林|1980|p=15}}。
 
本事故後、重要な整備手順に対するFAAの監督体制が強化された<ref name=asn/>ほか、FAAから耐空性改善命令が発行された。副操縦士席にもスティックシェイカーを追加し、いずれかの電源を失っても左右両座席の失速警報装置が作動するよう改善指示が出された<ref>{{Cite web |title=Airworthiness Directive – Amendment 39-3673; AD 80-03-10 |publisher=Federal Aviation Administration (FAA) |url=http://rgl.faa.gov/Regulatory_and_Guidance_Library/rgAD.nsf/0/83d4ff29a77b501c862569f200686555!OpenDocument |accessdate=2016-10-28}}</ref><ref name=asahi-19800114-22/>{{sfn|井戸|1980|p=40}}。また、意図しないスラット格納を防止するため油圧系統への弁の追加指示が出された<ref>{{Cite web |title=Airworthiness Directive – Amendment 39-4306; AD 82-03-03 |publisher=Federal Aviation Administration (FAA) |url=http://rgl.faa.gov/Regulatory_and_Guidance_Library/rgAD.nsf/0/0664e2b3bee25c0e862569f200697162!OpenDocument |accessdate=2016-10-28}}</ref>。さらに、パイロン構造部の安全性を向上させる指示も出され<ref name=asahi-19800518-22/><ref>{{Cite web |title=Airworthiness Directive – Amendment 39-3981; AD 80-11-05 R1 |publisher=Federal Aviation Administration (FAA) |url=http://rgl.faa.gov/Regulatory_and_Guidance_Library/rgAD.nsf/AOCADSearch/CEBF1F12352BF318862569F200688C4C?OpenDocument |accessdate=2016-10-29}}</ref>、パイロン点検間隔の緩和も認められた{{sfn|小林|1980|pp=15–18}}。運航規定も見直され、緊急時には安全離陸速度 (V{{sub|2}}) を10ノット (時速約19キロメートル)上回る飛行速度をとることとされた{{sfn|井戸|1980|p=40}}。
 
[[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]が放送している「[[衝撃の瞬間]]」(第4シリーズ、第9話『シカゴ航空機事故』)と「[[メーデー!:航空機事故の真実と真相]]」(シーズン10、第7話『アメリカン航空191便』)でこの事故が取り上げられている<ref>{{Cite web |title=#6 ・・ #10|衝撃の瞬間 4|番組紹介 |publisher=FOX Networks Group Japan |work=ナショナル ジオグラフィック チャンネル |url=http://www.ngcjapan.com/tv/lineup/prgmepisode/index/prgm_cd/169 |accessdate=2016-10-01}}</ref><ref>{{Cite web |title=6 ・・ 10|メーデー!10:航空機事故の真実と真相|番組紹介 |work=ナショナル ジオグラフィック チャンネル |publisher=FOX Networks Group Japan |url=http://www.ngcjapan.com/tv/lineup/prgmepisode/index/prgm_cd/1330 |accessdate=2016-10-01}}</ref>。
 
== 追悼施設 ==
本事故の常設的な慰霊碑は長らく作られていなかったが、2001年9月11日に[[アメリカ同時多発テロ事件]]が発生すると、この事故の風化を防ぐため、慰霊碑を建設を求める声があがった<ref name=chicago-tribune-20111015/>。事故で両親を失っていたKim Jockl と Melody Smith 姉妹は、事故後25年から慰霊碑の建設を呼びかけた<ref name=dailyherald-20110525/>。事故後30年になって、Jocklが教頭を務めていたシカゴの小学校を中心に、本格的な資金集めの取り組みが行われた<ref name=dailyherald-20110525>{{Cite web|title=Finally, a memorial for American Flight 191 that we've missed out for the last 3 decades. victims|url=http://www.dailyherald.com/article/20110525/news/705259948/ |work=Daily Herald |accessdate=2016-10-27 |first=Madhu |last=Krishnamurthy}}</ref>。彼らの2年間の活動により、アメリカン航空も21,500ドルの費用負担を決め、追悼施設の建設が実現した<ref name=chicago-tribune-20111015/>。施設は墜落地点から近いレイク・パークに建設され、2011年10月15日に除幕式が執り行われた<ref name=chicago-tribune-20111015/>。この施設は高さ2{{convert|2|ft|m|1|abbr=off}}の曲面的な壁で囲まれた庭園である<ref name=chicago-tribune-20111015/><ref name=FAA/>。壁はレンガ積みで、レンガの1つ1つには、犠牲者の名前が記されている<ref name=chicago-tribune-20111015/>。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references/>
{{Reflist|group="注釈"|refs=
}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
 
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<ref name=asn>{{ASN accident|19790525-2|title=ASN Aircraft accident McDonnell Douglas DC-10-10 N110AA Chicago-O'Hare International Airport, IL (ORD)|accessdate=2016-09-19}}</ref>
}}
 
== 参考文献 ==
=== 事故調査報告書 ===
*{{Citation
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|accessdate=2016-09-19
|ref={{sfnref|NTSB|1979}}}}注:原文PDFの判読が難しい部分は、アメリカ[[連邦航空局]]が公開している[http://www.faa.gov/about/initiatives/maintenance_hf/library/documents/media/human_factors_maintenance/american_airlines.inc._dc-10-10.n110aa.chicago-o%60hare_international_airport_chicago.illinois.may_25.1979.pdf PDF]を参照した。
 
=== 書籍・雑誌記事等 ===
== 関連項目 ==
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=== 外部リライン資料 ===
* {{ASN accident|19790525-2}}
* [http://amelia.db.erau.edu/reports/ntsb/aar/AAR79-17.pdf NTSB (National Transportation Safety Board) Report (pdf)]
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* {{失敗知識データベース|CB0071007|離陸上昇中のDC-10のエンジン脱落による墜落事故}}
* {{Citation
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* {{ASN accident|19790525-2|title=ASN Aircraft accident McDonnell Douglas DC-10-10 N110AA Chicago-O'Hare International Airport, IL (ORD)|accessdate=2016-09-19}}
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{{Coord|42|0|35|N|87|55|45|W|region:US-IL_type:event|display=title}}
{{1979年の航空事故一覧}}