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'''ガルニエ宮'''(Palais Garnier)は、[[フランス]]の首都[[パリ]]にある[[歌劇場]]である。単に'''[[オペラ座]]'''(l'Opéra)と呼ばれることもある。[[パリ国立オペラ]]の公演会場の一つである。
 
==歴史==
===完成までの経緯===
フランスの王立オペラの歴史は[[1669年]]にさかのぼる。作曲家ロベール・カンベール([[:fr:Robert Cambert|Robert Cambert]])と組んで宮廷オペラを作っていた詩人ピエール・ペラン([[:fr:Abbé Pierre Perrin|Pierre Perrin]])の請願が、財務総監[[ジャン=バティスト・コルベール|コルベール]]の仲立ちで[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に許可され、『音楽アカデミー』ができたのである。この名称は時代とともに、政治体制とともに変わった<ref>[[パリ国立オペラ#劇団名の変遷]]を参照</ref>。
 
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なお、ガルニエ宮正面から[[パレ・ロワイヤル]]へ直に南下するオペラ座大通り([[:fr:Avenue de l'Opéra|Avenue de l'Opéra]])は、この建設工事の一環として開かれた。
 
 
===完成後===
[[第二次世界大戦中]]の[[ナチス・ドイツによるフランス占領|ドイツ軍の占領下]]では、ドイツ軍の管理下で営業を続けた。[[1964年]]以降、劇場の天井画は[[マルク・シャガール]]によるものが飾られて、現代的な新味も盛り込まれている。
 
[[1989年]]には新しいオペラ劇場として[[オペラ・バスティーユ]](Opéra Bastille)が完成し、以来ガルニエ宮では、[[バレエ]]と小規模オペラ、[[管弦楽]]コンサートを中心とした運用が行われている。
 
 
==建築様式==
[[File:Palais Garnier plan d'ensemble - Nuitter 1875 p196 - Google Books.jpg|thumb|left|[[:File:Palais Garnier plan d'ensemble - Nuitter 1875 p196 - Google Books.jpg|ガルニエ宮のプラン]]]]
ガルニエ宮は際立って絢爛な建築物である。
建築様式は記念碑的かつ重要な[[第2帝政]]期の[[ボザール様式]]のものであり軸対称に計画されている。[[ネオ・バロック]]様式の装飾要素を伴った[[折衷主義]]の外観の装飾である。
<ref>Mead 1991, pp. 4–5; {{cite web|last1=Sveiven|first1=Megan|title=AD Classics: Paris Opera / Charles Garnier|url=http://www.archdaily.com/105785/ad-classics-paris-opera-charles-garnier/|website=ArchDaily|accessdate=19 March 2015|archivedate=23 Jan 2011}}.</ref>
これらには大変手の込んだ大理石の[[フリーズ (建築)|フリーズ]]、円柱および豪華な彫刻が含まれる。彫刻の多くは[[ギリシャ神話]]の神々である。
 
 
===外観===
 
====ファザード====
[[Image:Palais Garnier Statue.JPG|thumb|right|upright=1.15|[[:w:Charles Gumery|Gumery]]'s ''L'Harmonie'' (1869), atop the left [[:w:avant-corps]] of the façade, is 7.5 metres (25 ft) of gilt copper electrotype]]
 
第一ファザードは建物の南に位置し[[:w:Place de l'Opéra|オペラ座広場]]を睥睨し、[[オペラ座通り]]沿いの視点を終わらせている。
装飾の制作には40人の[[画家]]と、[[モザイク]]職人と73人の[[彫刻家]]が参加した。
 
2体の黄金の彫像、シャルル・ギュムリー([[:w:Charles Gumery]])の「ハーモニー(''L'Harmonie'')」「詩情(''La Poésie'')」は第一ファザードの左右の前方張り出し部分([[:w:avant-corps]])の頂点に据え付けられている。この彫像は両方とも[[電気]]による金[[メッキ]]が施された銅像でである。
 
二つの avant-corpsの基礎は(右から左まで)フランソワ・ジュフロワ([[:w:François Jouffroy]])「詩情(または調和)」<ref>Jouffroy's group is titled ''l'Harmonie'' in Nuitter 1878, [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5708010j/f35.image.r=.langEN p. 11], and in Garnier 1875–81, [https://books.google.com/books?id=FJZZAAAAYAAJ&pg=PA424 vol. 1, p. 424], [https://books.google.com/books?id=SZZZAAAAYAAJ&pg=PA273 vol. 2, p. 273], but is identified as ''La Poésie'' in the "Table des planches" of the 1875 atlas folio ''Statues décoratives'' ([[:File:Durandelle Opera Statues decoratives 002.jpg|View at Wikimedia Commons]]), and according to Fontaine 2000, p. 82, is also sometimes referred to as ''Lyric Poetry''.</ref>
ジャン・バティスタ・クロード・ウジェーヌ・ギョーム([[:w:Jean-Baptiste Claude Eugène Guillaume]])の「器楽」、ジャン・バティスタ・カルポー([[:w:Jean-Baptiste Carpeaux]])の「舞踏」そしてジャン・ジョゼフ・プロー([[:w:Jean-Joseph Perraud]])の「抒情劇」と4人の彫刻家による4つの彫刻群によって装飾されている。
ファザードはまたギュムリー、アレクサンドル・ファルギエール( [[:w:Alexandre Falguière]])その他による他の作品を組み込んでいる。
<ref name=Fontaine2000/>
 
多数の偉大な音楽家の金メッキの[[:w:galvanoplastic|電気鋳造]]の青銅の胸像は劇場前のファザードの円柱の間に位置しており、左から右へと[[ロッシーニ]]、[[フランソワ・オーベール|オーベール]]、[[ベートーベン]]、[[モーツアルト]]、[[ガスパーレ・スポンティーニ|スポンティーニ]]、[[ジャコモ・マイアベーア|マイアベーア]]と[[ジャック・アレヴィ|アレヴィ]]である。
中央ファザードの左と右の側面の「返し」には台本作家の[[ウジェーヌ・スクリーブ]]と[[フィリップ・キノー]]の胸像が、それぞれ置かれている<ref name=Fontaine2000>Fontaine 2000</ref>。
 
====吹き抜け====
劇場吹き抜けの南破風の頂点に位置する、「[[アポロ]]、詩情及び音楽」の彫刻群がエメ・ミレー([[:w:Aimé Millet]])の作品であり、ウジェーヌ・ルイ・ルケスヌ([[:w:Eugène-Louis Lequesne]])作の2つのブロンズの[[ペガサス]]の彫刻が南破風の両端にある。
 
[[File:Opéra Garnier facade with sculpture labels.jpg|thumb|upright=3|center|ガルニエ宮のファザードと彫刻群の説明]]
 
====皇帝のパヴィヨン(Pavillon de l'Empereur)====
皇帝の[[ロタンダ]](Rotonde de l'Empereur)として知られている、この複数の部屋は建物西側に位置し、安全が確保されるように、そして皇帝が直接入室できるように建物へ二重の斜道で連絡されている。
 
皇帝が失脚すると、機能は停止された。石造の装飾は未完成のままであった。ここはいまはオペラ座図書博物館([[:w:Bibliothèque-Musée de l'Opéra de Paris]] )になっている。ここには10万冊の書籍、1680点の定期刊行物、1万点の上演プログラム、手紙、10万点の衣装、セットの写真、スケッチと歴史的名演のの記録を含む60万点の資料が保管されている。
 
====支援者のパヴィヨン(Pavillon des Abonnés)====
建物東側に位置する皇帝のパヴィヨンと対になる部屋は、劇場の支援者ら(Abonnés)が四輪[[馬車]]から建物内部へと直接入れるようにデザインされている。直径13.5mの[[ドーム]]によって覆われている。2対の[[オベリスク]]によって示されたロタンダの入り口の前に左右(北と南)にある。
 
<gallery mode=packed heights=220>
File:Façade Ouest de l'Opéra Garnier (2014).jpg|西のファザードと「皇帝のロタンダ」
File:Palais Garnier (Paris), Eastern Exterior (2014-07-05, Morning).jpg|東のファザードと「後援者らのパヴィヨン」
</gallery>
 
===内装===
[[File:Palais Garnier Grand Escalier d'Honneur - Garnier 1880 vol2 plate8.jpg|thumb|right|upright=1.15|The Grand Staircase]]
内装は、多数の人々の動きを受け入れることができる複合された廊下、階段吹き抜けと幕間に人々が社交の場とする空間から構成される。
[[ヴェルヴェット]]と黄金の葉、[[智天使]]と[[ニンフ]]が豊富に使われ、内装はバロックの壮麗さで特徴づけられていた。
 
====大階段====
建物は赤と緑の大理石の欄干のある白大理石の大きな儀礼上の階段によって特徴づけられ、この階段一階から上階に向かって踊り場を経由して大休憩室へと導く2つの階段に末広がりに分かれる。
この階段のデザインはヴィクトル・ルイ([[:w:Victor Louis]])のボルドー劇場([[:w:Théâtre de Bordeaux]])の階段に着想を得たものである。
階段の柱脚はアルベール・エルヌス・キャリエ・ベルーズ([[:w:Albert-Ernest Carrier-Belleuse]])による女性の姿をかたどった[[:w:Torchère|燭台]]によって装飾されていた。
階段の上の天井はイシドール・ピル(Isidore Pils)によって「アポロの勝利」「その魅力を展開する音楽の魔法」「[[オリンポス]]の神々に見られる無慈悲と戦う[[ミネルバ]]」「新しい歌劇場の計画を受け取るパリの街」が描かれていた。
これら絵画は劇場のオープン2か月前に初めて取り付けられたとき、ガルニエ宮においては空間に対して暗すぎたことが明らかになった。
二人の弟子の助けを借りて、61歳で病になったピルは天井にある[[キャンヴァス]]に再製作しなければならなくなった。彼の弟子はオープン前に作品を完成させ、足場は撤去された<ref>Kirkland 2013, pp. 283—284.</ref>。
 
====大休憩室====
このホールは高さが18m、長さが154m、幅が13mで、パリ社交界の応接間として機能するようデザインされた。
それは[[2004年]]に修復された。その天井にはパウル・ジャック・エメ・ボウドリー([[:w:Paul-Jacques-Aimé Baudry]])によって[[天井画]]が書かれている。天井画の題材には音楽の歴史の様々な場面が取り上げられている。
休憩室は外の[[ロッジア]]に向かって開いており、それぞれの端は「月のサロン(Salon de la Lune)」と「太陽のサロン(Salon du Soleil)」になっている。
 
 
<gallery mode=packed heights=220>
File:Opéra Garnier - le Grand Foyer.jpg|大休憩室
File:Opera Garnier-DSC 2523w.jpg|パウル・ボードリーの天井画(部分)。中央の長方形は「音楽」西の端の楕円には「喜劇」が描かれている。
</gallery>
 
====観客席====
観客席は伝統的な[[イタリア]]の馬蹄型であり、1979の座席を有する。舞台は[[ヨーロッパ]]最大であり450人程度を受け入れることができる。[[緞帳]]は表面に[[タッセル]]と組みひもなどが絡み、めくれ上がり、しわがよったカーテンの[[だまし絵|絵]]が直接描きこまれた。
<gallery mode=packed heights=220>
File:Palais Garnier auditorium and stage.jpg|観客席
File:Palais Garnier transverse section at the auditorium and pavilions - Beauvert 1996 p106.jpg|観客席とパヴィヨンの断面図
</gallery>
[[シャンデリア]]で囲まれた天井部分ははもともと[[ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー]]による天井画があった。
[[1964年]]に新しい天井画が[[マルク・シャガール]]によって描かれ、オリジナルの向こうにある撤去できないフレームに取り付けられた。
この天井画は14人の音楽家のオペラの場面を描いている。
[[ムソルグスキー]]、モーツアルト、[[リヒャルト・ワーグナー]]、[[ベルリオーズ]]、[[ラモー]]、[[ドビュッシー]]、[[モーリス・ラヴェル]]、[[ストラヴィンスキー]]、[[ピョートル・チャイコフスキー]]、[[アドルフ・アダム]]、[[ビゼー]]、[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]、[[ベートーベン]]、[[クリストフ・グルック]]である。称賛するものいたにもかかわらず「ガルニエの繊細に組み合わさった内装の失敗の記録」と感じる者もいた。
<ref>Hanser 2006, p. 177.</ref>
 
[[File:Palais Garnier auditorium chandelier - Nuitter 1875 p147.jpg|thumb|left|<center>観客席のシャンデリア</center>]]
 
====シャンデリア====
[[シャルル・ガルニエ|ガルニエ]]によって重さ7トンの[[ブロンズ]]と[[クリスタル]]のシャンデリアがデザインされた。ジュール・コルボ(Jules Corboz)が模型を用意し、それは「ラカリエール、デュラトゥール&シ(Lacarière, Delatour & Cie)」によって製作された。費用は総額3万ゴールドフランであった。中央のシャンデリアの使用は物議をかもした。舞台の様子と[[天井画]]を遮るという理由で第5ボックス席のパトロンによって批判された<ref name=FontaineChandelier>Fontaine 2004, p. 94–95.</ref> 。
ガルニエはこれら不利益を予想していた。しかし[[1871年]]の著書『劇場論(''Le Théâtre'')』で強い反論を用意していた。「ほかに何がこのような楽しい生活とともに[[劇場]]を満たすことができようか?ほかに誰が、私が枠組みのパターンに有している様々な形態を提供できるだろうか?これら光の点の列、これら輝かしい点によってまだらになった自然の[[色調]]、そしてこれら[[水晶]]のような高貴な光のほかに?」<ref>Garnier 1871, [https://books.google.com/books?id=l8wjAAAAMAAJ&pg=PA205 p. 205]; quoted and translated in Fontaine 2004, p. 94.</ref>。
 
[[1896年]]、シャンデリアの一つが[[カウンターウエイト|釣り合いを取っていた重り]]の破壊によって天井から客席へと落下し、観客に死者が出た。
この事故はより[[ガストン・ルルー]]が[[1910年]]の[[ゴシック小説]]の『[[オペラ座の怪人]]』の有名な場面の一つの着想となった<ref name=FontaineChandelier/>。
 
もとはシャンデリアは洗浄のために天井を通って観客席向こうの[[クーポラ]]へと引き上げられていた。しかしその時は降ろされていた。
クーポラの空間は1960年代にはオペラのリハーサルに使用されていたし、1980年代にはのダンスのリハーサルのフロアへと改修されていた。下の階は「[[ルドルフ・ヌレエフ|ヌレエフ]]の間(Salle Nureïev (Nureyev)」と「[[ジョージ・バランシン|バランシン]]の間(Salle Balanchine)」からなり、上のフロアは「[[マリウス・プティパ|プティパ]]の間(Salle Petipa)」によって構成されていた<ref name=FontaineChandelier/>。
 
=====オルガン=====
[[Image:MezzanineOpera2.jpg|thumb|upright=1.1|right|[[:w:L'Opéra Restaurant]] opened in 2011]]
グランド・[[オルガン]]が[[アリスティド・カヴァイエ=コル]]によって製作された。抒情的な作品に使用するためにである。このオルガンは数十年間使用されていない。
 
====レストラン====
{{Main|:w:L'Opéra restaurant}}
ガルニエ宮は独自に劇場にレストランを導入している。予算的な理由で、レストランは独自の設計で完結されていない。
 
1875年以来3度目のレストランの導入が試みられたさい、2011年に東側にオープンした。
「オペラ座レストラン([[:w:L'Opéra Restaurant]])」はフランスの建築[[:w:Odile Decq]]によってデザインされた。
シェフは [[:w:Christophe Aribert|クリストフ・アリベール]]であった。<ref>[http://www.opera-restaurant.fr/presse/Communique_Annonce_Chef_EN_2.pdf Paris Opera Restaurant Press Release]</ref>。2015年10月、[[:w:Guillame Tison-Malthé]]が新しいシェフ長になった<ref>{{Cite web|title = Guillaume Tison-Malthé, aux fourneaux de L’Opéra Restaurant|url = http://cuisine.journaldesfemmes.com/gastronomie/1435074-l-opera-restaurant-chef-guillaume-tison-malthe/|website = cuisine.journaldesfemmes.com|accessdate = 2015-11-21}}</ref>。
レストランは3つの異なる空間と大きな戸外にテラスを有する。一般の利用も可能である。
 
==歴史==
[[File:Two projected site sites for the new Paris Opera by Barnout - Gallica 2014.jpg|thumb|upright|
新オペラ座のための2つの用地(1856年)、[[ルーブル宮]]から幅の広い通り(のちのオペラ座大通り)で劇場までを結んでいる。]]
 
===建設地選定===
[[1821年]]パリオペラ座は「サル・ド・ペルティエ ([[:w:Salle Le Peletier]])」と知られる「リュー・ル・ペルティエ([[:w:Rue Le Peletier]])」の仮設の建物に移転した。それから、新しい恒久的な建物が求められてきた。
[[1846年]]に、オペラ座の公式建築家に任命されていた、シャルル・ロール・ド・フルーリー([[:w:Charles Rohault de Fleury]])は、適切な用地とデザインに関する様々な研究に着手した<ref>Mead 1991, p. 53.</ref>。
[[1847年]]までに[[セーヌ県]]知事、クロード・フィルベール・ド・ランビュトー([[:w:Claude-Philibert de Rambuteau]])が リュ・ド・リヴォリ([[:w:Rue de Rivoli, Paris|Rue de Rivoli]])の拡張した部分として[[パレ・ロワイヤル]]広場の東側の用地を選定した。
しかし、[[1848年のフランス革命]]とともに、ランビュトーは失脚し、新オペラ座の建設の関心は減退した。用地はのちに大ルーブル館([[:w:Grand Hôtel du Louvre]]、シャルル・ロール・ドフルーリー設計)に使用された<ref>Kirkland 2014, pp. 188–189.</ref>。
 
[[1852年]]に[[第2帝政]]が樹立と[[1853年]]の[[ジョルジュ・オスマン]]のセーヌ県知事の任命にともない、新オペラ座への関心が再燃した。
[[1858年]]1月14日にサル・ル・パルティエの入り口でナポレオン3世の暗殺未遂事件が起きた。
サル・ル・パルティエの建設された通りは分離と国家元首のために一層安全な入り口の必要性とアクセスしていた。
この懸念と不十分な公共施設と劇場が仮設という性質は新しい国立オペラの建物への付加的な緊急性を与えた。
3月までに、オスマンはフルーリーが提案したブールヴァール・デ・キャピュサン(Boulevard des Capucines)の向こうの用地に決定した。しかしこの決定は[[1860年]]まで発表されなかった。
新しい建物はこの地域の通りの厄介な収束を解決し、用地は地代に関しては経済的であった<ref>Mead 1991, pp. 53–56.</ref>。
 
[[1860年]]9月29日、公に新オペラ座のための用地のための[[勅令]]が<ref>Mead 1991, p. 58; Kirkland. Page 190.</ref>出された。この勅令では{{convert|12000|m2|ha}}の土地を接収することになっていた<ref>Beauvert 1996, p. 102.</ref>。1860年11月までにロールト・ド・フルーリーは
この彼のキャリアの頂点の作品にして、市からの報酬が支払われる、周りとの調和を確かなものとする、新しい広場の裏手の建物のファザードのデザインの仕事を完了させた。
だが、同じ月にア[[アレクサンドル・ヴァレフスキ]]伯爵によってアシル・フルド([[:w:Achille Fould]])に[[国務大臣]]が交代した。ヴァレフスキの妻のマリ・アンヌ・ド・リッシ・ポニャトフスカヤ (Marie Anne de Ricci Poniatowska)はナポレオン3世の[[公妾]]の地位を夫による国務大臣の任命を認めさせるために使用した <ref>Kirkland 2013, pp. 185–186.</ref>。
デザインの[[コンペ]]がないまま、[[ウジェニー・ド・モンティジョ|ウジェニー]][[皇后]]の庇護がある[[ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク]]に報酬を支払うようにとの圧力のもとで、ヴァレフスキは建築案を選定する[[:w:architectural design competition|建築デザインコンペ]]を決定をする必要性を放棄した<ref>Kirkland 2013, p. 191.</ref>
 
<gallery mode="packed">
File:Entrance elevation of a project for the Théâtre Impériale de l'Opéra by Rohault de Fleury, November 1860 - Mead 1991 p59.jpg|帝立オペラ座のための玄関部分建設計画図(Rohault de Fleury, November 1860)
File:Plan of a project for the Théâtre Impériale de l'Opéra by Rohault de Fleury, November 1860 - Mead 1991 p59.jpg|計画
</gallery>
 
===デザインコンペ===
1860年12月30日、ナポレオン3世はは公に新オペラ座のために建築デザインコンペをすることを発表した。
応募期間は1か月。2段階の選考が行われる。シャルル・ガルニエの計画はおよそ第一選考にかけられた170の提出案の一つであった<ref>Mead 1991, p. 60 ("170 projects"); Kirkland 2013, p. 192 ("171 designs").</ref>。
 
応募作のどれもがデザインを要約するモットーの提出を求められた。ガルニエのものは「多くを欲し、少しを望む("Bramo assai, poco spero")」というイタリアの詩人[[トルクァート・タッソ]]の作品の一節であった。
ガルニエの計画は15か所の賞を受賞しており、彼は第2選考では7人の最終候補者になった<ref>Mead 1991, pp. 60–62. Only five projects were awarded prizes, but two were the result of collaborations.</ref>。
ガルニエには加えて、ほかの間では彼の友人、レオン・ジネン(Leon Ginain)、アルフォンス・二コラ・クレピネ(Alphonse-Nicolas Crépinet)とジョゼフ・ルイ・デュク(Joseph-Louis Duc) (彼は他の仕事のせいで辞退した)がいた<ref>Kirkland 2013, p. 192.</ref>。
多くの人が驚いたことに、ヴィオレ・ル・デュクとシャルル・ロール・ド・フルーリーの両方ともが選外になった。
 
<center>'''ヴィオレ・ル・デュクの選外となった計画(1861年)'''</center>
<gallery mode="packed">
File:Perspective view of Viollet-de-Duc's Opera Competition project, 1861 - Mead 1991 p66.jpg|[[パースペクティブ]]
File:Plan of Viollet-de-Duc's Opera Competition project, 1861 - Mead 1991 p74.jpg|計画
File:Long section of Viollet-de-Duc's Opera Competition project, 1861 - Mead 1991 p75.jpg|横からの図
</gallery>
 
第2選考ではオリジナルの計画の速やかな修正と一層の厳格さが求められ、4月18日に直ちに渡される、オペラ座の監督アルフォンス・ロワエ([[:w:Alphonse Royer]])によって書かれた58頁のプログラムがあった。
新しい提出物は1861年5月半ばに審査員に送られ、5月29日にはガルニエの計画は、「その、計画の美の配置における、たぐいまれにして傑出した質とファザードとセクションの記念碑的かつ特徴的な様相([[アスペクト]])」によってえらばれた<ref name=Mead76>Quoted and translated in Mead 1991, pp. 76, 290.</ref>。
 
ガルニエの妻ルイーズはのちに以下のように書いている、フランスの建築家で審査員のアルフォンス・ド・ギゾー([[:w:Alphonse de Gisors]])はつぎのように論評した。「ガルニエの計画は簡潔さ、明瞭さ、論理的さ、壮大さにおいて顕著であり、外観の性格のおかげで、3つの異なる部分、休憩所、観客席、舞台における計画とも区別されている…あなたは、第一選考から大幅に計画を改善した。一方で第1選考で1位となったジネン(Ginain)は自身の計画を台無しにした」<ref name=Mead76/>。
 
言い伝えでは、ナポレオン3世の皇后のウジェニーが、お気に入りのヴィオレ・ル・デュクが選外になりいらいらするようになり、相対的に無名のガルニエに尋ねた「これは何?何様式よ?ルイ14世様式でもなければルイ15世様式でもなくルイ16世様式でもない!」と。するとガルニエは「なぜですか皇后陛下、これはあなたの夫君のナポレオン3世様式ですよ」と返答し「陛下は文句をおっしゃている」と
<ref>Translated and quoted by Ayers 2004, pp. 172–174. The architectural styles mentioned by the empress were those which prevailed during the reigns of Louis XIV, XV, and XVI. For more information, see the sections on Baroque, Rococo, and Neoclassicism in [[:w:French architecture#Baroque|French architecture]].</ref>。
 
アンドリュー・アイア―(Andrew Ayers)はガルニエの定義をいかのように書いている。
「議論の余地もなく、多くの人がそうだと言い残しているようにガルニエ宮は第2帝政という時代に作られたものの象徴のように見える。
規範的な論理性よりも、日進月歩の技術の目もくらむ混交、あふれんばかりの電気と驚嘆すべき華やかさ、ガルニエのオペラ座にはその時代の散開した傾向と政治的社会的野心が凝縮されている」<ref name=Ayers/>。
彼はコンペの判定がガルニエのデザインを特に称えて「彼の計画の明瞭さ、それは[[ボザール様式|ボザール建築]]の([[:w:Beaux-Arts architecture|''beaux-arts'']])のデザインの[[メソッド]]の輝かしき例でそこには彼とそれらは徹底的に熟達している」<ref name=Ayers/>。
 
===オペラ座事務所(Opéra Agence)===
[[File:Louis-Emile Durandelle, Charles Garnier in the Drafting Room While Designing the New Paris Opera, ca. 1870.jpg|thumb|upright=1.5|The Opéra ''Agence'' drafting room: Garnier is second from the right, with Edmond Le Deschault on the far right, and Victor Louvet, second from the left<ref>Photo by {{Ill|fr|Louis-Emile Durandelle|Durandelle}}. Mead 1991, p. 138, reproduces a different print (fig. 187) of the same photograph (from the [[Bibliothèque nationale]], see [[:File:Opéra Agence drafting room - Mead 1991 p138.jpg|a copy at Commons]]) and identifies the three men. This particular print is from the [[Metropolitan Museum of Art]], whose annotator dates it to ca. 1870. The elevation of the opera house shown in the background is quite similar to a design dated to the spring of 1862 by Mead 1991, p. 90 (see [[:File:Palais Garnier elevation principal facade, spring 1862 - Bibliothèque de l'Opéra - Mead 1991 p90.jpg|copy]] at Commons).</ref>]]
 
1861年7月2日建設開始のための最初の資金が投じられたのち、ガルニエはオペラ座事務所(Opéra ''Agence'')を建設用地内の彼の事務所に設立した。
そして建築家の集団を雇用した。彼は、自分の次席にジャン・ジョールデン(Jean Jourdain)とエドモン・ル・デスシャウル(Edmond Le Deschault)にフォローされたLouis-Victor Louvetを選んだ<ref>Mead 1991, p. 137.</ref>。
 
===地ならし===
[[File:Palais Garnier foundation work 20 May 1862 - Mead 1991 p147.jpg|thumb|upright=1.5|基礎工事(1862年5月20日)。予想以上の地下水の処理に悩まされた。結果「オペラ座は地下湖の上に建設された」という伝説がうまれた。]]
建設用地は8月27日と12月31日の間に掘削された<ref>Mead 1991, pp. 146–147.</ref>。
[[1862年]]1月13日、どのセクションの[[コンクリート]]が投じられてすぐに下部の石造部分の配置が始めると最初のコンクリートの下地が形成された。
オペラ座は他の同様の建造物に比べて非常に深い基礎をサブステージに必要とした。しかし地下水のレベルは予想以上に高かった。1862年2月には井戸が沈み、3月には8つの蒸気[[ポンプ]]が投入された。しかし24時間続けての作業にも関わらず、用地が渇くことがなかった。
この問題に対処するために、ガルニエは湿気から上部の建物守るために二重の基礎をデザインした。
水路と巨大なコンクリートの[[貯水池]](''cuve'')が組み合わされた。両方とも基礎壁の外からの地下水のからの重圧を和らげ、防火用貯水池として機能させるものとされた。
建設のための契約は6月20日に署名された。すぐに根強い伝説が起きた。オペラ座は[[地下湖]]の上に建設されたというものである。これに着想を得たのが、ガストン・ルルーの小説『オペラ座の怪人』である。7月21日には礎石が建物の[[ファザード]]の天使の南東に置かれた。
10月には、ポンプは撤去され、11月8日には貯水池の煉瓦のアーチ天井が完成した。そして下部構造はこの年の終わりまでには基本的には完成した<ref>Mead 1991, p. 147; Hanser 2006, p. 174; Ayers 2004, p. 174.</ref>。
 
===縮尺模型===
[[File:Palais Garnier model by Villeminot - Mead 1991 p150.jpg|thumb|left|upright=1.2|Villeminotの模型(1863年5月)。正面ファザードの左右の橋の上にクアドリガ(馬車)の彫刻が見られる。]]
 
皇帝は建物の模型を見ることに関心を表した。そして[[石膏]]の[[縮尺模型]](1m=2㎝、50分の1)がルイ・ヴィルミノ(Louis Villeminot)によって1862年4月から翌[[1863年]]4月の間に、8,000[[フラン]]を投じて製作された。
それを見たのち、皇帝はいくつかの建物デザインの変更を要求した。最も重要なものは、ファザードの頂点の角のグループとともに、欄干に支えられたテラスの高さの抑制と、最後の[[翼棟]]の向こうにある皇帝の[[クアドリガ]](馬車)の彫刻を配置する、横へと連続する[[フリーズ (建築)|フリーズ]]の前にある大規模な屋根裏の階層の取り換えであった<ref name=Model>Mead 1991, pp. 149–151.</ref>。
組み合わされた変更とともに、模型は特別に[[1863年]]の万博で公開された産業館([[:w:Palais de l'Industrie]])に導入された[[レール]]の向こうに輸送され、展示された。
[[テオフィル・ゴーティエ]]は模型について書いている(『モニテュール・ユニヴァースル』紙1863年5月13日付(''Le Moniteur Universel'', 13 May 1863))。「総合的なアレンジは誰の目にも明らかで、すでに最終的な効果を決定するために、それにより良い許可をした一種のリアリティを獲得した…それは観衆の好奇心に魅力的で、それは効果として、新しいオペラ座を、あらかじめ用意したオペラグラスを通じて見せた」<ref>Mead 1991, p. 303.</ref> 。模型はいまは散逸した。しかし1863年にJ. B. Donasが撮影した写真が残る<ref name=Model/>。
 
皇帝のクアドリガは決して加えられなかった、それらは模型には見られたのに。かわりにシャルル・ギュムリー([[:w:Charles Gumery]])の金メッキをしたブロンズの彫刻群「ハーモニー」と「詩情」が[[1869年]]に取り付けられた。
直線のフリーズは模型にも見られ、また皇帝の[[モノグラム]]の"N"と"E"("N"はNapoléon、"E"はEmpereur(皇帝)のイニシャル)の金メッキの文字をあしらった装飾的な[[メダリオン]]の[[レリーフ]]が交互に高低をつけて再設計された。
特別デザインの文字はお披露目のときには用意されなかった。そして代わりに商業的に利用できる代用品に代わられていた。
[[1870年]]の、皇帝の[[セダンの戦い|セダンの敗北]]で、ガルニエはメダリオンをそれらを取り除くことができて安堵した。ガルニエの手紙での、オリジナルデザインは[[2000年]]の建物改修で最終的に導入された<ref>Fontaine 2000, pp. 91–92.</ref>。
 
===改名===
{{Multiple image|direction=vertical |image1=Palais Garnier November 1866 covered facade - Delmaet and Durandelle - Mead 1991 p161.jpg |width1=220 |caption1=1866年のファザード |image2=Palais Garnier 15 August 1867 facade - Delmaet and Durandelle - Mead 1991 p185.jpg |width2=220 |caption2=1867年のファザード}}
[[1867年]]8月15日、ファザードを隠していた足場が撤去された。この年に開催されいた[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万博]]のためである。
オペラ座の公式な名称「帝立音楽アカデミー("ACADEMIE IMPERIALE DE MUSIQUE")」が[[ロッジア]]のメインフロアの前の[[円柱]]を対とする巨大な[[コリント式]][[オーダー (建築)|オーダー]]の[[エンタブラチュア]]に表示された。
<ref>Mead 1991, p. 185.</ref>
[[1870年]]、[[普仏戦争]]の結果、皇帝ナポレオン3世は退位して、同年9月17日にすぐに政府は[[フランス第3共和政]]に代わり、オペラ座の公式名称は「国立オペラ劇場(Théâtre National de l'Opéra)」に再命名された。この名称は1939年まで維持される<ref name=Levin>Levin, Alicia. "A documentary overview of musical theaters in Paris, 1830–1900" in Fauser (2009), p. 382.</ref>。
これにも関わらず、新オペラ座の名称が変わったとき、IMPERIALEの6文字を取り換えただけであった。
いま有名な「国立音楽アカデミー("ACADEMIE NATIONALE DE MUSIQUE")」の名称が与えられて、公式名称として実際に使用されたのはおよそ2年間の短命な[[フランス第二共和政|フランス第2共和政]]のときだけである。
<ref name=Levin/>
 
===普仏戦争とパリコミューンの乱―1870年–1871年===
[[普仏戦争]]の[[:w:Siege of Paris (1870-1871)|パリ包囲戦]](1870年9月から1871年1月)のせいで、全ての建物建設作業が停止した。
建設は進行したので建物の一部が食料倉庫と病院に使用することができた。
フランスの降伏後、包囲戦の不自由からガルニエは深刻な病気にかかり、3月から6月まで治療のためにパリを離れて、イタリアの[[リグリア]]海岸へといった。その間、彼の助手のルイ・ルヴェ(Louis Louvet)は、[[パリコミューン]]の混乱の中パリにとどまった。
ルヴェはガルニエに何通かの手紙を書いている。建物にかんする出来事も書かれている。
建物の近くの[[ヴァンドーム広場]]で戦闘が起きたので、[[国民衛兵]]はそこで露営し、防衛を担当し、兵士と市民に食料を補給していた。
コミューンの首脳はガルニエを別の建築家に代える計画をたてた。しかし5月23日に共和国軍が国民衛兵を追い出して、建物を統制するようになったときには、この無名の男はまだ現れていなかった。
5月末まで、コミューンはあちこちで敗北し続けた。第3共和政は秋までに盤石なものとなった。9月30日、建設作業は再開された。そして10月までに少額の資金が新しい議会によって今後の建設のために投じられた<ref>Mead 1991, pp. 142–143, 168–170.</ref>。
 
===第3共和政のもとでの建設―1872年–1873年===
新政府の政治的指導者は第2帝政に関係するものすべてに激しい嫌悪感を示し、彼らの多くはガルニエを基本的に政治と無関係みなし政権から取り残された。
[[1873年]]5月まで続いた[[アドルフ・ティエール]]大統領政権の間、これは特別に本当であった、しかし後継の[[パトリス・ド・マクマオン]]大統領政権でも続いた。
経済は打撃を受けていた。ガルニエは、建物のセクションの完成の形態の抑制を余儀なくされた。特に皇帝のパヴィヨン(のちのオペラ座図書博物館である)がその対象である。しかし10月28日から29日に新しい劇場の完成のための強力な動機が起きた。このときサル・ル・ペルティエが火災によって一夜にして焼失したのである<ref>Mead 1991, pp. 143–145. 170–172.</ref> ガルニエはできるだけ早い建物の完成を指示した。
 
===落成===
[[File:Inauguration of the Paris Opera in 1875 by Detaille - Collections of the Château of Versailles (cropped).jpg|325px|thumb|『パリ・オペラ座の落成』([[:w:Édouard Detaille|エドワール・デュテーユ]], 1878年)]]
 
新しい建物の完成の費用は1874年の間で750万フラン以上となった。総額は過去13年間に使われた金額を大幅に超過していた。
第3共和政の資金難の政府は最後の手段として490万ゴールドフランを[[:w:François Blanc|フランソワ・ブラン]]と[[モンテカルロ]][[カジノ]]で遊ぶ裕福な金融家から6%の金利で借りることになった。
のちに[[1876年]]から[[1879年]]、ガルニエはモンテカルロカジノのコンサートホールのデザインと建設を監督している。「ガルニエの間(Salle Garnier)」はのちに「[[モンテカルロ歌劇場]]」の本拠地となった<ref>Mead 1991, pp. 145–146; Folli & Merello 2004, p. 116.</ref>。
 
[[1874年]]の間、ガルニエは、彼の建設チームを新しいオペラ座の完成のために一心不乱に働かせている。10月17日までに、オーケストラは新しい観客席から試験演奏ができるようになった。続く12月2日までには関係者、賓客、報道陣を招いて試験演奏をもう一度おこなった。
12月2日に[[パリ国立オペラ|パリ・オペラ座バレエ]]は最初のダンスをした。6日後にはのちに有名になるシャデリアが初めて取り付けられた<ref name=Simeone>Simeone 2000, pp. 177–180.</ref>。
 
[[1875年]]1月5日、劇場は正式に落成した。マクマオン大統領、[[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]]、[[スペイン国王]]の[[アルフォンソ12世]]らが臨席した豪華な[[ガラ]]パフォーマンスが[[こけら落とし]]となった。
上演プログラムには[[フランソワ・オーベール]]の序曲『[[ポルティチの唖娘]](''[[:w:La muette de Portici]]'')』、[[ジョアキーノ・ロッシーニ]]の『[[ウィリアム・テル (オペラ)|ウィリアム・テル]]』、[[ジャック・アレヴィ]]の[[1835年]]のオペラ『[[ユダヤの女]](''[[:w:La Juive]]'')』の第1幕第2場(ガブリエル・クラウス([[:w:Gabrielle Krauss]])が[[タイトルロール]])、『剣の聖別』による[[ジャコモ・マイアベーア]]の[[1836年]]のオペラ『[[ユグノー教徒 (オペラ)|ユグノー教徒]](''[[:w:Les Huguenots]]'') 』、[[レオ・ドリーブ]] と[[レオン・ミンクス]]作曲の[[1866年]]のバレエ 『[[泉 (バレエ)|泉]](''[[:w:La source (Saint-Léon)|La source]]'')』などであった。
<ref>Huebner 2003, [https://books.google.com/books?id=iqoVHY6OrjIC&pg=PA303 p. 303].</ref>
ソプラノが[[シャルル・グノー]]の『[[ファウスト (オペラ)|ファウスト]]』の第1幕で病気で倒れたので、[[アンブロワーズ・トマ]]の『[[ハムレット (オペラ)|ハムレット]]』は省略された。
休憩の間、ガルニエは観客の称賛の拍手を受けるために大階段の踊り場に立った。
 
===完成後の歴史===
[[File:Opera Garnier Grand Escalier.jpg|thumb|right|大階段]]
 
[[1881年]]電気照明が導入された。
建物の管理と舞台の場面転換のにおける人員の動きを促進するために、舞台前に人員用、貨物用[[エスカレーター]]が導入された。
 
[[1969年]]に劇場は、新たに電気設備を整えた。1978年委、オリジナルの部分「舞踏の休憩室(''Foyer de la Danse'')」は建築家[[:w:Jean-Loup Roubert]]{{Citation needed|date=August 2009}} によって新たにバレエ団のリハーサルスペースに改築された。
[[1994年]]、劇場の改修が始まった。これは舞台の機械と電気設備の近代化が含まれている。
その間、建物の構造と基礎の強化と同様に絢爛豪華な装飾の保全も行われた。この改修は2007年に完了した
{{Citation needed|date=August 2009}}。
 
==外国への影響==
ガルニエ宮は外国の建造物にも影響を与えている。
 
[[ポーランド]]のいくつかの建物はガルニエ宮のデザインを基にしている。これらには[[1893年]]に建設された[[クラコフ]]の[[:w:Juliusz Słowacki Theatre|ユリウス・スヨワスキ劇場]]や[[1900年]]から[[1901年]]の間に建設されたワルシャワフィルハーモニーエデフィスがある。
[[ウクライナ]]では[[1901年]]に建設された[[キエフ]]の[[:w:National Opera House of Ukraine|ウクライナ国立歌劇場]]や[[1897年]]から[[1900年]]の間に建設された[[リヴィウ]]の[[:w:Lviv Theatre of Opera and Ballet|リヴィウ歌劇バレエ劇場]]
[[アメリカ合衆国]]の[[ワシントンD.C.]]の [[:w:Library of Congress|議会図書館]]の[[:w:Thomas Jefferson Building|トマス・ジェファーソンビル]]もガルニエ宮をモデルにしている。ファザードなどに影響が顕著である。
<ref>Scott & Lee 1993, pp. 142–145.</ref>
[[ブラジル]]、[[リオデジャネイロ]]の[[:w:Teatro Municipal (Rio de Janeiro)|リオデジャネイロ自治劇場]] (1909年)もガルニエ宮をモデルにしている。とくに大ホールと階段が影響を受けている。 [[1884年]]から[[1896年]]に建てられた[[マナウス]]の[[:w:Amazon Theatre|アマゾン劇場]]も外観が類似している。
[[ベトナム]]の[[ハノイ]]の[[:w:Hanoi Opera House|ハノイ歌劇場]]は典型的なフランス[[コロニアル様式]]の建物であり、ガルニエ宮の小規模な模倣である。
[[ホーチミン市]]の[[:w:Municipal Theatre, Ho Chi Minh City|サイゴン歌劇場]] も小規模な模倣である。
 
{{Clear}}
<gallery mode=packed>
File:Pl warszawa filharmonia old 1918.jpg|旧ワルシャワフィルハーモニックホール
File:Hanoi Oper.jpg|[[:w:Hanoi Opera House|ハノイ歌劇場]]
File:Kiev Opera House - 005.jpg|[[:w:National Opera House of Ukraine|ウクライナ国立歌劇場]]
File:LibraryOfCongress 07130009.jpg|[[:w:Thomas Jefferson Building|トマス・ジェファーソンビル]]
File:Teatro amazonas.jpg|[[:w:Amazon Theatre|アマゾン劇場]]
File:Teatro Municipal de São Paulo 8.jpg|[[:w:Municipal Theater of São Paulo|サンパウロ自治劇場]]
</gallery>
 
== 補足 ==
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Image:Bundesarchiv Bild 183-1985-1216-509, Paris, Oper.jpg|ドイツ占領下で[[ハーケンクロイツ]]が掲げられた(1942年)
Image:Palais Garnier inside.jpg|客席から舞台の眺め
 
Image:Paris_Opera_Garnier_Grand_Escalier_02.jpg|中央入口の大階段
Image:Pari Opera Cloister.jpg|回廊
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Image:Opera Garnier Paris.jpg|オペラ座通りから見る正面と屋根
Image:Pari Opera from balcony.jpg|バルコニーからの眺め
 
Image:Opera Garnier.jpg|オペラ座通りからの眺め
Image:Opéra Garnier dos.JPG|オスマン通りから見る裏側
Image:MezzanineOpera2.jpg|オペラレストラン
Image:Terrasse Est Opéra Garnier - L'Opéra Restaurant.jpg|オペラレストランの外観
Image:Apollon opera Garnier.jpg||「アポロ、詩情と音楽」[[:w:Aimé Millet]]のデティール
Image:Right roof sculptures Paris Opera.jpg|「詩情」[[:w:Charles Gumery]]
Image:Lyrical drama Perraud.jpg|「抒情劇」[[:w:Jean-Joseph Perraud]]
Image:Jean-Baptiste Carpeaux La Danse.jpg|「舞踏」 [[:w:Jean-Baptiste Carpeaux]]
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