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=== 因島村上氏 ===
[[ファイル:Gthumb.svg|200px|thumb|因島村上氏宝篋印塔群。[[金蓮寺 (尾道市)|金蓮寺]]にある因島村上氏及びその家臣の墓地。]]
[[ファイル:GthumbMurakami Yoshimitsu01.svgjpg|200px|right|thumb|[[因島水軍城]]。建物自体は城郭風建築物。因島村上氏の貴重な文化財が展示されている。吉充肖像(金蓮寺所蔵)]]
[[ファイル:Former Castle of INNOSHIMA.png|200px|thumb|上から順に、青木(左)、幸崎(右)、青陰、千守、美可崎、長崎。北側の向島のは余崎城で一時期本城としていた。]]
{{See|村上水軍}}
中世南北朝時代から室町・戦国時代にかけて、この島は因島村上氏の拠点となる。因島に定着した正確な時期は上記の伝承ではなく確実な記録上では不明で、宝徳元年(1449年)には中庄に定住していたことがわかっている<ref name="onomichih02">{{Cite web|publisher=海事都市尾道推進協議会|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/kaijitoshi/history/h02.pdf|format=PDF|title=海をめぐる歴史と文化 中世|accessdate=2016-05-30}}</ref>。
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勢力の拡大とともに陸の勢力とも結びついていく。三島村上氏は互いに固く結びついていたが、[[日明貿易]]の頃には因島村上氏[[村上吉資]]は備後守護大名である[[山名氏]]に取り入り[[遣明船]]の警固衆つまり護衛を命じられている<ref name="onomichih02" />。またこの島の西側は[[小早川水軍]]の縄張りであり小早川氏とも関係を深めていき、[[村上吉充]]の時代である天文24年(1555年)[[厳島の戦い]]の際には小早川水軍とともに[[毛利氏]]に加勢し、この勝利により北側の[[向島 (広島県)|向島]]の所領を与えられた<ref name="onomichih02" />。現在因島水軍城に展示されている室町時代末期作の軽武装用鎧”白紫緋糸段威腹巻 附兜眉庇”は吉充が[[小早川隆景]]より拝領したと伝わっている<ref>{{Cite web|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-202040170.html|title=白紫緋糸段威腹巻|publisher=広島県教育委員会|accessdate=2016-05-30}}</ref>。以降毛利氏の下につき([[毛利水軍]])、[[防長経略]]・[[門司城の戦い]]・[[第一次木津川口の戦い]]などに従軍した<ref name="onomichih02" />。
 
[[ファイル:Former Castle of INNOSHIMA.png|200px|thumb|上から順に、青木(左)、幸崎(右)、青陰、千守、美可崎、長崎。北側の向島のは余崎城で一時期本城としていた。]]
以下、因島にある因島村上氏関連の主な城址を列挙する<ref name="onomichih02" />。村上氏と関係ないものも含めこれ以外にも城址はある<ref>{{cite web|url=http://web.archive.org/web/20010406132422/http://www.city.innoshima.hiroshima.jp/gakusyu/gakus3.htm|title=文化財・城跡マップ|publisher=因島市(Internet Archives) |accessdate=2016-05-30}}</ref>。また他の島にも因島村上氏の城があるがここでは記載を省略する。
* 青木城跡 : 重井、県史跡。本城。
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=== 村上水軍 ===
[[ファイル:Gthumb.svg|200px|right|thumb|[[因島水軍城]]。建物自体は城郭風建築物。因島村上氏の貴重な文化財が展示されている。]]
{{See|村上水軍|#因島村上氏}}
因島では村上水軍をテーマに観光展開している。これは旧因島市が造船不況を受けて島の産業を転換、1989年から水軍と花をテーマに観光業に力を入れてきたことによる<ref name="chugoku19990221">{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://web.archive.org/web/20061007021049/http://www.chugoku-np.co.jp/setouti/deaisima/990221/990221.html|title=花と笑顔に会いに来て|date=1999-02-21|accessdate=2016-05-31}}</ref>。[[因島水軍城]]や[[因島水軍まつり]]、[[水軍料理]]などである。
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=== 囲碁 ===
[[ファイル:Gthumb.svg|200px|right|thumb|本因坊秀策碑]]
1997年、因島市は[[棋聖]][[本因坊秀策]]や[[アマ四強 (囲碁)|アマ四強]][[村上文祥]]がこの地で生まれたことから、町おこしの一環として囲碁を市技として制定した<ref name="setouchi254">{{Cite web|url=http://0845.boo.jp/times/archives/254|title=幕末の天才棋士・本因坊秀策顕彰の悲願「生家復元」着工 尾道市・因島合併記念事業「囲碁の館」建設|publisher=せとうちタイムス|data=2007-03-10|accessdate=2016-05-30}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://honinbo.shusaku.in/innoshima.html|title=囲碁の島「因島」|publisher=本因坊秀策囲碁記念館|accessdate=2016-05-30}}</ref>。これに『[[ヒカルの碁]]』と2004年秀策が[[囲碁殿堂]]に顕彰されたことが囲碁ブームに火をつけることになる<ref name="setouchi254" />。2006年因島市は平成の市町村合併により尾道市と合併消滅するが、尾道市もこの普及を引き継ぎ囲碁を市技とした<ref name="setouchi254" /><ref name="co7282">{{Cite web|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/www/section/detail.jsp?id=7282|title=本因坊秀策囲碁記念館|publisher=尾道市|accessdate=2016-05-30}}</ref>。
 
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=== 伝承その他 ===
[[ファイル:Gthumb.svg|200px|right|thumb|白滝山五百羅漢]]
;白滝山五百羅漢
島の北側にある白滝山は、標高226.9mで山頂は因島大橋を見下ろせる。この山頂から参道にかけて五百羅漢の石仏が点在する<ref name="ononavi313">{{Cite web|url=http://www.ononavi.jp/sightseeing/showplace/detail.html?detail_id=313|title=白滝山|publisher=おのなび|accessdate=2016-05-30}}</ref>。
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作られたのは江戸時代後期、一観教の創始者・柏原伝六とその弟子たちによるものである<ref name="ononavi313" /><ref name="shimahito24-1">{{Cite web|url=http://www.shimahito.com/area/24-1.php|title=白滝山と五百羅漢|publisher=観光情報サイト「しまひと」|accessdate=2016-05-30}}</ref>。伝六は因島出身の仏道修行者で、悟りを開き儒教・仏教・神道・キリスト教を融合した一観教を開き、信者は一時期1万人を超えたという<ref name="shimahito24-1" />。そして信仰として白滝山に五百羅漢を作っていき1827年([[文政]]10年)頃3年かけて完成した<ref name="shimahito24-1" />。この中には十字架観音あるいはキリシタン観音と呼ばれる石像があるのは一観教にキリスト教観が含まれていることを意味している<ref name="shimahito24-1" />。これらを掘っていた際に多くの参拝者を集めたことから、一揆と危惧した[[広島藩]]は伝六を厳しく取り調べ、誤解が解け伝六は解放されるもすぐに死んでしまったという<ref name="shimahito24-1" />。
 
[[ファイル:Gthumb.svg|200px|right|thumb|地蔵鼻]]
;鼻地蔵
周防の高橋蔵人の娘で琴の名演奏者が、許婚に会いに都へ上る途中、この島を占拠する海賊([[村上水軍]])の金山亦兵衛康時の部下に囚われた。娘は、琴の音を海賊どもに聞かせたところ、その音に感じ入った海賊たちに命を助けられる。島の海賊の首領の康時は娘の琴の音だけでなく娘に恋慕し妾になることを要求するが、娘は許婚がいると拒絶した。それを恨んだ康時は娘の殺害を命じた。娘は最後の時に一曲かなで琴との別れを惜しむ。娘が曲を終えると、我に返った海賊たちは康時の命令を実行した。琴は娘の死の証に康時の館に運ばれた。琴は娘のむごたらしい殺され方を哀れんで、夜な夜な鳴り響いた。そのため、琴は壊されたが、それでも琴の音は城の中で聞こえた。他人の命をなんとも思わない海賊の泰時だったが、琴の音にただただ怯える彼の部下や彼の家族とは、別の気持ちに苛まれた。それは自らも尺八を奏でる康時が、自分のもっとも大切なものを、短気にも自らで摘み取ってしまった事への後悔であった。康時は、そこで自然石を娘の生前の姿の浮き彫りを施した地蔵を建立し、僧侶を呼んで供養したという。のちに、鼻地蔵は女性の願いならばなんでもかなえてくれ、特に恋の願いにご利益のある地蔵として、参拝者が願いを秘めて島外からも訪れ、地蔵に願をかける姿が今日まで続く<ref>福田広博治・山内真治「いんのしまの民話と伝承 <鼻地蔵>」因島ジャーナル ほか</ref>。
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== 観光・文化 ==
=== 文化財 ===
''以下、国・県の文化財指定登録されているものを列挙する<ref>{{Cite web|publisher=尾道市|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000009464.pdf|format=PDF|title=第4章 歴史文化保存活用区域の位置および範囲|accessdate=2016-05-30}}</ref>。
 
;県の重要文化財
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* [[大浜埼灯台|旧大浜埼通航潮流信号所]]
 
;県史跡
* 長崎城跡
* 青木城跡
* 青影城跡
 
;県指定天然記念物
* 鏡浦の花崗岩質岩脈
 
;県指定無形民俗文化財
* [[椋浦の法楽おどり]]
* 中庄神楽
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== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
 
== 参考資料 ==