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{{橋
| 名称 = 海門橋
| 画像 = [[Image:Kaimon-bridge,oarai-town,hitachinaka-city,japan.jpg|250px]]
| 画像幅 = 250px
| 画像説明 = 海門橋(かつての基礎が橋の右に見える)
| = {{JPN}}
|都市 所在地 = (右岸)[[茨城県]][[ひたちなか市]]<br />(左岸)[[茨城県]][[東茨城郡]][[大洗町]]
|水域 交差物件 = [[那珂川]]
| 用途 = 道路橋
| 路線名 = [[茨城県道108号那珂湊大洗線]]
| 管理者 = [[茨城県庁|茨城県]]
| 設計者 =
| 施工者 = [[日本道路公団]]{{sfn|鈴木|1981|p=212}}
| 着工 = [[1957年]][[3月27日]]{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=679}}
| 竣工 = [[1959年]][[6月30日]]{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=679}}
| 開通 = 1959年[[7月20日]]{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=680}}
| 閉鎖 =
| 緯度度 = 36 | 緯度分 = 20 | 緯度秒 = 10.1 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 140 |経度分 = 35 | 経度秒 = 26.6 | E(東経)及びW(西経) = E | 地図国コード = JP
| 形式 = 単純下路ランガー、単純合成鈑桁
|長さ = 407.8m
| 材料 = 鋼
|最大支間長 = 90m
| 全長 = 407.8 m{{sfn|鈴木|1981|p=212}}
|幅 = (竣工時)7.0m<br />(歩道追加後)9.0m
| 幅 = (竣工時)7.5 m{{sfn|鈴木|1981|p=212}}<br />(歩道追加後)9.0 m
|高さ =
| 高さ =
|建築家と技術者 =
| 桁下高 = 15 m{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=680}}
|形式 = 単純下路ランガー、単純合成鈑桁
| 最大支間長 = 90 m{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=680}}
|素材 = 鋼
| 地図名 = Japan Ibaraki
|建設 =
| 地図幅 =
| 地図説明 = 海門橋の位置
}}
[[File:Kaimon-bridge 3,oarai-town,hitachinaka-city,japan.jpg|thumb|那珂川の上流側から見た海門橋(2016年6月)]]
[[File:Kaimon-bridge 2,oarai-town,hitachinaka-city,japan.JPG|thumb|海門橋の歩道。港町らしく魚を描いたタイルが埋め込まれている。]]
 
'''海門橋'''(かいもんばし)とは、[[一級河川]][[那珂川]]の河口付近を渡河し、[[茨城県]][[ひたちなか市]][[海門町]]と同県[[東茨城郡]][[大洗町]]磯浜町とを結ぶ道路橋{{sfn|鈴木|1981|p=212}}。橋長407.8m8&nbsp;[[メートル|m]]{{sfn|鈴木|1981|p=212}}、幅員7.05{{sfn|鈴木|1981|p=212}}+2.0m0&nbsp;m、鋼単純下路[[アーチ橋#補剛桁を有するアーチ|ランガー]]、鋼単純合成鈑桁の道路橋。史上3回落橋しており、現在の橋は45代目にあたる{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=156, 421-424, 679}}
 
34代目の流出以来、約20年間は再建されず手漕渡船により連絡しており、自動車は1.6km6&nbsp;[[キロメートル|km]]上流の[[国道245号#橋梁|橋]]へ迂回していた。1952年の[[道路整備特別措置法]]制定により、茨城県が[[有料道路]]の建設を計画、1956年に発足した[[日本道路公団]]が継承して、茨城県[[那珂湊市]](現・ひたちなか市)と茨城県東茨城郡大洗町を結ぶ[[有料道路]]として、[[1957年]][[9月14日]]に着工、[[1959年]][[6月30日]]に竣工し、[[1959年]][[7月21日]]より供用開始した<ref>{{Cite journal |和書 | last = 高橋 | first = 信策 | title = 海門橋架設工事について | journal = 土木学会誌 | volume = 45 | issue = 3 | pages = 7-19 | publisher = [[土木学会]] | date = 1960-03 | language = 日本語 | url = http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00034/45-03/45-3-14424.pdf | naid = 40018158844 | accessdate = 2015-09-23}}</ref>{{Sfn|日本道路公団|1986|p=836}}。
| last = 高橋
| first = 信策
| authorlink =
| coauthors =
| title = 海門橋架設工事について
| journal = 土木学会誌
| volume = 45
| issue = 3
| pages = 7-19
| publisher = 土木学会
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| date = 1960-03
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| jstor =
| issn =
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| id =
| naid =
| accessdate = 2015-09-23}}</ref>{{Sfn|日本道路公団|1986|p=836}}。
 
償還期間は30年間の予定であったが、[[生活道路]]としての性格が強かったため、[[1979年]](昭和54年)3)[[3月1日]]に茨城県と那珂湊市と大洗町が未償還金を負担し、[[茨城県道108号那珂湊大洗線]]の道路橋として無料化した{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1983|p=252}}。また両市町間を結ぶ観光道路としても重要である{{sfn|鈴木|1981|p=212}}
 
この地域で盛んであった[[遠洋漁業]]の[[漁船]]が橋の下を通過できるように中央径間を90&nbsp;m、桁下を15&nbsp;mとっている{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=680}}。橋脚は12基ある{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1983|p=252}}。
== 概要 ==
那珂川河口における最初の橋となった初代海門橋は1895年(明治28年)11月9日に賃取り橋(有料の橋)(木橋)として開通。しかし、翌1896年(明治29年)に洪水で流失した。
 
== 歴史 ==
2代目海門橋は1898年(明治31年)に再び賃取り橋(木橋)として架け替えられ開通した。その後1913年(大正2年)3月に茨城県に移管され無料通行となった。しかし、1926年(大正15年)9月26日15時30分頃、海虫による腐食が原因と見られる落橋事故を起こし、長さ9.5メートルが落下し死傷者が多数出た。損傷箇所は陸軍水戸[[工兵|工兵隊]]により修復された。
=== 渡船から架橋へ(-1894) ===
[[ファイル:Kaimon Bridge I.png|thumb|left|初代海門橋]]
那珂川河口では、少なくとも[[近世]]には湊村辰ノ口と磯浜村祝町(海門橋とほぼ同じ位置)の間を結ぶ[[渡し舟]]が「辰ノ口渡船」ないしは「祝町渡船」の名で磯浜村の願入寺によって営まれ、[[弘化]]年間([[1844年]] - [[1847年]])からは[[水戸藩]]の運営(郡奉行所{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=391}})に移行した{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=391}}{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=154}}。当時の渡船について『那珂港名所図画』は「実ニ[[東海道]][[六郷橋|六郷ノ渡]]ニ劣ラスト云」と記しており、[[慶応]]元年([[1865年]])の記録によれば無賃の乗船客が15,886人、有賃の乗船客が220,092人であり、荷物を運ぶ[[ウマ]]も渡っていた{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=154}}。なお船賃は[[天保]]年間([[1830年]] - [[1844年]])には5 - 6[[文 (通貨単位)|文]]、慶応年間(1865年 - [[1868年]])には10文であった{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=391}}。渡船を待つ人のための[[茶屋]]も開かれ、周辺は賑わった{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=154}}。[[明治維新]]により藩営が終了すると湊村と祝町の共同運航という形になり、実際には湊村で入札を行って請負人を決定した{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=154}}。
 
[[1887年]](明治20年)頃になると湊村の有志が那珂川河口に架橋を目指して架橋組合を結成するに至り、[[1893年]](明治26年)には湊町(湊村が町制施行)へ架橋を請願した{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=155}}。これを受けて[[1894年]](明治27年)12月に橋の建設工事に着手し、初代海門橋の開通式が[[1895年]](明治28年)[[11月9日]]に行われた{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=156}}。初代海門橋は[[木橋|木造]]の賃取り橋(有料の橋)で、長さは120[[間]](≒218.2&nbsp;m)、幅は2間(≒3.6&nbsp;m)であった{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=156}}。また船が通行できるように[[可動橋|開閉が可能]]であった{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1983|p=252}}。なお「海門橋」の命名者は不明である{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=156}}。
3代目の海門橋は[[1930年]](昭和5年)11月19日に永久橋化を企図した4径間コンクリートアーチ橋として完成し、[[鉄道道路併用橋|併用橋]]として水浜電車(のちの[[茨城交通水浜線]])の[[路面電車]]運行も開始されたが、[[1938年]](昭和13年)6月30日に洪水のため流失した。1959年(昭和34年)の4代目海門橋開通時点でまだ水浜線は存続していたが大洗が終点になっており<ref>水浜電車は3代目海門橋流失により祝町-湊間の運行を休止。[[1945年]](昭和20年)に大洗-祝町間が戦時中の[[不要不急線]]に指定され運輸営業を休止、1953年(昭和28年)に大洗-湊間の運輸営業を正式に廃止した。</ref>、4代目の橋は道路専用橋として建設されて再びこの橋を[[電車]]が渡ることはなかった。
 
=== 初代の落橋と2代目・3代目への継承(1896-1926) ===
3代目橋は現在の海門橋の下流側の位置に架かっており、大洗側の川岸には残骸が残っている。3代目海門橋は設計時の地質調査に問題があり、3基ある橋脚のうち那珂湊側の2基は深いケーソン基礎であるのに対して、大洗側の橋脚は浅い位置の中間砂層を支持地盤とした松杭基礎とされた。このため洪水時に大洗側の橋脚が転倒し、引きずられる形で全体が連続的に倒壊したものである。完成直後から橋脚に歪みを生じていたことは当時の写真から明らかになっており、日本の[[土木技術]]史上、大きな教訓を残した。
[[ファイル:Kaimon Bridge II.png|thumb|left|2代目海門橋]]
初代の海門橋は開通した翌[[1896年]](明治29年)9月に洪水で流失した{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=156}}。そこで2代目海門橋が[[1898年]](明治31年)3月に再び賃取り橋(木橋)として架け替えられ開通した{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=156, 421}}。この橋の開通により那珂湊と[[磯浜町|磯浜]]・[[鉾田町|鉾田]]・[[鹿嶋市|鹿島]]方面を往来することが容易になり{{sfn|鈴木|1981|p=212}}、湊町から海門橋を使って磯浜経由で[[水戸市]]に至る[[乗合馬車]]を営む者が現れた{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=156}}。
 
[[1910年]](明治43年)8月の洪水では一部損傷を受けるが持ちこたえ、1913年(大正2年)<!--3月-->に海門橋組合から茨城県に移管し、無料通行となった{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=421}}。[[大正6年の高潮災害|1917年(大正6年)10月1日の洪水]]で橋は再び大きな被害を受けたことを受け、茨城県は2代目より上流側に3代目の橋の建設に着手することにし、[[1918年]](大正7年)3月に起工、同年[[12月22日]]に3代目海門橋の開通式を挙行した{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=421}}。翌[[1919年]](大正8年)秋に水戸・湊・大洗を[[旅行]]に訪れた[[与謝野晶子]]は海門橋で[[短歌]]を2首詠んでいる(『太陽と薔薇』所収){{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=421}}。また[[田山花袋]]も海門橋に言及している{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1983|p=252}}。
[[直木三十五賞|直木賞]]受賞作家の[[小山いと子]]は、3代目海門橋の建設工事に際して基礎歪みが生じたことを題材に小説「海門橋」を執筆している。
{{Cquote|那珂川の 海に入るなる いやはての 海門橋の 白き夕ぐれ}}
{{Cquote|大海の 波もとどろと 来て鳴らす 海門橋の 柱ばしらかな}}
 
=== 3代目の落橋事故と4代目の建設(1926-1938) ===
[[1926年]](大正15年)[[9月26日]]15時30分頃、数日前に発生した漁船の衝突事故と海虫による腐食が原因と見られる落橋事故を起こし、通行中の女性3人と荷馬車1台が犠牲になった{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|pp=421-422}}。損傷箇所は陸軍水戸[[工兵|工兵隊]]により修復された。補修費は19万円であった{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=691}}。
 
[[ファイル:Kaimon Bridge IV.png|thumb|4代目海門橋]]
補修を終えた3代目の海門橋は漁船が衝突すれば橋脚が折れ、橋上を[[自動車]]が通れば橋板が抜けるという有様であったため、[[1927年]](昭和2年)度に新橋建設を[[茨城県議会]]で決議し、[[1928年]](昭和3年)12月に起工式を行った{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=422}}。[[1930年]](昭和5年)[[11月19日]]に祝町で開通式を挙行し{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=691}}、永久橋化を企図した4径間コンクリートアーチ橋として4代目海門橋が完成し、[[鉄道道路併用橋]]として水浜電車(のちの[[茨城交通水浜線]])の[[路面電車]]運行も開始された{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=422}}。長さは196.5&nbsp;m、幅は10&nbsp;m{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1983|p=252}}で総工費は37万5千円を要し{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=691}}、完成した橋を見た人々は「虹の架け橋」と呼んで絶賛した{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=422}}。しかし、架橋時点ですでに傾いていることが工事関係者の間で知られており{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=423}}、[[直木三十五賞|直木賞]]受賞作家の[[小山いと子]]は、4代目海門橋の建設工事に際して基礎歪みが生じたことを題材に小説「海門橋」を執筆している{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1983|p=252}}。[[1931年]](昭和6年)3月には1週間水浜電車を運休させて橋面の亀裂補修を行い{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=692}}、4月には5万円をかけて橋の沈下防止工事を施した{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=423}}{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=692}}が、橋が維持されたのは「奇跡」だったと『那珂湊市史』は記している{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=423}}。1931年(昭和6年)8月に湊尋常高等小学校(現・ひたちなか市立那珂湊第一小学校)の女子児童が行った交通量調査によると、海門橋の通行者数は1日7,940人(水浜電車・バスなどの乗客を含む)で、水浜電車は91台通過したという{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=692}}。
 
=== 4代目の落橋と再建への長い道のり(1938-1957) ===
[[1938年]](昭和13年)[[6月30日]]午前零時頃、警鐘が鳴る中、4代目海門橋は大きな音を立てて落橋した{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|pp=423-424}}。設計時の地質調査に問題があり、3基ある橋脚のうち那珂湊側の2基は深いケーソン基礎であるのに対して、大洗側の橋脚は浅い位置の中間砂層を支持地盤とした松杭基礎とされた。このため洪水時に大洗側の橋脚が転倒し、引きずられる形で全体が連続的に倒壊したものである。完成直後から橋脚に歪みを生じていたことは当時の写真から明らかになっており、日本の[[土木技術]]史上、大きな教訓を残した。洪水による落橋とされるものの、落橋時の増水は2&nbsp;m程度であり、那珂川上流に架かる[[水府橋]]や千歳橋では8&nbsp;mの増水でも微動だにしなかったと、『茨城政経時報』の記事「洪水余話 恨みは深し海門橋」に記されている{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=424}}。落橋後、那珂湊町と磯浜町はそれぞれ別個に渡船を運航するようになり、[[1943年]](昭和18年)から[[1945年]](昭和20年)までは那珂湊町営となった{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=780}}。
 
落橋の残骸が漁船の通航を妨げるとして、[[7月1日]]から1週間をかけて水戸工兵隊が爆破を行った{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=425}}。その後、茨城県は[[吊り橋]]として再建することを提案するも那珂湊町と磯浜町は[[オート三輪]]が通れる幅しかなかったことから反対し、[[1940年]](昭和15年)3月頃に旧橋脚を利用して仮橋を架けることに決まり実際に工事が始まったものの、[[1941年]](昭和16年)7月の洪水で流失した{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=425}}。海門橋の消失は交通条件の悪化という実利的側面だけでなく、地域のシンボルの喪失という精神的側面からも大きな課題であったが、再建されることなく終戦を迎えることになった{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|pp=674-675}}。
 
戦後の渡船は、偶数年は那珂湊町(後に那珂湊市)、奇数年は磯浜町(後に大洗町)が運航するように変化した{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=780}}。[[1948年]](昭和23年)2月、那珂湊・磯浜・[[平磯町|平磯]]・[[下大野村 (茨城県)|下大野]]の[[首長]]が連名で海門橋建設の陳情書を茨城県議会議長あてに提出し、[[1950年]](昭和25年)8月には那珂湊町長が単独で茨城県知事に陳情を行った{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=675}}。[[1955年]](昭和30年)には海門橋架橋を[[公約]]に掲げた宮原庄助が市長選を制し、関係各所への陳情を繰り返した{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=676}}。しかし[[1952年]](昭和27年)[[8月2日]]に竣工した湊大橋の建設陳情時に「湊大橋1本あれば充分」としたために[[建設省]]でその点を追及され、建設への道はなかなか開けなかった{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=676}}。それでも宮原市長は大高康・[[武藤常介]]両[[日本の国会議員|国会議員]]へ協力を依頼し、建設予定の[[東海発電所|東海原子力発電所]]による交通事情の変化を見越した橋の必要性を訴え{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=676}}、大洗町側でも陳情を繰り返したことから、[[1955年]](昭和30年)[[10月23日]]の茨城県議会で有料橋としての建設が認可された{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=782}}。
 
=== 5代目の建設、開通(1957-) ===
[[File:Kaimon-bridge 3,oarai-town,hitachinaka-city,japan.jpg|thumb|那珂川の上流側から見た海門橋(2016年6月)]]
[[File:Kaimon-bridge 2,oarai-town,hitachinaka-city,japan.JPG|thumb|海門橋の歩道。港町らしく魚を描いたタイルが埋め込まれている。]]
[[1957年]](昭和32年)[[3月27日]]、那珂湊市辰ノ口で起工式を行い、5代目の橋の建設に取り掛かり、7月からは日本道路公団が工事を担当するようになった{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=679}}。地盤が悪く、橋脚が岩盤に達することが困難なため、[[ケーソン]]工法を採用し、下部工事だけで1年3か月を要した{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=679}}。上部工事は[[1958年]](昭和33年)2月に始まり、1959年(昭和34年)4月に完了した{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=679}}。これと並行して取り付け道路の建設が行われ、1959年(昭和34年)[[6月30日]]に全面舗装が完了した{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=679}}。総事業費は3億3500万円、作業員は延70,087人で{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=782}}{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=680}}{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=782}}、工事中に3人の作業員が命を落としている{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=783}}。
 
こうして4代目の流失から21年かかって5代目海門橋が完成し、1959年(昭和34年)[[7月20日]]に茨城県立那珂湊水産高等学校(現・[[茨城県立海洋高等学校]])で1,200人が出席する盛大な開通式が挙行された{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=680}}。那珂湊市民による祝賀行事は4日間続き、[[山車|祭りの屋台]]を曳き出す町もあった{{sfn|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004|p=680}}。開通時は有料であった{{sfn|鈴木|1981|p=212}}。橋の開通と同時に、那珂湊市と大洗町が隔年交代で運航してきた渡船が姿を消した{{sfn|大洗町史編さん委員会 編|1986|p=783}}。
 
1959年(昭和34年)の5代目海門橋開通時点でまだ水浜線は存続していたが大洗が終点になっており<ref>水浜電車は4代目海門橋流失により祝町-湊間の運行を休止。[[1945年]](昭和20年)に大洗-祝町間が戦時中の[[不要不急線]]に指定され運輸営業を休止、1953年(昭和28年)に大洗-湊間の運輸営業を正式に廃止した。</ref>、5代目の橋は道路専用橋として建設されて再びこの橋を[[電車]]が渡ることはなかった。4代目橋は5代目海門橋の下流側の位置に架かっており、大洗側の川岸には残骸が残っている。
 
[[1980年]](昭和55年)3月に日本道路公団から茨城県に移管し、無料開放された{{sfn|鈴木|1981|p=212}}。[[1980年代]]の海門橋の通行台数は1日約5,000台で、うち4割を[[貨物自動車]]が占めていた{{sfn|鈴木|1981|p=212}}。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=鈴木仟|chapter=海門橋|editor=茨城新聞社 編|title=茨城県大百科事典|publisher=茨城新聞社|date=1981年10月8日|page=212|ref={{sfnref|鈴木|1981}}}}{{全国書誌番号|85006646}}
* {{Cite book |和書 |author=日本道路公団 |year=1986 |title=日本道路公団三十年史 |ref=harv }}
* {{Cite book |和書 |author=日本道路公団 |year=1986 |title=日本道路公団三十年史 |ref=harv }}{{全国書誌番号|87002248}}
* {{cite book|和書|editor=大洗町史編さん委員会 編|title=大洗町史(通史編)|publisher=大洗町|date=1986年3月31日|page=991|ref={{sfnref|大洗町史編さん委員会 編|1986}}}}{{全国書誌番号|87025540}}
* {{cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|title=[[角川日本地名大辞典]] 8 茨城県|publisher=[[角川書店]]|date=1983年12月8日|page=1617|ref={{sfnref|「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編|1983}}}}{{全国書誌番号|84010171}}
* {{cite book|和書|editor=ひたちなか市史編さん委員会 編|title=那珂湊市史 近代・現代|publisher=ひたちなか市教育委員会|date=2004年3月31日|page=720|ref={{sfnref|ひたちなか市史編さん委員会 編|2004}}}}{{全国書誌番号|20617047}}
 
== 関連項目 ==
* [[無料開放された道路一覧]]
 
==外部リンク==
*[https://www.youtube.com/watch?v=ve23yw36wpM?t=6m25s 茨城県ニュースNo.28(1959年(昭和34年度)制作)【Youtubeチャンネル なつかし・いばらき】※昭和34年7月20日海門橋開通式についてのニュース 6分25秒より]
*[https://hitachinakacity.wordpress.com/%e5%8f%a4%e5%86%99%e7%9c%9f%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/ 古写真リスト(市報ひたちなか~まちの話題)]※「海門橋のある風景」収載
 
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[[Category:無料開放された日本の橋]]
[[Category:那珂川水系]]
[[Category:茨城県の橋]]
[[Category:ひたちなか市の交通]]
[[Category:大洗町]]
[[Category:1959年竣工の建築物]]