「千と千尋の神隠し」の版間の差分
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声の出演は、[[柊瑠美]]・[[入野自由]]・[[夏木マリ]]・[[内藤剛志]]・[[沢口靖子]]・[[上條恒彦]]・[[小野武彦]]・[[菅原文太]]など。
[[2001年]][[7月20日]]に[[日本]]公開。興行収入は300億円を超え、[[日本歴代興行成績上位の映画一覧|日本歴代興行収入]]第1位の記録<ref>[http://www.eiren.org/toukei/img/eiren_kosyu/data_2001.pdf 日本映画製作者連盟2001統計]</ref>を残した。この記録は
== あらすじ ==
10歳の少女
ハクは八百万の神々が客として集う「油屋」という名の温泉宿で働いて
豚にされた両親を助けるため、油屋で働き始めた千尋だったが、彼女は人間であるために油屋の者たちから疎まられ、強烈な異臭を放つ客の相手まで押し付けられる。しかし彼女の実直な働きにより、その客から大量の砂金が店にもたらされると、千尋は皆から一目置かれる存在になる。千尋はその客から不思議な団子を受け取る。
翌日、ハクは湯婆婆の言いつけにより、彼女が対立している双子の姉の銭婆
[[File:Japan_Touch_Haru_-_Double_Mixte_-_Lyon_-_2014-04-12-_P1810647.jpg|thumb|カオナシのコスプレ]]
そのころ油屋では、カオナシという化け物が従業員を飲み込んで暴れていた。千尋から親切にされたことがあるカオナシは、金や食べ物で千尋の気を引こうとするが、彼女が興味を示さないので激怒する。千尋は不思議な団子をカオナシにも飲ませて従業員を吐き出させたことにより、従業員に感謝されるまでになる。千尋が改心したカオナシとネズミになった坊を伴って銭婆の家を訪れると、銭婆は彼女を穏やかに受け入れる。
一方、意識を取り戻したハクは、湯婆婆に坊が銭婆の所へ行ってしまったことを伝える。坊を連れ戻してくることを条件に、千尋と両親を解放するよう約束を迫った彼は、帰る手段のなかった千尋を迎えに行く。千尋は銭婆から許されたハクと共に油屋へ帰るが、その途中で彼女が幼い頃に落ちた"川"がハクの正体であることに気づく。幼い千尋は溺れそうになったところを、川のハクによって浅瀬に運ばれ、助けられていたのだ。それによりハクは自分の名前を取り戻す。
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; {{Visible anchor|荻野 千尋|荻野千尋|千尋}}(おぎの ちひろ) / {{Anchor|千}}(せん)
: 声 - [[柊瑠美]]
: 主人公。荻野家の一人娘。10歳の少女。焦げ茶色の[[ポニーテール]]ヘアがトレードマークで、私服はクリーム色と黄緑色の[[Tシャツ]]に[[半ズボン]]を穿いている。両親と共に[[異界]]に迷い込
: ちなみに、[[契約書]]に自分の名前を書くシーンでは、「荻」ではなく「获」と書いている{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=23}}<ref>{{Twitter status|kinro_ntv|535766361666904065}}</ref>。
; {{Anchor|ハク}}
: 声 - [[入野自由]]
: 湯屋で働いている謎の少年。外見年齢は12歳{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=57}}<ref>{{Twitter status|kinro_ntv|535761675006115840}}</ref>。湯婆婆の弟子であり、湯屋の帳場を預かっている。作中初めて千尋と会った時から何かと彼女の力になってくれた恩人である。
: 釜爺によれば、千尋同様忽然と湯屋に現れ、湯婆婆の弟子になることを申し出たという。釜爺は反対していたが止められず、その後は湯婆婆の欲深な野望の手足に利用されるようになり、作中の時点で心身共に限界が近かった。
: その正体は白龍で、千尋が以前住んでいた家の近くを流れていた「コハク川」という小さい川を司る神。本名は「'''ニギハヤミコハクヌシ
: 最終的に千尋の尽力で湯婆婆の支配と銭婆の強力な呪詛から救われる。千尋が解放された後は湯婆婆の弟子を辞めると語った。
: 正体の白龍のデザインイメージは『[[もののけ姫]]』のモロの君{{要出典|date=2016年9月}}。
=== 千尋の家族 ===
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; {{Anchor|湯婆婆}}(ゆばーば)
: 声 - [[夏木マリ]]
: 湯屋「油屋」の経営者で正体不明の老[[魔女]]。大柄だが顔も大きく二頭身で、強力な魔力と悪魔的な経営力で湯屋を切り盛りしている。金儲けに勤しむ強欲さを持ち、何でもずけずけと口やかましく、脅かしたり怒鳴り散らしたりと部下をアゴでこき使う。客に対しては基本的に腰が低いが、暴走するカオナシに対しては、「お客様とて許せぬ」と容赦なく攻撃を加えている。息子の坊を溺愛しており、ハクに指摘されて坊が行方不明になったことに気付き、激しく取り乱していた<ref group="注釈">直前に銭婆によってネズミの姿になった坊に出くわしているが、自分の息子だとは気付いていなかった。</ref>。
: [[人間]]の世界から迷い込んできた千尋を湯屋に勤めさせ、名前を奪って「千」と呼ぶ。油屋が閉まる明け方になると黒いマントに身を包み、湯バードと共に彼方へ飛び去っていく。弟子のハクを魔法で操り、銭婆の持つ契約印を盗ませる。契約印があれば湯屋の労働協約が変えられ、従業員を奴隷にすることができる。横暴な性格だが、河の神の穢れを清めるために孤軍奮闘し砂金の儲けをもたらした千尋の努力を認め、怖気付いた従業員達に千を見習うようたしなめるなど、経営者としての度量も持ち合わせてはいる。そのため、温情な心を全く持たない人物というわけではない。
: 名前の由来は[[湯たんぽ|湯湯婆]](湯たんぽ)から。
; {{Anchor|坊}}(ぼう)
: 声 - [[神木隆之介]]
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: 湯婆婆の双子の姉で坊の伯母。声や容姿は湯婆婆と瓜二つで、彼女と同様に強力な魔力を持つ魔法使い。以前から妹とは確執があり、姉妹仲はあまりよくない。銭婆本人は「あたし達二人で一人前なのに気が合わない」、「魔女の双子なんてやっかいなもの」と語っており、一方の湯婆婆も「性悪女め」とつぶやくほどである。湯婆婆の差し金で魔女の契約の[[印章|判子]]を盗み出したハクに紙の式神を差し向け、千に対しても「龍はみんな優しくて愚かだ」と冷たく言い放ったが、最終的には彼を許している。
: 言葉遣いなどは湯婆婆と同じで、釜爺にも「あの魔女は怖い」と評されているが、実際は湯婆婆とは異なり、温和で優しい性格であり、千尋に「自分の名前を大事にね」と言って励ましたり、行く宛のないカオナシを引き取ったりするほど心が広く、物分かりの良い人物。千尋も途中からは、「おばあちゃん」と呼んでいた(湯婆婆に対しても、最後は「おばあちゃん」と呼んでいる)。
: [[ランプ (照明器具)#カンテラ|カンテラ]]など無生物に魔力を吹き込んで使役しながら“沼の底”という寂しい片田舎で穏やかな暮らしをしている。甥の坊をネズミ、湯バードをハエドリ、頭3体を坊に変えるなどもしている。最初は「紙のトリ」より少々透けて湯婆婆の大広間に登場する。最後に千尋に手製の髪留め{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=117}}<ref>{{Twitter status|kinro_ntv|535791885759946754}}</ref><ref>{{Twitter status|kinro_ntv|535791953762205697}}</ref>を贈り、力強く背中を押してくれた。
=== 油屋の従業員 ===
従業員の大半は
; {{Anchor|釜爺}}(かまじい)
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; {{Anchor|リン}}
: 声 - [[玉井夕海]]
: 湯屋で働いている[[湯女]]の娘。外見年齢は14歳{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=58}}<ref name="kinro_ntv535767450386591744">{{Twitter status|kinro_ntv|535767450386591744}}</ref>。口調は荒っぽいが性格はサッパリとしており、人間である千尋を初めて見た時は驚いて当惑していたが、彼女の雇用が決まると湯屋の先輩として千尋に色々と仕事を教えて面倒を見るという優しさを見せる<ref>{{Twitter status|kinro_ntv|535766708036710400}}</ref>。その出自は不詳で{{refnest|group=注釈|『THE ART OF 千と千尋の神隠し』23頁のリンのイメージボードでは、「白狐」と表記されている<ref name="kinro_ntv535767450386591744" />。}}、不本意ながら湯屋で働く自分の運命を呪っており、いつか湯屋を出て海の向こうの街に行く事を夢見ている
; {{Anchor|父役}}(ちちやく)、{{Anchor|兄役}}(あにやく)、{{Anchor|番台蛙}}(ばんだいかえる)
: 声 - [[上條恒彦]](父役)、[[小野武彦]](兄役)、[[大泉洋]](番台蛙)
: それぞれ油屋で働く者達と湯婆婆との間の中間[[管理職]]的役割を担っており、父役は湯婆婆とハクを除く従業員の中で最も地位が高く、兄役はその下という位置づけになる(父役には「上役」と呼んでいる)。いずれも[[カエル|蛙]]の化身{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=59}}<ref name="kinro_ntv535777121969262592" />。それぞれ典型的な上に諂い下に威張るキャラクターとして描かれている。下の者を見下す傾向があり、特に人間である千尋を毛嫌いしている。兄役は、カオナシが客として振舞っていたときに[[幇間]]のようなこともしていた。父役、兄役は、千尋がカオナシを追い払ってからは、青蛙とともに湯婆婆から千尋を庇うなど、変化が見られる。
; {{Anchor|青蛙}}(あおがえる)
: 声 - [[我修院達也]]
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; {{Anchor|カオナシ}}
: 声 - [[中村彰男]]
: 黒い影のような物体にお面をつけたような存在。「ア」または「エ」といったか細い声を搾り出すだけで言葉は話せず表情も無い。「己」を持たず、手からどんなものでも出す力を持つが、それはただの土くれが化けているものに過ぎない。また、他人を呑み込んでその声を借りてでしかコミュニケーションが取れない。主に手から金など人の欲しがるものを出し、それを欲した瞬間にその人を飲み込んでしまう。橋の欄干で千尋を見かけた時から執拗に彼女を求めるようになり、千尋に喜んでもらいたい一心で番台から薬湯の札を盗んだりした。オクサレ神の一件の翌日に湯屋に現れ、砂金を餌に従業員達を丸め込む。千尋にも砂金を差し出したが断られたため、絶望して次々と湯屋の従業員を飲み込んでいき肥大化していく。その後千尋と対面するが彼女に拒絶され、ニガダンゴ
: 顔を持たないというキャラクター性から、海外版においても名称の変わらないキャラクター達の中で唯一彼のみが各国語に翻訳された名前(例:英語圏なら「ノーフェイス」など)が使われている。
: フィルム・コミック「千と千尋の神隠し3」とDVDの始めのうちの字幕には「仮面男」と書かれている。
; {{Anchor|神々}}
: 疲れを癒しに油屋へ来る[[神 (神道)|八百万の神々]]。姿形はバリエーションに富み、様々な形体をしている。
;; [[おしら様|おしらさま]]{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=61}}<ref>{{Twitter status|kinro_ntv|535764470669139971}}</ref>
:: 声 - [[安田顕]]
:: [[ダイコン|大根]]の神様。千尋と会っても別段物怖じも驚きもせず、リンに代わって千尋が湯婆婆の所へ行くのに付き添ってあげる優しい神様。その後は河の神を手を振って見送ったり、正装らしき衣装を着て千尋を見送っていた。
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;; [[なまはげ|おなま様]]
:: 木の葉の服を着て包丁を持っている。
;; {{Anchor|オクサレ様}}(おくされさま){{sfn|ロマンアルバム|2001|page=61}}<ref>{{Twitter status|kinro_ntv|535774754976698369}}</ref> / 河の神(かわのかみ)
:: 声 - [[はやし・こば]]
:: 作中の中盤に登場する神様。[[ヘドロ]]を固めたような姿でその凄まじい悪臭は、青蛙を気絶させ、リンが運んできた飯を一瞬で腐らせ、湯婆婆を固まらせ、千尋に髪を逆立てさせるほどである。また千尋が浴槽に転落した際、底にこびりついたヘドロに頭から埋まりもがく千尋を引き抜いて救出した。その正体は翁のような面を付けた半透明の身体を持つ名のある河の主で、千尋の尽力によって体中のゴミが取り除かれ、さらに体に刺さっていた針も引き抜かれた事で本来の姿を取り戻し、歓喜しながら湯屋から飛び去っていった。去り際には自身を救ってくれた千尋にニガダンゴを授け、湯屋には大量の砂金を残している。
== 舞台 ==
湯婆婆が経営する、八百万の神が体を休める「油屋」(あぶらや)という名の銭湯である{{sfn|ロマンアルバム|2001|pages=62-63}}<ref>{{Twitter status|kinro_ntv|535758257940213761}}</ref><ref>{{Twitter status|kinro_ntv|535765299287453696}}</ref>。油屋としての施設は[[ボイラー]]や[[エレベーター]]など、近代的な施設が極彩色の純日本的な建築とミックスされたデザインとなっている。最下層にボイラー機械室、その上に従業員用のスペースがあり、湯婆婆とハク、釜爺以外の従業員達はそこで寝泊りする。ここまでは神々の出入りする正面からは見えない地下と地上階の崖側に配置されており、油屋正面とそれらの上階が油屋の営業スペースとなっている。中に大きな[[吹き抜け]]があり、下には様々な種類の[[風呂]]が配置され、その上を取り囲むように宴会場や客室が配置されている。さらにそれらの上には湯婆婆の個人宅がありその部分だけ洋風の建築様式となっている。
千尋たちが最初に迷い込んだ時計台のような建物から暫くは、いくつかの廃墟のあるなだらかな丘が続くが、その後小川(河)を渡ったあたりから湯屋に付随する食堂街となる。その河は昼には小川であるが、夜になり神々が訪れる時間となると船が行き交う巨大な河となる。食堂街を抜けると橋があり湯屋の正面入り口へと繋がる。食堂街の周りに養豚場や冷凍室、花園などが配置され町全体で油屋と食堂を運営するようになっている(花園はアジサイやツツジ、椿など実際には同時期に咲くことがないであろう様々な花が咲き誇っている)。ちょうど河の反対側は、絶壁となっており、その下は広大な平原が広がっていて雨が降ると海になる。油屋だけで独立した絶壁の上に聳えるように建っており、レストラン街や養豚場等の周辺施設は別の崖の上に配置されている。油屋ともう一つの崖とは橋で繋がっており、橋の下を'''海原電鉄'''([[架線]]はない)が走っている。[[単線]]の一方通行で逆向きには列車が走っておらず、専ら行きっぱなしである(釜爺曰く、昔は逆向きの列車もあったという)。途中には千尋が降りる「沼の底」駅があり、ほかに乗客の降りる沼原駅なども出てくる。
== 声の出演 ==
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|-
|[[おしら様]]||[[安田顕]]||[[ジャック・エンジェル]]
|}
== スタッフ ==
* 製作総指揮:[[徳間康快]]
* 製作:[[徳間書店]]・[[スタジオジブリ]]・[[日本テレビ放送網]]・[[電通]]・[[ディズニー]]・[[東北新社]]・[[三菱商事]]{{sfn|叶|2006|page=221}}
* 原作・脚本・監督:[[宮崎駿]]
* 音楽・指揮・ピアノ演奏:[[久石譲]]
* 作画監督:[[安藤雅司]]・[[高坂希太郎]]・[[賀川愛]]
* 動画チェック:[[舘野仁美]]・鈴木まり子・斎藤昌哉・大橋実
* 美術監督:[[武重洋二]]
* 美術監督補佐:[[吉田昇]]
* 色彩設計:[[保田道世]]
* 色指定補佐:山田和子
* デジタル作画監督:片塰満則
* 映像演出:[[奥井敦]]
* 録音演出:[[若林和弘|林和弘]]
* 編集:[[瀬山武司]]
* 編集助手:水田経子
* 制作担当:[[高橋望]]
* プロデューサー補:[[石井朋彦]]
* 特別協力:[[読売新聞社]]・[[ローソン]]
* 特別協賛:[[ネスレ日本]]
* 宣伝プロデューサー:[[市川南 (映画プロデューサー)|市川南]]
* 製作担当:[[奥田誠治 (映画プロデューサー)|奥田誠治]]・福山亮一
* 制作:[[スタジオジブリ]]
* プロデューサー:[[鈴木敏夫]]
* 配給:[[東宝]]
==
=== 企画 ===
==== 企画書脱稿までの経緯 ====
宮崎駿は毎年夏になると、信州に持っている山小屋にジブリ関係者とその娘たちを集めて合宿を行っていた。宮崎は子供たちのことを赤ん坊のころからよく知っていた。宮崎は彼女たちのことを「幼いガールフレンド」と呼んでいた{{sfn|叶|2006|page=224}}。少女たちは宮崎を「お山のおじさん」と呼んでおり、その頃はまだ映画監督とは知らなかった{{sfn|奥田千晶|2016|page=69}}。『もののけ姫』公開直後の1997年8月、制作に疲れ果てた宮崎は山小屋で静養し、「幼いガールフレンド」たちの訪問を楽しみにしていた。同年9月ごろ、宮崎に次回作への意欲が灯りはじめる{{sfn|叶|2006|page=224}}。山小屋には「[[りぼん]]」や「[[なかよし]]」といった[[少女漫画]]雑誌が残されていたが、内容は恋愛ものばかりだった。宮崎は10歳の女の子に向けて恋愛物語ばかりが供給されていることへ違和感を抱き、彼女たちが心に抱えているものや、本当に必要としているものは別にあるのではないかと感じた。美しく聡明なヒロインではなく、どこにでもいるような10歳の少女を主人公に据え、しかも安易な成長物語ではないような映画を作ることができるのではないか、少女が世間の荒波に揉まれたときに、もともと隠し持っていた能力が溢れ出てくるというような、そんな物語が作れるのではないか、と考えた{{sfn|コミックボックス編集部|2001|page=30}}。当時宮崎は、思春期前後の少女向けの映画を作ったことがなかった。そのため、山小屋を訪れる「幼いガールフレンド」たちに向けて映画をプレゼントしたいと望むようになった{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|pages=84-85}}。宮崎は『[[パンダコパンダ]]』(1972年)のとき、自分の子供を楽しませることを目標にアニメーションを制作したが、顔の浮かぶ特定の個人に向けて映画を作るという経験はそれ以来のことだった{{sfn|コミックボックス編集部|2001|page=134}}。しかし宮崎駿は、『[[もののけ姫]]』の製作中からしきりに監督引退をほのめかしており、1997年6月の完成披露試写会以降、「引退」発言はマスメディアを賑わせていた{{sfn|叶|2006|page=195}}。当時はまだ引退の心づもりは変わらず、次回作では[[絵コンテ]]は担当しても監督は別人を立てるつもりでいた{{sfn|叶|2006|page=224}}。
1998年3月26日、スタジオジブリの企画検討会議で、[[柏葉幸子]]『[[霧のむこうのふしぎな町]]』(1975年、講談社)が案に挙がる{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=28}}。小学6年生の少女が「霧の谷」を訪れ、魔法使いの末裔たちが営む不思議な商店街で働きはじめるという筋のファンタジー小説だった。この原作は以前から企画検討にかけられており、1995年の『[[耳をすませば]]』では天沢聖司が『霧のむこうのふしぎな町』を読む場面が組み込まれている。宮崎は、柏葉の原作をもとに『ゴチャガチャ通りのリナ』というタイトルでイメージボードの制作を始める。しかし、この企画は早々に断念された{{sfn|叶|2006|pages=224-225}}。
次に、新企画『煙突描きのリン』がはじまった。1998年6月、[[小金井市]][[梶野町]]のスタジオジブリ付近に事務所「[[豚屋]]」が完成、宮崎の個人事務所[[二馬力]]のアトリエとして使われることになった。宮崎はここで新企画のイメージボードに取り組みはじめた。『煙突描きのリン』は、大地震に見まわれた東京を舞台にした映画で、銭湯の煙突に絵を描く18歳の画学生、リンが、東京を影で支配する集団と戦うという物語であった。作品の背景には、現代美術家[[荒川修作]]の影響があり、荒川をモデルにした怪人が登場予定だった。宮崎は[[養老天命反転地]]を訪れて気に入り、荒川とは1998年に対談して意気投合している{{sfn|叶|2006|page=225}}。プロデューサーの[[鈴木敏夫]]によれば、リンと敵対する敵集団のボスは宮崎自身が投影された60歳の老人であり、しかもこの老人と18歳の主人公のリンが恋に落ちる展開が用意されていた{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|pages=54-55}}。
1998年6月から約1年間進められた『煙突描きのリン』の企画は、1999年8月、突如廃案になった{{sfn|叶|2006|page=226}}{{refnest|group=注釈|きっかけとなった宮崎と鈴木の面会は、1999年1月の出来事とする記述もある{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=29}}。}}。鈴木敏夫によれば、次のような出来事があったという。鈴木は、1998年に公開されヒットしていた映画『[[踊る大捜査線 THE MOVIE]]』([[本広克行]]監督)を遅れて鑑賞する。若手の監督によって同時代の若者の気分がリアルに表現されていることに衝撃を受け、同時に、宮崎の描く20歳の女性が現代の若者像として説得力を持ちえるのかどうか、疑問を抱く。鈴木は映画を観たその足で宮崎のアトリエに赴いた。すでに『煙突描きのリン』の企画はかなり進んでおり、アトリエの壁面には数多くのイメージボードが貼りつけられていた。イメージボードとは、作品のおおまかなイメージをスタッフと共有するために、アニメの代表的なシーンをラフに描き起こしたスケッチである。しかし鈴木はそれには触れず、『踊る大捜査線』の話をしはじめた{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|pages=55-56}}。
{{Quotation|宮さんは僕の話を聞きながら、すっと立ち上がり、壁に貼ってあったイメージボードを一枚一枚はがし始めました。そして、全部まとめて、僕の目の前でゴミ箱の中にバサッと捨てたんです。あの光景はいまでも忘れられません。
「この企画はだめだってことだろう、鈴木さん」|{{Harvnb|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=56}}}}
宮崎はその場ですぐ、「千晶の映画をやろうか」{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=56}}と提案した。「千晶」とは、本作の製作担当である[[奥田誠治 (映画プロデューサー)|奥田誠治]]の娘、奥田千晶のことである。奥田誠治は[[日本テレビ]]の社員で、宮崎の友人のひとりだった。奥田千晶は毎年夏に宮崎の山小屋に滞在する「幼いガールフレンド」のひとりであり、鈴木とも親しかった。さらに宮崎は、作品の舞台を[[江戸東京たてもの園]]にすることを提案した。江戸東京たてもの園はスタジオジブリにほど近い場所にあり、宮崎・鈴木・[[高畑勲]]らの日常的な散歩コースになっていた{{sfn|叶|2006|page=233}}。身近な場所を舞台に、親しい子供のための映画を作るという宮崎の提案に、鈴木は首を縦に振らざるをえなかった{{sfn|ロマンアルバム|2001}}。
ある夏、宮崎らが山小屋の近くの川に沿って散歩をしていると、千晶がピンク色の運動靴を川に落としてしまった。千晶の父と宮崎・鈴木は必死で靴を追いかけ、川から拾い上げた。このエピソードは宮崎の印象に残り、『千と千尋の神隠し』のクライマックスの場面で直接的に使われている。幼いころの千尋はハク(コハク川)から靴を拾おうとして川に落ちたが、そのときの運動靴はピンク色である。また、この靴は、エンドクレジット後の「おわり」のカットでも作画されている{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=75}}。企画は当初、「千の神隠し」という仮題でスタートし、主人公の名前もそのまま「千晶」になっていた。しかし、「教育上よくない」という理由で、「千尋」と改められた{{sfn|奥田誠治|2016|page=48}}。
1999年11月2日、企画書<ref>本文は、{{Cite web |url=https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0223940/img/230-233.pdf |title=不思議の町の千尋 ―― この映画のねらい |format=pdf |publisher=岩波書店 |accessdate=2016-09-13}}</ref>が書き上げられた。宮崎は企画書の中で大きく分けて次の3点の意図を掲げている{{sfn|叶|2006|page=227}}。
# 現代の困難な世の中で危機に直面することで、少女が生きる力を取り戻す姿を描く
# 言葉の力が軽んじられている現代において、「言葉は意志であり、自分であり、力」であることを描く(千尋は湯婆婆に名前を奪われ、支配されてしまう)
# 日本の昔話の「直系の子孫」として、日本を舞台にするファンタジーをつくる
「千尋が主人公である資格は、実は喰い尽くされない力にあるといえる。決して、美少女であったり、類まれな心の持ち主だから主人公になるのではない」とし、その上で、本作を「10歳の女の子達のための映画」と位置づけている。
『千と千尋の神隠し』は、『霧のむこうのふしぎな町』、『ゴチャガチャ通りのリナ』、『煙突描きのリン』の影響を部分的に受けてはいるが、キャラクターやストーリー展開の面では完全なオリジナルになった{{sfn|叶|2006|page=227}}。
本作の制作は、12月13日に[[東宝]]が公開した配給作品ラインナップで公にされた{{sfn|叶|2006|page=227}}。
=== 制作過程 ===
1999年11月8日、宮崎駿はメインスタッフに向けて説明会を行う{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=30}}。11月12日にはジブリ全社員を集めて作品についてレクチャー{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=070}}。翌週から監督は[[絵コンテ]]作業に入り、メインスタッフたちも本格的な制作準備に入った{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=087}}。
2000年2月1日、宮崎は社内に打ち入りを宣言、作画打ち合わせがスタートした{{sfn|叶|2006|page=227}}。
==== 作画班の体制 ====
[[作画監督]]には[[安藤雅司]]が起用された。安藤は『[[もののけ姫]]』で26歳にして作画監督に抜擢された。しかし、鈴木敏夫の回想によれば、『もののけ姫』の制作終了後、安藤は一度辞意を示しており、鈴木に慰留されていた。宮崎のアニメーションがキャラクターを理想化・デフォルメする傾向が強いのに対して、安藤はリアリズムを希求し、映像的な快楽を優先して正確さを犠牲にすることを許さなかった。両者の志向は対立していた{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|pages=62-63}}。
通常のアニメ作品では、[[原画]]修正は作画監督が行い、監督は直接関与しない。しかし、宮崎駿監督作品の場合、宮崎がアニメーターの長として全体の作画作業を統括し、原画のデッサン・動き・コマ数などを先に描き直す。このため、作画監督の仕事は宮崎のラフな線を拾い直す作業が主となる。安藤は『もののけ姫』公開後のインタビューで、宮崎の作品では作画監督という肩書で仕事をしたくないと心情を語っている<ref>{{Cite journal |auhor=叶精二|date=1999-03|publisher=キネマ旬報社|journal=フィルムメーカーズ6/宮崎駿| title=宮崎作品のアニメーション技術考 安藤雅司氏インタビュー|url=http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/miyazaki/gijyutsu_ron.html|accessdate~2016-09-03}}</ref>。そこで鈴木は、次回作では「芝居」についても安藤のやり方で制作していいと認めることにした{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|pages=62-63}}。宮崎自身も、『もののけ姫』の制作で加齢による体力の低下を痛感し、すでに細かな作画修正作業を担いきれない段階にあると考え、作画の裁量を安藤に委ねる方針を取った<ref>{{harvnb|ロマンアルバム|2001|page=76}}, 脚注の★1.</ref>。それだけでなく、[[アニメ監督|演出]]を安藤に任せる案もあった。宮崎が絵コンテを描いた『[[耳をすませば]]』で[[近藤喜文]]が監督を担当した前例もあり、同様の制作体制が取られる可能性もあった。少なくとも『ゴチャガチャ通りのリナ』の段階では、演出を安藤に演出を任せるつもりでいたという{{sfn|コミックボックス編集部|2001|page=142-143}}。しかし、当の安藤は宮崎の絵コンテで演出をするつもりはなく{{sfn|コミックボックス編集部|2001|page=91-94}}、結局は宮崎が監督することになった{{sfn|叶|2006|pages=227-228}}。
原画は過去最大規模の37人体制になった{{sfn|叶|2006|page=240}}。しかし、当時ジブリ社内の原画陣は過去に例がないほど脆弱で{{sfn|叶|2006|page=228}}、特に中堅のアニメーターの層が薄かった{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=087}}。これに加えて、フリーで活躍しているアニメーターを積極的に受け入れ、宮崎駿の中になかった表現を取り入れたいという安藤の意向もあり{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=81}}、[[大平晋也]]や[[山下明彦]]といった実力派のフリーアニメーターが参加した{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=33}}。
[[動画 (アニメーション)|動画]]チェックチーフは[[舘野仁美]]。舘野は『[[となりのトトロ]]』から『[[風立ちぬ]]』までのすべての宮崎監督作で動画チェックを務めている。動画班は最終的に、国内スタッフが99人、韓国の外注スタッフが27人、計126人が動員された{{sfn|叶|2006|pages=241-242}}。
==== カオナシがメインキャラクターに ====
宮崎駿は、長編映画制作の際、事前にシナリオを用意しない。[[絵コンテ]]を描きながらストーリーを構想し、各スタッフは絵コンテがすべて完成する前から作業を進めていく。その間は監督自身でさえも作品の全容を知らない{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=70}}。本作では、絵コンテが40分ほど完成したところで転機が訪れた。2000年のゴールデンウィーク中のある日{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=58}}、その日は休日だったため、多くのスタッフは出勤していなかったが、プロデューサーの鈴木敏夫、作画監督の安藤雅司、美術監督の武重洋二、加えて制作担当者がたまたま居合わせた{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=87}}。宮崎はホワイトボードに図を描きながら、映画後半のストーリーを説明しはじめた{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=58}}。千尋は湯屋で働きながら湯婆婆を打倒する。ところが、湯婆婆の背後には銭婆というさらに強力な黒幕がいたことが判明する。ハクの力を借りて銭婆も倒し、名前を取り返して両親を人間に戻す。このような流れである{{sfn|叶|2006|page=228}}{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|pages=58-59}}。
しかし、この案では上映時間が3時間を超えてしまうという意見が出た。鈴木は公開を一年延期しようと提案したが、宮崎と安藤はこれを否定{{sfn|叶|2006|page=228}}{{refnest|group=注釈|公開を1年延期して3時間の映画を作るという提案について、鈴木の真意は不明である。映画公開直前の2001年6月20日のインタビューでは「真剣でした。そういう映画を見たかったし」{{sfn|コミックボックス編集部|2001|page=148}}と語っている。一方、公開から10年余りが経った2016年の聞き書きでは、宮崎の提示したプロットについて「正直にいうと、ちょっとバカバカしいんじゃないかと思った」{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=59}}と語っている。しかし、宮崎の前で正直に不満を述べるわけにはいかない。そこで、上映時間が延びてしまうというプロットの弱点をとっさに指摘した、という説明に変わっている{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=59}}。}}。上記のプロットは破棄されることになった。宮崎そこでとっさに、千尋が初めて湯屋に入るシーンで欄干のそばに立っていたキャラクターを話題にした。当初カオナシは、「何の予定もなくてただ立たせていただけ」{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=36}}だったが、映像にしたときに奇妙な存在感があり、宮崎にとって気になるキャラクターになっていた。宮崎は即席で、湯屋でカオナシが大暴れするストーリーを語った。これが採用されることになり、絵コンテ執筆は大きく転換した。湯婆婆を退治するという展開は立ち消え、代わりに千尋とカオナシの関係にスポットライトが当たることになった{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=36}}{{sfn|叶|2006|page=228}}。
==== 安藤と宮崎の緊張関係 ====
当初は予定通り安藤雅司が作画工程を統括し{{sfn|叶|2006|page=228}}、原画修正を任されていた{{sfn|叶|2006|page=237}}。鈴木敏夫の約束通り、宮崎駿はタイミングのみをチェックした{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=87}}。しかし、日を追うにつれ、宮崎と安藤の間の溝は次第に深まっていった{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=63}}。宮崎は「どこにでもいる10歳の少女を描く」というコンセプトを掲げた。安藤はこの方針に可能性を感じ、今までの宮崎駿監督作にはなかったような現実的な空間を作り上げることで、ジブリアニメに新しい風を吹きこもうとした{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=90}}。そのような試みのひとつが「子供を生々しく描く」ということだった{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=76}}{{refnest|group=注釈|安藤は漫画家の[[高野文子]]のファンで、高野のように少ない線のみで人体を生々しく表現することに憧れを持っていた{{sfn|コミックボックス編集部|2001|page=95}}。}}。安藤が用意した千尋のキャラクター設定は、背中が曲がり、無駄の多い緩慢な動作に満ち、表情はぶうたれていて喜怒哀楽が不鮮明だった。これは従来宮崎が描いてきた少女像からかけ離れたもので、とりわけ、目の描き方が一線を画していた{{sfn|叶|2006|page=236}}。序盤の[[絵コンテ]]は、千尋の不機嫌なキャラクター性を反映してゆっくりとした展開となった。しかしながら宮崎は、千尋がグズであるがゆえに先行きの見えてこない物語に苛立った。絵コンテでは、千尋が湯屋で働きはじめるまでの段階で、すでに40分が経っていた{{sfn|叶|2006|page=228}}。そこで、中盤以降は一気にスペクタルに満ちた展開に舵を切った。千尋も序盤とは打って変わってデフォルメされた豊かな表情を見せ、きびきびと行動するようになった。そこには、旧来通りの、宮崎らしい、理想化されたヒロインがいた。安藤はこの方向転換に「違和感と失望」{{sfn|叶|2006|page=237}}を感じたが、それでもなお緻密な修正を続け{{sfn|叶|2006|page=237}}、作画監督の通常の仕事範囲を超えて[[動画 (アニメーション)|動画]]段階でもチェックを行い、場合によっては動画枚数を足すなど{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|pages=32-33}}、身を削って作業を進めた。カットの増加・作画作業の遅延によって補助的に作画監督([[賀川愛]]・[[高坂希太郎]])が増員されたが{{sfn|叶|2006|page=237}}、最終チェックはすべて安藤が担った{{sfn|ロマンアルバム|2001|pages=84-85}}。結局は宮崎も、当初の予定に反して、[[レイアウトシステム|レイアウト]]修正・原画修正を担うようになった{{sfn|叶|2006|page=228}}。宮崎の提示する演出意図と安藤の指示の食い違いに戸惑うスタッフは多かったという{{sfn|叶|2006|page=237}}。
安藤は制作終了後のインタビューで、最終的には作品と距離をおいた関わり方になってしまったこと、全体としては宮崎の作品の枠を出ることができなかったこと、当初自分で思い描いていた作品はどうしても実現できなかったことを振り返っている{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=76}}。しかし、宮崎は「安藤の努力と才能がいい形で映画を新鮮にしている」と評価しており{{sfn|コミックボックス編集部|2001|page=143}}、鈴木は宮崎と安藤の緊張関係によって画面に迫力がみなぎるようになったと語る{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=63}}。安藤は本作を最後にジブリを退職したが{{sfn|叶|2006|page=240}}{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=64}}、『[[かぐや姫の物語]]』(2013年)にはメインアニメーターとして、『[[思い出のマーニー]]』(2014年)には脚本(連名)および作画監督としてジブリ作品に再び参加している。
==== 作業の遅延 ====
2000年9月20日、スタジオジブリ社長、[[徳間康快]]が死去。10月16日、[[グランドプリンスホテル新高輪|新高輪プリンスホテル]]にてお別れ会。宮崎は会の委員長を務めた{{sfn|叶|2006|page=228}}。のちに語っているところでは、『千と千尋』に登場するカエル男のように、葬儀に出席する喪服の男たちがみなカエルに見えたという{{sfn|叶|2006|page=232}}。
同時期、作画作業の遅延は深刻化していた。前述の通り作画監督が増員されたのはこのころだった。経験の浅い新人アニメーターに対しては「遅くとも1人1週間で1カットあげる」という目標を設定したが、それだけではとても公開に間に合わない計算になり、鈴木は頭を悩ませた。社内で上げたカットは全体の半分程度にとどまり、残りは外注で仕上げた。アニメーターの[[小西賢一]]に依頼して実力のあるフリーアニメーターをリストアップしてもらい、支援を要請した{{sfn|叶|2006|pages=228-229}}。
動画・彩色は、国内の外注スタジオに委託しただけでは間に合わないということが明らかになった{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=34}}。そこで、ジブリ創設以来はじめて、海外スタジオに動画と仕上を外注することを決断{{sfn|叶|2006|page=229}}。スタジオから4人を韓国に派遣した{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|pages=34-35}}。韓国の[[DR_MOVIE|D.R DIGITAL]]は動画・彩色を、[[JEM (企業)|JEM]]は彩色を担当した{{sfn|叶|2006|page=229}}。両社の仕事は高品質で、納期も遵守された{{sfn|叶|2006|page=229}}。
=== 美術 ===
[[ファイル:Kodakara-yu.jpg|thumb|江戸東京たてもの園の子宝湯]]
美術監督は[[武重洋二]]、美術監督補佐は[[吉田昇]]。美術班も作画部門と同様新人スタッフが多かったため、武重はほぼすべてのカットの美術ボード{{refnest|group=注釈|通常、アニメーションの美術制作は三段階に分けて行われる。背景のイメージをおおまかに描き起こしレイアウト化した美術設定、本番の背景作業に入る前により指針とする絵を描き、色味やオブジェクトの質感などを詳細に指定する美術ボード、そして実際に撮影に使用される背景素材を各スタッフが分担し描く作業であり。『千と千尋の神隠し』では、宮崎が絵コンテで背景を作りこんでいったため、武重は美術設定を制作していない{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=118}}。[[美術監督#アニメーションでの美術監督]]も参照。}}を描いた。しかも、用途別に各カットごと3枚の美術ボードを描くほど念入りだった{{sfn|叶|2006|page=242}}。『[[となりのトトロ]]』の作画監督であるベテランの[[男鹿和雄]]は、主に不思議の町に入り込む前の世界、冒頭とラストシーンの自然環境の背景を一任され{{sfn|叶|2006|page=242}}、該当場面のモデルとなった[[四方津駅]]周辺を独自に取材した{{sfn|叶|2006|page=228}}。湯屋の中の巨大な鬼の襖絵は吉田昇が担当した{{sfn|叶|2006|page=242}}。
宮崎からは「どこか懐かしい風景」「[[目黒雅叙園]]のような擬洋風、[[伊万里焼|古伊万里]]の大きな壺」などの指示があった{{sfn|ロマンアルバム|2001|pages=105-107}}。色については「とにかく派手に」{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=107}}「下品なほどの赤」{{sfn|叶|2006|page=238}}という指定があり、随所にちりばめられた赤色と湯屋内部の金色がキーカラーになっている{{sfn|叶|2006|page=238}}。
2000年3月17日には、[[江戸東京たてもの園]]で[[ロケハン]]が行われた{{sfn|叶|2006|page=228}}。江戸東京たてもの園は、企画当初から作品の舞台とされていた場所である。油屋のデザインについて、モデルとなった特定の温泉宿などは存在しない{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=122}}。ただし、江戸東京たてもの園の子宝湯は宮崎お気に入りの建物で、特に[[破風|千鳥破風]]の屋根に加えて玄関の上に唐破風(別の屋根の形式)を重ねる趣向、および内部の[[天井|格天井]]に描かれた富士山のタイル絵などの「無駄な装飾性」に魅了されたという{{sfn|叶|2006|page=233}}。また、ジブリの社員旅行で訪れたことのある[[道後温泉本館]]も参考にされた{{sfn|叶|2006|page=233}}。油屋の内装は[[目黒雅叙園]]が原形になっており{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=123}}{{refnest|group=注釈|宮崎はアニメーターの[[近藤勝也]]の結婚式で目黒雅叙園を訪れたことがあった{{sfn|叶|2006|page=234}}。}}、他に[[二条城]]の天井画、[[日光東照宮]]の壁面彫刻、広島の遊郭の赤い壁などが参考にされた{{sfn|叶|2006|page=234}}。釜爺の仕事場にあった薬草箱は[[江戸東京たてもの園]]の武居三省堂(文具屋)内部の引出しがモデルになっている{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=130}}。油屋周辺の飲食店街は、新橋の烏森口や有楽町ガード下の歓楽街をイメージして描かれている{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=132}}{{sfn|叶|2006|page=234}}。従業員の部屋は、1950年代の劣悪な労働環境だった[[近江絹糸争議|近江紡糸工場]]の女工たちの部屋や、[[国立療養所多磨全生園|多磨全生園]]隣接の[[国立ハンセン病資料館]]内に再現された雑居部屋がモデルとなっている{{sfn|叶|2006|page=234}}。湯婆婆の部屋は、和洋の混じった[[鹿鳴館]]や目黒雅叙園がモデルである{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=115}}。
宮崎は、台湾の台北近郊の町[[九份]]を背景の参考にしたことはないと語っている<ref>{{YouTube time|XJ9BnbkRzOg|title=【FOCUS新聞】TVBS專訪宮崎駿 72歲不老頑童|time=3m20s}}。</ref>。九份の一部商店主は宮崎駿が訪れスケッチをしたと主張しているが<ref>{{Cite web |url=http://www.taipeinavi.com/food/276/ |title= 阿妹茶酒館 (九份)[アーメイ・ツァージョウグァン] | 台湾グルメ・レストラン-台北ナビ |accessdate=2016-09-14}}</ref>、宮崎は台湾を訪れたことはない<ref>{{YouTube time|XJ9BnbkRzOg|title=【FOCUS新聞】TVBS專訪宮崎駿 72歲不老頑童|time=2m55s}}。</ref>。
=== CG・彩色・撮影 ===
スタジオジブリでは『[[ホーホケキョ となりの山田くん]]』(1999年)よりデジタル彩色が導入されており、本作は宮崎駿監督作品としては初めて、[[色彩設定|仕上]]・撮影の工程がデジタル化された。これに伴って宮崎は一部の役職を新しく命名し、CG部チーフだった片塰満則は「デジタル作画監督」に、撮影監督だった[[奥井敦]]は「映像演出」になった{{sfn|叶|2006|page=228}}。『となりの山田くん』では水彩画調の実験的な彩色が行われたため、長編映画でデジタル彩色を用いて従来のセルアニメーションを再現していく作業は、ジブリにおいては実質的に初めての経験といってよかった{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=34}}。この状況を踏まえて、作画・美術・デジタル作画・映像演出の各チーフによって「処理打ち合わせ」という会議が持たれ、各部署間での密接な連携が模索された。たとえば、雨が降ったあとにできた海の描写はデジタル部門や撮影班の上げた成果である{{sfn|叶|2006|pages=238-239}}。
デジタル作画部門はほぼすべての背景動画<ref group="注釈">その名の通り動く背景。手書き作画の場合は、通常の人物の動きと同じように、アニメーターが動きを起こす。本作のようにCGで作画される場合もある。</ref>を担当した。それ以外に、浮き上がる「荻野千尋」の文字や、川の神のヘドロ、海上鉄道から見た黒い人物の様子などを担当した{{sfn|叶|2006|page=242}}。
映像演出部門では、現像を手掛ける[[IMAGICA|イマジカ]]と協力して、独自のカラーマネジメントシステムを導入し、デジタルデータをフィルムに変換する際に色調が変化しないよう努めた{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=34}}。また、本作は初期の[[DLP]]上映作品であり、本来であればフィルム特有の画面の揺れは抑えられる環境にあったが、映像演出の奥井はあくまでフィルム上映を基本と考え、完成画面の上下左右に1センチの余裕を残して、シーンに応じてデジタルデータにわざとブレを加える工夫をした{{sfn|叶|2006|page=239}}。
[[色彩設定|色彩設計]]は[[保田道世]]。宮崎駿・[[高畑勲]]とは[[東映アニメーション|東映動画]]時代からの知己であり、『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』から『[[風立ちぬ]]』に至るまで、すべての宮崎駿監督長編作品で色彩設計部門のチーフを務めている。本作ではデジタル化により扱える色の量が飛躍的に増加した{{sfn|叶|2006|pages=242-243}}。
=== 音楽 ===
{{main|千と千尋の神隠し サウンドトラック}}
音楽は[[久石譲]]が担当した。久石は『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』からすべての宮崎長編作品を作曲しており、『千と千尋の神隠し』で7作目。公開に先駆け2001年4月にイメージアルバムが発売され、5曲のボーカル曲のすべてで宮崎が作詞した。宮崎はイメージアルバムに収録されたピアノ曲「海」を気に入っており、久石は、この曲が海上を走る電車のシーンにうまく「はまった」ことを喜んだ{{sfn|叶|2006|page=244}}{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|pages=145-146}}。
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[[覚和歌子]]作詞、作曲・歌はソプラノ歌手の[[木村弓]]による「[[いつも何度でも/いのちの名前|いつも何度でも]]」が主題歌となった。しかし、この曲はもともと『千と千尋』のために書かれたものではない。木村弓と宮崎の交流は、1998年夏ごろに木村が宮崎に書いた手紙に端を発する。木村は前作『[[もののけ姫]]』を鑑賞して感銘を受け、自らのCDを添えて手紙を送った。宮崎は木村に好感触を持った。当時宮崎は『煙突描きのリン』の企画中だったので、そのあらすじを書き添えたうえで{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=99}}「作品が形になったら連絡するかもしれない」と返事した。木村は『リン』の世界から刺激を受けてメロディを着想。作詞家の覚に持ちかけて曲の制作に入った。こうして、『いつも何度でも』は1999年5月に完成した。しかし宮崎から連絡があり、『リン』の企画自体が没になったので、主題歌には使うことができないと伝えられる。『いつも何度でも』はお蔵入りになりかけた。『千と千尋の神隠し』の主題歌は、宮崎作詞・久石作曲の『あの日の川へ』になる予定だった。イメージアルバムの1曲目には同名のボーカル曲が収録されている。しかし、宮崎の作詞作業が暗礁に乗り上げ、不採用になった。2001年2月、『いつも何度でも』を聞き直した宮崎は、「ゼロになるからだ」などの歌詞と映画の内容が合致することに驚き、急遽主題歌としての再起用を決める。『千と千尋』を制作するにあたって『いつも何度でも』が潜在的な影響を与えたのかもしれない、と振り返っている{{sfn|叶|2006|pages=244-245}}{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|pages=40-42}}。
シングル『いつも何度でも』の売上は50万枚以上を記録した。[[カップリング曲]]「[[いつも何度でも/いのちの名前|いのちの名前]]」(覚和歌子作詞、、久石譲作曲・編曲、歌は木村弓)はテーマ曲として採用された。2005年に[[平原綾香]]がカバーした。
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企画書にある「あいまいになってしまった世の中」、「あいまいなくせに、侵食し喰い尽くそうとする世の中」の縮図として設定されたのが、湯屋という舞台である{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=31}}。湯屋の勤務形態は夜型だが、スタジオジブリもまた夜型の企業であり、企業組織としての湯屋はスタジオジブリそのものがモデルになっている{{sfn|叶|2006|page=232}}。宮崎もスタッフに「湯屋はジブリと同じだ」{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=95}}と説明し、ジブリ社内は「10歳の少女には魑魅魍魎の世界に見える」{{sfn|叶|2006|page=232}}と語った。たとえば、湯婆婆はときどき湯屋から外出してどこか知れぬところへ飛んで行くが、この行動には、会議・出張などで頻繁にジブリからいなくなる鈴木敏夫のイメージが重ねられている{{sfn|叶|2006|page=232}}。インタビューによれば、宮崎は[[ペルー]]の少年労働を扱ったドキュメンタリー番組を見たことがあり、子供が労働することが当然である世界の現状を忘れたくなかったので、過酷な環境下で少女が労働を強いられるストーリーを執筆したと説明している{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=117}}。
[[町山智浩]]・[[柳下毅一郎]]は『湯屋は遊郭である』と指摘し<ref>{{Cite book|和書|author1=町山智浩|author2=柳下毅一郎|title=ベスト・オブ・映画欠席裁判|publisher=[[文藝春秋]]|year=2012|isbn=4167801701|pages=176-181}}</ref>、動画チェックの[[舘野仁美]]も同様の発言をしている{{refnest|group=注釈|以下は舘野の発言の引用。「当初『小さい子供のための映画』と聞いていましたが、あのお風呂屋さんも[[湯女]]がいて、一種の遊郭みたいな場所ですね。昔から宮崎さんが描きたいと思っていて、描けなかった部分だったのかなと思いました。それと、宮崎さんが書いた歌詞に、カオナシが千尋を食べちゃいたいという箇所があるでしょう。[[賀川愛|賀川(愛)]]さんが、『ついにホントのこと言っちゃったねぇ』って、種明かししたみたいに喜んでいました(笑)。」{{sfn|コミックボックス編集部|2001|page=118}}}}。宮崎自身は、千尋が迷いこむ不思議な世界のイメージを伝える文脈で、学生時代に新宿の[[赤線]]地帯付近を通りかかったときに見た「赤いライトの光景」についてスタッフに説明したという{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=105}}。また、雑誌「プレミア日本版」2001年9月号のインタビューでも同様の発言があり、子供のころにはまだ残っていた新宿の「赤いランタン」に触れたうえで、「日本はすべて風俗営業みたいな社会になっている」「いまの世界として描くには何がふさわしいかといえば、それは風俗営業だと思う」<ref>{{Cite journal |和書 |date = 2001-09-01 |publisher= [[ハースト婦人画報社|アシェット婦人画報社]] |journal = プレミア日本版 |volume=4 |issue=9 |page=70}}</ref>と語っている。湯屋に大浴場がなく、個室に区切られていることについて質問されたときには、「いがかわしいこと」をするためであろうと答えている{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=116}}。かつての日本の湯屋では、[[湯女]]による垢すりや性的行為が一般的に行われていた<ref>『江戸時代の男女関係』 田中香涯著 (有宏社, 1930)</ref>。
そして、鈴木の述懐によれば、企画の原点には鈴木と宮崎の間で交わされた「[[キャバクラ]]」についての会話があった。その内容はこうである。鈴木にキャバクラ好きの知人がいた。この知人から聞いた話では、キャバクラで働く女性には、もともとコミュニケーションがうまくできないひとも多い。客としてくる男性も同じようなものである。つまりキャバクラは、コミュニケーションを学ぶ場なのである。異性と会話せざるを得ない環境に放り込まれて働いているうちに、元気を取り戻していく(という従業員もいる)。鈴木によれば、宮崎はこの談話をヒントにして湯屋の物語を構想した。すなわち、千尋が湯屋で神々に接待していくうちに、生きる力を取り戻していくというストーリーである{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|pages=74-75}}<ref>{{cite book|和書 |author=鈴木敏夫 |year=2014 |title=仕事道楽 新版 スタジオジブリの現場 |publisher=岩波書店 |pages=65-66 |isbn=4004314860}}</ref>。
「神仏混淆の湯治場」という発想は、「霜月祭」がもとになっている。この祭りは「十二月に神々を招いて湯を浴びさせる」というもので、様々な仮面を被った人々が多種多様な神々を演じて舞う神事である{{sfn|叶|2006|page=234}}。鈴木と宮崎は[[NHK]][[ドキュメンタリー]]『[[ふるさとの伝承]]』{{refnest|group=注釈|のちに「ジブリ学術ライブラリー」ブランドでブルーレイ化<ref>{{cite web |url=http://www.nhk-ep.com/products/detail/h15815A1 |title=NHKふるさとの伝承 ブルーレイBOX 全6枚セット|accessdate=2016-09-15}}</ref>。}}でこの祭りを知り、着想を得た{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=58}}。霜月祭は、[[長野県]][[下伊那郡]][[天龍村]]に伝わる「[[天龍村の霜月神楽]]」や長野県[[飯田市]]の[[遠山郷]](旧[[南信濃村]]、旧[[上村 (長野県)|上村]])に伝わる「遠山の霜月祭」など、長野・愛知・静岡の県境にまたがる地域の各地で行われている{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=128}}。また、[[静岡県]][[静岡市]]の「清沢神楽」や静岡県[[御殿場市]]の「湯立神楽」、愛知県北設楽郡の「花祭り」など「釜で湯を沸かして掛け踊る」という[[湯立神楽]]の祭事は、日本各地で行われている。
1994年春頃、宮崎は自宅付近を流れるドブ川を観察する。川の中では、ユスリカの幼虫が大量発生して、汚濁した水の中で懸命に生きていた。宮崎はその様子を見て「今後の人間の運命」を感じる経験をした。後に宮崎は地元有志とドブ川を掃除し、そのときの経験が汚れた河の神の内部から自転車などを引き出すシーンとして活かされた{{sfn|叶|2006|pages=231-232}}{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=116}}。その後も川掃除は宮崎の習慣になっており、2016年に一般市民が制作したドキュメンタリー『蘇れ森よ~宮崎駿さんの挑戦~』には、宮崎が川掃除などの地域の清掃活動に取り組む様子が収められている<ref>{{YouTube time| Ta6yo-vF2ms |1604372 蘇れ森よ~宮崎駿さんの挑戦~ (TVF2016応募作品) |time=8m50s}}</ref>。
=== 宣伝 ===
宣伝プロデューサーは東宝の[[市川南 (映画プロデューサー)|市川南]]が務め、鈴木の指揮を受けて宣伝戦略を練った{{sfn|叶|2006|page=245}}。
2001年3月26日、江戸東京たてもの園で製作報告会{{sfn|叶|2006|page=229}}。[[徳間書店]]・[[スタジオジブリ]]・[[日本テレビ]]・[[電通]]・[[ディズニー]]・[[東北新社]]・[[三菱商事]]が[[製作委員会方式|製作委員会]]を組んだ。本作から新たに加わった出資企業は2社。ディズニーは『[[ホーホケキョ となりの山田くん]]』から参加していたが、東北新社と三菱商事は初参加だった。電通経由で特別協賛に入った[[ネスレ日本]]と、三菱商事系列企業の[[ローソン]]はタイアップで活躍した{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=39}}。ネスレは本編映像を使用したテレビCMの放映などでキャンペーンを展開した。
[[コンビニエンスストア]]とのタイアップはジブリにとって初めての経験だった。それまで鈴木はコンビニを敬遠していたが{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=40}}、ローソンは全国約7000店の店舗で『千尋』を大々的に告知、独自にフィギュアつき前売り券などを用意し、映画館窓口の販売実績を超える32万枚の前売り券を売り上げた。この機にジブリとローソンのタッグは確立され、[[三鷹の森ジブリ美術館]]が完成した後にはローソンが唯一のチケット窓口になるなど、関係は続いている{{sfn|叶|2006|page=246}}。
劇場の本予告・および新聞広告ではカオナシが前面に押し出された{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|pages=37-38}}。本予告は二種類が作成され、2001年3月から5月までの予告「A」は、千尋が不思議な町に迷いこみ、親が豚になってしまうところまでを[[ホラー映画]]風にまとめたものだった。対して、6月から流れた予告「B」は、千尋がカオナシを湯屋に招き入れ、カオナシが暴走するところまでをまとめた。予告「B」の公開後、鈴木はカオナシの存在を強調する宣伝方針を固める。一方で、ハクの露出は少なかった{{sfn|叶|2006|pages=245-246}}。
鈴木は、本作は「カオナシの映画」であると考えた。その理由として、[[#安藤と宮崎の緊張関係|前述した]]千尋のキャラクターの極端な変貌を鈴木が感じ取っていたことが挙げられる。不機嫌な千尋の視線に沿ってゆったりとした前半の展開と、中盤以降のきびきびと働く千尋を追いかけるような展開にはギャップがあり、鈴木は本作を「1本で2本分の映画」であるように思った{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=73}}{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=38}}。鈴木の語ったところによれば、宮崎自身も当初は「千尋とハクの話」だと考えており、カオナシ中心に宣伝を行うことに違和感を持っていた。しかし、映画が完成に近づいた段階でラッシュ<ref group="注釈">完成した素材を荒くつないだ映像。</ref>を見てはじめて、「千尋とカオナシの話」であることを認めたという{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=68}}。
=== 公開 ===
2001年7月10日、[[帝国ホテル]]で完成披露会見。同日、日比谷[[TOHOシネマズスカラ座|スカラ座]]で完成披露試写会。宮崎は前作の公開時に続いて、またしても長編引退をほのめかした。試写の反応は絶賛一色だった。しかし、作品の完成は公開日の2週間前で{{sfn|ロマンアルバム|2001|page=70}}、試写にかけられる時間がわずかしかなかったことから、『[[もののけ姫]]』ほどの大ヒットにはならないだろうという観測が多勢を占めていた{{sfn|叶|2006|page=229}}。この日の試写会には千尋のモデルとなった[[奥田誠治 (映画プロデューサー)|奥田誠治]]の娘、奥田千晶も現れた{{sfn|叶|2006|page=75}}。宮崎は鈴木とともに千晶を出迎え、「この映画はおじさんと千晶の勝負だ」と言った{{sfn|奥田千晶|2016|page=70}}。上映後の千晶の反応は上々であり、宮崎と鈴木は喜んだ{{sfn|叶|2006|page=232}}{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=75}}。「おわり」のカットで描いた不鮮明なイラストについて宮崎が尋ねると、千晶はそれが自分の落とした靴の絵であることを正しく言い当てた{{sfn|奥田千晶|2016|page=70}}。
2001年7月20日公開{{sfn|叶|2006|page=229}}。爆発的なヒットを記録し、11月11日までの4ヶ月間で、興行収入262億円、観客動員数2023万人を記録。『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』が保持していた日本の映画興行記録を塗り替えた。1年以上のロングラン興行になり、最終的には304億円の興行収入を叩き出した。この記録は2016年現在も破られていない<ref>{{cite web|url=http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/|accessdate=2016-09-10|title=歴代ランキング - CINEMAランキング通信|date=2016-09-05}}</ref>。
空前のヒットの興行的な要因としては、まず宮崎の前作『もののけ姫』が1420万人{{sfn|叶|2006|page=212}}を動員し、新規顧客を開拓したことが挙げられる{{sfn|叶|2006|page=257}}。また、『もののけ姫』から『千と千尋の神隠し』に至るまでの期間に、[[シネマコンプレックス]]が全国的に普及し、人気作品を映画館の複数スクリーンで集中的に上映する体制が整っていたこともある{{sfn|叶|2006|page=257}}。公開と同時に、他の作品を上映する予定だったスクリーンが『千と千尋の神隠し』に回され、シネコンでの上映を占拠していった{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=69}}。一方、『千と千尋』の類のない大ヒットは、他の上映作品の興行に悪影響を及ぼした{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=70}}。2001年12月に行われた「大ヒット御礼パーティ」の席上では、興行関係者が困惑を露わにした。興行収入300億という数字は、1年間に公開される邦画のすべてを合わせた量に相当したからである{{sfn|叶|2006|page=248}}。
本作で行われた大宣伝とは対照的に、次回作『[[ハウルの動く城]]』では「宣伝をしない」宣伝方針が取られた。公開前の内容の露出は極端に抑えられることになり、宮崎もメディアから姿を消した{{sfn|叶|2006|page=295}}。
=== 英語版の公開まで ===
英語吹替版は[[ピクサー・アニメーション・スタジオ|ピクサー]]社の[[ジョン・ラセター]]が製作総指揮を執った。配給の優先権を持っていたのは[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]だったが{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=43}}、2001年8月にディズニーで行われた上映会では、当時[[最高経営責任者|CEO]]だった[[マイケル・アイズナー]]の反応は芳しくなかった{{sfn|叶|2006|page=252}}{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=71}}。宮崎は米国での公開に積極的ではなかったが{{sfn|叶|2006|page=252}}、鈴木は検討を重ねた末、宮崎の熱烈なファンであるラセターに協力を依頼することにした{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=43}}。1982年、宮崎はアニメ映画『[[NEMO/ニモ]]』の企画で渡米する機会があり、このときにラセターと面識を得ていた。当時まだディズニーに在籍し、不遇の時にあったラセターは、『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』を鑑賞して衝撃を受け、以来宮崎の熱心なファンとなる。1987年には『[[となりのトトロ]]』制作時のジブリを訪れてもいる。その後、ピクサーが創立されるとラセターは移籍し、1995年の『[[トイ・ストーリー]]』を皮切りに、ヒット作を送り出していた{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=44}}。
ラセターがディズニーを説得した結果、ディズニーが北米での配給権を取得。ラセターは『[[美女と野獣 (1991年の映画)|美女と野獣]]』の監督、{{仮リンク|カーク・ワイズ|en|Kirk Wise}}を英語版監督に、『[[アラジン (映画)|アラジン]]』のプロデューサー、{{仮リンク|ドナルド・W・エルンスト|en|Donald W. Ernst}}を英語版プロデューサーに指名した<ref>{{Cite web |url = http://jimhillmedia.com/blogs/michael_howe/archive/2003/04/16/1393.aspx |title = The Making of Hayao Miyazaki's "Spirited Away" - Part 3 |publisher = Jimhillmedia.com |accessdate = 2016-09-11}}</ref>。英題は ''Spirited Away'' に決まった。吹替版は原作に忠実に制作された{{sfn|叶|2006|page=252}}。
2002年9月5日から10日間、宮崎・鈴木らはプロモーションのために米国へ渡った。ラセターは、ピクサー社を案内したり、複葉機による遊覧飛行を用意したりと、ジブリの一行を手厚くもてなした{{sfn|叶|2006|page=252}}。このときの様子を収めた映像は、DVD『ラセターさん、ありがとう』([[ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント|ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント]]、2003年)として発売されている。
9月20日、北米10都市で公開。以後約1年間に渡って小規模ながら興行が続いた。同年12月からは全米で次々と映画賞を受賞した{{sfn|叶|2006|page=252}}。最終的には1000万ドルの興行収入を記録した<ref name=box>{{cite web|title=Spirited Away Box Office and Rental History|url=http://www.rottentomatoes.com/m/spirited_away/numbers.php|accessdate=21 April 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060116171321/http://www.rottentomatoes.com/m/spirited_away/numbers.php <!-- Bot retrieved archive -->|archivedate= 16 January 2006}}</ref>。
=== テレビ放送、ホームメディア ===
[[2003年]][[1月24日]]には[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]の『[[金曜ロードSHOW!|金曜ロードショー]]』でテレビ初放送され、46.9%([[ビデオリサーチ]]・[[関東]]地区調べ)という視聴率を記録した。過去にテレビ放送された劇場映画の最高[[視聴率]]だった{{sfn|叶|2006|page=249}}<ref name=47news20030127>[http://www.47news.jp/CN/200301/CN2003012701000123.html 「千と千尋」が最高視聴率 劇映画として、46.9%]、共同通信、2003年1月27日。</ref><ref name=2003ratedate>{{Cite web|url=http://www.videor.co.jp/data/ratedata/junre/04movie.htm|title=映画高世帯視聴率番組|publisher=ビデオリサーチ|date=2009年1月30日現在|accessdate=2010-04-17}}</ref>。ビデオリサーチ・[[関西]]地区調べでも46.1%の視聴率を記録<ref name=47news20030127 />。日本だけでなく、[[2004年]][[12月29日]]には[[イギリス]]で、[[2006年]]には[[アメリカ合衆国]]で、[[2007年]][[9月30日]]には[[カナダ]]でもテレビ放送された([[オーストラリア]]でもテレビ放映実績あり)。
[[VHS]]・[[DVD]]は2002年7月に発売された。日本国内におけるVHSの出荷本数は250万本、DVDの枚数は300万枚だった。合計550万本の出荷は、やはり新記録だった{{sfn|叶|2006|page=250}}。
==== DVD色調問題 ====
2002年7月に日本で発売された『千と千尋の神隠し』の[[DVD]]や、[[磁気テープ|ビデオカセット]]([[VHS]])に収録されている本編映像が、劇場公開版や予告編・TVスポットなどと比べて赤みが強いとして、スタジオジブリと発売元の[[ウォルト・ディズニー・スタジオ|ブエナビスタ]]、消費者センター<ref name="nikkei-021203">{{Cite news |url=http://www.47news.jp/CN/200212/CN2002120301000194.html |title=「千と千尋」色違う DVD購入者が提訴 |newspaper=47NEWS |agency=共同通信 |publisher=全国新聞ネット |date=2002-12-03}}</ref>などに苦情が寄せられた<ref name="zakzak-020723">{{Cite news |url=http://www.zakzak.co.jp/top/top0723_2_01.html |title=色が変…「千と千尋」DVDに苦情殺到! |newspaper=ZAKZAK |publisher=産経デジタル |date=2002-07-23 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20021014032922/http://www.zakzak.co.jp/top/top0723_2_01.html |archivedate=2002年10月14日}}</ref>{{sfn|叶|2006|page=249}}。
両社は、DVD制作時に用意されたマスターの色調には、意図的な調整を施しているためであり、「このクオリティが最高のものと認識しております」と説明した{{refnest|group=注釈|その後、「DVD・VHS本編のクオリティは、その色を忠実に再現したものと認識しております」と変更された<ref name="avwatch-020723">[http://av.watch.impress.co.jp/docs/20020723/buena.htm ブエナ・ビスタ、「千と千尋」の色調について公式見解を公開(AV Watch 2002.7)]</ref>。}}。映画上映時のTVCMや上映用プリントやDVDに収録された予告編、TVスポットなどはこの調整は施されていないため、両者の色調が異なっているが、あくまで本編の色調が正しいとした。
2002年11月、この問題で一部ユーザーは、販売元のブエナビスタを相手取り[[京都地方裁判所]]に提訴し、正しい色調のDVDとの交換と慰謝料などを請求した。本係争は2004年9月に「ディズニー・ジャパンは購入者に誤解や混乱が生じたことに遺憾の意を表明する」「今後DVD販売に際しデータを調整した時は明記する」「原告らは請求を放棄する」など全5項目の和解が成立し決着した{{sfn|叶|2006|page=250}}。
その後、北米、ヨーロッパ、韓国では、日本で発売されたものよりも、赤みの強くない映像が収録されたDVDが販売された。
[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]での2003年1月24日の『[[金曜ロードSHOW!|金曜ロードショー]]』(開局50周年記念番組)での[[金曜ロードSHOW!#歴代高視聴率獲得作品|放送]]には、DVDと同様のマスターが使用され、以後も使用されるようになった。
2011年1月7日、日本テレビの『金曜ロードショー』で、初めてハイビジョンマスターにより放送。赤みが大幅に軽減され、北米版DVDに近い赤みの強くない映像で放送された。
2014年4月1日、本作の[[Blu-ray Disc]]化が正式発表された<ref name="avwatch-140401">[http://av.watch.impress.co.jp/docs/news/20140401_641458.html 「千と千尋の神隠し」が7月16日にBlu-ray化。7,344円、MGVC対応。]</ref>。発売予定日は2014年7月16日<ref name="">[http://disney-studio.jp/news/index_detail.jsp?id=1968 ジブリがいっぱいCOLLECTION 『千と千尋の神隠し』ブルーレイディスク発売!]</ref>。Blu-ray版ではDVD版のような赤みは無くなり、海外版DVDや予告編と同等の色調で収録された。
== 評価 ==
2002年2月6日、[[第52回ベルリン国際映画祭]]のコンペティション部門に出品。同映画祭コンペ部門の長編アニメーション映画の出品は初。2月27日、最優秀作品賞である[[金熊賞]]を受賞した。[[ポール・グリーングラス]]監督『[[ブラディ・サンデー]]』と同時受賞だった。世界三大映画祭で長編アニメーションが最高賞を獲得するのは史上初だった{{sfn|叶|2006|page=251}}。
2003年2月12日、[[第75回アカデミー賞]][[アカデミー長編アニメ映画賞|長編アニメーション部門]]へのノミネートが決定。3月23日の授賞式で受賞が発表された。2016年現在に至るまで、同部門を受賞した日本のアニメーションは本作のみである。また手描きのアニメーションとしても唯一の受賞作である。授賞式には宮崎の代理で鈴木敏夫が出席する予定だったが、3月20日に米軍を中心とする有志連合が[[イラク戦争|イラク進攻]]を開始し、事態が緊迫化したため、断念した{{sfn|叶|2006|page=253}}。宮崎の受賞コメントは次のようなものになっている。
{{Quotation|いま世界は大変不幸な事態を迎えているので、受賞を素直に喜べないのが悲しいです。しかし、アメリカで『千と千尋』を公開するために努力してくれた友人たち、そして作品を評価してくれた人々に心から感謝します。|宮崎駿|{{sfn|スタジオジブリ|文春文庫|2016|page=45}}}}
2009年2月に[[オリコンチャート|オリコン]]がインターネット調査した「[[日本アカデミー賞]] 歴代最優秀作品の中で、もう一度観たいと思う作品」で1位に選ばれた<ref name=oricon>{{Cite web|author=ORICON STYLE|date=2009-02-19|url=http://contents.oricon.co.jp/music/special/090218_02.html|title=日本アカデミー賞特集『もう一度観たい作品&映画に主演してほしい俳優・女優は!?』-|accessdate=2009-02-19}}</ref>。
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2016年7月、アメリカの映画サイト・The Playlistが、21世紀に入ってから2016年までに公開されたアニメのベスト50を発表し、本作が第1位に選ばれた<ref>{{cite news|url=http://eiga.com/news/20160726/9/|title=米サイト選出「21世紀のアニメ映画ベスト50」 1位にジブリ作品|newspaper=映画.com|date=2016-07-26|accessdate=2016-07-26}}</ref>。
2016年8月、英BBC企画「21世紀の偉大な映画ベスト100」で第4位に選ばれた
2016年に実施された「スタジオジブリ総選挙」で第1位に選ばれ、2016年9月10日から16日まで[[TOHOシネマズ]]5スクリーンで再上映された<ref>{{cite news|url=http://natalie.mu/eiga/news/200740|title=「スタジオジブリ総選挙」第1位は「千と千尋の神隠し」、全国5劇場で上映決定|newspaper=2016-09-06|accessdate=2016-09-06}}</ref>。
* [[第25回日本アカデミー賞]] 最優秀作品賞、会長功労賞、協会特別賞(主題歌)
* 第26回[[報知映画賞]] 監督賞
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* 第二回[[日本オタク大賞]] 赤熊賞
=== 日本以外での受賞歴 ===
* [[第75回アカデミー賞]] [[アカデミー長編アニメ映画賞|アカデミー長編アニメ映画賞]]<ref name="kinro_ntv535754780698615808">{{Twitter status|kinro_ntv|535754780698615808}}</ref>
* [[第52回ベルリン国際映画祭]] [[金熊賞]]
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|2014年11月21日(金)19:56 - 22:54{{
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== 注釈 ==
{{Reflist|group="注釈"}}
{{Reflist|
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=徳間アニメ絵本|year=2001|title=千と千尋の神隠し―Spirited away|publisher=徳間書店|isbn=4198614067|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=ロマンアルバム|year=2001|title=千と千尋の神隠し―Spirited away|publisher=徳間書店|isbn=4197201699|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=叶精二|authorlink=叶精二|year=2006|title=宮崎駿全書|publisher=フィルムアート社|isbn=4845906872|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=コミックボックス編集部|year=2001|title=「千と千尋の神隠し」千尋の大冒険|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=スタジオジブリ|authorlink=スタジオジブリ|author2=文春文庫|authorlink2=文春文庫|year=2016|title=ジブリの教科書12 千と千尋の神隠し|isbn=4168120112|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=奥田千晶|title=プロデューサー奥田誠治が語る「もうひとつのジブリ史」(第18回) 千と千尋の神隠し : その後の千晶の物語|date=2016-05|publisher=スタジオジブリ|journal=熱風||volume=14|issue=5|naid=40020846793|pages=48-58|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=奥田誠治|authorlink=奥田誠治 (映画プロデューサー)|title=プロデューサー奥田誠治が語る「もうひとつのジブリ史」(第19回) あらためて「千と千尋の神隠し」のはなし|date=2016-06|publisher=スタジオジブリ|journal=熱風||volume=14|issue=6|naid=40020877923|pages=68-77|ref=harv}}
== 関連商品 ==
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* [[油屋 (千と千尋の神隠し)|油屋]]
* [[湯女]]
* [[三鷹の森ジブリ美術館]] - 本作の制作と並行して開館準備が行われた。開館後、最初の企画展示として『千と千尋の神隠し』が取り上げられた。
== 外部リンク ==
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