「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)」の版間の差分
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|出生日=[[1878年]][[12月4日]]
|生地={{RUS1858}} [[サンクトペテルブルク]]
|死亡日={{死亡年月日と没年齢|1878|12|4|1918|6|
|没地={{RUS1917}} [[ペルミ]]
|埋葬日=
|埋葬地=
|配偶者1={{仮リンク|ナターリ
|子女={{仮リンク|ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ブラソフ|en|George Mikhailovich, Count Brasov|label=ゲオルギー}}
|父親=[[アレクサンドル3世]]
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|役職=
}}
'''ミハイル・アレクサンドロヴィチ'''({{翻字併記|ru|Михаи́л Александрович|Mikhail Aleksandrovich}}, [[1878年]][[12月4日]]([[ユリウス暦]]11月22日) - [[1918年]][[6月
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
[[File:MishaOlgaplaying1899.jpg|thumb|200px|ミハイルとオリガ]]
1878年に[[アレクサンドル3世]]の第4皇子として{{仮リンク|アニチコフ宮殿|en|Anichkov Palace}}に生まれる。3年後の1881年3月13日、祖父[[アレクサンドル2世]]が暗殺されたことにより、父が皇帝に即位した<ref>Crawford and Crawford, p. 20</ref>。即位後、アレクサンドル3世は家族の身の安全を確保するため、ミハイルたちを[[サンクトペテルブルク]]南西の[[ガッチナ|ガッチナ宮殿]]に移した<ref>Crawford and Crawford, pp. 17, 20</ref>。アレクサンドルは両親や兄妹から「ミーシャ」と呼ばれ育った<ref>Crawford and Crawford, p. 22</ref>。アレクサンドルは兄妹たちと共に厳しい生活を送り、夜明けとともに起床し冷水で顔を洗い質素な朝食を食べていた<ref name=v4>Crawford and Crawford, p. 23; Phenix, pp. 8–10; Vorres, p. 4</ref>。また、乳母エリザベス・フランクリンの教育を受け、彼女から英語を学んだ<ref>Crawford and Crawford, pp. 22–23; Vorres, p. 3</ref><ref>"Mrs" Franklin was not married; the "Mrs" was a courtesy title (Crawford and Crawford, p. 22).</ref>。
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しかし、1894年は父の体調不良のためペテルゴフ宮殿に行くことが出来ず、父は11月1日に崩御した<ref>Vorres, pp. 48–52</ref><ref>Phenix, pp. 30–31; Vorres, pp. 54, 57</ref>。このため、長兄[[ニコライ2世]]が皇帝に即位し、ミハイルの幼少時代は終わりを迎えた<ref>Crawford and Crawford, p. 23</ref>。アレクサンドル3世の死後、母マリアはミハイルとオリガを連れてアニチコフ宮殿に戻った。
=== 帝位継承権第
[[File:Mikhail Aleksandrovich by Repin.JPG|thumb|200px|left|ミハイルを描いた絵画]]
ミハイルは他の皇族と同じく[[ロシア帝国陸軍]]に入隊し、砲術学校を卒業した1897年に親衛騎砲隊に配属された<ref name=c24>Crawford and Crawford, p. 24</ref>。1899年に次兄[[ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ|ゲオルギー大公]]が
1901年に[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]が崩御した際にはロシア代表として国葬に参列し
1904年8月12日、ニコライ2世に念願の男子([[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ皇子]])が誕生したことに伴い、帝位継承権第
=== 身分違いの恋 ===
==== 相次ぐ悲恋 ====
[[File:Beatriceedinburgh1884.jpg|thumb|200px|ベアトリス]]
1902年、[[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国]]の[[ベアトリス・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ|ベアトリス公女]](ヴィクトリア女王の孫娘)と恋に落ちた。ミハイルは流暢な英語とフランス語を話し、互いに英語で文通を行った<ref>Crawford and Crawford, p. 5</ref><ref>Crawford and Crawford, pp. 7–8</ref>。二人は結婚の約束を交わしたが、ベアトリスの母がアレクサンドル3世の妹[[マリア・アレクサンドロヴナ (ザクセン=コーブルク=ゴータ公妃)|マリア大公女]]であったことから、原則としていとこ同士の結婚を認めていない[[ロシア正教会]]の教会法によりニコライ2世の許可が得られず、この結婚話は立ち消えとなった<ref>Crawford and Crawford, pp. 8–9
ベアトリス公女との悲恋の後、ミハイルの周囲は妹オルガの女官を務め「ダイナ」の愛称で慕われていたアレクサンドラ・コッシコフスカヤ(1875年-1923年)との関係に注目を集めた。しかし、彼女の父ウラジーミル・コッシコフスキーは平民出身の弁護士であり、彼女との結婚は[[貴賤結婚]]に該当するため実現は難しかった<ref name=c12>Crawford and Crawford, p. 10</ref>。ミハイルの友人たちは結婚を諦め愛人の一人としてダイナと交際するように勧めたが、ミハイルはこれを拒否し、1906年7月にニコライ2世に手紙を送り結婚の許可を求めた<ref>Crawford and Crawford, p. 11</ref><ref name=c12/>。手紙を読んだニコライ2世と母マリアは衝撃を受け、ロシア皇室の法に従い貴賤結婚を認めようとせず、許可なく結婚した場合には軍人俸給の停止とロシアからの出国を禁止すると迫った<ref name=c12/>。また、母マリアはミハイルが[[デンマーク]]に出かけている9月中旬までにダイナを罷免し、宮廷から追い出した<ref name=c12/>。
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ミハイルが帰国した9月24日、[[イギリス]]の新聞は彼と[[パトリシア・オブ・コノート]]の婚約を報じたが、二人とも報道について「何も知らない」と発表し、[[バッキンガム宮殿]]も公式に報道を否定した<ref>''[[The Observer]]'', ''[[The Sunday Times]]'', and ''[[Reynold's News]]'', of 7 October 1906 (N.S.), quoted in Crawford and Crawford, p. 12</ref><ref name=c13>Crawford and Crawford, p. 13</ref>。しかし、1908年10月に[[ロンドン]]を訪問しパトリシアと会見した際には二人の「婚約」が発表された。この発表にはダイナとの結婚を阻止しようとする母マリアが関与していたと言われており<ref>Crawford and Crawford, p. 57</ref>、彼女に依頼された[[ロイター]]特派員ガイ・ベリンジャーが虚偽の報道を行ったとされる<ref name=c13/>。ミハイルはダイナとの駆け落ちを計画したが、彼女は[[ロシア帝国内務省警察部警備局|オフラーナ]]の監視下に置かれていたため決行は不可能だった<ref>Crawford and Crawford, p. 14</ref>。家族からの圧力を受けたミハイルはダイナへの興味を失ったように周囲から見られていた<ref>Crawford and Crawford, p. 15</ref>。一方のダイナは自分がミハイルの正当な婚約者であることを信じていたが、二人の恋は実ることがなかった<ref>Crawford and Crawford, p. 16</ref>。
==== 貴賤結婚 ====▼
1907年12月、ミハイルは将校仲間の妻である{{仮リンク|ナターリア・ブラソヴァ|label=ナターリア・ヴリフェルト|en|Natalia Brasova}}と知り合い、1908年から友人関係を始めた<ref>Crawford and Crawford, pp. 44 47</ref>。彼女もまた平民出身で、さらに離婚歴を持つ子持ちだった。二人は8月に交際を始め、1909年11月に彼女は二度目の離婚をし、以降は[[モスクワ]]のアパートでミハイルの仕送りを受けながら暮らしていた<ref>Crawford and Crawford, pp. 85–87</ref>。二人の交際を知ったニコライ2世は二人を遠ざけるため、ミハイルをモスクワから遠いオーレルの第17軽騎兵チェルニゴフ連隊長に任命したが、彼はナターリアに会うため月に数回モスクワを訪れた<ref>Crawford and Crawford, pp. 74–91</ref>。1910年7月にナターリアはミハイルの息子を生み、彼は死んだ次兄にちなみ{{仮リンク|ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ブラソフ|label=ゲオルギー|en|George Mikhailovich, Count Brasov}}と名付けた<ref>Crawford and Crawford, p. 104</ref>。ミハイルは出生日を離婚前の日付にするように配慮し、ニコライ2世はゲオルギーに「ブラソフ」の姓を名乗らせるように命令した<ref>Crawford and Crawford, p. 107</ref>。▼
[[File:Wulfert, Natalie and GD Michael.jpg|thumb|200px|left|ミハイルとヴリフェルト夫妻]]
▲1907年12月、ミハイルは将校仲間の妻である{{仮リンク|ナターリア・ブラソヴァ|label=ナターリア・ヴリフェルト|en|Natalia Brasova}}と知り合い、1908年から友人関係を始めた<ref>Crawford and Crawford, pp. 44 47</ref>。彼女もまた平民出身で、さらに離婚歴を持つ子持ちだった。二人は8月に交際を始め、1909年11月に彼女は二度目の離婚をし、以降は[[モスクワ]]のアパートでミハイルの仕送りを受けながら暮らしていた<ref>Crawford and Crawford, pp. 85–87</ref>。
1911年5月、ニコライ2世はナターリアにモスクワから移動することと「ブラソヴァ」の姓を名乗ることを許可した<ref>Crawford and Crawford, p. 111</ref>。1912年5月、ミハイルは伯父[[フレゼリク8世 (デンマーク王)|フレゼリク8世]]の国葬に参列するため[[コペンハーゲン]]を訪問した<ref>Crawford and Crawford, p. 112</ref>。国葬を終えフランスで休暇を過ごしていたミハイルとナターリアは、オフラーナによってサンクトペテルブルクに連れ戻された。ミハイルはサンクトペテルブルクでナターリアと暮らし始めるが、彼女は貴族社会から疎外されたため、数カ月後に彼女をガッチナの別荘に移した<ref>Crawford and Crawford, pp. 116–119</ref>。
[[File:Grand Duke Michael and Natalia Brassova.jpg|thumb|200px|ミハイルとナターリア(1912年)]]
▲==== 貴賤結婚 ====
1912年9月、ミハイルとナターリアは海外に休暇に出かけるが、常にオフラーナの監視が同行していた。[[ベルリン]]滞在時に
二週間後、ミハイルはニコライ2世と母マリアに対し、結婚を報告する手紙を送った<ref name=c129>Crawford and Crawford, pp. 129–131</ref>。ニコライ2世と母マリアはミハイルの報告にショックを受け、母は「あらゆる想像を絶する酷さ」と述べ、兄は「弟は彼女と結婚しないという誓いを破った」と激怒した<ref>Letter to Nicholas, 4 November 1912, quoted in Crawford and Crawford, p. 131</ref><ref>Letter to Marie, 7 November 1912, quoted in Crawford and Crawford, p. 132</ref>。この頃、ニコライ2世
追放から半年間、ミハイルとナターリアはフランス・[[スイス]]のホテルを転々として生活していた。同じ頃、姉[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニア大公女]]と従兄弟[[アンドレイ・ウラジーミロヴィチ|アンドレイ大公]]が二人の元を訪れた<ref>Crawford and Crawford, pp. 138–145</ref>。その後、ミハイルはロンドン郊外の邸宅を1年間賃貸している<ref>Crawford and Crawford, pp. 148–149</ref>。ミハイルの資産は全て没収されていたため、生活費はニコライ2世からの送金に頼っていた<ref>Crawford and Crawford, p. 153</ref>。
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=== 第一次世界大戦 ===
==== 軍務への復帰 ====
[[File:Grand duke Michael Alexandrovich and the Savage division officers.jpeg|thumb|240px|left|ミハイルとカフカーズ土着騎兵師団(1914年)]]
[[第一次世界大戦]]が勃発すると、ミハイルはニコライ2世に対し、「ロシアに戻り軍務に復帰したい」と手紙を送った。ニコライ2世は希望を受け入れ、ミハイルは[[ノルウェー]]・[[スウェーデン]]・[[フィンランド大公国]]を経由してペトログラード(サンクトペテルブルクから改名)に戻った。ミハイルは[[サセックス]]に新たに土地を購入し、以前に契約した邸宅の賃貸期間終了と同時にサセックスで暮らすことを考えていた。そのため、調度品などをサセックスの邸宅に移し、以前の邸宅は[[イギリス軍]]に提供した<ref>Crawford and Crawford, pp. 159–160</ref>。ナターリアが[[ロマノフ家]]の宮殿に住むことを許されていなかったため、ミハイルはガッチナの別荘で暮らすことにした<ref>Crawford and Crawford, p. 161</ref>。
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==== 戦争の長期化 ====
[[File:Grand Duke Michael Alexandrovich on horseback.jpeg|thumb|200px|軍務中のミハイル]]
1915年6月、ミハイルの部隊は劣勢に立たされ戦線を後退し、同月に死去した[[コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (ロシア大公)|コンスタンチン大公]]の葬儀に参列出来なかった。ミハイルはこれを後悔したが、ナターリアは「葬儀のために軍務を放棄する方が間違っている」と夫を慰めた<ref>Crawford and Crawford, pp. 188–189</ref>。7月に[[ジフテリア]]に感染するが、間もなく回復している<ref>Crawford and Crawford, p. 195</ref>。
戦況悪化を受け、8月にニコライ2世が全軍総司令官に就任し親征を始めるが、この動きは
==== ロマノフ朝への不満の高まり ====
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{{Quotation|私は、私たちの周りで何が起きているのかを憂慮しています。最も忠実な人々の間で驚くべき変化が起きています……この不安は陛下の、そして私たち家族の運命について考えさせます。人々の不満の原因となる者は政府を形成する一部の者、そして陛下の近くまで迫っています。この憎悪は、既に公然と表現されています。}}
[[File:Le grand-duc Michael Alexandrovitch dans les Carpathes (1915).jpg|thumb|240px|ミハイルと第2騎兵師団(1915年)]]
ミハイルは[[アレクサンドル・ミハイロヴィチ (ロシア大公)|アレクサンドル大公]]、[[ニコライ・ミハイロヴィチ|ニコライ大公]]、[[ゲオルギー・ミハイロヴィチ (1863-1919)|ゲオルギー大公]]、[[ドミトリー・パヴロヴィチ|ドミトリー大公]]、[[エリザヴェータ・フョードロヴナ|エリザヴェータ大公妃]]ら皇族たちと同様に、人々の不満の原因はドイツ出身のアレクサンドラ
1917年1月にミハイルは前線に復帰し、同月29日には騎兵総監に任命されガッチナに駐留した<ref>Crawford and Crawford, p. 251</ref>。この頃、[[アレクセイ・ブルシーロフ]]が「即時かつ抜本的な部隊の改革」をニコライ2世に求めるようにミハイルに請願したが、「私は既に皇帝への影響力を持ってはいない」と返答している<ref name=brusilov/>。
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=== ロシア革命 ===
==== 革命の勃発 ====
[[File:MijaílRodizianko--russiainrevolut00jone.jpg|thumb|180px|left|ミハイル・ロジャンコ]]
1917年2月23日、[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が勃発すると、ミハイルはアレクサンドル大公、ドゥーマ議長[[ミハイル・ロジャンコ]]と共にニコライ2世に新内閣の発足を求めた<ref>Crawford and Crawford, pp. 255–256</ref>。暴動は激化し、27日にはロシア軍の一部が暴動に加わる事態となった<ref>Crawford and Crawford, pp. 256–259</ref>。これに対し、ニコライ2世はドゥーマを解散させたが、議員たちはこれに反発して
ミハイルは直ちにロジャンコに会うためガッチナに戻ろうとしたが、革命派に道を阻まれてしまう<ref>Michael's diary, quoted in Crawford and Crawford, p. 265</ref>。革命派は体制派の人間を次々に拘束し、道を封鎖していた<ref>Crawford and Crawford, pp. 265, 267, 271–272</ref>。ミハイルは安全性の高い[[
==== ロマノフ朝の崩壊 ====
{{Multiple image
1917年3月2日、ニコライ2世はドゥーマや将軍たちの圧力を受け、退位宣言書に署名した<ref>Crawford and Crawford, pp. 279–281</ref>。しかし、夜になってニコライ2世は新皇帝について考えを巡らした。彼は息子アレクセイが新皇帝に即位した場合、両親の元から隔離されることを恐れていた<ref>Crawford and Crawford, p. 286</ref>。ニコライ2世はそのため、帝位継承権第2位のミハイルに帝位を譲ることを決め、以下の新たな宣言を布告した<ref>State Archive of the Russian Federation, 601/2100, quoted in Crawford and Crawford, p. 288</ref>。▼
|direction = vertical
|width = 220
|image1 = Отречение Николая II.jpg
|caption1 = 退位宣言書に署名するニコライ2世を描いた絵画
|image2 = Отказ от принятия престола в.к. Михаила Александровича. 3 марта 1917.gif
|caption2 = ミハイルの宣言書
}}
▲1917年3月2日、ニコライ2世はドゥーマや将軍たちの圧力を受け、アレクセイを新皇帝、ミハイルを摂政とすることを決め退位宣言書に署名した<ref>Crawford and Crawford, pp. 279–281</ref>。しかし、夜になってニコライ2世は新皇帝について再考
{{Quotation|私は、先の宣言によりロシア皇帝の地位を退き、ロシアの最高権力を放棄することを決断した。私たちは最愛の息子と別れることを望まない。私たち夫婦は、弟ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公が帝位を継承し、大公が玉座に座ることを祝福するだろう。}}
3月3日早朝、各都市で「皇帝ミハイル2世」の即位が宣言されたが、人々からは歓迎されなかった。ロシア軍の一部からは新皇帝への忠誠を誓う声が挙がったが、大半の人々はこの動きに無関心だった<ref>Crawford and Crawford, p. 295</ref>。また、臨時委員会に代わり樹立された[[ロシア臨時政府]]もミハイルの即位を拒否した<ref>Crawford and Crawford, pp. 288–291</ref>。ミハイルはこれらの動きを一切知らされておらず、臨時政府の代表団がプチャーチン侯爵家のアパートを訪れた際に初めて事態を知った<ref>Crawford and Crawford, pp. 297–300</ref>。同日午前
{{Quotation|多くの人々が求める福祉を実現しなければならないという信念に基き、私は偉大な人々が選挙によって選んだ制憲議会が政府を形作り、法律を作ることを望みます。
99 ⟶ 113行目:
私は、ロシア帝国の全ての人々が制憲議会に参加し、新しい政府が作られ最高権力を付与されることを期待します。平等な選挙によって政府が作られ、人々の意志が明確に示されなければなりません<ref>Kerensky, A. F. (1927), [http://www.marxists.org/reference/archive/kerensky/1927/catastrophe/ch01.htm ''The Catastrophe''], chap. 1, Marxists Internet Archive, retrieved 14 November 2009</ref>。}}
ケレンスキーの
==== 二度目の革命 ====
[[File:Karenskiy AF 1917.jpg|thumb|180px|left|アレクサンドル・ケレンスキー]]
ミハイルはガッチナに戻るが、以降は行動の自由を制限され、4月5日に陸軍から除隊させられた<ref>Crawford and Crawford, p. 318</ref>。7月21日、リヴォフに代わり、ケレンスキーが臨時政府首相に就任した。8月、ケレンスキーはニコライ2世一家を「ペトログラードでは人々の注目を集め過ぎる。人気のない場所に隔離するべき」として[[トボリスク]]に追放した<ref name=kerensky>Kerensky, A. F. (1927), [http://www.marxists.org/reference/archive/kerensky/1927/catastrophe/ch12.htm ''The Catastrophe''], chap. 12, Marxists Internet Archive, retrieved 14 November 2009</ref>。ニコライ2世一家がトボリスクに出発する前日、ミハイルは兄との面会を求め、ケレンスキーは自身が同席することを条件に面会を許可した。ケレンスキーは面会の様子について、「二人は非常によそよそしい態度で会話を交わし、別れの間際に互いの軍服のボタンを相手に渡した」と記している<ref name=kerensky/>。ミハイルがニコライ2世一家と会うのは、これが最後となった。
8月21日には、ナターリアと暮らしていたニコラエフ通りの別荘が警備隊に包囲された。ミハイルは、1912年12月以来秘書を務めているニコラス・ジョンソンと共に軟禁下に置かれ<ref>Crawford and Crawford, p. 327</ref>、一週間後にペトログラードのアパートに移された<ref>Crawford and Crawford, p. 330</ref>。しかし、ミハイルの胃の病状が悪化したため、イギリス大使{{仮リンク|ジョージ・ブキャナン|en|George Buchanan (diplomat)}}が臨時政府外務大臣[[ミハイル・テレシチェンコ]]に掛け合い、ミハイルは9月にガッチナに戻された<ref>Crawford and Crawford, p. 331</ref>。テレシチェンコはブキャナンに対し、「イギリスが希望するならニコライ2世一家やミハイルの亡命を認める」と提案した<ref>Telegram from [[George Buchanan (diplomat)|Ambassador Buchanan]] to [[Arthur Balfour|Foreign Secretary Balfour]], PRO FO/371/3015, quoted in Crawford and Crawford, p. 331</ref>。しかし、イギリスはロマノフ家を受け入れた際に反王政運動が発生することを危惧して、提案を拒否した<ref>Crawford and Crawford, pp. 322–323, 332</ref>。
[[File:Lenin 1921.jpg|thumb|180px|ウラジーミル・レーニン]]
9月1日、ケレンスキーは国号を「[[ロシア共和国]]」に改めた。ミハイルはこの日の日記に「私は今日、ロシアの共和制宣言を聞くために起きた。正義や秩序が保たれるならば、政府がどのような形であっても問題はないだろう」と記している<ref>Michael's diary, 2 September 1917, quoted in Fitzlyon, Kyril (1977), ''Before the Revolution – A View of Russia Under the Last Tsar'', Allan Lane, ISBN 0-7139-0894-7</ref>。二週間後にミハイルの軟禁が解除される<ref>Crawford and Crawford, p. 332</ref>が、翌10月に[[十月革命]]が発生し、ケレンスキーに代わり[[ボリシェヴィキ]]が政権を掌握した。ミハイルは元同僚でペトログラード警備隊司令官だったピョートル・ポロトソフと連絡を取り、家族を連れてフィンランドに脱出することを計画した<ref>Crawford and Crawford, p. 334</ref>。ミハイルは脱出の準備を進めるが、ボリシェヴィキの同調者に計画が露見して再び軟禁状態に置かれ、彼の自動車も没収された<ref>Crawford and Crawford, pp. 335–336</ref><ref>Crawford and Crawford, p. 346</ref>。
11月に軟禁が解かれ、1918年1月に制憲議会が発足した。ボリシェヴィキは議会の少数派だったが要職を独占して主導権を握り、3月3日に[[中央同盟国]]との間に[[ブレスト=リトフスク条約]]を締結した。4日後の3月7日、ミハイルとジョンソンはペトログラード・[[チェーカー]]長官{{仮リンク|モイセイ・ウリトスキー|en|Moisei Uritsky}}の命令で逮捕され、ペトログラード・チェーカー本部の{{仮リンク|スモーリヌイ学院|en|Smolny Institute}}に投獄される<ref>Crawford and Crawford, p. 339</ref>。
==== 亡命計画 ====
[[File:Brian Johnson and Mikhail Alexandrovich.gif|thumb|180px|ペルミでのミハイルとジョンソン(1918年)]]
3月11日、ミハイルとジョンソンは[[ウラジーミル・レーニン]]の指示で[[ペルミ]]に追放される<ref>Crawford and Crawford, pp. 339–340</ref>。二人は窓を外された暖房のない貨物列車に乗せられ、8日間かけてペルミに移送された<ref>Crawford and Crawford, p. 341</ref>。当初はホテルの一室に監禁されたが、2日後に現地のチェーカーによって投獄された<ref>Crawford and Crawford, p. 342</ref>。ナターリアはペトログラードで人民委員にミハイルの釈放を訴え、4月9日にペルミでの行動の自由を認めさせた<ref>Crawford and Crawford, pp. 342–343</ref>。これにより、ミハイルはジョンソン、従者ワシーリー・チェリュシェフ、運転手ボルノフと共に最高級ホテルのスイートルームに移された<ref>Crawford and Crawford, pp. 343–344</ref>。また、ナターリアはゲオルギーを守るため、3月中にゲオルギーの乳母やデンマークの外交官と接触し、ロシアからの脱出の準備を進めた<ref>Crawford and Crawford, pp. 344–345</ref>。5月、ナターリアは自身とミハイルの旅行許可証を取得した。彼女は友人のプチャーチン侯爵、マルガリータ・アバカノヴィチと共にペルミに向かい、夫と再会して一週間同地で過ごした<ref>Crawford and Crawford, pp. 345–347</ref>。
同じ頃、ブレスト=リトフスク条約に基き、捕虜の[[オーストリア=ハンガリー帝国]]への移送が開始された。また、[[チェコスロバキア]]の独立運動に加わるため、[[チェコ軍団]]も[[アメリカ合衆国]]経由の海路を経て[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]に参加しようと[[ウラジオストク]]に向かっていた。しかし、停戦後もドイツ軍とチェコ軍団との戦闘は続き、チェコ軍団がペルミに向かう中でシベリア鉄道沿線を掌握したため、ドイツはボリシェヴィキ政権に対してチェコ軍団の武装解除を要求するなど情勢は不安定なものとなっていた<ref>Massie, p. 13</ref>。ミハイルとナターリアは、チェコ軍団の接近によってペルミに閉じ込められることを危惧し、5月18日にナターリアはペルミを離れた<ref>Crawford and Crawford, p. 348</ref>。6月に入ると、再びミハイルの胃の病状が悪化した<ref>Crawford and Crawford, p. 352</ref>。
[[File:1918-perm bolsheviks myasnikov after murder of alexander romanov.jpg|thumb|240px|left|ミャスニコフと処刑隊]]
6月12日、現地チェーカー指揮官{{仮リンク|ガブリール・ミャスニコフ|en|Gavril Myasnikov}}はミハイルの処刑を命令した<ref>Statements of local Bolsheviks in the State Archive of the Perm District (Pavel Malkov 90/M-60 and A. A. Mikov 09/2/M-22b), quoted in Crawford and Crawford, p. 354</ref>。ミャスニコフは自身と同様に帝政時代に囚人だったメンバー4人(ワシーリー・イワンチェンコ、イワン・コルパシュチコフ、アンドレイ・マルコフ、ニコライ・ズーズコフ)を集め処刑隊を編成した<ref>Myasnikov, G (1995), "Filosofiya ubiistva, ili pochemu i kak ya ubil Mikhaila Romanova", ''Minuvshee'', Moscow & Saint Petersburg: Atheneum & Feniks, 18, quoted in Crawford and Crawford, p. 355</ref>。午後11時45分、処刑隊は偽造通行証を使いミハイルのいるホテルに侵入した<ref>Myasnikov, quoted in Crawford and Crawford, pp. 356–357</ref>。当初、ミハイルは現地チェーカー長官パーヴェル・マルコフと会談し、病気を理由にホテルの外に出ることを拒否したが、抵抗が無意味と知り、服を着てホテルを出た。ジョンソンが同行を申し出たため、処刑隊は二人を馬車に乗せ郊外の森に向かった<ref>Statements of murderers Andrei Markov and Gavriil Myasnikov, valet Vasily Chelyshev and hotel guest Krumnis, quoted in Crawford and Crawford, pp. 357–358</ref>。ミハイルが行き先を尋ねると、処刑隊は「列車に乗るため踏切に向かっている」と返答したという<ref>Myasnikov quoting Zhuzhgov, quoted in Crawford and Crawford, p. 359</ref>。
6月13日早朝、森の中で馬車を下ろされた二人は処刑隊に銃撃された。しかし、処刑隊が所持していた銃は自前の粗悪銃だったため、弾詰まりを起こした。この時点でミハイルが負傷したかどうかは不明だが、彼は頭部を撃たれたジョンソンに両腕を広げて歩み寄り、間もなく射殺された<ref name=m&m>Myasnikov quoting Zhuzhgov, and Markov's statement, quoted in Crawford and Crawford, p. 360</ref>。ズーズコフとマルコフは、「自分が致命傷を与えた」と主張<ref name=m&m/>し、ジョンソンはイワンチェンコが射殺したという<ref>Myasnikov quoting Zhuzhgov, quoted in Crawford and Crawford, p. 360</ref>。遺体は服を全て脱がされ[[硫酸]]をかけられた後に灰になるまで焼かれた。服は処刑の証拠としてミャスニコフに引き渡された後に焼却された<ref>Myasnikov, quoted in Crawford and Crawford, pp. 360–361</ref>。ウラル・ソヴィエト議長アレクサンドル・ベロボロドフは処刑を追認し、間もなくレーニンも処刑を追認した<ref name=c362>Crawford and Crawford, p. 362</ref><ref>Statements of Myasnikov and Markov, quoted in Crawford and Crawford, pp. 356–357</ref>。ミハイルはボリシェヴィキ政権による最初の皇族虐殺の犠牲者となり、この後ニコライ2世一家を含む多くの皇族が虐殺されていった<ref>Crawford and Crawford, p. 354</ref>。二人の遺体は現在も見つかっていない<ref name=c361/>。
[[File:S. Michael by Grachev brothers (1903, priv.coll).jpg|thumb|180px|ミハイルの[[イコン]]]]
二人の処刑後、ボリシェヴィキ政権は「帝政に反感を抱く労働者の集団による犯行」と発表した<ref name=c361>Crawford and Crawford, p. 361</ref>。ボリシェヴィキ政権の偽情報は、[[白軍]]に「ミハイルは国外に脱出した」という誤った認識を与えた<ref>Crawford and Crawford, p. 365</ref>。チェリュシェフとボルノフも間もなく逮捕され、ペルミに監禁されていた旧帝国陸軍のピョートル・ズナメロフスキー大佐は、ミハイルが行方不明になったことをナターリアに電報で伝えた。電報を送った後、ズナメロフスキーはチェリュシェフ、ボルノフと共に処刑された<ref name=c362/>。
ナターリアは当初の亡命計画を断念し、子供たちを連れて[[ウクライナ国]]・[[キエフ]]に向かいドイツ軍の保護を受け脱出した。しかし、[[ドイツ革命]]によってドイツ帝国が崩壊したため、ナターリアは[[イギリス海軍]]の保護を受けイギリスに脱出した<ref>Crawford and Crawford, pp. 374–378</ref>。彼女は1951年にパリの病院で無一文の状態で死去した<ref>Crawford and Crawford, p. 395</ref>。息子ゲオルギーは1931年にフランスの[[サンス]]で交通事故を起こし、20歳で死去した<ref>Crawford and Crawford, p. 391</ref>。ゲオルギーの死でアレクサンドル3世の男系子孫は絶えることになる。義理の娘ナターリア・マモントヴァは生涯で三度結婚を経験し、1940年に回顧録を出版した。
▲=== 死去 ===
== 人物 ==
[[File:Grand Duke Michael alexandrovich his wife and son.jpg|thumb|200px|ミハイル夫妻と息子ゲオルギー]]
ミハイルは物静かで目立たず、気立ての良い人物として周囲から見られていた<ref>e.g. "Misha keeps away from affairs of state, does not offer his opinions and, perhaps, hides behind the perception of him as a good-natured unremarkable boy": [[Grand Duke Constantine Constantinovich of Russia]], quoted in Crawford and Crawford, p. 27</ref>。また、ミハイルは軍務に専念して政治的発言をしなかったため、イギリス領事
ミハイルはニコライ2世や他の皇族よりも、兵士からの信頼が厚い司令官だった<ref>Crawford and Crawford, p. 178</ref>。ブルシーロフは回顧録の中で、「ミハイルは陰謀に加担せず、醜聞の類を敬遠し、兵士
第一次世界大戦中、ラスプーチンの友人のブラトリュボフという陸軍の技師
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▲=== 注釈 ===
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* Ruvigny, Marquis of (1914) ''The Titled Nobility of Europe'', London: Harrison and Sons
* Vorres, Ian (2001) [1964] ''The Last Grand Duchess'', Toronto: Key Porter Books, ISBN 1-55263-302-0
{{ボリシェヴィキ政権によって処刑されたロシア皇族}}
{{Normdaten}}
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[[Category:大勲位菊花大綬章受章者]]
[[Category:ソビエトにおける赤色テロの犠牲者]]
[[Category:サンクトペテルブルク県出身の人物]]
[[Category:サンクトペテルブルク出身の人物]]
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