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'''ランゴバルド人'''(ランゴバルドじん、{{Lang-en-short|Lombards}}, {{Lang-it-short|Longobardi}}, {{Lang-de-short|Langobarden}}, {{Lang-fr-short|Lombards}}, {{Lang-la-short|Langobardi}}, {{Lang-*-Latn|el|Langobardoi}})、または'''ランゴバルド族'''(ランゴバルドぞく)は一般に[[6世紀]]後半に[[イタリア半島]]の大部分を支配する王国([[ランゴバルド王国]])を築いたことで知られる[[ゲルマン人]]の[[部族]]である。日本語においてはしばしば英語形に基づきロンバルドとも表記される。
== 名称 ==
ランゴバルド人の伝説的な説話では、ランゴバルド族の旧名は'''ウィンニーリー族'''(''Winnili'')であり、スコリンガ(Scoringa)と呼ばれた地で[[ヴァンダル族|ヴァンダル人]]と戦った際に、[[オーディン|ヴォーダン]](オーディン)神からランゴバルド(Longibardi)の名を与えられたと伝えられる<ref name="久野1971p38">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 38</ref>。
[[7世紀]]に記された『ランゴバルド族の起源(Origo gentis Langobardorum)』、及び[[パウルス・ディアコヌス]]により[[8世紀]]に記述された『{{仮リンク|ランゴバルドの歴史|en|Historia Langobardorum}}』が伝える所によれば、ランゴバルド人とヴァンダル人が戦った時、ヴァンダル人はオーディン神にウィンニーリー族に対する勝利を祈願した。この時、オーディンは日の出時に最初に見かけた方に勝利を与えるとしたが、ウィンニーリー族の族長イボルとアギオの母ガンバラはオーディンの妻[[フリッグ]]に近づき、戦勝の祈願をした。フリッグはウィンニーリー族に、明朝はオーディンの館の東側に並び、その際女性は髪をバラバラにし、髭に見えるように顔の前にまとめておくようにと言った。朝になりフリッグはオーディンを揺り起こして「オーディン、ごらんなさい('''オーディン、セー''')」と叫んだ。オーディンは跳ね起きて東側の窓を見ると髭の長い人間たちがいた。「あの髭の長い('''ランゴバルド''')者共は誰だ」とフリッグに聞いた。それはフリッグに戦勝を祈願していたウィンニーリー族だった。彼らを先に見たことによってオーディンはウィンニーリー族に勝利を与えなければならなくなった<ref name="ランゴバルドの歴史巻1§8">[[#ランゴバルドの歴史|ランゴバルドの歴史]], 巻1§8</ref>。以後ウィンニーリー族は、「'''ランゴバルド族'''」と呼ばれるようになった。
言語的にはランゴバルドとは「長い顎鬚(あごひげ)」を意味する(英語のlong beardに相当)ランゴバルド人の言葉に由来すると考えられ<ref name="ゲルマーニア§40訳注一">[[#ゲルマーニア|ゲルマニア]], 第2部§40、訳注(一)より。</ref><ref name="松原2010ランゴバルディー">[[#松原 2010|西洋古典学辞典 2010]], p. 1325 「ランゴバルディー(族)」の項目より</ref>、部族への帰属を示す象徴として男性が顎鬚を伸ばしていた事に因んでいる。ランゴバルド人がイタリア半島の住人と同化して姿を消した後も、イタリア北部を指す地名[[ロンバルディア]](ランゴバルド人の土地)としてその名は残り、現在でも使用される。
== 歴史 ==
=== 最初期の歴史 ===
[[ファイル:ランゴバルド人の移動.jpg|400px|thumb|right|ランゴバルド人(族)の移動関連地図。]]
ランゴバルド人の原住地が、その古伝承通り[[スカンディナヴィア半島]]南部(Schonen スコネン{{refnest|group=注釈|Schone(スコーネ)とも。Schonenは[[ドイツ語]]形<ref name="ゲルマーニア§40訳注一"/><ref name="ゲルマーニア§40訳注一">[[#ゲルマーニア|ゲルマニア]], 第2部§40、訳注(一)より。</ref>。}})であることは今日ほぼ確定されている<ref name="久野1971p37">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 37</ref><ref name="松原2010ランゴバルディー"/>{{refnest|group="注釈"|ランゴバルド人がスカンディナヴィア半島に起源を持つという伝承は[[パウルス・ディアコヌス]]が記した『ランゴバルドの歴史』に記録されている。ただし、パウルス・ディアコヌスはスカンディナヴィアを島であると記している。彼によれば人口過剰のため部族全体を3つに分け、そのうちの1つをクジ引きで選び、新しい土地へ移住させることにしたという<ref name="ランゴバルドの歴史巻1§2">[[#ランゴバルドの歴史|ランゴバルドの歴史]], 巻1§2</ref>。}}。人口過剰、土地の不足のため、彼らの一部がイボル(Ybor)とアギオ(Agio)と言う首長に率いられて古郷を離れ、スコリンガ(Scoringa)と呼ばれる地に勢力を持っていたヴァンダル人と戦ってこれを打ち破った<ref name="久野1971p37"/>。このスコリンガは、現在の[[オーデル川]]と[[ヴィスワ川]](ヴァイクセル川)の間の海岸地方であったと推定されている<ref name="久野1971p38"/>。ヴァンダル人を撃破した後、[[紀元前2世紀|前150年]]-前100年頃には、ランゴバルド人はマウリンガ(Mauringa)と呼ばれた地に居住していた。この地は現在の[[エルベ川]]左岸の[[リューネブルク]]地方と[[メクレンブルク]]地方に相当すると考えられる<ref name="久野1971p38"/>。ランゴバルド人は現地人と戦闘を交えつつ混住するようになり、[[スエビ族|スエビ部族連合]]を構成する一部族となった<ref name="久野1971p38"/>。[[ローマ人]]の記録者はいずれもこの時期のランゴバルド人をスエビ人の一支族と見做している<ref name="久野1971p38"/>。ランゴバルド人は[[紀元前1世紀|前1世紀]]前半にスエビ人が{{仮リンク|ウシペテース族|label=ウシペテース人|en|Usipetes}}と戦って[[ライン川]]流域に進出した際には、恐らくその一部として加わっていたものと推定される<ref name="久野1971p38"/>。
その後のランゴバルド人の動向については、ローマ人による断片的な記録しかない。彼らは少数であったが、その武勇によって独立を維持した高貴な部族であると[[タキトゥス]]は記録する<ref name="久野1971p38"/>
。
<blockquote>「このセムノーネース{{refnest|group="注釈"|タキトゥスによればスエビ人のうち、その母族として最も古く、最も高貴とされる首族<ref name="ゲルマーニア§39">[[#ゲルマーニア|ゲルマニア]], 第2部§39</ref>}}に反して、ランゴバルディーの高貴さを有名ならしめているのは、その少数さである。きわめて多数の、しかもきわめて強大な国々に囲まれながら、彼らは服属によらず、かえって戦争と冒険(戦争の危険を冒すこと)によって、おのれの安全を保っているのである。(タキトゥス<ref name="ゲルマーニア§40">[[#ゲルマーニア|ゲルマニア]], 第2部§40</ref>)」</blockquote>
ランゴバルド人は西暦[[5年]]に[[ティベリウス]]率いるローマ軍の攻撃を受けて一時的にエルベ川の右岸へ逃れた<ref name="久野1971p38"/>。そして西暦[[9年]]に[[トイトブルク森の戦い]]でローマ軍が敗退しその脅威が和らぐと、再びエルベ川左岸に帰還した<ref name="久野1971p38"/>。[[17年]]にはスエビ部族連合から離脱し、[[アルミニウス (ゲルマン人)|アルミニウス]]率いる{{仮リンク|ケルスキー族|label=ケルスキー族|en|Cherusci}}と結び、スエビ人を打ち破った<ref name="久野1971p38"/>。更に[[47年]]にはケルスキー族の内紛に介入し、追放された王イタリクスをケルスキー族の王に復位させた<ref name="久野1971p38"/>。その後、[[166年]]に{{仮リンク|オビイ族|en|Ubii}}と共に6,000人の兵力で[[パンノニア]]を攻撃したが、ローマ軍に敗れ故地に撤退したことが伝えられる<ref name="久野1971p38"/>。この後、いわゆる[[民族移動時代]]である[[5世紀]]まで、ランゴバルド人の動向は全く記録に登場しない<ref name="久野1971p38"/>。
=== 民族移動時代 ===
5世紀末、ランゴバルド人は[[ドナウ川]]の中流域に現れる。彼らがエルベ川流域から何時、どのような経路で、何のために移動したのか、確実に言えることは何もない<ref name="久野1971p38"/>。ただしこの時移動したのはランゴバルド人の一部であり、エルベ川左岸地区にはかなりの人数が残留していたことが確認されている<ref name="久野1971p38"/>。残留したランゴバルド人たちは、少なくても[[12世紀]]まで'''バルディ族'''(''Bardi'')の名でしばしば記録に登場する<ref name="久野1971p38"/>{{refnest|group=注釈|現代にも[[ドイツ]]には{{仮リンク|バルデンガウ|de|Bardengau}}や{{仮リンク|バルドヴィーク|en|Bardowiek}}のように、ランゴバルド族に由来する地名が残存する<ref name="ゲルマーニア§40訳注一"/>。}}。
移動したランゴバルド人たちは、アンタイブ(Anthaib)、バイナイブ(Bainaib)、ブルグンダイブ(Burgundaib)を次々と襲撃し、住民を支配下に置いたとされる<ref name="久野1971p39">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 39</ref>。この三つの地名はいずれも部族名から来ていると推定されるが、具体的にどこの土地を指すのかは判然としない<ref name="久野1971p39"/>。[[カルパティア山脈]]まで到達した後、東方から侵入してきた[[フン族]]と接触し戦闘が行われた。その後のフン族が関わるローマとの戦いにランゴバルド人が登場しないことから、フン族全盛期においてもランゴバルド人はその支配下には入らずにいたと考えられている<ref name="久野1971p39"/>。
5世紀後半、イタリアの支配権を握った[[オドアケル]]が[[488年]]に[[ノリクム]]属州の北側、ドナウ川の対岸に居住していたルギー人を撃破して追い散らし、現地でルギー人の支配下にあった住民をイタリアに移住させた上で撤退すると、空白地帯となったノリクム属州北側にランゴバルド人が移動し、ノリクム属州には[[ヘルール族|ヘルール人]]が移住した<ref name="久野1971p40">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 40</ref>。ランゴバルド人はヘルール人の支配下に入り貢納義務を負わされたが、数年後には{{仮リンク|タトー|en|Tato}}王の指揮の下、すぐ東方のフェルド(Feld)と呼ばれる平原に移動した<ref name="久野1971p40"/>。この地でヘルール人の支配に反抗し、勝利を収めて独立勢力となった<ref name="久野1971p40"/>。続く{{仮リンク|ワコー (ランゴバルド)|label=ワコー|en|Wacho}}王の下、当時東に隣接して居住していたスエビ人を打ち破って支配下に置き、北側でもヘルール人を追って[[モラヴィア]](メーレン)、[[ベーメン]]地方を征服した。更にワコーは{{仮リンク|テューリンゲン族|en|Thuringii}}の王女ライクンダ(Raicunda)、[[ゲピド族]]の王女アウストリグサ(Austrigusa)、ヘルール族の王女シリンガ(Silinga)を娶り、アウストリグサとの間の長女ウィシカルタ(Wisicharta)を[[フランク王国]]の王{{仮リンク|テウデベルト1世|en|Theudebert I}}へ、次女{{仮リンク|ワルデラータ (ランゴバルド王女)|label=ワルデラータ|en|Waldrada}}(Warderata)をテウデベルト1世の息子{{仮リンク|テウデバルト|en|Theudebald}}へ、それぞれ嫁がせた。また[[東ローマ帝国|東ローマ]]皇帝[[ユスティニアヌス1世]]と同盟を結び、ドナウ川中流域の有力な王として台頭するに至った<ref name="久野1971p41">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 41</ref>。
=== ローマ領内への移動 ===
[[ファイル:Lombard state 526.png|thumb|right|250px|[[パンノニア]](現[[スロバキア]]・[[ハンガリー]]付近)における分布([[6世紀]]前半)]]
[[540年]]頃、ワコーは死んだ。ワコーは自分の息子である{{仮リンク|ワルタリ (ランゴバルド王)|label=ワルタリ|en|Walthari}}に王位を継承させるため、自分の即位時に甥である[[リシウルフ]]を追放していた(ランゴバルド部族法では彼が次の正統な王位継承者であった。)<ref name="久野1971p44"/>。これによりワルタリが王位を継ぐことができたが、彼の治世は短命に終わり、{{仮リンク|ガウス家|it|Gausi}}の{{仮リンク|アウドイン|en|Audoin}}が王位についた<ref name="久野1971p42">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 42</ref>。当時東ローマ帝国はユスティニアヌス1世の下、イタリア半島の支配権を[[東ゴート王国]]から取り戻すべく長い戦争の最中であった([[ゴート戦争]])。イタリア半島に交通の便が良いドナウ中流域で急速に勢力を拡大したランゴバルド人は、東ローマ帝国にとって戦略上無視できない存在となっていた<ref name="久野1971p42"/>。[[546年]]にユスティニアヌス1世はランゴバルド人を味方とするためアウドインと盟約を結び、巨額の年金を与えること約すとともにノリクム、[[パンノニア]]への移住をランゴバルド人に許可した<ref name="久野1971p42"/>。この時初めてランゴバルド人は「ローマ帝国領」に移住した<ref name="久野1971p42"/>。この結果、後にユスティニアヌス1世はイタリアでの戦いにおいて、同盟軍(フォエドゥス foedus)となったランゴバルド人から援軍を得る事ができた<ref name="久野1971p42">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 42</ref>。しかしアウドインと彼の指揮するランゴバルド人は東ローマ帝国が期待したような従順な同盟者ではなく、[[548年]]には[[ダルマティア]]と[[イリュリクム]]を寇略し、多数の住民を奴隷として連れ去るなどの行動をとっていた<ref name="久野1971p43">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 43</ref>。
ローマ領内でも急激に勢力を拡張するランゴバルド人は、同じくローマ領内の[[シルミウム]]に拠点を置いて勢力を持っていた[[ゲピド族]]([[ゲピド王国]])と対立するようになった<ref name="久野1971p44">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 44</ref>。更にワコー王に追放されたリシウルフの息子、[[イルディゲス]]を巡るランゴバルドの内紛が事態を悪化させた。[[イルディゲス]]は自分がランゴバルドの王位継承者であるとし、その正統な地位の回復への支援をゲピド王に求めた<ref name="久野1971p44"/>。[[547年]]と[[549年]]には軍事衝突に至る可能性のある危機があったが、この時は実際の戦闘に入る前に和平が行われた<ref name="久野1971p44"/>。イルディゲスはゲピド族から期待した支援を得られないことを悟ると、一時[[スラブ人]]の下に身を寄せ、その後独自にランゴバルド人、ゲピド人、スラブ人からなる混成軍を率いて東ゴート王国と結ぶべくイタリアへ向かい、ゴート戦争に参加して東ローマ軍と戦うなど流転の人生を歩んだ<ref name="久野1971p44"/>。イルディゲスが去った後も両部族の対立は続き、[[551年]]に遂に軍事衝突に発展し、ランゴバルド人はゲピド族を打ち破った<ref name="久野1971p44"/>。しかしランゴバルド人が過剰に勢力を拡大することを望まなかった東ローマ帝国は、両部族の和平を画策して介入し、結局ゲピド族を完全に滅亡させることなく和平が結ばれた<ref name="久野1971p44"/>。その後、ランゴバルド人は東ローマ帝国の同盟軍としてゴート戦争に参加し、[[552年]]には東ゴート王[[トーティラ]]を戦傷死させるなどの活躍を示したが、占領した都市で放火略奪を欲しいままにし、教会に避難した婦女に暴行を加えるなど暴虐の限りを働いた<ref name="久野1971p45">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 45</ref><ref name="松原2010ランゴバルディー"/>。このため激怒した東ローマ軍の司令官[[ナルセス]]によって護送軍付きでイタリアから退去させられた<ref name="久野1971p45"/>。
=== イタリア侵入 ===
[[560年]]にアウドインが死去すると、その息子[[アルボイーノ|アルボイン]](アルボイーノ)が即位した。ほぼ同じ頃、ゲピド族でも新たな王{{仮リンク|クニムンド|en|Cunimund}}が即位し、この二人の王の下で両部族の対立が再燃することになった<ref name="久野1971p46">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 46</ref>。再び両部族の戦闘が始まると、当初アルボインは優勢に戦いを進めたが、東ローマ帝国がゲピド族を支援しはじめ、その援助を得たゲピド軍に敗北して苦境に陥った<ref name="久野1971p47">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 47</ref>。このため、アルボインはパンノニアで新たに勢力を拡大していた[[アヴァール人]]の[[ハーン]]、[[バイアヌス]]に同盟を依頼した<ref name="久野1971p46"/>。ランゴバルドが敗勢にある中で結ばれたこの同盟は、戦闘参加に先立ってランゴバルド人が保有する家畜の十分の一をアヴァール人に引き渡し、戦闘終了後には戦利品の半分及び占領したゲピド族の領土全てをアヴァール側が接収するという、極めて不利な条件で結ばれた<ref name="久野1971p47"/>。ゲピド側は対抗して東ローマ帝国の援軍を求めたが、皇帝[[ユスティヌス2世]]は口約束のみで実際に援軍を送ることはなく、アヴァール人とランゴバルド人に挟撃されたゲピド王クニムンドはドナウ川と[[ティサ川]]の間で激戦の末に敗北し、戦死した<ref name="久野1971p47"/>。この敗北によってゲピド族の一部はランゴバルド人に投降し、一部はアヴァール人の隷属民とされ、他の生存者は皇帝の庇護を求めて東ローマ帝国へと移り、部族として消滅するに至った<ref name="久野1971p47"/>。
こうしてゲピド族との戦いに勝利を収めたアルボインであったが、ゲピド族よりも遥かに強力なアヴァール人の脅威に対処しなければならなくなった上、パンノニア周辺が戦争の結果荒廃したことから、ゴート戦争の参加によってその豊かさを知っていたイタリアへの移動を画策した<ref name="久野1971p48">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 48</ref>。ランゴバルド人の兵力が十分でなかったことからイタリア侵攻の成功を確信できなかったアルボインは、現在の領土をアヴァール人に空け渡すが、移動後に帰還した場合には元の土地の所有権をランゴバルド人に返還するという契約をアヴァール人と結び、スエビ人、パンノニアとノリクムのローマ属州民、ゲピド人の残党、[[サルマタイ]]を兵力に加え、更に20,000人にも上る[[ザクセン人]]を招請してイタリアへ進発した<ref name="久野1971p49">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 49</ref>。
こうして形成された、ランゴバルド人を中核とする緩い結合集団は、アルボインの指揮の下で[[568年]]5月にイタリアに入った<ref name="久野1971p49"/><ref name="リシェ1974p158">[[#リシェ 1974|リシェ 1974]], p. 158</ref><ref name="斎藤2008p128">[[#斎藤 2008|斎藤 2008]], p. 128</ref>。前年にナルセスが解任されていた東ローマ帝国のイタリア駐留軍はこの侵入に対処できず、アルボインは北イタリアと中部イタリア一体を制圧し、[[ミラノ]](メディオラヌム)を拠点に'''[[ランゴバルド王国]]'''(''Regnum Langobardonum'')を建設した<ref name="斎藤2008p126">[[#斎藤 2008|斎藤 2008]], p. 126</ref>。
=== ランゴバルド王国 ===
{{main|ランゴバルド王国}}
[[ファイル:Alboin's Italy.svg|thumb|250px|[[イタリア]]における分布(6世紀後半)]]
イタリアに侵入したランゴバルド人とその連合諸部族の総数は約300,000人、その内、武装した兵力は40,000人から50,000人であったと推定されている<ref name="斎藤2008p128"/>。諸部族の寄せ集めであったランゴバルド王国は、建国直後から内紛にさらされ、[[572年]]には恐らく東ローマ帝国と共謀した族内有力者によってアルボインが暗殺された<ref name="斎藤2008p130">[[#斎藤 2008|斎藤 2008]], p. 130</ref>。跡を継いだ[[クレーフィ|クレフ]](クレーフィ)の時代も内紛は絶えず、[[573年]]には同行してきたザクセン人たちが「かれら自身の法の下に留まること」を許可されなかったため、ランゴバルド軍から離脱して故地の[[シュヴァーベン]]へと去っていった<ref name="久野1971p49"/>。[[574年]]にはクレフも暗殺され、その後10年に渡る空位の間に族内有力者たちが、それぞれ独立した領地を実力で確保していった<ref name="斎藤2008p130"/>。東ローマ軍の反撃が始まると、各地のランゴバルド系支配者たちはひとまず{{仮リンク|アウタリ|en|Authari}}を王に選出し、[[パヴィア]]を首都とする王国の体裁を整えた<ref name="斎藤2008p130"/>。しかし、南部の[[ベネヴェント公国|ベネヴェント公]]や[[スポレート公国|スポレート公]]の独立性は強く、北部でも首都から離れた[[フリウーリ|フリウーリ公]]や[[トレント (イタリア)|トレント公]]は同様であった<ref name="斎藤2008p130"/>。このため、ランゴバルド王国は「一つの国家であるよりも寧ろ諸国家のモザイクであった(リシェ)」と評される<ref name="リシェ1974p160">[[#リシェ 1974|リシェ 1974]], p. 160</ref>。こうして高度に分権的な王国としてのランゴバルド王国の性格が形作られた。
ランゴバルド王国はイタリア半島の北部および中部の大部分を支配する王国としてその後2世紀にわたり存続した。[[773年]]に[[フランク王国]]の[[カール大帝|カール1世]](大帝)によって征服された後、カール1世がフランク王と兼ねてランゴバルド王に即位し、「フランク人とランゴバルド人の王」となった<ref name="斎藤2008p135">[[#斎藤 2008|斎藤 2008]], p. 135</ref>。彼は[[781年]]には、息子の[[ピピン (イタリア王)|ピピン]]を[[イタリア王国 (中世)|イタリア王国]]の王とした<ref name="斎藤2008p135"/>。このイタリア王国はランゴバルド王国とスポレート公領から成り、ベネヴェント公領は独立した公国となった<ref name="斎藤2008p135"/>。
== 言語 ==
{{Main article|ランゴバルド語}}
[[File:Pforzen Inschrift.JPG|thumb|300px|{{仮リンク|プフォルツェンのバックル|en|Pforzen buckle}}に書かれたルーン文字の碑文。ランゴバルド語が書かれた最も古い文書例である可能性がある。]]
{{仮リンク|ランゴバルド語|en|Lombardic language}}は現在では死語である([[キンブリ語]]と[[モケーニ語]]がランゴバルド語の生き残った方言ではないとする限り。)<ref name=BKM>{{cite book|title= The Languages and Linguistics of Europe: Vol.II |first= Bernd |last= Kortmann |year= 2011 |place= Berlin}}</ref>。[[ゲルマン語派]]に属するこの言語は7世紀には衰退し始めた。だが、各地に散在して1000年前後まで使用されていたかもしれない。ランゴバルド語は極断片的にしか残されておらず、主な情報源は[[ラテン語]]の文書に使用されたランゴバルド語の単語である。ランゴバルド語で書かれた文書は存在せず、この言語の形態や文法について何らかの結論を描き出すことは不可能である。ランゴバルド語の系統分類は音韻学の成果に完全に依存している。[[高地ドイツ語]]に見られる[[第二次子音推移]]がランゴバルド語にも明白に見られることを示す初期の証拠が存在するため、通例として{{仮リンク|エルベ・ドイツ人|label=エルベ・ドイツ語|en|Elbe Germanic peoples}}、または[[上部ドイツ語]]の方言に分類されている<ref>Marcello Meli, ''Le lingue germaniche'', p. 95.</ref>。
ランゴバルド語の僅かな記録が[[ルーン文字]]の銘文に保存されている。主要な記録は{{仮リンク|古フサルク|en|Elder Futhark}}で書かれた短い銘文に含まれたもので、「{{仮リンク|シュレッツハイム|de|Schretzheim}}の青銅製容器(600年頃)」の中にあるものと、[[オストアルゴイ郡]]([[シュヴァーベン]])の[[プフォルツェン]]で発見された銀製のベルトのバックルのものがある。いくつかのラテン語の文書はランゴバルド語の名前を記録しており、ランゴバルド部族法の文書にはこの言語から採用された法律用語が含まれている。2005年、エミリア・デンスィヴァ(Emilia Denčeva)は{{仮リンク|ペルニクの剣|en|Pernik sword}}の銘文はランゴバルド語であると論じた。<ref>Emilia Denčeva, ''Langobardische (?) Inschrift auf einem Schwert aus dem 8. Jahrhundert in bulgarischem Boden''.</ref>
[[イタリア語]]には多数のランゴバルド語の単語が残存しているが、ランゴバルド語からの借用語を[[ゴート語]]や[[フランク語]]のような他の[[ゲルマン語派]]の言語からの借用語と見分けるのは常に困難な作業である。ランゴバルド語は[[古ザクセン語|サクソン語]](ザクセン語)と同系であるので、その単語はしばしば[[英語]]の単語と似ている。例えば''landa''は''land''(土地)、''guardia''は''wardan''(''warden'' 監督官)、''guerra''は''werra''(''war'' 戦争)、''ricco''は''rikki''(''rich'' 富)、そして''guadare''は''wadjan''(''to wade'' 渡る)にそれぞれ対応する。
''Codice diplomatico longobardo''という法的文書集は数多くのランゴバルド語の語彙に言及しており、この中から今でもイタリア語で使用されているいくつかの語彙を拾うことができる。例えば以下のような物である。
Barba (beard 髭), marchio (mark 印), maniscalco (blacksmith 鍛冶), aia (courtyard 中庭), braida, borgo (village 村), fara (toponym 地名), pizzo (toponym 地名), sala (toponym 地名), staffa (stirrup 鐙), stalla (stable 厩舎), sculdascio, faida (feud フェーデ、争い), manigoldo (scoundrel 悪党), sgherro; fanone (baleen クジラの髭), stamberga (hovel 家畜小屋); anca (hip ヒップ), guancia (cheek 頬), nocca (knuckle 指関節), schiena (back 背); gazza (magpie カササギ), martora (marten テン); gualdo, pozza (pool プール); 動詞、bussare (to knock ノックする), piluccare (to peck ついばむ), russare (to snore いびきをかく).
== 歴代王 ==
以下にイタリアにランゴバルド王国を建設する以前のランゴバルド人の族長、または王を列挙する。初期の時代についてはパウルス・ディアコヌスの『ランゴバルドの歴史』の記述によるが、歴史学的に実在が確認されていない王を含むことに注意されたい。
* イボル - 伝説ではスカンディナヴィアを出発した際の族長の一人。
* アギオ(アイオ) - 伝説ではスカンディナヴィアを出発した際の族長の一人。
* アゲルムンド - パウルス・ディアコヌスによればアギオの息子であり初代の王。言い伝えでは33年間在位した<ref name="ランゴバルドの歴史巻1§14">[[#ランゴバルドの歴史|ランゴバルドの歴史]], 巻1§14</ref>。そしてウルガレス族(フン族か)に急襲された際に殺害されたという<ref name="ランゴバルドの歴史巻1§16">[[#ランゴバルドの歴史|ランゴバルドの歴史]], 巻1§16</ref>。
* ラミッシオ - 伝説では娼婦が生んだ七つ子の一人で池に棄てられたが、アゲルムンド王によって拾われ育てられた。アゲルムンド亡き後には王国の舵取りを行うほどで、ある川で渡河を阻んだ[[アマゾネス]]の最強の女と一騎打ちをして打ち破ったとされる。パウルス・ディアコヌスはアマゾネスにまつわる一連の話が「真実に基づいていないことは、確かである。」と評している<ref name="ランゴバルドの歴史巻1§15">[[#ランゴバルドの歴史|ランゴバルドの歴史]], 巻1§15</ref>。
* レトゥ - 彼は40年間統治したと伝えられる<ref name="ランゴバルドの歴史巻1§18">[[#ランゴバルドの歴史|ランゴバルドの歴史]], 巻1§18</ref>。
* ヒルデホク - レトゥの息子で、その跡を継いで王となった<ref name="ランゴバルドの歴史巻1§18">[[#ランゴバルドの歴史|ランゴバルドの歴史]], 巻1§18</ref>。
* ゴデホク - ヒルデホクの後、王となった<ref name="ランゴバルドの歴史巻1§18"/>。
* クラッフォ - ゴデホクの息子で、その跡を継いで王となった<ref name="ランゴバルドの歴史巻1§20">[[#ランゴバルドの歴史|ランゴバルドの歴史]], 巻1§20</ref>。
* {{仮リンク|タトー|en|Tato}} - クラッフォの息子。ヘルール人の王ロドゥルフスを破り、ランゴバルド人の勃興の基礎を築いたが、ワコーによって殺害された<ref name="ランゴバルドの歴史巻1§20">[[#ランゴバルドの歴史|ランゴバルドの歴史]], 巻1§20</ref>。
* {{仮リンク|ワコー (ランゴバルド)|label=ワコー|en|Wacho}} - パウルス・ディアコヌスによればタトーの兄弟ズキロの息子。『ランゴバルド族の起源』ではウニキスの息子。タトーを殺害し王となった。周辺諸族を征服し、ドナウ川中流域の有力な王として台頭した<ref name="ランゴバルドの歴史巻1§21">[[#ランゴバルドの歴史|ランゴバルドの歴史]], 巻1§21</ref><ref name="久野1971p41">[[#久野 1971|久野 1971]], p. 41</ref>。
* {{仮リンク|ワルタリ (ランゴバルド王)|label=ワルタリ|en|Walthari}} - ワコーの息子。在位は恐らく539年-546年。7年間在位したが幼いうちに亡くなった<ref>[[#ランゴバルドの歴史|ランゴバルドの歴史]], p. 22。訳者、[[日向太郎]]の訳注(34)による</ref>。
* {{仮リンク|アウドイン|en|Audoin}} - 在位546年-560年。ガウス家の王<ref name="久野1971p42"/>。[[プロコピオス]]の記録によればワコーの死に際して幼いワルタリの後見を依頼された。その死後には自ら王となり、ランゴバルド人をパンノニアへと移動させた<ref name="久野1971p42"/><ref name="ランゴバルドの歴史巻1§22">[[#ランゴバルドの歴史|ランゴバルドの歴史]], 巻1§22</ref>。
* [[アルボイーノ|アルボイン]] - 在位560年-572年。アウドインの息子であり<ref name="久野1971p45"/>、アヴァール人と同盟を結びゲピド人と戦って勝利した。その後、故地を捨ててイタリアへランゴバルド人を移動させ、イタリア半島の大半を支配下に置く[[ランゴバルド王国]]を打ち立てた。イタリア語式にアルボイーノの名でも知られる<ref name="斎藤2008p130"/>。
* 以後の王については'''[[ランゴバルド王国]]'''を参照
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
=== 原典資料 ===
* {{Cite book|和書|author=[[タキトゥス|コルネリウス・タキトゥス]] |translator=[[泉井久之助]] |title=ゲルマーニア |date=1979-4 |series=岩波文庫| publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4-00-334081-7 |ref=ゲルマーニア}}
* {{Cite book|和書|author=[[パウルス・ディアコヌス]] |translator=[[日向太郎]] |title=ランゴバルドの歴史|date=2016-12 |publisher=[[知泉書館]] |isbn=978-4-86285-245-8 |ref=ランゴバルドの歴史}}
=== 二次資料 ===
* {{Cite book|和書|author=[[ピエール・リシェ]] |translator=[[久野浩]] |title=蛮族の侵入 |date=1974-12 |series=文庫クセジュ| publisher=[[白水社]] |isbn=978-4-560-05567-0 |ref=リシェ 1974}}
* {{Cite book|和書|author=[[史学会]]編|title=史学雑誌 第80編 第11号 |date=1971-11 |publisher=[[山川出版社]] |isbn= | |volume= |ref=}}
** {{Cite book|和書|author=[[久野浩]]|title=史学雑誌 第80編 第11号 |chapter=民族移動期におけるランゴバルド族の動向|date=1971-11 |publisher=[[山川出版社]] |isbn= | |volume= |ref=久野 1971}}
* {{Cite book|和書|author=[[北原敦]]|title=イタリア史 |date=2008-8 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-41450-1 |series=世界各国史15 |volume= |ref=イタリア史 2008}}
** {{Cite book|和書|author=[[斎藤寛海]]|title=イタリア史 |chapter=第四章 三つの世界 |date=2008-8 |publisher=[[山川出版社]] |isbn= |series=世界各国史15 |volume= |ref=斎藤 2008}}
* {{Cite book|和書|author=[[松原國師]] |title=西洋古典学事典 |date=2010-6 |publisher=[[京都大学|京都大学出版会]] |isbn=978-4-87698-925-6 |ref=松原 2010}}
== 関連項目 ==
* [[ランゴバルド王国]]
*[[ロンバルディア同盟]]
{{DEFAULTSORT:らんこはると}}
[[Category:ゲルマン人]]
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