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[[File:Imperial Japanese Army War College students.jpg|thumb|right|250px|[[1930年代]]中頃の陸大卒業者、「[[恩賜の軍刀|
'''陸軍大学校'''(りくぐんだいがっこう)は、[[大日本帝国陸軍]]
== 歴史 ==
=== 創設 ===
[[1869年]](明治2年)9月に、明治天皇が臨席した[[集議院]]での会議で「兵式は陸軍は仏式、海軍は英式を可とすること」とされて以来、帝国陸軍はフランス式の兵制を採用してきた。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=38-39|loc=集議院における軍備論}}</ref>[[1873年]](明治6年)の「幕僚参謀服務綱領」、これに代わる1879年(明治12年)の「幕僚参謀条例」により、各兵科の将校から適任者を選んで参謀が選任されており、<ref name="jouhou93-97">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=93-97|loc=参謀職種への認識}}</ref>[[1880年]](明治13年)には、フランスの[[サン・シール陸軍士官学校|陸軍士官学校]]・陸軍大学校に[[1870年]](明治3年)から10年間留学した[[小坂千尋]]が陸軍参謀大尉となっている。<ref name=":10">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=89-93|loc=陸軍大学校の創設に貢献した人々}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|小坂千尋(1850年(嘉永3年)生。周防国岩国出身)は、明治16年の参謀科廃止<ref name="jouhou93-97" />により、明治16年5月7日付で陸軍歩兵大尉<ref name=":10" />。陸大4期(明治19年1月入校、明治21年11月卒業)の[[大井成元]]が、小坂の講義に感銘を受けたと述懐している。[[児玉源太郎]]に重用され、陸軍歩兵中佐<ref name=hata-kosaka />で陸軍省軍務局第1軍事課長(軍務局の筆頭課長。在任は明治23年3月27日-明治24年11月7日。<ref name=hata-kosaka>{{Harvnb|秦|2005|p=310|loc=陸軍省軍務局軍事課長}}</ref>)の要職を務めたが、現職のまま1891年(明治24年)11月7日にコレラにより死去。[[山縣有朋]]は「小坂逝きて吾兵を語らず」と小坂の夭折を惜しんだ。<ref name=":10" />}}
[[西南戦争]]という実戦を経て、参謀将校の養成機関を日本国内に設ける必要性が認識され、<ref name=":6">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=79-83|loc=陸軍大学校創設の気運}}</ref>[[1882年]]([[明治]]15年)11月13日付の「陸軍大学校条例」によって陸軍大学校が設置された<ref name=":10" />。創設当初の陸大は、[[参謀本部 (日本)|参謀本部長]]{{Refnest|group="注釈"|参謀本部の長が参謀総長となったのは1889年(明治22年)<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=319|loc=参謀総長(第1期 明22-明41)}}</ref>。}}の直轄であり、校長が置かれなかった。<ref name=":10" />
同年12月以降、幹事の岡本兵四郎歩兵大佐<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=|loc=附録第三 (陸軍大学校校長、幹事、学生数一覧表)}}</ref>、副幹事の小坂千尋参謀大尉、他に武官教官(大尉から中佐)7名、文官教官(数学科)2名の計11名の教官が任命され、<ref name=":10" />参謀本部構内の旧本部跡を仮の校舎として<ref name=":8">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=|loc=附録第二 (陸軍大学校年表)}}</ref>、[[1883年]](明治16年)4月2日に陸大が開校した<ref name=":8" />。当初の陸大の修学期間は、歩兵将校・騎兵将校は予科1年+本科2年の計3年、砲兵将校・工兵将校は本科2年であり、<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=97-98|loc=「陸軍教育史」に見る陸大}}</ref>陸大1期(入校者19名<ref name=":1" />または15名<ref name=":9">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=141-147|loc=メッケルの人間像}}</ref>、10名卒業<ref name=":1" /><ref name=":9" />)は、1883年(明治16年)と1884年(明治17年)に入校し、[[1885年]](明治18年)12月24日に卒業した<ref name=":1" />。輜重兵将校には原則として陸大受験資格がなく、例外として、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]騎兵科を卒業して輜重兵将校となった者が、陸大入校を許可されると同時に騎兵将校に復帰する場合のみ、陸大を受験できた。<ref name=":11" />
創設当初の陸大はフランス式であり、小坂をはじめとする武官教官はフランス式兵制しか知らなかった。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=99-100|loc=陸軍大学校の性格-[[中村雄次郎]]中将の回想(「公爵[[桂太郎]]伝」より)}}</ref>その教育内容は、数学・化学・物理といった自然科学の比重が大きく、参謀教育に必須の戦術・戦略・戦史については質量ともに手薄であり、実態としては、参謀養成機関というより「[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]高等科」であった。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=99-103|loc=陸軍大学校の性格}}</ref><ref name=":23">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=263-266|loc=用兵教育の変遷-第1期 日露戦争まで}}</ref>
=== メッケルの貢献 ===
[[1870年]](明治3年)から3年間[[プロイセン王国]]に留学した桂太郎<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=46-47|loc=「桂太郎」}}</ref>を中心に、[[普仏戦争]](1870年-71年)の経過に鑑みドイツ式(プロイセン式)の兵制を採用すべし、という主張があった。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=50|pp=|loc=}}</ref>[[明治十四年の政変]]で政界の中心となった[[伊藤博文]]も強固なドイツ派であった。当時の帝国陸軍の首脳である[[山縣有朋]]、[[大山巌]]、[[西郷従道]]らはフランス派であったが{{Refnest|group="注釈"|1870年(明治3年)、兵部少輔の[[山縣有朋]]は、兵部大丞の[[西郷従道]]と共に、帝国陸軍へのフランス式兵制採用を主導した。これは前年に死去した[[大村益次郎]]の遺志を継いだものであった。山縣は、普仏戦争前夜の欧州を視察しており、個人的にはドイツ式兵制を好ましいと考えていたが、尊敬する先輩である大村の遺志を尊重すること、および当時の日本には、フランス語のできる者に比べてドイツ語のできる者は極めて少なく、急を要する陸軍建設にはフランス式兵制を採用するしかないという事情があった。<ref name=":28" />}}、伊藤や桂の影響で次第にドイツ式兵制への関心を高めた。[[1884年]](明治17年)3月6日には、陸大教官として[[ドイツ帝国]]陸軍将校を1名雇い入れることを太政大臣が裁可している。<ref name=":28" />
一方、[[1883年]](明治16年)12月から1885年(明治18年)1月まで、[[陸軍省|陸軍卿]]の[[大山巌]]が軍事視察のため欧州に出張していた。随員には桂(陸軍歩兵大佐、参謀本部管西局長)が加わっていた。従来はフランス式兵制を支持していた大山(1871年(明治4年)から3年間、フランスとスイスに留学<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=38-39|loc=「大山巌」}}</ref>)だが、桂にドイツ式兵制への移行を進言され、欧州でドイツ帝国の様子を実見するにつれて、桂の進言を受け入れる方向に考えを改めたとされる。<ref name=":29" />
大山は、ドイツ帝国陸軍大臣のブロンザルト・フォン・セレンドルフ中将([[:en:Paul Bronsart von Schellendorff]])に面会し、陸大への教官派遣を要請した。諸説あるが、セレンドルフは、ドイツ帝国参謀総長[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ]]元帥と協議し、[[クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル]]参謀少佐(42歳)を日本に派遣することを決定した。メッケルは、プロイセン王国の陸軍大学校学生であった時にセレンドルフに指導を受けており、当時のドイツ帝国[[参謀本部]]の中でも秀才として知られていた。<ref name=":29">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=83-85|loc=大山陸軍卿ドイツに陸大教授を求む}}</ref>
メッケルの日本への派遣を知った、在日フランス公使館附陸軍武官は、大山の外遊中に陸軍卿代理を務めていた西郷従道に、フランス式兵制を捨てるのかと抗議したが、西郷はこれを一蹴したという。<ref name=":21" />ただし、日本の陸軍士官学校がドイツ式の[[士官候補生]]制度に移行し、士官候補生1期(一般に陸士1期と呼ばれる<ref name=":26">{{Harvnb|熊谷|2007|p=|pp=217-220|loc=陸軍のドイツ化と教育}}</ref>)が陸士に入校したのは[[1888年]](明治21年)11月であり、<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=774|loc=陸海軍用語の解説—陸軍士官学校}}</ref>数年間は、陸士はフランス式、陸大はドイツ式と仏式・独式が併存した。<ref name=":21">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=85-88|loc=フランス武官の反撥}}</ref>
メッケルは[[1885年]](明治18年)3月18日に来日し、[[1888年]](明治21年)3月24日に横浜港を出港した船でドイツに帰国した。滞日期間は3年であった。{{Refnest|group="注釈"|メッケルの滞日期間については、4年説もある。<ref name=":15" />}}帝国陸軍は、メッケルの居館を参謀本部の構内に用意し、メッケルに月500ドルの俸給を支払った。<ref name=":15">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=104-116|loc=クレメンス・ウイルヘルム・ヤコブ・メッケルの来朝}}</ref>
陸大に着任したメッケルは、陸大の教育課程をドイツ式に改革した。<ref name=":26" />即ち、校内での図上戦術(ドイツ陸軍大学校の教育方法そのままであった<ref name=":27" />)・校外での演習旅行による実戦を想定した教育、理論ではなく戦史に例証を求める教育に再構築した。<ref name=":16">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=117-122|loc=メッケルの影響}}</ref><ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=122-126|loc=メッケルの戦術教育の特色}}</ref>メッケルは、外征経験のない帝国陸軍の将校に兵站の概念・知識が欠落していることを憂い、外征における兵站について熱心に教育した。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=140-141|loc=兵站に対する関心喚起}}</ref>
陸大は、メッケルが3年間で作り上げた教育課程を、[[1945年]](昭和20年)の終焉まで継承した。<ref>{{Harvnb|熊谷|2007|p=|pp=241‐243|loc=陸大と海大の教育}}</ref>
メッケルは参謀本部顧問としての役割も果たした。<ref name=":28" />明治19年3月に臨時陸軍制度審査委員会(委員長は[[児玉源太郎]]歩兵大佐)が設置され、ここでの研究により6鎮台編制から6個師団編制に移行したこと、陸軍中央が陸軍省・参謀本部・教育総監部の3官衙(中央三官衙<ref>{{Harvnb|藤井|2013|p=|pp=141|loc=フランス武官の反撥}}</ref>)に分かれ、参謀本部の組織が確立して統帥権の独立が確立したこと、陸軍の兵制が順を追ってドイツ式に移行したことについては、メッケルの功績が大きい。<ref name=":16" />
メッケルの離日後、[[1890年]](明治23年)に青山に移転した陸軍大学校の正門を入ったところにメッケルのブロンズ<ref name=":7" />胸像が設置され(敗戦後に行方不明となった<ref name=":7">{{Harvnb|上法|1973|p=|loc=巻頭グラビア「陸大の開祖メッケル少佐」}}</ref>)、参謀本部の食堂にメッケルの肖像画が掲げられた。<ref name=":27">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=111-116|loc=クレメンス・ウイルヘルム・ヤコブ・メッケルの来朝—[[大島浩]]氏の『日本参謀教育と陸軍改革の功労者・メッケル少佐』}}</ref>
=== 制度改正 ===
1887年(明治19年)に、全兵科(この時点では、歩兵、騎兵、砲兵、工兵)の将校の修学期間が3年に統一されたという。<ref name=":11" /><ref name=":2" />ただし、[[1886年]](明治19年)12月2日に「陸軍大学校条例」が改訂されているが<ref name=":13" />、修学期間についての言及は見当たらない。
[[1887年]](明治20年)8月に「陸軍大学校条例」が大幅に改訂された<ref name=":24" />。輜重兵将校に対する受験制限が廃止された(第1条)<ref name=":25" />。修学期間が3年と明記された(第18条)。校長が置かれた(第2条)<ref name=":25" />(初代校長は、児玉源太郎歩兵大佐<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=335-336|loc=陸軍大学校長}}</ref>)。
<small>[[1933年]](昭和8年)に師団参謀要員の養成課程として「専科学生」(修学期間は約1年)が新設され、[[1944年]](昭和19年)までに480名が卒業した。他に「専攻学生」と「航空学生」が短期間存在したが、卒業者は両者を合わせて100名に満たない</small>。<ref name=":2" />
=== 終焉 ===
陸大の修学期間は本来は3年であったが、太平洋戦争(大東亜戦争)の激化により、[[1942年]](昭和17年)12月入校の58期は1年8ケ月で卒業し、[[1943年]](昭和18年)12月入校の59期は、当初は1年3ケ月の予定であったが、[[1944年]](昭和19年)12月に1年の修学で卒業し{{Refnest|group="注釈"|59期が陸大を卒業した後、その過半数に対し、参謀本部で1ケ月から2ケ月の教育が行われた。<ref name=":19" />}}、同時に陸大の教育が中止された。<ref name=":19">{{Harvnb|上法|1973|pp=242-254|loc=昭和8年の改訂}}</ref>
翌年、[[1945年]](昭和20年)1月に、陸大の教育を同年2月に再開すると発表され、陸大最後の期となった60期が2月11日<ref name=":1" />に入校した。60期の修学期間は当初は1年の予定であったが、3月に参謀次長から「60期生が7月までの課程を修了すれば、陸大を閉鎖する可能性がある」旨が通知され、8月6日<ref name=":1" />に卒業した。<ref name=":19" />敗戦直前に卒業した60期についても、従来通りに、優等卒業者6名に恩賜の軍刀が授与された。<ref name=":1" />なお、同年2月には、61期の採用についての陸軍大臣の通達<ref name=":19" />が発せられ、同年6月に初審を行う予定となっていたが、これは実行されずに終わった。<ref name=":19" />
=== 校地の変遷 ===
[[File:Rikugun Daigakko.jpg|right|thumb|陸大跡地(北青山)]]
[[1883年]](明治16年)に開校した際に仮校舎とした参謀本部構内の旧本部跡から、[[1884年]](明治17年)に和田倉門内に新築した校舎に移転した。<ref name=":8" />明治17年に陸大が移転したのは、和田倉門の近くの「旧大名屋敷」であったとする文献があり、<ref name=":23" /><ref>{{Harvnb|黒野|2004|pp=61-63|loc=参謀本部長の統轄下に}}</ref>それを踏襲した記載が千代田区観光協会のサイトにある<ref>{{Cite web |date= |url=http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/2243/Default.aspx |title=千代田を駆け巡る、坂の上の雲 ~3章~ |publisher=一般社団法人千代田区観光協会 |accessdate=2017-02-02}}</ref>。しかし、明治17年3月1日付の陸軍省達には「陸軍大学校今般'''和田倉門内へ新築落成'''候に付去月廿八日同所へ移転候条為御心得段及御通牒候也」と明記されている。<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?IS_KEY_S1=%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1+%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%80%89%E9%96%80&SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_START=6&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_SORT_KND=ASC&IS_SORT_FLD=&IS_TAG_S1=InD&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2008091915490600546&ON_LYD=on|title=大学校新築移転送乙第777号 資料作成年月日 明治17年3月1日|accessdate=2017-02-02|date=|publisher=[[国立公文書館]]アジア歴史資料センター}}</ref>
[[1890年]](明治23年)に青山(現在の北青山1丁目、[[港区立青山中学校]]が所在)に恒久的な校舎を新築、移転した。<ref name=":8" />陸大は「青山」と通称された。<ref name=":14">{{Harvnb|上法|1973|p=284|pp=|loc=}}</ref>
太平洋戦争(大東亜戦争)末期の[[1945年]](昭和20年)3月には[[山梨県]][[甲府市]]に疎開した<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=245|pp=|loc=}}</ref>。ただし、青山の陸大校舎は戦災で失われずに[[港区立青山中学校]]の校舎に転用され<ref name=":14" />、[[1985年]](昭和60年)に同中学校の新校舎が建設されるまで使用された<ref>{{Cite web|url=http://aoyama-js.minato-tky.ed.jp/policy/|title=港区立青山中学校-学校概要|accessdate=2017-01-29|date=|publisher=[[港区立青山中学校]]公式サイト}}</ref>。
== 概要 ==
陸大は[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]の管轄であり、陸大卒業生(参謀適格者)の人事も参謀本部の総務部庶務課が行った。<ref name=":17">{{Harvnb|藤井|2013|p=|pp=162-164|loc=別枠扱いだった参謀人事}}</ref>期ごとの人数は草創期を除いて50名から60名で推移し<ref name=":4" />、最終期である60期は120名<ref name=":1" />。卒業者は通算で3,007名。<ref name=":2" />陸士同期生のほぼ1割程度が陸大に入校できたとされる。<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=43|loc=}}</ref>
=== 選抜 ===
陸大の受験資格者は、陸軍現役将校のうち、所属長([[連隊長]]など)の推薦を受けた、陸士を経て少尉任官後に隊附(部隊勤務)2年以上の[[中尉]]・[[少尉]]。<ref name=":2">{{Harvnb|秦|2005|pp=774-775|loc=陸海軍用語の解説-陸軍大学校}}</ref>大尉に進級すると受験資格を失った。<ref name=":4">{{Harvnb|山口|2005|p=59|loc=}}</ref>陸士出身者以外で陸大を卒業したのは1名のみ(陸大1期の[[東條英教|東條秀教]])である。<ref name=":5">{{Harvnb|藤井|2015|p=229|loc=}}</ref>修学期間は3年。<ref name=":2" />なお受験資格・修学期間とも変遷がある。<ref name=":2" />
<small>[[陸軍士官学校 (日本)#士官候補生制度採用|士官候補生]]出身ではない、[[陸軍少尉候補者]]出身の陸軍現役将校も、士官候補生出身者と対等に扱われ、陸大の受験資格を有していた。ただし、少尉候補者出身者が陸大入校を果たした例はなかった。<ref>{{Harvnb|藤井|2015|p=229|pp=|loc=}}</ref></small>
<small>1933年(昭和8年)に制度化された特別志願将校{{Refnest|group="注釈"|[[幹部候補生 (日本軍)|幹部候補生]]、[[幹部候補生 (日本軍)#一年志願兵制度による予備役幹部補充|一年志願兵]]出身で在郷中の少尉・中尉が、軍務に就くことを志願すると、特別志願将校に任用された。1933年(昭和8年)にできた制度。<ref name=":22" />}}は「召集された陸軍'''予備役'''将校」の身分であり、陸軍'''現役'''将校に該当しないために陸大の受験資格がなかったが、1939年(昭和14年)の制度改正により、予備役から現役への転役を志願する特別志願将校は、陸軍士官学校丁種学生(約1年)を経て陸軍'''現役'''将校に採用されることが可能になった。<ref name=":22">{{Harvnb|秦|2005|p=759|pp=|loc=陸海軍用語の解説-特別志願将校(陸軍)}}</ref>特別志願将校出身の現役陸軍将校も、陸大の受験資格を有したと思われる。</small>
入校試験は初審(筆記試験)と再審の二段階であった。陸大合格には、3年程度をかけての受験勉強が必要だった。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=218|pp=|loc=}}</ref>初審は受験者の属する司令部の所在地で行われ、再審は陸大で行われた。<ref>{{Harvnb|堀|1996|p=|pp=20-24|loc=意表を突いた陸大入試}}</ref>
[[1921年]](大正10年)に陸大に入校した[[有末精三]](陸大36期恩賜)<ref name=":1" />によると、4月に初審を受験する段階で、人数が入校予定者の10倍程度に絞られている。初審科目は、戦術甲(戦闘原則)、戦術乙(陣中用務)、戦術丙(図上戦術)、築城、兵器、交通、歴史、数学、語学の9科目。入校予定者の2倍の人数に合格が通知されるのが8月である。年末に再審が行われるが、これは人物考査を兼ねている。再審初日に図上戦術の筆記試験が行われ、以降、受験者は一日おきに陸大に出頭し、20日ほどをかけて各科目の口頭試験を受ける(試験官を務める教官は毎日である)。受験者の多くがノイローゼ気味になり、不合格を確信するほどの厳しい試験であったが、50名ほどの陸大専任教官が全力で行う再審は、当時、最も公正な試験であると認められていた。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=289-297|loc=[[有末精三]]氏の見解}}</ref>
[[今村均]](陸大27期首席<ref name=":1" />)が陸大に入校した[[1912年]](明治45年/大正元年)の入校試験の経過は以下の通り。<ref name=":3" />
:今村が属する[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]は、[[1910年]](明治43年)4月から<ref>{{Harvnb|今村|1980|p=|pp=50-54|loc=鴨と朝鮮馬}}</ref>[[1912年]](明治45年)4月まで[[朝鮮]]に駐箚しており、初審は第2師団司令部が所在する[[京城府|京城]]で4月に実施され、7日間を要した。今村は前年も京城で初審を受験しており、所要日数は同じだった。8月、朝鮮駐箚を終えて衛戍地の[[仙台市|仙台]]に戻っていた第2師団司令部に、陸大から「今村は初審に合格したので12月1日に陸大に出頭すべし」と通知された。再審は12月2日から10日間に渡って実施され、受験者は120名であった。1日目から9日目までは、学識を問う通常の口頭試験であり、戦術は5名の陸大教官が、他の課目は2‐3名の陸大教官が試験官を務めた。10日目は「人物考査」という課目であり、陸大幹事(校長に次ぐNo2<ref name=":2" />)の[[鈴木荘六]]少将、先任兵学教官(中佐)の2名が試験官であった。今村に対する試問は、学識を問うものではなく、[[圧迫面接]]のように、答えに窮する問いを意図的にぶつけて反応を試すものであった。12月12日、入校式の直前に、受験者全員120名が陸大の大講堂に集められて、うち60名が合格と告げられ、今村は合格した。<ref name=":3" />
:それから14年後、鈴木荘六が参謀総長、今村が参謀本部部員であった時{{Refnest|group="注釈"|鈴木は1926年(大正15年)3月から1930年(昭和5年)2月まで参謀総長<ref>{{Harvnb|秦|2005|pp=86-87|loc=「鈴木荘六」}}</ref>、今村は1921年(大正10年)8月から1926年(大正15年)8月まで参謀本部部員<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=23|loc=「今村均」}}</ref>。この挿話は大正15年のことであろう。}}、鈴木に随行していた今村が、陸大入校試験のことを尋ねると、鈴木は'''「あれはわしの主張で、あの年初めてやったこと」(出典からそのまま引用)'''であり、多くの者に、今村に行ったのと同内容の”圧迫面接”を行ったと答えた。<ref name=":3">{{Harvnb|今村|1980|p=|pp=77-82|loc=陸軍大学校入校}}</ref>
=== 教育 ===
陸大の教育内容は、[[1913年]](大正2年)の課程を概説すると下記の通り。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=161-164|loc=教育の内容}}</ref>
# 午前と午後に分け、午前は軍事科目、午後は一般教養科目。
# 午前の軍事科目は、主要3科目として、戦術が週3回、戦史が週1-2回、参謀用務が週1-2回。他に兵要地学、交通、兵器、築城、経理、衛生などが講義された。
# 午後の一般教養科目は、語学(陸士での各人の専攻語学により、英語・仏語・独語・露語・中国語に分かれる)が年間150時間程度、馬術が年間140時間程度。他に歴史、数学、統計学、法律、国際法。
# 2年生と3年生は、学年合同での大掛かりな兵棋演習を、年間に20回~30回実施。
# 2年生で、'''海軍'''戦術を23回。
# 3年間を通じて、春と秋の2回、校外での現地戦術がある。1年生と2年生は年間21日間。
# 3年生の現地戦術は、特に「参謀演習旅行」と呼んだ。特に第2回は、教官が故意に困難な状況(問題。貴官が師団長であれば、この場面においてどう判断し、どう部隊を動かすか?)を学生に示し、決心(答え。このように判断し、このように命令する)を求めることを繰り返すもので、参謀演習旅行の2週間ほど、学生は不眠不休となった。知力に加えて体力の限界を試す目的があった。
# 日露戦争や日清戦争の戦跡地を巡る「満鮮旅行」、夏季には、自分の兵科とは異なる兵科での隊付勤務(1.5カ月)。
戦術教育は、参謀演習旅行の項で述べたように、教官が状況を示し、学生が決心を答えるというマンツーマンの教育であった。教官は出題に当たり正解(原案といった)を用意しているが、学生が答えた決心の筋道が通っていれば、原案と異なった結論であっても良しとした。戦史教育では、欧州戦史が主な題材となり、日本戦史・東洋戦史は従であった。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=164-167|loc=戦術、戦史教育}}</ref>
=== 卒業 ===
[[File:Major Akiyama.PNG|thumb|right|陸軍騎兵少佐当時の[[秋山好古]]。胸部に陸軍大学校卒業徽章を佩用]]陸大の卒業席次は、各教官が担当科目について採点した点数を、陸大副官が集計し、陸大を所管している参謀本部の総務部長に直接報告して定められるシステムであり、陸大の校長・幹事らは関与しなかった。<ref name=":12">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=167-168|loc=陸大は人間形成に主眼をおいた}}</ref>陸大の卒業式には必ず[[天皇]]が行幸し、卒業席次上位6名には[[恩賜の軍刀|御賜の軍刀]]が授けられ{{Refnest|group="注釈"|陸大優等卒業者への恩賜品は、6期までは望遠鏡、それ以降は軍刀。<ref name=":1" />}}、<ref name=":0">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=182-193|loc=卒業式}}</ref>、これら6名は「軍刀組」<ref>{{Harvnb|堀|1996|p=42|pp=|loc=}}</ref><ref>{{Harvnb|堀|1996|p=80|loc=}}</ref><ref>{{Harvnb|保阪|2005|p=50|loc=}}</ref>あるいは「恩賜組」<ref>{{Harvnb|藤井|2015|p=|pp=231-234|loc=天保銭組に付けられる序列}}</ref>と呼ばれた。首席卒業者は天皇の前で40分間の御前講演を行った。<ref name=":0" />陸大27期首席として、[[1915年]](大正4年)12月11日の卒業式で、大正天皇に対し御前講演を行った今村均は、講演原稿を全て暗記したという。<ref>{{Harvnb|今村|1980|p=|pp=85-92|loc=大正天皇の御前講演}}</ref>
==== いわゆる「天保銭」 ====
陸大卒業者は、陸軍大学校卒業徽章([[1887年]](明治20年)8月に制定、[[1936年]](昭和11年)5月に廃止・佩用禁止)を右胸に佩用した。この徽章は楕円形の形状が[[天保通宝]]に似ていることから「天保銭」と通称された<ref>{{Harvnb|藤井|2012|p=|pp=180-183|loc=日本になかった共同責任の観念}}</ref>。{{Refnest|group="注釈"|天保通宝は8厘(0.8銭)銅貨として<ref name="tenposen-hodan">{{Harvnb|上法|1973|pp=398-404|loc=天保銭放談}}</ref>1891年(明治24年)12月31日まで通用した<ref>{{Cite web |date= |url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_TAG_S1=InD&IS_KEY_S1=%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E9%80%9A%E5%AE%9D&IS_SORT_KND=DES&IS_SORT_FLD=_unitdate&IS_START=1&DIS_SORT_FLD=_unitdate2&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2015112715535849585&ON_LYD=on |title=旧銅貨天保通宝二十三年法律第十三号ニ依リ引換期限ヲ令ス 資料作成年月日 明治25年1月4日|publisher=[[国立公文書館]]アジア歴史資料センター|accessdate=2017-02-02}}</ref>。天保通宝が1銭に足りない価値しかなかったことから、時流に乗り遅れた人、知恵の足りない人を「天保銭」と揶揄した。<ref name="tenposen-hodan" />陸大卒業徽章が制定された明治20年は、天保銭が未だ現役の貨幣であった時期である。}}
===== 「天保銭」以前 =====
[[上法快男]]『陸軍大学校』によると、[[1885年]](明治18年)12月に陸大1期が卒業するに先立って「陸軍参謀官適任証書所有徽章」(出典ママ)が制定され、小坂千尋に第1号が授与され、第2号以降は陸大1期卒業者に授与されたという。<ref name=":10" /> [[黒野耐]]も同様のことを述べており、この「陸軍参謀官適任証書所有徽章」(出典ママ)が、いわゆる「天保銭」、すなわち陸軍大学校卒業徽章だとする。<ref name=":20">{{Harvnb|黒野|2004|p=|pp=69-70|loc=1期生の顔ぶれ}}</ref>ただし、[[1882年]](明治15年)11月13日付の「陸軍大学校条例」<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?IS_KEY_S1=%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%9D%A1%E4%BE%8B&SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_START=1&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_SORT_KND=ASC&IS_SORT_FLD=&IS_TAG_S1=InD&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2015120113404851602&ON_LYD=on|title=陸軍大学校条例ヲ定ム 資料作成年月日 明治15年11月13日|accessdate=2017-01-28|date=|publisher=[[国立公文書館]]アジア歴史資料センター}}</ref>には「第14条 卒業試験に於て及第する者には参謀職務適任証書を授与し原隊 <small>隊外は原所管</small> に復帰せしむ」と、卒業者全員に参謀職務適任証書を授与する制度が規定されているのみである。また[[1886年]](明治19年)12月2日に陸軍大学校条例が改訂された際の書類には、改訂前の陸軍大学校条例の条文(17年6月陸軍省達と記載)が収録されているが、第14条は明治15年時点の条文と同一であり、<ref name=":13" />明治18年に「陸軍参謀官適任証書所有徽章」を授与する制度が存在した形跡はない。
[[1886年]](明治19年)12月に「陸軍大学校条例」が改訂され、<ref name=":13" />「第13条 卒業試験に於て及第する者には卒業を表章するための徽章を授与し其優等のものには更に参謀職務適任証書を与え原隊 <small>隊外は原所管</small> に復帰せしむ」と規定され、卒業者全員に徽章を授与し、優秀者のみに、加えて参謀職務適任証書を授与する制度に変更された。<ref name=":13">{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?IS_KEY_S1=%E5%8F%82%E8%AC%80%E8%81%B7%E5%8B%99%E9%81%A9%E4%BB%BB%E8%A8%BC%E6%9B%B8+%E5%BE%BD%E7%AB%A0&SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_START=1&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_SORT_KND=ASC&IS_SORT_FLD=&IS_TAG_S1=InD&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2014120210005015531&ON_LYD=on|title=陸軍大学校条例中改正追加ノ件 資料作成年月日 明治19年12月2日~明治19年12月8日|accessdate=2017-01-28|date=|publisher=[[国立公文書館]]アジア歴史資料センター}}</ref><ref name=":11">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=232-234|loc=陸軍大学校条例の制定(明治15年11月)}}</ref>ただし、この徽章は、金色の星型徽章を2個授与され、軍服の詰襟の両側に1個ずつ装着するものであり、いわゆる「天保銭」とは異なっていた。<ref name=":11" />この年の12月28日に卒業した2期(9名)のうち、参謀職務適任証書を授与されたのは5名であった(うち3名は恩賜の望遠鏡を拝受)。<ref name=":1" />
===== 「天保銭」の制定 =====
[[1887年]](明治20年)8月に「陸軍大学校条例」が大幅に改訂され、従来の第13条に該当する条文は第26条となり、「第26条 卒業者には卒業証書及ひ之を表章する徽章を付与す其徽章は定規の服装に於て上衣右乳部の下方に附着せしむ」と規定された。<ref name=":24">{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?IS_KEY_S1=%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%9D%A1%E4%BE%8B&SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_START=11&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_SORT_KND=ASC&IS_SORT_FLD=&IS_TAG_S1=InD&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2015120115460264889&ON_LYD=on|title=陸軍大学校条例ヲ定ム 資料作成年月日 明治20年9月20日~明治20年10月7日|accessdate=2017-01-28|date=|publisher=[[国立公文書館]]アジア歴史資料センター}}</ref>参謀職務適任証書を授与する従来の制度は完全に廃され、陸大卒業者全員に、卒業証書と、銀の菊座に金色金属の星章を配した<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?IS_KEY_S1=%E5%8B%85%E5%91%BD%E7%89%B9%E5%AE%9A%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%90%84%E5%BE%BD%E7%AB%A0%E7%A8%AE%E9%A1%9E%E5%9B%B3%E5%BC%8F%E7%AD%89%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BB%B6&SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_START=2&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_SORT_KND=ASC&IS_SORT_FLD=&IS_TAG_S1=InD&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2006090102451744728&ON_LYD=on|title=勅命特定陸軍各徽章種類図式等に関する件 4枚目 陸軍大学校卒業徽章|accessdate=2017-01-28|date=|publisher=[[国立公文書館]]アジア歴史資料センター}}</ref>「陸軍大学校卒業徽章<ref name="tenposen-haishi">{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?IS_KEY_S1=%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1+%E5%BE%BD%E7%AB%A0&SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_START=5&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_SORT_KND=ASC&IS_SORT_FLD=&IS_TAG_S1=InD&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2006083122373217301&ON_LYD=on|title=陸軍大学校卒業徴章を佩用し得さる件(陸普第二四八一号。陸軍省副官から通牒)|accessdate=2017-01-15|date=|publisher=アジア歴史資料センター}}</ref>」、いわゆる「天保銭」を授与する制度に変更された。<ref name=":25">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=234-236|loc=明治20年の改訂}}</ref>よって、同年12月に卒業した3期(卒業者7名)以降の陸大卒業者には陸軍大学校卒業徽章が授与された。
[[秦郁彦]]は「参謀服務適任証書」(出典ママ)は陸大1期の10名と陸大2期の5名に授与されたのみで明治20年に廃止され、同年に、陸軍大学校卒業徽章(いわゆる「天保銭」)が制定されたと述べている。<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=737|pp=|loc=陸海軍用語の解説-参謀}}</ref>
[[稲田正純]]<small>(陸大37期恩賜。<ref name=":1" />陸大を卒業した後、[[1929年]](昭和4年)から2年間フランス陸軍大学校に留学し、同校を卒業。<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=21|pp=|loc=「稲田正純」}}</ref>)</small>によると、帝国陸軍の陸軍大学校卒業徽章、いわゆる「天保銭」は、フランス軍の陸軍大学校卒業徽章に倣って制定されたものである。稲田はフランス陸軍大学校からも卒業徽章を授与され、日仏の「天保銭」を併せ持つことになったが、当時のフランス陸軍大学校では、外国軍から留学した将校だけに卒業徽章を授与していた。<ref name=":28">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=307-323|loc=[[稲田正純]]氏の陸大私観}}</ref>
===== 「天保銭」の廃止 =====
陸大卒業者は「天保銭組」と呼ばれ<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=59|pp=|loc=}}</ref>、対して陸大を出ない大多数の将校は「無天組」と呼ばれた<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=44|pp=|loc=}}</ref>。
無天組の天保銭組への反発・妬みを考慮し<ref name=":20" />、[[1936年]](昭和11年)5月に陸軍大学校卒業徽章を授与する制度が廃され<ref name=":4" />、既卒者が陸軍大学校卒業徽章を佩用することも禁じられた<ref name="tenposen-haishi" />。よって、同年11月に卒業した48期<ref name=":1" />以降の陸大卒業者には、陸軍大学校卒業徽章は授与されていない。
==== 陸大卒業者のその後 ====
陸大卒業者は、それまでの序列とは関係なく、陸士同期生の最右翼(序列トップ)に置かれた。<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=44|loc=}}</ref>陸士同期生の中で陸大卒業期は6‐7期にわたるが、陸大卒業者の中の序列については、陸大卒業成績の上下が、陸大卒業期の先後に優先した。<ref>{{Harvnb|藤井|2013|p=125|loc=}}</ref>
藤井非三四と石井正紀は、陸軍砲工学校高等科優等卒業者は陸大卒業者と同等に扱われ、さらに東京帝国大学等に員外学生として派遣されて学士号を取得した者は陸大恩賜組と同等に扱われたと述べている。<ref>{{Harvnb|藤井|2015|p=232|pp=|loc=}}</ref><ref>{{Harvnb|石井|2014|p=20|loc=}}</ref>秦郁彦は、陸軍砲工学校高等科優等卒業者は、卒業時に恩賜の軍刀を拝受し、人事上は陸大恩賜組と同等に扱われたと述べている。<ref>{{Harvnb|秦|2005|pp=636-637|loc=陸軍砲工(科学)学校高等科卒業生}}</ref>
陸軍省と参謀本部で人事担当部署に約7年勤務し{{Refnest|group="注釈"|[[額田坦]]は、昭和11年12月—昭和13年7月 陸軍省人事課員、昭和13年7月—昭和15年8月 陸軍省人事局補任課長、昭和17年12月—昭和18年10月 参謀本部総務部長、昭和20年2月-昭和20年11月 陸軍省人事局長。}}、陸軍省人事局長を務めた[[額田坦]]は'''「筆者は従来あまり優秀でもない技術将校(員外学生出身)がすべて天保の優秀者なみに抜擢されているから訂正せよ、との注意を受けたこともあり…」(出典からそのまま引用)'''と述べている。<ref>{{Harvnb|額田|1977|p=27|loc=}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|[[山口宗之]]は、陸軍砲工学校高等科優等卒業者、陸軍から外部に派遣されて学士号または学位を取得した者は陸大卒業者と同等に扱われたと述べ、<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=46|loc=}}</ref>さらに陸軍砲工学校高等科優等卒業者で中将以上に進級した者(27名)、学士号取得者で中将以上に進級した者(49名、ただし、内11名は砲工優等と重複)の進級状況について考察し'''「数字上では砲工優等の経歴が重いようである」(出典からそのまま引用)'''としているが、次いで、同じ陸士11期の勝野正魚中将(砲工優等)と[[岸本綾夫]]大将(工学士)の事例を挙げて'''「砲工優等が学士号に対し必ずしも優位でなかったとも思われ、この点明弁しがたい」(出典からそのまま引用)'''としている。<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=54|loc=}}</ref>}}{{Refnest|group="注釈"|石井正紀は、陸士24期生(明治45年卒業)について調査し、「砲工学校高等科を経て員外学生となった者は多くが中将に至る」「砲兵科・工兵科で、砲工学校高等科を卒業したが、員外学生にならず、かつ陸大に進まなかった者の将官への進級割合は7割程度(ただし中将への進級者は少ない)。将官になったか否かという点では、陸大卒業者と比較してさほど遜色ない」という趣旨を述べている。<ref>{{Harvnb|石井|2014|pp=24-28|loc=}}</ref>}}
天保銭組は陸士卒業が前の期の無天組を次々に追い抜いて進級し<ref>{{Harvnb|藤井|2013|p=|pp=230-235|loc=人事を巡る不満の源}}</ref>、中央三官衙の幕僚を占めた<ref>{{Harvnb|今村|1980|p=|pp=83-85|loc=陸軍大学教育}}</ref>。藤井非三四は、陸大18期(1907年(明治39年)卒業)から陸大25期(1913年(大正2年)卒業)までの、陸大卒業者372人について調査して、大将6%、中将38%、少将34%{{Refnest|group="注釈"|藤井非三四の調査で、陸大卒業者の34%が少将に進級しているが、その半数は、<ref name=":18">{{Harvnb|藤井|2015|p=|pp=238-243|loc=「サビ天」まで天保銭もさまざま}}</ref>少将に進級した直後に予備役編入となる<ref>{{Harvnb|藤井|2013|p=|pp=143-146|loc=さらに過酷な将官レース}}</ref>「名誉少将」であった<ref name=":18" />。}}、計78%が将官となっていることを示し、多くが中佐で予備役に編入される無天組とは、進級速度と最終階級の両面で大差があったと述べている。<ref name=":18" />
しかし、陸大首席が佐官止まり(24期首席:陸軍省軍務局騎兵課長・騎兵大佐で予備役<ref name=":1">{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=545-611|loc=陸軍大学校卒業生}}</ref>、25期首席:[[歩兵第61連隊]]附・歩兵中佐で予備役<ref name=":1" />)という事例もある。<ref>{{Harvnb|藤井|2013|p=126|loc=}}</ref>陸軍人事に陸大卒業成績が反映されるのは、陸大を卒業してから10年間とするという内規があったとされる。陸大を大尉で卒業したとして、大佐進級までは陸大卒業席次が大きく影響するが、そこから先、特に大佐から少将への進級には、上下の評価ならびに本人の実績が影響した。<ref name=":12" />
山口宗之は、帝国陸軍の陸軍大将134名(皇族8名を含む)のうち、陸軍の将校養成制度が確立した陸士1期以降の66名(皇族を含まず)について調査し「1.陸大卒業またはそれに準じる資格を持たない陸軍大将は[[鈴木孝雄]]の1名のみ」「2.陸軍大将に親任されるか否かに、幼年学校と陸士の卒業成績は影響なし」「3. 総合的に見て、陸軍大将に親任されるか否かを、陸大卒業成績が左右したとは認めがたい」という趣旨を述べている。<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=|pp=7-24|loc=「陸軍大将」誕生の条件}}</ref>
額田坦は、少将に進級した段階で、その者が中将に進めるか否かは概ね予想できたのに対し、'''「大将親任の予想は中将進級の際には稀有の人を除き、できなかった」(出典からそのまま引用)'''と述べている。<ref>{{Harvnb|額田|1977|p=222|loc=}}</ref>
=== 皇族枠 ===
一般将校に対して厳しい選抜試験が課せられたのに対し、[[皇族]](皇族に準じる扱いを受けた[[王公族]]を含む)は、無試験、もしくは形式的な入校試験で入校できた。陸大に最初に入校した皇族は[[久邇宮邦彦王]]であり、それ以降に陸軍将校となった皇族は、実質的に全員が陸大に入校・卒業している。<ref>{{Harvnb|浅見|2010|pp=49-53|loc=皇族と入試}}</ref>
既述のように、今村均が陸大27期の選抜について詳細に書き残しているが、採用人数60名の2倍の120人が再審を受験し、入校式の直前に60名が合格、残る60名が不合格を告げられた後、'''「同時御入校の、[[北白川宮成久王]]殿下を迎え、新入生61名に対し、入校式が行われた。」(出典からそのまま引用)'''。<ref name=":3" />それまでの再審に北白川宮成久王が加わっていた様子はない。{{Refnest|group="注釈"|北白川宮成久王の陸大27期の卒業席次は52位(卒業者56名)であった。<ref name=":1" />}}
== 歴代校長 ==
{{columns-list|2|
#(兼)[[児玉源太郎]] 歩兵大佐:1887年10月25日 -
#[[高橋惟則]] 歩兵大佐:1889年11月2日 -
100 ⟶ 175行目:
#[[田中静壱]] 大将:1944年8月3日 -
#[[賀陽宮恒憲王]] 中将:1945年3月9日 - 9月16日
}}
== 主な卒業生 ==
105 ⟶ 181行目:
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Citation |和書 |last=浅見 |first=雅男 |authorlink=浅見雅男 |year=2010 |title=皇族と帝国陸海軍 |publisher=文藝春秋(文春新書)}}
* {{Citation |和書 |last=石井 |first=正紀 |authorlink= |year=2014 |title=陸軍員外学生 |publisher=光人社(光人社NF文庫)}}
* {{Citation |和書 |last=今村 |first=均 |authorlink=今村均 |year=1980 |title=今村均回顧録 |publisher=芙蓉書房出版}}
* {{Citation |和書 |last=上法 |first=快男 編 |authorlink=上法快男 |year=1973 |title=陸軍大学校 |publisher=芙蓉書房出版 |ISBN=}}
* {{Citation |和書 |last=熊谷 |first=直 |authorlink=熊谷光久 |year=2007 |title=帝国陸海軍の基礎知識 |publisher=光人社(光人社NF文庫)}}
* {{Citation |和書 |last=黒野 |first=耐 |authorlink=黒野耐 |year=2004 |title=参謀本部と陸軍大学校 |publisher=講談社(講談社現代新書)}}
* {{Citation |和書 |last=額田 |first=坦 |authorlink=額田坦 |year=1977 |title=陸軍省人事局長の回想 |edition= |publisher=芙蓉書房}}
* {{Citation |和書 |last=秦 |first=郁彦 編著 |authorlink=秦郁彦 |year=2005 |title=日本陸海軍総合事典 |edition=第2 |publisher=東京大学出版会}}
* {{Citation |和書 |last=藤井 |first=非三四 |authorlink= |year=2012 |title=日本軍の敗因 |publisher=学研パブリッシング}}
* {{Citation |和書 |last=藤井 |first=非三四 |authorlink= |year=2013 |title=陸軍人事 |publisher=光人社(光人社NF文庫)}}
* {{Citation |和書 |last=藤井 |first=非三四 |authorlink= |year=2015 |title=昭和の陸軍人事 |publisher=光人社(光人社NF文庫)}}
* {{Citation |和書 |last=保阪 |first=正康 |authorlink=保阪正康 |year=2005 |title=陸軍良識派の研究 |publisher=光人社(光人社NF文庫)}}
* {{Citation |和書 |last=堀 |first=栄三 |authorlink=堀栄三 |year=1996 |title=大本営参謀の情報戦記 |publisher=文藝春秋(文春文庫)}}
* {{Citation |和書 |last=山口 |first=宗之 |authorlink=山口宗之 |year=2005 |title=陸軍と海軍-陸海軍将校史の研究 |edition=増補 |publisher=清文堂}}
== 関連項目 ==
126 ⟶ 214行目:
{{DEFAULTSORT:りくくんたいかつこう}}
[[Category:日本陸軍の教育機関|*]]
[[Category:東京都港区の学校]]
[[Category:東京都港区の歴史]]
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