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| 生年月日 = [[1894年]][[7月25日]]
| 生誕地 = {{AUT1867}}<br />[[File:Flag of Bosnia (1908-1918).svg|25px]] {{仮リンク|共同統治国ボスニア
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1894|7|25|1918|4|28}}
| 死没地 = {{AUT1867}}<br />[[
| 国籍 =
| 民族 = {{仮リンク|ボスニア系セルビア人|bs|Bosanski Srbi}}
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}}
'''ガヴリロ・プリンツィプ'''({{lang-sr|Гаврило Принцип / Gavrilo Princip}}、 [[1894年]][[7月25日]] - [[1918年]][[4月28日]])は、
==
=== 生い立ち ===
[[File:Gavrilo Princip's parents.jpg|thumb|left|240px|父ペータルと母マリア]]
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[[1911年]]、プリンツィプはセルビアの分離独立を目指す革命組織「{{仮リンク|青年ボスニア|en|Young Bosnia}}」に参加{{sfn|Roider|2005|p=936}}し、メンバーたちと秘密裏に会合を重ね、文学・倫理・政治について語り合った{{sfn|Schlesser|2005|p=96}}。[[1912年]]には反[[オーストリア=ハンガリー帝国]]デモを主催したためギムナジウムから退学処分を受けた{{sfn|Kidner|Bucur|Mathisen|McKee|2013|p=756}}。デモを目撃した学生の証言によると、プリンツィプは教室を回り学生たちを[[ナックルダスター]]で脅して強制的にデモに参加させていたという{{sfn|Malcolm|1994|p=154}}。退学後、プリンツィプはサラエボを離れ[[ベオグラード]]に徒歩で向かった。記録によると、プリンツィプはセルビア国境を越えた際に跪いて地面にキスしたという。
ベオグラードに到着したプリンツィプは、[[黒手組]]のメンバーの{{仮リンク|ヴォジスラフ・タンコシッチ|en|Vojislav Tankosić}}少佐にオスマン帝国へのゲリラ運動に参加したいと志願したが、身長が基準に達していないとして拒否された{{sfn|Schlesser|2005|p=97}}。プリンツィプは失意のままサラエボに戻り、弟の家で数カ月間過ごした。その後、プリンツィプは反オスマン組織{{仮リンク|セルビア革命組織|en|Serbian Chetnik Organization}}メンバーの{{仮リンク|ツィカ・ラファエロヴィチ|en|Žika Rafajlović}}と接触し、青年セルビアのメンバー15人と共に[[ヴラニェ]]の訓練所に派遣される。プリンツィプは訓練所で暗殺や爆弾製造の訓練を受けた後、ベオグラードに戻った<ref name=blic>{{cite news|last=Irić|first=Radoman|title=Ovde je Gavrilo Princip učio da puca|url=http://www.blic.rs/Vesti/Reportaza/408974/Ovde-je-Gavrilo-Princip-ucio-da-puca|accessdate=2 October 2013|newspaper=[[
=== サラエボ事件 ===
{{multiple image
| align = right
| image1 = DC-1914-27-d-Sarajevo-cropped.jpg
| width1 = 200
| caption1 = サラエボ事件を描いた新聞の挿絵
| image2 = Franz Ferdinand's Jacket in Blood.jpg
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| caption2 = フランツ・フェルディナントの血染めの軍服
}}
ボスニア・ヘルツェゴヴィナは[[正教会|セルビア正教]]のセルビア人、ムスリムの[[ボシュニャク人]]、[[カトリック教会|カトリック]]の[[クロアチア人]]住居地域が入り混じり、もともと[[オスマン帝国]]領であったが、[[1878年]]の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]の決定に基づくオーストリア=ハンガリー帝国の占領の後、[[1908年]]には正式に併合される。
当時、[[バルカン]]では[[ロシア帝国]]を後ろ盾とする汎スラヴ主義とオーストリア帝国・[[ドイツ帝国]]の支援を受ける汎ゲルマン主義が対立し、ゲルマン民族であるオーストリアの占領下にありながら人口の大半がスラヴ系であるボスニアでは、すでにオスマン帝国から独立していた同じスラヴ系の[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]への併合を求める[[大セルビア]]主義が台頭していた。
[[File:Ochrana-Kaffeehaus in Belgrad.jpg|thumb|240px|プリンツィプが立ち寄ったカフェ]]
[[File:Čabrinović, Ilić, Princip.jpg|thumb|240px|逮捕直後のプリンツィプ]]
[[サラエヴォ]]は{{仮リンク|共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ|en|Austro-Hungarian rule in Bosnia and Herzegovina}}の首府であり、オーストリア帝国から派遣された総督が駐在していた。[[1914年]]6月に同地で[[軍事演習]]が行われることになり、[[オーストリア皇帝]][[フランツ・ヨーゼフ1世]]の後継者で[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]が妃[[ゾフィー・ホテク]]([[チェコ]]貴族出身)とともに視察のためサラエヴォを訪問した。
大セルビア主義を掲げてセルビア軍将校[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ]]により組織された黒手組(ツルナ・ルーカ)は
1914年6月28日午前10時、フランツ・フェルディナント夫妻を乗せた列車がサラエヴォに到着した<ref>{{cite web|last1=Burns|first1=Tracy|title='June 28, 1914: The first attempt'|url=https://www.private-prague-guide.com/article/archduke-franz-ferdinand-of-austria-and-his-assassination-june-28-1914/|website=www.private-prague-guide.com/|quote="On June 28, 1914 Archduke Franz Ferdinand ‘Este and his wife Duchess of Hohenberg arrived in Sarajevo by train shortly before 10 am"|accessdate=27 January 2015}}</ref>。フランツ・フェルディナント夫妻はセルビア駅から自動車に乗り込みサラエヴォに向かった。6台の車列の先頭にはサラエヴォ市長{{仮リンク|フェヒム・チュルツィヒ|en|Fehim Čurčić}}と警察長官エドムント・ゲラーデが乗り込み、夫妻は2列目の車にボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督{{仮リンク|オスカル・ポティオレク|en|Oskar Potiorek}}とフランツ・フォン・ハラッハ中佐と共に乗り込んでいた<ref name=Donnelley33>{{cite book|last1=Donnelley|first1=Paul|title=Assassination!|date=2012|isbn=9781908963031|pages=33|accessdate=27 January 2015}}</ref>。また、市民と触れ合うために車の屋根は折り畳まれていた<ref name=Donnelley33/>。
黒手組のメンバー7人はそれぞれ間隔をあけて街道に待機し、車列が目の前を通過する際に襲撃する算段となっていた。{{仮リンク|ムハメド・メフメドバシッチ|en|Muhamed Mehmedbašić}}が最初に車列と接触するが、彼は行動を起こさずに静観した(後年「背後に警官が立っていたので行動できなかった」と述べている)<ref name=SJ/>。10時15分、中央警察署の前で待機していた{{仮リンク|ネデリュコ・チャブリノヴィッチ|en|Nedeljko Čabrinović}}がフランツ・フェルディナント夫妻の乗った車に爆弾を投げ付けたが、爆発まで10秒のタイムラグが生じ、4台目の車が通過した際に爆発し、4台目の車に乗っていたエリック・フォン・メリッツィとアレクサンデル・フォン・ボース=ヴァルデック伯爵と市民12人が負傷した{{sfn|Dedijer|1966|loc=ch. XIV, footnote 21}}。チャブリノヴィッチは服毒して川に飛び込んだが、毒は不良品で効果がなく、川も水深10センチメートルしかなかったため、すぐに引きずり出され逮捕された<ref>Malmberg, Ilkka: ''Tästä alkaa maailmansota''. "This is the beginning of World War I" 『''[[ヘルシンギン・サノマット]]''』, monthly supplement, June 2014, pp. 60-65.</ref>。爆発音を聞いた車列はスピードを上げて総督官邸に逃げ込み、プリンツィプら残り5人のメンバーは混乱する大勢の群衆に阻まれ暗殺を決行できなかった。
総督官邸に逃げ込んだフランツ・フェルディナントは、爆弾で負傷した市民を見舞うため病院に向かった。ポティオレクは市内中心部を避け迂回するルートを選んだが、運転手の{{仮リンク|レオポルト・ローチャ|en|Leopold Lojka}}にルートの変更を伝えるのを忘れてしまった。そのため、ローチャは道を間違えてフランツ・ヨーゼフ通りに入ってしまい、カフェで食事をしていたプリンツィプと遭遇した。車は方向転換を行うが、プリンツィプは[[FN ブローニングM1910]]を取り出し車に近付き、1.5メートルの距離から発砲した<ref>{{cite book|last=Belfield|first=Richard|title=A Brief History of Hitmen and Assassinations|year=2011|publisher=Constable & Robinson, Ltd.|page=241}}</ref>。プリンツィプは1発目をゾフィーの腹部に、2発目をフランツ・フェルディナントの首に向けて発砲し、車は総督官邸に逃げ込んだが、夫妻は午前11時前に死亡した。
=== 死去 ===
[[File:Proces w Sarajewie s.jpg|right|220px|thumb|1914年12月5日の黒手組の裁判(最前列中央がプリンツィプ)]]
暗殺に成功したプリンツィプは[[青酸]]を飲んで自殺を図るが、チャブリノヴィッチのものと同様に不良品だったため効果がなく拳銃自殺を試みようとするが、発砲前に群衆に取り押さえられた。プリンツィプは裁判にかけられハプスブルク家の法に基づき死刑を求刑されるが、犯行時20歳に達していなかったため死刑を免れ懲役20年の刑を宣告された<ref name="telegraph">{{cite web|url=http://www.telegraph.co.uk/history/world-war-one/inside-first-world-war/part-one/10273752/gavrilo-princip.html |title=The man who started the First World War |publisher=Daily Telegraph |accessdate=7 November 2013}}</ref>。プリンツィプはテレージエンシュタット要塞刑務所(現在のチェコ共和国[[テレジーン]])に収監されるが、[[第一次世界大戦]]末期の劣悪な刑務所環境のため持病の[[結核]]が悪化し<ref name="johnson">{{cite book| title = Introducing Austria: A short history| first = Lonnie | last = Johnson| year = 1989| isbn = 0-929497-03-1| pages = 52–54}}</ref>、サラエボ事件から3年10か月後の1918年4月28日に獄中で病死した。プリンツィプは獄中で結核性脊椎症の悪化のために右腕を切断しており、また、栄養失調も重なり死亡時には体重が40キログラムしかなかった<ref name="telegraph"/>。
死後、遺体は民族主義者の聖地になることを避けるためサンメルコ墓地に秘密裏に埋葬された。しかし、埋葬に立ち会ったチェコ人兵士によって1920年に「セルビア人の永遠の英雄」と書かれた記念碑が墓地に立てられている。
== 遺物・記念碑 ==
[[File:Gavrilo Princip steps and plaque.jpg|thumb|180px|ガヴリロ・プリンツィプの足形(サラエヴォ市内)]]
プリンツィプが使用した拳銃は押収され、フランツ・フェルディナントの血染めの軍服とともに大公の友人アントン・プンティガム司教に引き渡された。拳銃と軍服は長い間教会に保管されていたが、2004年にフランツ・フェルディナント夫妻が乗っていた車とともに[[ウィーン軍事史博物館]]に貸与され、常設展示されている<ref>{{cite news|last=Connolly |first=Kate |url=http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/austria/1465206/Found-the-gun-that-shook-the-world.html |title=Found: the gun that shook the world|newspaper=Daily Telegraph |date=22 June 2004 |accessdate=17 September 2010}}</ref>。また、フランツ・フェルディナントの首に命中した銃弾はチェコの博物館に保管されている。
生家は第一次世界大戦中に破壊されたが、戦後に[[ユーゴスラビア王国]]が再建して博物館として開放された。しかし、1941年にユーゴスラビア王国は[[ナチス・ドイツ]]に占領され、生家はサラエヴォが[[クロアチア独立国]]の一部となった際に再び破壊された。その後、1944年に[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]によって博物館として再建され、これとは別にサラエヴォ市内にもプリンツィプを記念した博物館が建てられた。しかし、1990年代の[[ユーゴスラビア紛争]]の際に再び破壊され、以後は再建されていない。
[[豊田穣]]の著書によると「彼が立っていた位置には、彼の靴の跡が刻まれ、その近くの建物の壁には彼の顔のレリーフが彫ってあり、その建物の中には、プリンシポフ記念館がある」<ref name="pkasne">{{Cite book|和書|author = [[豊田穣]]|year = 1993|title = 豊田穣文学・戦記全集|publisher = 光人社|volume = 14巻|chapter = 初代総理 伊藤博文|isbn = 4769805241}}</ref>と書かれているが、靴の跡は[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]の際に破壊され、現在は記念碑だけがある。なお、この記念館のプレートは[[第二次世界大戦]]中に奪われて[[アドルフ・ヒトラー]]の誕生記念日の贈り物とされた<ref>{{cite web| url=http://www.freedomfight.net/adolf-hitlers-birthday-gift-memorial-to-gavrilo-princip/ | author=Vladimir Bogićević | title=Adolf Hitler’s Birthday Gift – Memorial to Gavrilo Princip | publisher=FreedomFight.net | date=2013-11-02 | accessdate=2014-03-02}}</ref>。この簒奪は、ヒトラーにとっては、第一次世界大戦の敗北とドイツ帝国主義へのセルビア人の抵抗への報復の意味合いがあったという<ref group=注>当時占領下のセルビアではドイツ兵1名の損害につき100名のセルビア人市民を殺害するように指令が出されていた。</ref>。
== 後世の評価 ==
[[File:Bookstore Display for Gavrilo Princip - Assassin of Archduke Ferdinand (1914) - Belgrade - Serbia (15194901854).jpg|thumb|220px|left|プリンツィプ関連の書籍が並ぶベオグラードの書店]]
セルビアに於いては民族主義がしばしば台頭するが、事件の結果が[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]の滅亡につながったため、必ずしも肯定的な評価とはなっておらず、プリンツィプの評価は賛否が分かれる。ボスニア・ヘルツェゴビナでも、プリンツィプをテロリストと見なす意見と、英雄と見なす意見の両方が存在する。
2014年4月21日に[[エミール・クストリッツァ]]と{{仮リンク|マティヤ・ベチコヴィッチ|en|Matija Bećković}}がプリンツィプの銅像を建てることを発表した<ref>{{cite news|title=''DA SE NE ZABORAVI: Meštani Tovariševa sami podigli spomenik Principu!''|trans-title=NOT FORGETTING: villagers themselves erected a monument to Princip! |newspaper=Telegraf |url=http://www.telegraf.rs/vesti/1039860-se-ne-zaboravi-mestani-tovariseva-sami-podigli-spomenik-principu}}</ref>。サラエボ事件から100周年を迎える6月27日に除幕式が行われ、会場では拍手が巻き起こり、プリンツィプのTシャツを着た見物人などが銅像を一目見ようと集まった<ref>{{Cite news |title=テロリストか英雄か サラエボ事件100年で暗殺者の銅像 |newspaper=CNN co jp |date=2014-06-30 |author= |url=http://www.cnn.co.jp/world/35050136.html |accessdate=2014-07-14}}</ref><ref>{{Cite news |title=「サラエボ事件」あす100年 セルビア、オーストリア 歴史認識で対立 |newspaper=東京新聞 |date=2014-06-27 |author= |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014062702000126.html |accessdate=2014-07-14}}</ref>。
2015年6月28日には[[ベオグラード]]にプリンツィプの像が建てられた。この像は[[スルプスカ共和国]]大統領{{仮リンク|ミロラド・ドディク|en|Milorad Dodik}}からセルビア大統領[[トミスラヴ・ニコリッチ]]に贈呈されたものだった<ref name=B92-1009490>{{cite news|title=''Ne dozvoljavam vređanje poklanih Srba'' |trans-title=I do not allow insults to slaughtered Serbs|newspaper=B92|date=2015-06-28|url=http://www.b92.net/info/vesti/index.php?yyyy=2015&mm=06&dd=28&nav_category=11&nav_id=1009490}}</ref>。ニコリッチは像を贈呈された際に「プリンツィプは英雄であり、ヨーロッパにまたがる暴君・殺人者による奴隷支配からの解放の象徴である」と声明を発表している<ref name=B92-1009490/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|last=Fabijančić|first=Tony|year=2010|title= Bosnia: In the Footsteps of Gavrilo Princip|publisher=University of Alberta|location=Edmonton|isbn=9780888645197|ref=harv}}
* {{cite book|last=Fromkin|first=David|year=2007|title=Europe's Last Summer: Who Started the Great War in 1914?|publisher= Random House|location=New York|isbn=9780307425782|ref= harv}}
*{{cite book|last1=Kidner|first1=Frank|last2=Bucur|first2=Maria|last3=Mathisen|first3=Ralph|last4=McKee|first4=Sally|last5=Weeks|first5=Theodore|year=2013|title=Making Europe:The Story of the West Since 1550|volume=2|edition=2|publisher=Wadsworth Cengage|location=[[Boston]]|isbn=9781111841348|ref=harv}}
*{{cite book|last=Malcolm|first=Noel|year=1994|title=Bosnia:A Short History
|publisher=New York University Press|location=New York|isbn=9780814755204|ref=harv}}
*{{cite book|last=Roider|first=Karl|editor1-last=Tucker|editor1-first=Spencer C.|editor2-last=Roberts|editor2-first=PriscillaMary|year=2005|title=The Encyclopedia of World War I:A Political, Social, and Military History|chapter=Princip, Gavrilo (1894–1918)|publisher=ABC-CLIO|location=Santa Barbara, California|isbn=9781851094202|ref=harv}}
*{{citebook|last=Schlesser|first=Steven|year=2005|title=The Soldier, the Builder & the Diplomat|publisher=Cune Press|location=Seattle|isbn=9781885942074|ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Gavrilo Princip}}
*[[サラエボ事件]]
*[[黒手組]]
*[[大セルビア]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふりんついふ かうりろ}}
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