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冒頭部の修整。ほか
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|remains = 石垣、堀、井戸
|cultural asset = 国の史跡
|rebuilding things =
|location = {{coord|35|30|36|N|134|14|28|E|region:JP-31_scale:20000}}
}}
 
'''鳥取城'''(とっとりじょう)は、[[鳥取県]][[鳥取市]](旧・[[因幡国]][[邑美郡]])にある築かれた[[戦国時代 (日本の城)|戦国時代]]から[[江戸時代]]の[[日本の|山城跡]])である。国の[[史跡]]に指定<ref name="史跡鳥取城">{{国指定文化財等データベース|401|2130|鳥取城跡 附太閤ヶ平}}</ref>されている。別名、久松山城。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を伺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ<ref name=":0">細田隆博「烏取城」、学習研究社編『【決定版】図説 厳選 日本名城探訪ガイド』学習研究社、2009年、ISBN 978-4-05-605328-9 </ref>。[[織田信長]]の[[中国攻め]]では、家臣の[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[攻城戦#兵糧攻め|兵糧攻め]]を用いて攻略した。開城後、入城した[[宮部継潤]]によって山上ノ丸の改修が行われ、[[江戸時代]]には[[鳥取藩]][[池田氏]]の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された<ref name=":0" />。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残る。[[ファイル:Tottori castle08 1920.jpg|thumb|250px|城址から望む市街]]
 
久松山城ともいわれ、中世城郭として成立、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[織田信長]]の家臣であった[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]と毛利軍との戦いの舞台([[中国攻め]]・鳥取城の[[攻城戦#兵糧攻め|兵糧攻め]])となる。[[江戸時代]]には[[鳥取藩]][[池田氏]]の治下に入り近世城郭に整備された。現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残すのみとなっている。
[[ファイル:Tottori castle08 1920.jpg|thumb|250px|城址から望む市街]]
 
== 歴史・沿革 ==
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戦国時代中頃の[[天文 (元号)|天文]]年間に[[因幡]]の[[守護]]である[[山名誠通]]が[[久松山]]の自然地形を利用した[[山城]]として築城したとされてきたが、近年の研究では誠通の因幡[[山名氏]]と対立する但馬山名氏([[山名祐豊]])の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、[[元亀]]年間の[[武田高信]]からである。高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ[[永禄]]年間には鳥取城を拠点とした。[[湯所口の戦い]]以降、守護家に対して優勢になった高信は[[天神山城 (因幡国)|天神山城]]を攻撃し、因幡守護の[[山名豊数]]を[[鹿野城]]に逃亡させ名目上の守護・[[山名豊弘]]を擁立し下剋上を果たした。高信はその後も豊数の弟で主筋である[[山名豊国]]としばしば対立し、[[安芸国|安芸]]の[[毛利氏]]と誼を通じるようになる。
 
[[1573年]]([[天正]]元年)、高信を討つために[[山中幸盛]]ら[[尼子氏|尼子残党]]と結んだ豊国の攻撃を受け、劣勢の高信は和議を結び城を明け渡すが([[尼子再興軍による鳥取城の戦い]])、まもなく豊国の手によって謀殺された。因幡山名氏の本拠も鳥取城に移されるが、同年に後巻に進出した[[吉川元春]]に攻められ豊国は降伏、[[市場城]]主・[[毛利豊元]]が城主となった。しかし、[[1574年]](天正2年)再度尼子氏残党に攻められて降伏する
 
因幡山名氏の本拠も鳥取城に移されるが、同年に後巻に進出した[[吉川元春]]に攻められ豊国は降伏、[[市場城]]主・[[毛利豊元]]が城主となった。
しかし、[[1574年]](天正2年)再度尼子氏残党に攻められて降伏する。
[[1575年]](天正3年)[[芸但和睦]]で毛利氏の力が鳥取に直接及ぶようになると、その手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き豊国が城主に落ち着く。
 
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[[1580年]](天正8年)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の[[籠城]]戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担している)の末、9月に豊国は和議により信長へ降伏、臣従した。
 
ところが、同月毛利氏の来訪で再度の降伏、鳥取城は[[牛尾春重]]が城将として入った。この時点で豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。春重は織田方の[[桐山城]]を攻めたとき深手を負い帰還(近年の研究では、帰還後も生存していたことが明らかになっている)、何人かの城将の入れ替えの末、[[1581年]](天正9年)3月毛利氏の重臣である[[吉川経家]]を城主に迎えた。
 
この時点で豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。
同年4月、因幡守護・豊国は織田氏へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。残存する山名氏旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた秀吉は2度目の鳥取城攻撃をすることとなる。
春重は織田方の[[桐山城]]を攻めたとき深手を負い帰還(近年の研究では、帰還後も生存していたことが明らかになっている)、何人かの城将の入れ替えの末、[[1581年]](天正9年)3月毛利氏の重臣である[[吉川経家]]を城主に迎えた。
 
同年4月、因幡守護・豊国は織田氏へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。
残存する山名氏旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた秀吉は二度目の鳥取城攻撃をすることとなる。
秀吉は[[播磨国|播磨]]・[[三木城]]攻め([[三木合戦]])で行った[[兵糧攻め]]をここでも実施した。
 
『[[陰徳太平記]]』によると、秀吉は[[若狭国|若狭]]から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000以上を城に追いやった。さらに河川や海からの毛利勢の[[兵糧]]搬入も阻止した。
『[[陰徳太平記]]』によると、秀吉は[[若狭国|若狭]]から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000以上を城に追いやった。さらに河川や海からの毛利勢の[[兵糧]]搬入も阻止した。このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れた。『[[信長公記]]』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されている。城主の経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城した。
このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。
何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れた。
『[[信長公記]]』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されている。
城主の経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城した。
 
==== 安土桃山時代 ====
経家や山名氏旧臣に代わり、[[浅井氏]]旧臣で、秀吉の与力となっていた[[宮部継潤]]が城代として鳥取城に入り、織田勢の山陰攻略の拠点とした。継潤は[[豊臣政権]]に代わった[[1585年]](天正13年)の[[九州征伐]]で功績を挙げ、正式に因幡・[[但馬国|但馬]]のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となった。その後も継潤は、九州平定後五奉行として連署するなど(宮部法印 前田玄以 富田知信 増下長盛 石田三成)秀吉の与力として重要な役割を果たし、隠居後は御伽衆として秀吉のそばに仕えた。
継潤は[[豊臣政権]]に代わった[[1585年]](天正13年)の[[九州征伐]]で功績を挙げ、正式に因幡・[[但馬国|但馬]]のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となった。
その後も継潤は、九州平定後五奉行として連署するなど(宮部法印 前田玄以 富田知信 増下長盛 石田三成)秀吉の与力として重要な役割を果たし、隠居後は御伽衆として秀吉のそばに仕えた。
 
==== 関ヶ原の戦い ====
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==== 江戸時代 ====
関ヶ原の戦いの功により[[近江国|近江]][[甲賀郡]]水口から'''[[池田長吉]]'''([[池田氏]])が6万石で入り、池田氏によって近世城郭に改修された。
 
[[1617年]]([[元和 (日本)|元和]]3年)、さらに'''[[池田光政]]'''が因幡 伯耆32万5,000石の大封で入府、鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張された。光政によって城下町の整備も行われたという。
[[1617年]]([[元和 (日本)|元和]]3年)、さらに'''[[池田光政]]'''が因幡・伯耆32万5,000石の大封で入府、鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張された。光政によって城下町の整備も行われたという。その後ふたたび、[[備前国|備前]][[岡山藩]]に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領の交換が行われて'''[[池田光仲]]'''が入封、そのまま12代続いて[[明治維新]]を迎えた。
 
分かっているだけで、山中幸盛に2度、吉川元春に2度、豊臣秀吉に2度、と合計6度の降伏や力攻めによる落城があった。
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=== 近現代 ===
[[ファイル:Tottori castle05 1920.jpg|thumb|250px|復元城門]]
城は、[[1873年]]([[明治]]6年)に公布された[[廃城令]]によって存城とされ、[[陸軍省]]の所管となり[[第4軍管]]に属した<ref name="平井">平井聖監修『城 6 中国』毎日新聞社 1996年</ref>。[[1876年]](明治9年)鳥取県が[[島根県]]に編入されると、県庁所在地([[松江市]])以外に城は必要なしとの観点より<ref>仁風閣ボランティアガイドの説明による</ref>、陸軍省によってすべての建造物は払い下げられ、[[1877年]](明治10年)より[[1879年]](明治12年)にかけて中仕切門と扇御殿化粧の間を残して破却された<ref name="平井"/>。最後に取り壊されたのは、鳥取城を象徴する建物となっていた二の丸の[[御三階櫓]]だったという。唯一現存していた中仕切門も1975年(昭和50年)の台風によって倒壊したが同年に再建された<ref name="平井" />。現在は天守台、[[石垣]]が残っており、国の[[史跡]]に指定<ref name="史跡鳥取城" />されている。
 
[[1993年]]([[平成]]5年)、鳥取城正面入口に吉川経家の銅像が建立された。[[2006年]](平成18年)4月6日、[[日本100名城]](63番)に選定された。
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== 構造 ==
[[ファイル:Tottori Castle air.jpg|thumb|250px|鳥取城の航空写真(1974年撮影・国土航空写真)]]
標高263メートルの[[久松山]]頂の山上の丸を中心とした山城部、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸などからなる平山城部からなる梯郭式の城郭とすることができる。さらに西坂・中坂・東坂などの尾根筋には戦国期の遺構が数多く残されており、戦国時代から近世、さらに幕末までの築城技術が一つの城地に残る城として貴重である。
 
藩政期の鳥取城の建造物については、数多くの古絵図が残されているほか、江戸後期の鳥取藩士[[岡嶋正義]]の『[[鳥府志]]』に詳しく記述されている。
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:天守台は南北10間5尺×東西10間2尺のほぼ正方形で、城内で最大の櫓台である。2層天守の櫓台としては非常に大規模なものであり、現存天守では[[犬山城]]天守とほぼ同じ大きさである。天守台の石垣を見ると、北側に向けて築き足した箇所が明瞭に確認でき、3層天守を2層に改築した際に石垣を拡張したことが、遺構からも確認できる。
:天守台中央部には深さ8尺の穴蔵がある。{{独自研究範囲|本丸平地部分から穴蔵内部へ入るための進入口または石段等の痕跡がないため、この穴蔵には天守1階から梯子段などを用いて入っていたものと考えられる。|date=2014年8月}}
:古絵図等によれば[[こけら葺|杮葺]]または板葺の屋根、[[下見板張り]]の外装という寒気に配慮した造りで、最上階屋根以外に破風のない<!--展望を極度に重視した-->外観であったと考えられている。また天守南東部に突き出した5間×3間・3間×3間の2段の石塁に着目し、鳥取城天守は付櫓が付随していた複合天守という意見がある。天守台には天守に入るための石段の痕跡がないため、付櫓を経由して天守内部に入っていたという推論も、ある程度裏付けられる。ただ『鳥府志』や鳥取池田家文書などの諸記録には付櫓のことは記されておらず、鳥取城を描いた古絵図にも付櫓が描かれていない。[[寛文]]から[[貞享]]年間に描かれたとみられる鳥取城絵図には、2層の天守櫓や山上の丸の建物群は描かれているが、付櫓が付随していたとされる天守南東部には石塁のみが描かれ、建物は描かれていない<ref>鳥取県立博物館編集『鳥取県立博物館所蔵 鳥取城絵図集』鳥取県立博物館 1998年</ref>。その一方で『鳥府志』には、天守北東に建っていた御旗櫓という櫓についての記述がある。<!--この御旗櫓が付櫓だったと見なすこともできるが、旗櫓らしき建物も絵図には描かれていない。いずれにせよ、鳥取城天守が[[複合天守]]であったかどうかは慎重な検討が必要である。-->
:鳥取城天守は[[1692年]]([[元禄]]5年)に落雷で焼失し、以後再建されなかった。天守台の石垣も、江戸時代後期になって北側が幅7間にわたって孕み出しが生じ、巻石垣で補強するなどの措置がとられたようである(鳥取県立博物館所蔵『御天守御台石垣損シノ処御絵図面』 作者および作成年代不明だが江戸時代後期の作か)。
:太平洋戦争中には、天守台上に防空監視所が設けられた。[[1943年]]の[[鳥取大震災]]によって天守台北側の石垣が崩れ、現在も修理されないまま石垣が崩落している。