「ベルリンの壁崩壊」の版間の差分

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澤文雄 (会話 | 投稿記録)
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これまでの人生でこんな馬鹿な話は聞いたことがない。」と言い、「少し待て。何もしないで待て。」との返事であった。電話を終えて外へ検問所の前に行くと、50~100人に増えていた。まだ午後7時30分を回った時点であり、まだ7カ所の国境検問所付近を合わせても数百人単位であった<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 189-192P参照</ref>。
 
フリードリッヒ通りの通称[[チェックポイント・チャーリー]]の東側に勤務するギュンター・モル<ref group="注">ギュンター・メルと表記する資料もある。</ref>司令官<ref group="注">チェックポイント・チャーリーで最終的に彼が国境の開放を決断することになるが、彼はパスポート審査官ではなく、警備隊の指揮を取っていたと思われる。またモルはイエーガーと違ってシュタージには在籍しておらず、チェックポイント・チャーリー内ではシュタージでもあったイエーガーとはまた別の立場であった。</ref>は、夕方に勤務を終えて自宅に戻り、夕食を食べながらテレビでシャボフスキーの発表を聞いたが、冷静に考えて然るべき手順を踏んで法的に解決した後に翌日か翌々日に指示があると思った。そして特に急ぐ必要はないと考えた<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 188P参照</ref>。7時30分に検問所からすぐ西側の喫茶店のウエートレスと男性1人が境界線を越えて警備兵に「一緒に飲もう」と誘い、断ったので西へ戻ったと報告があった。彼はまだ深刻な状況とは思われなかったのである<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 197-198P参照</ref>。一方、[[チェックポイント・チャーリー]]の西側の警備責任者のアメリカ軍バーニー・ゴデック少佐は、この年7月に赴任したばかりであったが、今日の勤務を終えて、ダーレム地区にある自宅に戻って妻と子供たちと夕食中に部下から電話を受けて、地元のメディアが検問所に集まってきている、東側が国境を開くらしいとの連絡を受け、上司の政治・軍事担当顧問官のジョン・グレートハウス大佐と共に検問所に向かった<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 192-193P参照</ref>。

イギリス軍憲兵隊のクリス・トフト軍曹(36歳)は、この時[[チェオリンピックポイント・チャーリー]]スタジアムの英軍兵舎の中央管制室にいたが、7時42分に上司のワトソン大佐から電話があり、BBCワールドサービスが東側が国境を開くと報道しているとの連絡であった。急ぎ通訳を使って東ベルリンの警察に問い合わせると知らないという返事だったが、なぜか市当局に問い合わせると「夜半に開かれる」との返事であった。トフトは西ベルリン駐在のイギリス憲兵隊全部隊に東ドイツ人の西ドイツへの渡航が解除された旨通達した。そしてこの時にデスクの上で記録用紙として使っていた罫紙にこう記した。『1942(午後7時42分)ワトソン大佐から電話あり。BBCの報道で東ドイツ人の西への渡航制限が解除されるとのこと。全部隊に通達。』<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 199-200P参照</ref>。
====午後8時 ====
ボルンホルム通りの検問所の外には午後8時には数百人に膨れ上がっていった。この時に東側の多くの市民が視る西ドイツのテレビ局ARDのニュースで、国境が開かれると報じたと伝えられた<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 201P参照</ref>。イエーガーは再び上官に電話した。上官は新しい指示が無いので群衆を帰らせた方がいいとの返事であった。西側のテレビ局でこの時サッカーの試合を中継をしていた局があったが、この中継にニュース速報が入った。「壁が開き、数千人が検問所を目指して行進している。」との報道であった。東でも西でも、それぞれの所でそれぞれの人々が様々な思いを持って動き始めていった。
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こうして、ついに東西ベルリンの国境は開放され、ベルリンの壁はその意味においてここで崩壊した。
 
オリンピックスタジアムの英軍兵舎の中央管制室にいるイギリス軍憲兵隊のクリス・トフト軍曹は、パトロール中のジープから聞こえてくる興奮した様子に、彼自信も興奮を感じていた。罫紙にこう記した。『2325(午後11時25分)、検問所の東側に大集団が、西側も集団が形成されつつある。』<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 232P参照</ref>。
 
11時35分にハインリッヒ・ハイネ通りの検問所が開放され<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 232P</ref>、11時40分にオーバーバウムとショセー通りの検問所が開放され<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 234P</ref>、そしてほぼ12時の日付が変わる頃に[[チェックポイント・チャーリー]]でも、ギュンター・モル司令官が同じ決断を下し、監視塔から窓口のパスポート審査官のところへ行き、シュタージの最も地位の高い将校に「私は境界を開放するつもりです。」と伝えた。パスポート審査官は「分かりました」とそれだけ言った。モルは歩行者用ゲートまで行き、「開けろ。」と命じた<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 235-236P参照</ref><ref group="注">ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』ではモル司令官が「独断」でゲートを開かせたと述べているが、正確には「独自の判断」と表現しており、勝手に動かした訳ではない。しかもこの時点はボルンホルム通りのイエーガーの決断から1時間も過ぎており、他の検問所もすでに開き、しかもチェックポイント・チャーリー内のパスポート審査官(シュタージ)の同意を得ており、独断とは言えない。なおマイケル・マイヤー著「1989 世界を変えた年」ではこのチェックポイント・チャーリーの国境開放は11時17分としている。</ref>。アメリカ軍のゴデック大佐は西側から注視しながら東側の道路から群衆が近づき、検問所の東側ゲートを通過し税関エリアに入ったことをこの時に確認した<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 237P参照</ref>。
 
イギリス軍憲兵隊のクリス・トフト軍曹は無線機から聞こえてくる音声でこう記した。『2359(午後11時59分)検問所で東ドイツ人が小集団を形成。東ドイツ国境警備兵が約20人いる。』<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 236P参照</ref>。
 
11月10日になって2分過ぎた頃に東側の警察が全検問所の開放を発表した<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 245P参照</ref>。そして全ての国境警備隊員1万2000名に撤収命令が下された<ref>ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P514</ref> 。この夜はドイツ史上最大のお祭り騒ぎとなった<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 245P参照</ref>。
午前0時15分、東ドイツの青年グループが西側の人々と合流してブランデンブルク門の前の壁に上って一緒に踊った。これより先に西ベルリン市民数十人が上り東側警備兵をからかい始めていた。
 
イギリス軍のクリス・トフト軍曹は、無線機から音声が流れて、彼はこう記した。『0028(午前0時28分)、東ドイツ人が西側に越境しつつある。』<ref>クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 247P参照</ref>。
=== 政府関係者の動き===
社会主義統一党のクレンツ書記長は党本部の執務室にいた。ここで市内7カ所ある国境検問所すべてが群衆に囲まれているという報告を受けた。クレンツはこの群衆を押しとどめるのはもはや無理であると感じていた<ref>ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P512-513</ref>。
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西ベルリン市長のヴァルター・モンターは、国境開放後にインヴァリーデン通りに立ち、感激にむせぶ多数の市民にマイクで挨拶し、市長自身も興奮して「我々は今、世界で一番幸せな民族だ」と叫んだ<ref>『ベルリンの壁崩壊 フォトドキュメント』5P及び 49P参照</ref>。
 
西ドイツの首都ボンでは、この夜はドイツ連邦議会が結社振興法に関する定例審議の最中であった<ref>エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」210P</ref>。午後8時20分に議員にこのニュースが伝わると審議は中断された。ザイター首相府長官は急ぎワルシャワを訪問中のコール首相に電話を入れた。8時46分に本会議が再開されて、首相府・社会民主党・キリスト教民主(社会)同盟・緑の党・自由民主党の各党が次々と演壇に立って発言し、特に最後の自由民主党のミシュニック議員団長は「今日という日は大きな希望の日であり、東ドイツの人々にとっては喜びの日である。」と語った。そしてミシュニック発言が終わるとキリスト教民主(社会)同盟の何人かの議員が突然立ち上がり、「ドイツの祖国に統一、権利、自由を」という[[ドイツの歌|ドイツ国歌]]の三番を歌い始め、やがて他の会派の議員も歌い始めた。議事録には「出席者は立ち上がり、国家を歌う」とあった<ref>H・A・ヴィンクラー著「自由と統一の長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史1933-1990年~」489-490P参照</ref>。突然の信じられない一報に泡を食った議員たちは思いおもいの音程で唄った<ref>エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」210P</ref>。<ref group="注">この西ドイツの国会で自然発生的に国歌が歌われたことについて、11月9日夜ではなく、翌日の11月10日とする説もある。川口マーン恵美 著「ベルリン物語」では11月10日の午前中の出来事で、歌われた国歌は『すべての上に君臨するドイツ』で始まる一番であった。川口マーン恵美 著「ベルリン物語」249P参照</ref>
 
ソ連のゴルバチョフ書記長は、翌日の朝まで何も知らされていなかった。在ベルリンソ連大使のコチェマソフにも、この夜の記者発表の内容は事前に知らされていない。コチェマソフ大使は記者会見の内容を知ってから急ぎゴルバチョフとシェワルナゼ外相に電話をかけたが二人とも忙しいとの返事であったという。つい1週間前にクレンツがモスクワに訪問しており、その際のゴルバチョフとの会談でこの問題を討議したか、或いは直通回線で話し合ったのだと大使は理解して、ベルリンでの事態の推移をテレビでただ眺めていただけで誰もモスクワに伝えていなかった。10日午前5時(モスクワ時間7時)に本省の当局者から「そっちの壁で何が起きたんだ」との電話で初めて伝えた。ゴルバチョフは、このニュースを初めて知らされた時、驚くほど落ち着いていた、と側近は語っている。<ref>ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」515-517P</ref>
 
壁が建設された1961年当時の西ベルリン市長で、後に西ドイツ首相となり、在任中に東方外交を展開して東西の緊張緩和に貢献したヴイリー・ブラントは、この時は西ベルリンには住まずウンケル市に在住でこの年に76歳となった。そしてこの日に新築の家に引っ越し、疲労困憊の体で早めに床に就いた。翌日の早朝に電話で事態を知り、急ぎイギリスの軍用機に乗って西ベルリンに向かった<ref>グレゴーア・ショルゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』249-250P参照 三元社 2015年</ref>
===東ドイツの女性物理学者===
この当時東ドイツに住み、東ベルリンの学術アカデミーに勤務する女性物理学者がいた。当時35歳であった。夕方のテレビニュースで出国のビザ規制が大幅に緩和されることを知ったが、母親に電話しただけで夜にサウナに出かけた。そしてサウナから戻って来て、大騒ぎになっていることに気づき、友人とともにボルンホルム通りの検問所に行った。国境ゲートが開いた後に歓呼の中で西へ雪崩込む人波とともに西ベルリンに初めて足を踏み入れた。ようやく西に入った彼女はハンブルクに住む叔母に公衆電話から電話しようと思った。しかし公衆電話が見つからず諦めたが、知らない西ベルリンの人の一家に会い、その人の居間から叔母に電話を掛けさせてもらった。その後、集まっていた一団で西ベルリンの繁華街クーダムに行こうということになったが、彼女は断り、東へ戻った。後に「ここまでやって来たことだけで私にとっては大変なことでした。」と回想している<ref>川口マーン恵美「ベルリン物語」241P 246-247P</ref>。ライプツイッヒ大学で理論物理学を専攻し、博士号を取って、1978年に東ドイツ学術アカデミーに就職したごく普通の一般人であった彼女は、このベルリンの壁の崩壊で劇的に人生が変わった。この女性こそ、これより16年後にドイツ連邦共和国第8代首相となる[[アンゲラ・メルケル]]である。