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[[ファイル:USS Lexington Impact site..jpg|thumb|right|300px|[[アメリカ合衆国]][[コーパスクリスティ (テキサス州)|コーパスクリスティ]]の空母[[レキシントン (CV-16)|レキシントン]]博物館。レキシントンが1944年11月5日に受けた特攻の説明([[旭日旗]]の箇所に特攻機が命中。)]]
 
'''特別攻撃隊'''(とくべつこうげきたい)は、生還の見込みが通常よりも低い決死の攻撃、もしくは[[戦死]]を前提とする必死の攻撃を行う攻撃隊である。略称は'''特攻隊'''(とっこうたい)。攻撃自体を指す'''特別攻撃'''(とくべつこうげき)とその略称の'''特攻'''(とっこう)も合わせて紹介する。
 
語源は[[太平洋戦争]]の緒戦に[[大日本帝国海軍|日本海軍]]によって編成された特殊潜航艇「[[甲標的]]」の部隊に命名された「特別攻撃隊」の造語からである<ref name="寺田近雄p117">{{Harvnb|寺田近雄|2011p2011|p=117}}</ref>。同戦争の末期には、[[爆弾]]や[[火薬|爆薬]]等を搭載した[[軍用機]]、[[高速艇]]、[[潜水艇]]等の各種[[兵器]]、もしくは専用の[[特攻兵器]]を使用して体当たりし自爆するといった戦死を前提(後者)とするものが中心となった。海外の例では、[[第二次世界大戦]]末期の[[ドイツ空軍 (国防軍)|独空軍]]における[[ゾンダーコマンド・エルベ]]がある。
 
転じて、軍事戦術以外でも「'''特攻'''」が戦略や事後の影響を度外視した捨て身による体当たり・自爆攻撃という意味で使われることもある。日本国外においても「''Tokko''」(トッコウ)、「''Kamikaze''」(カミカゼ)として通じている。
 
== 歴史 ==
=== 日本陸軍戦死前提以前 ===
==== 戦死前提以前(陸日本海 ====
===== 決死の特攻 =====
日露戦争の[[旅順港閉塞作戦|旅順閉塞隊]]<ref>{{Citation |和書|author=小笠原淳隆|editor=|year=1942|month=12|title=轟沈|chapter=三十七年前の特別攻撃隊|publisher=東水社|url={{NDLDC|1460404/57}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ref=轟沈}}</ref>や、[[第一次世界大戦]]の[[青島の戦い]]で、会前岬(灰泉角)砲台に設置された24cmや15cmの[[ドイツ軍]][[要塞砲]]に対して、[[モーリス・ファルマン]][[水上機]]により飛行将校の[[山本順平]]中尉が体当たりを志願するなど(実現せず)<ref name="冨永安延p29">{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=29}}</ref>、特攻的決死戦法思想は古くからあったが、最高指揮官は攻撃後の生還収容方策手段を講じられる時のみ計画、命令したものであり、1944年10月以降に行われた特攻作戦とは本質的に異なる<ref>{{Harvnb|戦史叢書88|1975|p=124}}</ref>。
 
[[1934年]](昭和9年)、[[第二次ロンドン海軍軍縮会議]]の予備交渉において日本側代表の一人[[山本五十六]]少将(太平洋戦争時の連合艦隊司令長官)は新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語った<ref>{{Citation |和書|author=米内光政|editor=|year=1943|month=12|title=常在戦場|chapter=周到なる準備|publisher=大新社|url={{NDLDC|1058250/35}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ref=常在戦場}}コマ36-37(原本59-60頁)『一日元帥と會食した時、飛行機の體當り戰術なるものを私は初めて聞いた。"君は僕を{{読み仮名|亂暴|らんぼう}}な男と思ふだらう。然し考へて見給へ、艦長は艦と運命を共にする、飛行機の操縦士が機と運命を共にするのは{{読み仮名|當然|とうぜん}}ぢやないか、飛行機は軍艦に比べて小さいが、操縦士と艦長とは全く同じだ、僕は今度日本に歸つたら、もう一度是非航空をやる。さうして僕が海軍にゐる以上は、飛行機の{{読み仮名|體當り|たいあたり}}戰術は誰が何と云つても止めないよ、君見てゐ給へ"と云はれた。眞珠灣攻撃の第一報を見た時も、私は今更のやうに元帥の姿をはつきり目の前に見た』</ref>。
 
1941年(昭和16年)12月の[[真珠湾攻撃]]で出撃した[[甲標的]]の部隊が「特別攻撃隊」と命名され、後日広く報道された<ref>{{Citation |和書|author=山田国男|editor=|year=1942|month=4|title=軍神特別攻撃隊九勇士|chapter=|publisher=一心堂|url={{NDLDC|1457031}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ref=軍神九勇士}}</ref>。1941年11月11日、第六艦隊において、首席参謀[[松村寛治]]中佐の発案で、長官の[[清水光美]]中将が命名した。清水によれば「日露戦争のときは決死隊とか[[旅順港閉塞作戦|閉塞隊]]という名も使われたが、[[特殊潜航艇]]の場合は[[連合艦隊]]司令長官も慎重検討の結果成功の算あり収容の方策もまた講じ得ると認めて志願者の熱意を受け入れたのだからということで、決死等という言葉は避け特別攻撃隊と称することに決まった。」とのことであった<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1990|p=16}}</ref>。その後も甲標的による特別攻撃隊は、1942年4月に「第2次特別攻撃隊」が編成され、[[オーストラリア]]の[[特殊潜航艇によるシドニー港攻撃|シドニー湾]]と[[マダガスカル島]]の[[マダガスカルの戦い|ディエゴ・スアレス港]]への攻撃がおこなわれ、タンカーと宿泊艦を撃沈し戦艦[[ラミリーズ (戦艦・2代)|ラミリーズ]]を大破させた<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.3410 No.2996}}</ref>。1942年7月には、それまでの潜水艦を母艦とし港湾を奇襲攻撃する作戦を止め、占領地の局地防衛用として運用されることとなり、[[キスカ島]]に6隻の甲標的が配備された<ref group="注">キスカ島に進出した甲標的隊は北方特有の厳しい天候により全く運用ができず、1943年7月29日の[[キスカ島撤退作戦]]の際に全艇が爆破された。</ref>。しかし、[[ガダルカナル島の戦い]]が始まると、アメリカ軍の輸送船団を攻撃するため、従来同様に潜水艦を母艦とし敵泊地を奇襲攻撃する目的で「第3次特別攻撃隊」が編成され、アメリカ軍輸送船団を攻撃し2隻の輸送船を大破・座礁させたが、戦局好転せず12月には作戦は中止された<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1990|p=21}}</ref>。これらは全て帰還者がいなかった<ref name="寺田近雄p117" />。
 
第3次特別攻撃隊後の特殊潜航艇は、[[ラバウル]]、[[トラック島]]、[[セブ島]]、[[沖縄]]など重要拠点の局地防衛のため地上基地に配備されることとなり<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1990|p=22}}</ref>、「特別攻撃隊」の名前は使われなくなったが、後の特攻隊に名前は受け継がれた<ref name="寺田近雄p117" />。
 
===== 水上・水中特攻の研究 =====
[[ファイル:Lieutenant Hiroshi Kuroki-Lieutenant Sekio Nishina co-creators kaiten.jpg|thumb|right|200px|人間魚雷回天発案者の[[黒木博司]]大尉と[[仁科関夫]]中尉、両名とも自ら志願して回天に乗り戦死した]]
[[連合艦隊]]主席参謀としてモーターボートによる特攻の構想(後の[[震洋]])を[[海軍軍令部|軍令部]]に語っていた[[黒島亀人]]が軍令部第二部長に就任すると、1943年8月6日戦備考査部会議において突飛意表外の方策、必死必殺の戦を提案し、一例として戦闘機による衝突撃の戦法を挙げた。1943年8月11日には第三段作戦に応ずる戦備方針をめぐる会議で必死必殺戦法とあいまつ不敗戦備確立を主張した<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|p=322}}</ref>。
 
同時期に第一線からも、戦局を挽回する秘密兵器として同時多発的に[[人間魚雷]]の構想がなされた。その中で、甲標的搭乗員の[[黒木博司]]大尉は、甲標的が魚雷で攻撃するのではなく、敵艦に体当たりしそのまま自爆すれば効果が大きいと考え「必死の戦法さえ採用せられ、これを継ぎゆくものさえあれば、たとえ明日殉職するとも更に遺憾なし」と自らその自爆攻撃に志願するつもりであったが、後に[[海軍潜水学校]]を卒業し、同じ呉市[[倉橋島]]大浦崎の甲標的の基地訓練所(P基地)に着任した[[仁科関夫]]中尉と同じ部屋に同居することになると、仁科も黒木の考えに同調し共に人間魚雷の実現に向けて研究を行うこととなった<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=|loc=電子版, 位置No.418-419}}</ref>。
 
人間魚雷を構想した内の1人、駆逐艦[[桐 (松型駆逐艦)|桐]]の水雷長三谷与司夫大尉は、卓越した性能を持ちながら戦局の悪化で活躍の機会を失っていた「九三式三型魚雷([[酸素魚雷]])」の体当たり兵器への改造を上層部に血書嘆願していたが<ref>{{Cite web |date=2007-12-15 |url=http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/konadaa-sousei.htm |title=海軍大尉 小灘利春 回天の創生 |accessdate=2017-2-8}}</ref>、黒木と仁科の研究も甲標的の自爆から、九三式三型魚雷の改造に変更し、鈴川技術大尉の協力も得て設計を終えると、その構想を血書で軍令部に上申したが、この兵器があまりにも非道と考えた軍令部は黒木・仁科の上申を却下した<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=100}}</ref>。
 
戦局の悪化に歯止めがかからなくなったことを重くみた海軍中央は1944年2月26日初の[[特攻兵器]]となる「人間魚雷」の試作を決定した<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=228}}</ref>。1944年2月17日の[[トラック島空襲]]が影響したと見る者もいる<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=|loc=電子版, 位置No.420}}</ref>、
 
海軍の組織的な特攻は航空特攻に先駆けて水中特攻から正式な計画が開始されたが、ここから組織的特攻に動き出した<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=325-327}}</ref>。
 
人間魚雷試作決定後の1944年4月4日、軍令部第二部長の黒島より提案された「作戦上急速実現を要望する兵力」の中には、体当たり戦闘機、装甲爆破艇(震洋)、1名速力50節航続4万米の大威力魚雷(回天)という特攻兵器も含まれており、軍令部はこれを検討後、他の兵器とともに「装甲爆破艇」「大威力魚雷」の緊急実験を海軍省に要望し、海軍省[[海軍艦政本部]]と[[海軍航空本部]]は仮名称を付して担当主務部定め特殊緊急実験を開始した<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=326-327}}</ref>。
仮名称は番号にマルを付けたもので、4番目の装甲爆破艇はマルヨン、6番目の大威力魚雷はマルロクと呼ばれた。1944年4月初めに装甲爆破艇マルヨンは艦政本部第4課で開発が開始されると、1944年5月27日には試作艇による試験が可能となった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=35}}</ref>。開発速度を上げるためエンジンはトラックのエンジンが転用され、船体を[[ベニヤ]]製とし軽量化を図った<ref>{{Harvnb|図説特攻|2003|p=137}}</ref>。試験により判明した問題点を修正し、1944年8月28日に新兵器として採用され「'''[[震洋]]'''」と名付けられた<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=38}}</ref>。制式採用時点では震洋には総舵輪を固定する装置が付いており、搭乗員は敵艦に狙いを定めた後は舵を固定して海に飛び込んで退避することが可能であった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=39}}</ref>。
 
マルロクの大威力魚雷は既に黒島の提言前から開発が開始されていたが、開発決定前に海軍潜水艦部長[[三輪茂義]]中将が「搭乗員が命中500m前に脱出できない限りは、この兵器について検討もなされないであろう。」と苦言を呈した通り、海軍中央部の開発許可条件は脱出装置の設置であった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=100}}</ref>。しかし、1944年7月25日に最初の航走実験を行ったマルロクの試作型には特別な脱出装置は装着されておらず、脱出も可能な[[ハッチ]]が操縦席下部に設置されているだけであった。訓練中の事故で操縦席下部ハッチを開けて脱出した例はあったが<ref>{{Cite web |date=2007-9-30 |url=http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/konadaa-huchi.htm |title=海軍大尉 小灘利春 回天のハッチ |accessdate=2017-2-8}}</ref>、実戦では脱出しても1,550㎏の炸薬の爆発で生き残れる望みはなく、下部ハッチを脱出に使用した例はなかった<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=228}}</ref>。特別な脱出装置が設置できなかったのは、九三式三型魚雷を利用して作ったマルロクを更に大規模に改造しなければいけないからであった<ref>{{Harvnb|図説特攻|2003|p=129}}</ref>。試作型のテストに成功したマルロクは8月に海軍特攻部長に就任した[[大森仙太郎]]中将により幕末の軍艦[[回天丸]]より「'''[[回天]]'''」と命名された<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|p=334}}</ref>。
 
[[マリアナ沖海戦]]の敗北を受け、1944年6月25日[[元帥府|元帥会議]]が行われた。その席で[[永野修身]]軍令部総長が「状況を大至急かつ最小限の犠牲で処置する必要がある。なかでも航空機の活動がもっとも必要であり、陸海軍を統一して、どこでも敵を破ることが肝要である。」と発言した。これは既に陸海軍ともに特攻を開始すべく特攻兵器の開発を行っており、この元帥会議はその方針を確認するものであり、航空特攻開始の意を含んでいたと見る者もいる<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=129}}</ref>。それを受けて[[伏見宮博恭王]]が「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言し日清・日露戦争時の例も出し、特殊兵器の開発を促し、陸軍の参謀本部総長[[東條英機]]は「[[風船爆弾]]」と「[[刺突爆雷|対戦車挺身爆雷]]」他2~3の新兵器を開発中と答え、海軍の軍令部総長[[嶋田繁太郎]]も2~3考案中であると答えた<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=34-39}}</ref><ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=130}}</ref>。これは特攻を兵器と採用することの公式な承認を意味し、この具体的に説明しなかった2~3の兵器が陸海軍とも特攻兵器のことであるとする意見もある<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=130}}</ref>。
 
元帥会議後に、軍令部総長兼海軍省大臣の嶋田繁太郎は、海軍省に奇襲兵器促進班を設け、実行委員長を定めるように指示する。1944年7月1日、[[海軍水雷学校]]校長大森仙太郎が海軍特攻部長に発令される(正式就任は9月13日)<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=34-39}}</ref>。大森の人選は、水上・水中特攻を重視しての人選であり、大森は全権を自分に委ねてどの部署も自分の指示に従うようにするという条件を出して引き受けた<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|p=327}}</ref>。1944年9月13日、海軍省特攻部が発足。特攻兵器の研究・調査・企画を掌握し実行促進を行う<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=327-328}}</ref>。
 
1944年7月10日、特攻兵器[[回天]]の部隊として第一特別基地隊の編成が行われる<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|p=328}}</ref>。1944年7月21日、総長兼大臣の[[嶋田繁太郎]]は[[連合艦隊司令長官]][[豊田副武]]に対して特殊奇襲兵器(「[[回天]]」)の作戦採用が含まれた「大海指四三一号」を発令した(水中特攻のみで航空では夜間の奇襲作戦が採用されている)<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=212-216}}</ref>。回天の量産は8月に開始され、同時期に搭乗員の募集が開始された。[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]卒の士官については、一部の志願者を除き海軍人事部からの辞令により、通常の転勤として隊員となったが<ref>{{Cite web |date=2007-09-17 |url=http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/konadaa-kaiten.htm |title=海軍大尉 小灘利春 人間魚雷・回天について |accessdate=2017-2-6}}</ref>、[[予備士官]]や[[海軍飛行予科練習生]]に対しては「この兵器(回天)は生還を期するという考えは抜きにして作られたものであるから、後顧の憂いなきか否かをよく考えるように」という特攻兵器であることを説明の上で志願を募り、志願者は募集人員を大幅に上回った。例えば甲種飛行予科練習生13期生では2,000名の卒業生の内熱望が94%、望が5%、保留が1%で熱望・望の約1,900名以上の中から100名が選抜された<ref>{{Harvnb|横田 寛|1995|p=32}}</ref>。1944年9月1日、山口県[[大津島]]に回天訓練所が開所されたが、8月中に量産型100基の生産を予定していたにも関わらず、生産は捗っておらず、訓練所に配備された回天は試作型の3基だけであった。試作型は試験の結果改善される予定であった欠点もそのままだったので、回天発案者の黒木が訓練中の事故で[[殉職]]するなど、搭乗訓練は進まず、回天の実戦への投入時期は遅れていくこととなった<ref>{{Cite web |date=2007-09-09 |url=http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/konadaa-taigyou.htm |title=海軍大尉 小灘利春 回天の大業成らず、何故に |accessdate=2017-2-6}}</ref>。
 
回天と比較すると構造が簡単な震洋は製造が順調に進み、制式採用前の7月中には既に300隻の完成が見込まれており、内50隻が訓練用として水雷学校のある横須賀[[田浦 (横須賀市)|田浦]]に送られ、7月中には震洋の訓練が開始された。震洋の搭乗員は志願制とされ、司令官の大森が「決死の志願者が集まるか」と心配していたが、募集をかけると予想以上の志願者が集まり安心したという<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=41}}</ref>。訓練は田浦の沖[[長浦港|長浦湾]]で行われた。横須賀港の[[海軍砲術学校]]沖に完成したばかりの空母[[信濃 (空母)|信濃]]が係留されると、教育中の震洋隊は巨大な信濃を訓練の標的代わりにして、中にはあやうく激突しそうになった艇もあった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=46}}</ref>。田浦で震洋の部隊編成も行われた。1個震洋隊は55隻の震洋が配備され、他に整備要員や事務を行う主計兵、通信兵、衛生兵など約195名で編成されていたが、これは陸軍の同じ特攻艇のマルレの1個戦隊よりは少ない人数である。後に[[長崎県]]の[[川棚町]]の臨時魚雷艇訓練所で震洋の訓練が行われるようになった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=141}}</ref>。編成された震洋隊の内5隊は[[小笠原諸島]]に送られたが、次にアメリカ軍が侵攻してくる可能性が高いと判断されたフィリピンには9隊が送られた。しかし、海上輸送中に積載していた輸送艦がアメリカ軍潜水艦の餌食となり大損害を被り、戦う前に戦力が半減してしまった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=127}}</ref>。
 
===== 航空特攻の研究 =====
1943年6月末、侍従武官[[城英一郎]]が航空の特攻隊構想である「特殊航空隊ノ編成ニ就テ」を立案する。内容は爆弾を携行した攻撃機による艦船に対する体当たり特攻で、専用機の構想もあった。目的はソロモン、ニューギニア海域の敵艦船を飛行機の肉弾攻撃に依り撃滅すること、部隊構成、攻撃要領、特殊攻撃機と各艦船への攻撃法、予期効果がまとめられている<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=322-323}}</ref>。城は航空本部総務部長[[大西瀧治郎]]中将に相談して「意見は了とするが未だその時にあらず」と言われるが、城の決意は変わらず、上の黙認と機材・人材があれば足りると日記に残している<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=322-324}}</ref>。その後、軍令部第二部長黒島の提案や1944年春に海軍省兵備局第3課長[[大石保]]から戦闘機による大型機に対する体当たり特攻が中央に要望されていたが、1944年6月[[マリアナ沖海戦]]敗北まで中央に考慮する動きはなかった<ref name="戦史叢書45p331-333">{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=331-333}}</ref>。
 
マリアナ沖海戦敗戦後は、通常航空戦力ではもはや対抗困難という判断が各部署でなされ、特攻検討の動きが活発化しており、城から機動部隊長官[[小沢治三郎]]、連合艦隊司令部、軍令部に対して航空特攻採用の上申が行われている。1944年6月19日、341空司令[[岡村基春]]大佐は第二航空艦隊長官[[福留繁]]中将に「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」と意見具申した。数日後、福留は上京して、岡村の上申を軍令部次長[[伊藤整一]]中将に伝えるとともに中央における研究を進言した。伊藤は総長への本件報告と中央における研究を約束したが、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた。また、また7月[[サイパンの戦い|サイパンの失陥]]で国民からも海軍省、軍令部に対して必死必殺の兵器で皇国を護持せよという意見が増加した<ref name="戦史叢書45p331-333" />。
 
[[マリアナ沖海戦]]前後に[[海軍省]]の航空本部、航空技術廠で研究が進められていた偵察員[[大田正一]]少尉発案の航空特攻兵器「[[桜花 (航空機)|桜花]]」を軍令部も承認して1944年8月16日正式に桜花の試作研究が決定する<ref name="戦史叢書45p331-333" /><ref name="戦史叢書45p331-333" /><ref>{{Harvnb|秦郁彦|1999a|pp=512-513}}</ref>。1944年10月1日に桜花の実験、錬成を行う第七二一海軍航空隊(神雷部隊)を編制。この編制ではまだ特攻部隊ではなく、普通の航空隊新設と同様の手続きで行われている<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=704}}</ref>。
 
1944年10月12日に開始された[[台湾沖航空戦]]で、日本軍は大戦果と誤認したが、実際には巡洋艦2隻を大破しただけだった。攻撃隊の指揮を執った第26航空戦隊司令官[[有馬正文]]少将は、戦果判定が過大であることを認識しており、報道班員の[[新名丈夫]]に対し「もはや通常の手段では勝利を収めることは不可能である。特攻を採用するのは、パイロットたちの士気が高い今である」と語り、1944年10月15日の午後に、自ら攻撃部隊の空中指揮を執るために、参謀らの制止を振り切って[[一式陸上攻撃機]]に搭乗した。有馬は常々「戦争では年をとったものがまず死ぬべきである」と主張しており、一身を犠牲にして手本を示そうとしたものという意見もある。午後3時54分に有馬機からの「敵空母に突入せんとす、各員全力を尽くすよう希望する」という電報をニコルス基地が受信した後に連絡が途絶えたが、敵空母に突入することはできず、接近前に艦載戦闘機の迎撃で撃墜されている<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=155}}</ref>。しかし有馬の戦死は、「敵正規空母に突入しこれを撃沈した」「有馬少将の戦死は、部下の特攻への激しい要望に対する起爆剤となった」と公式発表され、特攻開始の空気の醸成に寄与することとなった<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=149}}</ref>。
 
==== 日本陸軍 ====
===== 決死の特攻 =====
[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]は[[日露戦争]]において、[[白襷隊]]といった決死隊を臨時に編成したことはあったが、これは決して生還を期さない任務ではなく、ただ決死の覚悟で極めて困難で危険な任務を果たすというものであった。
 
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[[1944年]](昭和19年)5月27日、[[ビアク島の戦い]]で来攻したアメリカ海軍艦隊に対し[[飛行第5戦隊|飛行第5戦隊長]]高田勝重[[少佐]]以下二式複戦「屠龍」4機は独断による自爆攻撃を実施。「屠龍」4機は超低空飛行で艦隊に接近し、2機が撃墜され1機は被弾撤退するも、残る1機は上陸支援を行う第77任務部隊[[司令官]][[ウィリアム・フェクテラー]][[少将]]の[[旗艦]]である[[駆逐艦]]{{仮リンク|サンプソン (DD-394)|en|USS Sampson (DD-394)|label=サンプソン}}に接近。被弾のためサンプソンへの突入はわずかに逸れ、付近の[[駆潜艇]]SC-699に命中し損害を与えた。また現地で艦船攻撃に際し爆弾投下前に被弾し生還が望めない場合、機上で[[信管]]を外し体当たりできるように改修するものもあった<ref name="戦史叢書48p344">{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p=344}}</ref>。同年中後半、[[ビルマの戦い|ビルマ方面]]の防空戦闘で陸軍戦闘隊は、新鋭爆撃機として投入されていたB-29に一式戦「隼」で数次の体当たりを行っていた。これらの訴えは飛行機への体当たりであり、一部破壊(撃破)でも墜落する可能性があり生還する余地もあった<ref name="戦史叢書48p343">{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p=343}}</ref>。
 
===== 戦死前提へ水上特攻過程(陸軍)研究 =====
{{main|[[四式肉薄攻撃艇]]}}
[[陸軍船舶司令部]]の司令官であった[[鈴木宗作]]中将が、陸軍中央で航空特攻が本格的に検討され始めた1944年4月ごろに「陸軍も海上交通の重要性を認識すべき」と考え、敵の輸送船団に大打撃を与えるため[[モーターボート]]を改造して攻撃してはと構想した。鈴木がこの構想を持ったのと同時期に[[大本営]][[参謀本部 (日本)|陸軍部]]も肉薄攻撃艇開発の検討が始まっていた。1944年4月27日に[[陸軍兵器行政本部]]に肉薄攻撃艇開発の命令が下され、肉薄攻撃艇の名称は「四式肉薄攻撃艇」と決定したが、情報秘匿のため正式名称は伏せられ「四式連絡艇」と称され、頭文字をとって「マルレ」とも呼ばれるようになった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=75}}</ref>。
 
開発は1944年5月に[[姫路市]]に新設された[[陸軍技術研究所|第10陸軍技術研究所]]で開発が進められたが、海軍の特攻艇「[[震洋]]」の開発が進んでいるとの情報を知った船舶司令部司令官の鈴木は、開発責任者の[[内山鉄夫]]技術[[中佐]]に開発の加速を命じ、内山はそれに応えわずか2週間で設計を終え、試作艇が作られた。しかし、開発時点では「マルレ」は海軍の「震洋」とは異なり、初めから体当たり攻撃前提の特攻艇ではなく、あくまでも肉薄攻撃艇であり、敵輸送艦近くに[[爆雷]]を投下して退避するという運用を想定していたが、試作艇でデモンストレーションをした結果、爆雷が爆発して生じる大きな水柱をどうやって回避すべきかという問題が浮上した。開発を命じた大本営はUターンして避けるべきと主張したが、技術陣の方から「それは机上の空論だ、体当たりしたほうが戦果は確実だ」との反論がなされ、結局、技術陣の主張が通り、海軍の「震洋」と同様も体当たりも可能な設計とすることとした。しかし、投下・体当たりいずれも選択できるよう、操縦者がハンドルを引くか、ペダルを踏むと搭載されている250㎏の三式爆雷が投下され、爆雷を抱いたまま体当たりすると艇首に設置している棒で爆雷の安全ピンが外れ海中に落下し7秒後に爆発するようにセットされていた<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=77}}</ref>。しかし、体当たりの際には搭乗員はマルレの舵を固定し水中に脱出することとなっており、その前提で大本営は採用を許可したが、実戦では脱出せずにそのままマルレごと体当たりする搭乗員が多かった<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=111}}</ref>。
 
マルレ開発開始とほぼ同じ時期の1944年5月に[[香川県]][[豊浜町 (香川県)|豊浜]]で訓練が開始され、後に[[小豆島]]にも訓練施設が設けられた。1944年8月には訓練を受けた搭乗員によりマルレを運用する部隊、[[陸軍海上挺進戦隊]]が編成された。1個戦隊は100隻のマルレで編成され、特攻艇の搭乗員100名の他に整備班や医務班や警備艇を警護する重機関銃を装備した歩兵部隊など900名の大所帯となった。編成された海上挺進戦隊はアメリカ軍の侵攻が予想されるフィリピンに30個戦隊が送られた<ref>{{Harvnb|図説特攻|2003|p=137}}</ref>。しかし、海軍の「震洋」部隊と同様に、海上輸送中にアメリカ軍潜水艦により第11、第14戦隊が海没するなど、フィリピンに到着前に多大な損害を被った<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=111}}</ref>。
 
===== 航空特攻の研究 =====
[[ファイル:Kawasaki Ki-48-42.jpg|260px|thumb|right|陸軍航空隊初の特攻部隊[[万朶隊]]の乗機となった[[九九式双発軽爆撃機|九九式双軽爆撃機]]]]
陸軍中央では1944年初頭に組織的な航空特攻の検討が始まった。陸軍はそれまでも前線からの切実な要望を受けて [[浜松陸軍飛行学校]]が中心となって艦船に対する攻撃法を研究していた<ref>{{Harvnb|戦史叢書87|1975|p=434}}</ref>。まずは陸軍重爆の雷撃隊への改修を決定し、1943年12月に海軍より[[九六式陸上攻撃機]]の提供を受けて訓練が実施された。同時に[[四式重爆撃機]]「飛龍」の雷撃機改修も行われた。後に雷撃訓練は海軍指導のもとに行われ、陸軍の技量は向上したが、その頃には航空機による通常雷撃がアメリカ艦隊に対してほぼ通用しなくなりつつあった。また連合軍が採用し、[[ビスマルク海海戦]]などで成果を挙げていた[[反跳爆撃]]なども研究が行われ、1944年4月浜名湖で陸軍航空審査部との合同演習が行われ、8月には那覇で沈船を目標にした演習が行われ一定の成果はあったが、爆弾の初速が低下することや、航空機の軽快性を確保するためには大重量の爆弾を携行できないことが判明した。その後、実際に運用もされたがめぼしい成果を挙げることはできなかった<ref>{{Harvnb|戦史叢書87|1975|p=438}}</ref>。
 
以上の実績も踏まえて、陸軍中央航空関係者の間で 圧倒的に優勢な敵航空戦力に対し、尋常一様な方策では対抗できないとの結論に至り、1944年3月には艦船体当たりを主とした航空特攻戦法の検討が開始され<ref>{{Harvnb|戦史叢書87|1975|p=455}}</ref> 、春には機材、研究にも着手した<ref name="戦史叢書48p344" />。1944年3月28日、[[陸軍航空本部]]には特攻反対意見が多かったことから、[[内閣総理大臣]]兼[[陸軍大臣]]兼[[参謀総長]][[東條英機]][[陸軍大将|大将]]は[[陸軍航空総監部|航空総監]]兼航空本部長の[[安田武雄]][[中将]]を更迭、[[後宮淳]]大将を後任に据えた<ref>{{Harvnb|秦郁彦|1999b|p=507}}</ref>。1944年春、中央で航空関係者が特攻の必要に関して意見を一致した。当初は精鋭と器材で編成し一挙に敵戦意をそぐことを重視した。そこでまず[[九九式双発軽爆撃機|九九式双軽爆撃機]]と、[[四式重爆撃機|四式重爆撃機「飛龍」]]を改修することになり、中央で2隊の編成準備を進めた。特攻隊の編成にあたっては、参謀本部の「特攻戦法を中央が責任をもって計画的に実行するため、隊長の権限を明確にし、その隊の団結と訓練を充実できるように、正規の軍隊編制とすることが必要である」という意見と陸軍省(特に航空本部)の「軍政の不振を兵の生命で補う部隊を上奏し正規部隊として[[天皇]]([[大元帥]])、中央の名でやるのはふさわしくない。現場指揮官の臨機に定めた部隊とし、要員、機材の増加配属だけを陸軍大臣の部署で行うべきである」という意見で議論が続けられたが、後者で実施された<ref name="戦史叢書48p344" /><ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|p=306}}</ref>。また同年5月、体当たり爆弾桜弾の研究が[[陸軍航空技術研究所|第3陸軍航空技術研究所]]で開始される<ref>{{Harvnb|戦史叢書87|1975|pp=459-460}}</ref>。
 
[[マリアナ沖海戦]]の敗北後開催された1944年6月25日元帥会議が行われた。で、[[伏見宮博恭王]]より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。し、陸軍の参謀本部総長[[東條英機]]と海軍の軍令部総長[[嶋田繁太郎]]すでに2~3考案中であると答えた<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=34-3739}}</ref>。サイパンの玉砕を受けると、1944年7月7日の会議でに開催された参謀本部の会議で航空参謀からもう特攻を行う以外にないと提案したがあり<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|pp=140-143}}</ref>1944年7月11日、第4航空技術研究所長[[正木博]]少将は「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」を起案し、対艦船特攻の方法を研究し、6つの方法を提案した<ref>{{Harvnb|戦史叢書87|1975|pp=455-456}}</ref>。
 
1944年7月、[[鉾田教導飛行師団]]に九九双軽装備、[[浜松教導飛行師団]]に四式重爆「飛龍」装備の特攻隊を編成する内示が出た。8月中旬からは九九双軽と四式重爆「飛龍」の体当たり機への改修が秘かに進められた<ref name="戦史叢書48p345">{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p=345}}</ref><ref>{{Harvnb|大貫健一郎|渡辺考|2009|p=55}}</ref>。9月28日、[[大本営|大本営陸軍部]]の関係[[幕僚]]による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる<ref name="大貫渡辺p57">{{Harvnb|大貫健一郎|渡辺考|2009|p=57}}</ref>。
 
==== フィリピンでの特攻(陸軍) ====
==== 日本海軍 ====
=====航空特攻=====
[[ファイル:USS White Plains attack by Tokkotai unit 25.10.1945 kk1a.jpg|200px|thumb|right|1944年10月25日、[[護衛空母]]ホワイト・プレーンズに肉迫する第1神風特別攻撃隊「敷島隊」の零戦。この直後、対空砲火によって右翼に被弾、撃墜された。]]
{{main|神風特別攻撃隊}}
[[ファイル:Lt Yukio Seki in flightgear.jpg|250px|thumb|right|最初の特別攻撃隊となる第1神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長として戦死し軍神と畏敬された[[関行男]]大尉]]
1944年10月5日、[[大西瀧治郎]]中将が[[第一航空艦隊]]司令長官に内定した。大西は「震洋」「回天」「桜花」など海軍が特攻兵器の開発を開始していることを知っており、航空特攻を採用しようと考えていた。大西はフィリピンに出発する前に海軍省大臣[[米内光政]]に現地で特攻を行う決意を語り承認を得て<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2001|p=224}}</ref>、軍令部総長[[及川古志郎]]に対しても決意を語り、「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します。」<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|pp=13-16}}</ref>「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と及川の承認も得た。大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=705}}</ref>。また大西は発表に関する打ち合わせも行い、事前に中央は発表に関して大西からの指示を仰ぐ電文も用意し、事後に発信している<ref name="戦史叢書56p108-109">{{Harvnb|戦史叢書56|1952|pp=108-109}}</ref><ref name="戦史叢書45p503-504etc">{{Harvnb|戦史叢書45|1971|loc=pp.503-504, 538}}</ref>{{#tag:ref|大海機密第261917番電 1944年10月13日起案,26日発信「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」発信中沢佑、起案源田実。「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」人事局主務者の意見<ref name="戦史叢書56p108-109" /><ref name="戦史叢書45p503-504etc" />。「神風」の名前が既にあるため大西は出発前にすでに名前も打ち合せていたとも言われる。しかし、命名者の[[猪口力平]]は19日に提案したと証言している。最初の編成命令を起案した[[門司親徳]]によれば起案日は誤記で23日ではないかと話している<ref>御田重宝『特攻』講談社32頁</ref><ref>{{Harvnb|神立尚紀|2011a|pp=126-127}}</ref>。電文の起案を担当した[[源田実]]はこの電文について日付は覚えていないが、神風特攻隊の名前はフィリピンに飛んだ際に大西から直接聞いたと証言している<ref>御田重宝『特攻』講談社32頁</ref>。この電文を特攻や命名の指示と紹介する文献もあるが、現地で特攻の編成・命名が行われたのは20日であり、この電文が現地に発信されたのは26日であるため、この電文は特攻隊の編成や命名に影響を与えていない。また、連絡のためにこの電報を打ったのは軍令部であるが、案件である発表に関しては海軍省によるものである<ref>富永謙吾『大本営発表の真相史』自由国民社、1971年、200-201頁。海軍省発表</ref>|group="注"}}。
 
フィリピンに進出する前に大西は台湾に立ち寄り、連合艦隊司令長官豊田と共に台湾沖航空戦の戦局を見守っていたが、[[台湾]][[新竹市|新竹]]上空で繰り広げられた[[零戦]]と[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]]の空戦を見て、日本軍の不利を悟って、不利を克服して勝機を掴むのは敵空母に対する体当たりしかないと意を強くした<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1990|p=35}}</ref>。10月15日に敵空母に特攻をおこなった有馬の行動も大西を後押しするかたちとなり、豊田と特攻戦術採用について「単独飛行がやっとの練度の現状では被害に見合う戦果を期待できない、体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と自分の考えを述べるなど、長い時間打ち合わせした後に、10月17日に[[フィリピン]]の[[マニラ]]に向け出発した<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|=156}}</ref>。フィリピンに到着すると前任者である[[寺岡謹平]]に特攻隊の構想を打ち明けて同意を求めたが、寺岡は後任の大西に一任した<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=502-504}}</ref>
 
大西は1944年10月19日夕刻に[[第二〇一海軍航空隊|第201海軍航空隊]]司令部のあるマバラカットを訪れ、司令部として借上げていた洋館に副長[[玉井浅一]]中佐<ref group="注">航空隊司令の山本栄は搭乗していた零戦の不時着による骨折で入院中であった。</ref> や1航艦首席参謀[[猪口力平]]中佐ら航空隊幹部を招集し、「戦局はみなも承知の通りで、今度の[[捷号作戦]]にもし失敗すれば、それこそ由々しい大事をまねくことになる。従って、1航艦としては、是非とも栗田部隊のレイテ突入を成功させねばならないが、そのためには敵の機動部隊を叩いて、少なくとも1週間ぐらい、敵の空母の甲板を使えないようにする必要があると思う。」「そのためには、零戦に250㎏爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うが・・・どうだろうか?」と自分の考えを{{読み仮名|披瀝|ひれき}}した。航空隊幹部らもかねてから同じようなことを考えていたが、玉井は即答を避け、一度席を外し先任飛行長の指宿正信大尉と協議した後、大西の意見に同意した<ref>{{Harvnb|中島正|猪口力平|1984|pp=55-56}}</ref>。玉井はさらに「攻撃隊の編制については、全部航空隊に任せて下さい。」と人選については一任を申し出、大西の承諾を得た。玉井は士気を高揚させるために指揮官となる士官は[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]出身の[[現役]][[士官]]がいいと考え、戦闘機搭乗員の[[菅野直]]を考えたが東京出張中であったので、[[艦上爆撃機]]搭乗員の[[関行男]]大尉ではどうか?と猪口に聞き、海軍兵学校時代に関の教官であった猪口も同意した。猪口と玉井は関を士官室に呼ぶと特攻隊の指揮官となることを打診し、関は少し考えた後応諾した<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|pp=161-162p}}</ref>。
 
翌10月20日午前10時、大西は編成された特攻隊4部隊'''敷島隊'''、'''大和隊'''、'''朝日隊'''、'''山桜隊'''の全特攻隊員24名を前にして、「日本は正に危機である。しかも、この危機を救い得る者は、大臣でも大将でも軍令部総長でもない、もちろん自分のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。従って自分は一億国民に代わり、皆にお願いする。どうか、成功を祈る。皆は、既に神である。神であるから欲望はないであろう、が、あるとすれば、それは自分の体当たりが、無駄ではなかったか、どうか、それを知りたいことであろう。しかし皆は永い眠りに就くのであるから、残念ながら知ることもできないし、知らせることもできない。だが、自分はこれを見届けて必ず[[上聞]]に達するようにするから、そこは、安心して行ってくれ・・・しっかり頼む。」と訓示した<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1990|p=36}}</ref>。訓示の後、大西は涙ぐみながら隊員の1人1人と熱い握手を交わした<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=51}}</ref>。
 
日本海軍では、航空機による体当たり攻撃を'''「神風特別攻撃隊」'''として統一名で呼称した。名称は猪口の発案によるもので、郷里の古剣術の道場「{{読み仮名|神風|しんぷう}}流」から名付けたものである<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2001|pp=52-53}}</ref>。一方で第201航空隊飛行長[[中島正]]少佐の証言では「かみかぜ」と読む<ref>押尾一彦著 モデルアート1995年11月号臨時増刊「神風特別攻撃隊」196頁</ref>。
 
神風特別攻撃隊の初出撃は1944年10月21日であった。全24機が出撃したが悪天候などに阻まれ、ほぼ全機が帰還したが、大和隊隊長[[久納好孚]]中尉が未帰還、23日に大和隊[[佐藤馨上]]飛曹が未帰還となっている。関は酷い下痢で絶食しており疲労感が見て取れたが、25日の出撃前に「索敵しながら南下し、発見次第突入します。」と自ら提案し確実に突入する覚悟を示した。その日に4度目の出撃で関率いる敷島隊の6機は、[[サマール沖海戦]]を戦った直後のタフィ―3を発見し突入した<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.338}}</ref>。内1機がアメリカの護衛空母[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]を撃沈、大和隊の4機、朝日隊の1機、山桜隊の2機、'''菊水隊'''の2機、'''若桜隊'''の1機、'''彗星隊'''の1機等が次々に突入し、護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げ、直援機であった[[西沢広義]]飛曹長によりその戦果が確認された<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.390}}</ref>。これを大本営海軍部は大々的に発表し、新聞は号外で報じた。敷島隊指揮官であった関は[[軍神]]と呼ばれ、母が住む実家の前には「軍神関行男海軍大尉之家」と書いた案内柱が立てられて<ref>{{Cite web |date=2010-08-31 |url=http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinpu-seki.htm |title=関行男 海軍中佐 |accessdate=2017-2-22}}</ref>、多くの弔問客が訪れた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=217}}</ref>。
 
10月26日、[[及川古志郎|及川軍令部総長]]が神風特攻隊の戦果を奏上し、昭和天皇(大元帥)から 、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と御嘉賞のお言葉を賜った。また、10月30日には[[米内光政|米内海軍大臣]]に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と仰せられた<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=111}}</ref>。大西はこの昭和天皇のお言葉を、作戦指導に対する叱責と感じて恐れ入り、翌27日、参謀の猪口に「こんなことしなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統帥の外道だよ。」と語っている<ref>{{Harvnb|中島正|猪口力平|1984|pp=93-94}}</ref>。
 
神風特攻隊編成当初は、参謀の猪口が「特攻隊はわずか4隊でいいのですか?」と訊ねたのに対し、「飛行機がないからなぁ、やむをえん。」と特攻は一度きりで止めたいとの意向を示していた大西であったが、10月23日の時点で大西の第1航空艦隊は連日の戦闘による消耗で、戦闘機30機、その他20機の合計50機まで稼働機数が激減していたため、もはや特攻を軸に戦う外ないという考えに至った<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=112}}</ref>。10月23日に[[クラーク空軍基地|クラーク基地]]に進出してきた[[第二航空艦隊]](350機)の[[福留繁]]第2航空艦隊長官に大西は特攻採用を強く説いたが、福留は特攻採用による搭乗員士気の喪失を懸念、従来の大編隊による通常攻撃に固執し大西の申し入れを拒否している<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=113}}</ref>。
 
10月23日~25日まで第1航空艦隊の特攻と並行して、第2航空艦隊は250機の総力を投じ従来の航空通常攻撃を行ったが、軽空母[[プリンストン (CVL-23)|プリンストン]]を大破(後にアメリカ軍により処分)、{{仮リンク|アシュタブラ(タンカー)|en|USS Ashtabula (AO-51)}}大破、駆逐艦[[ロイツェ (駆逐艦)|ロイツェ]]損傷の戦果に対し、大量の航空機を喪失した<ref name="Chronology1944">{{Cite web |url=http://www.navsource.org/Naval/1944.htm |title=U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1944 |language=英語 |accessdate=2016-12-22}}</ref>。少数の特攻機で第2航空艦隊を上回る戦果を挙げた大西は、再度福留に「特別攻撃以外に攻撃法がないことは、もはや事実により証明された。この重大時期に基地航空部隊が無為に過ごすことがあれば全員腹切ってお詫びしても追いつかぬ。第2航空艦隊としても特別攻撃を決意すべきだと思う」と迫った。福留は幕僚と協議し10月26日に特攻を行うことに同意した<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=114}}</ref>。
 
第1航空艦隊と第2航空艦隊が特攻を採用したため、よりその機能を発揮させる目的で、両航空艦隊を統合した連合基地航空隊を編成し、先任の福留を司令官とし大西が参謀長となった<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2001|pp=155-159}}</ref>。10月27日、大西によって特攻隊の編成方法、命名方法、発表方針などが軍令部、海軍省、[[海軍航空本部]]など中央に通達された<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2001|pp=161-163}}</ref>。
連合基地航空隊には[[北東方面艦隊]]第12[[航空艦隊]]の戦闘機部隊や<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=115}}</ref>、空母に配属する予定であった第3航空艦隊の大部分などが順次増援として送られ特攻に投入されたが、戦力の消耗も激しく、大西は上京し、更なる増援を大本営と連合艦隊に訴えた。大西は300機の増援を求めたが、連合艦隊は、[[大村海軍航空隊]]、[[元山海軍航空隊]]、[[筑波海軍航空隊]]、[[谷田部海軍航空隊|神ノ池海軍航空隊]]の各教育航空隊から飛行100時間程度の搭乗員と教官から志願を募るなど苦心惨憺して、ようやく150機をかき集めている。これらの隊員は猪口により[[台湾]]の[[台中]]・[[台北]]で10日間集中的に訓練された後フィリピンに送られた<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=136}}</ref>。
 
大西の強引な特攻隊拡大に批判的な航空幹部もいたが、大西は「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」と指導している<ref name="戦史叢書17p706">{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=706}}</ref>。大西は[[大阪毎日新聞]]特派員後藤基治からの「なんで特攻を続けるのですか?」という質問に対して、[[幕末]][[会津藩]]の[[白虎隊]]の例を出して、「ひとつの[[藩]]の最後でもそうだ」「ここで青年が起たなければ、日本は滅びるだろう。青年たちが国難に殉じていかに戦ったかということを歴史が記憶しているかぎり、日本人は滅びることはないだろう。」と答え、その後も特攻を推進していった。しかし大西は深い憂鬱に囚われており、副官の[[門司親徳]]大尉へ「わが声価は、棺を覆うて定まらず、100年ののち、また知己を得ないだろう」とつぶやいている<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=321}}</ref>。
 
[[ファイル:Nippon News No241.ogv|thumb|right|神風特攻隊「金剛隊」を見送る第2航空艦隊司令長官福留中将(2:10から)]]
少数の特攻機が大きな成果を挙げたことはアメリカ軍側に大きな衝撃を与えた。レイテ島上陸作戦を行ったアメリカ海軍水陸両用部隊参謀レイ・ターバック大佐は「この戦闘で見られた新奇なものは、自殺的急降下攻撃である。敵が明日撃墜されるはずの航空機100機を保有している場合、敵はそれらの航空機を今日、自殺的急降下攻撃に使用して艦船100隻を炎上させるかもしれない。対策が早急に講じられなければならない。」と考え、物資や兵員の輸送・揚陸には、[[攻撃輸送艦]](APA)や[[攻撃貨物輸送艦]](AKA)といった装甲の薄い艦船ではなく、輸送駆逐艦(APD)や[[LST-1級戦車揚陸艦|戦車揚陸艦]](LST)など装甲の厚い艦船を多用すべきと提言している。またアメリカ軍は、最初の特攻が成功した10月25日以降、[[病院船]]を特攻の被害を被る可能性の高いレイテ湾への入港を禁止したが、[[レイテ島の戦い]]での負傷者を救護する必要に迫られ、3時間だけ入港し負傷者を素早く収容して出港するという運用をせざるを得なくなった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=212}}</ref>。
 
[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピンの戦い]]を指揮した南西太平洋方面軍(最高司令官[[ダグラス・マッカーサー]]大将)の[[メルボルン]]海軍部は、指揮下の全艦艇に対して「[[ジャップ]]の自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて(中略)公然と議論することを禁止し、かつ[[第7艦隊]]司令官は同艦隊にその旨伝達した」とアメリカとイギリスとオーストラリアに徹底した報道管制を引いた。これはニミッツの太平洋方面軍も同様の対応をしており<ref>{{Harvnb|原勝洋|2004|p=133}}</ref>、特攻に関する検閲は太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている。南西太平洋方面軍は更に、休暇等で帰還するアメリカ・オーストラリア兵士に対しても徹底した{{読み仮名|緘口令|かんこうれい}}を敷いている<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=215}}</ref>。
 
アメリカ軍兵士の士気に与えた影響も大きく、パニックで神風ノイローゼに陥るものもいた。特攻開始後に、空母[[ワスプ (CV-18)|ワスプ]]の乗組員123名に健康検査を行ったところ戦闘を行える健常者が30%で、他は全部精神的な過労で休養が必要と診察された<ref name="金子p225">{{Harvnb|金子敏夫|2001|p=225}}</ref>。本来アメリカ海軍は、艦内での飲酒を固く禁じていたが、カミカゼの脅威に{{読み仮名|対峙|たいじ}}する兵士の窮状を診かねた軍医から第7水陸両用部隊司令{{仮リンク|ダニエル・バーベイ|en|Daniel E. Barbey}}少将へ、兵士らのカミカゼへの恐怖を振り払わせるために艦内での飲酒解禁の提案があり、兵士らは貯蔵してあったバーボン・ウィスキーを士気高揚剤として支給されている。酔った勢いの空元気は、カミカゼに対抗するために利用された一つの武器となった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=285}}</ref>。それでも、[[精神病]]を発症するアメリカ海軍兵士は増加し、開戦後1,000人中9.5人の発症率であったのが、1944年の特攻開始時では1,000人中14.2人に跳ね上がっている。この要因を[[合衆国艦隊]]司令長官・[[海軍作戦部長]][[アーネスト・キング]]は「現代戦のテンポの早さが兵士を疲労させたことと、予想もされない恐怖(特攻)によるものである。」と分析していた。アメリカ軍は特攻兵器を扱う日本軍兵士を、特別な素質を持った軍人と考え、[[アメリカ陸軍参謀総長|陸軍参謀総長]]の[[ジョージ・マーシャル]]は[[アメリカ合衆国陸軍省|陸軍省]]に特攻の報告をおこなう際に、「もし、敵の勇気を軽視するようなことがあれば、わが軍の勝利を危うくすることになろう。」という意見を添えている<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=158}}</ref>。
 
その後も特攻機は次々とアメリカ軍の主力高速空母部隊[[第38任務部隊]]の正規空母に突入して大損害を与えていった。1944年10月29日[[イントレピッド (空母)|イントレピッド]]、10月30日[[フランクリン (空母)|フランクリン]] 、[[ベローウッド (空母)|ベローウッド]] 、11月5日[[レキシントン (CV-16)|レキシントン]]、11月25日[[エセックス (空母)|エセックス]]、[[カボット (空母)|カボット]] が大破・中破し戦線離脱に追い込まれ、他にも多数の艦船が撃沈破された<ref>{{Harvnb|原勝洋|2004|pp=61-85}}</ref>。
特攻機による空母部隊の大損害により、第38任務部隊司令[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア]]が11月11日に計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれた。ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求している<ref>{{Harvnb|ポッター|1991|p=506}}</ref>。
 
フィリピン戦での特攻による損害を重く見たアメリカ海軍は、最初の特攻被害からわずか1か月後の1944年11月24日から26日の3日間に渡り、サンフランシスコにて、ワシントンからアメリカ海軍省首脳と、真珠湾から太平洋艦隊司令部幕僚と、フィリピンの前線から第三艦隊司令ハルゼーと第38任務部隊司令[[マーク・ミッチャー|ミッチャー]]少将の海軍中央から実戦部隊までの幕僚らが一堂に会して、異例とも言える特攻対策の集中会議を行った<ref name="冨永安延p75">{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=75}}</ref>。その会議で様々な特攻対策が検討され、一部は実現されていった([[#特攻対策]]を参照)。その中の一つで、12月14日~12月16日まで500機の戦闘爆撃機と40機の[[夜間戦闘機]]により、日本軍の特攻基地を集中攻撃する「ブルーブランケット」作戦が行われ、アメリカ軍は170機の特攻機を地上で撃破したと主張したが<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=166}}</ref>、特攻は衰えることなく、[[ミンドロ島の戦い|ミンドロ島]]や[[ルソン島の戦い|ルソン島]]に侵攻してくるアメリカ軍艦隊に襲い掛かり、1945年1月4日に護衛空母[[オマニー・ベイ (護衛空母)|オマニー・ベイ]]を撃沈するなど、フィリピン戦の期間を通じてアメリカ軍の艦船22隻を撃沈、110隻以上を損傷させた<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=157}}</ref>。
 
フィリピンでの特攻が最高潮に達したのが、1945年1月6日に連合軍がルソン島上陸作戦のため[[リンガエン湾]]に侵入したときで、フィリピン各基地から出撃した32機の特攻機の内12機が命中し7機が有効至近弾となり連合軍は多大な損害を被った<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=308}}</ref>。戦艦[[ニューメキシコ (戦艦)|ニューメキシコ]]には、[[東洋艦隊 (イギリス)|イギリス海軍太平洋艦隊]]司令[[ブルース・フレーザー]]大将と、[[イギリス陸軍]][[観戦武官]]の{{仮リンク|ハーバード・ラムズデン|en|Herbert Lumsden}}中将が乗艦していたが、その[[艦橋]]に特攻機が突入、ラムスデン中将とフレーザー大将の副官が戦死し、上陸作戦を指揮した南西太平洋方面最高司令官[[ダグラス・マッカーサー]]大将が衝撃を受けている<ref>{{Harvnb|マッカーサー|2014|p=315}}</ref>。マッカーサー自身が乗艦していた軽巡洋艦[[ボイシ (軽巡洋艦)|ボイシ]]も甲標的と特攻機に攻撃されたが損害はなかった<ref>{{Harvnb|マッカーサー|2014|p=314}}</ref>。マッカーサーは特攻機とアメリカ艦隊の戦闘を見て「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と感想を述べている。日本軍の攻撃目標選定のミスを指摘しながらも、特攻が[[ルソン島の戦い]]の{{読み仮名|帰趨|きすう}}を左右するような威力を有していると懸念していたものと思われる<ref>{{Harvnb|ペレット|2016|p=852}}</ref>。
 
=====水上・水中特攻=====
フィリピンにどうにか到着した震洋は300隻まで減っていたが、1944年12月23日に[[コレヒドール島]]に配置されていた第7震洋隊が、艇の整備途中に燃料のガソリンに引火し、その後搭載爆雷が爆発し火災が広まると、次々と震洋が誘爆し、第7震洋隊他の75隻の震洋を喪失し、150名の震洋隊隊員が事故死した。震洋のエンジンはトラックのエンジンを強引に転用したもので、気化したガソリンによる爆発事故が頻発しており、戦後の1945年8月16日にも高知県[[香南市]]の震洋基地で爆発事故が発生し111名が事故死している<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=183}}</ref>。リンガエン湾などで戦果を挙げていた[[陸軍海上挺進戦隊]]に対し、海軍の震洋は事故とアメリカ軍の空襲と艦砲射撃により、殆ど戦闘をしていないのにも関わらず壊滅状態に陥っていた。
 
ようやく好機が到来したのは1945年2月15日の夜で、[[バターン半島]]のマリビエルに部隊を上陸させようとした[[LST]]5隻が日没までに作業が完了せず、次の高潮を待って残りの物資を揚陸しようと海岸に停泊しており、その護衛の特攻艇対策部隊の[[上陸支援艇]]LCS5隻とともに残されることになった。コレヒドールの震洋隊司令官小山田正一少佐は残った震洋50隻全部でこれを叩こうと決め、全震洋に出撃を命じた。LCSは[[ボフォース 40mm機関砲]]2連装3基と[[エリコンFF 20 mm 機関砲]]4基もしくはロケット発射機10基と大きさ(排水量300トン前後)の割には重武装で、突進してくる震洋を次々と撃破したが、数が多すぎたため接近を許し、LCS5隻の内3隻を撃沈、1隻を擱座させ、生き残ったのはたった1隻だった。一矢報いたこの攻撃で震洋は全滅し、残った搭乗員や震洋隊隊員は上陸してきたアメリカ軍と陸上戦を戦い玉砕した<ref>{{Harvnb|オネール|1988|pp=119-120}}</ref>。
 
一方、回天は、フィリピンにアメリカ軍が侵攻してくる前の1944年9月12日、軍令部の検討会で[[藤森康男]]中佐らの研究の結果として、大型潜水艦8隻(内2隻は予備)回天32基によって、[[マジュロ|メジュロ]]、[[クェゼリン環礁|クェゼリン]]、ブラウンの空母を奇襲攻撃する計画がなされ<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=547-549}}</ref>、後に目標が[[マーシャル諸島]]、[[アドミラルティ諸島]]、[[マリアナ諸島]]もしくは[[パラオ]]に変更、攻撃日も11月上旬となり、作戦名は[[玄作戦]]と決定した<ref>{{Cite web |date=2008-8-17 |url=http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/konadaa-plan-kikusui.htm |title=海軍大尉 小灘利春 回天 作戦計画の経緯(菊水隊) |accessdate=2017-2-9}}</ref>。しかしフィリピンにアメリカ軍が侵攻してくると、その迎撃のために大型潜水艦隊はフィリピンに送られ、玄作戦の参加兵力は第15潜水隊の[[伊号第三十六潜水艦|伊36潜]]、[[伊号第三十七潜水艦|伊37潜]]、[[伊号第四十七潜水艦|伊47潜]]の3隻の潜水艦と12基の回天に縮小された<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|1993|p=751}}</ref>。
 
1944年11月7日に[[第六艦隊 (日本海軍)|第6艦隊]]の司令官に就任していた三輪が自ら出撃回天隊員に対し訓示を行った。三輪は黒木・仁科らから人間魚雷の提言があったときは否定的な意見を述べていたが、皮肉にも回天の初陣を見送る立場となり、その見送られる隊員の中には、事故死した黒木の位牌を抱いた仁科もいた。第一回の回天部隊は[[菊水]]隊と命名された<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=237}}</ref>。目標は伊36潜、伊47潜が[[ウルシー環礁]]で伊37潜がパラオの[[コッソル水道]]であったが、伊37潜は回天射出前の1944年11月19日に防潜網敷設艦{{仮リンク|ウィンターベリー|en|USS Winterberry (AN-56)}}に発見され、通報により駆け付けた2隻の護衛駆逐艦に撃沈された<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=238}}</ref>。伊36潜、伊47潜は無事にウルシーに到着し、1944年11月20日早朝4時15分の仁科艇が最初に出撃し伊47潜搭載の4基は全基出撃したが、伊36潜の回天は故障などで1基しか出撃できなかった。合計5基の回天の内1基が大型[[補給艦|給油艦]][[ミシシネワ (AO-59)|ミシシネワ]]に命中した、ミシシネワは40万ガロンの航空ガソリン、85,000バレルの重油、9,000バレルの[[ディーゼル機関|ディーゼル]]燃料の3種類の燃料を満載しており、燃料に引火し大火災を起こした後横転沈没し、150人以上の死傷者を出した<ref>{{Harvnb|オネール|1988|pp=240-241}}</ref>。
 
この攻撃は、安全なはずのウルシーを震撼させ、当時ウルシーで休養していた第38.3任務群司令[[フレデリック・C・シャーマン]]は「我々は一日終日、そして次の日も、今にも爆発するかもしれない火薬庫の上に座っている様なものだった。」感想を述べているが<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=|loc=電子版, 位置No.423}}</ref>、損失は大型給油艦1隻のみであった。しかし日本軍はウルシーで空母2隻、戦艦2隻、コッソル水道で空母1隻を撃沈したと戦果を過大判定し、「回天はかくも絶大な威力をもっているのだから、さらに玄作戦を二次、三次と続けるべきだ」というムードを作り上げてしまった。そのためこの後も「菊水隊に続け」と<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|1993|p758}}</ref>、「菊水隊」より大規模な大型潜水艦6隻、回天22基で「金剛隊」が編成され、「菊水隊」と同様にアメリカ軍の泊地に対する奇襲攻撃を行ったが、歩兵揚陸艇1隻撃沈、 {{仮リンク|マザマ(弾薬輸送艦)|en|USS Mazama (AE-9)}}を大破、他輸送艦1隻を損傷の戦果に対し[[伊号第四十八潜水艦|伊48潜]]を失っている。菊水隊の攻撃でアメリカ軍の泊地は防潜網などで厳重に防備されており、奇襲は望めなくなっていることを海軍首脳部は認識し、回天作戦を泊地で停泊している艦船への攻撃から、侵攻してくるアメリカ軍艦隊を洋上で攻撃する戦術に変更した<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=257}}</ref>。
 
アメリカ軍が硫黄島に侵攻し[[硫黄島の戦い]]が始まると、「千早隊」と「神武隊」の合計4隻の潜水艦が回天作戦で出撃したが、回天警戒のため編成されていた護衛空母[[アンツィオ (護衛空母)|アンツィオ]]と[[ツラギ (護衛空母)|ツラギ]]と駆逐艦18隻の 対潜水艦部隊に、「千早隊」の[[伊号第三百六十八潜水艦|伊368潜]]、[[伊号第三百七十潜水艦|伊370潜]]が撃沈され、戦果もなかった。これまで回天作戦中の母艦の潜水艦は通常魚雷で攻撃することを禁じられていたが、「神武隊」の[[伊号第五十八潜水艦|伊58潜]]の[[橋本以行]]艦長が、目の前を航行する敵艦を攻撃する絶好の機会を逃したことから、海軍上層部に回天作戦中の通常魚雷での攻撃の許可を求める意見書を提出したところ認められた。このことが後の重巡洋艦[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]に撃沈に繋がることになった<ref>{{Harvnb|オネール|1988|pp=258-259}}</ref>。
 
====日本陸軍====
=====航空特攻=====
[[ファイル:USS Louisville hit by kamikaze.jpg|200px|thumb|right|1945年1月5日([[ルソン島の戦い]])、[[重巡洋艦]][[ルイビル (重巡洋艦)|ルイビル]]に陸軍特別攻撃隊石腸隊あるいは進襲隊の[[九九式襲撃機]]が命中した瞬間]]
[[ファイル:USS Columbia attacked by kamikaze.jpg|thumb|right|200px|1945年1月6日(ルソン島の戦い)、[[軽巡洋艦]][[コロンビア (軽巡洋艦)|コロンビア]]に急降下突入し命中直前の陸軍特別攻撃隊鉄心隊あるいは石腸隊の九九式襲撃機]]
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陸軍の特攻は鉾田教導飛行師団の'''[[万朶隊]]'''と浜松教導飛行師団の'''富嶽隊'''によって最初に行われた。通常の編成は航空本部から電文で命令されるが、命令は天皇を介するため、任命電報が送れず、[[菅原道大]]中将が編成担当者に任務を与え派遣した<ref>{{Harvnb|柳田邦男|1993|p=330}}</ref>。[[富嶽隊]]、[[万朶隊]]は、[[梅津美治郎]]参謀総長が[[藤田東湖]]の「正気の歌」から命名した<ref name="戦史叢書48p347">{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p=347}}</ref>。
 
万朶隊は、1944年10月4日航空総監部から鉾田教導飛行師団に九九双軽装備の特攻隊編成の連絡があった<ref name="戦史叢書48p345" />。10月13日、[[飛行師団|師団]]長[[今西六郎]]中将は航空総監と連絡し特攻部隊を編成の打ち合わせをした。中旬に九九双軽の特攻改修機が到着した<ref name="戦史叢書48p346">{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p346}}</ref>。特攻改修機とは、機首の風防ガラスから3mの起爆管3本を突出させ、爆弾を操縦席から投下できないようにしたものであった。(しかし、後に前線基地にて手動索で投下できるように改造された。)<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=9}}</ref>

10月20日、参謀本部から編成命令が下され、21日[[岩本益臣]][[大尉]]以下16名が決定した<ref>戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦346頁</ref><ref name="大貫渡辺p69">{{Harvnb|大貫健一郎|渡辺考|2009|p=69}}</ref>。22日航空総監代理により総監訓示が行われ、今西師団長も訓示を行う<ref name="戦史叢書48p346" />。26日九九双軽の特攻隊はフィリピンのリパに到着。29日万朶隊と命名された<ref name="戦史叢書48p346" />。
 
万朶隊は初出撃を待つが11月5日、[[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]の命令で、作戦打ち合わせに向かった岩本の操縦する九九双軽がアメリカ軍戦闘機に撃墜され、同乗していた将校を含めて5名全員が戦死した。万朶隊は隊長の岩本が「航法の天才」と呼ばれていたなど、全員が鉾田教導飛行師団の精鋭をもって組織されていたが、出撃前に大損害を被ることとなった。11月12日に田中逸夫曹長以下4機が、岩本らの遺骨を抱いてレイテ湾に向け出撃し全機未帰還、戦艦1隻、輸送艦1を撃沈したとして[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]司令官[[寺内寿一]]大将より[[感状]]が授与された<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=8}}</ref>。
 
富嶽隊は、浜松教導飛行師団長[[川上淸志]]少将は特攻隊編成の内示を受けると、同師団の第1教導飛行隊を母隊として編成し1944年10月24日から特別任務要員として南方へ派遣した。26日参謀総長代理菅原道大航空総監が臨席し出陣式が行われ、富嶽隊と命名された<ref name="戦史叢書48p347" />。
富嶽隊は、四式重爆撃機飛龍に、海軍より支給された800kg爆弾2発を搭載する代わりに、軽量化のために爆撃装備や副操縦席に至るまで全て撤去され、機首と尾部の風防ガラスをベニヤ板に変えられた特攻専用機「ト」号機を配備された<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=409}}</ref>。四式重爆撃機には通常8名(機長、操縦士、整備兵2名、通信士、爆撃手機銃手など4名)が搭乗するが<ref>{{Cite web |date=2011-02-06 |url=http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-T13-6.html |title= 重爆「飛龍」を操縦して大空へ出撃 |accessdate=2017-2-15}}</ref>、「ト」号機には操縦者と機関員(ないし通信員)の2名のみが搭乗した<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=10}}</ref>。富嶽隊もフィリピンに到着後、こちらも待機していたが11月7日早朝、初出撃した。しかしこの出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還となった。富嶽隊は13日に、隊長[[西尾常三郎]][[少佐]]以下6名が米機動部隊に突入して戦死し、戦果確認機より戦艦1隻轟沈と報告され、南方軍より感状が授与された。残った富嶽隊は1945年1月12日まで順次出撃を繰り返した<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=12}}</ref>。
 
1944年11月6日、陸軍中央は、海軍が小回りの利く零戦などの小型機による特攻で成果を挙げていることを知って、[[明野陸軍飛行学校|明野教導飛行師団]]で[[一式戦闘機]]などの小型機を乗機とする特攻隊を編成し<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.458}}</ref>、「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。名前の由来は[[日本書紀]](准南子)の「八紘をもって家となす」([[八紘一宇]])による。アメリカ軍のレイテ上陸により、一時司令部を[[ネグロス島]]に移転していた第4航空軍司令官の[[富永恭次]]中将が、11月7日にマニラ軍司令部に戻ると、「八紘隊第1隊」「八紘隊第2隊」などと呼ばれていた各隊を[[八紘隊]]、[[一宇隊]]、[[靖国隊]]、[[護国隊]]、[[鉄心隊]]、[[石腸隊]]と命名し「諸子のあと第4航空軍の飛行機が全部続く、そして最後の1機には富永が乗って体当たりをする決心である。安心して大任を果たしていただきたい。」と訓示激励し、軍司令官自ら隊員一人一人と握手し、士気を鼓舞している<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=8}}</ref>。後に八紘隊は、明野教導飛行師団・常陸教導飛行師団・[[下志津陸軍飛行学校|下志津飛行師団]]・鉾田教導飛行師団などにより合計12隊まで編成され、丹心隊、勤皇隊、一誠隊、殉義隊、皇魂隊、進襲隊と命名された<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=13}}</ref>。
万朶隊は初出撃を待つが11月5日、[[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]の命令で作戦打ち合わせに向かった隊長岩本大尉以下5名がアメリカ軍戦闘機と遭遇し戦死。富嶽隊もフィリピンに到着後、こちらも待機していたが11月7日早朝、初出撃した。しかしこの出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還となった。富嶽隊は13日に、隊長[[西尾常三郎]][[少佐]]以下6名が米機動部隊に突入して戦死(戦果未確認)。残った富嶽隊、万朶隊はその後順次出撃し、戦後の復員者は万朶隊の佐々木友治伍長のみであった。遠距離目標を指示されて未帰還となるなど、4航軍は焦りから無理な特攻隊運用を行っていた<!---出典:「特別攻撃隊」特別攻撃隊慰霊顕彰会 非売品--->。
 
1944年11月6日陸軍中央は新たに編成した6隊の特攻隊に「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。名前の由来各隊[[日本書紀]](准南子)の八紘十神鷲十機よく十艦船もって家となす」([[八紘一宇]])によ。この6隊は当初は「八紘隊第1隊「八紘隊第3隊」など区分されていほど4航司令官[[冨永恭次]]中将によって現地特攻隊行われは最も大きな戦果を挙げ命名式でそれぞれ、[[八紘]]、[[一宇隊]]、[[靖国隊]]、[[護国隊]]、[[鉄心隊]]、[[石腸隊]]改名さ言わた。その後も特攻隊は増加していったが、この命名式は終戦まで続けられた<ref>御田重宝『特攻』講談社242-243頁</ref><!-- 御田重宝『特攻』は単行本と文庫の2種類あり。どちら? -->{{信頼性要検証Harvnb|date押尾一彦|2005|p=2016-1213}}</ref name="戦史叢書48p347" />。最初期の陸軍特攻隊であるこれら6隊の以下は全て確実な戦果として、11月27日に八紘隊([[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]])が[[戦艦]]「[[コロラド (戦艦)|コロラド]]」、[[軽巡洋艦]]「[[セントルイス (軽巡洋艦)|セントルイス]]」、軽巡洋艦「[[モントピリア (軽巡洋艦)|モントピリア]]」に突入し損害を与え、[[駆潜艇]]「SC-744」を撃沈。11月29日、靖国隊(一式戦「隼」)が戦艦「[[メリーランド (戦艦)|メリーランド]]」、[[駆逐艦]]「[[フレッチャー級駆逐艦|ソーフリー]]」、駆逐艦「[[フレッチャー級駆逐艦|オーリック]]」に突入し損害を与えている。さらに12月13日には一宇隊(一式戦「隼」)あるいは海軍特別攻撃隊第2金剛隊が軽巡洋艦「[[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]]」に突入、1月5日には重巡洋艦「ルイビル」に石腸隊あるいは進襲隊(九九式襲撃機)、1月8日には軽巡洋艦「コロンビア」に鉄心隊あるいは石腸隊(九九式襲撃機)、1月9日には戦艦「[[ミシシッピ (戦艦)|ミシシッピ]]」に一誠隊(一式戦「隼」)がそれぞれ突入し損害を与えた。なかでも、靖国隊の一式戦「隼」が40.6cm砲(16インチ砲)を備える主砲塔に突入した戦艦「メリーランド」は靖国隊の突入により大破炎上し、修理のため翌1945年3月まで戦列を離れている。陸軍は比島での捷メリーランドに突入した号作だけ「隼」は、雲の中から現れて急降下約210同艦に突入する寸前に、特攻上げて急上昇をはじめ、尾翼を真下に垂直上昇してまた雲入ると、1秒後には太陽を背にして、まっさかさまの急降下でメリーランドの第2砲塔に突入した。その間特攻機は全く対空射撃を浴びることはなかった。その見事な操縦を見ていたメリーランドの水兵は「これはもっとも気分のよい自殺である。あのパイロットは一瞬の栄光の輝きとなって消えたかったのだ」と日記に書き、その特攻機の曲芸飛行を見ていたモントピリアの艦長も「彼の操縦ぶりと回避運動は見上げたものであった」と感心している<ref>{{Harvnb|戦史叢書36ウォーナー|19701982a|p=307258}}</ref>。
 
==== 全軍=水上特攻化(陸軍) =====
大損害を被りながらフィリピンに到着していた海上挺進戦隊は出撃の機会がないままに空襲や艦砲射撃により損害を重ねていたが、1945年1月9日に[[ルソン島]]上陸のために[[リンガエン湾]]に来襲したアメリカ軍輸送艦隊に高橋功大尉率いる海上挺進第12戦隊の90隻のマルレが攻撃した。1月10日の午前3時にスゥアルの基地から発進したマルレは1艇あたり2名~4名の搭乗員を乗せ、機銃や小銃を射撃しながら警戒が不十分だったアメリカ軍輸送艦隊に襲い掛かり、わずか1.45トンのマルレの攻撃で385トンの上陸支援艇LCI-974を撃沈し、6,200トンの[[攻撃輸送艦]]{{仮リンク|ウォー・ホーク(攻撃輸送艦)|en|USS War Hawk (AP-168)}}1,625トンのLST-925、LST-610(この2隻はそのまま放棄)LST-1028を大破させ、LCI-365他6隻に損傷を与えた。第12戦隊はこの戦いで壊滅したが、アメリカ軍はこの損害で特攻艇への警戒を強化せざるを得なくなった<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=112}}</ref>。
{{main|と号部隊}}
1944年末、陸軍航空総監部は『航空高級指揮官「と」号部隊運用の参考』の作成に着手、これは1945年4月ごろ関係部隊に配布された<ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|p=311}}</ref>。1945年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行う<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|pp=708-709}}</ref>。1945年1月29日陸軍中央は『「と」号部隊仮編成要領』を発令。2月6日参謀本部は特攻要員の教育を『「と」号要員学術科教育課程』の通り示達<ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|p=307}}</ref>。2月23日、中央は[[と号部隊]]の第二次編成準備を指示。3月20日実行発令<ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|p=311}}</ref>。
 
アメリカ軍は[[PTボート]]をかき集めると、魚雷を下ろす代わりに40mm、37mm、20mmといった機関砲やロケット砲を可能な限り搭載したPTボートで編成した特攻艇対策部隊を編成した。PTボートの他にも上陸支援艇や歩兵揚陸艇も機銃やロケット砲などで武装させパトロールに当たらせた。この特攻艇対策部隊と特攻艇の間の戦いが激化し、多数の特攻艇が攻撃前に撃破された<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=115}}</ref>。しかし1月31にはマニラ湾のナスプで上陸船団の護衛艦隊に20隻の特攻艇が襲い掛かり、{{仮リンク|PC-1129|en|USS PC-1129}}を撃沈している。また護衛艦隊の駆逐艦ローフとカニンガムがPTボートを特攻艇と誤認し射撃を加えた。慌てたPTボートは味方識別信号を送ったが、駆逐艦はこれを日本軍の謀略と判断しPT-77とPT-79の2隻を撃沈してしまった。アメリカ軍の記録によれば「これは日本の特攻艇の勝利である。日本の特攻艇が、アメリカ軍水兵を不安に陥れた結果である。」と記された。しかし、陸軍の特攻艇による組織的な攻撃はここまでで、アメリカ海軍は2月11日にリンガエン湾での特攻艇の脅威はなくなったと宣言した<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=119}}</ref>。
[[沖縄戦]]では、[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]所属の各'''[[振武隊]]'''と[[第8飛行師団 (日本軍)|第8飛行師団]]所属の各'''誠飛行隊'''が次々と編成され、出撃していった。また[[飛行第62戦隊]]の重爆撃機による特攻も行われた。このうち、6航軍[[司令官]]は菅原道大中将が務め、[[知覧町|知覧]]・[[都城市|都城]]などを基点に作戦が遂行された。また、海上から[[四式肉薄攻撃艇]](マルレ)を装備した[[陸軍海上挺進戦隊]]による水上特攻も行われた。6航軍[[参謀|航空参謀]][[倉澤清忠]]少佐によると、当時の陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の「戦闘部隊」と[[志願制|志願]]によって戦闘する「特攻部隊」に区別されたと言う。<ref name="ETV特集">[[日本放送協会|NHK]]「ETV特集」『許されなかった帰還 〜福岡〜振武寮 特攻隊生還者たちの戦争・』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育)</ref>[[決号作戦]]のために航空機を温存するため、また操縦が容易な機体である[[九七式戦闘機]]といった旧式機や[[九九式高等練習機]]などの練習機も特攻に投入されたが、 同時に[[三式戦闘機|三式戦闘機「飛燕」]]や[[四式戦闘機|四式戦闘機「疾風」]]といった主力戦闘機も多数特攻に投入されている。(詳細は[[#特攻兵器]]陸軍戦闘機を参照)
 
==== 成果 ====
終戦間際になると、東日本を統括している[[第1航空軍 (日本軍)|第1航空軍]]の指揮下で各'''神鷲隊'''が編成された。これらの隊は主に太平洋側に配備され、大戦最末期の[[1945年]](昭和20年)8月9日には第255神鷲隊([[岩手県|岩手]]より[[釜石市|釜石]]沖に出撃)が、13日には第201神鷲隊([[黒磯市|黒磯]]より[[銚子市|銚子]]沖に出撃)、第291神鷲隊([[東金市|東金]]より銚子沖に出撃)、第398神鷲隊(相模より[[下田市|下田]]沖に出撃)と3隊が出撃している。
[[ファイル:USS Intrepid (CV-11) - Nov 44 a.jpg|thumb|right|250px|特攻により大破炎上する正規空母イントレピッドを戦艦[[ニュージャージー (戦艦)|ニュージャージー]]から望む]]
海軍航空隊はフィリピン戦で特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い<ref>{{Harvnb|図説特攻|2003|p=58}}</ref>、陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失ったが<ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|p=307}}</ref>、アメリカ軍はレイテ島、ミンダナオ島、ルソン島と進撃を続け、特攻は遅滞戦術に過ぎなかった<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=171}}</ref>。1945年1月13日の陸軍航空隊の精華隊2機の出撃でフィリピンでの特攻作戦は終結し、1月17日に陸軍第4航空軍司令の富永は、一式戦4機の護衛を付けて[[九九式襲撃機|九九式軍偵察機]]で台湾台北に脱出したが<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=8}}</ref>、脱出に際し上級司令部の許可はとっていなかったため、[[予備役]]に編入された<ref>{{Harvnb|図説特攻|2003|p=60}}</ref>。
 
海軍第1航空艦隊は1月6日のリンガエン湾攻撃により陸軍より先に航空機をほぼ全て消耗してしまったため、司令の大西はルソンの山中で陸戦隊としてアメリカ軍を迎え撃つべく陣地の構築を命じ、第2航空艦隊の福留らには台湾への撤退を提案した。大西は201空の玉井と中島に、神風特攻隊の戦績を報告するために台湾への脱出を命じ、自分らはルソン山岳地帯への移動の準備をしていたが、連合艦隊より第1航空艦隊は台湾に[[転進]]せよとの命令が届いた。大西は躊躇したが、猪口ら参謀の説得に応じて、第1航空艦隊司令部と生存していた搭乗員は台湾に撤退することとなった<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|pp=166-168}}</ref>。1月10日に陸軍航空隊より一足早く第1航空艦隊の一部はルソン島から台湾に移動したが、整備兵や地上要員など多くの兵士がそのまま残されて後に地上戦で死ぬ運命に置かれた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=320}}</ref>。残った兵士らは、杉本丑衛26航戦司令官の指揮下で「クラーク地区防衛部隊」を編成し地上戦を戦ったが、大西は残してきた兵士らに気を揉み、台湾に転進後も常々「いつか俺は、落下傘でクラーク山中に降下し、杉本司令官以下みんなを見舞ってくるよ」と部下に話していた<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=170}}</ref>。
=== 日本海軍 ===
==== 戦死前提以前(海軍) ====
日露戦争の[[旅順港閉塞作戦|旅順閉塞隊]]<ref>{{Citation |和書|author=小笠原淳隆|editor=|year=1942|month=12|title=轟沈|chapter=三十七年前の特別攻撃隊|publisher=東水社|url={{NDLDC|1460404/57}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ref=轟沈}}</ref>、[[真珠湾攻撃]]の[[甲標的]]など特攻的決死戦法思想は古くからあったが、最高指揮官は攻撃後の生還収容方策手段を講じられる時のみ計画、命令したものであり、1944年10月以降に行われた特攻作戦とは本質的に異なる<ref>{{Harvnb|戦史叢書88|1975|p=124}}</ref>。
 
日本軍からは特攻の戦果の確認が困難だったために、直援戦闘機などからの戦果報告は、実際に与えた損害より過大となり、その過大報告がそのまま大本営発表となった。[[日本放送協会|NHK]]や新聞各社は、連日新聞紙上やラジオ放送などで、大本営発表の華々しい戦果報道や特攻隊員の遺言の録音放送など一大特攻キャンペーンを繰り広げた<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.917}}</ref>。国民はその過大戦果に熱狂し、新聞・雑誌は売り上げを伸ばすために争うように特攻の「大戦果」や「美談」を取り上げ続けた<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.777}}</ref>。やがてこの過大戦果は、軍の中で特攻に反対していた人々の意見を封殺するようになっていった<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.1058}}</ref>。
[[1934年]](昭和9年)、[[第二次ロンドン海軍軍縮会議]]の予備交渉において日本側代表の一人[[山本五十六]]少将(太平洋戦争時の連合艦隊司令長官)は新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語った<ref>{{Citation |和書|author=米内光政|editor=|year=1943|month=12|title=常在戦場|chapter=周到なる準備|publisher=大新社|url={{NDLDC|1058250/35}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ref=常在戦場}}コマ36-37(原本59-60頁)『一日元帥と會食した時、飛行機の體當り戰術なるものを私は初めて聞いた。"君は僕を{{読み仮名|亂暴|らんぼう}}な男と思ふだらう。然し考へて見給へ、艦長は艦と運命を共にする、飛行機の操縦士が機と運命を共にするのは{{読み仮名|當然|とうぜん}}ぢやないか、飛行機は軍艦に比べて小さいが、操縦士と艦長とは全く同じだ、僕は今度日本に歸つたら、もう一度是非航空をやる。さうして僕が海軍にゐる以上は、飛行機の{{読み仮名|體當り|たいあたり}}戰術は誰が何と云つても止めないよ、君見てゐ給へ"と云はれた。眞珠灣攻撃の第一報を見た時も、私は今更のやうに元帥の姿をはつきり目の前に見た』</ref>。
 
フィリピン戦時点では、特攻による損失機数は戦闘における全損失機数の14%に過ぎなかったように、日本軍の航空作戦の中心は特攻ではなかった。アメリカ軍も、「特攻が開始されたレイテ作戦の前半には、レイテ海域に物資を揚陸中の輸送艦などの「おいしい獲物」がたっぷりあったのに対して、アメリカ軍は陸上の飛行場が殆ど確保できていなかったので、非常に危険な状況であったが、日本軍の航空戦力の主力は通常の航空作戦を続行しており、日本軍が特攻により全力攻撃をかけてこなかったので危機は去った。」と評価していた<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|pp=170-171}}</ref>。しかし次の決戦地は沖縄になると考えていた軍令部一部長兼大本営海軍部参謀[[富岡定俊]]少将らにより、過大な戦果判定を判断の材料として、[[沖縄戦]]では特攻戦法を軸にして戦うという方向性が示された<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.1459}}</ref>。
1941年(昭和16年)12月太平洋戦争の劈頭で実施された[[甲標的]]の部隊が「特別攻撃隊」と命名され、後日広く報道された<ref>{{Citation |和書|author=山田国男|editor=|year=1942|month=4|title=軍神特別攻撃隊九勇士|chapter=|publisher=一心堂|url={{NDLDC|1457031}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ref=軍神九勇士}}</ref>。1941年11月11日、第六艦隊において、首席参謀[[松村寛治]]中佐の発案で、長官の[[清水光美]]中将が命名した<ref>藤田ほか『証言真珠湾攻撃』光人社134頁</ref><!-- 光人社刊『証言・真珠湾攻撃』は単行本と文庫の2種類あり。どちら? -->{{信頼性要検証|date=2016-12}}。甲標的は攻撃後に帰還する計画だが、一度出撃すれば、自力での帰還はほぼ不可能に近いため、決死の作戦だった。その後も甲標的による特別攻撃隊は、1942年4月シドニーの「第一特別攻撃隊」、マダガスカルの「第二特別攻撃隊」、ガダルカナルの「第三特別攻撃隊」が実施されたが、全て帰還者はいなかった。甲標的の部隊は、その後も数が増えていったため、「特別攻撃隊」の名前は使われなくなったが、後の特攻隊に名前は受け継がれた<ref name="寺田近雄p117" />。
 
=== 全軍特攻 ===
また、自発的な体当たり、自爆攻撃が行われることもあった。真珠湾攻撃で制空隊中隊長[[飯田房太]]大尉の搭乗機は被弾し母艦への帰還が困難と判断し、カネオヘのアメリカ海軍飛行場[[格納庫]]に向け突入した(命中できず妻帯士官宿舎付近の舗装道路に激突)。[[珊瑚海海戦]]で機動部隊の上空直衛を行っていた[[宮沢武男]]兵曹は、空母[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]へ雷撃態勢に入った[[TBD (航空機)|TBD デバステーター]]に対して撃墜の暇なしと見て体当たりを敢行し戦死した。[[ミッドウェー海戦]]で南雲機動部隊の空母3隻が致命打を受けたあと、空母飛龍から米機動部隊に向け発進した攻撃隊隊長[[友永丈市]]大尉は米空母[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]を攻撃した際に被弾し同乗の赤松少尉・村井一等飛行兵曹と共に同艦に体当たりした。[[南太平洋海戦]]で[[第三艦隊 (日本海軍)|南雲機動部隊]]の上空直衛の[[大森茂高]]一飛曹の零戦が、翔鶴へ攻撃態勢に入ったSBDドーントレス投弾体勢に対し体当たりを敢行し戦死している。また、翔鶴ならびに[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]から出撃した米空母機動部隊への攻撃隊のうち、第5航空戦隊艦攻隊隊長・第1次攻撃隊総指揮官[[村田重治]]少佐の[[九七式艦上攻撃機]]、第5航空戦隊艦爆隊隊長[[坂本明]]大尉の[[九九式艦上爆撃機]]が米空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]を攻撃中に同艦の対空砲火により被弾し、2機とも同艦へ突入し戦死した。[[台湾沖航空戦]]で第26航空戦隊司令官[[有馬正文]]少将は[[一式陸上攻撃機]]に搭乗し攻撃部隊の空中指揮を執り、敵艦に突入した。
==== 沖縄戦前 ====
=====日本海軍=====
[[ファイル:G4M2e with Okha and crew 1945.jpeg|thumb|right|出撃直前の桜花を搭載した一式陸攻と第721海軍航空隊の搭乗員]]
ここまで航空特攻は現地部隊の自発による編成の形式をとっていたが、1945年1月19日に陸海軍大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行い、1945年2月10日には[[第五航空艦隊|第5航空艦隊]]の編成で軍令部、連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われた。5航艦司令長官となった[[宇垣纏]]中将は長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底させた<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|pp=708-709}}</ref>。
フィリピンでの大量損失で大打撃を受けていた海軍航空隊も再編成が進められ、3月上旬までに第5航空艦隊600機、第3航空艦隊800機が準備可能と見込まれていた<ref>{{Harvnb|丸スペシャル 神風特別攻撃隊|1986|p=44}}</ref>。
 
1945年2月4日、軍令部の[[寺内義守]]航空部員は、[[松浦五郎]]とともに従来の訓練を止め命中の良さから特攻に集中すべきと主張した。[[田口太郎]]作戦課長は練習生が[[練習機]]で特攻を行う方法の研究を求め、[[寺崎隆治]]も練習機「[[白菊]]」が多数あることから戦力化が必要と発言した<ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1976|pp=242-243}}</ref>。1945年2月、[[硫黄島の戦い]]が開始されたことを受けて、全航空隊特攻化計画が決定する。同年3月1日、海軍練習連合航空総隊を[[第10航空艦隊]]に改編し、特攻隊員訓練のため一般搭乗員の養成教育を5月中旬まで中止した<ref name="戦史叢書88p141-142">{{Harvnb|戦史叢書88|1975|pp=141-142}}</ref>。第10航空戦隊は4月末を目途に、通常の作戦機700機と練習機1,100機を戦力化する計画であった<ref>{{Harvnb|丸スペシャル 神風特別攻撃隊|1986|p=44}}</ref>。
==== 戦死前提への過程(海軍) ====
1945年5月15日、中止されていた新規搭乗員教育が再開したが、戦闘機搭乗員の他は特攻教育が主になった<ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1976|p=264}}</ref>。
[[連合艦隊]]主席参謀(当時の司令長官[[山本五十六]]大将)としてモーターボートによる特攻の構想(後の[[震洋]])を[[海軍軍令部|軍令部]]に語っていた[[黒島亀人]]が軍令部第二部長に就任すると、1943年8月6日戦備考査部会議において突飛意表外の方策、必死必殺の戦を提案し、一例として戦闘機による衝突撃の戦法を挙げた。1943年8月11日には第三段作戦に応ずる戦備方針をめぐる会議で必死必殺戦法とあいまつ不敗戦備確立を主張した<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|p=322}}</ref>。1943年6月末、侍従武官[[城英一郎]]が航空の特攻隊構想である「特殊航空隊ノ編成ニ就テ」を立案する。内容は爆弾を携行した攻撃機による艦船に対する体当たり特攻で、専用機の構想もあり、艦船ごとの予期効果までまとめられていた。城は航空本部総務部長[[大西瀧治郎]]中将に相談して「意見は了とするが未だその時にあらず」と言われるが、城の決意は変わらず、上の黙認と機材・人材があれば足りると日記に残している<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=322-324}}</ref>。
 
台湾に転進した大西ら第1航空艦隊は台湾でも特攻を継続し、残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。[[台南海軍航空隊]]の中庭で開催された命名式で大西は「この神風特別攻撃隊が出て、万一負けたとしても、日本は亡国にならない。これが出ないで負けたら真の亡国になる」と訓示したが、幕僚らは「負けても」という表現を不思議に感じた。この訓示を聞いていた201空の中島は、この時点で大西は目先の戦争の勝敗ではなく、敗戦した場合の日本の悠久性を考えていたのだろうと戦後に述懐している<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|pp=172-173}}</ref>。1月21日に台湾に接近してきた第38任務部隊に対し「神風特攻隊新高隊」が出撃、少数であったが正規空母 [[タイコンデロガ (空母)|タイコンデロガ]] に2機の特攻機が命中し、格納庫の艦載機と搭載していた魚雷・爆弾が誘爆し沈没も懸念されたが、{{仮リンク|ディクシー・キーファー|en|Dixie Kiefer}}艦長が自らも右手が砕かれるなどの大怪我を負ったが、艦橋内にマットレスを敷き横になりながら、12時間もの間的確な[[ダメージコントロール]]を指示し続け、沈没は免れた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=338}}</ref>。
===== 水中特攻 =====
1943年末、甲標的搭乗員の[[黒木博司]]大尉と[[仁科関夫]]中尉が[[人間魚雷]]の構想を血書で省部に上申したが、12月28日軍令部総長[[永野修身]]は「それはいかんな」と却下する。マーシャル陥落、[[トラック島空襲]]を受けて中央は1944年2月26日初の[[特攻兵器]]となる「人間魚雷」の試作を決定した。最初は搭乗員の水中放出を条件としていたが、海軍はここから組織的特攻に動き出した<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=325-327}}</ref>。1944年4月4日、軍令部第二部長[[黒島亀人]]により「作戦上急速実現を要望する兵力」として、「体当たり戦闘機」「装甲爆破艇(震洋)」「大威力魚雷(回天)」の特攻兵器の開発が提案された。軍令部はこれを検討後、他の兵器とともに「装甲爆破艇(震洋)」「大威力魚雷(回天)」の緊急実験を海軍省に要望した。海軍省[[海軍艦政本部]]は仮名称を付して担当主務部定め特殊緊急実験を開始した<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=326-327}}</ref>。
 
1945年2月6日に陸軍が沖縄方面で大規模な航空作戦をおこなうことを(大陸指第2382号)海軍に提案、当初海軍は陸軍の提案に難色を示していたが、3月1日に大本営により陸海軍の調整により「航空作戦に関する陸海軍中央協定」が結ばれ「海軍は敵機動部隊、陸軍は敵輸送船団」を主攻撃目標とする方針が決められ、作戦名は[[天号作戦]]と名付けられた。天号作戦は敵を迎え撃つ海域に応じた番号が付され、沖縄方面の場合は「天一号作戦」台湾方面は「天二号作戦」東シナ海沿岸方面を「天三号作戦」[[海南島]]以西を「天四号作戦」と呼称することとしたが、海軍は次に連合軍は沖縄に攻めてくる公算が大きいと考えており<ref>{{Harvnb|丸スペシャル 神風特別攻撃隊|1986|p=44}}</ref>、3月20日に[[南西諸島]]の緊張が高まりつつあるのを受けて大本営海軍部は「帝国海軍当面作戦計画要綱」を発令し、沖縄での航空決戦に舵をきっていくことになった<ref>{{Harvnb|太平洋戦争⑧|2010|p=13}}</ref>。
[[マリアナ沖海戦]]の敗北を受け、1944年6月25日元帥会議が行われた。[[伏見宮博恭王]]より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。
 
硫黄島の戦いには航空特攻の「第2御盾隊」と回天の「千早隊」「神武隊」が[[栗林忠道]]中将率いる[[第109師団 (日本軍)|小笠原兵団]]の支援のために送られた。「第2御盾隊」は32機と少数であったが、護衛空母[[ビスマーク・シー (護衛空母)|ビスマーク・シー]]を撃沈、正規空母[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]に5発の命中弾を与えて大破させた他、{{仮リンク|キーオカック(防潜網輸送船) |en|USS Keokuk (CMc-6)}}など数隻を損傷させる戦果を挙げた。特攻によるアメリカ軍の被害は硫黄島からも目視でき、[[第27航空戦隊]]司令官[[市丸利之助]]少将が「敵艦船に対する勇敢な特別攻撃により硫黄島守備隊員の士気は鼓舞された」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電している。またこの成功を聞いた大西は特攻作戦について自信を深め、その後就任した軍令部次長として特攻を推進していく動機付けともなった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=348}}</ref>。
陸軍の参謀本部総長[[東條英機]]、海軍の軍令部総長[[嶋田繁太郎]]はすでに考案中であると答えた。会議後、軍令部総長兼海軍省大臣の嶋田繁太郎は、海軍省に奇襲兵器促進班を設け、実行委員長を定めるように指示する。1944年7月1日大森仙太郎が海軍特攻部長に発令される(正式就任は9月13日)<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=34-39}}</ref>。大森の人選は、水中特攻を重視しての人選であり、大森は全権を自分に委ねてどの部署も自分の指示に従うようにするという条件を出して引き受けた<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|p=327}}</ref>。1944年9月13日海軍省特攻部が発足。特攻兵器の研究・調査・企画を掌握し実行促進を行う<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=327-328}}</ref>。
 
1945年2月17日、[[豊田副武]]連合艦隊司令長官はアメリカ艦隊を[[ウルシー環礁|ウルシー]]帰着の好機をとらえて奇襲を断行する[[丹作戦]]を命令した。[[宇垣纏]]5航艦司令長官は陸上爆撃機「[[銀河 (航空機)|銀河]]」を基幹とする特攻隊を編成し菊水部隊梓特別攻撃隊と命名した。3月11日からウルシーに帰投した米機動部隊の[[正規空母]]を目標に24機の銀河で特攻が行われたが、途中で脱落する機が続出し、1機が 正規空母[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]に命中し中破させたに終わった <ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1976|pp=231-232}}</ref>。
1944年7月10日特攻兵器[[回天]]の部隊として第一特別基地隊の編成が行われる<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|p=328}}</ref>。1944年7月21日、総長兼大臣の[[嶋田繁太郎]]は[[連合艦隊司令長官]][[豊田副武]]に対して特殊奇襲兵器(「[[回天]]」)の作戦採用が含まれた「大海指四三一号」を発令した(水中特攻のみで航空では夜間の奇襲作戦が採用されている)<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=212-216}}</ref>。
{{main|桜花 (航空機)}}
1945年3月17日、海軍大臣の内令兵第八号をもって、正式に兵器として採用された桜花は<ref>{{Harvnb|戦史叢書88|1975|p=186}}</ref>、3月18日に開始された[[九州沖航空戦]]が初陣となった。3月21日に[[航空艦隊#第五航空艦隊|第五航空艦隊]]司令[[宇垣纏]]中将が、[[第七二一海軍航空隊]]に[[第58任務部隊]]攻撃を命令したが、5航艦はそれまでの激戦で戦闘機を消耗しており、護衛戦闘機を55機しか準備できなかった。そこで第七二一海軍航空隊司令の[[岡村基春]]大佐が攻撃中止を上申したが、宇垣は「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と岡村を諭し、出撃を強行している。[[野中五郎]]少佐に率いられた一式陸攻18機の攻撃隊は、途中で護衛の戦闘機の多くが故障で脱落する不幸にも見舞われ、岡村に懸念通り、アメリカ空母に接近することもできずに全滅した<ref>{{Harvnb|山岡荘八|2015|p=286}}</ref>。
 
===== 航空特攻日本陸軍 =====
{{main|と号部隊}}
航空特攻は、前述の1943年7月ごろの[[城英一郎]]大佐による「特殊航空隊の編成に就て」が最初の具体的な提言と思われる。目的はソロモン、ニューギニア海域の敵艦船を飛行機の肉弾攻撃に依り撃滅すること、部隊構成、攻撃要領、特殊攻撃機と各艦船への攻撃法、予期効果がまとめられている。<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=322-323}}</ref>その後、軍令部第二部長[[黒島亀人]]の提案や1944年春に海軍省兵備局第3課長[[大石保]]から戦闘機による大型機に対する体当たり特攻が中央に要望されていたが、1944年6月[[マリアナ沖海戦]]敗北まで中央に考慮する動きはなかった。<ref name="戦史叢書45p331-333">{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=331-333}}</ref>マリアナ沖海戦敗戦後は、通常航空戦力ではもはや対抗困難という判断が各部署でなされ、特攻検討の動きが活発化しており、[[城英一郎]]大佐から機動部隊長官[[小沢治三郎]]、[[連合艦隊司令部]]、[[軍令部]]に対して航空特攻採用の上申が行われている。1944年6月19日、341空司令[[岡村基春]]大佐は第二航空艦隊長官[[福留繁]]中将に「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」と意見具申した。数日後、福留は上京して、岡村の上申を軍令部次長[[伊藤整一]]中将に伝えるとともに中央における研究を進言した。伊藤は総長への本件報告と中央における研究を約束したが、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた。また、また7月[[サイパンの戦い|サイパンの失陥]]で国民からも海軍省、軍令部に対して必死必殺の兵器で皇国を護持せよという意見が増加した<ref name="戦史叢書45p331-333" />。
1944年末、陸軍航空総監部は『航空高級指揮官「と」号部隊運用の参考』の作成に着手、これは1945年4月ごろ関係部隊に配布された<ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|p=311}}</ref>。1945年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行う<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|pp=708-709}}</ref>。1945年1月29日陸軍中央は『「と」号部隊仮編成要領』を発令。2月6日参謀本部は特攻要員の教育を『「と」号要員学術科教育課程』の通り示達<ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|p=307}}</ref>。2月23日、中央は[[と号部隊]]の第二次編成準備を指示。3月20日実行発令<ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|p=311}}</ref>。
 
陸軍航空隊は天号作戦に際し3月上旬までに1,830機の稼働機を準備したが、陸軍航空隊の主力[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]は大陸命第一二七八号(1945年3月19日) にて連合艦隊司令長官の指揮下に置かれ、海軍と一体の特攻作戦を推進していくこととなった<ref>{{Harvnb|安延多計夫|1995|p=151}}</ref>。連合艦隊の「天一号作戦計画」で、陸軍の特攻は「第6航空軍はおおむね沖縄本島以北の南西諸島及び九州方面に展開し、主として輸送船団を補足撃滅す。なお、なしうる限り一部をもって敵空母群撃滅に協力す。」と主に機動部隊主力を攻撃目標とした海軍と役割分担が定められた<ref>{{Harvnb|丸スペシャル 神風特別攻撃隊|1986|p=44}}</ref>。
[[マリアナ沖海戦]]前後に[[海軍省]]の航空本部、航空技術廠で研究が進められていた偵察員[[大田正一]]少尉発案の航空特攻兵器「[[桜花 (航空機)|桜花]]」を軍令部も承認して1944年8月16日正式に桜花の試作研究が決定する<ref name="戦史叢書45p331-333" /><ref name="戦史叢書45p331-333" /><ref>{{Harvnb|秦郁彦|1999a|pp=512-513}}</ref>。1944年10月1日桜花の実験、錬成を行う第七二一海軍航空隊(神雷部隊)を編制。この編制ではまだ特攻部隊ではなく、普通の航空隊新設と同様の手続きで行われている<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=704}}</ref>。
 
陸軍も海軍同様に天号作戦では特攻戦術に重点を置く決定をしていた。戦後の[[米国戦略爆撃調査団]]の事情聴取に対し、第6航空軍の高級参謀はその理由として下記の4つを挙げている<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=176}}</ref>。
{{main|神風特別攻撃隊}}
# [[オーソドックス]]な方法を使用していては、航空戦で勝利を得る見込みがなかった。
1944年10月5日、[[大西瀧治郎]]中将が[[第一航空艦隊]]司令長官に内定し、10月20日[[神風特別攻撃隊]]を創設。神風特攻隊は大西独自の動きであり、事前に報告はあったが、同攻撃隊の編成に海軍部が関与することはなかった<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|p=346}}</ref>。大西はフィリピンに出発する前に海軍省大臣[[米内光政]]に現地で特攻を行う決意を語り承認を得て<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2001|p=224}}</ref>、軍令部総長[[及川古志郎]]に対しても決意を語り、「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します。」<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|pp=13-16}}</ref>「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と及川の承認も得た。大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=705}}</ref>。また大西は発表に関する打ち合わせも行い、事前に中央は発表に関して大西からの指示を仰ぐ電文も用意し、事後に発信している<ref name="戦史叢書56p108-109">{{Harvnb|戦史叢書56|1952|pp=108-109}}</ref><ref name="戦史叢書45p503-504etc">{{Harvnb|戦史叢書45|1971|loc=pp.503-504, 538}}</ref>{{#tag:ref|大海機密第261917番電 1944年10月13日起案,26日発信「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」発信中沢佑、起案源田実。「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」人事局主務者の意見<ref name="戦史叢書56p108-109" /><ref name="戦史叢書45p503-504etc" />。「神風」の名前が既にあるため大西は出発前にすでに名前も打ち合せていたとも言われる。しかし、命名者の[[猪口力平]]は19日に提案したと証言している。最初の編成命令を起案した[[門司親徳]]によれば起案日は誤記で23日ではないかと話している<ref>御田重宝『特攻』講談社32頁</ref><ref>{{Harvnb|神立尚紀|2011a|pp=126-127}}</ref>。電文の起案を担当した[[源田実]]はこの電文について日付は覚えていないが、神風特攻隊の名前はフィリピンに飛んだ際に大西から直接聞いたと証言している<ref>御田重宝『特攻』講談社32頁</ref>。この電文を特攻や命名の指示と紹介する文献もあるが、現地で特攻の編成・命名が行われたのは20日であり、この電文が現地に発信されたのは26日であるため、この電文は特攻隊の編成や命名に影響を与えていない。また、連絡のためにこの電報を打ったのは軍令部であるが、案件である発表に関しては海軍省によるものである<ref>富永謙吾『大本営発表の真相史』自由国民社200-201頁。海軍省発表</ref><!-- 国会図書館には『大本営発表の真相史』が複数存在。どれのこと? -->{{信頼性要検証|date=2016-12}}。|group="注"}}。
# 特攻はオーソドックスな攻撃よりも効果が大きい。その理由は、爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、またガソリンの爆発で火災が起きる。さらに、適切な角度でおこなえば通常の爆撃よりもスピードが大きく、命中率が高くなる。
# 特攻は、地上部隊と日本人全体に精神的鼓舞をあたえる。
# 特攻は、限定された訓練しかうけていない要員でおこなわなければならない攻撃のタイプのなかでは、たったひとつの確実で信頼できるものである。
アメリカ軍はこの証言を聞いて「日本空軍はフィリピン作戦がはじまるころまでに、オーソドックスな航空戦力として存在ができなくなるほど、叩きのめされていたのである。」と分析し、この第6航空軍の決定に対して「冷静で論理的(ロジカル)な軍事的選択の結果」と評価している<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=177}}</ref>。
 
6航軍[[参謀|航空参謀]][[倉澤清忠]]少佐によると、当時の陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の「戦闘部隊」と[[志願制|志願]]によって戦闘する「特攻部隊」に区別されたと言う。<ref name="ETV特集">[[日本放送協会|NHK]]「ETV特集」『許されなかった帰還 〜福岡〜振武寮 特攻隊生還者たちの戦争・』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育)</ref>[[決号作戦]]のために航空機を温存するため、また操縦が容易な機体である[[九七式戦闘機]]といった旧式機や[[九九式高等練習機]]などの練習機も特攻に投入されたが、 同時に[[三式戦闘機|三式戦闘機「飛燕」]]や[[四式戦闘機|四式戦闘機「疾風」]]といった主力戦闘機も多数特攻に投入されている。(詳細は[[#特攻兵器]]陸軍戦闘機を参照)第6航空軍所属の各'''[[振武隊]]'''と[[第8飛行師団 (日本軍)|第8飛行師団]]所属の各'''誠飛行隊'''が次々と編成され、出撃していった。また[[飛行第62戦隊]]の重爆撃機による特攻も行われた。このうち、6航軍[[司令官]]は菅原道大中将が務め、[[知覧町|知覧]]・[[都城市|都城]]などを基点に作戦が遂行された。
大西はフィリピンに到着するまでに、[[豊田副武]]連合艦隊長官に「単独飛行がやっとの練度の現状では被害に見合う戦果を期待できない、体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と語った。フィリピンに到着すると前任者である[[寺岡謹平]]に特攻隊の構想を打ち明けて同意を求めたが、寺岡は後任の大西に一任した<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=502-504}}</ref>。1944年10月19日夕刻マバラカットに到着後、[[第二〇一海軍航空隊|第201海軍航空隊]]副長[[玉井浅一]]中佐、1航艦首席参謀[[猪口力平]]中佐などを招集し体当たり攻撃法を{{読み仮名|披瀝|ひれき}}する。玉井が人選を行い、指揮官は猪口の意向で[[海軍兵学校]]出身の[[現役]][[士官]]から[[関行男]]大尉が選ばれた。10月20日に大西による訓示と部隊名発表があり、'''神風特別攻撃隊'''が編成される<ref>{{Harvnb|戦史叢書56|1972|pp=111-114}}</ref>。
 
====沖縄戦以降====
日本海軍では、航空機による体当たり攻撃を「神風特別攻撃隊」として統一名で呼称した。名称は[[猪口力平]]中佐の発案によるもので、郷里の古剣術の道場「{{読み仮名|神風|しんぷう}}流」から名付けたものである<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2001|pp=52-53}}</ref>。一方で第201航空隊飛行長[[中島正]]少佐の証言では「かみかぜ」と読む<ref>押尾一彦著 モデルアート1995年11月号臨時増刊「神風特別攻撃隊」196頁</ref>。
=====航空特攻=====
[[ファイル:Kamikaze attacks on U.S. ships.ogg|thumb|right|250px|「沖縄戦で特攻と戦うアメリカ軍艦船」 アメリカ国防省制作(実際は沖縄戦以外の映像多い)]]
日本軍は沖縄本島にアメリカ軍が上陸した1945年4月1日に「天一号作戦」を発動、海軍は「[[菊水作戦]]」、陸軍は「航空総攻撃」という作戦名で九州・台湾から航空特攻を行った。特攻作戦が最大規模で実施されたのは、沖縄戦中の1945年4月6日の菊水一号作戦発動時であり、翌7、8日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入され多大な戦果を挙げている<ref>{{Harvnb|スパー|1987|p=148}}</ref>。第54任務部隊(司令[[モートン・デヨ]]少将)は9隻の戦艦・巡洋艦と7隻の駆逐艦で作戦中に特攻機による集中攻撃を受けたが、まずは戦艦などの主力艦外周3,500mに展開していた駆逐艦隊が最初の目標となった。その様子を旗艦の戦艦[[テネシー (戦艦)|テネシー]]に乗艦していた[[サミュエル・モリソン]]少将が目撃しているが、駆逐艦[[ブッシュ (DD-529)|ブッシュ]]と[[コルホーン (DD-801)|コルホーン]]が撃沈され、駆逐艦[[ニューコム (駆逐艦)|ニューコム]] と[[ロイツェ (駆逐艦)|ロイツェ]] が再起不能となる深刻な損傷を被った<ref>{{Harvnb|ハーシー|1994|pp=226-236}} }}</ref>。ニューコムは[[レイテ沖海戦|スリガオ海峡海戦]]で西村艦隊の戦艦への魚雷攻撃を指揮した、アメリカ軍駆逐艦の中でもっとも敢闘精神が旺盛な艦と評されていたが<ref>{{Harvnb|ハーシー|1994|p=228}} }}</ref>、特攻機が戦艦ではなく自分達に突入したことに対し、乗員が「どうして我々なんだ?」と困惑していたという<ref>{{Harvnb|スパー|1987|p=150}}</ref>。
 
この戦闘のように、駆逐艦に損害が集中したのが沖縄戦の特攻作戦の特徴である。アメリカ軍はフィリピン戦での特攻による大損害を分析し、様々な特攻対策を講じたが、その中の一つが戦艦や空母といった主力艦隊の外周に、レーダー搭載の駆逐艦等の[[レーダーピケット艦]]を配置し、特攻機が主力艦隊に到達する前に効果的な迎撃を行うというものであった<ref name="神風は吹いたのか" />。この対策により、空母等の主力艦への突入機数は減少したが、逆に[[レーダーピケット艦]]の損害は増大することとなり、「弱いヤギ(ピケット艦)を犠牲に、狼(特攻機)から群れ(主力艦艇)を守るようなもの」<ref>ドキュメント番組『Kamikaze in Color』メディア販売 Goldhill Home Media社</ref>とか「まるで射的場の標的の様な形で沖縄本島の沖合に(駆逐艦が)配置されている」<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995|p=351}}</ref>と{{読み仮名|揶揄|やゆ}}されている。アメリカ海軍水陸両用部隊司令[[リッチモンド・K・ターナー]]中将の幕僚は、「艦隊より優秀な艦を選んでレーダーピケット艦としたが、それはそのピケット艦と乗組員に対する死刑宣告も同然だった」と述懐している<ref>{{Harvnb|安延多計夫|1995|p=179}}</ref>。デヨは駆逐艦の消耗があまりに激しいため「駆逐艦の消耗具合が容易ならざる水準に達している」<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=87}}</ref>と危機感を募らせている。あまりに特攻がレーダーピケット艦を攻撃してくるので、駆逐艦{{仮リンク|ラフィー(DD-724)|en|USS Laffey (DD-724)}}の乗組員の内1名が「Carriers This Way(空母はあちら)」という意味の矢印を書いた大きな看板を掲げたこともあったが、ラッフェイはニューコムと同じ5機の特攻を受け大破した<ref>{{Harvnb|Walker|2009|p=72}}</ref>。レーダーピケット艦の消耗により、早期警戒網を突破して主力艦隊に突入する特攻機も増え、戦艦・空母といった主力艦の損害も次第に増加していくこととなった。4月12日には第54任務部隊の旗艦戦艦テネシーにも2機の特攻機が命中し、死傷者199名の甚大な損傷を受けている。デヨも艦橋目がけて突入してきた特攻機が直前で撃墜されて、九死に一生を得ている。その際、集中射撃してもなかなか撃墜できなかった特攻機を見て「彼奴らの体は何でできているのだろうか。」と驚嘆している<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=90}}</ref>。
==== フィリピンでの特攻(海軍) ====
[[ファイル:USS White Plains attack by Tokkotai unit 25.10.1945 kk1a.jpg|200px|thumb|right|1944年10月25日、[[護衛空母]]ホワイト・プレーンズに肉迫する第1神風特別攻撃隊「敷島隊」の零戦。この直後、対空砲火によって右翼に被弾、撃墜された。]]
神風特別攻撃隊の初出撃は1944年10月21日であった。'''敷島隊'''、'''大和隊'''、'''朝日隊'''、'''山桜隊'''の計24機が出撃したが悪天候などに阻まれ、ほぼ全機が帰還したが、大和隊隊長[[久納好孚]]中尉が未帰還となった。各隊は出撃を連日繰り返すも空振りに終わり、23日に大和隊[[佐藤馨上]]飛曹が未帰還。そして25日、敷島隊の関行男大尉以下6機が、4度目の出撃で1機(2機)がアメリカの護衛空母[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]を撃沈したのをはじめ、大和隊の4機、朝日隊の1機、山桜隊の2機、'''菊水隊'''の2機、'''若桜隊'''の1機、'''彗星隊'''の1機等が次々に突入し、護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げた。これを大本営海軍部は大々的に発表し、敷島隊指揮官であった関は[[軍神]]として祀り上げられることとなった<ref>特別攻撃隊慰霊顕彰会 非売品</ref>。
 
初出撃が失敗に終わった桜花も沖縄戦に投入された。4月12日の三回目の出撃で駆逐艦[[マナート・L・エベール (駆逐艦)|マナート・L・エベール]]を撃沈した。アメリカ軍は桜花に、自殺する愚かものが乗る兵器という意味で「BAKA」というニックネームを付けたが<ref>{{Harvnb|内藤初穂|1999|p=180}}</ref>、一度発射されればほぼ迎撃は不可能であり、アメリカ艦隊の中に桜花に対する恐怖が蔓延した<ref>{{Harvnb|トーランド|loc=電子版, 位置No.4439}}</ref>。しかし、その後は母機の脆弱性が制限要素となり、戦果は3隻の駆逐艦を大破(内2隻除籍)させたに止まり、アメリカ軍からは「この自殺兵器の使用は成功しなかった。」と評された<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=198}}</ref>。
10月26日、[[及川古志郎|及川軍令部総長]]が神風特攻隊の戦果を奏上し、昭和天皇(大元帥)から 、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と御嘉賞のお言葉を賜った。また、10月30日には[[米内光政|米内海軍大臣]]に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と仰せられた。<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊』P.111</ref><!-- 国会図書館には同じ著者の『神風特別攻撃隊』が複数存在。どれのこと? -->{{信頼性要検証|date=2016-12}}<ref>太田尚樹『天皇と特攻隊』P.20</ref><!-- 国会図書館には『天皇と特攻隊』が単行本と文庫が存在。どちら? -->{{信頼性要検証|date=2016-12}}<ref>{{Harvnb|読売新聞社|1967||pp={{要ページ番号|date=2016年12月}}}}</ref>。
 
特攻で損傷した艦艇は、8隻の[[工作艦]]が配置された慶良間諸島沖で応急修理がなされていたが、常に多数の損傷艦で溢れ、駆逐艦の墓場と呼ばれていた。それでも修理できない甚大な損害を被った艦は群れをなしてハワイ・アメリカ本土に向け太平洋を渡っていった。そして損傷した艦や負傷した兵士の代わりとして、アメリカ本土や[[大西洋]]から新鋭艦や兵士が沖縄に送られていった<ref>{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=431}}</ref>。
特攻成功後、大西は[[福留繁]]第2航空艦隊長官を説得し第1航空艦隊と第2航空艦隊を統合した連合基地航空隊を編成し、特攻隊の規模を拡張した<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2001|pp=155-159}}</ref>。10月27日、大西によって特攻隊の編成方法、命名方法、発表方針などが軍令部、海軍省、[[海軍航空本部]]など中央に通達された<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2001|pp=161-163}}</ref>。大西の強引な特攻隊拡大に批判的な航空幹部もいたが、大西は「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」と指導している<ref name="戦史叢書17p706">{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=706}}</ref>。
 
従軍記者{{仮リンク|ハンソン・ボールドウィン|en|Hanson W. Baldwin}}は「毎日が絶え間ない警報の連続だった。ぶっつづけに40日間も毎日毎夜、空襲があった。そのあと、やっと、悪天候のおかげで、短期間ながらほっと一息入れられたのである。ぐっすり眠る、これが誰もの憧れになり、夢となった。頭は照準器の上にいつしか垂れ、神経はすりきれ、誰もが怒りっぽくなった。艦長たちの目は真っ赤になり、恐ろしいほど面やつれした。敵の暗号を解読しその意図を判断する暗号分析班の活躍により、敵の大規模な攻撃を事前に予測することができた。時には攻撃の前夜に、乗員たちに戦闘準備の警報がラウンドスピーカーで告げられた。しかし、これはやめねばならなかった。待つ間の緊張、予期する恐怖、それが過去の経験によっていっそう生々しく心に迫り、そのためヒステリー状態に陥り、発狂し、あるいは精神消耗状態におちいった者もあったのである。」と当時の様子を語っている<ref>{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=432}}</ref>。
1944年11月5日、豊田副武連合艦隊司令長官は[[玄作戦]]によって[[回天]]による特攻を下令し、11月20日に戦果を上げ、以後繰り返された<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=551-555}}</ref>。
 
菊水作戦は第10号まで行われ、アメリカ海軍は沖縄戦において艦船36隻沈没、368隻損傷<ref>{{Harvnb|スパー|1987|p=153}}</ref>、航空機768機、人的損害として1945年4月から6月末で死者4,907名、負傷者4,824名を失ったが、これはアメリカ海軍の第二次世界大戦上で最悪の損害であった。沖縄戦でのアメリカ海軍の人的損失は、わずか3か月の間にヨーロッパ戦線・太平洋戦線全体を併せたアメリカ海軍の[[第二次世界大戦]]における人的損失の20%に達したという統計もある。沖縄戦でのアメリカ海軍、特にピケット艦の任務は、ドイツ軍の[[Uボート]]の脅威に晒された大西洋の輸送船団護衛任務より遥かに厳しかったとの評価だった<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995|p=356}}</ref><ref group="注">大戦中にヨーロッパ戦線でアメリカ海軍がUボートにより喪失した駆逐艦はジェイコブ・ジョーンズ、バック、ブリストル、リアリィ、護衛駆逐艦レオポルド、フェクテラー、フィスク、フレデリック・C・デーヴィスの8隻。</ref>。第5艦隊内では、幕僚などから沖縄よりの一時撤退が話題に上ったほどであったが、第5艦隊司令の[[レイモンド・スプルーアンス]]大将は激怒し、アメリカ艦隊は特攻による大損害に耐えて沖縄に止まった<ref>{{Harvnb|ブュエル|2000|p=555}}</ref>。
==== 全軍特攻化(海軍) ====
 
ここまで航空特攻は現地部隊の自発による編成の形式をとっていたが、1945年1月19日に陸海軍大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行い、1945年2月10日には[[第五航空艦隊|第5航空艦隊]]の編成で軍令部、連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われた。5航艦司令長官となった[[宇垣纏]]中将は長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底させた<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|pp=708-709}}</ref>。
しかし一方で、沖縄戦での特攻はアメリカ軍の特攻対策が強化されたことにより、有効率が下がり日本側の犠牲も多かった。その為、特攻の効果があったのは奇襲的効果のあったフィリピン戦のみで<ref name="神風は吹いたのか" /><ref>NHK『証言記録 兵士たちの戦争“特攻の目的は戦果にあらず”』2011-08-15放送</ref>、末期の沖縄戦の特攻は効果もないのに、軍の面子や惰性で続けられたとする表現も多く<ref>小説版『[[永遠の0]]』など。</ref>、日本ではとかく過小評価されがちであるが、有効率がフィリピン戦26.8%から沖縄戦14.7%で12%減に対し、攻撃機数は約3倍(フィリピン戦650機、沖縄戦1,900機)であり、アメリカ海軍の損害は沖縄戦の方が遥かに大きかった。
 
特攻で海軍艦艇が大損害を被った沖縄戦は、アメリカ軍にとって大戦で最大級の衝撃であり、沖縄戦での特攻作戦を「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していたことは明白である。」と総括している<ref name="Anesi" />。また、アメリカ海軍は公式文書で特攻に対して「この死に物狂いの兵器は、太平洋戦争で最も恐ろしい、最も危険な兵器になろうとしていた。フィリピンから沖縄までの血に染まった10ヶ月のあいだ、それは、我々にとって疫病のようなものだった」と率直に苦しみぬいた状況を吐露している<ref>{{Harvnb|吉本貞昭|2012|p=218}}</ref>。モリソンは沖縄戦での特攻を「ゼウス神の電光の様に青空からうなり出てくる炎の恐怖」や「かつてこのような炎の恐怖、責め苦の火傷、焼けつくような死に用いられた兵器は無かった」と表現し、その特攻と戦ったアメリカ軍の駆逐艦乗りに対して「沖縄の戦いの中で、来る日も来る日も、これらの艦船の乗組員が示した持続する勇気、臨機応変の才、敢闘精神は海軍の歴史にいくつもの類例を残している」と称賛している<ref>{{Harvnb|モリソン|2003|p=437}}</ref>。
 
特攻機が命中すると「何百メートルもの高さに達する火柱」が上がり、沖縄本島上でアメリカ軍の陸海空の重囲下で戦う[[第32軍 (日本軍)|第32軍]]の将兵を勇気づけたという。特攻機の活躍を一目見ようと日本兵は洞窟陣地から飛び出し、特攻機が命中すると「やったぞ!」と歓喜の声を上げて、感謝の涙をこぼした、特攻機の活躍を見る行為を兵士らは「特攻隊を拝みに行く」という表現を用い、「やったなぁご苦労さん」と地面に手をついて沖の方を拝んだ<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995|p=344}}</ref>。
 
陸海で、アメリカ軍が第二次世界大戦最大級の損害を被った沖縄戦がようやく終わると、イギリスの[[ウィンストン・チャーチル]]首相はアメリカの[[ハリー・S・トルーマン]]大統領に向けて「この戦いは、軍事史の中で最も苛烈で名高いものであります。我々は貴方の全ての部隊とその指揮官に敬意を表します」と慰労と称賛の言葉を送っている<ref>{{Harvnb|モリソン|2003|p=438}}</ref>。
 
=====水中・水上特攻=====
フィリピン戦では陸軍の特攻艇[[四式肉薄攻撃艇|マルレ]]と比較すると活躍できなかった震洋であったが、沖縄戦でも[[石垣島]]にアメリカ軍が上陸してくると海軍は予想していたため、5隊を石垣島に送り、沖縄本島にはたった2隊しか配置されておらず、最初から戦力不足であった。海軍の予想に反しアメリカ軍は石垣島に上陸せず沖縄本島に進攻してきたが、アメリカ軍は更に陽動作戦をしかけ、実際には上陸しない沖縄本島東岸の[[中城湾]]に輸送船等からなる9隻の囮船団を近づけてきた。[[海軍根拠地隊]]の司令官[[大田実]]少将はまんまとこの囮作戦に引っかかってしまい、1945年3月27日に12隻、29日には全震洋に出撃を命じたが、囮船団は海岸近くまでは接近してこなかったため攻撃する機会はなく、そのまま基地に帰投した。その様子を偵察機で偵察していたアメリカ軍により震洋の発進基地は特定され、艦載機による空襲で、アメリカ軍上陸前にわずか20隻の震洋を残すのみとなってしまった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|pp=321-322}}</ref>。しかし太田指揮の他の海上部隊は活躍しており、第27[[魚雷艇]]部隊は{{仮リンク|スカイラーク(掃海艇)|en|USS Skylark (AM-63)}}を撃沈し、特殊潜航艇部隊の[[蛟竜 (潜水艦)|蛟竜]]もしくは甲標的丙型が {{仮リンク|ハリガン(駆逐艦)|en|USS Halligan (DD-584)}}を撃沈する戦果を挙げている<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|1993|p=789}}</ref>。
 
震洋の最後の出撃の機会はアメリカ軍が沖縄本島に上陸した後の1945年4月3日に訪れた。南部の[[糸満市]]沖に2隻の特攻艇対策部隊の40㎜ボフォースと25㎜エリコンの機関砲を搭載した歩兵揚陸艇が現れたため、太田司令は残った14隻の震洋に出撃を命令したが、出撃用の運搬車も空襲で破壊されており、わずか4隻しか出撃できなかった。わずか4隻しか出撃できなかったので搭乗員が各艇に2人ずつ搭乗していたが、重さのために速度が出ず、2隻の内LCI-82は撃沈したが、もう1隻の14ノットしか出ない低速の歩兵揚陸艇に逃げられてしまった。この戦闘後残った震洋は自沈し、石垣島や[[奄美大島]]に配置されていた震洋隊で沖縄本島を攻撃しようとしたが空襲で阻止され、フィリピンに続き沖縄でも海軍の特攻艇は十分な成果を挙げることなく壊滅した<ref>{{Harvnb|オネール|1988|pp=124-125}}</ref>。
 
フィリピンに引き続き沖縄でもマルレは投入されたが、沖縄本島上陸前の3月26日に3個戦隊300隻のマルレを配備していた[[慶良間諸島]]にアメリカ軍が上陸してきた。日本軍の作戦としては、沖縄本島に上陸してきたアメリカ軍の輸送艦隊を、慶良間の海上挺進戦隊が背後から叩く計画であったが、その作戦を立てた[[第32軍 (日本軍)|第32軍]]高級参謀[[八原博通]]大佐の懸念が的中し、沖縄のマルレ部隊の主力は、戦う前に壊滅し部隊巡視中の第32軍船舶隊長大町大佐も戦死した<ref>{{Harvnb|八原博通|1972・2015|p=162}}</ref>。マルレの多くは爆破されたが、一部が接収されたのと沖縄におけるマルレの配置図と戦術教本も発見され、アメリカ軍はこれらを特攻艇対策に大いに役立てている<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=122}}</ref>。PTボートなどによる特攻対策部隊と教本を元にした秘密特攻艇対策で、沖縄本島に配置されていたマルレは次々と撃破されたが、それでも中型揚陸艦LSM-12を撃沈、{{仮リンク|ハッチンス(駆逐艦)|en|USS Hutchins (DD-476)}}と特攻対策部隊のパトロール艇LCS-37を大破させ両艦ともそのまま廃棄に追い込み、{{仮リンク|チャ―ルズ・A・バジャー(駆逐艦)|en|USS Charles J. Badger (DD-657)}}を大破航行不能にさせ、リバティ輸送船カリーナ大破他数隻に損傷を与えるなどの損害を与えた後に組織的戦闘力を喪失し、残存艇は第32軍による逆上陸作戦の兵員輸送や補給・通信任務に転用された<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=125}}</ref>。
 
[[ファイル:KaitenMission.JPG|thumb|right|250px|光基地から出撃する「天武隊」の伊47潜]]
「多々良隊」「天武隊」「轟隊」と、日本海軍のわずかに残った潜水艦で回天攻撃隊が次々と編成され、沖縄に侵攻してきた艦隊への攻撃や、沖縄とサイパンやウルシーなどのアメリカの後方基地との[[通商破壊]]作戦を実施したが、洋上での回天の運用は困難で、母艦の潜水艦の損失が増えるばかりで目ぼしい戦果は無かった<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=|loc=電子版, 位置No.425-428}}</ref>。沖縄戦での日本軍の敗北が確定した1945年7月に、日本海軍が残存潜水艦戦力の総力を挙げて6隻の「多聞隊」を編成し、沖縄と後方基地の通商破壊作戦を行った。その内の[[伊号第五十三潜水艦|伊53潜]]は1945年7月24日、ルソン島沖でLST7隻と冷凍船1隻とそれを護衛する護衛駆逐艦[[アンダーヒル (護衛駆逐艦)|アンダーヒル]]他合計17隻の敵輸送船団を発見。[[勝山淳]]中尉(海兵73期)搭乗の回天を発射し、アンダーヒルを撃沈した<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|1993|p=841}}</ref>。またその後の7月28日には、伊58潜が発射した回天の爆発で{{仮リンク|ロウリー(駆逐艦)|en|USS Lowry}}が損傷しており、この損害は日本軍潜水艦がまだフィリピン海域で活動していることを示していたが、この損害によりアメリカ軍が警戒を強化することはなかった<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=266}}</ref>。
 
[[広島市|広島]]、[[長崎市|長崎]]へ投下予定の[[原子爆弾]]用の部品と核材料を急ぎテニアン島へ運ぶ極秘任務を終えたインディアナポリスは、7月28日にグアム島からレイテ島に向かっていた。艦長の[[チャールズ・B・マクベイ3世]]には多聞隊出撃の情報も、アンダーヒルの沈没やロウリーの損傷の情報も知らされていなかったことから、対潜警戒のジグザグ航行も隔壁の閉鎖の措置も取っていなかった<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=267}}</ref>。インディアナポリスを発見した伊58潜は残る3基の回天の発射準備を行っており、艦長の橋本に回天隊員らは何度も電話で「早く出撃させて下さい」と督促したが、橋本は通常魚雷で撃沈可能と判断し、「わざわざ人命を犠牲にする必要はない」と回天隊員らの督促を黙殺して、九五式[[酸素魚雷]]を合計6本を全門発射し、3本が右舷に命中、艦内第二砲塔下部弾薬庫の主砲弾が誘爆させ、わずか12分後に転覆、沈没した<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|1993|p=844}}</ref>。橋本は撃沈したのを[[アイダホ (戦艦)|アイダホ]]級戦艦と誤認したまま暗号で戦果報告をしたが、これをアメリカ軍は傍受し暗号を解読したにも関わらず、橋本が戦艦撃沈と誤認報告していたため、インディアナポリスのこととは気が付かなかった。救助活動は沈没後84時間経過してからようやく開始され、撃沈時に戦死したのが約350名だったのに、海上を漂流している84時間の間に500名以上が死亡し全体の戦死者は883名にも上り、アメリカ軍の第二次世界大戦でのもっとも悲惨な損害と言われた<ref>{{Harvnb|オネール|1988|pp=266-268}}</ref>。伊58潜はこの後も回天で駆逐艦・水上機母艦・工作艦などを攻撃後(戦果はなし)無事に日本に帰投している。「多聞隊」は1隻の潜水艦を失うことなく、回天の初陣となった「菊水隊」を超える戦果を挙げ、回天作戦の有終の美を飾るものであり<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=|loc=電子版, 位置No.431}}</ref>、アメリカ軍からも、戦争終結前の日本海軍の大きな成功と評された<ref>{{Harvnb|モリソン|2003|p=441}}</ref>。
 
====決号作戦====
1945年2月4日、軍令部の[[寺内義守]]航空部員は、今の訓練様式では駄目で特攻なら使用可能と言い、[[松浦五郎]]とともに命中の良さから特攻をすべきと主張した。[[田口太郎]]作戦課長は練習生が[[練習機]]で特攻を行う方法の研究を求め、[[寺崎隆治]]も練習機「[[白菊]]」が多数あることから戦力化が必要と発言<ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1976|pp=242-243}}</ref>。1945年2月、[[硫黄島の戦い]]が開始されたことを受けて、全航空隊特攻化計画が決定する。同年3月1日、海軍練習連合航空総隊を[[第10航空艦隊]]に改編し、特攻隊員訓練のため一般搭乗員の養成教育を5月中旬まで中止した<ref name="戦史叢書88p141-142">{{Harvnb|戦史叢書88|1975|pp=141-142}}</ref>。1945年5月15日、中止されていた新規搭乗員教育が再開したが、戦闘機搭乗員の他は特攻教育が主になった<ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1976|p=264}}</ref>。
海軍大臣の[[米内光政]]は[[決号作戦]]の準備として、全海軍部隊を指揮できる[[海軍総隊]]を新設し、その司令長官に連合艦隊司令長官豊田を兼務させ強力な権限を与えて本土決戦準備を進めた。また5月29日には豊田は軍令部総長に任じられ、連合艦隊司令長官には、軍令部次長の[[小沢治三郎]]中将が親補された<ref>{{Harvnb|土門周平|2015|p=23}}</ref>。そして小沢の後任には「特攻生みの親」大西を任命した。米内は講和派であったが、陸軍の主戦派らの不満を抑え込むため、講和派の井上海軍次官更迭に加えておこなわれた人事であった。海軍内でも軍令部富岡作戦部長のような講和派からは煙たがられたが、作戦課長の田口らは本土決戦に向けてこの人事を歓迎している<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.2664}}</ref>。
 
沖縄戦の大勢も決した1945年6月8日に、本土決戦の方針を定めた「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が昭和天皇より[[裁可]]されたが<ref>{{Harvnb|太平洋戦争⑧|2010|p=14}}</ref>、その[[御前会議]]の席で参謀本部次長[[河辺虎四郎]]中将が「皇国独特の空中及び水上特攻攻撃はレイテ作戦以来敵に痛烈なる打撃を與えて来たのでありますが累次の経験と研究を重ねました諸点もあり今後の作戦に於きまして愈々其の成果を期待致して居る次第であります。」と、特攻を主戦術として本土決戦を戦う方針を示した。軍令部総長豊田は「敵全滅は不能とするも約半数に近きものは、水際到達前に撃破し得るの算ありと信ず」と本土に侵攻してくる連合軍を半減できるとの見通しを示したが、これは豊田自身も過大と自覚しており、隣席していた昭和天皇が一言も発さなかったのを見て、相当不満であったと感じている<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.2702-2755}}</ref>。
1945年2月17日、豊田副武連合艦隊司令長官はアメリカ艦隊を[[ウルシー環礁|ウルシー]]帰着の好機をとらえて奇襲を断行する[[丹作戦]]を命令した。[[宇垣纏]]5航艦司令長官は陸上爆撃機「[[銀河 (航空機)|銀河]]」を基幹とする特攻隊を編成し菊水部隊梓特別攻撃隊と命名した。3月11日からウルシーに帰投した米機動部隊の[[正規空母]]を目標に特攻が繰り返された<ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1976|pp=231-232}}</ref>。
 
この豊田の御前会議での上陸部隊半数を洋上で撃破という言葉がそのまま[[決号作戦]]における海軍の方針となり、6月12日には軍令部で「敵予想戦力、13個師団、輸送船1,500隻。その半数である750隻を海上で撃滅する。」という「決号作戦に於ける海軍作戦計画大綱」が定められたが<ref>[[NHKスペシャル]]『特攻・なぜ拡大したのか』2015年8月8日放送</ref>、その手段は、7月13日の海軍総司令長官名で出された指示「敵の本土来攻の初動においてなるべく至短期間に努めて多くの敵を撃砕し陸上作戦と相俟って敵上陸軍を撃滅す。航空作戦指導の主眼は特攻攻撃に依り敵上陸船団を撃滅するに在り」の通り、特攻であった<ref>{{Harvnb|土門周平|2015|p=24}}</ref>。
1945年4月頃から沖縄周辺に侵攻した米英豪海軍を中心とした連合国軍の艦隊に対し、日本軍は[[菊水作戦]]を発動して特攻隊を編成し、九州・台湾から航空特攻を行った。これと連動して戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]以下の艦艇による水上特攻や「回天」、「[[震洋]]」などの体当たり艇など、各種特攻兵器が大量に投入された。機材、燃料の不足、[[本土決戦]]のためなどから温存され始め、十次に渡る菊水作戦が終了すると出撃のペースは鈍化、沖縄方面への特攻は1945年8月11日、[[喜界島]]に最後まで残っていた第2神雷爆戦隊岡島四郎中尉以下2機の[[爆戦]]が米機動部隊突入を行い途絶えた。本土からの特攻は1945年8月15日、百里原基地からの第4御楯隊の「彗星」8機、木更津から第7御楯隊の流星1機によって行われたが全機未帰還。これが[[玉音放送]]前の最後の出撃であった<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1990|pp={{要ページ番号|date=2016年12月}}}}</ref>。当初より問題視されていた威力不足の改善を図る等の対策を採り、想定される決号作戦に向けて大量の特攻戦備を整えている段階で終戦を迎えた。
 
なお、1945年8月10日に次期[[第五航空海軍総隊参謀長兼連合艦隊]]司令参謀官の内命を受けていであっ(宇垣纏の後任となる。終戦後の8月17日に着任。)[[草鹿龍之介]]によれば、本土決戦では九州に上陸してくる連合軍に対し、「六分の一が命中すれば上々」として、約1,000機を一波とし、これを10派、10,000機の特攻機で攻撃をかける目算であった。内命された時点ですでに九州南部に、訓練中のものを含めて5,000機が用意されていたという{{sfn|草鹿|1979|p=367}}。
 
大本営の目論見では、フィリピンでも沖縄でもできなかった、連合軍の迎撃を無力化するほどの十分な数の特攻機を集め、陸海軍交互に300機 - 400機の特攻機が1時間ごとに連合軍艦隊に襲い掛かる情景を描いていた。その為に稼働機は練習機であろうが旧式機であろうがかき集めて全て特攻機に改造するつもりであった。<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=191}}</ref>
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練習機までを特攻に投入しようとしたのは、[[御前会議]]での連合艦隊司令長官[[豊田副武]]の[[本土決戦]]に関する「1,500隻からなるアメリカ軍の上陸船団の半数を海上で撃滅する。」という発言の辻褄合わせに過ぎなかったという指摘もあるが<ref>[[NHKスペシャル]]『特攻・なぜ拡大したのか』2015年8月8日放送</ref>、[[米国戦略爆撃調査団]]は沖縄戦での練習機などの低速機・旧式機による攻撃の有効性を見て([[#練習機による特攻]]参照)「連合軍の空軍がカミカゼ(航空特攻)を上空から一掃し、連合軍の橋頭堡や沖合の艦船に近づかない様にできたかについては、永遠に回答は出ないだろう(中略)終戦時の日本軍の空軍力を見れば連合軍の仕事は生易しいものではなかったと思われる」と評価し、特攻機による撃沈破艦が900990以上に達すると分析していた<ref name="米国戦略爆撃調査団p189" />。
 
水中・水上特攻兵器も大量に投入される計画であった。生産が容易な震洋は1945年7月までに2,500隻を整備する計画であったが、物資の不足や空襲の激化により計画の21%しか生産できなかった。また、地上基地から発射される基地回天や特殊潜航艇[[海龍 (潜水艇)|海龍]]や[[蛟竜 (潜水艦)|蛟竜]]の生産も並行してこちらは計画の41%であった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=354}}</ref>。それでも連合軍の[[ダウンフォール作戦|オリンピック作戦]]に備えて整備された水上・水中特攻兵器は、特殊潜航艇100隻、回天120基、特攻艇4,000隻(陸軍[[四式肉薄攻撃艇|マルレ]]を含む)にもなり、連合軍の上陸が予想される南九州から四国にかけての各基地に配備された。主なものでは、鹿児島には海龍20隻、震洋500隻、宮崎の[[油津港|油津]]には海龍20隻、回天12基、震洋325隻、大分[[佐伯港|佐伯]]には海龍20隻、高知[[宿毛湾港|宿毛]]には海龍12隻、回天14基、震洋50隻、高知[[須崎市|須崎]]には海龍12隻、回天24基、震洋175隻などである。また[[ダウンフォール作戦|コロネット作戦]]に備えて、海龍180隻、回天36隻、震洋775隻が東京を中心とする関東一円に配備されていた<ref>{{Harvnb|オネール|1988|pp=286-287}}</ref>。
1945年8月15日、敗戦を迎え菊水作戦の最高指揮官であった5航艦司令長官宇垣纏中将は、玉音放送終了後8月15日夕刻、大分から「彗星四三型」の後席に搭乗し[[僚機|列機]]10機(長官搭乗機を含めて計11機)を率いて沖縄近海のアメリカ海軍艦隊に突入、戦死した(うち3機は、途中で不時着)。8月16日、神風特攻隊を創設した大西瀧治郎中将は[[自殺|自決]]した<ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1976|p=475}}</ref>。
 
また、[[潜水服]]を着用した兵士が、柄の付いた爆雷で敵[[上陸用舟艇]]を攻撃する特攻兵器[[伏龍]]も準備され、650名からなる伏龍部隊が編制された。海軍は連合軍が侵攻してくるまでに4,000名の伏龍部隊を訓練しておく計画であった<ref>{{Harvnb|アレン|ボーマー|1995|pp=319-320}}</ref>。伏龍は元々はB-29が投下した機雷を除去する目的で、[[海軍工作学校]]研究部員[[清水登]]大尉らにより開発されていた潜水服であったが、沖縄戦中の1945年5月に清水らに、特攻兵器として開発するように命令が下っている<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=|loc=電子版, 位置No.512}}</ref>。編成された伏龍部隊の訓練中の1945年7月24日に、[[九十九里浜]]に敵軍が上陸を開始したという通報により出撃準備がなされたことがあったが、夜明けの前には誤報と判明し、一度も実戦投入されることはなかった<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=|loc=電子版, 位置No.503}}</ref>。
終戦後の自発的な体当たり攻撃として、8月18日北千島の陸海軍航空部隊によって[[占守島の戦い|占守島に侵攻]]してきた[[赤軍|ソ連赤軍]]艦艇や輸送船団に対する反撃が行なわれ、九七艦攻1機が対空砲火により被弾、別の艦艇に体当たりし自爆した。同18日、[[ウラジオストク]]に停泊していたソ連タンカーに[[鎮海海軍航空隊]]塩塚良二中尉の操縦する[[二式水上戦闘機]]が特攻をしかけるが、対空砲火で撃墜されている<ref>{{Harvnb|土井全二郎|2000|pp=212-220}}</ref>。
 
=== 海外 終戦===
[[ファイル:Nesterov19450815 taranonishi portrait by kodama yoshio 305.jpgpng|thumb|right|世界初の航空機によ150px|1945年8月15日、自決す体当たり攻撃を描いたイラスト直前の大西瀧治郎軍令部次長]]
十次に渡る菊水作戦が終了し、沖縄が連合軍に占領されると、本土決戦に向けて戦力温存策で出撃のペースは鈍化しており、沖縄方面への特攻は1945年8月11日、[[喜界島]]に最後まで残っていた第2神雷爆戦隊岡島四郎中尉以下2機の[[爆戦]]が米機動部隊突入を行い途絶えた。本土からの特攻は1945年8月15日、百里原基地からの第4御楯隊の「彗星」8機、木更津から第7御楯隊の流星1機によって行われたが全機未帰還。これが[[玉音放送]]前の最後の出撃であった<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1990|p=74}}</ref>。
==== 自発的な特攻 ====
===== ロシア/ソ連軍での自発的な特攻 =====
[[第一次世界大戦]]中の[[1914年]]9月8日、に[[ロシア帝国]]の[[ピョートル・ネステロフ]]大尉が[[オーストリア]]機に対して行った行動が、世界初の航空機による体当たり攻撃とされる<ref name="miura">{{Harvnb|三浦耕喜|2009|pp={{要ページ番号|date=2016年12月}}}}</ref>。これにより墜落した2機の乗員3名は死亡している。第二次大戦初期([[独ソ戦]])のソ連軍には、旧式化していた[[I-16 (航空機)|I-16]]などの旧式機が多数存在していたが性能が劣っていたため、タラン<ref group="注">タラーンとも、ロシア語で[[破城槌]]という意味。</ref>と称される航空機による体当たり攻撃が行われた<ref name="miura" />。タランが完全にパイロットの自由意志で行われたかは不明であるが、
* プロペラで敵機の方向舵を破壊して操縦を不能にする、最も安全で推奨された攻撃方法。
* 自機の翼で、敵機の方向舵や翼を破壊し操縦を不能にする。
* 敵機の胴体に体当たりする、上の2個の方法ができない場合の攻撃方法。一番危険であり、この攻撃を行ったパイロットのほとんどが戦死した。
以上の体当たり戦術が行われていたとソ連空軍のノビコフ上級大将が戦後に著書で解説している通り、体当たりの技術はかなり研究・洗練され体系化されており、軍による戦術の指導があった可能性が高く、パイロットが個別判断でその場の思い付きで行っていたとは考え難い<ref>{{Cite web |author=Мельников А.Е. |url=http://aeroram.narod.ru/win/teor.htm |title=Теория |language=ロシア語 |accessdate=2016-12-21}}</ref>。またタランで戦死したパイロットは国家英雄として[[ソ連邦英雄]]やレーニン勲章などで叙勲されて、[[大祖国戦争]]遂行のために兵士の士気を鼓舞することに利用された<ref>{{Cite web |date=2000-05-09 |url=http://www.soldat.ru/memories/podvig/spisok1.html |title=Фамилии авиаторов, совершивших огненные тараны |language=ロシア語 |accessdate=2016-12-21}}</ref>。
 
終戦間際になると、東日本を統括している[[第1航空軍 (日本軍)|第1航空軍]]の指揮下で各'''神鷲隊'''が編成された。これらの隊は主に太平洋側に配備され、大戦最末期の[[1945年]](昭和20年)8月9日には第255神鷲隊([[岩手県|岩手]]より[[釜石市|釜石]]沖に出撃)が、13日には第201神鷲隊([[黒磯市|黒磯]]より[[銚子市|銚子]]沖に出撃)、第291神鷲隊([[東金市|東金]]より銚子沖に出撃)、第398神鷲隊(相模より[[下田市|下田]]沖に出撃)と3隊が出撃している。
ソ連軍のパイロットは機体が損傷したり弾薬が尽きると、ドイツ軍の戦闘機や爆撃機に対する体当たり攻撃だけでなく({{仮リンク|タラン攻撃をしたパイロットの一覧|ru|Категория:Лётчики, совершившие таран}}を参照)地上のドイツ軍の戦車などにも体当たりしたパイロットも多かった。({{仮リンク|大祖国戦争で地上目標にタラン攻撃をしたパイロットの一覧|ru|Список авиаторов, совершивших таран наземных объектов в годы Великой Отечественной войны}}を参照)体当たり攻撃したパイロットの多くは戦死したが、中には{{仮リンク|ボリス・コブザン|ru|Ковзан, Борис Иванович}}のように4回も体当たりしながら生還したパイロットもいた。タランは新型機の配備が軌道に乗ってからも引き続き行われている。
 
[[ポツダム宣言]]が連合国より日本に通告され、その後の[[日本への原子爆弾投下|原爆投下]]と[[ソ連対日参戦]]により、戦争終結に向けての動きが加速していく中で、大西は徹底抗戦を唱え続け、1945年8月13日には[[東郷茂徳]]外相に「我々は戦争に勝つための方策を陛下に奉呈して、終戦の御決定を考えなおしてくださるようお願いしなければなりません。」「我々が特攻で2,000万人の命を犠牲にする覚悟をきめるならば、勝利はわれわれのものとなるはずです。」と訴えた。大西は全国民が特攻戦術を取るならば、日本は滅びない、これは日本民族の名誉にかかる問題であると考えていたが、東郷は「一つの戦闘に勝つことが、我々にとって戦争で勝利をおさめることにはならないだろう」と大西の訴えを拒否している。大西は[[内閣書記官長]]の[[迫水久常]]に対しても同じような訴えをした後、翌14日に友人の矢吹一夫宅を訪れた。矢吹は大西が死ぬ気だと悟り、思いとどまるように説得したが、大西は「俺はあんなにも多くの青年を死なせてしまった。俺にようなやつは無間地獄に墜ちるべきだが、地獄のほうが入れてはくれんだろうな」と答えている<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|pp=269-271}}</ref>。大西は[[玉音放送]]の翌日の8月16日に「特攻隊の英霊に曰す」という遺書を遺して[[自殺|自決]]した<ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1976|p=475}}</ref>。
===== アメリカ軍の自発的な特攻 =====
第二次世界大戦のアメリカ軍側においても自発的な体当たり、自爆攻撃が行われている。[[ミッドウェー海戦]]で、空母飛龍を攻撃した[[アメリカ海兵隊|米海兵隊]]の[[SBD (航空機)|SBD ドーントレス]]指揮官ロフトン・R・ヘンダーソンは、被弾炎上後に飛龍へ体当たりを試みたが失敗した。[[SB2U (航空機)|SB2U ビンジゲーター]]に搭乗したアメリカ海兵隊のフレミング大尉は、対空砲火により被弾後、[[重巡洋艦]][[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]に自爆攻撃を敢行した。
 
1945年8月15日、敗戦を迎え菊水作戦の最高指揮官であった5航艦司令長官宇垣纏中将は、玉音放送終了後8月15日夕刻、大分から「彗星四三型」11機で沖縄近海のアメリカ海軍艦隊に突入をはかったが(うち3機は、途中で不時着)、[[伊平屋島]]に墜落して同乗していた中津留達雄大尉と遠藤秋章飛曹長共々戦死した<ref>{{Harvnb|太佐順|2011|p=302}}</ref>。
[[第三次ソロモン海戦]]で重巡洋艦[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]に空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]所属のSBD1機が体当たりを敢行し摩耶は中破した。重巡洋艦[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]の乗員、黒木新二郎によれば、1944年12月26日、フィリピン防衛戦において対空戦闘中、被弾したアメリカ軍機1機が左舷中央に特攻を仕掛け、激しい火災が生じたという。足柄の乗員は連合国側の特攻と認識し、翌日、数十人の戦死者を[[水葬]]したが、その最後に艦に特攻を仕掛けた敵機パイロット(氏名不詳)を忠勇の軍人として丁重に弔ったという<ref>朝日新聞 2012年6月19日(火曜)付 「声 語りつぐ戦争」内の回想文(逸話)を一部参考。</ref>。
 
終戦後の自発的な体当たり攻撃として、8月18日北千島の陸海軍航空部隊によって[[占守島の戦い|占守島に侵攻]]してきた[[赤軍|ソ連赤軍]]艦艇や輸送船団に対する反撃が行なわれ、[[九七式艦上攻撃機]]が赤軍掃海艇КТ-152に命中し撃沈、特攻による連合軍最後の損害となった。同18日には、[[ウラジオストク]]に停泊していたソ連タンカータガンログに[[鎮海海軍航空隊]]塩塚良二中尉の操縦する[[二式水上戦闘機]]が特攻をしかけるが、対空砲火で撃墜されている<ref>{{Harvnb|土井全二郎|2000|pp=212-220}}</ref> <ref name="Смертники и полусмертники против Красной Армии">{{Cite web |url=http://vpk-news.ru/articles/20928 |title=Смертники и полусмертники против Красной Армии |language=ロシア語 |accessdate=2017-2-5}}</ref>。
===== ドイツ軍での自発的な特攻 =====
1943年末、ドイツ空軍においてフォン・コルナツキー少佐によってシュトゥルム・フリーガーと命名されたB-17、[[B-24 (航空機)|B-24]]に体当たりを行う決死特攻が行われていた。落下傘で直前に脱出することとなっていたが、困難なため中止された。これに代わり1944年5月[[ヴァルター・ダール]]の案で、誓約書を書いた隊員で体当たりの肉薄攻撃を行っていたが、戦闘機隊総監[[アドルフ・ガーランド]]はこれを知り禁止命令を出した<ref>{{Harvnb|鈴木五郎|1995|pp=124-126}}</ref>。
 
8月19日には、満州派遣第675部隊に所属した今田均少尉以下10名の青年将校が、婚約者の女性2名を同乗させて、[[満州]]に侵攻してきた[[ソビエト連邦]]軍の戦車隊に特攻している(神州不滅特別攻撃隊)<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1990|p=9}}</ref>。
==== 組織的な特攻 ====
===== イギリス軍での組織的な特攻 =====
イギリス海軍が[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]の戦艦である[[ティルピッツ (戦艦)|ティルピッツ]]を撃沈するため、[[1942年]]にチャリオット人間魚雷による攻撃を実行しようとしていたが、事故で失われたために実行されなかった。また、1943年9月末に有人の小型潜行艇2隻がティルピッツに肉迫攻撃をかけるために、火薬を積んで突入してきた。これも生還を期さない特攻に近いものがあったとされるが、この場合は日本海軍の「回天」と違い隊員の命を確実に奪うというものではなかった。
 
しかし、ハイリスクの攻撃であったことは確かであり、船底に2,000kg爆弾を据え付けて、ティルピッツに深手を負わせることには成功したものの、イギリス海軍は二度とこの作戦を採ることはなかった。
 
===== ドイツ軍での組織的な特攻 =====
1944年春頃、ドイツにおいて[[ハンナ・ライチュ]]によって提唱された[[ハインケル He111|He 111]]の下部に[[V1飛行爆弾#Fi-103の派生型|V1 有人飛行爆弾]]を搭載、空中発射されたV1に搭乗した操縦者が誘導し対艦攻撃する計画があり、志願者が集められ試験飛行も行われたが実施されなかった<ref name="hata" />。
 
ドイツ空軍の[[ハヨ・ヘルマン]]大佐は、レイテ沖海戦より日本軍が投入した特別攻撃隊に触発され、その戦法が周囲でも話題になっていたこともあり、最終手段として劇的な戦法を試案するため、当時の駐独大使である[[大島浩]]を[[ベルリン|デーベリッツ]]の司令部に招き特攻について質問して情報を得た<ref name="tokyo2008525" />。その効果については疑問を持ちつつも、第二次大戦末期はドイツでも通常の防空戦は困難になりつつあったことや「カミカゼ」戦術が衝撃的だったこと、過去にもその場の判断で敵機に体当たりを行い撃墜した事例、最新鋭の[[メッサーシュミット Me262|Me 262]]が圧倒的な速力で戦果を上げており機体生産を確保するための被害回避等の理由から「爆撃機への体当たり攻撃」を立案した<ref name="tokyo2008525" />。この作戦に[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は難色を示し、空軍総司令官の[[ヘルマン・ゲーリング]]も当初は反対したが、燃料も戦闘機も不足する中ではやむを得ない戦法だと説得し許可を得て、ヘルマンが指揮官となって「自己犠牲攻撃」として志願者を募り、作戦が独北部の[[エルベ川]]周辺に展開したため「'''[[ゾンダーコマンド・エルベ|エルベ特別攻撃隊]]'''」(Sonderkommando Elbe)と称された<ref name="tokyo2008525" />。
 
この作戦は1945年4月7日に実行され、内容は[[メッサーシュミットBf109|Me 109]]と[[フォッケウルフFw190|Fw 190]]を使用し、[[航空機関砲|機関砲]]を撃ちながら敵機目掛けて一直線に突進するものであり、衝突と同時に落下傘で脱出することで生還の可能性は残しており<ref name="tokyo2008525" />、必ず体当たりすることを要求されたのではなかったが、死を覚悟しなければ志願できない作戦であり、周囲もパイロットが戦死することを前提にすべての用意を整えていた。「敵重爆の直前で射撃し、各自1機は撃墜すること。必要とあれば激突せよ」と命じられ彼らは無線で流されるドイツ国歌を聞きながら突撃したと言う。しかし、[[P-51 (航空機)|P-51]]を始めとする多数の護衛戦闘機群に阻まれ、推定189機が出撃したが出撃機の大半とパイロットの約半数(約80人との資料もある<ref name="tokyo2008525" />)を失い、8機(B-17 5機撃墜との資料<ref name="hata">{{Harvnb|秦郁彦|1996|pp={{要ページ番号|date=2016年12月}}}}</ref>や、20数機との資料もある<ref name="tokyo2008525" />)の爆撃機を撃墜したにとどまり、効果への疑問から作戦はこの一度のみで終了となった<ref name="tokyo2008525" />。この部隊は解散したが独空軍は別の特攻作戦「オーデル川作戦」を発動した。
 
またドイツ空軍では[[ミステル]]と称す親子飛行機を開発し、これは子機([[Ju 88 (航空機)|Ju 88]]爆撃機を改造して爆薬と無線操縦装置を取り付けた無人機)の上部に連結器を装備して親機のMe 109を乗せたものであり、目標上空で切り離し、親機が子機を誘導して目標に体当たりさせる仕組みになっていた。ミステルは若干ながら戦果を挙げ、さらなる組み合わせとして親機にFw 190を使用した型も生産された。しかし、速度の遅いミステルは通常の爆撃機以上に敵戦闘機の好餌であり、間もなく敵目標に対する攻撃は中止され、敵の進撃経路に当たる橋梁や道路を爆破するのに使用されたという。
 
== 戦術 ==
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最初の航空特攻隊となった神風特攻隊の目標は、[[連合艦隊]]による[[捷号作戦]]成功のため、創始者の[[大西瀧治郎]]中将の「米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」との提案通り<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=47}}</ref>、空母を一時的に使用不能とすることであったが、最初の特攻で大きな戦果があり、特攻の効果が期待より大きかったために、その後日本軍の主戦術として取り入れられ、目標に敵主要艦船も加えられた。そして1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった<ref>{{Harvnb|author=千早ほか|1994|pp=280-281}}</ref>。しかし、日本軍は過大な戦果報道とは裏腹に、特攻の命中率は現実的な評価をしており、沖縄戦の戦訓として当時の日本軍は航空特攻の予期命中率について対機動部隊に対しては9分の1、対上陸船団に対しては6分の1と判断していた<ref name="戦史叢書88p141-142" />。
 
特攻機の攻撃隊は、偵察機と特攻機と護衛の[[直掩機]]から編成されていた。まずは偵察機が敵艦隊まで誘導し、直掩機は戦場まで特攻機を護衛し、戦場に到達した後は特攻機による突入を見届けた後、帰還して戦果の報告を行った。偵察機は陸軍[[一〇〇式司令部偵察機]]や海軍[[彩雲 (航空機)|彩雲]]の高性能機が充てられたが、数が少ない上に、偵察機を操縦できる搭乗員も不足しており、十分な運用ができなかった。また、直掩機も特攻機とともに連合軍艦隊の防空圏に突入を行うわけであり、特攻隊とともに未帰還になる機体も少なくなかった<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=367}}</ref>。菊水作戦で偵察飛行をおこなっていた[[第一七一海軍航空隊]]の偵察第4飛行隊は、菊水作戦中に24機の彩雲の内10機が未帰還となり、116名の搭乗員の内30名が戦死している<ref>{{Harvnb|太佐順|2011|p=201}}</ref>。
 
;日本海軍
海軍航空隊は特攻機による接敵法として「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を訓練していた<ref>{{Harvnb|中島正|猪口力平|1984|loc=pp.106, 110}}</ref>。
 
199 ⟶ 326行目:
海軍航空隊における特攻の教育日程は、発進訓練(発動、離陸、集合)2日、編隊訓練2日、接敵突撃訓練3日を基本に、時間に応じこの日程を反復していた<ref name="中島猪口p108" />。
 
;日本陸軍
陸軍航空隊は、奇襲と強襲の場合に分けていた<ref>{{Harvnb|戦史叢書94|1976|pp=399-400}}</ref>。
陸軍航空隊は1945年5月に作成した「と號空中勤務必携」という陸軍特攻隊員用の教本なども使用しながら特攻隊員を教育・訓練していた<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=93}}</ref>。
 
敵艦への突撃法については、奇襲と強襲の場合に分けている<ref>{{Harvnb|戦史叢書94|1976|pp=399-400}}</ref>。
 
*強襲の場合
 
高高度より敵艦に接近し、逐次降下しながら、突撃開始点までに1,200 - 1,500mまでに下降する。その後角度を35度 - 40度、初速を300[[キロメートル毎時|km/h]]で急降下し、敵艦の致命部(海軍と同じ)を目指す。
 
*奇襲の場合
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奇襲、夜間攻撃、雲底が低い場合は、超低空水平攻撃を実施する。高度は800m - 1,200mで初速は270 - 300km/hで加速しながら艦船の中央部を目指す。水平で体当たりするか、降下するかは、敵艦に至った時点の高度で決まる。
 
衝突点は、急降下突入か水平突入かで分けている<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=99}}</ref>。
陸軍航空隊の、特攻機搭乗員訓練カリキュラムは、重装備による薄暮の離着陸、空中集合、中隊の運動に10時間、前述の攻撃法の訓練に10時間、海上航法に6時間とされており、他に地上での訓練や講習を含めても約1カ月という短期間で育成されていた<ref>{{Harvnb|戦史叢書94|1976|p=400}}</ref>。
 
*急降下突入の場合
=====練習機による特攻=====
**空母の場合 エレベーター部分、無理であれば飛行甲板後部
[[ファイル:Kyushu K11W Shiragiku.jpg|thumb|right|280px|大戦末期に特攻機として投入された練習機[[白菊 (航空機)|白菊]]、低速であったが操縦性・安定性は優秀で特攻以外にも対潜哨戒や輸送などの実戦任務にも投入されていた]]
**他の艦船 甲板中央部(艦橋と煙突の間)もしくは煙突内  艦橋と砲塔は装甲が厚いから避ける
大戦末期には、本土決戦用に新型機や高性能機を温存させるために、本来戦闘には適さない低性能の機体、陸軍の[[九九式高等練習機|九九高練]]、[[二式高等練習機|二式高練]]、海軍の機上作業練習機「[[白菊 (航空機)|白菊]]」、複葉練習機([[九五式一型練習機]]・[[九三式中間練習機]])などの[[練習機]]も特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦で特攻作戦に使用された。練習機は、ガソリンを極力温存するためにアルコールを混入した「八〇丙」と言う劣悪な燃料でも飛行可能であったのも投入理由の一つである。実戦機に比べ非力な300[[馬力]]から800馬力程度のエンジンを積み、元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していたため極端に速度が遅かった。
 
*超低空水平突入の場合
日本軍側もその低速ぶりは問題視しており、1945年5月25日に夜間特攻攻撃に特攻出撃した練習機白菊を発見した[[レーダーピケット艦]]が、「85 - 90マイル(時速140km/h前後)の日本機がアメリカ軍の駆逐艦を追っている」という打電を行ったが、その無電を傍受して聞いた第5[[航空艦隊]]の参謀が、「アメリカ軍の駆逐艦が日本機(白菊)を追いかけている」と聞き違いするぐらいであった。第5航空艦隊司令[[宇垣纏]]中将も「特攻機も機材次第に欠乏し練習機を充当せざるべからずに至る。夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数はあれども之に大なる期待はかけ難し」と、機材欠乏で練習機を特攻機にせざるを得ない状況となったが、戦力にはならないとの見解を示している<ref>{{Harvnb|宇垣纏|1953|p=244}}</ref>。
**喫水線より少々上部
**空母の場合 格納甲板入口
**煙突の根本
**後部推進機関部位
 
以上のような技術面での訓練や指導の他に、生活面や心得などについての教育も重視されており、「と號武隊員の心得」として「健康に注意せよ」「純情明朗なれ」「精神要素の修練をなせ」「堅確なる意志を保持せよ」などが説かれている<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=95}}</ref>。
実際にこの25日の夜間には練習機白菊合計49機(未帰還19機)が出撃しているが、駆逐艦ゲストに軽微な損傷を与えたのみだった<ref>{{Harvnb|加藤浩|2009|p=393}}</ref>。
また乗機に対する愛情も強調されており、「愛機を悲しませるな」として「愛機に人格を見いだせ、出来るだけ傍に居てやれ、腹が減ってはいないか、怪我はしていないか、流れる汗は拭いてやれ」と機体のメンテナンスを率先して行うように指導している<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=96}}</ref>。
 
陸軍航空隊の、特攻機搭乗員訓練カリキュラムは、重装備による薄暮の離着陸、空中集合、中隊の運動に10時間、前述の攻撃法の訓練に10時間、海上航法に6時間とされており、他に地上での訓練や講習を含めても約1カ月という短期間で育成されていた<ref>{{Harvnb|戦史叢書94|1976|p=400}}</ref>。
練習機で出撃する搭乗員は年端もいかない少年兵が多く、その出撃時の指揮官と少年兵らのやり取りを聞いていた当時報道班員をしていた作家[[山岡荘八]]は、少年兵らの幼さにやりきれない思いになったという。ある少年兵が「沖縄に到達したらどのような艦船を目指せばいいんですか?」と質問したのに対し、指揮官が目を涙で真っ赤にしながら「艦種なんてなんでもいい、沖縄には敵はゴマンといるんだから目をつむってブンブン回せ、そしたら敵の方から当たってくれる。まごまごしてると撃ち落されるぞ」と答え、少年兵らが「はーい」と無邪気に返事をしているのを見て、居た堪れなくなってその場を立ち去り、葉桜の陰で{{読み仮名|慟哭|どうこく}}したという<ref>{{Harvnb|山岡荘八|2015|p=516}}</ref>。
 
;特攻機の航法
しかし、司令部の期待度の低さに反して、白菊特攻は戦果を挙げるようになり、1945年5月28日に駆逐艦ドレクスラー、1945年6月21日に輸送駆逐艦[[バリー (DD-248)|バリー]] と中型揚陸艦 LSM-59の合計3隻を撃沈する戦果を挙げている。撃沈された駆逐艦ドレクスラーの乗組員は、白菊が通常の日本機よりも速度が速いと感じ、操縦も対空砲火を交わしながらほぼ艦中央に突入する巧みさであったため、実際は訓練も十分でなかったはずの白菊搭乗員であるが、非常に経験を積んだパイロットに見えたという<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=178}}</ref>。
[[ファイル:Chiran Peace Museum02.jpg|thumb|right|300px|左翼に統一型[[増槽|落下タンク]]、右翼に250㎏爆弾を懸吊している一式戦闘機の特攻機([[知覧特攻平和会館]]展示)。これは映画「[[俺は、君のためにこそ死ににいく]]」の撮影のために制作された原寸大の[[模型|モックアップ]]であるが、当時の設計図を参考に精巧に作られている<ref>{{Cite web |url=http://www.fushou-miyajima.com/gekisya/070810_01.html|title=不肖、宮崎 「隼」知覧に帰還 |accessdate=2017-3-6}}</ref>。]]
「特攻では敵艦に突入するから搭乗員は全員即死と決めてかかって片道の燃料しか積んでいなかった」との主張があるが<ref>{{Harvnb|佐藤早苗|2007|p=172}}</ref> 、海軍の最初の神風特攻隊「敷島隊」は、悪天候に悩まされ1944年10月22日の初出撃以降3回連続で帰還し<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=59}}</ref>、陸軍航空隊の「富嶽隊」も初回の出撃では5機中4機が帰還するなど<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=10}}</ref>、特攻最初期から会敵できずに帰還する特攻機が存在するのは認識されており、事実誤認である。
 
フィリピンで海軍航空隊最初の特攻隊を出撃させた第201航空隊の第311飛行隊長横山岳夫中尉は、部下隊員に「例えば100の燃料があるなら、50まで行って敵が見えんかったら帰って来い。」「仮に戻れない場合は、燃料が尽きる前に陸地に不時着しろ。」と帰還の指示までおこなってから出撃させている。その理由は「目標が見つからなければ、燃料が尽きて墜落するだけだから、出撃させる以上は無駄には死なせたくない。」といった至極当然の理由であったという<ref>[証言記録 兵士たちの戦争]“特攻の目的は戦果にあらず” ~第二〇一海軍航空隊~ 「特攻隊員指名の葛藤」 2011年放送</ref><ref>{{Harvnb|門田隆将|2011|p=102}}</ref>。
また終戦直前には、複葉機の[[九三式中間練習機]]も特攻に投入されたが、1945年7月29日出撃の「第3龍虎隊」が駆逐艦キャラハンを撃沈し、30日にはカッシン・ヤングを大破させプリチェットに損傷を与えた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=187}}</ref>。
 
陸軍下志津飛行部隊においては、特攻隊員の教本「と號空中勤務必携」により帰還する方法や心得まで定められていた。内容は「中途から還らねばならぬ時は 天候が悪くて自信がないか、目標が発見できない時等 落胆するな 犬死してはならぬ小さな感情は捨てろ 国体の護持をどうする 部隊長の訓示を思い出せそして 明朗に潔く還ってこい」「中途から還って着陸する時は 爆弾を捨てろ 予め指揮官から示された場所と方法で 飛行場を一周せよ 状況を確かめ乍らたまっていたら小便をしろ(垂れ流してよし) 風向は風速は 滑走路か、路外か、穴は 深呼吸三度」というもの<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=96}}</ref>。
[[九三式中間練習機]]は7機の損失(出撃11機)で3隻(命中4機)の駆逐艦を撃沈破する戦果を挙げており、有効率が非常に高かったため、アメリカ軍は練習機での特攻を脅威と認識、効果が大きかった要因を以下のように分析し、高速の新鋭機による特攻と同等以上の警戒を呼び掛けている<ref name="Anti-Suicide Action">{{Cite web |author=アメリカ合衆国海軍司令部 |url=http://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/a/anti-suicide-action-summary.html |title=Anti-Suicide Action Summary |publisher=[[アメリカ海軍]]公式ウェブサイト |language=英語 |accessdate=2016-12-22}}</ref>{{Refnest|group="注"|一部の報道機関で[[九三式中間練習機]]が120機出撃したが、未帰還機不時着機が続出し、戦果も無かったとの報道がなされたが、[[九三式中間練習機]]で特攻出撃したのは「第3龍虎隊」のみであり、[[白菊 (航空機)|白菊]]を混同しているものと思われる。また練習機特攻は[[白菊 (航空機)|白菊]]も含めて戦果は挙がっており、事実誤認である<ref>[[NHKスペシャル]]『特攻・なぜ拡大したのか』2015年8月8日放送</ref>。}}。
* 木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い。
* [[近接信管]]が作動しにくい(通常の機体なら半径30mで作動するが、93式中間練習機では9mでしか作動しない)。
* 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた{{Refnest|group="注"|第3龍虎隊の隊員は台湾の龍虎飛行場で元々零戦搭乗員として訓練を受けていたが、零戦が枯渇したため、93式中間練習機で夜間爆撃訓練を受けていた精鋭であり、非常に操縦技術が高かった<ref>{{Harvnb|加藤浩|2009|p=430}}</ref>。[[角田和男]]少尉によれば、第3龍虎隊の内一部の搭乗員は、不時着による機体破損回数の多い搭乗員や、出撃時何らかの理由で途中引き返した回数の多い搭乗員が懲罰的に選ばれたという<ref>{{Harvnb|角田和男|1990|p=324}}</ref>。}}。
アメリカ側はこういった練習機や、[[九九式艦上爆撃機]]の様に通常攻撃では連合国軍艦隊に通用しなくなっていた固定脚等の旧式機が、特攻では戦果を挙げていることを見て「こうした戦術(特攻)は、複葉機やヴァル([[九九式艦上爆撃機]])のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と、特攻では、旧式機でも戦力になると前向きな評価をしていた<ref>{{Harvnb|モリソン|2003|p=429}}</ref>。
 
実戦でも、[[飛行第62戦隊]]が[[九州沖航空戦]]中の1945年3月18日に、[[新海希典]]戦隊長が率いる特攻専用機「ト」号機3機で[[浜松陸軍飛行学校|浜松基地]]から沖合150㎞に発見した敵機動部隊に向けて特攻出撃したが、機動部隊を発見できず出撃機の内2機が帰還しているが(新海の戦果確認機は未帰還)、地上で迎えた部隊指揮官は「ご苦労。よく帰ってきた。急いで死ぬばかりが国のためではない。よく休みなさい」と帰還機搭乗員らの労をねぎらっている<ref>{{Harvnb|門田隆将|2011|p=245}}</ref>。
=====特攻機の燃料=====
「特攻では片道の燃料しか積んでいなかった」と言われることもあるが、実際は[[レーダー]]を避けるための低空飛行と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多くの燃料が積み込まれた。零戦の主任設計者である[[堀越二郎]]技師は、戦後に自著で「零戦を爆戦(戦闘爆撃型、52型以降)として運用するために胴体下に爆弾、両翼下に増加燃料タンクを振り分けたが、翼下燃料タンクの投下装置の不具合によって特攻作戦において中止帰投や未帰還となる例があった」としている{{要出典|date=2016年12月}}。
 
また、特攻隊員たちが憂いなく出発できるように、出撃機には可能な限りの整備がなされたとも言われるが、現実問題として日本の工業生産力はすでに限界に達しており、航空機の品質管理が十分ではなかった<ref group="注">工場生産における品質管理の思想が日本に入るのは戦後の[[朝鮮特需]]の時であり、この当時は量産品に関しては生産量優先で品質は全く考慮されていない。例としては[[層流翼]]を採用した[[紫電改|紫電]]の完成機は、工作不良による左右の主翼揚力や主翼取付け角の不均衡により真っ直ぐ飛ばない機体の方が多かったと言われる。</ref>ことや、代替部品の欠乏による不完全な整備から、特攻機の機体不調による帰投は珍しいことではなかった。
しかし、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、[[鹿屋市|鹿屋]]からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦や戦闘機による[[戦闘空中哨戒]](CAP)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向を変更するのが成功率を上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察や目標の位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃・撃墜され、特攻機自らが目標を索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえるために」必要とされた。陸軍第六航空軍の[[青木喬]]参謀副長が「特攻隊に帰りの燃料は必要ない」と命令していた姿も目撃されているが<ref>[[#重爆特攻]]155-156頁</ref>その様な動きはむしろ例外で、日本側がわざわざ焼夷効果を狙って燃料を増載していていたという証言もあり、「特攻だから片道燃料としていた」という話には疑問が出ている。米戦略爆撃調査団による戦後の調査においても「命中時の効果を高める為、ガソリンが余分に積まれていた」ということが判明しており、陸軍第六航空軍も戦後の米戦略爆撃調査団からの尋問で「特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる」と燃料による火災を特攻の大きな効果として認識していた<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=185}}</ref>。
 
沖縄戦での特攻では、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、[[鹿屋市|鹿屋]]からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦や戦闘機による[[戦闘空中哨戒]](CAP)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向を変更するのが成功率を上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察や目標の位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃・撃墜され、特攻機自らが目標を索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえるために」必要とされた。[[レーダー]]を避けるための低空飛行と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多くの燃料が積み込まれた。陸軍の一式戦は機体燃料タンクに加えて左翼下に燃料200L入りの統一型[[増槽|落下タンク]]を懸吊して出撃している。増槽内の燃料が減ってくると、右翼下には250㎏爆弾が懸吊してあるため、爆弾の重量で機体が右に傾き操縦が困難になったという<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=58}}</ref>。
特攻隊員たちが憂いなく出発できるように、出撃機には可能な限りの整備がなされたとも言われるが、現実問題として日本の工業生産力はすでに限界に達しており、航空機の品質管理が十分ではなかった<ref group="注">工場生産における品質管理の思想が日本に入るのは戦後の[[朝鮮特需]]の時であり、この当時は量産品に関しては生産量優先で品質は全く考慮されていない。例としては[[層流翼]]を採用した[[紫電改|紫電]]の完成機は、工作不良による左右の主翼揚力や主翼取付け角の不均衡により真っ直ぐ飛ばない機体の方が多かったと言われる。</ref>ことや、代替部品の欠乏による不完全な整備から、特攻機の機体不調による帰投は珍しいことではなかった。
 
陸軍第六航空軍の[[青木喬]]参謀副長が「特攻隊に帰りの燃料は必要ない」と命令していた姿も目撃されているが<ref>[[#重爆特攻]]155-156頁</ref>その様な動きはむしろ例外で、陸軍第六航空軍の高級参謀は、戦後の米戦略爆撃調査団からの尋問で「特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる」と燃料による火災を特攻の大きな効果として認識しており<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=177}}</ref>、米戦略爆撃調査団による戦後の調査においても「命中時の効果を高める為、ガソリンが余分に積まれていた」ということが判明している<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=185}}</ref>。アメリカ軍も「特攻機は爆弾を積んでいなくてもその搭載燃料で強力な焼夷弾になる。」と、特攻機の燃料による火災を特攻の効果の一つとして挙げている<ref>United States Navy ACTION REPORT FILM CONFIDENTIAL 1945 MN5863 『Combating suicide plane attacks』1945年アメリカ海軍航空局作成</ref>。
 
特攻機が片道燃料しか搭載しなかったという誤った情報が広まった経緯について、[[知覧特攻平和会館]]の初代館長で、自らも[[振武隊]]員として特攻出撃した経験のある板津忠正は、「基地で丹念に機体を整備している整備員が、燃料がこれだけあれば十分だと言って満タンにせずに送り出せると思いますか?当時の整備員はできれば一緒に乗って行きたい心境でしたし」と、片道燃料で出撃させられたという事実を否定し、「戦場に着き、特攻が成功すれば、片道燃料だけですむということが戦後、一人歩きして、帰りの燃料は積まなかったと思われるようになったのです。片道燃料という説は、大きな誤りです。」と指摘している<ref>{{Harvnb|宮本雅史|2005|p=224}}</ref>。
 
==== 対空特攻 ====
259 ⟶ 395行目:
結局こうした苦心の策も、硫黄島を占領されB-29が[[P-51 (航空機)|P-51]]を初めとする優秀な最新鋭戦闘機を護衛に引き連れてくるようになると、組織的な空対空特攻隊の編成は下火となっていった。また空母艦載機群が本土空襲を始め、日本本土の各航空基地に来襲するようになると、地上撃破されていった。しかし、そのような状況の中でもわずかながら戦果を挙げている<ref name="ta">一例として、1945年5月29日[[飛行第5戦隊 (日本軍)|飛行第5戦隊]]が[[静岡県]][[榛原町 (静岡県)|榛原町]]上空にて[[横浜市|横浜]]へ爆撃([[横浜大空襲]])に向かうB-29の大編隊に対して「屠龍」にて体当たり攻撃を行い、1機撃墜し戦死した河田清治少尉がいる(参考資料:{{Cite web |date=2005-05-22 |url=http://comrade.at.webry.info/200505/article_12.html |title=B29 体当たり事件(1945/5/29) |work=過去と未来の間 |publisher=[[BIGLOBE]] |accessdate=2016-12-22}}・{{Cite web |url=http://www.onebyone.co.jp/tenseiji5/raibura/honbun01/honbun010811.html |title=[天声人語] 08月11日 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20060517234951/http://www.onebyone.co.jp/tenseiji5/raibura/honbun01/honbun010811.html |archivedate=2006-05-17 |accessdate=2016-12-22}}・{{Harvnb|河田宏|2005|pp={{要ページ番号|date=2015-06-28}}}})</ref>。
 
==== 空挺特攻 ====
生還が極めて困難な[[エアボーン]]方式の[[コマンド部隊|コマンド作戦]]が行われた例があり、特別攻撃隊として評価されることがある。いずれも敵飛行場に航空機を用いて強行着陸し、地上部隊を突入させるものであった。最初の実行例は、[[レイテ島の戦い]]で[[高砂義勇隊|高砂義勇兵]]によって編成された「薫空挺隊」を輸送機で強行着陸させようとした「[[義号作戦#薫空挺隊|義号作戦]]」である。同じレイテ戦では、正規空挺部隊である[[挺進連隊|挺進部隊]]の大規模空挺作戦の「[[テ号作戦]]」でも、一部が海岸地帯の生還困難な飛行場へ強行着陸を試みている。[[沖縄戦]]でも一時的に飛行場を制圧して対艦特攻を間接支援する目的で、挺進連隊の一部が「義烈空挺隊」として強行着陸を行っており、これも「[[義号作戦]]」と呼称している。沖縄戦中の1945年5月24日に12機の[[九七式重爆撃機]]に分乗した136名の義烈空挺隊が沖縄の読谷と嘉手納の飛行場に攻撃を謀ったが、激しい対空射撃で強行着陸できたのは読谷飛行場の1機のみであった。しかし搭乗していたわずか12名の空挺隊員は戦闘機3機・爆撃機2機・輸送機3機を完全撃破、他22機にも損害を与え、約70,000ガロンの航空燃料を焼き払い、海兵隊に22名の死傷者を出させた後に全滅した。同飛行場は丸一日使用不能に陥っている<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=159}}</ref>。このほか、マリアナ諸島の飛行場および原爆貯蔵施設を標的とした[[剣号作戦]]が計画されたが、終戦で実行に至らなかった。
 
=== 水中特攻/水上特攻 ===
[[ファイル:Scenes in Hong Kong Following the Re-occupation of the Crown Colony After the Japanese Surrender, September 1945 A30520.jpg|thumb|right|200px|終戦後、[[香港]]で発見された震洋、香港にもアメリカ軍の侵攻に備えて3個震洋隊が配置されていた。]]
水中特攻、水上特攻は、[[回天]]、[[震洋]]などの[[特攻兵器]]を使用した敵艦船を目標とする体当たり、自爆攻撃である。戦艦の巨砲で敵地へ突入し玉砕する戦法は海上特攻と呼ばれた。
水中特攻、水上特攻は、[[回天]]、[[震洋]]などの[[特攻兵器]]を使用した敵艦船を目標とする体当たり、自爆攻撃のことである。
 
水上特攻は陸海軍とも当初は搭乗員の戦死が前提ではなく、陸軍の四式肉薄攻撃艇は敵艦近くの海中に爆雷を投下し、そのまま退避するのが前提であったが、実際に試作艇で試験してみると爆発時に生じる水柱の回避が困難なことが判明し、技術陣からそのまま体当たりした方が効率がいいという指摘がなされて、体当たり攻撃も可能な装備が付けられた<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=77}}</ref>。しかし、陸軍の原則はあくまでも爆雷投下後退避であり、1945年に作成された教範では、四式肉薄攻撃艇が「敵艦の側面に真っ直ぐ突進して爆雷を投下しUターンして退避する」とか「敵艦後方から両側から挟む様に2隻の特攻艇が敵艦に接近し、爆雷を投下してそのまま前進して退避する」とか「斜め後方より敵艦に接近し爆雷投下後直角に退避する」とかの攻撃法が図入りで説明されていた<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=122}}</ref>。実戦でも沖縄戦中の1945年4月9日に駆逐艦チャ―ルズ・A・バジャーを攻撃した四式肉薄攻撃艇は、まだ暗い早朝4時に暗闇に紛れて気付かれず同艦に接近し爆雷投下後無事に退避している。この爆雷はチャ―ルズ・A・バジャーのすぐそばで爆発し、艦体全体が湾曲し後部ボイラー室と機械室に大量に浸水し航行不能に陥る大損害を被った。一方で、同日夜に輸送艦スターを攻撃した四式肉薄攻撃艇は、退避が遅れて自分の爆雷の爆発で吹き飛んでいる<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|pp=331-333}}</ref>。爆雷は4秒の時限信管付きで、投下後4秒間沈下し、水面下10mで直上の敵艦艇に最大の打撃を与えられた。しかし敵艦から10m離れると著しく威力が減少するため、実戦でも爆雷の投下までできたが敵艦に軽微な損傷しか与えられなかったケースが多くあった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=79}}</ref>、そのため、自ら体当たりを選ぶ搭乗員も多かった<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=122}}</ref>。
 
一方で海軍の震洋は初めから体当たり攻撃用に開発されていたが、海軍中央は体当たり前の脱出を前提に開発を進めるよう要望している。昭和19年8月16日の特攻兵器に関する会議で[[連合艦隊]]参謀長[[草鹿龍之介]]中将が「せめて10分の1生還の途を考えてもらいたい」と意見し、海軍次官[[井上成美]]大将も捨身戦法は有益であるが、脱出装置は準備すべきと意見を述べている<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1975|p=342}}</ref>。これらの海軍の方針もあり、震洋の操舵輪には固定装置が付けられ、搭乗員は敵艦に命中する様にコースをセットしたら後ろから海に飛び込む様に設計されており、訓練所のあった海軍水雷学校で訓練したところ、走っている艇より海中に飛び込むことは容易で、スクリューに巻き込まれる事もなく安全であることが判明している<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|pp=35-36}}</ref>。しかしこの固定装置は初期生産型のみの設置で、水雷学校で行われていた体当たり前に海中に脱出する訓練は、水雷学校の分校である長崎県川棚町の魚雷艇訓練所に訓練場所が移った後は行われなくなり、また訓練を受けている隊員たちもそのまま体当たりするのが当然と考えていた<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|p=39}}</ref>。
 
=== 海上特攻 ===
戦艦の巨砲で敵地へ突入し玉砕する戦法は海上特攻と呼ばれた。
 
海上特攻隊はマリアナ沖海戦の敗北後から[[神重徳]]大佐によって主張されていた。[[坊ノ岬沖海戦]]で行われた戦艦大和以下によって行われたものについて、[[豊田副武]]連合艦隊長官は「大和を有効に使う方法として計画。成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」という。[[草鹿龍之介]]少将は大和の[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]司令長官[[伊藤整一]]中将に「一億総特攻のさきがけになってもらいたい」と説得した<ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1976|pp=273-275}}</ref>。
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{{main|特攻兵器}}
 
'''====海軍'''====
; 戦闘機
* [[零式艦上戦闘機]]   沖縄戦特攻出撃延機数 602機 内未帰還 320機<ref name="ichiran">{{Harvnb|戦史叢書17|1968|loc=付表「沖縄方面特別攻撃隊一覧表」}}</ref><ref name="ichiranDW">{{Harvnb|ウォーナー|1982b|loc=付表「特別攻撃戦果一覧表」}}</ref>
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* [[伏竜]]
 
'''====陸軍'''====
; 戦闘機
* [[九七式戦闘機]] 沖縄戦特攻出撃延機数 173機<ref name="ichiran" /><ref name="ichiranDW" />
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* [[タ号]]
* [[四式肉薄攻撃艇|四式肉薄攻撃艇(マルレ)]]
 
====練習機による特攻====
[[ファイル:Kyushu K11W Shiragiku.jpg|thumb|right|280px|大戦末期に特攻機として投入された練習機[[白菊 (航空機)|白菊]]、低速であったが操縦性・安定性は優秀で特攻以外にも対潜哨戒や輸送などの実戦任務にも投入されていた]]
大戦末期には、本土決戦用に新型機や高性能機を温存させるために、本来戦闘には適さない低性能の機体、陸軍の[[九九式高等練習機|九九高練]]、[[二式高等練習機|二式高練]]、海軍の機上作業練習機「[[白菊 (航空機)|白菊]]」、複葉練習機([[九五式一型練習機]]・[[九三式中間練習機]])などの[[練習機]]も特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦で特攻作戦に使用された。練習機は、ガソリンを極力温存するためにアルコールを混入した「八〇丙」と言う劣悪な燃料でも飛行可能であったのも投入理由の一つである。実戦機に比べ非力な300[[馬力]]から800馬力程度のエンジンを積み、元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していたため極端に速度が遅かった。
 
日本軍側もその低速ぶりは問題視しており、1945年5月25日に夜間特攻攻撃に特攻出撃した練習機白菊を発見した[[レーダーピケット艦]]が、「85 - 90マイル(時速140km/h前後)の日本機がアメリカ軍の駆逐艦を追っている」という打電を行ったが、その無電を傍受して聞いた第5[[航空艦隊]]の参謀が、「アメリカ軍の駆逐艦が日本機(白菊)を追いかけている」と聞き違いするぐらいであった。第5航空艦隊司令[[宇垣纏]]中将も「特攻機も機材次第に欠乏し練習機を充当せざるべからずに至る。夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数はあれども之に大なる期待はかけ難し」と、機材欠乏で練習機を特攻機にせざるを得ない状況となったが、戦力にはならないとの見解を示している<ref>{{Harvnb|宇垣纏|1953|p=244}}</ref>。
 
実際にこの25日の夜間には練習機白菊合計49機(未帰還19機)が出撃しているが、駆逐艦ゲストに軽微な損傷を与えたのみだった<ref>{{Harvnb|加藤浩|2009|p=393}}</ref>。
 
練習機で出撃する搭乗員は年端もいかない少年兵が多く、その出撃時の指揮官と少年兵らのやり取りを聞いていた当時報道班員をしていた作家[[山岡荘八]]は、少年兵らの幼さにやりきれない思いになったという。ある少年兵が「沖縄に到達したらどのような艦船を目指せばいいんですか?」と質問したのに対し、指揮官が目を涙で真っ赤にしながら「艦種なんてなんでもいい、沖縄には敵はゴマンといるんだから目をつむってブンブン回せ、そしたら敵の方から当たってくれる。まごまごしてると撃ち落されるぞ」と答え、少年兵らが「はーい」と無邪気に返事をしているのを見て、居た堪れなくなってその場を立ち去り、葉桜の陰で{{読み仮名|慟哭|どうこく}}したという<ref>{{Harvnb|山岡荘八|2015|p=516}}</ref>。
 
しかし、司令部の期待度の低さに反して、白菊特攻は戦果を挙げるようになり、1945年5月28日に駆逐艦ドレクスラー、1945年6月21日に輸送駆逐艦[[バリー (DD-248)|バリー]] と中型揚陸艦 LSM-59の合計3隻を撃沈する戦果を挙げている。撃沈された駆逐艦ドレクスラーの乗組員は、白菊が通常の日本機よりも速度が速いと感じ、操縦も対空砲火を交わしながらほぼ艦中央に突入する巧みさであったため、実際は訓練も十分でなかったはずの白菊搭乗員であるが、非常に経験を積んだパイロットに見えたという<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=178}}</ref>。
 
また終戦直前には、複葉機の[[九三式中間練習機]]も特攻に投入されたが、1945年7月29日出撃の「第3龍虎隊」が駆逐艦キャラハンを撃沈し、30日にはカッシン・ヤングを大破させプリチェットに損傷を与えた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=187}}</ref>。
 
[[九三式中間練習機]]は7機の損失(出撃11機)で3隻(命中4機)の駆逐艦を撃沈破する戦果を挙げており、有効率が非常に高かったため、アメリカ軍は練習機での特攻を脅威と認識、効果が大きかった要因を以下のように分析し、高速の新鋭機による特攻と同等以上の警戒を呼び掛けている<ref name="Anti-Suicide Action">{{Cite web |author=アメリカ合衆国海軍司令部 |url=http://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/a/anti-suicide-action-summary.html |title=Anti-Suicide Action Summary |publisher=[[アメリカ海軍]]公式ウェブサイト |language=英語 |accessdate=2016-12-22}}</ref>{{Refnest|group="注"|一部の報道機関で[[九三式中間練習機]]が120機出撃したが、未帰還機不時着機が続出し、戦果も無かったとの報道がなされたが、[[九三式中間練習機]]で特攻出撃したのは「第3龍虎隊」のみであり、[[白菊 (航空機)|白菊]]を混同しているものと思われる。また練習機特攻は[[白菊 (航空機)|白菊]]も含めて戦果は挙がっており、事実誤認である<ref>[[NHKスペシャル]]『特攻・なぜ拡大したのか』2015年8月8日放送</ref>。}}。
* 木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い。
* [[近接信管]]が作動しにくい(通常の機体なら半径30mで作動するが、93式中間練習機では9mでしか作動しない)。
* 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた{{Refnest|group="注"|第3龍虎隊の隊員は台湾の龍虎飛行場で元々零戦搭乗員として訓練を受けていたが、零戦が枯渇したため、93式中間練習機で夜間爆撃訓練を受けていた精鋭であり、非常に操縦技術が高かった<ref>{{Harvnb|加藤浩|2009|p=430}}</ref>。[[角田和男]]少尉によれば、第3龍虎隊の内一部の搭乗員は、不時着による機体破損回数の多い搭乗員や、出撃時何らかの理由で途中引き返した回数の多い搭乗員が懲罰的に選ばれたという<ref>{{Harvnb|角田和男|1990|p=324}}</ref>。}}。
アメリカ側はこういった練習機や、[[九九式艦上爆撃機]]の様に通常攻撃では連合国軍艦隊に通用しなくなっていた固定脚等の旧式機が、特攻では戦果を挙げていることを見て「こうした戦術(特攻)は、複葉機やヴァル([[九九式艦上爆撃機]])のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と、特攻では、旧式機でも戦力になると前向きな評価をしていた<ref>{{Harvnb|モリソン|2003|p=429}}</ref>。
 
=== 代替案 ===
1944年5月、[[飛行第5戦隊|飛行第5戦隊長]]高田勝重[[少佐]]らの自発的な体当たり攻撃に対し、[[陸軍航空技術研究所|第一陸軍航空技術研究所]]の大森丈夫航技少佐と第二陸軍航空技術研究所の小笠満治少佐は「100%戦死する体当たり攻撃は技術者の怠慢を意味する不名誉なこと」として親子飛行機構想を提案したことで「イ号」の計画が進められた<ref>{{Harvnb|戦史叢書87|1975|p=458}}</ref>、1944年春のうちに遠隔操作・無線誘導([[手動指令照準線一致誘導方式]])の[[誘導爆弾]]である[[イ号一型甲無線誘導弾]]・[[イ号一型乙無線誘導弾]]と自動音響追尾式[[対艦ミサイル]]の[[イ号一型丙自動追尾誘導弾]]が陸軍航空本部によって研究が開始された。
 
イ号一型乙無線誘導弾は実用化にこぎつけ150機を量産するも敗戦を迎え実戦には投入されなかった。敵艦艇の防空砲火射程外から投下できても、母機は誘導爆弾を誘導する為に敵艦に接近せねばならず、防空砲火の絶好の目標となってしまうと、誘導爆弾の開発に携わった陸軍航空本部坂本英夫部員は指摘している<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=404}}</ref>。陸軍は母機からの誘導が必要ない[[パッシブホーミング]]方式を採用した[[赤外線]][[誘導爆弾|対艦誘導爆弾]]の[[ケ号自動吸着弾]]も開発中であった<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=406}}</ref>。しかし、イ号一型丙自動追尾誘導弾と同じく試験中に敗戦を迎え、結局特攻に代わる兵器を開発できずに終わった。
 
[[対艦ミサイル]]や[[誘導爆弾]]といった無人の誘導兵器であれば、投下高度と命中精度を両立でき、実際に運用されたドイツ軍の誘導爆弾[[フリッツX]]は高度6000mから投下され音速近い速度が出たと言われるが<ref>{{Cite web |url=http://www.ausairpower.net/WW2-PGMs.html |title=The Dawn of the Smart Bomb |publisher=[[:en:Air Power Australia]] |accessdate=2016-12-23}}</ref>、オペレーターが目視で手動で誘導しなくてはならなかったため、誘導兵器でありながら、命中率や命中誤差はオペレーターの技量に大きく依存していた。またオペレーターの誘導のために、母機が命中まで目標上空まで飛行しなければならなかった<ref>{{Harvnb|Christopher|2013|p=134}}</ref>。
 
== 効果 ==
=== 戦果 ===
{{See|特攻で損害を受けた艦船の一覧}}
==== 撃沈 ====
;撃沈
参考文献<ref>{{Harvnb|米国海軍省戦史部|1956|pp=187-320}}</ref><ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|loc=付表第2 沖縄方面神風特別攻撃隊一覧表}}</ref><ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|pp=294-359}}</ref><ref>{{Harvnb|図説特攻|2003|pp=122-123}}</ref><ref>{{Harvnb|原勝洋|2004|pp=295-349}}</ref><ref>{{Harvnb|安延多計夫|1960|p=349 別表第2 被害艦要目一覧表 }}</ref><ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=157}}</ref><ref>{{Harvnb|木俣滋郎|1993|pp=885-901}}</ref><ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|pp=410-415}}</ref><ref>{{Harvnb|Rielly|2010|pp=318-324}}</ref><ref>{{Harvnb|Smith|2015|pp={{要ページ番号|date=2016年12月}}}}</ref><ref>{{Harvnb|Stern|2010|p=338}}</ref><ref>{{Harvnb|Kalosky|2006|pp={{要ページ番号|date=2016年12月}}}}</ref><ref>{{Harvnb|Silverstone|2007|pp=1-350}}</ref><ref name="Chronology1944">{{Cite web |url=http://www.navsource.org/Naval/1944.htm |title=U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1944 |language=英語 |accessdate=2016-12-22}}</ref><ref name="Chronology1945">{{Cite web |url=http://www.navsource.org/Naval/1945.htm |title=U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945 |language=英語 |accessdate=2016-12-22}}</ref>
参考文献<ref>{{Harvnb|米国海軍省戦史部|1956|pp=187-320}}</ref><ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|loc=付表第2 沖縄方面神風特別攻撃隊一覧表}}</ref><ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|pp=294-359}}</ref><ref>{{Harvnb|図説特攻|2003|pp=122-123}}</ref><ref>{{Harvnb|原勝洋|2004|pp=295-349}}</ref><ref>{{Harvnb|安延多計夫|1960|p=349 別表第2 被害艦要目一覧表 }}</ref><ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=157}}</ref><ref>{{Harvnb|木俣滋郎|1993|pp=885-901}}</ref><ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2014|pp=410-415}}</ref><ref>{{Harvnb|オネール|1988|pp=16-269 }}</ref><ref>{{Harvnb|Rielly|2010|pp=318-324}}</ref><ref>{{Harvnb|Smith|2015|pp={{要ページ番号|date=2016年12月}}}}</ref><ref>{{Harvnb|Stern|2010|p=338}}</ref><ref>{{Harvnb|Kalosky|2006|pp={{要ページ番号|date=2016年12月}}}}</ref><ref>{{Harvnb|Silverstone|2007|pp=1-350}}</ref><ref name="Chronology1944">{{Cite web |url=http://www.navsource.org/Naval/1944.htm |title=U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1944 |language=英語 |accessdate=2016-12-22}}</ref><ref name="Chronology1945">{{Cite web |url=http://www.navsource.org/Naval/1945.htm |title=U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945 |language=英語 |accessdate=2016-12-22}}</ref>
 
{| class="wikitable"
383 ⟶ 555行目:
| 駆潜艇 || SC・PC || 1隻 ||||1隻||1隻
|-
| 掃海艇 || AM・YMS || 23<ref group="注">アメリカ海軍・イギリス軍・ソ連軍各1隻</ref>|| || ||
|-
| 魚雷艇 || PT || 2隻|| ||2隻||
405 ⟶ 577行目:
| 輸送艦 || || 7隻 || || ||
|-
|'''合計''' || || '''5354隻'''||'''6隻'''|| '''13隻'''|| '''25隻'''
|}
[[ファイル:USS St. Lo Cve63.jpg|thumb|right|200px|神風特別攻撃隊、敷島隊の特攻で撃沈された護衛空母[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]]]
 
==== 損傷艦 ====
;損傷
[[ファイル:USS Intrepid (CV-11) burning April 1945.jpeg|thumb|right|200px|沖縄戦にて特攻機の命中で大破した正規空母[[イントレピッド (空母)|イントレピッド]]]]
[[ファイル:USS Essex (CV-9) is hit by a Kamikaze off the Philippines on 25 November 1944.jpg|thumb|right|200px|フィリピン戦で正規空母[[エセックス (空母)|エセックス]]に特攻機が命中した瞬間]]
487 ⟶ 660行目:
自らもイギリス軍の従軍記者として、空母[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]で取材中に特攻で負傷した経験を持つデニス・ウォーナーは「航空特攻作戦は、連合軍の間に誇張する必要もない程の心理的衝撃を与え、またアメリカ太平洋艦隊に膨大な損害を与えた。アメリカ以外の国だったら、このような損害に耐えて、攻勢的な海軍作戦を戦い続ける事はできなかったであろう。」「そして、日本軍の特攻機だけがこのような打撃を敵(アメリカ海軍)に与える事が可能であったことだろう。」と結論付けている<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|loc=pp.196, 288}}</ref>。
 
====人員====
;連合軍の人的損失
特攻の効果で、連合軍を苦しめたものの一つが、大きな人的損失であった。
 
529 ⟶ 702行目:
 
また沖縄戦で旗艦の空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]で艦載機の発艦準備を視察していた第58任務部隊司令[[マーク・ミッチャー]]中将のわずか6mの至近に特攻機が突入した。奇跡的にミッチャー自身は無傷であったが幕僚13名が戦死し、また司令官個室も破壊され機密文書からミッチャー個人の私物まですべて焼失してしまった。その後旗艦を空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]としたが、同艦も特攻攻撃を受け大破し、空母[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]に再び旗艦を変更せざるを得なくなった<ref>{{Harvnb|ケネディ|2010|p=539}}</ref>。ミッチャーはこの後も特攻対策で心労が重なり、体重は45kgと女性並みまで落ち込み、舷側の梯子を単独では登れないほどまで心身ともに追い込まれ、上官のスプルーアンスと同じように、沖縄戦途中に異例の艦隊指揮交代となっている<ref>{{Harvnb|ポッター|1991|p=534}}</ref>。
 
アメリカでは特別攻撃隊の報道はアメリカ軍兵士の戦意喪失を招き、銃後の家族に不安を与えるとして規制され、後に一括して報道された。神風特攻隊を受けたアメリカ軍はパニックで神風ノイローゼに陥るものもいた。空母[[ワスプ (CV-18)|ワスプ]]の乗組員123名に健康検査を行ったところ戦闘を行える健常者が30%で、他は全部精神的な過労で休養が必要と診察された<ref name="金子p225">{{Harvnb|金子敏夫|2001|p=225}}</ref>。本来アメリカ海軍は、艦内での飲酒を固く禁じていたが、カミカゼの脅威に{{読み仮名|対峙|たいじ}}する兵士の窮状を診かねた軍医から第7水陸両用部隊司令{{仮リンク|ダニエル・バーベイ|en|Daniel E. Barbey}}少将へ、兵士らのカミカゼへの恐怖を振り払わせるために艦内での飲酒解禁の提案があり、兵士らは貯蔵してあったバーボン・ウィスキーを士気高揚剤として支給されている。酔った勢いの空元気は、カミカゼに対抗するために利用された一つの武器となった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=285}}</ref>。
 
=== 有効率 ===
701 ⟶ 872行目:
| 特攻機合計 || 1,868機 || || || 1,868機
|}
[[ファイル:USS Bunker Hill burning(CV-17) afire after being hit by Kamikazes off Okinawa, 11 May 1945 (80-G-274266).jpg|thumb|right|250px|1945年5月11日、2機の特攻機に攻撃された空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]、特攻単独では最多となる戦死者402名、負傷者264名の甚大な損害を受けた]]
日本側の資料でも前表のアメリカ軍統計通り、日本軍が全軍特攻を打ち出した硫黄島戦以降も特攻機よりは通常攻撃機の出撃機数が多かったが、攻撃の有効性は、通常攻撃機の約半数であった特攻機の方が遥かに高かった。
 
777 ⟶ 948行目:
1945年7月に、[[倉橋島]]大迫[[特殊潜航艇]]基地沖で実施された実験で、海軍はV弾頭の250kg爆弾、V弾頭500kg爆弾を空母[[阿蘇 (空母)|阿蘇]]艦上に設置し爆発させている。250kg爆弾では飛行甲板が大きくめくれ上がり使用に耐えない損傷を負わせ、500kg爆弾では防御甲板が破壊され、舷側より浸水が始まり、かなりの効果が認められたが、V弾頭の爆弾は更なる実験中に終戦を迎えた<ref>{{Harvnb|日本海軍航空史3|1969|p=679}}</ref>。その後に陸軍の対艦大型成型炸薬爆弾[[桜弾]]を艦上で爆発させた<ref>{{Harvnb|福井静夫|1996|p=278}}</ref>。桜弾の爆発は艦底まで達したが、爆発時点での浸水は限定的で5度傾いただけであった。しかし、その後次第に浸水し最終的に着底した<ref group="注">アメリカ軍機の攻撃により着底したという説もあり。</ref>。
 
桜弾は単体で2.9トンもあり、当実験前より陸軍の[[四式重爆撃機]]飛龍に桜弾を搭載した特攻専用機、[[四式重爆撃機#特別攻撃専用型|さくら弾機]] キ-167が運用されていたが、あまりの重量に離陸すらあやうかった。桜弾は飛行第62戦隊で運用されており、同飛行隊には6機のさら弾機が配備されたが3機は事故で墜落し<ref>{{Harvnb|門田隆将|2011|p=261}}</ref>、残りは福岡大刀洗基地より4機出撃したが2機が未帰還であったが戦果は確認されていかった<ref>[証言記録 兵士たちの戦争]重爆撃機 攻撃ハ特攻トス 〜陸軍飛行第62戦隊〜 2008年放送</ref>。
 
その以前にも、同じ[[四式重爆撃機]]飛龍に、海軍より支給された800kg爆弾2発を搭載する代わりに、軽量化のために無線・爆撃装備や副操縦席に至るまで全て撤去され、機首と尾部の風防ガラスをベニヤ板に変えられた特攻専用機「ト」号機も開発され、陸軍特攻「富嶽隊」として出撃が繰り返されたが、戦果は確認されていない<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=409}}</ref>。
 
搭載爆弾を大型化すれば、威力向上するのを日本軍も理解し様々な対策を講じたが、爆弾が大型化すればするほど特攻機の搭載重量は増え運動性は低下するため、飛行が困難になるばかりでなく敵の迎撃の好餌となってしまった。特に大重量爆弾を搭載できる双発機は、アメリカ軍の特攻対策マニュアル「Anti-Suicide Action Summary」にて「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機を最優先で攻撃すること。」と徹底されており<ref name="Anti-Suicide Action" />、アメリカ軍戦闘機の優先攻撃目標となっていたために、敵艦への接近が非常に困難になっていた。
785 ⟶ 954行目:
アメリカ軍は戦後に「大型機を別にすれば、陸海軍機のすべては、威力不十分な爆弾を使用していた。連合軍の主力艦が自殺機によって、1隻も撃沈されなかった理由のひとつも、このあたりにあった」と総括し<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=185}}</ref>、日本側も「中央当局の努力にもかかわらず終戦までに具体的に搭乗員の崇高なる特攻精神にふさわしい威力を具備した特攻機は出現しなかった。」と総括している<ref>{{Harvnb|戦史叢書88|1975|p=145}}</ref>。
 
日本海軍は鹿島爆撃場にて1935年4月頃から半年間に渡って、50mmの鋼板を張った[[レキシントン級航空母艦]]の一部を想定した実物大標的を作り、急降下爆撃で250kg爆弾を投下しその貫通力を調査すると共に、高速度写真撮影機を持ち込み、撃角(貫通する爆弾の命中角度)と均衡撃速(鋼板を貫通できて、貫通後は速度が0になる速度、つまり鋼板を貫通可能な最低速度)を測定する実験を行っている。
=== 速力 ===
特攻の威力に関し、一部で特攻が連合国軍主力艦を撃沈できなかったのは特攻という攻撃方法に威力がなく、それは特攻機の突入速度が通常爆撃と比較して遅いのが原因と分析されることがある<ref name="神風は吹いたのか" />。
 
日本軍は通常爆撃の爆弾や特攻機の終速(目標に命中時の速度)や貫通力についてさまざまな実験や推計をしている。
 
特攻が開始された後、日本海軍[[第五航空艦隊]][[参謀]]野村中佐が、[[爆戦]]の[[零式艦上戦闘機]]による、投下爆弾の終速(目標命中時の速度)と零戦本体の終速を推計している<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|loc=p.356 第二図}}</ref>。
 
'''[[爆戦]]による投下爆弾と爆戦本体の終速の推計(突撃角度を35度 - 55度、攻撃開始速度を360km/hと設定)'''
 
[[ファイル:Mitsubishi A6M kamikaze attacking USS Enterprise (CV-6) 1945.jpg|thumb|280px|1945年5月14 日、米空母エンタープライズに急降下で突撃する富安俊助中尉の[[爆戦]]零戦六二型 ]]
{| class="wikitable"
|-| style="background:#CCCCCC"
!width="100"| 投下高度
!width="100"| 終速
|-| border="1" cellpadding="2"
| 2,000m || 1,027km/h
|-
| 1,000m || 860km/h
|-
| 500m || 713km/h
|-
| 零戦本体 || 720km/h
|}
 
'''特攻に主に使われた零戦の降下制限速度'''
{| class="wikitable"
|-| style="background:#CCCCCC"
!width="250"| 零戦型式
!width="250"| 零戦52型
!width="250"| 零戦52型甲乙丙型
!width="250"| 零戦62型
|-| border="1" cellpadding="2"
| 降下制限速度 || 666.7km/h || 740.8km/h || 740.8km/h
|}
 
日本海軍の急降下爆撃の理想的な攻撃法は、真珠湾攻撃以降は「緩降下しつつ接敵し、高度2000mから角度45度以上の急降下で突入、高度400mで投弾(真珠湾以前は700m)、ただちに引き起こし、海面より200m程を高速で退避する」というもので<ref>{{Harvnb|秋月達郎|2013|p=45}}</ref>、従って急降下爆撃は400m - 700mで投弾されるため、日本海軍の推計の通り、急降下爆撃と同じ前提(角度や初速)で突入した特攻機(零戦)は、急降下制限速度内かつ、急降下爆撃で400m - 700mの高度で投弾された爆弾単体より、突入速度の方が遅いということはない。
 
また、日本海軍は鹿島爆撃場にて1935年4月頃から半年間に渡って、50mmの鋼板を張った[[レキシントン級航空母艦]]の一部を想定した実物大標的を作り、急降下爆撃で250kg爆弾を投下しその貫通力を調査すると共に、高速度写真撮影機を持ち込み、撃角(貫通する爆弾の命中角度)と均衡撃速(鋼板を貫通できて、貫通後は速度が0になる速度、つまり鋼板を貫通可能な最低速度)を測定する実験を行っている。
 
また25m{{sup|2}}の爆撃目標に50mm - 70mmの鋼板を張り戦艦に見立てて、500kg爆弾と800kg爆弾で同様な実験をしているが、その結果が下記の表となる。<ref>{{Harvnb|日本海軍航空史1|1969|pp=735-736}}</ref>。
858 ⟶ 990行目:
しかし、護衛空母のセント・ローに命中した敷島隊の零戦は、まるで着艦でもする様な高度(30m)で接近してきてそのまま時速480km/hで浅い角度で体当たりしたが<ref>Dogfights - Episode 12: Kamikaze (History Documentary)セント・ローの乗組員(電気技師)オービル・ビサード証言</ref>搭載爆弾は甲板を貫通、格納庫で爆発し、燃料や弾薬を誘爆させそのまま爆沈したように、いずれにしても、実戦においては、爆撃も特攻もその状況に応じて、終速や命中角度や効果は大きく異なるため、一律に爆撃が速いとか、特攻の突入角度が浅いとか評価する事はできない。
 
=== 速力 ===
一方、投弾高度が高くなればなるほど、爆弾単体は特攻機より空気抵抗が少なく加速が付くため、爆弾の速度が速くなるが、逆に爆撃の命中率は著しく下がっていった。
特攻の威力に関し、一部で特攻が連合国軍主力艦を撃沈できなかったのは特攻という攻撃方法に威力がなく、それは特攻機の突入速度が空中投下される爆弾と比較して遅いのが原因と指摘される場合がある<ref name="神風は吹いたのか" />。
 
日本軍は通常爆撃の爆弾や特攻機の終速(目標に命中時の速度)や貫通力についてさまざまな実験や推計をしている。
日本海軍において、航空隊要員の教育・練成や戦技研究を担当した[[横須賀海軍航空隊]]が、急降下爆撃の投弾高度に対し「しかるに800m以上にては命中率著しく低下するをもって」と所見を述べている<ref>{{Harvnb|日本海軍航空史1|1969|p=695}}</ref>。
 
特攻が開始された後、日本海軍[[第五航空艦隊]][[参謀]]野村中佐が、[[爆戦]]の[[零式艦上戦闘機]]による、投下爆弾の終速(目標命中時の速度)と零戦本体の終速を推計している<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|loc=p.356 第二図}}</ref>。
その為、1939年の横須賀航空隊並びに航空本部の所見では「基準投下高度を700mとし、本高度をもって訓練するを適当と認む。」とされ、実戦でも700m - 400mで爆弾投下されていた<ref>{{Harvnb|日本海軍航空史1|1969|p=693}}</ref>。
 
'''[[爆戦]]による投下爆弾と爆戦本体の終速の推計(突撃角度を35度 - 55度、攻撃開始速度を360km/hと設定)'''
更に、高高度からの水平爆撃により、航行中の艦船に命中させるのは非常に困難であった。
 
[[ファイル:Mitsubishi A6M kamikaze attacking USS Enterprise (CV-6) 1945.jpg|thumb|280px|1945年5月14 日、米空母エンタープライズに急降下で突撃する富安俊助中尉の[[爆戦]]零戦六二型 ]]
日本軍は、艦船への水平爆撃を他国と比較しても熱心に取り組んでおり、停泊中の目標については[[真珠湾攻撃]]で停泊中の戦艦[[アリゾナ (戦艦)|アリゾナ]]を轟沈するなどの戦果を挙げている。一方で航行中の艦船に対しては[[マレー沖海戦]]では陸攻25機が、戦艦2隻合計で2発 - 3発の命中弾を得たが、<ref>{{Cite web |url=http://www.bbc.co.uk/history/ww2peopleswar/timeline/factfiles/nonflash/a1152299.shtml |title=Fact File : HMS 'Prince of Wales' and HMS 'Repulse' Sunk |work=WW2 People's War |publisher=[[英国放送協会|BBC]] |language=英語 |accessdate=2016-12-23}}</ref>続く[[珊瑚海海戦]]では九六陸攻19機が米機動部隊に水平爆撃を行ったものの<ref>{{Harvnb|森史朗|2009|p=250}}</ref>1発の命中弾もなかった<ref>{{Harvnb|千早正隆|1997|pp=80-81}}</ref>など、大戦中目ぼしい成果を挙げることができず、航行中の目標への水平爆撃の兵術的価値を判定できる戦例は、少数ながらも命中弾があったマレー沖海戦のみとなってしまった<ref name="日本海軍航空史1p748">{{Harvnb|日本海軍航空史1|1969|p=748}}</ref>。
{| class="wikitable"
|-| style="background:#CCCCCC"
!width="100"| 投下高度
!width="100"| 終速
|-| border="1" cellpadding="2"
| 2,000m || 1,027km/h
|-
| 1,000m || 860km/h
|-
| 500m || 713km/h
|-
| 零戦本体 || 720km/h
|}
 
;高高度よりの爆撃(水平爆撃)との比較
このような戦績も踏まえ、戦後に[[桑原虎雄]]元中将以下、多数の元海軍航空隊関係者で組織された日本海軍航空史編纂委員会が、その著書『日本海軍航空史』にて、日本軍の水平爆撃に対して「大東亜戦争開戦前に至ってようやく訓練方法も確立し、その精度も向上して用兵的に期待し得る練度に達したものの、なおその程度は艦船攻撃における急降下爆撃並びに雷撃に比すれば、その期待度ははるかに低いものであった。」と総括し、アメリカ軍が動的水平爆撃をする環境(優勢な航空戦力、優秀な照準器)は整っていたのに、動的水平爆撃を実施した戦例がなかったことも指摘し、航行中の艦船への水平爆撃の有効性に疑問を投げかけている<ref name="日本海軍航空史1p748" />。
 
日本海軍の試算の通り、2,000mの高度から投下した爆弾は時速1,027km/hにも達する。日本海軍は、艦船への水平爆撃を他国と比較しても熱心に取り組んでおり、停泊中の目標については[[真珠湾攻撃]]で停泊中の戦艦[[アリゾナ (戦艦)|アリゾナ]]を轟沈するなどの戦果を挙げている。一方で航行中の艦船に対しては[[マレー沖海戦]]では陸攻25機が、戦艦2隻合計で2発 - 3発の命中弾を得たが、<ref>{{Cite web |url=http://www.bbc.co.uk/history/ww2peopleswar/timeline/factfiles/nonflash/a1152299.shtml |title=Fact File : HMS 'Prince of Wales' and HMS 'Repulse' Sunk |work=WW2 People's War |publisher=[[英国放送協会|BBC]] |language=英語 |accessdate=2016-12-23}}</ref>続く[[珊瑚海海戦]]では九六陸攻19機が米機動部隊に水平爆撃を行ったものの<ref>{{Harvnb|森史朗|2009|p=250}}</ref>1発の命中弾もなかった<ref>{{Harvnb|千早正隆|1997|pp=80-81}}</ref>など、大戦中目ぼしい成果を挙げることができず、航行中の目標への水平爆撃の兵術的価値を判定できる戦例は、少数ながらも命中弾があったマレー沖海戦のみとなってしまった<ref name="日本海軍航空史1p748">{{Harvnb|日本海軍航空史1|1969|p=748}}</ref>。
[[誘導爆弾]]といった無人の誘導兵器であれば、投下高度と命中精度を両立でき、実際に運用されたドイツ軍の誘導爆弾[[フリッツX]]はイタリア軍の戦艦[[ローマ (戦艦)|ローマ]]を撃沈し、イギリス軍の戦艦[[ウォースパイト (戦艦)|ウォースパイト]]を大破する戦果を挙げている。
 
このような戦績も踏まえ、戦後に[[桑原虎雄]]元中将以下、多数の元海軍航空隊関係者で組織された日本海軍航空史編纂委員会が、その著書『日本海軍航空史』にて、日本軍の水平爆撃に対して「大東亜戦争開戦前に至ってようやく訓練方法も確立し、その精度も向上して用兵的に期待し得る練度に達したものの、なおその程度は艦船攻撃における急降下爆撃並びに雷撃に比すれば、その期待度ははるかに低いものであった。」と総括し、アメリカ軍が動的水平爆撃をする環境(優勢な航空戦力、優秀な照準器)は整っていたのに、動的水平爆撃を実施した戦例がなかったことも指摘し、航行中の艦船への水平爆撃の有効性に疑問を投げかけている<ref name="日本海軍航空史1p748" />。そのため爆弾の速度が速くても、有効性に乏しいのが高高度よりの水平爆撃であった。
高度6000mから投下されたフリッツXは音速近い速度が出たと言われるが<ref>{{Cite web |url=http://www.ausairpower.net/WW2-PGMs.html |title=The Dawn of the Smart Bomb |publisher=[[:en:Air Power Australia]] |accessdate=2016-12-23}}</ref>、オペレーターが目視で手動で誘導しなくてはならなかったため、誘導兵器でありながら、命中率や命中誤差はオペレーターの技量に大きく依存していた。またオペレーターの誘導のために、母機が命中まで目標上空まで飛行しなければならず<ref>{{Harvnb|Christopher|2013|p=134}}</ref>母機の損害が増大し、運用が中止されている。
 
;急降下爆撃との比較
日本でも[[誘導爆弾]]である[[イ号一型乙無線誘導弾]]を開発している。[[1944年]](昭和19年)5月下旬、飛行第5戦隊長高田勝重少佐らの敵艦船への特攻を受け、[[陸軍航空技術研究所|第一陸軍航空技術研究所]]の大森丈夫航技少佐と第二陸軍航空技術研究所の小笠満治少佐が「100%戦死する体当たり攻撃は技術者の怠慢を意味する不名誉なこと」として親子飛行機構想を提案したことで「イ号」の計画が進められ<ref>{{Harvnb|戦史叢書87|1975|p=458}}</ref>、同年春のうちに遠隔操作・無線誘導([[手動指令照準線一致誘導方式]])の[[対艦ミサイル]]である[[イ号一型甲無線誘導弾]]・[[イ号一型乙無線誘導弾]]と、自動音響追尾式の対艦誘導爆弾の[[イ号一型丙自動追尾誘導弾]]が陸軍航空本部によって研究が開始された。イ号一型乙無線誘導弾は実用化にこぎつけ150機を量産するも敗戦を迎え実戦には投入されなかった。フリッツXと同様に、敵艦艇の防空砲火射程外から投下できても、母機は誘導爆弾を誘導する為に敵艦に接近せねばならず、防空砲火の絶好の目標となってしまうと、誘導爆弾の開発に携わった陸軍航空本部坂本英夫部員は指摘している<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=404}}</ref>。更に、ドイツ軍による戦艦[[ローマ (戦艦)|ローマ]]撃沈時とは異なり<ref group="注">イタリア艦隊を護衛してた戦闘機はなく、ドイツ軍を刺激しないように積極的な対空射撃も禁じられていた。</ref>、レーダー管制された多数の迎撃機が待ち構えるアメリカ艦隊に大重量の誘導爆弾を搭載して接近することが困難なことであった。それは桜花の戦績を見ても明らかであった。
 
日本海軍において、航空隊要員の教育・練成や戦技研究を担当した[[横須賀海軍航空隊]]が、急降下爆撃の投弾高度に対し「しかるに800m以上にては命中率著しく低下するをもって」と所見を述べており<ref>{{Harvnb|日本海軍航空史1|1969|p=695}}</ref>、1939年の横須賀航空隊並びに航空本部の所見では「基準投下高度を700mとし、本高度をもって訓練するを適当と認む。」とされていた<ref>{{Harvnb|日本海軍航空史1|1969|p=693}}</ref>。
その為に、陸軍は母機からの誘導が必要ない[[パッシブホーミング]]方式を採用した[[赤外線]][[誘導爆弾|対艦誘導爆弾]]の[[ケ号自動吸着弾]]も開発<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=406}}</ref>したが、イ号一型丙自動追尾誘導弾と同じく試験中に敗戦を迎えた。なお陸軍はミサイル・爆弾とは別に、熱線自動追尾式無人航走自爆艇([[ケ号装置付連絡艇]])も開発している。
 
真珠湾攻撃以降、急降下爆撃の理想的な攻撃法は「緩降下しつつ接敵し、高度2000mから角度45度以上の急降下で突入、高度400mで投弾、ただちに引き起こし、海面より200m程を高速で退避する」と投下高度が引き下げられた<ref>{{Harvnb|秋月達郎|2013|p=45}}</ref>。以上の通り、急降下爆撃は400m - 700mで投弾されるため、日本海軍の推計の通り、急降下爆撃と同じ前提(角度や初速)で突入した特攻機(零戦)は、急降下制限速度内かつ、急降下爆撃で400m - 700mの高度で投弾された爆弾単体より、突入速度の方が遅いということはない。
従って、爆弾の終速が特攻機より速くなる高高度からの爆撃は、第二次世界大戦当時の技術では、誘導爆弾であっても命中率や実用性が特攻と比較できる水準になく、終速が速く威力があったとしても、艦船攻撃戦術としての有効性は特攻に大きく及ばなかったと言える。
 
'''特攻に主に使われた零戦の降下制限速度'''
{| class="wikitable"
|-| style="background:#CCCCCC"
!width="250"| 零戦型式
!width="250"| 零戦52型
!width="250"| 零戦52型甲乙丙型
!width="250"| 零戦62型
|-| border="1" cellpadding="2"
| 降下制限速度 || 666.7km/h || 740.8km/h || 740.8km/h
|}
 
=== 主力艦への効果 ===
;巡洋艦以上に対する効果
特攻機が撃沈したとされるアメリカ海軍の護衛空母は3隻であるが、[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]はフィリピン上陸作戦、[[オマニー・ベイ (護衛空母)|オマニー・ベイ]]はフィリピン攻防戦、[[ビスマーク・シー (護衛空母)|ビスマーク・シー]]は硫黄島上陸作戦において撃沈されている。空母は特攻作戦の全期間を通じて最重要目標とされたが、その理由は日本軍守備隊への最大の脅威が航空攻撃であったためであり、護衛空母は攻略目標近傍においてCAP(戦闘空中哨戒)を形成し、アメリカ軍の地上部隊の援護を行うため特攻機の目標とされた。碇泊中のアメリカ軍機動部隊への奇襲も計画され、3月11日、[[第五航空艦隊]]の「銀河」24機(7機故障脱落)・[[二式飛行艇]]3機(誘導)の梓隊がウルシー泊地の空母[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]を中破させた。
 
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特攻により、巡洋艦以上の主力艦が沈まなかったことには、以下の要因が挙げられる。
 
*大戦後半期のアメリカ海軍艦艇は、特攻レーダーの有効活用とVT信管限らず小型艦より航空機まで撃沈が困難になっていた。太平洋戦域で1944年以降終戦までに特攻以外の航空通常攻撃で撃沈したアメリカ軍水上艦(除潜水艦)は、特攻より攻撃機数が多かったにも関わらず(詳細は[[#有効率]]の1945年2月14日から菊水十号作戦〈6月22日〉までの、日本海軍航空隊の出撃機数を参照)下記の通りわずか8隻に過ぎない。また、通常航空攻撃も含めた特攻以外の戦闘(天候要因や事故を除く)で失った水上艦は軽空母1、重巡1、護衛空母1、駆逐艦8、戦車揚陸艦1、輸送艦4、その他小型艦艇8 合計24隻で、特に大戦末期の沖縄戦で特攻以外で沈んだ水上艦は、駆逐艦ロングショウ(陸上砲撃)艦隊掃海艦スカイラーク(機雷)艦隊用曵船アリカラ(陸上砲撃)200tタンカー(陸上砲撃)の4隻に過ぎない、特攻の沖縄戦での戦果は、駆逐艦(各用途の駆逐艦の合計)17隻、戦車揚陸艦1、中型揚陸艦5隻、輸送艦3隻、その他艦艇6隻、合計32隻(水中・水上特攻を含む)と特攻の戦果が圧倒的に数値上は上回っている。日米の戦力が拮抗、日本軍かし特攻機多くの水上艦を大戦序盤から大戦中期駆逐艦アメリカ艦隊、質量ともに戦力が圧倒的に充実し、日本軍が攻撃ころか接近すら困難になった大戦後期から末期のアメリカはレーダーピケット隊は全く別物になっておであり、むしろ、日本の侵攻作戦はほって大戦後半んど影響がなら末期は、特攻がアメリカ水上艦を撃沈できる最有力の手段であったとえる。
 
1944年以降通常航空攻撃で撃沈されたアメリカ軍艦艇<ref>{{Harvnb|米国海軍省戦史部|1956|pp=187-320}}</ref><ref>[http://www.navsource.org/Naval/losses.htm#bb"NavSource Naval History United States Navy Losses World War II"]</ref><ref name="Chronology1944" /><ref name="Chronology1945" /><ref>{{Cite web |url=http://www.usmm.org/shipsunkdamaged.html |title=U.S. Merchant Ships Sunk or Damaged in World War II |publisher=American Merchant Marine at War |accessdate=2016-12-23}}</ref>
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**[[レイテ沖海戦]]で沈んだ軽空母[[プリンストン (CVL-23)|プリンストン]]には[[彗星 (航空機)|艦上爆撃機「彗星」]]の急降下爆撃で500kg爆弾1発命中、第2甲板上の乗組員の[[ギャレー]]で爆発。損傷自体は軽微であったが、爆発の衝撃で航空燃料の供給パイプを切断され燃料火災が起こったのに対し、プリンストンのスプリンクラーが損傷により作動せず、消火が難航した。軽巡[[バーミンガム (軽巡洋艦)|バーミンガム]]、軽巡[[リノ (軽巡洋艦)|リノ]]が消火の支援をした結果、ほぼ火は鎮火したように見えたが、爆撃を受けた5時間後に残った火が弾薬庫に達し、爆弾と魚雷が誘爆し大破炎上、接舷して消火活動を支援していたバーミンガムが巻き込まれて大破するほどの大爆発であった。夜になっても火災が収まらず、日本軍の夜間攻撃の目印になることを懸念した第58任務部隊司令ミッチャー中将の命令で駆逐艦により処分<ref>{{Cite web |date=1997-08-19 |url=http://www.historynet.com/eyewitness-to-tragedy-death-of-uss-princeton-may-97-world-war-ii-feature.htm |title=Eyewitness to Tragedy: Death of USS Princeton |publisher=HistoryNet |language=英語 |accessdate=2016-12-24}}</ref>。
 
;機動部隊に対する効果
撃沈に至らなくても、正規空母等の主力艦が特攻により甚大な損傷を受け、修理のために長期間にわたって戦線離脱することがアメリカ軍にとって作戦上の大きな痛手となっていた。[[海軍反省会]]においても、元海軍将校の視点より同様な指摘がある<ref>{{Harvnb|海軍反省会|2013|p=300}}</ref>。
 
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* 空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]
*: 1945年5月11日に[[小川清]]少尉と[[安則盛三]]中尉搭乗の零戦2機が、それぞれ搭載していた500kg爆弾を投下後に突入。甲板上の艦載機が次々と誘爆、また給油作業中の航空燃料ホースにも引火し、大火災となり船体に深刻な損傷を受けて戦線離脱を余儀なくされた。バンカー・ヒルは[[ピュージェット・サウンド海軍工廠]]で修理を受けた艦船の中では最悪の損傷レベルであり<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=166}}</ref>、修理後に復員船として運用された後は空母としての運用をされることはなかった。他のエセックス級空母が近代化改装を受け後年まで活躍する中、通常爆撃で大破した同型艦の[[フランクリン (空母)|フランクリン]]と共に近代化改装されることもなく、埠頭に係留されたまま電子実験のプラットフォームなどに利用された後に解体された<ref>{{Cite web |url=http://www.navsource.org/archives/02/17.htm |title=Aircraft Carrier Photo Index: USS BUNKER HILL (CV-17) |publisher=NavSource Naval History |language=英語 |accessdate=2016-12-26}}</ref>。
 
=== 主力艦以外への効果 ===
特攻作戦が最大規模で実施されたのは、沖縄戦中の1945年4月6日の菊水一号作戦発動時であり、翌7、8日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入され多大な戦果を挙げている<ref>{{Harvnb|スパー|1987|148}}</ref>。駆逐艦ブッシュ、コルホーンなどを沈没させるなど、後載の損害を受けた連合軍の艦船一覧を見ても分かるように、駆逐艦に損害が集中したのが沖縄戦の特攻作戦の特徴である。アメリカ軍はフィリピン戦での特攻による大損害を分析し、様々な特攻対策を講じたが、その中の一つが戦艦や空母といった主力艦隊の外周を、レーダー搭載の駆逐艦等の[[レーダーピケット艦]]で取り囲み早期警戒網を張り巡らし、特攻機が主力艦隊に到達する前に効果的な迎撃を行うというものであった<ref name="神風は吹いたのか" />。
[[ファイル:Kamikaze attacks on U.S. ships.ogg|thumb|right|250px|「沖縄戦で特攻と戦うアメリカ軍艦船」 アメリカ国防省制作(実際は沖縄戦以外の映像多い)]]
この対策により、空母等の主力艦への突入機数は減少したが、逆に[[レーダーピケット艦]]の損害は増大することとなり、「弱いヤギ(ピケット艦)を犠牲に、狼(特攻機)から群れ(主力艦艇)を守るようなもの」<ref>ドキュメント番組『Kamikaze in Color』メディア販売 Goldhill Home Media社</ref>とか「まるで射的場の標的の様な形で沖縄本島の沖合に(駆逐艦が)配置されている」<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995|p=351}}</ref>と{{読み仮名|揶揄|やゆ}}されている。アメリカ海軍水陸両用部隊司令[[リッチモンド・K・ターナー]]中将の幕僚は、「艦隊より優秀な艦を選んでレーダーピケット艦としたが、それはそのピケット艦と乗組員に対する死刑宣告も同然だった」と述懐し<ref>{{Harvnb|安延多計夫|1995|pp=179}}</ref>、また特攻による駆逐艦の損害があまりに多く、第54任務部隊司令[[モートン・デヨ]]少将は指揮下の駆逐艦が、次々と撃沈されたり損傷して戦線離脱しついに12隻となったため「駆逐艦の消耗具合が容易ならざる水準に達している」<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=87}}</ref>と危機感を募らせている。戦艦を護衛中だった駆逐艦[[ニューコム (駆逐艦)|ニューコム]] では、特攻機が戦艦ではなく自分達に突入したことに対し、乗員が「どうして我々なんだ?」と困惑していたという<ref>{{Harvnb|スパー|1987|p=150}}</ref>。またニューコムと同じ5機の特攻を受け大破した{{仮リンク|ラッフェイ(駆逐艦) |en|USS Laffey (DD-724)}}の乗組員の内1名が「Carriers This Way(空母はあちら)」という意味の矢印を書いた大きな看板を掲げたこともあった<ref>{{Harvnb|Walker|2009|p=72}}</ref>。
 
レーダーピケット艦の消耗により、早期警戒網を突破して主力艦隊に突入する特攻機も増え、戦艦・空母といった主力艦の損害も次第に増加していくこととなった。デヨ少将が座乗していた旗艦の[[テネシー (戦艦)|テネシー]]にも2機の特攻機が命中し、死傷者199名の甚大な損傷を受けている。デヨ少将も艦橋目がけて突入してきた特攻機が直前で撃墜されて、九死に一生を得ている。その際、集中射撃してもなかなか撃墜できなかった特攻機を見て「彼奴らの体は何でできているのだろうか。」と驚嘆している<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=90}}</ref>。
 
アメリカの著名な歴史家で、アメリカの海軍史研究の第一人者の[[サミュエル・モリソン]]は自分の著作で沖縄戦の特攻攻撃を「ゼウス神の電光の様に青空からうなり出てくる炎の恐怖」や「かつてこのような炎の恐怖、責め苦の火傷、焼けつくような死に用いられた兵器は無かった」と表現し、その特攻と戦ったアメリカ軍の駆逐艦乗りに対して「沖縄の戦いの中で、来る日も来る日も、これらの艦船の乗組員が示した持続する勇気、臨機応変の才、敢闘精神は海軍の歴史にいくつもの類例を残している」と称賛している<ref>{{Harvnb|モリソン|2003|p=437}}</ref>。
 
特攻で損傷した艦艇は、8隻の[[工作艦]]が配置された慶良間諸島沖で応急修理がなされ、それでも修理できない甚大な損害を被った艦はアメリカ海軍の前線基地であった[[ウルシー環礁]]やハワイ・アメリカ本土に送られた。多数の損傷艦が送られた慶良間諸島沖は、常に多数の損傷艦で溢れ、駆逐艦の墓場と呼ばれていた。特攻機はその“墓場”に配置された[[工作艦]]にも攻撃し損傷艦が出ている。
 
この後菊水作戦は第10号まで行われ、アメリカ海軍は沖縄戦において艦船36隻沈没、368隻損傷<ref>{{Harvnb|スパー|1987|p=153}}</ref>、航空機768機、人的損害として1945年4月から6月末で死者4,907名、負傷者4,824名を失ったが、これはアメリカ海軍の第二次世界大戦上で最悪の損害であった。沖縄戦でのアメリカ海軍の人的損失は、わずか3か月の間にヨーロッパ戦線・太平洋戦線全体を併せたアメリカ海軍の[[第二次世界大戦]]における人的損失の20%に達したという統計もある。沖縄戦でのアメリカ海軍、特にピケット艦の任務は、ドイツ軍の[[Uボート]]の脅威に晒された大西洋の輸送船団護衛任務より遥かに厳しかったとの評価だった<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995|p=356}}</ref><ref group="注">大戦中にヨーロッパ戦線でアメリカ海軍がUボートにより喪失した駆逐艦はジェイコブ・ジョーンズ、バック、ブリストル、リアリィ、護衛駆逐艦レオポルド、フェクテラー、フィスク、フレデリック・C・デーヴィスの8隻。</ref>。第5艦隊内では、幕僚などから沖縄よりの一時撤退が話題に上ったほどであったが、第5艦隊司令の[[レイモンド・スプルーアンス]]大将は激怒し、アメリカ艦隊は特攻による大損害に耐えて沖縄に止まった<ref>{{Harvnb|ブュエル|2000|p=555}}</ref>。
 
しかし一方で、沖縄戦での特攻はアメリカ軍の特攻対策が強化されたことにより、有効率が下がり日本側の犠牲も多かった。その為、特攻の効果があったのは奇襲的効果のあったフィリピン戦のみで<ref name="神風は吹いたのか" /><ref>NHK『証言記録 兵士たちの戦争“特攻の目的は戦果にあらず”』2011-08-15放送</ref>、末期の沖縄戦の特攻は効果もないのに、軍の面子や惰性で続けられたとする表現も多く<ref>小説版『[[永遠の0]]』など。</ref>、日本ではとかく過小評価されがちであるが、有効率がフィリピン戦26.8%から沖縄戦14.7%で12%減に対し、攻撃機数は約3倍(フィリピン戦650機、沖縄戦1,900機)であり、アメリカ海軍の損害は沖縄戦の方が遥かに大きかった。
 
特攻で海軍艦艇が大損害を被った沖縄戦は、アメリカ軍にとって大戦で最大級の衝撃であり、沖縄戦での特攻作戦を「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していたことは明白である。」と総括している<ref name="Anesi" />。また、アメリカ海軍は公式文書で特攻に対して「この死に物狂いの兵器は、太平洋戦争で最も恐ろしい、最も危険な兵器になろうとしていた。フィリピンから沖縄までの血に染まった10ヶ月のあいだ、それは、我々にとって疫病のようなものだった」と率直に苦しみぬいた状況を吐露している<ref>{{Harvnb|吉本貞昭|2012|p=218}}</ref>。
 
陸海で、アメリカ軍が第二次世界大戦最大級の損害を被った沖縄戦がようやく終わると、イギリスの[[ウィンストン・チャーチル]]首相はアメリカの[[ハリー・S・トルーマン]]大統領に向けて「この戦いは、軍事史の中で最も苛烈で名高いものであります。我々は貴方の全ての部隊とその指揮官に敬意を表します」と慰労と称賛の言葉を送っている<ref>{{Harvnb|モリソン|2003|p=438}}</ref>。
 
特攻機が命中すると「何百メートルもの高さに達する火柱」が上がり、沖縄本島上でアメリカ軍の陸海空の重囲下で戦う[[第32軍 (日本軍)|第32軍]]の将兵を勇気づけたという。特攻機の活躍を一目見ようと日本兵は洞窟陣地から飛び出し、特攻機が命中すると「やったぞ!」と歓喜の声を上げて、感謝の涙をこぼした、特攻機の活躍を見る行為を兵士らは「特攻隊を拝みに行く」という表現を用い、「やったなぁご苦労さん」と地面に手をついて沖の方を拝んだ<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995|p=344}}</ref>。
 
== 特攻対策 ==
[[ファイル:OkinawaCorsairHood.jpg|thumb|right|200px|沖縄戦で[[F4U (航空機)|F4U コルセア]]に搭乗し5機の特攻機を撃墜してエースとなったウィリアムL.フッド海兵隊中尉]]
1944年11月24日から26日までアメリカ本土で、アメリカ海軍省首脳、太平洋艦隊司令部、第三艦隊司令部による特攻対策会議がおこなわれた<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=165}}</ref>。その席で、アメリカ海軍諜報部航空諜報部が特攻の成功の要因を「日本軍はアメリカ軍がこれまで遭遇した最も新しく、かつ最も恐るべき問題を提起した。この捕捉しがたい接近と自殺攻撃は、[[ジャップ]]の狂信的精神のみならず、それより遥かに危険な事には、防空や航空管制のレーダーと複雑性について完全に理解しているパイロットや戦闘要員が(特攻)志願している事である。」と分析した。[[アメリカ合衆国海軍省|海軍省]]のトム・ブラックバーン少佐は「カミカゼに対する最も有効な手段は、敵がパイロット切れになることだ」とも述べており、特攻作戦開始当初のアメリカ海軍の苦悩ぶりがうかがえる<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=294}}</ref>。
フィリピン戦での特攻による損害を重く見たアメリカ海軍は、最初の特攻被害からわずか1か月後の1944年11月24日から26日の3日間に渡り、サンフランシスコにて、ワシントンからアメリカ海軍省首脳と、真珠湾から太平洋艦隊司令部幕僚と、フィリピンの前線から第三艦隊司令[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア|ハルゼー]]中将と第38任務部隊司令[[マーク・ミッチャー|ミッチャー]]少将の海軍中央から実戦部隊までの幕僚らが一堂に会して、異例とも言える特攻対策の集中会議を行った<ref name="冨永安延p75">{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=75}}</ref>。
 
会議ではアメリカ海軍諜報部航空諜報部が特攻の成功の要因を「日本軍はアメリカ軍がこれまで遭遇した最も新しく、かつ最も恐るべき問題を提起した。この捕捉しがたい接近と自殺攻撃は、[[ジャップ]]の狂信的精神のみならず、それより遥かに危険な事には、防空や航空管制のレーダーと複雑性について完全に理解しているパイロットや戦闘要員が(特攻)志願している事である。」と分析した。[[アメリカ合衆国海軍省|海軍省]]のトム・ブラックバーン少佐は「カミカゼに対する最も有効な手段は、敵がパイロット切れになることだ」とも述べており、特攻作戦開始当初のアメリカ海軍の苦悩ぶりがうかがえる<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=294}}</ref>。
 
その後も、[[第三次ソロモン海戦]]で勝利に貢献した、レーダー砲術の権威[[ウィリス・A・リー]]中将を責任者とする特攻対策研究の特殊部隊を編成するなど、アメリカ軍は特攻対策に大きな力を注いだ<ref>{{Cite web |url=http://www.arlingtoncemetery.net/walee.htm |title=Willis Augustus Lee, Jr. Vice Admiral, United States Navy |language=英語 |accessdate=2016-12-24}}</ref>。
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それでも沖縄戦序盤は、大量に来襲する特攻機を防ぎきれず多くの特攻機のアメリカ艦船への攻撃可能範囲内への突入を許している。例えば1945年4月6日 - 4月7日の菊水一号作戦においては、特攻未帰還機356機の内200機までに沖縄周辺海域への突入を許している<ref name="ニミッツp440">{{Harvnb|ニミッツ|ポッター|1962|p=440}}</ref>。また出撃機数が減った沖縄戦後半以降は、複数の編隊による陽動作戦や、早暁や日没前後の視界が十分でない時間に攻撃の軸を移すなどの対策で、アメリカ軍戦闘機の迎撃を分散させている<ref name="Anti-Suicide Action" />。
 
アメリカ軍戦闘機パイロットは、艦隊まで進入を許した特攻機に対して、艦隊上空でも味方からの[[同士討ち|フレンドリー・ファイア]]も恐れず徹底的に追い回した。とあるF4U コルセアは特攻機を追撃しすぎて{{仮リンク|ラッフェイ(駆逐艦) |en|USS Laffey (DD-724)}}ラフィーのレーダー・アンテナに接触し、それを叩き落としたこともあった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=294}}</ref>。
 
=== 対空砲火 ===
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下表<ref>“Naval Weapons of World War Two” (Conway) より</ref>はアメリカ軍が比島戦時に通常攻撃と特攻に対して、対空砲火の有効性を判定したものである。ただしアメリカ軍側からのみの判定であり、特攻と通常攻撃が一部混同されている可能性が高いことを付記しておく。
 
:; 特攻機の撃墜判定記録(砲・銃弾数は1機撃墜するのに要した数、()内の機数は実際に撃墜した機数)
一般的に特攻に対して絶大な効果を挙げたと評価されている5インチ[[近接信管|VT信管]]が<ref>{{Cite web |url=http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001200004_00000 |title=NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争 第3集 「エレクトロニクスが戦を制す」 |work=[[NHKアーカイブス]] |publisher=日本放送協会 |accessdate=2016-12-24}}</ref>、実際には特攻に対して大きな効果を挙げておらず、対して[[ボフォース 40mm機関砲|40mmボフォース]]は通常攻撃より少ない投射弾数で撃墜判定に至っていることがわかる。つまり通常攻撃機は追い払うか攻撃を失敗させれば良いが、特攻機は突入を図ってくるため確実に撃墜しなければならないこと、高角砲のレンジ(射程)では有効な打撃を与えきれずにボフォースのレンジへの突入をしばしば許していることがこの判定結果に現れている(さらに言えば撃墜判定数が少ない場合は小数機に多数の砲が集中されているということであり、結果的に消費弾量が大きく増加している)。
 
その為、近接火力を強化すべく[[ボフォース 40mm機関砲|40mmボフォース]]が大幅に増設された。エセックス級空母では、当初は4連マウント×8基=32門だったのが、最多で18基=72門まで増設された。[[ボフォース 40mm機関砲|40mmボフォース]]は先進的な[[Mk.51 射撃指揮装置]] により射撃管制され、特攻機に対して相当の効果を発揮したが<ref>{{Harvnb|多田智彦|2012|pp=84-91}}</ref>、完封できるまでには至らず、高角砲の威力不足は深刻な問題とされ(あくまでもアメリカ軍視点であるが)、戦後ボフォース4連装がVT付き[[Mk 33 3インチ砲|3インチ両用砲]]に換装される大きな動機となった。
 
また既存の対空火力では特攻対策に不十分と考えたアメリカ軍とイギリス軍は[[艦対空ミサイル]]の開発を本格的に進めた<ref>{{Cite web |author=Cliff Lethbridge |url=http://www.spaceline.org/history/5.html |title=History of Rocketry World War II |publisher=Spaceline |language=英語 |accessdate=2016-12-24}}</ref>。先に開発されたのがイギリス軍の{{仮リンク|フェアリー・ストゥジ |en|Fairey Stooge}}であったが、実戦への投入は間に合わなかった<ref>[http://www.flightglobal.com/pdfarchive/view/1947/1947%20-%200582.html "Fairey's First Guided Missile"], ''Flight'', 17 April 1947, P.344-345</ref>。アメリカ軍は1945年7月に地対空ミサイル{{仮リンク|KAN リトルジョー |en|KAN Little Joe}}を試作した。これは[[近接信管]]を装備し[[手動指令照準線一致誘導方式]]の[[指令誘導]]ミサイルであったが、性能が軍の要求を下回った上に、完成後まもなく終戦となったため、その後開発が中止されている<ref>{{Cite web |url = http://airandspace.si.edu/collections/artifact.cfm?object=nasm_A19660025000 | title = Model, Wind Tunnel, Missile, Little Joe |publisher=[[国立航空宇宙博物館]] |language=英語 | accessdate = 2016-01-01}}</ref>。また、より先進的な[[電波ホーミング誘導|セミアクティブ]]方式の誘導ミサイルとなった{{仮リンク|ラーク(SAM-N-2 Lark) |en|SAM-N-2 Lark}}の試作は太平洋戦争中に間に合わず、完成したのは1950年になってからだった<ref>{{Cite web |url=http://airandspace.si.edu/collections/artifact.cfm?id=A19710761000 |title=Missile, Surface-to-Air, Lark |publisher=国立航空宇宙博物館 |archiveurl=http://archive.is/85aj |archivedate=2012-08-05|language=英語 |accessdate=2016-12-24}}</ref>。特攻対策で開発が加速した艦対空ミサイルは、その後ジェット機や対艦ミサイルに対抗するために高速化されるなど進化を続け、現在では高射砲に取って代わり艦隊防空システムの中枢に位置することとなった。
 
:; 特攻機の撃墜判定記録
{| class="wikitable"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:28%;"|火砲
! style="width:18%;"|44.1944年10
! style="width:18%;"|44.1944年11
! style="width:18%;"|44.1944年12
! style="width:18%;"|45.011945年1月
|- sytle="border:1px solid #000000;"
|5インチ通常||1,479発/機<br />(1.5機)||1,213発/機<br />(5機)||493発/機<br />(9機)||2,675発/機<br />(3.5機)
1,074 ⟶ 1,204行目:
|}
 
:; 通常攻撃機の撃墜判定記録(砲・銃弾数は1機撃墜するのに要した数、()内の機数は実際に撃墜した機数)
{| class="wikitable"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:28%;"|火砲
! style="width:18%;"|44.1944年10
! style="width:18%;"|44.1944年11
! style="width:18%;"|44.1944年12
! style="width:18%;"|45.011945年1月
|- sytle="border:1px solid #000000;"
|5インチ通常||748発/機<br />(23機)||2,601発/機<br />(1.5機)||795発/機<br />(5機)||1,765発/機<br />(4機)
1,098 ⟶ 1,228行目:
|-
|}
 
一般的に特攻に対して絶大な効果を挙げたと評価されている5インチ[[近接信管|VT信管]]が<ref>{{Cite web |url=http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001200004_00000 |title=NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争 第3集 「エレクトロニクスが戦を制す」 |work=[[NHKアーカイブス]] |publisher=日本放送協会 |accessdate=2016-12-24}}</ref>、実際には特攻に対して大きな効果を挙げておらず、対して[[ボフォース 40mm機関砲]]は通常攻撃より少ない投射弾数で撃墜判定に至っていることがわかる。つまり通常攻撃機は追い払うか攻撃を失敗させれば良いが、特攻機は突入を図ってくるため確実に撃墜しなければならないこと、高角砲のレンジ(射程)では有効な打撃を与えきれずにボフォース 40mm機関砲のレンジへの突入をしばしば許していることがこの判定結果に現れている(さらに言えば撃墜判定数が少ない場合は小数機に多数の砲が集中されているということであり、結果的に消費弾量が大きく増加している)。
 
その為、近接火力を強化すべくボフォース 40mm機関砲が大幅に増設された。エセックス級空母では、当初は4連マウント×8基=32門だったのが、最多で18基=72門まで増設された。ボフォース 40mm機関砲は先進的な[[Mk.51 射撃指揮装置]] により射撃管制され、特攻機に対して相当の効果を発揮したが<ref>{{Harvnb|多田智彦|2012|pp=84-91}}</ref>、アメリカ軍は、小口径砲弾では決死の覚悟で突入してくる特攻機に対して十分な爆発力がないと分析し、特攻機対策として、より威力のある[[Mk 33 3インチ砲]]を開発開始したが、配備は大戦に間に合わず、戦後にアメリカ海軍艦艇は、大半のボフォース 40mm機関砲以下の機関砲や機銃を取り外し、Mk 33 3インチ砲を装備した<ref>{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=436}}</ref>。
 
また既存の対空火力では特攻対策に不十分と考えたアメリカ軍とイギリス軍は[[艦対空ミサイル]]の開発を本格的に進めた<ref>{{Cite web |author=Cliff Lethbridge |url=http://www.spaceline.org/history/5.html |title=History of Rocketry World War II |publisher=Spaceline |language=英語 |accessdate=2016-12-24}}</ref>。先に開発されたのがイギリス軍の{{仮リンク|フェアリー・ストゥジ |en|Fairey Stooge}}であったが、実戦への投入は間に合わなかった<ref>[http://www.flightglobal.com/pdfarchive/view/1947/1947%20-%200582.html "Fairey's First Guided Missile"], ''Flight'', 17 April 1947, P.344-345</ref>。アメリカ軍は1945年7月に地対空ミサイル{{仮リンク|KAN リトルジョー |en|KAN Little Joe}}を試作した。これは[[近接信管]]を装備し[[手動指令照準線一致誘導方式]]の[[指令誘導]]ミサイルであったが、性能が軍の要求を下回った上に、完成後まもなく終戦となったため、その後開発が中止されている<ref>{{Cite web |url = http://airandspace.si.edu/collections/artifact.cfm?object=nasm_A19660025000 | title = Model, Wind Tunnel, Missile, Little Joe |publisher=[[国立航空宇宙博物館]] |language=英語 | accessdate = 2016-01-01}}</ref>。また、より先進的な[[電波ホーミング誘導|セミアクティブ]]方式の誘導ミサイルとなった{{仮リンク|ラーク(SAM-N-2 Lark) |en|SAM-N-2 Lark}}の試作は太平洋戦争中に間に合わず、完成したのは1950年になってからだった<ref>{{Cite web |url=http://airandspace.si.edu/collections/artifact.cfm?id=A19710761000 |title=Missile, Surface-to-Air, Lark |publisher=国立航空宇宙博物館 |archiveurl=http://archive.is/85aj |archivedate=2012-08-05|language=英語 |accessdate=2016-12-24}}</ref>。特攻対策で開発が加速した艦対空ミサイルは、その後ジェット機や対艦ミサイルに対抗するために高速化されるなど進化を続け、現在では高射砲に取って代わり艦隊防空システムの中枢に位置することとなった。
 
沖縄戦で、特攻機を撃退しようとして大艦隊の10,000門を超す大小の火砲が信じられない速度で一斉に砲弾を打ち上げる様子は、我を忘れて見とれるほど壮観だったという。とあるアメリカ兵は夜間攻撃をかけてきた特攻機に対し一斉に打ち上げられた高射砲の曳光弾で空が真っ赤に染められているのを見て「独立記念日の花火を何百も併せたようなもので、何とも素晴らしいカーニバルだった」と感想を述べている<ref name="ファイファーp340">{{Harvnb|ファイファー|1995|p=340}}</ref>。また白昼に攻撃してきた特攻機に何百万発という対空砲火が撃ちこまれ、その砲煙や爆煙で昼なのに空は薄暗くなっていたという。またアメリカ軍自身も想定外の量の対空砲火であったため、対空砲弾の破片が艦隊に降り注ぎ、中には艦艇が対空砲弾の破片により損傷したり火災を起こしたりすることもあった<ref name="ファイファーp340" />。また、その落下してきた破片により4月6日だけでアメリカ軍水兵が38名も死傷したほどだった<ref name="ニミッツp440" />。
 
特攻機の方も激化する対空砲火対策のため戦術を工夫しており、少数の特攻機で多大な戦果を挙げた硫黄島の戦いで、第2御盾隊の攻撃を受け大破した正規空母サラトガの戦闘報告によると「この攻撃はうまく計画された協同攻撃であった。攻撃が開始されたとき、4機の特攻機が同時にあらわれたが、各機は別々に対空砲火を指向させなければならないほど、十分な距離をとって分散していた。もしこれが自殺攻撃による一つの傾向を示しているのであれば、自殺機のなかには対空砲火を指向されないものが出てくる可能性があり、対空射撃目標の選定について混乱を生じさせることは確実なので、この問題はおざなりにできない」とあり、特攻機数機が連携をとりながら対空砲火を分散させる巧みな戦術で攻撃したことがうかがえる。第2御盾隊はサラトガに接近する際も、真っ直ぐサラトガには向かわず、同艦の真横35マイルに達した時点で、急角度で方向転換して、同艦の上空を覆っていた雲の中から降下し迎撃されることなく接近に成功している<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=343}}</ref>。
 
=== レーダーピケットライン ===
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|-
|合計||23,829名||100.0%||22,277名||100%
|}
 
なお、回天搭乗員については、海軍兵学校と海軍機関学校卒の現役士官の戦没者数が予備士官の戦没者数を上回っており、戦没率も約2倍に達している<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1990|p=77}}</ref>。
{| class="wikitable"
|- bgcolor="#CCCCCC"
!階級||搭乗員数||戦没者数||戦没率||戦没者内構成比率
|-
|海軍兵学校卒||89名||19名||21.3%||17.9%
|-
|海軍機関学校卒||32名||12名||37.5%||11.3%
|-
|予備士官||196名||26名||13.2%||24.5%
|-
|一般兵科||9名||9名||100%||8.4%
|-
|予科練習生卒||1,035名||40名||3.8%||37.7%
|-
|合計||1,361名||106名||7.8%||100%
|}
'''特攻隊員戦死者数'''<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1990|pp=131-312}}</ref>。<!-- 新資料が確認できる場合のみ更新すること -->
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; 海中特攻
* 回天特攻隊員:104:106
* 特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
* 合計:544:546
 
; 海上特攻
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* 合計:1,344名
 
==== 出撃した特攻隊の一覧 ====
=== 選抜方法 ===
{{See|出撃した特攻隊の一覧}}
;日本陸軍
陸軍は、特攻隊を志願者をもって充当することを根本方針とし、必死の攻撃であるから要員は特攻実施の熱意が旺盛で家庭的にも係累の少ない若年者を選ぶという考え方が基本的となった<ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|p=305}}</ref>。特攻隊の志願は増大に伴い、調査が形式的になり、その場の空気に押されて表面的に志願であっても内心は熱意が乏しいものも含まれていた。第六航空軍司令官[[菅原道大]]中将によれば、特攻の志願は、部隊の状態、時期、部隊長の性格などによって千差万別であり、時日の経過に従い減少したが、反面に時局は要員の増加を要求し、志願を建前とする中央と指示の部隊数を編成しなければならない部隊長の間に問題が生じる余地があり、各隊各様の状態を生んだという。また、「いずれの場合も家庭の事情を十分に考慮するのは一般的であった」「有形無形の雰囲気の中で起居する関係者は少なからぬ圧迫を感じたことであろう」という<ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|pp=306-307}}</ref>。
 
==== 特攻隊員の著名人 ====
陸軍初の特攻部隊の1つ[[富嶽隊]]の選出方法は「志願を募ればみんな志願するので指名すればそれでいい」というものであった。もう1つの[[万朶隊]]は飛行隊長が面接を行い志願を募った<ref>{{Harvnb|戦史叢書48|1971|pp=346-347}}</ref>。終戦後、アメリカ戦略爆撃調査団からの質問に対して、陸軍航空本部次長の[[河辺虎四郎]]中将は「志願者に不足することはなかった」と証言している<ref>{{Harvnb|小沢郁郎|1983|p=111}}</ref>。
{{See|Category:特攻隊員}}
 
=== 選抜方法 ===
1944年10月4日、[[鉾田教導飛行師団]]長[[今西六郎]]中将に特攻部隊編成の準備命令があったが、今西中将は特攻に批判的であり、この命令に苦悩していた。その後10月13日に隊員の人選方法について部隊幹部と協議したが、結論は出なかった。しかし10月17日にレイテにアメリカ軍が来襲し[[捷号作戦|捷号一号作戦]]が発令されると、20日には編成命令があり、今西中将は苦悩の末、最初の特攻は確実を期さなければいけないと判断し、陸軍航空隊きっての操縦技量を持ち、特攻には批判的で[[反跳爆撃]]の研究に携わっていた岩本益臣大尉(53期)を中隊長とした精鋭16名を指名したが、岩本大尉はフィリピンで、搭乗していた輸送機がアメリカ軍の戦闘機に撃墜され出撃前に戦死した。岩本大尉は新婚であったが、未亡人となった妻和子は亡くなるまで岩本大尉の遺品を大事に保管していており、死後に有志により、岩本大尉の故郷である福岡県[[豊前市]]に遺品が寄贈された<ref>{{Cite news |title=初代特攻隊長遺品郷里へ 萩の手塚さん福岡・豊前市に寄贈 |newspaper=[[山口新聞]] |date=2013-05-15 |url=http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2013/0515/4p.html |agency=[[みなと山口合同新聞社]] |accessdate=2016-12-25}}</ref>。
====日本海軍====
 
[[ファイル:0102kamikaze.jpg|170px|thumb|right|神雷部隊桜花戦闘機隊指揮官細川八郎中尉。連合艦隊豊田副武司令長官視察の際に、「桜花」の模範訓練を要求されたが「あと桜花に乗るのは死ぬときだけです」と拒否している]]
藤井一中尉は、熊谷陸軍飛行学校の少年飛行兵の教官であったが、教え子が次々と特攻出撃し戦死する中で、自らも教え子と共に特攻出撃をする事を願い陸軍に二度に渡り特攻を志願するが、妻子があることや専門の搭乗員ではなかったためいずれも却下された。夫の固い決意を知った妻女は「私たちがいたのでは後顧の憂いとなり、十分な活躍ができないと思いますので、一足先に逝って待ってます。」との遺書を遺し、子供2人と入水自殺を遂げた。その後3回目の志願を血書で陸軍に提出、陸軍もようやく藤井中尉の志願を受理し、昭和20年5月28日四十五振武隊快心隊の隊長として出撃し戦死している<ref>{{Cite web |date=2000-08-26 |url=http://www.geocities.jp/kamikazes_site/tokko_episode/fujiichui.html |title=特攻エピソード 「一足お先に逝って待っています」藤井一少佐 |work=ドキュメント神風 |accessdate=2016-12-25}}</ref>。
 
[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]57期の吉武少尉は[[九九式襲撃機|九九式軍偵察機]]の搭乗員であったが、軍偵班全員に特攻隊編成の命令があっている。従って「志願」ではなかったが、当時の気持ちを同僚の軍偵班・市原哲雄少尉の言葉を借りて「戦局いよいよ最高潮に達し皇国の興廃を決せんとする時、選ばれてその一戦力となり得るは、誠に栄光の至りにして男子の本懐たり」と感じ、軍偵班全員同じ気持ちであったと述べている。吉武少尉は陸軍特攻石腸隊として1944年12月12日に出撃したが、途中で[[F6F (航空機)|F6F]]に迎撃され被弾しながらも巧くかわし、その後どうにか海軍基地に不時着し九死に一生を得ている。そのような経験をしてもなお当時の思いを振り返り、戦後に平和な時代の価値観で特攻隊員に向けられた「特攻隊員は軍国主義の被害者だ」とか「国家に騙された可哀想な人たち」という評価を真っ向から否定し、「当時は国の為に命を捧げる事に大いなる価値があった」とし「現代の若者も、もしあの時代に生きていれば、我々と同じ心境になったはず」と述べている<ref>{{Harvnb|最後の証言|2013|p=199}}</ref>。
 
同じく[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]57期堀山久生中尉は、躊躇なく特攻志願しているが、その理由を「陸軍士官学校では、戦争が危急の際は率先して陸軍士官学校出の将校が危険な任務に就くべきと叩きこまれており、それが現役士官の取る道と考え、全員が志願した」と述べている<ref>{{Cite journal |和書 |date=2011-11 |journal=会報「特攻」 |issue=89 |page=28|publisher=特攻隊戦没者慰霊顕彰会}}</ref>。
[[ファイル:Tachikawa Ki-36.jpg|thumb|left|280px|終戦後に女性2名を含む13名の志願者でソ連軍戦車部隊に特攻を試みた「神州不滅特別攻撃隊」の乗機[[九八式直協機|九八式直協偵察機]]、他に[[二式高等練習機]]でも出撃した]]
[[満州]]で搭乗員の訓練を行っていた[[関東軍]]第5練習飛行隊は、8月15日の玉音放送の後に関東軍司令部より戦闘停止命令が届いたが、ソ連軍による[[葛根廟事件]]などの虐殺事件を目の当たりにし、「このまま降伏すれば葛根廟の悲劇がここでも繰りかえされる」や「戦いもせずにおめおめとソ連軍に降伏できるか」との思いで結束し、ソ連軍に一撃を加え居留民の避難する時間を稼ぐこととしたが、練習飛行隊に残った練習機ではソ連軍の重戦車相手に体当たり攻撃しか通用しないため、異例の戦車に対する特攻を計画した。計画の中心であった二ノ宮清准尉が賛同者を募ったところ士官である少尉ばかり10名が賛同し(二ノ宮をいれると11名)二ノ宮らは自らを「神州不滅特別攻撃隊」と名付けた。その中の谷藤徹夫少尉は妻女朝子を、大倉巌少尉は婚約者スミ子同乗させての出撃を申し出た。一般女性を作戦機に搭乗させるのは軍規違反であったが、二ノ宮らは敢えて同乗を許している。2人の女性が特攻機に同乗を希望した経緯は不明だが、特攻出撃当日の8月19日に、2人の女性は白いワンピースを着て日傘をさして飛行場に現れ、それを見送りと勘違いした基地の兵士が日傘をさしていることを咎めると、朝子は涼しい顔で「女性ですから、日焼けはしたくないんです。」と冷静に切り返したとこから覚悟はできていたものと思われる。神州不滅特別攻撃隊は故障で墜落した1機を除き、2人の女性を乗せた10機でソ連軍の戦車部隊に向かったが、特攻が成功したかは不明である。この攻撃は玉音放送後の戦闘行動、さらに2名女性を同乗させた軍紀違反の理由により、特攻扱いにはならず、また戦死扱いにもなってなかったが、谷藤少尉の両親ら関係者の尽力により、1957年に神州不滅特別攻撃隊の全員が厚生省より戦死認定された。1967年に神州不滅特別攻撃隊の碑が建立された事をきっかけにして朝子の名誉回復の運動も行われ、1970年には朝子も死因はソ連軍戦車によるものとする死亡告知書が青森県庁に認定され、夫婦ともに戦後25年を経てようやく名誉回復された<ref>{{Harvnb|豊田正義|2015|pp=311-390}}</ref>{{信頼性要検証|date=2017-01}}。
 
太平洋戦争当時、東京大学文学部より学徒出陣で陸軍の[[二等兵]]となった後の読売新聞グループ本社会長・主筆[[渡邉恒雄]]は、太平洋戦争終盤に行われていた特攻に関して、従来よりほとんどが暴力による強制であったという認識であり、[[ニューヨーク・タイムズ]]のインタビューに答えて、「彼らが『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったと言うことは全て嘘であり、彼らは[[屠殺]]場の羊の身だった」「一部の人は立ち上がることが出来なくて機関兵士達により無理矢理飛行機の中に押し入れられた」と語っている<ref>{{Cite web |author=NORIMITSU ONISHI |date=2006-02-11 |url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F50C11FB3E5A0C728DDDAB0894DE404482 |title=THE SATURDAY PROFILE; Shadow Shogun Steps Into Light, to Change Japan |publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]] |language=英語 |accessdate=2016-12-25}}</ref><ref>International Herald Tribune, [https://web.archive.org/web/20060511005410/http://www.iht.com/articles/2006/02/10/news/MOGUL.php ''Publisher dismayed by Japanese nationalism.''](2006年5月11日時点の[[インターネット・アーカイブ|アーカイブ]]) Published: February 10, 2006. accessed March 11, 2007</ref>。
 
戦後に多数の特攻隊指揮官から隊員の生存者まで尋問した[[米国戦略爆撃調査団]]の出した結論は「入手した大量の証拠や口述書によって大多数の日本軍のパイロットが自殺航空任務に、すすんで志願した事は極めて明らかである。機体にパイロットがしばりつけられていたという話<ref group="注">当時アメリカの一部では特攻隊員は機体に縛り付けられたり、薬やアルコールで判断力を失っていると信じられていた。</ref>は実際にそういうことが起きたとしても、一度だけだったであろう。また、戦争最後の数週間前までに、もっとも熱心なパイロットは消耗されつくしたか、あるいは出撃を待っている状態だった事も明らかである。陸海軍両軍とも、新米で訓練不足のパイロットを自殺部隊に割り当てる、つまり志願者を徴集する段階に到達していた。」と原則志願制ながら、それが既に限界に達しつつあったと分析していた<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=163}}</ref>。
 
;日本海軍
[[ファイル:Lt Yukio Seki in flightgear.jpg|250px|thumb|right|最初の特別攻撃隊となる第1神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長として戦死し軍神と畏敬された[[関行男]]大尉]]
海軍では、特攻は志願を建前に編成していたが、募集方法や現場、時期、受け取り方により実態は異なっていた。[[中島正]]飛行長によれば、特攻の編成はだいたいこれだと思うものを集めて志願を募っていたという<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|pp=95-96}}</ref>。「たとえ志願者であっても、兄弟の居ない者や新婚の者はなるべく選考から外す」とされたが、戦局が極度に悪化した沖縄戦後半頃の大量編成時には、その規定が有名無実化した部隊もあった。また大戦末期には、飛行隊そのものが「特攻隊」に編成替えされた<ref>{{Harvnb|永末千里|2002|pp={{要ページ番号|date=2016年12月}}}}</ref>。
 
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[[角田和男]]少尉によれば特攻出撃前日の昼間に喜び勇んで笑顔まで見せていた特攻隊員たちが、夜になると一転して無表情のまま宿舎のベッドの上でじっと座り続けている光景を目の当たりにし、部下に理由を尋ねたところ、目をつぶると恐怖から雑念がわいて来るため、本当に眠くなるまであのようにしている。しかし朝が来ればまた昼間のように明るく朗らかな表情に戻ると聞かされ、どちらが彼らの素顔なのか分からなくなり割り切れない気持ちになったという<ref>{{Harvnb|角田和男|1994|p=399}}</ref>。角田少尉は1944年11月11日に神風特別攻撃隊「梅花隊」「聖武隊」の誘導任務に就く予定であったが、搭乗予定の零戦のエンジンが不調で飛行できないために、僚機に「俺が行くから、お前が残ってくれ」と何機かに声をかけたが、どの特攻隊員も出撃を譲らなかった。仕方なく航空隊指揮官に隊長名で誰か交代する者を指名して欲しいと申し出したが、隊長の尾辻中尉は「我々は死所は一つと誓い合ってきた者同士です。今ここで誰かに残れと言う事は私にもできません。分隊士(角田少尉の事)は他部隊からの手伝いですから残ってください。(中略)長い間ご苦労さまでした。」と征く者の方からご苦労さまと言われた角田少尉は、「梅花隊」「聖武隊」の不動の決意を思い知らされ、出撃を見送る時は、自分の不甲斐なさを一生後悔すると言う気持ちがわき上がったという<ref>{{Harvnb|角田和男|1994|p=421}}</ref>。
[[ファイル:0102kamikaze.jpg|170px|thumb|right|神雷部隊桜花戦闘機隊指揮官細川八郎中尉。連合艦隊豊田副武司令長官視察の際に、「桜花」の模範訓練を要求されたが「あと桜花に乗るのは死ぬときだけです」と拒否している]]
 
[[高知海軍航空隊]]は練習機[[白菊 (航空機)|白菊]]による搭乗員訓練の航空隊であったが、戦局も逼迫した1944年末に横須賀鎮守府より特攻隊編成の訓示があり、航空隊司令加藤秀吉大佐から各員に「特別攻撃隊を編成するから、志願する者は分隊長に申し出るように」との指示があった。一応は各人の意志に委ねられた形式で積極的に志願した者もいたが、搭乗員である以上は勇ましい志願をせざるを得なかったと言う。それでも分隊長代理木村芳郎大尉は、一人息子や長男は“技量未熟”との名目で特攻隊に編成せず訓練隊になるべく残すようにした<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=819}}</ref>。司令の加藤秀吉大佐は終戦後の1945年8月20日の高地空解隊まで司令として残務をこなすと、8月30日に責任をとって自決している<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=815}}</ref>。
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末期にはパイロットはすべて特攻要員に下命されたが、田中国義は何度でも行くからせめて爆撃をやらせてほしかったが誰にも言えることではなかったという<ref>{{Harvnb|零戦搭乗員会|2016|p=54}}</ref>。[[清水芳人]]によれば、海上特攻は否応なしの至上命令であったという<ref>{{Harvnb|神立尚紀|2004|p=276}}</ref>。
 
=== 反対・拒否 =日本陸軍====
陸軍は、特攻隊を志願者をもって充当することを根本方針とし、必死の攻撃であるから要員は特攻実施の熱意が旺盛で家庭的にも係累の少ない若年者を選ぶという考え方が基本的となった<ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|p=305}}</ref>。特攻隊の志願は増大に伴い、調査が形式的になり、その場の空気に押されて表面的に志願であっても内心は熱意が乏しいものも含まれていた。第六航空軍司令官[[菅原道大]]中将によれば、特攻の志願は、部隊の状態、時期、部隊長の性格などによって千差万別であり、時日の経過に従い減少したが、反面に時局は要員の増加を要求し、志願を建前とする中央と指示の部隊数を編成しなければならない部隊長の間に問題が生じる余地があり、各隊各様の状態を生んだという。また、「いずれの場合も家庭の事情を十分に考慮するのは一般的であった」「有形無形の雰囲気の中で起居する関係者は少なからぬ圧迫を感じたことであろう」という<ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|pp=306-307}}</ref>。
 
陸軍初の特攻部隊の1つ[[富嶽隊]]の選出方法は「志願を募ればみんな志願するので指名すればそれでいい」というものであった。もう1つの[[万朶隊]]は飛行隊長が面接を行い志願を募った<ref>{{Harvnb|戦史叢書48|1971|pp=346-347}}</ref>。終戦後、アメリカ戦略爆撃調査団からの質問に対して、陸軍航空本部次長の[[河辺虎四郎]]中将は「志願者に不足することはなかった」と証言している<ref>{{Harvnb|小沢郁郎|1983|p=111}}</ref>。
 
1944年10月4日、[[鉾田教導飛行師団]]長[[今西六郎]]中将に特攻部隊編成の準備命令があったが、今西中将は特攻に批判的であり、この命令に苦悩していた。その後10月13日に隊員の人選方法について部隊幹部と協議したが、結論は出なかった。しかし10月17日にレイテにアメリカ軍が来襲し[[捷号作戦|捷号一号作戦]]が発令されると、20日には編成命令があり、今西中将は苦悩の末、最初の特攻は確実を期さなければいけないと判断し、陸軍航空隊きっての操縦技量を持ち、特攻には批判的で[[反跳爆撃]]の研究に携わっていた岩本益臣大尉(53期)を中隊長とした精鋭16名を指名したが、岩本大尉はフィリピンで、搭乗していた輸送機がアメリカ軍の戦闘機に撃墜され出撃前に戦死した。岩本大尉は新婚であったが、未亡人となった妻和子は亡くなるまで岩本大尉の遺品を大事に保管していており、死後に有志により、岩本大尉の故郷である福岡県[[豊前市]]に遺品が寄贈された<ref>{{Cite news |title=初代特攻隊長遺品郷里へ 萩の手塚さん福岡・豊前市に寄贈 |newspaper=[[山口新聞]] |date=2013-05-15 |url=http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2013/0515/4p.html |agency=[[みなと山口合同新聞社]] |accessdate=2016-12-25}}</ref>。
 
藤井一中尉は、熊谷陸軍飛行学校の少年飛行兵の教官であったが、教え子が次々と特攻出撃し戦死する中で、自らも教え子と共に特攻出撃をする事を願い陸軍に二度に渡り特攻を志願するが、妻子があることや専門の搭乗員ではなかったためいずれも却下された。夫の固い決意を知った妻女は「私たちがいたのでは後顧の憂いとなり、十分な活躍ができないと思いますので、一足先に逝って待ってます。」との遺書を遺し、子供2人と入水自殺を遂げた。その後3回目の志願を血書で陸軍に提出、陸軍もようやく藤井中尉の志願を受理し、昭和20年5月28日四十五振武隊快心隊の隊長として出撃し戦死している<ref>{{Cite web |date=2000-08-26 |url=http://www.geocities.jp/kamikazes_site/tokko_episode/fujiichui.html |title=特攻エピソード 「一足お先に逝って待っています」藤井一少佐 |work=ドキュメント神風 |accessdate=2016-12-25}}</ref>。
 
[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]57期の吉武少尉は[[九九式襲撃機|九九式軍偵察機]]の搭乗員であったが、軍偵班全員に特攻隊編成の命令があっている。従って「志願」ではなかったが、当時の気持ちを同僚の軍偵班・市原哲雄少尉の言葉を借りて「戦局いよいよ最高潮に達し皇国の興廃を決せんとする時、選ばれてその一戦力となり得るは、誠に栄光の至りにして男子の本懐たり」と感じ、軍偵班全員同じ気持ちであったと述べている。吉武少尉は陸軍特攻石腸隊として1944年12月12日に出撃したが、途中で[[F6F (航空機)|F6F]]に迎撃され被弾しながらも巧くかわし、その後どうにか海軍基地に不時着し九死に一生を得ている。そのような経験をしてもなお当時の思いを振り返り、戦後に平和な時代の価値観で特攻隊員に向けられた「特攻隊員は軍国主義の被害者だ」とか「国家に騙された可哀想な人たち」という評価を真っ向から否定し、「当時は国の為に命を捧げる事に大いなる価値があった」とし「現代の若者も、もしあの時代に生きていれば、我々と同じ心境になったはず」と述べている<ref>{{Harvnb|最後の証言|2013|p=199}}</ref>。
 
同じく[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]57期堀山久生中尉は、躊躇なく特攻志願しているが、その理由を「陸軍士官学校では、戦争が危急の際は率先して陸軍士官学校出の将校が危険な任務に就くべきと叩きこまれており、それが現役士官の取る道と考え、全員が志願した」と述べている<ref>{{Cite journal |和書 |date=2011-11 |journal=会報「特攻」 |issue=89 |page=28|publisher=特攻隊戦没者慰霊顕彰会}}</ref>。
 
[[ファイル:Tachikawa Ki-36.jpg|thumb|left|280px|終戦後に女性2名を含む13名の志願者でソ連軍戦車部隊に特攻を試みた「神州不滅特別攻撃隊」の乗機[[九八式直協機|九八式直協偵察機]]、他に[[二式高等練習機]]でも出撃した]]
[[満州]]で搭乗員の訓練を行っていた[[関東軍]]第5練習飛行隊は、8月15日の玉音放送の後に関東軍司令部より戦闘停止命令が届いたが、ソ連軍による[[葛根廟事件]]などの虐殺事件を目の当たりにし、「このまま降伏すれば葛根廟の悲劇がここでも繰りかえされる」や「戦いもせずにおめおめとソ連軍に降伏できるか」との思いで結束し、ソ連軍に一撃を加え居留民の避難する時間を稼ぐこととしたが、練習飛行隊に残った練習機ではソ連軍の重戦車相手に体当たり攻撃しか通用しないため、異例の戦車に対する特攻を計画した。計画の中心であった二ノ宮清准尉が賛同者を募ったところ士官である少尉ばかり10名が賛同し(二ノ宮をいれると11名)二ノ宮らは自らを「神州不滅特別攻撃隊」と名付けた。その中の谷藤徹夫少尉は妻女朝子を、大倉巌少尉は婚約者スミ子同乗させての出撃を申し出た。一般女性を作戦機に搭乗させるのは軍規違反であったが、二ノ宮らは敢えて同乗を許している。2人の女性が特攻機に同乗を希望した経緯は不明だが、特攻出撃当日の8月19日に、2人の女性は白いワンピースを着て日傘をさして飛行場に現れ、それを見送りと勘違いした基地の兵士が日傘をさしていることを咎めると、朝子は涼しい顔で「女性ですから、日焼けはしたくないんです。」と冷静に切り返したとこから覚悟はできていたものと思われる。神州不滅特別攻撃隊は故障で墜落した1機を除き、2人の女性を乗せた10機でソ連軍の戦車部隊に向かったが、特攻が成功したかは不明である。この攻撃は玉音放送後の戦闘行動、さらに2名女性を同乗させた軍紀違反の理由により、特攻扱いにはならず、また戦死扱いにもなってなかったが、谷藤少尉の両親ら関係者の尽力により、1957年に神州不滅特別攻撃隊の全員が厚生省より戦死認定された。1967年に神州不滅特別攻撃隊の碑が建立された事をきっかけにして朝子の名誉回復の運動も行われ、1970年には朝子も死因はソ連軍戦車によるものとする死亡告知書が青森県庁に認定され、夫婦ともに戦後25年を経てようやく名誉回復された<ref>{{Harvnb|豊田正義|2015|pp=311-390}}</ref>{{信頼性要検証|date=2017-01}}。
 
太平洋戦争当時、東京大学文学部より学徒出陣で陸軍の[[二等兵]]となった後の読売新聞グループ本社会長・主筆[[渡邉恒雄]]は、太平洋戦争終盤に行われていた特攻に関して、従来よりほとんどが暴力による強制であったという認識であり、[[ニューヨーク・タイムズ]]のインタビューに答えて、「彼らが『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったと言うことは全て嘘であり、彼らは[[屠殺]]場の羊の身だった」「一部の人は立ち上がることが出来なくて機関兵士達により無理矢理飛行機の中に押し入れられた」と語っている<ref>{{Cite web |author=NORIMITSU ONISHI |date=2006-02-11 |url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F50C11FB3E5A0C728DDDAB0894DE404482 |title=THE SATURDAY PROFILE; Shadow Shogun Steps Into Light, to Change Japan |publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]] |language=英語 |accessdate=2016-12-25}}</ref><ref>International Herald Tribune, [https://web.archive.org/web/20060511005410/http://www.iht.com/articles/2006/02/10/news/MOGUL.php ''Publisher dismayed by Japanese nationalism.''](2006年5月11日時点の[[インターネット・アーカイブ|アーカイブ]]) Published: February 10, 2006. accessed March 11, 2007</ref>。
 
戦後に多数の特攻隊指揮官から隊員の生存者まで尋問した[[米国戦略爆撃調査団]]の出した結論は「入手した大量の証拠や口述書によって大多数の日本軍のパイロットが自殺航空任務に、すすんで志願した事は極めて明らかである。機体にパイロットがしばりつけられていたという話<ref group="注">当時アメリカの一部では特攻隊員は機体に縛り付けられたり、薬やアルコールで判断力を失っていると信じられていた。</ref>は実際にそういうことが起きたとしても、一度だけだったであろう。また、戦争最後の数週間前までに、もっとも熱心なパイロットは消耗されつくしたか、あるいは出撃を待っている状態だった事も明らかである。陸海軍両軍とも、新米で訓練不足のパイロットを自殺部隊に割り当てる、つまり志願者を徴集する段階に到達していた。」と原則志願制ながら、それが既に限界に達しつつあったと分析していた<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=163}}</ref>。
 
==== 反対・拒否 ====
陸軍[[飛行第62戦隊]]隊長[[石橋輝志]]少佐は、大本営作戦課から第62戦隊を特攻部隊に編成訓練するよう要請されると「部下を犬死にさせたくないし、私も犬死にしたくない」と拒否した。石橋少佐はその日のうちに罷免された<ref>[[#重爆特攻]]59-61頁</ref>。この後、第62戦隊は特攻専用機に改造された[[四式重爆撃機]]を装備して特攻攻撃に借り出されている。
 
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[[高知海軍航空隊]]は練習機[[白菊 (航空機)|白菊]]による搭乗員訓練の航空隊から、白菊を爆装しての特攻隊となったが、特攻隊員たちは飛行科を志望した時に死を覚悟していたが、実際に死が現実的になると、ちょっとしたことで腹を立てたり、些細な事で喜んだりケンカ早くなったりと情緒不安定になったという。それでもしばらくすると覚悟を決めて落ち着いたように見えたが、眼光が人を射抜くような鋭さになっていたという。また特攻隊員は夜目を鍛えるため、黒い眼鏡をかけることが命じられたり、遺髪を遺すために丸刈りにせず頭のてっぺんに少しだけ髪を残しておく風習があったので、眼光の鋭さもあって人相・風体が悪くなり[[愚連隊]]と間違えられ、小料理屋に行っても仲居さんが近付いてこないほどになり、当時は人気があった海軍の搭乗員であったのに全く女性からモテなかったという<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=834}}</ref>。天候不良が続き訓練飛行ができないときは、近所の農家で農作業の手伝いを行い、お礼に卵や果物をもらったが死を覚悟した隊員にとってはよい息抜きになった。特攻出撃が決まると、子供を残すために結婚すべきか否かについて隊員らで熱っぽく討論を行ったが、結局終戦までに誰も結婚しなかったということであった<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=835}}</ref>。
[[ファイル:Tome Torihama with kamikaze pilots.jpg|thumb|right|250px|「特攻の母」鳥濱トメと6名の特攻隊員の記念撮影写真<br>前列左より立木史郎曹長、西森少尉、前列右は不明、後列左より小椋忠正軍曹、鳥濱トメ、青木健児少尉、日向登軍曹]]
江名武彦少尉は早稲田大学在学中に[[学徒動員]]で海軍航空隊の特攻隊員となったが、江名によれば海軍での生活は、物資は十分だったので食事には事欠かず、金曜日には[[海軍カレー]]が出され、ウィスキーも倉庫に沢山あり酒に困ったことはなかったとのこと。また手紙についても軍事郵便で出せば検閲があったが、一般の郵便局から郵送すれば検閲もなく、大半の兵士は一般の郵便局から手紙などを郵送していた<ref name="江名" />。
 
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陸軍でも状況は同じで、[[大刀洗]]陸軍飛行場に隣接した料亭経の娘は、黙々と酒を飲む組と、軍指導部を批判して荒れる組の二種類に分かれ、憲兵ですら手が出せず、朝まで酒を飲んで出撃していったと証言している<ref>[[#重爆特攻]]P.131-133</ref>。そんな中で特攻隊員の精神的な動揺も広がっており、1945年5月に陸軍航空本部が六航軍の特攻隊員へ面接やアンケート調査を行ったところ、{{分数|1|3}}の隊員が特攻に対して決心が固まっておらず、精神に動揺をきたしていると判定されている<ref name="西川p123-126" />。
 
陸軍特攻振武隊員1,276名のうち、機体故障などの理由によって帰投した605名の内の一部が[[福岡県]]の[[振武寮]](福岡女学院女子寮)に収容された。中では担当者だった[[倉澤清忠]]らによって再教育と称し、反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経などをさせられ「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵倒されるなど、差別的待遇を受けた<ref>[[#重爆特攻]]3頁</ref>。その存在は秘匿されていたとの事で、軍の公式資料では詳細を確認できない。再教育の後、特攻隊員の生き残りは、[[本土決戦]]のための特攻要員として全国に再配置された。[[振武寮]]は、小説[[月光の夏]]でその存在が広まったが、存在した期間は1か月余、収容された人数も最大で80名<ref name="ETV特集" />とされている。またその振武寮に滞在した期間は、第6航空軍参謀で、振武寮運営の中心人物とされる[[倉澤清忠]]が保管していた「振武隊異動通報」によれば1945年6月5日 - 6月19日までの間に“在福岡”(振武寮行きの事)となった振武隊隊員のほとんどは1945年6月23日 - 6月25日に、[[明野教導飛行師団]]や[[鉾田教導飛行師団]]へ本土決戦に備えて異動となっているが、“在福岡”の期間が一番長い隊員で18日、一番短くて3日であった<ref>[http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/shinbutai_ido-003.htm 「振武隊異動通報第三號」]</ref><ref>[http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/shinbutai_ido-004.htm 「振武隊異動通報第四號」]</ref>。振武寮では、収容者は担当者だった倉澤らによって再教育と称し、反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経などをさせられ「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵倒されるなど、差別的待遇を受けた<ref>[[#重爆特攻]]3頁</ref>。その存在は秘匿されていたとの事で、軍の公式資料では詳細を確認できない。振武寮の中心的人物とされ多くの証言を残している倉澤ですら、「振武寮」という名称の施設の存在を否定している<ref>{{Harvnb|佐藤早苗|2007|p=175}}</ref>。
 
また、倉澤は「当時航空軍としては、決死の特攻隊員が目的を果たさずに生きて帰って来るなどとは、考えていなかったのです。」と証言したとされるが<ref>{{Harvnb|佐藤早苗|2007|p=173}}</ref>、振武隊が編成される前のフィリピン戦や九州沖航空戦で、陸軍航空隊の特攻機多数が天候の問題や会敵できず帰還していた上に、陸軍航空隊の特攻隊員らを教育・訓練していた下志津教導飛行師団が1945年5月に作成した「と號空中勤務必携」という特攻隊員の教本により、「中途から還らねばならぬ時は」や「中途から還って着陸する時は」など、隊員らは帰還の際の心得や具体的手順について教育されており、倉澤の証言と矛盾する<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=96}}</ref>。その運用状況も、隊員らが反省文の提出を強要されたり、激しい罵倒を浴びせられたり、外部との接触は一切禁止されていたという証言もある一方で<ref>[[#陸軍特攻振武寮]]P.213</ref>、収容された隊員が福岡女学院の女子学生の慰問を受けたり、[[九州大学|九州帝国大学]]の学者の講話を受けたりしており、詳細は不明である<ref>{{Harvnb|佐藤早苗|2007|p=153}}</ref>。
 
特攻隊員に選抜されながら戦争を生き残った元隊員らの多くは、戦後の復興に大きく貢献したが、ごく一部に戦後に目標を見失い自暴自棄となり反社会的行為に身を染める元隊員も出ていた。彼らは「特攻くずれ」と呼ばれたが、戦中は多くの国民から特攻隊は「軍神」と崇められたのに、敗戦による国民の価値観の激変により、特攻は軍国主義の象徴として叩かれる対象となり、いわれのない差別を受ける事なったのも、「特攻くずれ」が一般社会に適合できない大きな要因となった。その内、特攻とは関係のない無法者が、特攻隊員の軍装をし元特攻隊員と偽り犯罪を起こすケースも増えて「特攻くずれ」は新聞等でも激しくバッシングされることとなり、特攻隊員の印象の悪化させることにもなった<ref>{{Harvnb|最後の証言|2013|p=323}}</ref>。
 
==== 支給品 ====
陸軍は航空医学に基づく「航空糧食」に力を入れており、航空病を予防し、パイロットに能力を最大限発揮させる栄養食品を作る事を目的に莫大な陸軍予算を投じていた。当時の[[東條英機]]首相もかなり期待していた模様で、首相以下 [[近衛文麿]]、[[広田弘毅]]、[[若槻禮次郎]]といった元老らなど、軍や政治の中枢を首相官邸に集めて、航空糧食の講演会が開かれており、当時の政府や軍の期待度の大きさが覗える<ref>『50年前日本空軍が創った機能性食品』岩垂荘二 光琳社 1992年 P.13</ref>。東條失脚後も陸軍の方針は変わらず、[[陸軍航空技術研究所]]が東京大学などの協力も受けて「航空ビタミン食」「腸内ガス無発生食品」「航空元気酒」「疲労回復酒」「防吐ドロップ」「早急出動食」「無火無煙煙草」など多数の栄養食品や[[健康食品|機能付食品]]や嗜好品が作られ、前線のパイロットに支給されていった<ref>『50年前日本空軍が創った機能性食品』岩垂荘二 光琳社 1992年 P.71 - P.130</ref>。特攻隊員でも、1944年12月14日に[[クラーク空軍基地|クラーク基地]]から[[パラワン島]]近海に出撃した、陸軍特攻菊水隊[[一〇〇式重爆撃機]]の搭乗員が出撃時に「航空元気酒」の小瓶や、酸素不足予防のための鉄分を含む「鉄飴」を支給され、「航空元気酒」で乾杯して出撃している<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風 上巻』時事通信社 P.269</ref>。
 
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また、特攻隊員が出撃に際して[[覚醒剤]]([[メタンフェタミン#ヒロポン|ヒロポン]])を投与され、判断力や恐怖心を強制的に失わせた上で出撃させられていたという話が一部で広まっているが、これは正確な表現ではなく、日本軍事史や日本軍の[[戦争犯罪]]に詳しい日本近現代史学者吉田裕教授からも「よく戦後の特攻隊に関する語りの中で、出撃の前に覚醒剤を打って死への恐怖感を和らげて出撃させたんだという語り・証言がたくさんあるんですけれども、これは正確ではないようです。覚醒剤を使っていたのは事実のようです。日本のパイロットは非常に酷使されていて(中略)疲労回復とか夜間の視力の増強ということで覚醒剤を大量に使っていて」との指摘もあっている<ref>{{Cite web |author=吉田裕|url=http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9073/zinkotuhp/arcive/2007yoshida.htm |title=医学史から見た戦争と軍隊 |work=人骨(ほね)は告発する |publisher=軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会 |accessdate=2016-12-27}}</ref>。
{{See also|覚醒剤#歴史}}
 
戦後の参議院の予算委員会の質疑において、厚生省の政府委員によれば「大体、戦争中に陸軍・海軍で使っておりましたのは、全て錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ませておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたものはすべて錠剤でございました、今日問題になっておりますような注射薬は殆ど当時なかったと私は記憶しております。」との答弁通り、戦時中の覚せい剤は広い範囲で使用されており、特攻隊員に限定的に使用されてはいなかった<ref>第7回参議院予算委員会議事録10号 1949年11月30日 重松一郎政府委員答弁</ref>。
 
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第二次世界大戦参戦各国の覚せい剤使用状況を見ても、同じ[[枢軸国]]側の[[ナチス・ドイツ]]は、日本のヒロポンより先に1938年より市販されていたメタンフェタミンの錠剤「Pervitin」と「Isophan」を1940年4月 - 7月のわずか4カ月の間に3,500万錠を製造しドイツ陸海空軍の兵士に大量に支給するなど熱心に使用していた<ref>{{Cite web |author=Andreas Ulrich |date=2005-05-06 |url=http://www.spiegel.de/international/the-nazi-death-machine-hitler-s-drugged-soldiers-a-354606.html |title=The Nazi Death Machine: Hitler's Drugged Soldiers |publisher=[[:en:Spiegel Online]] |language=英語 |accessdate=2016-03-02}}</ref>。連合軍のアメリカ・イギリスも、メタンフェタミンを使っており、主にドイツや日本への本土戦略爆撃機パイロットに、長時間飛行の疲労回復剤や眠気解消剤として支給していた<ref>{{Cite web |url=http://healthvermont.gov/adap/meth/brief_history.aspx |title=A Brief History of Methamphetamine- Methamphetamine Prevention in Vermont |work=Department of Health |publisher=Vermont Department of Health |language=英語 |accessdate=2016-12-27}}</ref>。またアメリカ軍は、覚醒剤の[[アンフェタミン]]を現代に至るまで主にパイロットに使用している。最近でも[[アフガニスタン紛争 (2001年-)]]での誤爆事件({{仮リンク|ターナックファーム事件|en|Tarnak Farm incident}})で、アメリカ空軍が疲労回復剤として、アンフェタミンの錠剤の服用をパイロットに強制していたことが明らかになっている<ref>{{Cite web |author=Rocky Jedick |date=2014-07-19 |url=http://goflightmedicine.com/tarnak-farm/ |title=Tarnak Farm - Reckless Pilots, Speed, or Fog of War? |publisher=Go Flight Medicine |language=英語 |accessdate=2016-12-27}}</ref>。従って、日本軍の覚醒剤の使用については、当時の参戦各国での使用目的や実績と変わらない水準の使用であったと思われる。
{{See also|覚醒剤#歴史}}
 
=== 特攻隊員の著名人 ===
{{See|Category:特攻隊員}}
 
== 出撃した特攻隊の一覧 ==
{{See|出撃した特攻隊の一覧}}
 
== 評価 ==
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神風特攻隊を創設した[[大西瀧治郎]]海軍中将は、機材、人数から餌食にされるだけの戦局で部下に死所を与えるのは主将としての役目で大愛と考えていた<ref>{{Harvnb|中島正|猪口力平|1984|p=173}}</ref>一方でこんなことしなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統率の外道とも考えていた<ref>{{Harvnb|中島正|猪口力平|1984|pp=93-94}}</ref>。軍需局の要職にいたためもっとも日本の戦力を知っておりもう戦争を終わらせるべきだと考え講和を結ぶ必要を考えたが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため一撃レイテで反撃し講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。またこの犠牲の歴史が日本を再興すると考えていた<ref>{{Harvnb|神立尚紀|2004|pp=197-199}}</ref>。
 
零戦の主任設計者[[堀越二郎]]は、特攻開始直後の1944年12月の初めに[[朝日新聞社]]が「神風特攻隊」という本を出版するにあたって、零戦の主任設計者として特攻を讃える短文を寄せてほしいとの依頼を受けたが、自分が設計した零戦がなんでこんな使い方をされなければならないのか?とのやるせなさや、多くの前途ある若者が、自分の設計した零戦に乗り込んでけっして帰ることのない体当たり攻撃に出撃していく光景を思い浮かべて胸がいっぱいとなって筆が進まず、1か月以上経った1945年1月にようやくこの戦争で肉親を失った人々全員に送るつもりで「敵は富強限りなく、わが生産力には限界あり、われは人智をつくして凡ゆる打算をなし、人的物的エネルギーの一滴に至るまで有効に戦力化すべき凡ゆる体制を整へ、これを実行しつくしたりや、内にこれを実行し、外神風特攻隊あらばわれ何ぞ恐れん・・・」という短文を朝日新聞社に寄せた。当時の時勢がらで直接的な表現はできなかったが、本当になすべきことをなしていれば、特攻という非常な手段に訴えなくてもよかったのではないか?という疑問の気持ちがこの短文には秘められていたという<ref>{{Harvnb|堀越二郎|1984|loc=電子版, 位置No.2523-2539}}</ref>。
 
搭乗員淺村淳は当時の戦局は乾坤一擲の作戦に爆弾を落として当たらなかったと言える次元の話ではなかった、ぶつかるのが確実だったという<ref>{{Harvnb|神立尚紀|2004|p=268}}</ref>。搭乗員[[岩本徹三]]中尉は特攻を勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後の悪あがきで士気は低下したと語っている<ref>『零戦撃墜王』光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2050-X</ref>。
 
陸軍初の特攻隊の編成にあたった鉾田教導飛行師団長[[今西六郎]]陸軍中将は特攻隊の編成化は士気の保持が困難、低下するだろう。現地の決意であるべきで常時編成しておくようなものではない。慣熟や団結を考えてのことだろうが、慣熟が必要な機種([[九九式双発軽爆撃機]])でもないし、団結もなくなる。機材を用意しておくだけでよく、人の心の逡巡や天候不良など想定し生還可能性は残すべきだという<ref name="戦史叢書48p343" />。しかし今西はフィリピンでの特攻の成功を知ると、特攻容認に姿勢を変えており「諸士、最後の御奉公の秋至る。諸士よ征け。征きて一死を以て皇恩に酬いよ。日本男子の本懐を遂げよ」や「當部隊は全員本年を以て人生の最後の年と心得よ。本日唯今先づ死すべし。然る後、霊を以て各任務に就くべし。全員、本元日を以て生きたる命は先づ死なしめよ。霊の力のみにて、今後の御奉公を励まん。」と激烈な訓示をフィリピンに向かう特攻隊員や鉾田教導飛行師団の搭乗員にしている<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.1081-1112}}</ref>。
 
昭和天皇の特攻に対する思いは複雑なものがあったようで、沖縄戦でも日本軍は多数の特攻機を出撃させ、毎日夕刻に侍従武官から受ける特攻の戦果の上奏に対して陛下は「そうか、本当によかった」と心から喜ばれている風であったが、ある日、侍従武官が地図を広げて陛下に戦況を説明していた際に、侍従武官の髪に何か触れるものがあったので、いぶかしんで武官が顔を挙げると、陛下が特攻隊が突入した地点に深々と最敬礼をされていた。その様子を見て侍従武官は、陛下が懸命に耐えている悲痛な心の一端を示されたのだと察したという<ref>{{Harvnb|半藤一利|2006|p=332}}</ref>。昭和天皇には、軍の最高指揮官大元帥として部下将兵の戦果を褒めたたえる面と、天皇として臣民を十死零生の非情の作戦に従事させ悲しむ面の両面を、両立させざるを得ない立場にある苦悩があったという指摘もある<ref>{{Harvnb|半藤|保阪|御厨|磯田|2015|p=211}}</ref>。
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;ウィリアム・ハルゼー(第三艦隊司令)
[[ファイル:USS Franklin (CV-13) and USS Belleau Wood (CVL-24) afire 1944.jpg|thumb|right|300px|フィリピンで特攻により炎上するハルゼー指揮下の第三艦隊の正規空母[[フランクリン (空母)|フランクリン]]と軽空母[[ベローウッド (空母)|ベローウッド]]]]
艦隊指揮官として、最初に特攻の洗礼を受けたのは[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア]]大将であった。ハルゼー大将は、1944年11月29日に配下の [[第三艦隊]]の高速空母群に次々と特攻機が損害を与えるのを見て「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を受けている<ref>{{Harvnb|ポッター|1991|p=499}}</ref>。また、「情報部から我々に対して、カミカゼが編成されたという警告が送られてきたが、我々の内大半の者はそれをこけおどしや{{仮リンク|Paper tiger|en|Paper tiger}}(張子の虎)であると受け取っていた」と自分らの見通しが甘かったとも述べている<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=221}}</ref>。
 
特攻機による空母部隊の大損害により、11月11日にハルゼーが計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれた。ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求している<ref>{{Harvnb|ポッター|1991|p=506}}</ref>。
 
またこの頃にハルゼーは、指揮下の艦隊に蔓延するカミカゼショックに危機感を抱き「カミカゼの成功率は1%以下である」と事実に反する発表を部下将兵に行い(フィリピン戦での特攻有効率は26.8%)沈静化を図ったが、あまり効果はなかった<ref>{{Harvnb|吉本貞昭|2012|p=506}}</ref>。
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;ダグラス・マッカーサー元帥(南西太平洋方面最高司令官)
海軍以外でも[[ダグラス・マッカーサー]]元帥は、フィリピン戦で特攻の猛威を目のあたりにすると「カミカゼが本格的に姿を現した。この恐るべき出現は、連合軍の海軍指揮官たちをかなりの不安に陥れ、連合国海軍の艦艇が至るところで撃破された。空母群はカミカゼの脅威に対抗して、搭載機を自らを守る為に使わねばならなくなったので、レイテの地上部隊を掩護する事には手が回らなくなってしまった」と指摘している<ref>{{Harvnb|北影雄幸|2005|p=215}}</ref>、マッカーサー指揮下の[[メルボルン]]海軍部は、指揮下の全艦艇に対して「[[ジャップ]]の自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて(中略)公然と議論することを禁止し、かつ[[第7艦隊]]司令官は同艦隊にその旨伝達した」とアメリカとイギリスとオーストラリアに徹底した報道管制を引いた。これはニミッツの太平洋方面軍と同じ対応であったが、特攻に関する検閲は太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている。南西太平洋方面軍は更に、休暇等で帰還するアメリカ・オーストラリア兵士に対しても徹底した{{読み仮名|緘口令|かんこうれい}}を敷いている<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=215}}</ref>。
 
その後の沖縄戦では、「大部分が特攻機から成る日本軍の攻撃で、アメリカ側は艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害を出した。これらの数字は、南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間に出したアメリカ側の損害の総計を超えている」<ref>{{Harvnb|吉本貞昭|2012|p=15}}</ref>と沖縄戦での特攻による大損害を回顧しているが、そのマッカーサー自身もフィリピンのリンガエン湾で、軽巡洋艦[[ボイシ (軽巡洋艦)|ボイシ]]座乗中に 特殊潜航艇の雷撃と特攻機の攻撃を受けている。
 
雷撃はボイシの巧みな操艦で回避し、特攻機は接近中に対空砲火で撃墜され難を逃れたが、当のマッカーサーは雷撃回避の際は甲板上に仁王立ちし戦闘を眺め、特攻機撃墜時は艦内の喧噪を他所に、居室で眠っていた。マッカーサー配下の[[第七艦隊]]の兵士らは、それまでの特攻の猛攻で恐怖が頂点に達していたのに、その指揮官のマッカーサーの剛胆ぶりに担当軍医のエグバーグ医師は驚かされている。<ref>{{Harvnb|マンチェスター|1985|p=46}}</ref>マッカーサーは特攻とアメリカ艦隊の戦闘を見ながらエグバーグに対し「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と話しかけた。日本軍の攻撃目標選定のミスを指摘しながらも、特攻が[[ルソン島の戦い]]の{{読み仮名|帰趨|きすう}}を左右するような威力を有していると懸念していたものと思われる<ref>{{Harvnb|ペレット|2016|p=852}}</ref>。
 
=== その他 ===
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これに対し日本国内では、「特攻はあくまでも敵兵と軍事標的のみが目的。民間人を標的とする「卑劣なテロ」とは違う」という反論も生じた。しかし、日本国外では「有志による自爆攻撃=カミカゼ」という意識がなお根強く、また[[米艦コール襲撃事件|ミサイル駆逐艦コールへの自爆攻撃]]等、武装組織が正規軍へなんらかの武力抵抗を行った場合の評価、そして武装組織とテロ組織の「線引き」自体が曖昧で、国際的な議論、再評価を巻き起こすには至っていない(戦時国際法では武装勢力(含むテロ組織)は正規軍に準じる存在と位置づけられ、戦闘員の身分は基本的に保証されているが、「テロとの戦い」が「戦時」に該当するか、戦時国際法が適用されるかどうか自体が曖昧である)。また正規軍の民間人に対する武力行使は戦時国際法で厳格に禁止され、罰則対象になっているが、この条項自体が事実上空文化している(代表的なところではアメリカ軍の原爆投下や無差別{{読み仮名|絨毯爆撃|じゅうたんばくげき}}、イラク戦争の掃討作戦、イスラエル軍の入植地攻撃、ロシアのアフガン、チェチェン侵攻など)ため、この辺りもテロ行為と特攻の線引きを難しくしている。さらには当の武装勢力(含むテロ組織)の[[タミル・イーラム解放のトラ]]や[[ハマス]]でも、なぜ自爆テロを行なうのかとの問いには「カミカゼ」の答えが返って来ることがある<ref>{{Cite web |author=田中龍作 |date=2009-08-16 |url=http://tanakaryusaku.seesaa.net/article/125807698.html |title=《自爆テロ》 旧日本軍が世界に残した負の遺産 |work=田中龍作ジャーナル |publisher=[[Seesaa]] |accessdate=2016-12-27}}</ref>。
 
== 海外の特攻 ==
[[ファイル:Nesterov taran.jpg|thumb|right|世界初の航空機による体当たり攻撃を描いたイラスト]]
===ドイツ軍===
1943年末、ドイツ空軍においてフォン・コルナツキー少佐によってシュトゥルム・フリーガーと命名されたB-17、[[B-24 (航空機)|B-24]]に体当たりを行う決死特攻が行われていた。落下傘で直前に脱出することとなっていたが、困難なため中止された。これに代わり1944年5月[[ヴァルター・ダール]]の案で、誓約書を書いた隊員で体当たりの肉薄攻撃を行っていたが、戦闘機隊総監[[アドルフ・ガーランド]]はこれを知り禁止命令を出した<ref>{{Harvnb|鈴木五郎|1995|pp=124-126}}</ref>。
 
1944年春頃、ドイツにおいて[[ハンナ・ライチュ]]によって提唱された[[ハインケル He111|He 111]]の下部に[[V1飛行爆弾#Fi-103の派生型|V1 有人飛行爆弾]]を搭載、空中発射されたV1に搭乗した操縦者が誘導し対艦攻撃する計画があり、志願者が集められ試験飛行も行われたが実施されなかった<ref name="hata" />。
 
ドイツ空軍の[[ハヨ・ヘルマン]]大佐は、レイテ沖海戦より日本軍が投入した特別攻撃隊に触発され、その戦法が周囲でも話題になっていたこともあり、最終手段として劇的な戦法を試案するため、当時の駐独大使である[[大島浩]]を[[ベルリン|デーベリッツ]]の司令部に招き特攻について質問して情報を得た<ref name="tokyo2008525" />。その効果については疑問を持ちつつも、第二次大戦末期はドイツでも通常の防空戦は困難になりつつあったことや「カミカゼ」戦術が衝撃的だったこと、過去にもその場の判断で敵機に体当たりを行い撃墜した事例、最新鋭の[[メッサーシュミット Me262|Me 262]]が圧倒的な速力で戦果を上げており機体生産を確保するための被害回避等の理由から「爆撃機への体当たり攻撃」を立案した<ref name="tokyo2008525" />。この作戦に[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は難色を示し、空軍総司令官の[[ヘルマン・ゲーリング]]も当初は反対したが、燃料も戦闘機も不足する中ではやむを得ない戦法だと説得し許可を得て、ヘルマンが指揮官となって「自己犠牲攻撃」として志願者を募り、作戦が独北部の[[エルベ川]]周辺に展開したため「'''[[ゾンダーコマンド・エルベ|エルベ特別攻撃隊]]'''」(Sonderkommando Elbe)と称された<ref name="tokyo2008525" />。
 
この作戦は1945年4月7日に実行され、内容は[[メッサーシュミットBf109|Me 109]]と[[フォッケウルフFw190|Fw 190]]を使用し、[[航空機関砲|機関砲]]を撃ちながら敵機目掛けて一直線に突進するものであり、衝突と同時に落下傘で脱出することで生還の可能性は残しており<ref name="tokyo2008525" />、必ず体当たりすることを要求されたのではなかったが、死を覚悟しなければ志願できない作戦であり、周囲もパイロットが戦死することを前提にすべての用意を整えていた。「敵重爆の直前で射撃し、各自1機は撃墜すること。必要とあれば激突せよ」と命じられ彼らは無線で流されるドイツ国歌を聞きながら突撃したと言う。しかし、[[P-51 (航空機)|P-51]]を始めとする多数の護衛戦闘機群に阻まれ、推定189機が出撃したが出撃機の大半とパイロットの約半数(約80人との資料もある<ref name="tokyo2008525" />)を失い、8機(B-17 5機撃墜との資料<ref name="hata">{{Harvnb|秦郁彦|1996|pp={{要ページ番号|date=2016年12月}}}}</ref>や、20数機との資料もある<ref name="tokyo2008525" />)の爆撃機を撃墜したにとどまり、効果への疑問から作戦はこの一度のみで終了となった<ref name="tokyo2008525" />。この部隊は解散したが独空軍は別の特攻作戦「オーデル川作戦」を発動した。
 
またドイツ空軍では[[ミステル]]と称す親子飛行機を開発し、これは子機([[Ju 88 (航空機)|Ju 88]]爆撃機を改造して爆薬と無線操縦装置を取り付けた無人機)の上部に連結器を装備して親機のMe 109を乗せたものであり、目標上空で切り離し、親機が子機を誘導して目標に体当たりさせる仕組みになっていた。ミステルは若干ながら戦果を挙げ、さらなる組み合わせとして親機にFw 190を使用した型も生産された。しかし、速度の遅いミステルは通常の爆撃機以上に敵戦闘機の好餌であり、間もなく敵目標に対する攻撃は中止され、敵の進撃経路に当たる橋梁や道路を爆破するのに使用されたという。
 
===ロシア/ソ連軍 ===
[[第一次世界大戦]]中の[[1914年]]9月8日、に[[ロシア帝国]]の[[ピョートル・ネステロフ]]大尉が[[オーストリア]]機に対して行った行動が、世界初の航空機による体当たり攻撃とされる<ref name="miura">{{Harvnb|三浦耕喜|2009|pp={{要ページ番号|date=2016年12月}}}}</ref>。これにより墜落した2機の乗員3名は死亡している。第二次大戦初期([[独ソ戦]])のソ連軍には、旧式化していた[[I-16 (航空機)|I-16]]などの旧式機が多数存在していたが性能が劣っていたため、タラン<ref group="注">タラーンとも、ロシア語で[[破城槌]]という意味。</ref>と称される航空機による体当たり攻撃が行われた<ref name="miura" />。タランが完全にパイロットの自由意志で行われたかは不明であるが、
* プロペラで敵機の方向舵を破壊して操縦を不能にする、最も安全で推奨された攻撃方法。
* 自機の翼で、敵機の方向舵や翼を破壊し操縦を不能にする。
* 敵機の胴体に体当たりする、上の2個の方法ができない場合の攻撃方法。一番危険であり、この攻撃を行ったパイロットのほとんどが戦死した。
以上の体当たり戦術が行われていたとソ連空軍のノビコフ上級大将が戦後に著書で解説している通り、体当たりの技術はかなり研究・洗練され体系化されており、軍による戦術の指導があった可能性が高く、パイロットが個別判断でその場の思い付きで行っていたとは考え難い<ref>{{Cite web |author=Мельников А.Е. |url=http://aeroram.narod.ru/win/teor.htm |title=Теория |language=ロシア語 |accessdate=2016-12-21}}</ref>。またタランで戦死したパイロットは国家英雄として[[ソ連邦英雄]]やレーニン勲章などで叙勲されて、[[大祖国戦争]]遂行のために兵士の士気を鼓舞することに利用された<ref>{{Cite web |date=2000-05-09 |url=http://www.soldat.ru/memories/podvig/spisok1.html |title=Фамилии авиаторов, совершивших огненные тараны |language=ロシア語 |accessdate=2016-12-21}}</ref>。
 
ソ連軍のパイロットは機体が損傷したり弾薬が尽きると、ドイツ軍の戦闘機や爆撃機に対する体当たり攻撃だけでなく({{仮リンク|タラン攻撃をしたパイロットの一覧|ru|Категория:Лётчики, совершившие таран}}を参照)地上のドイツ軍の戦車などにも体当たりしたパイロットも多かった。({{仮リンク|大祖国戦争で地上目標にタラン攻撃をしたパイロットの一覧|ru|Список авиаторов, совершивших таран наземных объектов в годы Великой Отечественной войны}}を参照)体当たり攻撃したパイロットの多くは戦死したが、中には{{仮リンク|ボリス・コブザン|ru|Ковзан, Борис Иванович}}のように4回も体当たりしながら生還したパイロットもいた。タランは新型機の配備が軌道に乗ってからも引き続き行われている。
 
=== アメリカ軍 ===
第二次世界大戦のアメリカ軍側においても自発的な体当たり、自爆攻撃が行われている。[[ミッドウェー海戦]]で、空母飛龍を攻撃した[[アメリカ海兵隊|米海兵隊]]の[[SBD (航空機)|SBD ドーントレス]]指揮官ロフトン・R・ヘンダーソンは、被弾炎上後に飛龍へ体当たりを試みたが失敗した。[[SB2U (航空機)|SB2U ビンジゲーター]]に搭乗したアメリカ海兵隊のフレミング大尉は、対空砲火により被弾後、[[重巡洋艦]][[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]に自爆攻撃を敢行した。
[[第三次ソロモン海戦]]で重巡洋艦[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]に空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]所属のSBD1機が体当たりを敢行し摩耶は中破した。重巡洋艦[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]の乗員、黒木新二郎によれば、1944年12月26日、フィリピン防衛戦において対空戦闘中、被弾したアメリカ軍機1機が左舷中央に特攻を仕掛け、激しい火災が生じたという。足柄の乗員は連合国側の特攻と認識し、翌日、数十人の戦死者を[[水葬]]したが、その最後に艦に特攻を仕掛けた敵機パイロット(氏名不詳)を忠勇の軍人として丁重に弔ったという<ref>朝日新聞 2012年6月19日(火曜)付 「声 語りつぐ戦争」内の回想文(逸話)を一部参考。</ref>。
被弾して生還の望みが薄い場合、特攻によって死に花を飾るという考えはしばしばアメリカ人の間でも見られる
<ref>[http://www.nuis.ac.jp/~hadley/publication/b-29-kamakura/Terror-on-High-jpn.pdf 上空からの恐怖 B-29 搭乗員からみた戦争と捕虜についての大局観] 2017年 B-29国際研究セミナー 2017年4月12日閲覧</ref>。日本の特攻との明確な違いは、「初めから生還の望みがあるか、無いか」である。
 
===イギリス軍 ===
イギリス海軍が[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]の戦艦である[[ティルピッツ (戦艦)|ティルピッツ]]を撃沈するため、[[1942年]]にチャリオット人間魚雷による攻撃を実行しようとしていたが、事故で失われたために実行されなかった。また、1943年9月末に有人の小型潜行艇2隻がティルピッツに肉迫攻撃をかけるために、火薬を積んで突入してきた。これも生還を期さない特攻に近いものがあったとされるが、この場合は日本海軍の「回天」と違い隊員の命を確実に奪うというものではなかった。
 
しかし、ハイリスクの攻撃であったことは確かであり、船底に2,000kg爆弾を据え付けて、ティルピッツに深手を負わせることには成功したものの、イギリス海軍は二度とこの作戦を採ることはなかった。
 
== 年表 ==
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*1944年11月24日、B-29による東京初空襲。陸軍、震天制空隊[[第10飛行師団 (日本軍)|第10飛行師団]]第47戦隊見田義雄伍長、B-29[[ラッキー・アイリッシュ]]号に体当たりによる空中特攻。ラッキー・アイリッシュ号撃墜。初の組織的空中特攻。
*1944年11月26日、義号作戦。ブラウエン飛行場に“薫空挺隊”降下。戦果未確認。初の空挺特攻。
*1945年1月9日、リンガエン湾にて陸軍海上挺身隊第12戦隊(戦隊長:高橋攻大尉)40隻(一説には70隻)が米上陸部隊に対してマルレ、震洋による挺身攻撃。戦車揚陸艇など撃沈6隻、撃破10隻の戦果を挙げる。
*1945年1月12日、在フィリピン陸軍航空部隊、最後の特攻出撃。
*1945年1月25日、在フィリピン海軍航空部隊、最後の特攻出撃。
1,498 ⟶ 1,688行目:
*1945年6月23日、沖縄での組織的戦闘が終結。以後、兵力、機材、燃料の枯渇及び本土決戦のための兵力温存のため散発的な特攻攻撃となる。
*1945年7月1日、第180振武隊が都城より出撃し、陸軍の沖縄航空特攻終わる。
*1945年7月28日、宮古島より出撃した神風特攻第三龍虎隊が駆逐艦キャラハンを撃沈(他にも駆逐艦プリチェット、カシンヤング損傷)、特攻によるアメリカ軍最後の撃沈艦となった。
*1945年8月13日、[[喜界島]]から海軍第2神雷爆戦隊2機が沖縄の連合軍艦船群に突入、攻撃輸送艦ラグランジを大破、戦死21名負傷89名、特攻によるアメリカ軍最後の損傷艦、沖縄への航空特攻が終結する。
*1945年8月15日、
**木更津から[[流星 (航空機)|流星]]1、百里原から彗星8が特攻出撃。最後の組織的特攻となった。
**正午に玉音放送があり終戦する。
**午後(夕刻)、[[宇垣纒]]海軍中将、計11機を指揮して大分基地から沖縄に特攻出撃。8機突入、戦果無し<ref group="注">この攻撃は玉音放送後の戦闘行動として、特攻扱いにはならず、また戦死扱いにもなっていない。</ref><ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1990|ppp={{要ページ番号|date=2016年12月}}72}}</ref>。
*1945年8月18日、[[占守島の戦い|占守島に侵攻]]してきたソ連艦艇に北千島の陸海軍航空部隊が特攻出撃、掃海艇1隻を撃沈、特攻による連合軍最後の損害となった。[[ウラジオストク]]に停泊中のソ連軍艦艇にも攻撃したが、対空砲火に阻まれ戦果なし。
*1945年8月19日、神州不滅特別攻撃隊、大虎山飛行場から谷藤徹夫少尉ら合計11名が赤峰付近に進駐し来るソ連戦車群に体当り全員自爆を遂げた(詳細は[[#特攻隊員の選抜について]]日本陸軍を参照)。
*1945年8月19日、神州不滅特別攻撃隊、大虎山飛行場から谷藤徹夫少尉ら合計11名が赤峰付近に進駐し来るソ連戦車群に体当り全員自爆を遂げた。
 
== 史跡 ==
[[ファイル:Chiran Peace Museum04.jpg|thumb|right|200px|[[知覧特攻平和会館]]特攻勇士の像]]
日本国内の基地より多くの特攻機が出撃したこともあり、国内に特攻関連の施設・遺構・慰霊碑などが多く存在している。また特攻の基地があった土地や攻撃目標となった艦艇等に関連した国外の施設等がある。特攻指導者の寺岡謹平や菅原道大は特攻平和観音奉賛会を設立し、菅原の三男・道煕は特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会理事長を務めている。この他、特攻部隊の発進基地として[[秘匿飛行場]]が全国で整備されており、戦争遺跡として注目されるようになってきた
 
;国内
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* 岩垂荘二 『50年前日本空軍が創った機能性食品』 光琳社 ISBN 4771292035
* {{Cite book |和書 |author=[[岩井務]] |year=2001 |title=空母零戦隊 |publisher=文藝春秋 |series=文春文庫 |isbn=4167656248 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[猪口力平]] |author2=[[中島正]] |year=1951 |title=神風特別攻撃隊 |publisher=日本出版協同 |asin=B000JBADFW|ref={{SfnRef|猪口|中島|1951}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[猪口力平]] |author2=[[中島正]] |year=1967 |title=神風特別攻撃隊 |publisher=河出書房 |asin=B000JA7KI6|ref={{SfnRef|猪口|中島|1967}}}}
**:1951年刊『神風特別攻撃隊』の再版
* {{Cite book |和書 |author=ウィリアム・マンチェスター |others=鈴木主税、高山圭(訳) |year=1985 |title=ダグラス・マッカーサー |volume=下 |publisher=河出書房新社 |isbn=4309221165 |ref={{SfnRef|マンチェスター|1985}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[宇垣纏]] |year=1953 |title=戦藻録 |volume=後編 |publisher=日本出版協同 |asin=B000JBADFW |ref=harv}}
1,566 ⟶ 1,760行目:
* {{Cite book |和書 |author=NHK「戦争証言」プロジェクト |year=2009 |title=証言記録 兵士たちの戦争 |volume=3 |publisher=[[NHK出版]] |isbn=978-4140813447 |ref={{SfnRef|証言記録3|2009}} }}
* {{Cite book |和書 |author=NHK「戦争証言」プロジェクト |year=2011 |title=証言記録 兵士たちの戦争 |volume=6 |publisher=NHK出版 |isbn=978-4140813478 |ref={{SfnRef|証言記録6|2011}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[大井篤]] |year=2001 |title=海上護衛戦 |publisher=[[学研プラス|学習研究社]] |isbn=978-4059010401 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[大島隆之]] |year=2016|title=特攻 なぜ拡大したのか|publisher=[[幻冬舎]]|isbn=978-4344029699|ref={{SfnRef|大島隆之|2016}} }}
* {{Cite book |和書 |author=大貫健一郎 |author2=渡辺考 |year=2009 |title=特攻隊振武寮 証言・帰還兵は地獄を見た |publisher=講談社 |isbn=978-4062155168 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=小沢郁郎 |year=1978 |title=特攻隊論 つらい真実 |publisher=たいまつ社 |series=たいまつ新書 |ref=harv}}
** {{Cite book |和書 |author=小沢郁郎 |year=1983 |title=つらい真実 虚構の特攻隊神話 |publisher=同成社 |isbn=4886210147 |ref=harv}}
**: 『特攻隊論』の改題第2版
* {{Cite book |和書 |author=[[押尾一彦]] |year=2005 |title=特別攻撃隊の記録 陸軍編 |publisher=光人社|isbn=978-4769812272 |ref={{SfnRef|押尾一彦|2005}} }}
* {{Cite book |和書 |author=海軍飛行科予備学生・生徒史刊行会 |year=1988 |title=海軍飛行科予備学生・生徒史 |publisher=海軍飛行科予備学生・生徒史刊行会 |ref={{SfnRef|予備学生・生徒史|1988}} }}
* 海軍飛行予備学生第十四期会 編『あゝ同期の桜 <small>かえらざる青春の手記</small>』 光人社 ISBN 4769807139
* {{Cite book |和書 |author=加藤浩 |year=2009 |title=神雷部隊始末記 人間爆弾「桜花」特攻全記録 |publisher=[[学研プラス|学研パブリッシング]] |isbn=4054042023 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[門田隆将]] |year=2011 |title=太平洋戦争 最後の証言 第一部 零戦・特攻編|publisher=小学館|isbn=978-4093798235 |ref={{SfnRef|門田隆将|2011}} }}
* {{Cite book |和書 |author=金子敏夫 |year=2001 |title=神風特攻の記録 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=476980993X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=河田宏 |year=2005 |title=内なる祖国へ ある朝鮮人学徒兵の死 |publisher=[[原書房]] |isbn=978-4-562-03873-2 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[北影雄幸]] |year=2005 |title=特攻の本 これだけは読んでおきたい |publisher=光人社 |isbn=476981271X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |editor=[[学研ホールディングス|学習研究社]] 編 |year=2010 |title=決定版 太平洋戦争⑧「一億総特攻」~「本土決戦」への道 (歴史群像シリーズ) 完本・太平洋戦争 |publisher=学研パブリッシング |isbn=978-4056060577 |ref={{SfnRef|太平洋戦争⑧|2010}} }}
* {{Citation|last=草鹿|first=龍之介| year = 1979 | title = 連合艦隊参謀長の回想 | publisher = 光和堂}}
*: 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』、および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになった米軍側の情報などは敢えて訂正していないと言う(p.18)。
1,588 ⟶ 1,786行目:
* {{Cite book |和書 |author=神立尚紀 |year=2011b |title=零戦最後の証言 |volume=2 (大空に戦ったゼロファイターたちの風貌) |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=9784769826798 |ref=harv}}
* 坂井三郎 『零戦の真実』 講談社 ISBN 4062561522
* {{Cite book |和書 |author=佐藤早苗 |year=2007 |title=特攻の町・知覧 <small>最前線基地を彩った日本人の生と死</small> |publisher=光人社 ISBN|series=光人社NF文庫 |isbn=4769808291 |ref={{SfnRef|佐藤早苗|2007}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[佐藤哲彦]] |year=2006 |title=覚醒剤の社会史 ドラッグ・ディスコース・統治技術 |publisher=[[東信堂]] |isbn=4887136714 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[サミュエル・モリソン|サミュエル・E・モリソン]] |others=[[大谷内一夫]](訳)|year=2003 |title=モリソンの太平洋海戦史 |publisher=光人社 |isbn=4769810989 |ref={{SfnRef|モリソン|2003}} }}
1,594 ⟶ 1,792行目:
* {{Cite book |和書 |author=ジェフリー・ペレット |others=林義勝、寺澤由紀子、金澤宏明、武井望、藤田怜史(訳) |year=2016 |title=老兵は死なず ダグラス・マッカーサーの生涯。 |publisher=[[鳥影社]] |isbn=978-4862655288 |ref={{SfnRef|ペレット|2016}} }}
* {{Cite book |和書 |author=ジョージ・ファイファー |others=[[小城正]](訳) |year=1995 |title=天王山 沖縄戦と原子爆弾 |volume=上 |publisher=早川書房 |isbn=4152079207 |ref={{SfnRef|ファイファー|1995}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[ジョン・トーランド]] |others=[[毎日新聞社]](訳) |year=2015 |title=大日本帝国の興亡〔新版〕4:神風吹かず |publisher=早川書房 |isbn=978-4150504373 |ref={{SfnRef|トーランド|2015}} }}
* {{Cite book |和書 |author=菅原完 |year=2015 |title=知られざる太平洋戦争秘話 無名戦士たちの隠された史実を探る |publisher=潮書房光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769828829 |ref=harv}}
* 鈴木勘次『特攻からの生還 <small>知られざる特攻隊員の記録</small>』 光人社 ISBN 4769812337
1,599 ⟶ 1,798行目:
* {{Cite book |和書 |author=零戦搭乗員会 |year=2016 |title=零戦、かく戦えり! 搭乗員たちの証言集 |publisher=文藝春秋 |series=文春文庫 |isbn=978-4167907617 |ref=harv}}<!-- (「文春ネスコ 2004年刊の再刊」との注記あり。文春ネスコのほうが出典?) -->
* {{Cite book |和書 |author=[[太佐順]] |year=2001 |title=本土決戦の真実 米軍九州上陸作戦と志布志湾 |publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]] |series=学研M文庫 |isbn=4059010855 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=太佐順 |year=2011 |title=「最後の特攻隊」の真相 消された偵察機「彩雲」 |publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]] |isbn=978-4054049918 |ref={{SfnRef|太佐順|2011}}}}
* [[高木俊朗]]『陸軍特別攻撃隊』 1~3 文藝春秋 文春文庫 1 ISBN 4167151049、2 ISBN 4167151057、3 ISBN 4167151065
* 高木俊朗『特攻基地知覧』 角川書店 角川文庫 ISBN 4041345014
* {{Cite journal |和書 |author=多田智彦 |title=エセックス級のメカニズム(特集 米空母エセックス級)|year=2012 |journal=[[世界の艦船]] |issue=761 |publisher=[[海人社]] |naid=40019305383 |ref={{SfnRef|多田智彦|2012}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[ダグラス・マッカーサー]] |others=津島一夫(訳) |year=2014 |title=マッカーサー大戦回顧録 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4122059771 |ref={{SfnRef|マッカーサー|2014}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[千早正隆]]ほか |year=1994 |title=日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓 |publisher=[[プレジデント社]] |isbn=4833415305 |ref={{SfnRef|千早ほか|1994}} }}
* {{Cite book |和書 |author=千早正隆 |year=1997 |title=日本海軍の驕り症候群 |volume=下 |publisher=中央公論社 |series=中公文庫 |isbn=4122029937 |ref=harv}}
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* {{Cite book |和書 |author=冨永謙吾 |author2=安延多計夫 |year=1972 |title=神風特攻隊 壮烈な体あたり作戦 |publisher=秋田書店 |asin=B000JBQ7K2 |ref={{SfnRef|冨永|安延|1972}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[豊田穣]] |year=1988 |title=マレー沖海戦 |publisher=集英社 |series=集英社文庫 |isbn=4-08-749362-8 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[豊田穣]] |year=1980 |title=海軍特別攻撃隊 特攻戦記 |publisher=集英社 |series=集英社文庫 |asin=B00LG93LIM |ref={{SfnRef|豊田穣|1980}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[豊田正義]] |year=2015 |title=妻と飛んだ特攻兵 8・19満州、最後の特攻 |publisher=[[KADOKAWA]] |series=[[角川文庫]] |isbn=404102756X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[鳥濱トメ]](述) |author2=朝日新聞西部本社 編 |year=1990 |title=空のかなたに 出撃・知覧飛行場 特攻おばさんの回想 |publisher=[[葦書房]] |isbn=475120291X |ref={{SfnRef|鳥濱トメ|1990}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[土門周平]] |year=2015 |title=本土決戦―幻の防衛作戦と米軍進攻計画 |publisher=潮書房光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4769829096|ref={{SfnRef|土門周平|2015}} }}
* {{Cite book |和書 |author=トーマス・B・ブュエル |others=小城正(訳) |year=2000 |title=提督スプルーアンス |publisher=学習研究社 |series=WW selection |isbn=4-05-401144-6 |ref={{SfnRef|ブュエル|2000}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[内藤初穂]] |year=1999 |title=桜花―極限の特攻機 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4122033795 |ref={{SfnRef|内藤初穂|1999}} }}
* {{Cite book |和書 |author=永末千里 |year=2002 |title=白菊特攻隊 還らざる若鷲たちへの鎮魂譜 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4-7698-2363-0 |ref=harv}}
* 長嶺五郎『二式大艇空戦記 海軍八〇一空搭乗員の死闘』光人社NF文庫 ISBN 4769822154
1,636 ⟶ 1,840行目:
* {{Cite book |和書 |author=秦郁彦 |year=1999b |title=昭和史の謎を追う |volume=下 |publisher=文藝春秋 |series=文春文庫 |isbn=4167453053 |ref={{SfnRef|秦郁彦|1999b}} }}
* {{Cite book|和書|author=[[林えいだい]]|year=2009|title=重爆特攻「さくら弾」機 日本陸軍の幻の航空作戦 |publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2608-8|ref=重爆特攻}}
* {{Cite book|和書|author=[[林えいだい]]|year=2009|title=陸軍特攻振武寮―生還した特攻隊員の収容施設 |publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4769826279|ref=陸軍特攻振武寮}}
* {{Cite book |和書 |author=[[原勝洋]] |year=2004 |title=真相・カミカゼ特攻 必死必中の300日 |publisher=[[ベストセラーズ]] |isbn=4584187991 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=原勝洋 |year=2006 |title=写真が語る「特攻」伝説 航空特攻、水中特攻、大和特攻 |publisher=ベストセラーズ |isbn=9784584189795 |ref=harv}}
1,661 ⟶ 1,866行目:
* [[保阪正康]]『「特攻」と日本人』 講談社現代新書 講談社 ISBN 4061497979
* 保阪正康『『きけわだつみのこえ』の戦後史』 文春文庫 文藝春秋 ISBN 4167494051
* {{Cite book |和書 |author=[[堀越二郎]] |year=1984 |title=零戦 その誕生と栄光の記録 |publisher=[[講談社]]光人社|asin=B00E3MZYJS |ref={{SfnRef|堀越二郎|1984}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=「[[丸 (雑誌)|丸]]」編集部 編 |year=2010 |title=最強戦闘機紫電改 甦る海鷲 |publisher=光人社 |isbn=978-4769814566 |ref={{Sfn|最強戦闘機紫電改|2010}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=「[[丸 (雑誌)|丸]]」編集部 編 |year=2011 |title=特攻の記録 「十死零生」非情の作戦 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4-7698-2675-0 |ref={{SfnRef|特攻の記録|2011}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=「[[丸 (雑誌)|丸]]」編集部 編 |year=1986 |title=丸スペシャル 神風特別攻撃隊 |publisher=光人社 |asin=B01LPE81SM |ref={{Sfn|丸スペシャル 神風特別攻撃隊|1986}} }}
* {{Cite book |和書 |author=マクスウェル・テイラー・ケネディ |others=中村有以(訳) |year=2010 |title=『特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ |publisher=ハート出版 |isbn=978-4-89295-651-5 |ref={{SfnRef|ケネディ|2010}} }}
* {{Cite book |和書 |author=三浦耕喜 |year=2009 |title=ヒトラーの特攻隊 歴史に埋もれたドイツの「カミカゼ」たち |publisher=[[作品社]] |isbn=978-4861822247 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[宮崎勇 (軍人)|宮崎勇]] |others=鴻農周策(補稿) |year=2006 |title=還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769824866 |ref={{SfnRef|宮崎|鴻農|2006}} }}
* {{Cite book|和書|author=[[宮本雅史]]|title=「特攻」と遺族の戦後 |publisher=角川書店|date=2005|isbn=4048839136 ISBN|ref={{SfnRef|宮本雅史|2005}} 4048839136}}
* {{Cite book |和書 |author=[[モーリス・パンゲ]] |others=[[竹内信夫]](訳) |year=2011 |title=自死の日本史 |publisher=講談社 |series=談社学術文庫 2054 |isbn=4062920549 |ref={{SfnRef|パンゲ|2011}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[森史朗]] |year=2006 |title=特攻とは何か |publisher=文藝春秋 |series=文春新書 |isbn=4166605151 |ref=harv}}
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* ラッセル・グレンフェル著 田中啓眞訳『プリンス オブ ウエルスの最期 主力艦隊シンガポールへ 日本勝利の記録』 錦正社 ISBN 4764603268
* {{Cite book |和書 |author=[[柳田邦男]](責任編集) |year=1993 |title=同時代ノンフィクション選集 |volume=第7巻(戦死と自死と) |publisher=[[文藝春秋]] |page=330 |isbn=4165112704 |ref={{SfnRef|柳田国男|1993}} }}
* {{Cite book|和書|author=[[八原博通]]|title=沖縄決戦 高級参謀の手記|publisher=読売新聞社・中公文庫|date=1972・2015|ref={{SfnRef|八原博通|1972・2015}} }}
* {{Cite book|和書|author=[[横田 寛]]|title=ああ回天特攻隊―かえらざる青春の記録 |publisher=光人社|date=1994|isbn=978-4769820666 |ref={{SfnRef|横田 寛|1995}} }}
* {{Cite book |和書 |author=ラッセル・スパー |others=[[左近允尚敏]](訳) |year=1987 |title=戦艦大和の運命 英国人ジャーナリストのみた日本海軍 |publisher=新潮社 |isbn=4105198017 |ref={{SfnRef|スパー|1987}} }}
* ロバート・C・ミケシュ「破壊された日本機」三樹書房
* {{Cite book |和書 |author=リチャード オネール |others=[[益田 善雄]](訳) |year=1988 |title=特別攻撃隊―神風SUICIDE SQUADS |publisher=霞出版社 |isbn=978-4876022045 |ref={{SfnRef|オネール|1988}} }}
* {{Cite book |和書 |author=渡辺大助 |year=2005 |title=特攻絶望の海に出撃せよ |publisher=[[新人物往来社]] |isbn=4404032765 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=渡辺洋二 |year=1999 |title=重い飛行機雲 太平洋戦争日本空軍秘話 |publisher=文藝春秋 |series=文春文庫 |isbn=4167249081 |ref=harv}}
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* {{Cite book |和書 |author=E.B.ポッター |others=南郷洋一郎(訳) |year=1979 |title=提督ニミッツ |publisher=フジ出版社 |asin=B000J8HSSK |ref={{SfnRef|ポッター|1979}} }}
* {{Cite book |和書 |author=E.B.ポッター |others=秋山信雄(訳) |year=1991 |title=キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史 |Publishing=光人社 |isbn=4-7698-0576-4 |ref={{SfnRef|ポッター|1991}} }}
* {{Cite book |和書 |author=J.ハーシー |others=西村建二(訳) |year=1994 |title=最前線の戦闘―米軍兵士の太平洋戦争 |Publishing=中央公論社 |isbn=978-4120023873 |ref={{SfnRef|ハーシー|1994}} }}
;洋書
* {{Cite book |last=Alexander |first=Joseph H. |year=1996 |title=The Final Campaign: Marines in the Victory on Okinawa |publisher=Diane Pub Co |isbn=0788135287 |ref=harv}}
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* [[太平洋戦争の年表]]
* [[第二次世界大戦]] - [[太平洋戦争]]
* [[捷号作戦]]
* [[レイテ沖海戦]]
* [[沖縄戦]]
* [[アメリカ海軍艦艇一覧]]
* [[神風特別攻撃隊]]
* [[特攻兵器]]
* [[大西瀧治郎]]
* [[菅原道大]]
* [[関行男]]
* [[久納好孚]]
* [[富永恭次]]
* [[角田和男]]
* [[知覧特攻平和会館]]
* [[イントレピッド海上航空宇宙博物館]]
* [[テンニンギク]](特攻花)
 
== 外部リンク ==
* [http://www.tokkotai.or.jp/ (財)特攻隊戦没者慰霊平和記念協会]
* [http://www.kamikazeimages.net/ Kamikaze Images]{{en icon}}
* [http://navweaps.com/index_tech/tech-042.htm Kamikaze Damage to US and British Carriers]
* [http://www.navsource.org/archives/03/061.htm NavSource Online]
 
{{DANFS}}