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{{出典の明記|date=2015年4月19日 (日) 00:49 (UTC)|ソートキー=人1820年没}}
{{基礎情報 君主
| 人名 = ジョージ3世
| 各国語表記 = {{lang|en|George III}}
| 君主号 = [[イギリス君主一覧|イギリス国王]]
| 画像 = Allan Ramsay - King George III in Coronationcoronation robes - Google Art RobesProject.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = 戴冠式の肖像画、{{仮リンク|アラン・ラムゼー (画家)|en|Allan Ramsay (artist)|label=アラン・ラムゼー}}作、1762年。
| 画像説明 =
| 在位 = グレートブリテン王:[[1760年]][[10月25日]] - [[1800年]][[12月31日]]<br />連合王国国王:[[1801年]][[1月1日]] - [[1820年]][[1月29日]]
| 戴冠日 = [[1761年]][[9月22日]]
| 別号 = [[アイルランド王国|アイルランド国王]]<br />[[ハノーファー君主一覧|ハノーファー選帝侯]]<br />[[ハノーファー君主一覧|ハノーファー国王]]
| 全名 = ジョージ・ウィリアム・フレデリック<br />{{lang|en|George William Frederick}}
| 出生日 = [[1738年]][[6月4日]]
| 生地 = {{GBR1606}} {{ENG}}、[[ロンドン]]、[[{{仮リンク|ノーフォーク・ハウス]]|en|Norfolk House}}
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1738|6|4|1820|1|29}}
| 没地 = {{GBR3}} {{ENG}}、[[バークシャー]]、[[ウィンザー城]]
| 埋葬日 = 1820年[[2月15日]]
| 埋葬地 = {{GBR3}} {{ENG}}、バークシャー、ウィンザー城、[[:{{仮リンク|セント・ジョージ礼拝堂 (ウィンザー城)|en:|St George's Chapel|label=セント・ジョージ礼拝堂]]}}
| 配偶者1 = [[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ]]
| 子女 = {{Collapsible list|title=一覧参照|[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]<br />[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|フレデリック]]<br />[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]<br />[[シャーロット (ヴュルテンベルク王妃)|シャーロット]]<br />[[エドワード・オーガスタス (ケント公)|エドワード]]<br />[[オーガスタ・ソフィア・オブ・ザ・ユナイテッド・キングダム|オーガスタ]]<br />[[エリーザベト・フォン・グロスブリタンニエン|エリザベス]]<br />[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|アーネスト]]<br />[[オーガスタス・フレデリック (サセックス公)|オーガスタス]]<br />[[アドルファス (ケンブリッジ公)|アドルファス]]<br />[[メアリー (グロスター=エディンバラ公爵夫人)|メアリー]]<br />[[ソフィア・オブ・ジ・ユナイテッド・キングダム|ソフィア]]<br />{{仮リンク|オクタヴィアス・オブ・グレートブリテン|en|Prince Octavius of Great Britain|label=オクタヴィアス}}<br />{{仮リンク|アルフレッド・オブ・グレートブリテン|en|Prince Alfred of Great Britain|label=アルフレッド}}<br />[[アミーリア・オブ・ジ・ユナイテッド・キングダム|アミーリア]]}}
| 王家 = [[ハノーヴァー家]]
| 王朝 = [[ハノーヴァー朝]]
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| 父親 = [[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]
| 母親 = [[オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ]]
| 宗教 =
| サイン = George III Signature.svg
}}
[[画像ファイル:The king of Brobdingnag and Gulliver.jpg|250px|thumb|手の上に乗っているナポレオンを凝視するジョージ3世]]
'''ジョージ3世'''({{Lang-en|George III}}、[[1738年]][[6月4日]] – [[1820年]][[1月29日]])は、[[イギリス]]・[[ハノーヴァー朝|ハノーヴァー家]]第3代目の[[グレートブリテン王国|グレートブリテン]]国王兼[[アイルランド王国|アイルランド]]国王(即位:[[1760年]][[10月25日]])であり、1801年1月1日に[[合同法 (1800年)|両国が合同]]して以降は[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]]国王。また同時に[[神聖ローマ帝国]]の[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー]][[選帝侯]]でもあり、[[1814年]][[10月12日]]以後は[[ハノーファー君主一覧|ハノーファー王]]'''ゲオルク3世''' ({{de|Georg III}})に昇格した。ハノーヴァー家の国王だったが、前任者2人と違ってイギリス生まれで[[母語]]は[[英語]]であり<ref name="rh">{{cite web|publisher=Royal Household|accessdate=18 April 2016|title=George III|work=Official website of the British monarchy|url=https://www.royal.uk/george-iii-r-1760-1820}}</ref>、ハノーファーへは一度も訪れなかった<ref>Brooke, p. 314; Fraser, p. 277</ref>。
 
ジョージ3世の寿命と治世の長さはそれまでの全てのイギリス王よりも長く、ヨーロッパからアフリカ、アメリカ、アジアまで広がった多くの軍事紛争に彩られた。治世初期にはグレートブリテン王国が[[七年戦争]]でフランスに勝利、北米とインドにおけるヨーロッパ諸国の勢力の間で支配的な勢力となった。しかし、[[アメリカ独立戦争]]では敗北してアメリカの多くの植民地を失った。1793年からは[[フランス革命|革命時期]]と[[フランス第一帝政|ナポレオンの帝政時期]]のフランスとの戦争に突入、1815年の[[ワーテルローの戦い]]まで続いた。
'''ジョージ3世'''({{Lang-en|George III}}, [[1738年]][[6月4日]] – [[1820年]][[1月29日]])は、[[イギリス]]・[[ハノーヴァー朝|ハノーヴァー家]]第3代目の[[グレートブリテン王国|グレートブリテン]]国王兼[[アイルランド王国|アイルランド]]国王(即位:[[1760年]][[10月25日]] )であり、1801年1月1日に両国が合同して以降は[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]]国王。また、[[ハノーファー王国|ハノーファー]][[選帝侯]]、[[1814年]]以後は[[ハノーファー君主一覧|ハノーファー王]]'''ゲオルク3世''' ({{de|Georg III}})を兼ねた。父は[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]([[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の長男)。母は[[ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国|ザクセン=ゴータ=アルテンブルク]]公[[フリードリヒ2世 (ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公)|フリードリヒ2世]]の娘[[オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ|オーガスタ]]。妃は[[メクレンブルク=シュトレーリッツ]]公子カール・ルートヴィヒの娘[[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ|シャーロット]]。別名「'''農夫王'''」({{en|Farmer King}})、「'''農夫ジョージ'''」({{en|Farmer George}})。
 
治世後期は[[精神障害|精神疾患]]に繰り返し悩まされた。[[ポルフィリン症]]を患っていたとされたが、病気の原因は不明のままである。1810年に病気が再発、回復の兆しもなかったため[[摂政時代|摂政]]が任命され、長男の[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ王太子]]が[[摂政王太子]]として統治した。ジョージ3世が死去すると、摂政王太子はジョージ4世として王位を継承した。
天文学者の[[ウィリアム・ハーシェル]]等を支持する。[[アメリカ合衆国|アメリカ植民地]]への課税がきっかけで[[アメリカ独立戦争]]を招き、[[北アメリカ]]の領土を失った。自分の課した重税問題や身内のスキャンダルに苦悩した上に、[[1811年]]には[[認知症]]となり、以後[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]で生活、長男の王太子[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]が[[摂政皇太子|摂政]]として政務を執った。在位60年は昆孫の現女王[[エリザベス2世]]の65年(2017年2月6日現在更新中)、孫娘にあたる[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の63年215日に次ぐ歴代第3位である。
 
ジョージ3世の一生に関する史的分析において、様々な意見が[[万華鏡]]のように様変わりした。これは伝記作家が入手できる史料、そして彼ら自身の偏見に起因する<ref>Butterfield, p. 9</ref>。20世紀の後半に再評価されるまで、アメリカにおけるジョージ3世の評価は暴君そのものであったが、イギリスにおいては「[[帝国主義]]の失敗のスケープゴート」になった<ref>Brooke, p. 269</ref>。
== 生涯 ==
=== 即位まで===
ジョージ・ウィリアム・フレデリック、後のジョージ3世は、ジョージ2世の長男フレデリック・ルイス王太子とその妃オーガスタの長男として生まれた。母オーガスタが出産前日の6月3日、夫と[[ロンドン]]の[[セント・ジェームズ公園]]を散歩中、急に産気づき、そのまま出産した子である。しかも予定日より3ヶ月も早いという異常な[[早産]]であった。後に国王になってからたびたび現れた精神障害の遠因を、この早産にあるとする説もある。[[1751年]]、13歳の時に父フレデリック・ルイスが薨御したため、同年[[プリンス・オブ・ウェールズ]]となる。プリンス・オブ・ウェールズとなってからは、母オーガスタの影響力が強まり、教育の面でも息子をドイツ風の「強い君主」にして、専制政治を実現させるべく教育を行っていった。
 
=== 治世幼年期 ===
[[ファイル:Francis Ayscough with the Prince of Wales (later King George III) and Edward Augustus, Duke of York and Albany by Richard Wilson.jpg|thumb|left|ジョージ(右)と弟[[エドワード・オーガスタス (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク・オールバニ公エドワード]]、そして家庭教師の{{仮リンク|フランシス・エイスコー|en|Francis Ayscough}}、後に{{仮リンク|ブリストル大聖堂|en|Bristol Cathedral}}の{{仮リンク|首席司祭|en|Dean (Christianity)}}、1749年頃]]
1760年に祖父ジョージ2世の崩御を受けジョージ3世が即位する。祖父や曽祖父の[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]が[[ドイツ]]生まれで、[[英語]]をほとんど理解できなかったのとは違い、生粋の[[イギリス人]]であった。このため、前2代の王達とは違い、積極的に内政、外交への介入を行った([[ヘンリー・シンジョン (初代ボリングブルック子爵)|ボリングブルック]]の『愛国王の理念』の影響を受けたとされる)。[[1783年]]に[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]](小ピット)を首相とするが、小ピットは[[アダム・スミス]]の学説を取り入れ、[[自由貿易]]といった政策を実行していき、その政治手腕によって今日の[[イギリス首相]]の地位を確立することに成功した。また、これまで政治の実権を握っていた[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]勢力を退潮させた。
ジョージはロンドンの{{仮リンク|ノーフォーク・ハウス|en|Norfolk House}}で生まれた。彼は[[プリンス・オブ・ウェールズ]]の[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]と[[オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ]]の長男で、国王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の孫であった。正期より2か月早い[[早産]]であり、夭折すると考えられたため、同日に{{仮リンク|セント・ジェームズ教会 (ピカデリー)|en|St James's Church, Piccadilly|label=セント・ジェームズ教会}}の牧師兼{{仮リンク|オックスフォード主教|en|Bishop of Oxford}}の{{仮リンク|トマス・セッカー|en|Thomas Secker}}により洗礼がなされた<ref>Hibbert, p. 8</ref>。1か月後にはノーフォーク・ハウスで公開洗礼がセッカーによって(再び)行われた。名親はスウェーデン王[[フレドリク1世 (スウェーデン王)|フレドリク1世]]({{仮リンク|チャールズ・カルバート (第5代ボルティモア男爵)|en|Charles Calvert, 5th Baron Baltimore|label=ボルティモア男爵}}が代理を務めた)、[[ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公]]{{仮リンク|フリードリヒ3世 (ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公)|en|Frederick III, Duke of Saxe-Gotha-Altenburg|label=フリードリヒ3世}}([[ヘンリー・ブリッジス (第2代シャンドス公爵)|カーナーヴォン侯爵]]が代理を務めた)、大叔母[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー]]([[ジェイムズ・ハミルトン (第4代ハミルトン公爵)|第4代ハミルトン公爵]]の娘シャーロット・エドウィンが代理を務めた)が務めた<ref>{{London Gazette|issue=7712|date=20 June 1738|startpage=2}}</ref>。
 
ジョージは健康だったが、控えめで内気な子供に成長した。一家は[[レスター・スクウェア]]へ移住、ジョージは弟の[[エドワード・オーガスタス (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク・オールバニ公エドワード]]とともに家庭教師から教育を受けた。家族の手紙によると、ジョージは8歳には[[英語]]と[[ドイツ語]]で読み書きでき、当時の政治事件にコメントすることができた<ref>Brooke, pp. 23–41</ref>。彼は科学を系統的に勉強した初のイギリス国王であった。科学と物理学のほか、天文学、数学、[[フランス語]]、[[ラテン語]]、歴史、音楽、地理、商業、農業、憲法を学び、またダンス、[[フェンシング]]、乗馬などの体育と社交活動も行った。宗教に関する教育は[[イングランド国教会]]のそれであった<ref>Brooke, pp. 42–44, 55</ref>。10歳のとき、ジョージは家族とともに[[ジョゼフ・アディソン]]の『{{仮リンク|カトー (悲劇)|en|Cato, a Tragedy|label=カトー}}』を演じ、「なんという男の子でしょう!本当に''イングランド''生まれ、イングランド育ちな男の子だ」({{lang|en|What, tho' a boy! It may with truth be said, A boy in ''England'' born, in England bred}}<ref name="dnb" />)というセリフを言った。歴史家の{{仮リンク|ロムニー・セッジウィック|en|Romney Sedgwick}}はこの台詞がジョージに「関連付けられる唯一のフレーズのソースである」とした<ref>Sedgwick, pp. ix–x</ref>。
ジョージ3世は王室費を節約し、浮いた資金で数多くの議員を買収し、「'''王の友'''」({{en|King’s Friends}}) と呼ばれたそれらの議員を使って政策を実行していった。外交では先代ジョージ2世の時代から続くヨーロッパ諸国間の争いに加えて、[[アメリカ独立戦争]]や、[[フランス革命]]とそれに続く[[ナポレオン戦争]]といった難局に直面するも、乗り切ることに成功している。
 
ジョージの祖父である国王ジョージ2世はプリンス・オブ・ウェールズのフレデリック・ルイスを嫌い、孫であるジョージに興味を持たなかった。しかし、1751年にフレデリック・ルイスが肺の怪我で急死すると、ジョージが王位の[[推定相続人]]になった。彼は父の称号の1つである[[エディンバラ公]]位を相続した。ジョージ2世は孫に興味を持ちはじめ、3週間後にはジョージを[[プリンス・オブ・ウェールズ]]に叙した<ref>Hibbert, pp. 3–15</ref>。
また、ジョージ3世の時代は[[産業革命]]の時期であり、[[ジェームズ・ワット]]による[[蒸気機関]]の改良、[[リチャード・アークライト|アークライト]]などの紡績機械の発明、[[ジョージ・スチーブンソン|スチーブンソン]]親子による[[蒸気機関車]]の発明などによって、[[産業]]・[[交通]]が大きな変化を遂げた時代でもある。また、ジョージ3世自身もこうした科学技術の進歩に関心を抱き、出自の低さを理由に当時の政治家や学者達から業績を中傷された[[時計]]技術者の[[ジョン・ハリソン (時計職人)|ジョン・ハリソン]]を擁護して後に正当な評価を与えるきっかけを与えたことでも知られている。この一連の動きでイギリスは「世界の工場」としての地位を確立することになる。
 
[[ファイル:George, Prince of Wales (1738-1820), by Jean-Étienne Liotard.jpg|thumb|left|ジョージ3世(当時[[プリンス・オブ・ウェールズ]])、{{仮リンク|ジャン=エティエンヌ・リオタール|en|Jean-Étienne Liotard}}作、1754年。]]
== 子女 ==
1756年春、ジョージの18歳の誕生日が近づくと、ジョージ2世は[[セント・ジェームズ宮殿]]で盛大な式典を行おうとしたが、ジョージは母とその腹心である[[ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)|ビュート伯爵]](後に[[イギリスの首相|首相]]に就任)の助言を受けて式典を拒否した<ref>Brooke, pp. 51–52; Hibbert, pp. 24–25</ref>。ジョージの母はジョージを家に留まって自らの厳しい道徳観を吹き込もうとした<ref>Bullion, John L. (2004). [http://www.oxforddnb.com/view/article/46829 "Augusta , princess of Wales (1719–1772)"]. ''Oxford Dictionary of National Biography''. Oxford University Press. {{doi|10.1093/ref:odnb/46829}}. Retrieved 17 September 2008 (Subscription required)</ref><ref>Ayling, p. 33</ref>。
[[1761年]][[9月8日]]にジョージ3世は、メクレンブルク=シュトレーリッツ公子カール・ルートヴィヒの娘[[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ|シャーロット]]と結婚した。2人は、[[1762年]][[8月12日]]に生まれた王太子ジョージ・オーガスタス・フレデリック(後の[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]])をはじめ、[[ヨーク公]][[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|フレデリック]]、クラレンス公ウィリアム(後の[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]])、[[ケント公]][[エドワード・オーガスタス (ケント公)|エドワード]]([[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の父)、[[カンバーランド公]]アーネスト(後のハノーファー王[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|エルンスト・アウグスト]])ら9男6女に恵まれた。華美を嫌い、家族を大事にするジョージ3世の性格もあり、女性問題などの夫婦間のトラブルとも無縁であった。
 
== 結婚 ==
しかし子供達は成長するにつれ、そろいもそろってスキャンダルを巻き起こす。特に王太子は、ギャンブルで多額の借金を作ったり、女性にほれ込んで多額の金を貢いで歳費が足りなくなって父親に泣きついたりという問題児であった。更に次男フレデリックは、陸軍の最高司令官であるにもかかわらず愛人を通じて賄賂を受け取っていたことを、議会で指摘されてその地位を失うなど、スキャンダルには事欠かなかった。これらのスキャンダルは、誕生したばかりのメディアの格好の標的となり、王室一家のスキャンダルを扱った新聞や風刺漫画は大いに売れ、その様子を1990年代の一連の王室スキャンダルと比較する専門家もいるほどである。神経が元々繊細であったジョージ3世にとって、息子達の相次ぐスキャンダルは耐え難いものであった。ジョージ3世が度々神経衰弱を起こし、1811年に正気を完全に失ったのも、この子供達のスキャンダルが原因であるとされてきたが、近年の研究では[[ポルフィリン症]]を患っていたのが原因という説が有力になっている。
1759年、ジョージは[[チャールズ・レノックス (第3代リッチモンド公爵)|リッチモンド公爵]]の妹{{仮リンク|サラ・レノックス|en|Lady Sarah Lennox}}に惚れたが、ビュート伯はジョージとサラの結婚に反対、ジョージもそれに従いサラをあきらめた。ジョージは後に「わたしは偉大な国の喜びや苦しみのために生まれた。従ってわたしはしばしば感情に反して行動しなければならない。」と記述した<ref>Ayling, p. 54; Brooke, pp. 71–72</ref>。ジョージ2世はジョージと{{仮リンク|ゾフィー・カロリーネ・マリー・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル|en|Princess Sophie Caroline of Brunswick-Wolfenbüttel}}を結婚させようとしたが、ジョージとその母が反対した<ref>Ayling, pp. 36–37; Brooke, p. 49; Hibbert, p. 31</ref>。結局ゾフィーは[[ブランデンブルク=バイロイト辺境伯]][[フリードリヒ3世 (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)|フリードリヒ3世]]と結婚した<ref>Benjamin, p. 62</ref>。
 
ジョージ2世は77歳の誕生日の目前である1760年10月25日に急死、ジョージがジョージ3世として王位を継承した。そのため、彼の嫁探しが急がれ、翌1761年9月8日には[[セント・ジェームズ宮殿]]の[[チャペル・ロイヤル]]で[[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ]]と結婚した(2人は結婚式の日にはじめて会った){{efn|ジョージ3世がシャーロットと結婚する前の1759年4月17日に[[クエーカー]]の{{仮リンク|ハンナ・ライトフート|en|Hannah Lightfoot}}と結婚し、少なくとも1人の子供をもうけた、と言われることもある。しかし、ライトフートは1753年にアイザック・アックスフォード({{lang|en|Issac Axford}})と結婚しており、ハンナも1759年かそれ以前に死去したので、少なくとも公的に認められる結婚や子供はなかった。「カンバーランドのオリーヴ王女」({{lang|en|Princess Olive of Cumberland}})を僭称した{{仮リンク|オリヴィア・セレス|en|Olivia Serres}}の娘{{仮リンク|ラヴィニア・リーヴズ|en|Lavinia Ryves}}は1866年に裁判にかけられたが、このときの裁判員は一致して、リーヴズが提出した結婚証明書は偽造されたものであると判断した<ref>[http://discovery.nationalarchives.gov.uk/details/r/C5895849 Documents relating to the case]. The National Archives. Retrieved 14 October 2008.</ref>。}}。2週間後の9月22日、2人は[[ウェストミンスター寺院]]で戴冠した。ジョージ3世は祖父と息子たちと違って愛人をかかえず、2人はジョージ3世が精神疾患に悩まされるまで、幸福な結婚生活を送った<ref name="rh" /><ref name="dnb">{{cite journal|first=John|last=Cannon|title=George III (1738–1820)|journal=Oxford Dictionary of National Biography|publisher=Oxford University Press|date=September 2004|url=http://www.oxforddnb.com/view/article/10540|accessdate=29 October 2008}}{{Subscription required}}</ref>。2人は9男6女、計15人の子供に恵まれた。1762年、ジョージ3世は家族の別邸としてバッキンガム・ハウス(現[[バッキンガム宮殿]])を購入した<ref>Ayling, pp. 85–87</ref>。彼はほかにも{{仮リンク|キュー宮殿|en|Kew Palace}}と[[ウィンザー城]]を所有した(セント・ジェームズ宮殿は家族用ではなく公的な仕事に使われた)。ジョージ3世は生涯を通してあまり旅行せず、一生を南イングランドで過ごした。1790年代、ジョージ3世一家は[[ウェイマス (イングランド)|ウェイマス]]で休暇し<ref>Ayling, p. 378; Cannon and Griffiths, p. 518</ref>、これによりウェイマスは海辺のリゾートとして有名になった<ref>Watson, p. 549</ref>。
 
== 治世初期 ==
{{further|{{仮リンク|七年戦争におけるイギリス|en|Great Britain in the Seven Years' War}}}}
ジョージ3世は即位演説で議会に「この国で生まれ、教育を受けたわたしは、イギリスの名を誇りとする」と宣言した<ref>Brooke, p. 612</ref>。彼はイギリスよりハノーファーを優先したと見られた前任者たちから距離を置く決心を示すべく、この宣言を{{仮リンク|フィリップ・ヨーク (初代ハードウィック伯爵)|en|Philip Yorke, 1st Earl of Hardwicke|label=ハードウィック伯爵}}が書いた演説に付け加えた<ref>Brooke, p. 156; Simms and Riotte, p. 58</ref>。
 
ジョージ3世の即位はすべての政党に歓迎されたが{{efn|例えば、[[ホレス・ウォルポール]]は回想録でジョージ3世を批判したが、ジョージ3世が即位して間もなくの頃に書かれたウォルポールの手紙ではジョージ3世を擁護した<ref>Butterfield, pp. 22, 115–117, 129–130</ref>。}}、その治世の初期は[[七年戦争]]に関する対立により政治不安に見舞われた<ref>Hibbert, p. 86; Watson, pp. 67–79</ref>。また、[[トーリー党]]をひいきにしたとみられたため、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]からは独裁君主であると批判された<ref name="rh" />。ジョージ3世が即位した時点では{{仮リンク|王室御料地|en|Crown land}}からの収入が少なく、歳入の大半は税金や物品税で占められた。そのため、ジョージ3世は[[クラウン・エステート]]を議会に譲って、その代わりに王室家政と文民政府の支出のための[[王室費]](年金)支払いを同意させた<ref>{{cite web|url=http://www.thecrownestate.co.uk/who-we-are/our-history/history/|title=Our history|author=The Crown Estate|year=2004|accessdate=4 April 2015}}</ref>。王室費を支持者への賄賂や贈与に使ったとの指摘<ref>{{cite news|author=Kelso, Paul|url=https://www.theguardian.com/uk/2000/mar/06/monarchy.princessmargaret|journal=[[The Guardian]]|title=The royal family and the public purse|date=6 March 2000|accessdate=4 April 2015}}</ref>は歴史家からは「不満げな人々からの反対によるいつわり」として疑いをさしはさまれた<ref>Watson, p. 88; this view is also shared by Brooke (see for example p. 99).</ref>。ジョージ3世の治世を通して、王室の負債3百万ポンドは議会によって支払われ、王室費の年金はたびたび増額された<ref>Medley, p. 501</ref>。彼は私財を投じて[[ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ|王立芸術院]]に多額の助成金を与え<ref>Ayling, p. 194; Brooke, pp. xv, 214, 301</ref>、収入の半分以上を寄付した可能性もあった<ref>Brooke, p. 215</ref>。彼の美術品コレクションのうち、最も特筆に値するものは[[ヨハネス・フェルメール]]の[[音楽の稽古]]と[[カナレット]]の作品集だったが、彼は書物の収集家として最も記憶された<ref>Ayling, p. 195</ref>。{{仮リンク|キングス・ライブラリ|en|King's Library}}は当時の学者に公開され、新しい国立図書館の礎となった<ref>Ayling, pp. 196–198</ref>。
 
[[ファイル:George III (by Allan Ramsay).jpg|thumb|{{仮リンク|アラン・ラムゼー (画家)|en|Allan Ramsay (artist)|label=アラン・ラムゼー}}による肖像画、1762年作。]]
1762年5月、[[第2次ニューカッスル公爵内閣]]が倒れ、トーリー党でスコットランド出身の[[ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)|ビュート伯爵]]が[[ビュート伯爵内閣|組閣した]]。ビュート伯と敵対した政治家たちはビュート伯とジョージ3世の母が不倫をしていたと中傷し、当時のイングランド人の間の反スコットランド風潮も利用した<ref>Brooke, p. 145; Carretta, pp. 59, 64 ff.; Watson, p. 93</ref>。庶民院議員[[ジョン・ウィルクス]]は{{仮リンク|ザ・ノース・ブリトン|en|The North Briton}}という煽動的な新聞を出版してビュート伯とその政府への中傷を盛んに行った。ウィルクスは後に{{仮リンク|煽動誹謗罪|en|Seditious libel}}で起訴されたが、彼はフランスへ逃亡して懲罰を逃れた。彼は[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]から追放され、不在のまま不敬と誹謗で有罪とされた<ref>Brooke, pp. 146–147</ref>。1763年、戦争を終結させた[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]を締結した後、ビュート伯は辞任、ホイッグ党が与党に返り咲き[[ジョージ・グレンヴィル]]が首相に就任した。
 
同年、ジョージ3世の[[1763年宣言]]によりアメリカ植民地の[[アパラチア山脈]]西側への拡張が制限された。宣言の目的は植民地拡張を南北(フロリダとノバスコシア)に振り向けることにあった。宣言で定められた境界は入植した農民の大半に影響を及ぼしなかったが、一部の声の大きい者の間では不人気であり、植民地人とイギリス政府の間の紛争に発展した<ref>Watson, pp. 183–184</ref>。当時、アメリカの植民地人のほとんどがイギリスの税金を支払わなくてもよかったため、イギリス政府は原住民の反乱とフランスによる遠征の可能性を考慮して、植民地の防衛のための支出を支払わせることが適当であると考えた{{efn|当時、税金を支払う必要のあるアメリカ人は最大で年6ペンスを支払うが、イングランドでは平均で25シリング(6ペンスの50倍)だった<ref>Cannon and Griffiths, p. 505; Hibbert, p. 122</ref>。1763年時点ではアメリカからの歳入が約1,800ポンドに対し、アメリカにおける軍事支出は22万5千ポンドとされ、1767年には40万ポンドまで上がった<ref>Cannon and Griffiths, p. 505</ref>。}}。植民地人にとって、主な問題は税金の金額ではなく、議会がアメリカの同意なしに税金を徴収できるかの問題である(当時、アメリカ人は議会に代表を出せなかった)<ref>Black, p. 82</ref>。アメリカ人はイギリス人のように「[[代表なくして課税なし]]」の権利があると抗議した。1765年、グレンヴィルは[[印紙法]]を導入、北米におけるイギリス植民地の全ての文書に[[印紙税]]を課した。新聞は印紙された紙に印刷されたため、印紙税の導入の煽りを最も強く受けているものは同時に税金反対のプロパガンダを得意とした<ref>Watson, pp. 184–185</ref>。一方、ジョージ3世はグレンヴィルが国王大権を減らそうとしたことに憤激しており、彼は[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]]に首相就任を打診した<ref>Ayling, pp. 122–133; Hibbert, pp. 107–109; Watson, pp. 106–111</ref>。短期間の病気の後、ジョージ3世はグレンヴィルを罷免、[[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|ロッキンガム侯爵]]に組閣の大命を降下した<ref>Ayling, pp. 122–133; Hibbert, pp. 111–113</ref>。
 
ロッキンガム侯爵は大ピットとジョージ3世の支持を得て、グレンヴィルの不人気な印紙法を廃止したが、彼の内閣は弱く、1766年には大ピットに更迭された(同年、大ピットは[[チャタム伯爵]]に叙される)。大ピットとジョージ3世が印紙法を廃止したことで2人はアメリカで大人気になり、{{仮リンク|ニューヨーク市の歴史 (1665年-1783年)|en|History of New York City (1665–1783)|label=ニューヨーク市}}に2人の像が立てられたほどであった<ref>Ayling, p. 137; Hibbert, p. 124</ref>。チャタム伯は1767年に病気になり、代わりに[[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|グラフトン公爵]]が政府を率いたが、彼が正式に首相になったのは1768年のことだった。同年、ジョン・ウィルクスは帰国し、{{仮リンク|1768年イギリス総選挙|en|British general election, 1768}}で立候補、{{仮リンク|ミドルセックス選挙区|en|Middlesex (UK Parliament constituency)}}で得票数1位になって当選したが、再び議会を追放された。ウィルクスはその後、再選と追放をさらに2回繰り返したが、庶民院はウィルクスの被選挙権を無効とし、2位の{{仮リンク|ヘンリー・ラットレル (第2代カーハンプトン伯爵)|en|Henry Luttrell, 2nd Earl of Carhampton|label=ヘンリー・ラットレル}}が繰り上げ当選を果たした<ref>Ayling, pp. 154–160; Brooke, pp. 147–151</ref>。グラフトン公の内閣が1770年に解体したことにより、[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|ノース卿]]率いるトーリー党が与党に返り咲いた<ref>Ayling, pp. 167–168; Hibbert, p. 140</ref>。
 
[[ファイル:King George III of England by Johann Zoffany.jpg|thumb|left|{{仮リンク|ヨハン・ツォファニー|en|Johan Zoffany}}による肖像画、1771年作。]]
ジョージ3世は敬虔で、毎日数時間を祈りに使うほどであったが<ref>Brooke, p. 260; Fraser, p. 277</ref>、この敬虔さは彼の弟たちには全く見られなかった。ジョージ3世は弟たちのルーズさにぞっとした。1770年、ジョージ3世の弟[[ヘンリー・フレデリック (カンバーランド公)|カンバーランド=ストラサーン公ヘンリー・フレデリック]]の姦夫スキャンダルが暴露され、彼は翌年に若い未亡人の{{仮リンク|アン (カンバーランド=ストラサーン公妃)|en|Anne, Duchess of Cumberland and Strathearn|label=アン・ホートン}}と結婚したが、彼女は低い身分の出身であり、ドイツの法では2人の子供によるハノーファーの継承を禁止していた。そのため、ジョージ3世はアンを王室の花嫁としては不適切であると考えた。彼は国王の許可なしに王族が結婚することを禁止する法を制定するよう強く要求した。この法案は議会で不人気であり、閣僚の一部すら反対したが、それでも{{仮リンク|1772年王室婚姻法|en|Royal Marriages Act 1772}}として成立した。直後、ジョージ3世のもう1人の弟である[[ウィリアム・ヘンリー (グロスター=エディンバラ公)|グロスター=エディンバラ公ウィリアム・ヘンリー]]は{{仮リンク|エドワード・ウォルポール|en|Edward Walople}}の庶子{{仮リンク|マリア (グロスター=エディンバラ公妃)|en|Maria, Duchess of Gloucester and Edinburgh|label=マリア}}(当時ウォルデグレイヴ伯爵未亡人)と秘密結婚していたことを明かした。マリアがジョージ3世の政敵とつながっていたこともあり、このニュースはジョージ3世の意見の正しさを証明した。アンもマリアも、宮廷に受け入れられたことはなかった<ref>Brooke, pp. 272–282; Cannon and Griffiths, p. 498</ref>。
 
ノース卿の内閣は主にアメリカにおける不満に関心を寄せた。アメリカ人をなだめるために、ジョージ3世が「[徴税の]権利を保持するための、ただ1つの税」と称した茶税を除くほとんどの関税が撤廃された<ref>Hibbert, p. 141</ref>。1773年、後に[[ボストン茶会事件]]として知られるようになった事件において、植民地人は{{仮リンク|ボストン港湾|en|Boston Harbor}}に停泊中の紅茶輸送船に乗船して、紅茶を海に捨てた。イギリスでは植民地人に対する意見が硬化、チャタム伯も紅茶の破壊が「確実に犯罪である」とした<ref>Hibbert, p. 143</ref>。議会の明らかな支持を得て、ノース卿は[[耐え難き諸法]]と植民地人に呼ばれた一連の法律を導入した。{{仮リンク|ボストン港|en|Port of Boston}}は閉鎖され、[[マサチューセッツ湾直轄植民地]]の{{仮リンク|解説勅許|en|Explanatory Charter}}は{{仮リンク|マサチューセッツ統治法|en|Massachusetts Government Act}}で改正され、マサチューセッツ上院議員の選出が下院議員による選挙からイギリス国王による任命に変更された<ref>Watson, p. 197</ref>。ピーター・トマス教授によると、ジョージ3世は「政治的な解決策を望み、閣僚の意見にはその成功の可能性を疑っていたとしてもそれに従った。1763年から1775年までの詳しい証拠はジョージ3世を[[アメリカ合衆国の独立|アメリカ独立革命]]への実質的な責任を免れさせる傾向にある」<ref>Thomas, p. 31</ref>。アメリカ人はジョージ3世を暴君として仕立て上げたが、彼はこの時期には閣僚の取り組みを支持する立憲君主として振舞った<ref>Ayling, p. 121</ref>。
 
== アメリカ独立戦争 ==
{{Main article|[[アメリカ合衆国の独立|アメリカ独立革命]]|アメリカ独立戦争}}
[[アメリカ独立戦争]]は、{{仮リンク|アメリカ啓蒙時代|en|American Enlightenment}}による[[アメリカ合衆国の独立|アメリカ独立革命]]の頂点だった。植民地人は議会におけるアメリカ代表の欠如を{{仮リンク|イングランド人の権利|en|Rights of Englishmen|label=イングランド人としての権利}}の否定とみなし、この問題の焦点はたびたび議会が植民地人の同意なく直接税を課したことに置かれた。[[ボストン茶会事件]]の後、植民地人は直接統治の押しつけに反発し、1774年までに自治区を成立させて、全植民地でイギリスの統治機構を出し抜いた。イギリス正規軍と植民地の民兵の間の武装紛争は1775年4月の[[レキシントン・コンコードの戦い]]で勃発した。国王に議会への介入を要請した[[オリーブの枝請願]]が無視された後、国王は{{仮リンク|反乱と扇動の鎮圧の宣言|en|Proclamation of Rebellion}}で反乱軍の首長たちを反逆者と宣告、以降1年間の戦闘が続いた。植民地は1776年7月に[[アメリカ独立宣言]]を発表、イギリス国王への不満を訴えるとともに民衆の支持を求めた。宣言によると、ジョージ3世は「ここの政府を退位させ、我が海を略奪、海岸を破壊、町を燃やし、人民の命を奪った」。ニューヨークにあった金メッキのジョージ3世乗馬像は撤去された<ref>Carretta, pp. 97, 98, 367</ref>。イギリス軍は1776年にニューヨークを占領したが、ボストンを失い、カナダからアメリカへ侵攻し、ニューイングランドを切り離す[[サラトガ方面作戦|大規模な作戦計画]]はイギリスの[[ジョン・バーゴイン]]少将が[[サラトガの戦い]]で降伏したことで失敗に終わった。
 
ジョージ3世が閣僚の意見を顧みず頑としてイギリスとアメリカの革命軍との戦闘を継続しようとした、という疑いがたびたびなされた<ref>O'Shaughnessy, ch 1</ref>。[[ヴィクトリア朝]]の作家{{仮リンク|ジョージ・トレベリアン (第2代準男爵)|en|Sir George Trevelyan, 2nd Baronet|label=ジョージ・トレヴェリアン}}によると、ジョージ3世は「アメリカ人の独立を永遠に認めず、その不服従を延々と続く戦争で懲罰した」<ref>Trevelyan, vol. 1 p. 4</ref>。それで「反乱軍を疲労、緊張、貧窮した状態に陥らせることで、彼らの不満と失望は自然と後悔と自責の念に変わる」という<ref>Trevelyan, vol. 1 p. 5</ref>。しかし、後に他の歴史家たちはジョージ3世の時代の国王にアメリカのような大領を喜んで放棄する者はいないと主張してジョージ3世を擁護<ref name="dnb" /><ref name="cg">Cannon and Griffiths, pp. 510–511</ref>、ジョージ3世の行動が同時代の君主のそれよりずっと無謀でなかったとした<ref>Brooke, p. 183</ref>。サラトガの戦いの後、議会もイギリス大衆も戦争を支持し、兵隊に志願した者の数も高止まりとなった。戦争に反対した声もよく聞かれたが少数にとどまった<ref name="dnb" /><ref>Brooke, pp. 180–182, 192, 223</ref>。アメリカでの敗北により、ノース卿は首相の座をより有能なチャタム伯に譲ることを提案したが、ジョージ3世は断った。ジョージ3世は代わりにチャタム伯がノース卿内閣に入閣することを提案したが、これはチャタム伯に断られた。チャタム伯は同年に死去した<ref>Hibbert, pp. 156–157</ref>。1778年初、イギリスの主な敵国であった[[フランス王国]]はアメリカと[[仏米同盟条約]]を締結、紛争が拡大した。直後に[[スペイン]]と[[ネーデルラント連邦共和国]]が同盟に加入、イギリスは主要な同盟国が全くない状況となった。閣僚だった[[グランヴィル・ルーソン=ゴア (初代スタッフォード侯爵)|ゴア伯爵]]と[[トマス・タイン (初代バース侯爵)|ウェイマス子爵]]が辞任すると、ノース卿は再び辞任を要求したが、ジョージ3世に再び拒否された<ref>Ayling, pp. 275–276</ref>。金のかかる戦争への反対が増え、1780年6月にはロンドンで{{仮リンク|ゴードン暴動|en|Gordon Riots}}と呼ばれる騒乱事件がおこった<ref>Ayling, p. 284</ref>。
 
イギリス軍は[[キャムデンの戦い]]や[[ギルフォード郡庁舎の戦い]]で大陸軍に大勝したため、王党派は1780年の{{仮リンク|チャールストン包囲戦|en|Siege of Charleston}}の時点でも最終的な勝利を信じることができた<ref>''The Oxford Illustrated History of the British Army'' (1994) p. 129</ref>。1781年末、[[チャールズ・コーンウォリス|コーンウォリス伯爵]]が[[ヨークタウンの戦い]]で降伏したという報せがロンドンに届くと、ノース卿は議会の支持を失って翌年に辞任した。ジョージ3世は退位文書を準備したが、それが発表されることはなかった<ref name="cg" /><ref>Brooke, p. 221</ref>。ここにきて、ジョージ3世はようやく北米での敗北を認めて平和交渉を命じた。1782年と1783年に締結された[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]において、イギリスはアメリカの独立を認め、[[スペイン領フロリダ|フロリダ]]をスペインに返還した<ref>U.S. Department of State, [https://history.state.gov/milestones/1776-1783/treaty Treaty of Paris, 1783], retrieved 5 July 2013</ref>。1785年に[[ジョン・アダムズ]]が[[在イギリスアメリカ合衆国大使|アメリカ駐ロンドン大使]]に任命される頃には、ジョージ3世は観念して元植民地との新しい関係を受け入れた。彼はアダムズに「わたしは最後に分離に同意した人だった。しかし、分離がなされ、不可避になっていくと、わたしは常に、独立国としてのアメリカ合衆国と最初に友好的に付き合う人になる、と言った。それは今も同じである」と述べた<ref>Adams, C.F. (editor) (1850–56), ''The works of John Adams, second president of the United States'', vol. VIII, pp. 255–257, quoted in Ayling, p. 323 and Hibbert, p. 165</ref>。
 
== 国制の危機 ==
1782年にノース卿内閣が倒れたことで、ホイッグ党のロッキンガム侯爵が再度首相に就任したが、彼は数か月後に死亡した。ジョージ3世は後任に[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|シェルバーン伯爵]]を任命した。しかし、[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]は入閣を拒否、[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ポートランド公爵]]の首相任命を要求した。1783年、庶民院はシェルバーン内閣の総辞職を迫ることに成功、{{仮リンク|フォックス=ノース連合|en|Fox–North Coalition}}内閣が後を継いだ。この内閣において、ポートランド公は首相に就任、フォックスとノース卿はそれぞれ[[外務大臣 (イギリス)|外務大臣]]と[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]として入閣した<ref name="dnb" />。
 
[[ファイル:National-Debt-Gillray.jpeg|thumb|''国債の新しい支払い方法''のカリカチュアにおいて、国庫からの資金に溢れているジョージ3世とシャーロット王妃はそれを国王一家の負債の償還に使った。側にはお金の袋を渡す小ピットもいる。ジェームズ・ギルレイ作、1786年。]]
ジョージ3世は政治的でも人格的でもフォックスを激しく嫌悪した。彼はフォックスを無節操な人で王太子に悪影響を与えていると考えた<ref>e.g. Ayling, p. 281</ref>。ジョージ3世は嫌悪している閣僚を任命しなければならないことを苦痛に感じたが、ポートランド公爵内閣は庶民院で多数派をなし、容易く罷免することはできなかった。政府がインド政府の改革案として政治権力を[[イギリス東インド会社]]から議会が任命する代表に転移させるインド法案を提出したことはジョージ3世の不興をさらに買った<ref>Hibbert, p. 243; Pares, p. 120</ref>。ジョージ3世も東インド会社への支配を強めたかったが、議会が提案した代表は全てフォックスの政治盟友であった<ref>Brooke, pp. 250–251</ref>。法案が庶民院を通過した直後、ジョージ3世は[[ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル (初代バッキンガム侯爵)|テンプル伯爵]]に自分はインド法案に賛成票を投じた全ての貴族を敵とみなすことを[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]に通知させた。インド法案は貴族院に否決され、3日後にはポートランド公爵内閣が罷免され、[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]が首相に就任、テンプル伯爵も国務大臣として入閣した。1783年12月17日、議会は国王による議会の投票への介入を「重罪」として糾弾することを議決、テンプル伯爵は辞任を余儀なくされた。テンプル伯の辞任は政府を不安定にさせ、3か月後には政府が議会での多数派の座を失い、議会は解散された。直後の{{仮リンク|1784年イギリス総選挙|en|British general election, 1784}}により、小ピットは強い信任を受けた<ref name="dnb" />。
 
== ウィリアム・ピット ==
[[ファイル:Daughters of King George III.jpg|thumb|left|''国王ジョージ3世の3人の末娘''、{{仮リンク|ジョン・シングルトン・コプリー|en|John Singleton Copley}}作、1785年頃。]]
[[ファイル:GeorgeIIIGuinea.jpg|left|thumb|ジョージ3世の[[ギニー]]金貨、1789年。]]
ジョージ3世にとって、ピットの首相就任は大きな勝利であった。なぜなら、それは庶民院の多数派の選択に従わなくとも、大衆の雰囲気に対する彼自身の判断で首相を任命することができることを示したからだった。ピットが首相を務めた期間を通して、ジョージ3世はピットの政策の多くを支持、それまでに見られない速さで貴族を創家して貴族院におけるピットの支持者の人数を増やした<ref>Watson, pp. 272–279</ref>。ジョージ3世はピットが首相を務めていたときもその後も絶大な人気を誇った<ref>Brooke, p. 316; Carretta, pp. 262, 297</ref>。イギリス人はジョージ3世の敬虔さ、そして妻に誠実にあり続けたことを称賛した<ref>Brooke, p. 259</ref>。彼は子供達を好み、息子のうち2人が1782年と1783年にそれぞれ夭折したことに深く悲しんだ<ref>Ayling, p. 218</ref>。彼は子供たちの行動を強く規制し、毎日朝7時から授業を受けさせたほか、宗教行事や美徳に満ちた生活をさせたという<ref>Ayling, p. 220</ref>。子供たちが青年期以降にその信念から外れ始めると、ジョージ3世は深く失望した<ref>Ayling, pp. 222–230, 366–376</ref>。
 
この時期にはジョージ3世の健康が悪化し始めた。彼はおそらく遺伝病の[[ポルフィリン症]]により、急性な躁病に悩まされた<ref>Röhl, John C. G.; Warren, Martin; Hunt, David (1998). ''Purple Secret: Genes, "Madness" and the Royal Houses of Europe''. London: Bantam Press. {{ISBN2|0-593-04148-8}}.</ref>。しかし、ポルフィリン症とする説には異論もある<ref>{{cite journal|author1=Peters, Timothy J. |author2=Wilkinson, D. | year = 2010 | title = King George III and porphyria: a clinical re-examination of the historical evidence | doi = 10.1177/0957154X09102616 | journal=History of Psychiatry | volume = 21 | issue = 1| pages = 3–19 | pmid=21877427}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Rentoumi |first1=v.|last2=Peters|first2=T.|last3=Conlin|first3=J.|last4=Gerrard|first4=P.|date=2017|title=The acute mania of King George III: A computational linguistic analysis|journal=PLoS ONE|issue=12|volume=3|doi=10.1371/journal.pone.0171626}}</ref>。2005年に発表された、ジョージ3世の毛髪に対する調査で、多量の[[ヒ素]]が発見された。ヒ素のもとは明らかではなかったが、薬か化粧品に含まれていた可能性がある<ref>{{cite journal| doi = 10.1016/S0140-6736(05)66991-7|author1=Cox, Timothy M. |author2=Jack, N. |author3=Lofthouse, S. |author4=Watling, J. |author5=Haines, J. |author6=Warren, M.J. | year = 2005 | title = King George III and porphyria: an elemental hypothesis and investigation |journal=The Lancet | volume = 366 | issue = 9482| pages = 332–335 | pmid=16039338}}</ref>。1765年に短期間発症した可能性もあるが、より長い発症は1788年夏に起こった。議会の会期が終わると、ジョージ3世は保養地の[[チェルトナム]]に向かって休養したが、これは彼がその一生でロンドンから一番離れた瞬間(100マイル/150キロメートルよりやや少ない距離)だった。しかし、彼の病状は悪化し、11月には錯乱してときどき何時間も続けて喋った。身体的には喉が枯れて、口から泡を吹く結果となった。主治医たちも病因がわからず、その病状に関するデマが出回った。例えば、ジョージ3世が木をプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]と勘違いして握手した、とするものがある<ref>Ayling, pp. 329–335; Brooke, pp. 322–328; Fraser, pp. 281–282; Hibbert, pp. 262–267</ref>。当時、精神疾患に対する治療は極めて原始的であり、主治医の{{仮リンク|フランセス・ウィリス (医者)|en|Francis Willis (physician)|label=フランセス・ウィリス}}などは苛性な湿布で「邪悪な体液」を出そうとしたり、ジョージ3世を落ち着くまで縛ったりした<ref>Ayling, pp. 334–343; Brooke, p. 332; Fraser, p. 282</ref>。
 
再開した議会では国王が統治不能になっている場合の摂政について、フォックスと小ピットが論争していた。2人ともジョージ3世の長男で推定相続人であったプリンス・オブ・ウェールズのジョージが摂政に就任することが一番合理的であるとしたが、フォックスがプリンス・オブ・ウェールズの摂政権は絶対的な権利であると主張したことは小ピットを仰天させた。小ピットはプリンス・オブ・ウェールズが摂政に就任すると自身が罷免されることを恐れて、議会が摂政を指名しなければならないと主張した。また摂政の権力を制限しようとした<ref>Ayling, pp. 338–342; Hibbert, p. 273</ref>。そして、1789年2月にはプリンス・オブ・ウェールズを摂政に任命する摂政法案が提出され、庶民院を通過したが、貴族院が法案を議決にかける前にジョージ3世が回復した<ref>Ayling, p. 345</ref>。
 
== フランス革命戦争とナポレオン戦争 ==
[[ファイル:King George III by Sir William Beechey (2).jpg|thumb|{{仮リンク|ウィリアム・ビーチー|en|William Beechey|label=サー・ウィリアム・ビーチー}}による肖像画、1799年/1800年。]]
[[ファイル:James Gillray The King of Brobdingnag and Gulliver.–Vide. Swift's Gulliver- Voyage to Brobdingnag The Metropolitan Museum of Art edit.jpg|thumb|ナポレオンを手のひらに載せたジョージ3世。{{仮リンク|ジェームズ・ギルレイ|en|James Gillray}}によるカリカチュア、1803年作。]]
ジョージ3世が回復した後、小ピットと彼の人気は上昇し、一方王太子とフォックスの人気は下がった<ref>Ayling, pp. 349–350; Carretta, p. 285; Fraser, p. 282; Hibbert, pp. 301–302; Watson, p. 323</ref>。狂気に陥っていた2人の暗殺者、すなわち1786年の{{仮リンク|マーガレット・ニコルソン|en|Margaret Nicholson}}と1790年の{{仮リンク|ジョン・フリス (暗殺者)|en|John Frith (assailant)|label=ジョン・フリス}}に対する理解を示した人道的な対処はジョージ3世の人気を高めた<ref>Carretta, p. 275</ref>。1800年5月15日にも{{仮リンク|ジェームズ・ハットフィールド|en|James Hadfield}}という人が{{仮リンク|シアター・ロイヤル (ドルリー・レーン)|en|Theatre Royal, Drury Lane|label=ドルリー・レーン劇場}}でジョージ3世を射殺しようとしたが、動機は政治的なものではなく、ハットフィールドと{{仮リンク|バニスター・トゥルーロック|en|Bannister Truelock}}の終末的な妄想によるものだった。ジョージ3世は暗殺未遂事件に全く動じず、幕間に眠ってしまったほどであった<ref>Ayling, pp. 181–182; Fraser, p. 282</ref>。
 
1789年の[[フランス革命]]により、フランス王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]が廃位されたが、これはイギリスの地主の憂慮を引き起こした。フランスは1793年にイギリスに宣戦布告、ジョージ3世は小ピットに増税と徴兵を許可、また[[ヘイビアス・コーパス]]の権利を一時停止した。しかし、オーストリア、プロイセン、スペインとともに結成した[[第一次対仏大同盟]]は1795年にプロイセンとスペインがフランスと単独講和したことで崩壊した<ref>Ayling, pp. 395–396; Watson, pp. 360–377</ref>。オーストリア、ロシア、[[オスマン帝国]]とともに結成した[[第二次対仏大同盟]]も1800年に敗北した。イギリスだけがフランス[[統領政府]]の第一統領であった[[ナポレオン・ボナパルト]]との戦争を継続した。
 
戦況が短期間和らいだことで小ピットはアイルランド問題に集中できた。アイルランドでは1798年に反乱とフランスによる上陸の試みがあった<ref>Ayling, pp. 408–409</ref>。1800年、グレートブリテンとアイルランド議会はそれぞれ[[合同法 (1800年)|合同法]]を通過させた。合同法が1801年1月1日に施行されると、グレートブリテン王国とアイルランド王国は合体してグレートブリテン及びアイルランド連合王国になった。ジョージ3世はこれを機に[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]時代から保持していた「{{仮リンク|イギリスによるフランスの王位請求|en|English claims to the French throne|label=フランス王}}」の称号を取り払った<ref name="weir286">Weir, p. 286</ref>。「{{仮リンク|イギリス皇帝|en|British Emperor|label=ブリテン諸島の皇帝}}」の称号も提案された、これはジョージ3世に拒否された<ref name="dnb" />。小ピットはアイルランド政策の一環として[[イギリスのカトリック]]への{{仮リンク|イギリスにおける反カトリック主義|en|Anti-Catholicism in the United Kingdom|label=差別政策}}を取り除くことを計画した。ジョージ3世は[[カトリック解放]]を容認することがプロテスタントを維持するという戴冠式の誓言を破ることになると主張した<ref>Ayling, p. 411</ref>。国王とイギリス大衆に宗教改革の政策を反対されたことで、小ピットは辞任すると脅した<ref>Hibbert, p. 313</ref>。ほぼ同時期にはジョージ3世の病気が再発したが、彼はカトリック問題に対する憂慮が病気の再発を引き起こしたと主張した<ref>Ayling, p. 414; Brooke, p. 374; Hibbert, p. 315</ref>。1801年3月14日、小ピットは正式に{{仮リンク|庶民院議長 (イギリス)|en|Speaker of the House of Commons (United Kingdom)|label=庶民院議長}}の[[ヘンリー・アディントン (初代シドマス子爵)|ヘンリー・アディントン]]に更迭された。アディントンはカトリック解放に反対、所得税を廃止、軍縮政策を推進、年次財務諸表の制度を設立した。1801年10月にはフランスと和平、1802年に[[アミアンの和約]]を締結した<ref>Watson, pp. 402–409</ref>。
 
ジョージ3世はフランスとの和平を本当のものとは見ず、ただの「実験」として扱った<ref>Ayling, p. 423</ref>。1803年、戦争が再開したが、世論はアディントンが戦争中のイギリスを率いることを信用せず、小ピットの再任を希望した。ナポレオンによるイングランド侵攻はすぐにでも現実になりそうで、イングランドをフランスから守る動きが大勢の志願兵を生み出した。ジョージ3世が1803年10月26日と28日に[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]で行った閲兵は侵攻の脅威が最高潮だった頃に行われたこともあり、約50万人の見物人が集まる結果となった<ref>Colley, p. 225</ref>。[[タイムズ]]紙によると、「群衆の熱意はどんな形容も超えるものだった」<ref>''The Times'', 27 October 1803, p. 2</ref>。とある廷臣は11月13日に「国王は攻撃があった場合に戦場に立つ用意ができている。砲床が準備されていたので、警告があれば半時間で動ける」と書いた<ref>Brooke, p. 597</ref>。ジョージ3世は友人の{{仮リンク|リチャード・ハード (主教)|en|Richard Hurd (bishop)|label=リチャード・ハード主教}}に手紙を書き、「私たちは毎日、ボナパルトがあらかじめ脅していた侵攻を行うことを予想した[...]彼の部隊が上陸してきた場合、私は必ずわが部下、わが軍の先頭に立って、彼らを撃退する」と述べた<ref>Letter of 30 November 1803, quoted in Wheeler and Broadley, p. xiii</ref>。[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ネルソン子爵]]が有名な[[トラファルガーの海戦]]で勝利を収めた後、侵攻の可能性は消えた<ref>{{cite web|url=http://www.nationalarchives.gov.uk/nelson/gallery8/default.htm|title=Nelson, Trafalgar, and those who served|publisher=National Archives|accessdate=31 October 2009}}</ref>。
 
[[ファイル:A-Kick-at-the-Broad-Bottoms-Gillray.jpeg|thumb|left|300px|''ブロード=ボトムへの一蹴り!''({{lang-en-short|''A Kick at the Broad-Bottoms!''}}、1807年)において、ジェームズ・ギルレイはジョージ3世による全人材内閣の罷免をカリカチュアに描いた。]]
1804年、ジョージ3世の病気が再発した。彼が回復した後、アディントンは辞任し、小ピットが首相に復帰した。小ピットはフォックスを閣僚に任命しようとしたがジョージ3世に断られ、[[ウィリアム・グレンヴィル (初代グレンヴィル男爵)|グレンヴィル男爵]]はフォックスへの不公平を感じ取って入閣を拒否した<ref name="dnb" />。小ピットはオーストリア、ロシア、スウェーデンとの大同盟の締結に集中し、[[第三次対仏大同盟]]の結成に成功したが、1805年には第一次と第二次同盟の末路と同じく、解体した。ヨーロッパでの挫折は小ピットの健康に悪影響を及ぼし、彼は1806年に死去した。その結果、だれが入閣すべきかという問題が再び浮上した。グレンヴィル男爵は首相になり、彼の{{仮リンク|全人材内閣|en|Ministry of All the Talents}}にはフォックスも入閣した。ジョージ3世はフォックスの入閣に同意せざるを得ず、その後はフォックスとの和解の動きもあったがフォックスが同年9月に死去した後はジョージ3世と内閣が対立した。1807年2月、内閣は募兵数を増やすためにカトリックが軍の全ての階級につくことができる施策を提案した。ジョージ3世はこの施策を取り下げるよう要求するとともに、二度とそのような施策を提案しないことを約束させようとした。内閣は取り下げには同意したが、二度と提案しない約束には拒否した<ref>Pares, p. 139</ref>。結局、ジョージ3世は内閣を罷免、代わりに[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ポートランド公爵]]が名目的な首相に就任したが、実権は[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]の[[スペンサー・パーシヴァル]]に握られた。議会は解散され、直後に行われた{{仮リンク|1807年イギリス総選挙|en|United Kingdom general election, 1807}}において内閣は庶民院で大多数を確保した。ジョージ3世はその後、重大な政治決定を行うことはなかった。1809年に首相がポートランド公からパーシヴァルに変わっても実態はさほど変わることはなかった<ref>Ayling, pp. 441–442</ref>。
 
== 晩年 ==
[[ファイル:George III by Henry Meyer.jpg|thumb|right|晩年のジョージ3世、{{仮リンク|ヘンリー・ホップナー・マイヤー|en|Henry Hoppner Meyer}}作。]]
1810年末、ジョージ3世はその人気が最高潮になったところ<ref>Brooke, p. 381; Carretta, p. 340</ref>、(すでに[[白内障]]と[[リウマチ]]を患っていたが)さらに重病になった。彼は最愛の末娘[[アミーリア・オブ・ジ・ユナイテッド・キングダム|アミーリア]]が死去したことがこの不幸をもたらしたと考えた<ref>Hibbert, p. 396</ref>。アミーリア王女の看護師によると、「苦痛と泣きの毎日は[...]形容できないほどの狂気である」<ref>Hibbert, p. 394</ref>。ジョージ3世は{{仮リンク|摂政法|en|Regency Acts|label=1811年摂政法}}の必要性を認め<ref>Brooke, p. 383; Hibbert, pp. 397–398</ref>、王太子ジョージがジョージ3世の治世の残りにおいて摂政を務めた。1811年5月にいったん回復の兆しがあったが、年末には完全な狂気に陥り、死ぬまでウィンザー城に幽閉された<ref>Fraser, p. 285; Hibbert, pp. 399–402</ref>。
 
首相[[スペンサー・パーシヴァル]]は{{仮リンク|スペンサー・パーシヴァルの暗殺|en|Assassination of Spencer Perceval|label=1812年に暗殺され}}、後を[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]が継いだ。リヴァプール伯はナポレオン戦争におけるイギリスの勝利を見届け、その後の[[ウィーン会議]]によりハノーファーが選帝侯領から[[ハノーファー王国|王国]]に昇格するとともに、領土を大幅に拡大した。
 
一方、ジョージ3世の健康は悪化した。彼は[[認知症]]を患い、全盲になり耳がだんだんと遠くなっていった。彼は1814年にハノーファー王に即位したことと1818年に王妃が死去したことを知ることも理解することもできなかった<ref>Ayling, pp. 453–455; Brooke, pp. 384–385; Hibbert, p. 405</ref>。1819年のクリスマスには58時間もの間無意味な言葉をしゃべり続け、死の直前の数週間には歩けなくなった<ref>Hibbert, p. 408</ref>。彼は四男の[[エドワード・オーガスタス (ケント公)|ケント公]]が死去6日後の1820年1月29日、20時38分に死亡した。死の直前には最愛の息子[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク・オールバニ公フレデリック]]が側にいた<ref>Letter from Duke of York to George IV, quoted in Brooke, p. 386</ref>。ジョージ3世は2月16日にウィンザー城の{{仮リンク|セント・ジョージ礼拝堂 (ウィンザー城)|en|St George's Chapel|label=セント・ジョージ礼拝堂}}で埋蔵された<ref>{{cite web|url=http://www.stgeorges-windsor.org/about-st-georges/royal-connection/burial/burials-in-the-chapel-since-1805.html|publisher=Dean and Canons of Windsor|title=Royal Burials in the Chapel since 1805|work=St George's Chapel, Windsor Castle|accessdate=9 November 2009}}</ref><ref>Brooke, p. 387</ref>。
 
ジョージ3世の後を息子の[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]と[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]が相次いで即位したが、いずれも存命の嫡子がないまま死去、ケント公の唯一な嫡出子[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]がハノーファー家最後の君主として即位した。
 
== 遺産 ==
ジョージ3世は81年239日間生き、59年96日間統治した。その寿命も治世もそれまでのイギリス王よりも長かった。それ以降も[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]と[[エリザベス2世]]のみがジョージ3世よりも長い寿命と治世を生きた。
 
[[ファイル:TransitOfVenus1769.png|thumb|ジョージ3世のコレクションより''[[金星の太陽面通過|金星の通過]]の観察''の手稿、1769年。手稿によると、ジョージ3世、シャーロット王妃などが観察を行った。]]
ジョージ3世は「農夫ジョージ」({{lang-en-short|Farmer George}})と風刺家に呼ばれた。はじめはジョージ3世が政治より平凡なものに趣味を持ったことを風刺した呼び名だったが、後に息子たちと対比して性格が家庭的であると人民に近しい王であるという賞賛となった<ref>Carretta, pp. 92–93, 267–273, 302–305, 317</ref>。ジョージ3世の時代、{{仮リンク|イギリス農業革命|en|British Agricultural Revolution}}はその頂点に達し、科学や工業といった分野が大きな進歩を遂げた。農村部の人口が先例のない増加を示し、同時進行していた[[産業革命]]が必要とした労働者を提供した<ref>Watson, pp. 10–11</ref>。ジョージの数学と科学の器具のコレクションはロンドンの[[サイエンス・ミュージアム]]に展示されている。彼は1769年の[[金星の太陽面通過]]を観察するために[[リッチモンド・アポン・テムズ区|リッチモンド・アポン・テムズ]]での{{仮リンク|王立天文台|en|King's Observatory}}建設を命じた。1781年に[[ウィリアム・ハーシェル]]が[[天王星]]を発見すると、彼ははじめそれを「ジョージの星」({{lang-la|Georgium Sidus}})と命名した。ジョージ3世は1785年に当時最大型であったハーシェルの[[40フィート望遠鏡]]の建造とメンテナンス資金を提供した。
 
ジョージ3世は「悪意の舌が私の意図を奴らの好む色に染まることなく、諂う人々が私の身に余る称賛をすることなく」評価されることを望んだが<ref>Brooke, p. 90</ref>、大衆の間では敵として見られたか、賞賛された。治世の初期には人気が高かったが、1770年代中期にはアメリカの植民地人で革命を支持した者の忠誠を失った<ref>Carretta, pp. 99–101, 123–126</ref>。しかし、約半分の植民地人が忠誠のままと概算された<ref>Ayling, p. 247</ref>。[[アメリカ独立宣言]]において、ジョージ3世に対する不満は彼が植民地に対する「絶対的な暴政」を敷くために「度重なる傷害と権利の侵害」を行った、と主張された。独立宣言の文言により、アメリカ大衆はジョージ3世に対し暴君という印象を持つこととなった。ジョージ3世に関する同時代の文献は2種類に分けられた。すなわち、「治世の後期で主流だった態度で、国王がフランスの思想と権力に対する国を挙げての抵抗のシンボルとなっている」ことを示すものか、「治世のはじめから20年間にわたって続いた党争から得られた国王に対する印象で、反対派の意見が反映された」ものである<ref>Reitan, p. viii</ref>。
 
両者のうち、後者の文献を採用した19世紀と20世紀初期のイギリスの歴史家たち(例えば、{{仮リンク|ジョージ・トレヴェリアン (第2代准男爵)|en|Sir George Trevelyan, 2nd Baronet|label=ジョージ・トレヴェリアン}}と{{仮リンク|エルスキン・メイ (初代ファーンボロー男爵)|en|Erskine May|label=エルスキン・メイ}}など)はジョージ3世を敵対的に理解した。しかし、20世紀中期の[[ルイス・バーンスタイン・ネイミア]]は「悪し様に言われた」と考え、ジョージ3世とその治世の再評価を始めた<ref>Reitan, pp. xii–xiii</ref>。20世紀後期の学者(例えば[[ハーバート・バターフィールド]]、ペアース({{lang|en|Pares}})、アイダ・マカルパイン({{lang|en|Ida Macalpine}})、リチャード・ハンター({{lang|en|Richard Hunter}})<ref>Macalpine, Ida; Hunter, Richard A. (1991) [1969]. ''George III and the Mad-Business''. Pimlico. {{ISBN2|978-0-7126-5279-7}}.</ref>などはジョージ3世を同情的に捉え、時局と病気の被害者としてみた。バターフィールドはヴィクトリア時代の歴史家たちの考えを「エルスキン・メイは歴史家が才能を有しすぎるがゆえに間違いを起こす好例である。彼の整合の才能、そして証拠の様々な部分を繋げあう能力[...]により、彼は平凡な先賢たちよりも重大で複雑な間違いを起こした[...]彼が最初に間違い始めたことと、紡いだ歴史に学理的な側面を加えたことで、その結果は正道から逸れた間違った道がそのまま延長されることになる。」とこき下ろした<ref>Butterfield, p. 152</ref>。ジョージ3世はアメリカの植民地人と戦争することについて、彼の権力または特権を拡張するためではなく、選挙で選出される議会の徴税権を守るためであると信じた<ref>Brooke, pp. 175–176</ref>。現代の学者は、ジョージ3世の長い知性において、国王は政治的な権力を失い続けたが、代わりに国家的な道徳の化身となった<ref name="dnb" />。
 
== 称号と紋章 ==
=== 称号 ===
* 1738年6月4日 - 1751年3月31日:ジョージ王子殿下<ref>''The London Gazette'' consistently refers to the young prince as "His Royal Highness Prince George" {{London Gazette|issue=8734|startpage=3|date=5 April 1748}} {{London Gazette|issue=8735|startpage=2|date=9 April 1748}} {{London Gazette|issue=8860|startpage=2|date=20 June 1749}} {{London Gazette|issue=8898|startpage=3|date=31 October 1749}} {{London Gazette|issue=8902|startpage=3|date=17 November 1749}} {{London Gazette|issue=8963|startpage=1|date=16 June 1750}} {{London Gazette|issue=8971|startpage=1|date=14 July 1750}}</ref>
* 1751年3月31日 - 1751年4月20日:エディンバラ公爵殿下
* 1751年4月20日 - 1760年10月25日:プリンス・オブ・ウェールズ殿下
* 1760年10月25日 - 1820年1月29日:国王陛下
 
イギリスにおいて、ジョージ3世は「ジョージ3世、神の恩寵により、グレートブリテン、{{仮リンク|イギリスによるフランスの王位請求|en|English claims to the French throne|label=フランス}}、アイルランドの王、[[信仰の擁護者]]、など」の称号を使用したが、1801年に[[グレートブリテン王国]]と[[アイルランド王国]]が合同すると、[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]時代から使用されたフランス王の称号を取っ払い<ref name="weir286" />、「ジョージ3世、神の恩寵により、グレートブリテン及びアイルランド連合王国の王、信仰の擁護者」を使用するようになった<ref name="p390">Brooke, p. 390</ref>。
 
ドイツにおいて、ジョージ3世は1806年に神聖ローマ帝国が消滅するまで、「[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク]]の公、神聖ローマ帝国の大出納官および選帝侯」の称号を使用し、その後も1814年の[[ウィーン会議]]で「ハノーファー王」として承認されるまで公爵を称した<ref name="p390" />。
 
=== 紋章 ===
ジョージ3世は即位以前には1749年7月27日から王家の紋章を使用したが、5つの垂れがある[[アジュール (紋章学)|アジュール]]の[[レイブル (紋章学)|レイブル]]が追加された。父が死去するとジョージ3世はエディンバラ公爵と推定相続人の座を継承したが、彼は3つの垂れがある[[アージェント (紋章学)|アージェント]]のレイブルの使用も継承した。また、シャルルマーニュの王冠は一般的には国王の紋章にしか使われないため、ジョージ3世も慣例に従ってそれを使わなかった<ref>{{cite web|url=http://www.heraldica.org/topics/britain/cadency.htm|title=Marks of Cadency in the British Royal Family|author=Velde, François|date=19 April 2008|publisher=Heraldica|accessdate=9 November 2009}}</ref>。
 
即位から1800年まで、ジョージ3世は国王の紋章を使用した。すなわち、クォーターIにはイングランドとスコットランドの紋章が[[ペイル (紋章学)|ペイル]]に使用され、クォーターIIはフランスを象徴する[[フルール・ド・リス]]が使用され、くぉーたーIIIはアイルランドの紋章、クォーターIVはペイルと[[シェブロン (紋章学)|シェブロン]]の形で3分割され、それぞれブラウンシュヴァイク、リューネブルク、ザクセンの紋章が使用された(3者合わせてハノーファーを表す)。また真ん中には神聖ローマ帝国の大出納官を表す[[シャルルマーニュ]]の王冠の[[エスカッシャン (紋章学)|エスカッシャン]]が使われた<ref>See, for example, {{cite book|last=Berry|first=William|year=1810|title=An introduction to heraldry containing the rudiments of the science|pages=110–111}}</ref><ref>{{cite book|last1=Pinches|first1=John Harvey|last2=Pinches|first2=Rosemary|title=The Royal Heraldry of England |series=Heraldry Today |year=1974|publisher=Hollen Street Press |location=Slough, Buckinghamshire |isbn=0-900455-25-X|pages=215–216}}</ref>。
 
[[合同法 (1800年)|1800年合同法]]により、国王の紋章は変更され、フランスのクォーターが取り払われた。新しい紋章ではクォーターIとIVがイングランドを、クォーターIIがスコットランドを、クォーターIIIがアイルランドを表すほか、上に選帝侯のボンネットがついているハノーファーのエスカッシャンが真ん中に置かれている<ref>{{London Gazette|issue=15324|startpage=2|date=30 December 1800}}</ref>。1816年に[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯領]]が王国に昇格すると、選帝侯のボンネットがクラウンになった<ref>{{London Gazette|issue=17149|startpage=1|date=29 June 1816}}</ref>。
 
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ファイル:Coat of arms of George William Frederick, Duke of Edinburgh.svg|1749年から1751年までの紋章
ファイル:Coat of Arms of the Hanoverian Princes of Wales (1714-1760).svg|1751年から1760年まで、プリンス・オブ・ウェールズとしての紋章
ファイル:Coat of Arms of Great Britain (1714-1801).svg|1760年から1801年まで、グレートブリテン王としての紋章
ファイル:Coat of Arms of the United Kingdom (1801-1816).svg|1801年から1816年まで、連合王国国王としての紋章
ファイル:Coat of Arms of the United Kingdom (1816-1837).svg|1816年から死去まで、連合王国国王およびハノーファー王としての紋章
</gallery>
 
== 子女 ==
[[1761年]][[9月8日]]にジョージ3世は、メクレンブルク=シュトレーリッツ公子カール・ルートヴィヒの娘[[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ|シャーロット]]と結婚した。2人は、9男6女の子供に恵まれた。
 
*[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]](1762年 – 1830年)  - イギリス王、ハノーファー王
*[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|フレデリック]](1763年 - 1827年)  - ヨーク・オールバニ公
*[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]](1765年 – 1837年)  - イギリス王、ハノーファー王
*[[シャーロット (ヴュルテンベルク王妃)|シャーロット]](1766年 – 1828年)  - [[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク]][[ヴュルテンベルク君主一覧|王]][[フリードリヒ1世 (ヴュルテンベルク王)|フリードリヒ1世]]の2度目の妃
*[[エドワード・オーガスタス (ケント公)|エドワード]](1767年 – 1820年)  - ケント・ストラサーン公、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の父
*[[オーガスタ・ソフィア・オブ・ザ・ユナイテッド・キングダム|オーガスタ]](1768年 – 1840年)
*[[エリーザベト・フォン・グロスブリタンニエン|エリザベス]](1770年 – 1840年)  - [[ヘッセン=ホンブルク方伯|ヘッセン=ホンブルク]][[ヘッセンの統治者一覧|方伯]][[フリードリヒ6世 (ヘッセン=ホンブルク方伯)|フリードリヒ6世]]妃
*[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|アーネスト]](1771年 – 1851年)  - ハノーファー王、カンバーランド公
*[[オーガスタス・フレデリック (サセックス公)|オーガスタス]](1773年 – 1843年)  - サセックス公
*[[アドルファス (ケンブリッジ公)|アドルファス]](1774年 – 1850年)  - ケンブリッジ公
*[[メアリー (グロスター=エディンバラ公爵夫人)|メアリー]](1776年 – 1857年)  - グロスター公妃
*[[ソフィア・オブ・ジ・ユナイテッド・キングダム|ソフィア]](1777年 – 1848年)
*{{仮リンク|オクタヴィアス・オブ・グレートブリテン|en|Prince Octavius of Great Britain|label=オクタヴィアス}}(1779年 – 1783年) - 夭逝
*{{仮リンク|アルフレッド・オブ・グレートブリテン|en|Prince Alfred of Great Britain|label=アルフレッド}}(1780年 – 1782年) - 夭逝
*[[アミーリア・オブ・ジ・ユナイテッド・キングダム|アミーリア]](1783年 – 1810年)
 
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[1]の甥[[クリスティアン・アウグスト (アンハルト=ツェルプスト侯)|クリスティアン・アウグスト]]の娘(=母オーガスタの又いとこ)が、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[女帝]][[エカチェリーナ2世]]。
 
== ==
<references group="注釈"/>
{{脚注ヘルプ}}
 
<div class="references-small">{{Reflist}}</div>
== 出典 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
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* {{cite journal| doi = 10.1136/bmj.1.5479.65|author1=Macalpine, Ida |author2=Hunter, Richard | year = 1966 | title = The 'insanity' of King George III: a classic case of porphyria | pmc = 1843211| journal=Br. Med. J. | volume = 1 | issue = 5479| pages = 65–71 | pmid=5323262}}
* {{cite journal|author1=Macalpine, I. |author2=Hunter, R. |author3=Rimington, C. |title=Porphyria in the Royal Houses of Stuart, Hanover, and Prussia|journal=British Medical Journal|year=1968|volume=1|issue=5583 |pages=7–18|url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1984936/pdf/brmedj02065-0057.pdf|pmc=1984936|pmid=4866084|doi=10.1136/bmj.1.5583.7}}
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* {{Cite book|和書|author=[[森護]] |title=英国王室史話 |publisher=[[大修館書店]] |date= 1986-03 |isbn=978-4-469-24090-0 }}
** のち[[中央公論新社]]にて[[中公文庫]]に収録。2000年3月、ISBN:上巻 {{ISBN|978-4-12-203616-1}}、下巻 {{ISBN|978-4-12-203617-8}}。
 
== 関連作品項目 ==
*{{仮リンク|大衆文化におけるジョージ3世|en|Cultural depictions of George III of the United Kingdom}}
*『[[英国万歳!]]』 - 乱心したジョージ3世と、混乱する王室を描いた演劇作品で、後映画化された。
**『[[英国万歳!]]』 - 乱心したジョージ3世と、混乱する王室を描いた演劇作品で、後映画化された。
 
*[[キングジョージ島]] - ジョージ3世にちなんで名づけられた。
== エポニム ==
* [[キングジョージ島]]は、ジョージ3世にちなんで名づけられた。
 
== 外部リンク ==
{{wikiquote|George III of the United Kingdom}}
{{commons|George III of the United Kingdom}}
* {{UK National Archives ID}}
* {{NPG name|name=King George III}}
* [http://georgianpapersprogramme.com Georgian Papers Programme]
* [http://www.kansasmemory.org/item/223267 George III papers, including references to madhouses and insanity from the Historic Psychiatry Collection, Menninger Archives, Kansas Historical Society]
 
{{グレートブリテン王|1760年 - 1800年}}
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{{先代次代|[[ザクセン=ラウエンブルク|ザクセン=ラウエンブルク公]]|1760年 - 1814年|[[ジョージ2世 (イギリス王)|ゲオルク2世]]|[[フレデリク6世 (デンマーク王)|フリードリヒ1世]]}}
 
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:しよおし3}}
[[Category:グレートブリテンの君主]]
[[Category:アイルランドの君主]]
[[Category:連合王国の君主]]
[[Category:ハノーファー選帝侯]]
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[[Category:エディンバラ公]]
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[[Category:1820年没]]