「ジャン=ジャック・ルソー」の版間の差分

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{{Infobox 哲学者
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| notable_ideas = [[一般意志]]、自己愛、自尊心、人間本性、[[児童中心主義|児童中心主義教育]]、市民宗教など。一般意志の概念を提出したことによって[[国民主権]]概念の発展に強い影響を与えた他、[[自由主義]]思想史においては[[積極的自由]]を掲げた思想家と位置づけられる。
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== 生涯 ==
=== ジュネーブでの幼年期 ===
[[ファイル:Rousseau Geneve House.JPG|thumb|upright|ルソーの生家]]
[[1712年]]、[[フランス語圏]]の都市国家[[ジュネーヴ]]にて、市民階級の[[時計]]師の息子として出生。生後8日にして母を喪う。
ジャン=ジャック・ルソーは、[[1712年]][[6月28日]]、[[ジュネーヴ]]のグラン・リュ街にて誕生した。父はイザーク・ルソー、母はシュザンヌ・ベルナール<ref name="中里(1969)27">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.27</ref>。
 
ルソー家の先祖は[[パリ]]近郊モンレリ<!--Montlhéry-->に由来し、1549年にディディエ・ルソーが[[プロテスタント]]弾圧から逃れるためにジュネーヴに移住したことに起源がある。[[ジュネーヴ]]は[[カルヴァン]]派の[[ユグノー]]が構成するプロテスタントの都市共和国であり、当時はまだ[[スイス|スイス誓約者同盟]]に加盟していなかった{{sfn|桑瀬編|2010|p=6}}。[[ジュネーヴ]]はルソーの故郷であり続け、自分を[[ジュネーヴ]]市民として見ていた<ref name="中里(1969)27">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.27</ref>。
7歳頃から父とともに小説や歴史の書物を読む。この時の体験から、理性よりも感情を重んじる思想の素地が培われた。[[1725年]]、父は退役軍人との喧嘩がもとでジュネーヴから逃亡せねばならぬ仕儀となる。兄も家出してしまい孤児同然となったジャン=ジャックは、母方の叔父によって牧師に預けられ、その後、[[公証人]]の許で[[書記]]の仕事を覚えようとしたり、[[彫金]]工に弟子入りするなど苦しい体験をした。そして3年後に出奔し、以後長い放浪生活に入った。その後もさまざまな職業を試したが、結局どの職にも落ち着くことができなかった。その間、懇意になったジャン=クロード・ゲームという、20歳ほど年上の司祭から温かく励ましてもらったことを、後に「当時、わたしが無為のあまり邪道におちいりそうなのを救ってくれたことで、測りしれぬ恩恵をあたえてくれた」と回想している。<ref name=":0" />たとえ成功しても放浪は止むことなく、自分の進むべき道を探求した<ref>{{Cite book|和書|author=フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・シモン編著 |others=樺山紘一監修 |year=2004 |title=ラルース 図説 世界史人物百科 |chapter=II ルネサンス - 啓蒙時代 |publisher=原書房 |page=416}}</ref>。
 
父イザークは陽気で温和な性格をもった時計職人であり、ルソー家が代々営んでいた「時計師」は、当時のジュネーヴでは上位身分であった市民と町民のみに限定される職であった{{sfn|桑瀬編|2010|p=6}}(母方の祖父も時計師であった{{sfn|永見|2012|p=17}})。要するにジャン=ジャックは貧困層ではない中間的な職人階級の家に生まれたのであるが、幸せな家庭環境や安定した人生に恵まれなかった。7月7日、ジャン=ジャックは不幸にも生後9日にして母を喪っている{{sfn|永見|2012|p=18}}<ref name="中里(1969)27-28">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.27-28</ref>。母シュザンヌ・ベルナールは裕福な一門の出で、賢さと美しさを具えていたと言われている。ジャン=ジャックは母からこうした美点を受けついで誕生するが、幼いころは病弱であった。病気がちであったことは精神面の敏感さと共に生涯にわたって苦悩の原因になっていく。5年後の1717年にルソー家は上流階級の住む街グラン・リュから庶民の住むサン=ジェルヴェ地区に居を移し{{sfn|永見|2012|pp=18-19}}、ジャン=ジャックは父方の叔母シュザンヌ・ルソーの養育を受け、父親を手本に文字の読み書きなどを教わりながら育った。7歳の頃から父とともにかなり高度な読書をおこない、小説や[[プルタルコス]]の『英雄伝』などの歴史の書物を読む。この時の体験から、理性よりも感情を重んじる思想の素地が培われた<ref name="中里(1969)28-30">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.28-30</ref>。
[[1732年]]、ジュネーヴを離れて、ヴィラン男爵夫人の愛人となり、その庇護の下で様々な教育を受けた。彼は常に孤独を好み、また独学で膨大な書物を研鑽し、教養を身につけた。
 
1722年、ルソーが10歳のころ、彼の人生は一変する。
=== フランス時代 ===
ヴィラン男爵夫人と別れた後、[[1740年]]から[[1741年]]にかけて、[[リヨン]]のマブリ家(哲学者マブリ、[[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック]]の実兄の家)に逗留し、マブリ家の[[家庭教師]]を務めた。
 
父は、ザクセン選帝侯に仕えた元軍人のゴーティエという貴族との喧嘩がもとで、剣を抜いたという一件で告訴され、ジュネーヴから逃亡せねばならぬ仕儀となったのだ<ref name="中里(1969)30-31">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.30-31</ref>。兄は徒弟奉公に出され(後に出奔して行方知れず)、孤児同然となったジャン=ジャックは、母方の叔父である技師ガブリエルによって従兄のアブラハム・ベルナールと共にランベルシェという牧師に預けられたが、ジュネーヴ郊外のボセーで不自由な寄宿生活を送ることになった。しかし、ルソーにとってここでの暮らしは決してよい生活ではなく、牧師の妹で未婚の40代女性ランベルシェ嬢から身に覚えのない罪で度々折檻もされたという。この時期、不法な支配への反発心とともにルソーの[[マゾヒズム]]という[[性癖]]が形成された<ref name="中里(1969)31-33">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.31-33</ref>。
この職を辞めた後、[[1742年]]に音楽の新しい記譜法を考案し、それを元手にパリに出て、[[ドゥニ・ディドロ]]らと親しくなる。これが契機となって、後の一時期『[[百科全書]]』に寄稿している。更に[[1745年]]には、下宿の女中テレーズ・ルヴァスールを愛人として、10年間で5人もの子供を産ませ、5人とも養育院に入れてしまった<ref>[http://www.kirokueiga.jp/two_pillar/human_education/ruso_pol_1.pdf 「J.J.ルソーの生涯」]</ref><ref name=":0">{{Cite book|和書|author=ルソー |others=桑原武夫訳 |title=告白 |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫}}</ref><ref>[http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10466/8931/1/2009200494.pdf 浅井美智子「近代の性的主体の構造 : ルソーの『告白』を手がかりに」] 大阪府立大学人文学論集23、2005年。</ref>。しかし、[[1750年]]にディジョンのアカデミーへの懸賞論文「学問及び芸術の進歩は道徳の純化と腐敗のいずれに貢献したか」において彼が執筆した著作『学問芸術論』が入選して、この不遇状態は一変、以後、次々と意欲的な著作・音楽作品を創作する。1753年、41歳にして書き上げた『[[人間不平等起源論]]』は初の大作であり、懸賞論文への解答であった<ref>{{Cite book|和書|author=フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・シモン編著 |others=樺山紘一監修 |year=2004 |title=ラルース 図説 世界史人物百科 |chapter=II ルネサンス - 啓蒙時代 |publisher=原書房 |page=418}}</ref>。ベストセラーとなった書簡体の恋愛小説『新エロイーズ』(1761年)、『[[社会契約論]]』(1762年、50歳)等はこの時期に執筆されている。ただしこの間、[[ヴォルテール]]、[[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]、ディドロら当時の思想界の主流とはほとんど絶交状態となった。1756年(44歳)、ヴォルテールの著作『リスボンの災禍にかんする詩』に対してルソーが異論を唱えた時、対立関係は決定的なものとなった。
 
1724年秋にジュネーヴに帰ってから司法書記マスロンのもとで書記見習いとなるも長続きせず、1ヶ月半後には、横暴で教育能力のない20歳の[[彫金]]師デュマコンのもとで5年契約の徒弟奉公を強いられた{{sfn|永見|2012|p=21}}。ルソーは日常的に[[虐待]]を受け、次第に虚言を語り、仕事をさぼって悪事や盗みを働く素行不良な非行少年となっていた。ただし、生活環境が悪化して無気力になっていたものの読書の習慣は続いていた。貸本屋で本を借りて読書に耽っては仕事をさぼり、親方に本を取り上げられたり、捨てられたりしながらも読書を続けた。ルソーにとって読書は唯一の逃避だったのである<ref name="中里(1969)33-35">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.33-35</ref>。
 
=== 青年時代 ===
==== ヴァランス夫人との出会い ====
[[ファイル:FrancoiseLouiseWarens.jpg|thumb|right|ヴァランス夫人]]
1728年3月14日、ルソーは市の城門の閉門時間に遅れて、親方からの罰への恐怖から遂に出奔を決意する。従兄のベルナールから僅かな金と護身用の剣を受け取り、一年に及ぶ放浪生活に入った<ref name="中里(1969)36">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.36</ref>。当初、南に向かって歩き始め、[[サルディニア王国]]の[[トリノ]]に行くが落ち着き先を得られずに放浪した。やがて、[[サヴォイア公国|サヴォワ領]]のコンフィニョンに流れ着き、カトリック司祭のポンヴェール<!--Benoît de Pontverre-->の保護を受け、落ち着き先を手配された。それがルソーの生涯に大きな影響を与える貴婦人の屋敷であった<ref name="中里(1969)37">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.37</ref>。
 
1728年3月21日、ルソーは[[アヌシー]]のヴァランス男爵夫人の屋敷を訪ねて世話を受けるようになった。ルソー15歳、フランソワーズ=ルイーズ・ド・ラ・トゥール・ド・ヴァランスはこのとき29歳であった。二人の出会いについてルソーはこう回想している。
 
「わたくしはとうとう着いた。わたくしはヴァラン夫人にあった。……この一瞥の瞬間の驚きはいかばかりだったであろう。……。ボンヴェール司祭の言う親切な婦人というのは、私の考えでは、それ以外にはありえなかった。しかし、わたくしは、優美さに満ちた顔、やさしい青い美しい目、まばゆいばかりの顔色、そしてうっとりとさせるほどの胸の輪郭を見たのだ。若い改宗者は、すばやい一瞥でなにも見逃さなかった。若い改宗者と言ったのは、その瞬間わたくしは彼女のものとなってしまっていたし、また、この伝導師によって伝えられた宗教は、きっと天国に導いてくれると確信するようになったからである。……。ボンヴェール司祭の手紙をちらりと見てから、彼女はわたくしをどっきとさせた調子で『坊や、こんなに若いのに放浪しているの。本当にお気の毒です。』といい、さらに、『わたくしの家にいってわたくしをお待ちなさい。そして食事を言いつけなさい。ミサが済みましたらお話にいきます。』といった。」<ref name="中里(1969)37-38">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.37-38</ref>
 
ルソーはヴァランス夫人に恋をした<ref name="中里(1969)39">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.39</ref>。そのヴァランス夫人は15歳でセバスチャン=イザーク・ド・ロワと結婚したが、夫との不仲のため家を出てカトリックに改宗し、[[サルデーニャ]]王でもあるサヴォワ公[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]の保護を受け1500リーブルという多額の年金を与えられていた<ref name="中里(1969)38">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.38</ref>。
 
==== サヴォアの助任司祭 ====
彼女はルソーと暮らすことはなく、彼をカトリック改宗のためにトリノの救護院に行くように手配する<ref name="中里(1969)40">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.40</ref>。救護院では二カ月ほど缶詰状態の暮しであったが、形ばかりの改宗の後、20フランを与えられて解放され、再び自由の身となった<ref name="中里(1969)41">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.41</ref>。その後もさまざまな職業を試したが、不良時代の名残で素行が悪く盗みを働いたり、虚言で人に罪を着せたりとしたため信用を失い、結局どの職にも落ち着くことができなかった<ref name="中里(1969)42-43">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.42-43</ref>。
 
その間、懇意になったジャン=クロード・ゲームという、20歳ほど年上のサヴォアの助任司祭から温かい援助を受けていた。ゲームは裕福なわけでも仕事の紹介や世話をしたわけではないが、悪事を働きそのたびに失敗するルソーが生き方を改められるように「小さな義務を果たすことは英雄的行為に匹敵するほど大事なことで、常に人から尊敬されるように心がけるよう」助言を与えた。幸福になるためこれまでの生き方を捨て健全な道徳と正しい理性を保って生きるように、ゲームから勧められ励ましてもらったことを、ルソーは後に「当時、わたしが無為のあまり邪道におちいりそうなのを救ってくれたことで、測りしれぬ恩恵をあたえてくれた」と回想している<ref name="中里(1969)44-45">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.44-45</ref>。
 
この時の経験は後にルソーが執筆した『[[エミール (ルソー)|エミール]]』第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」の思想で中核を占める部分となる。
 
==== ヴァランス夫人との暮らし ====
ルソーはその後も使用人などの職を転々として各地を放浪していたが、1729年春、ヴァランス夫人のもとに再び戻ることになる。ヴァランス夫人はルソーの無事を喜びルソーを引き取ることを決心する。夫人は母のようにルソーにキスをして撫で「坊や」と呼び、ルソーは夫人を「ママン」と呼んだという。親子のような情愛を受けルソーは幸福であった<ref name="中里(1969)47-48">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.47-48</ref>。
 
ヴァランス夫人はルソーを神学校や音楽学校に入れ、将来の職を得られるように図ったが、ルソーは夫人からなかなか離れようとはせず学業は長続きしなかった<ref name="中里(1969)49">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.49</ref>。夫人はルソーが不在の折にパリに出立して消息を絶ってしまう<ref name="中里(1969)50">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.50</ref>。ルソーは突如孤独となったが夫人の女中メルスレが親元に帰るのに同行することになった。ルソーはジュネーヴを経由し、ニヨンに立ち寄って父イザークを訪ねた。二人は涙を流して再会を喜んだ。しかし、ルソーは父親と暮らす意思はないことを父に伝えた<ref name="中里(1969)50">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.50</ref>。その後、メルスレを実家に送り戻したがルソーはアヌシーに帰らず、再び放浪を始めた。
 
==== 再びの放浪生活 ====
ルソーは音楽が好きであったため(教えるほどの力はなかったが)音楽家を自称して音楽教師になろうとした。能力不足とはいえ、音楽を勉強する機会になったという<ref name="中里(1969)51-52">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.51-52</ref>。1731年4月、[[エルサレム]]の僧院長を自称する詐欺師に秘書兼通訳志としてスイスの[[ベルン]]で行動を共にしているところを、フランス大使館に引き留められ保護されることになった。フランス大使館の書記官の計らいで[[パリ]]に行く機会を与えられる<ref name="中里(1969)53">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.53</ref>。
 
[[ファイル:Carte topographique des environs et du plan de Paris - 1735 - btv1b8442730b.jpg|thumb|200px|[[1735年]]のパリの地図]]
'''ルソーは[[パリ]]にはじめて到着したが、そこで目にしたのは悪臭に満ちた街路、黒くて汚い家々、乞食があふれる不潔な大都市であった'''<ref name="中里(1969)53">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.53</ref>。大使館から与えられたルソーの所持金はなくなりつつあった。しかし、ルソーはヴァラン夫人に再会できずにいた。夫人は二か月前に同地を立っていたのである。そこでルソーは無一文であったが徒歩で[[リヨン]]に向かう。途中途中美しい田園風景が広がっており、ルソーは農家の家に泊めてもらいながら旅をした。ルソーはフランス農村部の百姓の暮らしを見ることになる。
 
ルソーは歩き通しで空腹に耐えかね、油分を絞った後の薄いミルクと大麦パンという質素な食事を一気に食べる。これを見た主人はルソーが役人ではないこと理解し、今度は隠していた小麦のパンとハムとワインを用意してオムレツまで提供した。度重なる重税から逃れるために貧しい暮らしを演じていたのである。ルソーのこの旅行での経験はルソーにとって意義深いものとなった、'''「自然が美しい豊かな恵みを与えているのに、それを重税が破壊してしまう」様を目の当たりにした'''のである<ref name="中里(1969)54-55">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.54-55</ref>。リヨンに着いてヴァランス夫人を探したものの、夫人はいなかった。だが、夫人の知人と会うことができ、連絡を取る約束を得た。ルソーは楽譜の写本の仕事をしながら滞在し、夫人からの連絡を待っていた。しばらくのち、シャンベリーにいた夫人から手紙と旅費が届き、1731年9月夫人と再会を果たす<ref name="中里(1969)56">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.56</ref>。
 
==== ヴァラン夫人との愛人生活 ====
ルソーは土地測量の書記の仕事を紹介され地図作成の技術を教わり、デッサンに興味を持つ。ルソーは植物のデッサンにそのときのスキルを生かしている。しかし、ヴァランス夫人との生活はルソーの自立を困難なものにした。共通の趣味となった音楽に嵌まり、仕事を半年余りで投げ出してしまう<ref name="中里(1969)57">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.57</ref>。
 
夫人が自宅で開く月一の音楽会では、若くて麗しい美男子のルソーは女性たちの関心の的となっていた。ルソーはラール夫人から娘の家庭教師を引き受けてほしいと頼まれたが、夫人のルソーへの関心を知るヴァランス夫人はこれを聞き、ルソーを他の女性から守ろうと考え始める。ルソーはヴァランス夫人と[[性交渉]]を持ち、女性を教わることになる。'''ヴァランス夫人との関係は1732年以降、保護者と被保護者の関係を越えた愛人関係になっていく'''<ref name="中里(1969)58-59">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.58-59</ref>。ルソーはこの時の心境をかく告白している。
 
[[ファイル:LesCharmettes.jpg|thumb|right|1735年から1736年にかけてヴァランス夫人と暮らした屋敷]]
「わたくしははじめて女性の腕に抱かれた。熱愛する女性の腕に抱かれていたのだ。わたくしは幸福であったであろうか。そうではなかった。わたくしはあたかも[[近親相姦]]を犯したような気持ちであった。」<ref name="中里(1969)59">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.59</ref>
 
そんな時期、夫人が手掛ける薬品の製作の補助で事故がおこり、ルソーは一時生死をさまよう。その後も思うような回復が見られなかったことから、農村のレ・シュルメットに転居する。同地でルソーは好きな読書に励み、菜園での果樹の栽培をおこなうなど快適な暮らしをしていた<ref name="中里(1969)60">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.60</ref>。しかし、'''身体の変調からルソーは死を感じるほど患い'''、これによりルソーの人生に再び重要な転機が起こる。'''残り僅かの人生だと覚悟し、これを有意義に使おううと考えるようになった'''のだ。ルソーは元々の読書力を駆使して哲学、幾何学、ラテン語を学習し、独学で膨大な書物を読破して研鑽し、教養を身につけた。哲学では、『[[ポール・ロワイヤル論理学]]』や[[ジョン・ロック]]の『[[人間悟性論]]』、[[マールブランシュ]]、[[ライプニッツ]]、[[デカルト]]など書物を読み、'''哲学と科学の学習を始めた'''。その庇護の許に青年時代を送り、音楽を勉強し、貪婪なほどの好奇心で[[ギリシア哲学]]や[[モラリスト]]の著作、[[啓蒙主義]]などの自学自習に没頭して教養をつくった。ヴァランス夫人の感化とルソーの敬愛の情は彼自身が認めるように大きかった。なかば母子でもあり愛人関係でもあるかたちでヴァランス夫人のもとで庇護されながら、さまざまな教育を受けた<ref name="中里(1969)61-62">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.62-62</ref>。この時期については晩年、生涯でもっとも幸福な時期として回想している。
 
1737年、医師の診断を受けるために[[モンペリエ]]に出かけた後、ルソーはヴァランス夫人との我が家に異変を感じる。ヴァランス夫人が18歳のヴィンシェンリードという新しい愛人を家に入れていたのである。ルソーは新しい愛人と折り合うのを拒み、ヴァランス夫人と距離を置きはじめた結果、二人の関係は冷めていってしまう。ルソーは夫人に家を出ることを伝え、自分の進むべき道を探求する決意を告げた。マブリ家の家庭教師を務めるつもりであることを説明して、夫人はこれに賛同し、ルソーは独立する<ref name="中里(1969)63">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.63</ref>。
 
ヴァランス夫人と別れた後、[[1740年]]から[[リヨン]]のマブリ家(哲学者マブリ、[[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック|コンディヤック]]の実兄の家)に逗留し、マブリ家の二人の子供の[[家庭教師]]を務めた。しかし長続きしなかった。ルソーは家庭教師もうまくいかず、さらにワインの盗み飲みを発見されて、マブリ家にいづらくなっていた<ref name="中里(1969)63">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.63</ref>。レ・シュルメットのヴァランス夫人の家に一時戻るが、夫人の家は(ルソーがいたころからであるが)家計が長く傾いており、そこにルソーの居場所はなかった。ルソーはヴァランス夫人への恩返しのためにパリでの立身出世を志すようになる<ref name="中里(1969)64">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.64</ref>。
 
=== パリ時代 ===
==== 学界デビュー ====
[[ファイル:Louise Marie Madeleine Fontaine 1706-1799.jpg|thumb|200px|right|若き日のデュパン夫人]]
ルソーは家庭教師の職を辞めた後、[[1742年]]に数字によって音階を表す音楽の新しい記譜法を考案し、それを元手にパリに出て、一儲けしようと考える。パリ、ソルボンヌに近いコルディエ街のサン=カンタンというホテルに居住しながら執筆をおこない、8月22日、パリの[[科学アカデミー]]に『新しい音符の表記に関する試案』を提出した<ref name="中里(1969)65">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.65</ref>。ルソーに対してはいくらかの賛辞が贈られたが、経済的に用立つような職への紹介や斡旋は無かった。音楽の個人教師をしながら生計を立てるという生活が続き、外出もなく孤独に引き篭もる毎日だったという。例外で[[ドゥニ・ディドロ]]と親しくなり、カステル神父の紹介で社交界の女性たちと交友する機会を得ている<ref name="中里(1969)66-67">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.66-67</ref>。
 
[[ファイル:Louis-Michel_van_Loo_001.jpg|thumb|right|[[ドゥニ・ディドロ]]]]
文化人の一人として活動するようになったものの、ルソーはサヴォア地方の田舎上がりの人物で、パリ社交界の中心的な存在とは程遠かった。社交界には当時最高の美女と評されたデュパン夫人や大物知識人[[ヴォルテール]]の姿もあった<ref name="中里(1969)67">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.67</ref>。
 
1743年ルソーは、[[ヴェネツィア]]にフランスの大使の秘書として勤務したが、大使の横暴に耐えかね一年後に辞職していた。やむなくパリに帰るが、俸給の給与を受けられないなど不条理な扱いを受けた<ref name="中里(1969)68">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.68</ref>。さらに、音楽家として生きる道を志していたが、満足いく評価を得られず大成の道は困難となっていた。また、1745年にはオペラの楽曲として『恋のミューズたち』の作曲活動に従事していた<ref name="中里(1969)69">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.69</ref>。
 
==== テレーズとの出会い ====
ルソーはサン=カンタンのホテルで23歳の女中テレーズ・ルヴァスールに出会い、恋に落ちる。テレーズに教養は無く、文字の読み書きも満足にできなかったという。ルソーはそうではあるが、彼女の素朴さに惹かれたようである<ref name="中里(1969)69">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.69</ref>。
 
二人は「決して捨てないし結婚もしない」という条件で生涯添い遂げるが、晩年になるまで正式な結婚はしなかった。この二人の関係は、周囲の状況に影響を受け順調にはいかなかった。テレーズの親類縁者がルソーを図々しく頼り、ルソーは稼がなくてはならなくなる<ref name="中里(1969)70">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.70</ref>。また、'''二人の間には1747年から1753年までに五人の子供ができるが、経済力のないルソーは当時では珍しいことではないのだが、わが子を孤児院に入れている'''<ref name="中里(1969)72">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.72</ref>。当時のパリでは年間3千人の捨て子が発生しており、この問題はすでに社会現象化していた。ルソーも当時の悪しき社会慣行に従ったわけだが、この出来事は『エミール』を書くときに深い反省を強いるものになり、ルソーに強い後悔の念をもたらしていく。
 
この時期のルソーは窮乏しており、デュパン夫人とその義理の息子であったフランクィユ氏の秘書をして暮らしを立てていた<ref name="中里(1969)72">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.72</ref>。
 
==== 学問芸術論の執筆 ====
1749年、友人のディドロが『盲人書簡』という冊子を匿名で出版するが、内容に無神論的な記述があったため、ヴァンセンヌの監獄に収監された。ルソーは度々ディドロを訪ねている<ref name="中里(1969)73">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.73</ref>。
 
こうした状況の1750年、ルソーは『メルキュール・ド・フランス』という雑誌の広告を目にし、[[ディジョン]]のアカデミーが「学問及び芸術の進歩は道徳を向上させたか、あるいは腐敗させたか」という課題の懸賞論文を募集していることを知る。ルソーに突然の閃きが生じて、三十分にわたり精神が高揚して動けなくなったてしまったという。ルソーはこのときの感想を「これを読んだ瞬間、わたくしは他の世界を見た。わたくしは他の人間になてしまった。」と述べている。『ファブリキウスの弁論』という小論をディドロに読んで聞かせて感想を求めた。ディドロは速やかに論文を執筆するように助言し、ルソーは早速執筆をすすめアカデミーに論文を提出した<ref name="中里(1969)73-74">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.73-74</ref>。
 
ルソーは文明への道徳的批判のテーマを掲げて持論を展開させ、自分自身の確固のものとなっていた信念を一流の論述によって表現した。
 
'''人間は本来善良であるが、堕落を正当化する社会制度によって邪悪となっている'''という直感のもとに、学問・芸術の発達が素朴さに表されるような美徳を喪失させて人々に奴隷状態を好ませていると批判を展開していく。「学問、芸術の光が地平線の上にのぼるにつれて、美徳が逃れ去るのがみられる」と述べて、文化・文明の発達は不平等の起源であり、道徳の堕落と併行すると主張したのである。質実剛健と公的精神にあふれた古代[[スパルタ]]の市民の道徳的な貞潔さや健全さを指摘、郷愁に満ちた思いのうちに答えを見出そうとした。'''文化を健全化させるには人間の自然である「良心の声に耳を傾ければ」良いと見解を示し、人間の良心に学問や哲学、芸術を基礎付けるべきだと主張した'''。
 
学問と芸術の発達が人間の腐敗と堕落をもたらすことを主張し、論壇に衝撃を与えたのである。彼が執筆した著作『学問芸術論』({{lang|fr|''Discours sur les sciences et les arts, 1750''}})は見事入選を果たす。
 
これが契機となり不遇な状態は一変、以後次々と意欲的な著作・音楽作品を創作する。ルソーは自分が有名になって以降、パトロンとして保護したいというフランクィユ氏など周囲からの申し出を断り、独力で音楽活動にも邁進しながら楽譜の写本などの手段で生計を立てる道を模索する<ref name="中里(1969)76-77">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.76-77</ref>。
 
1752年の春、ルソーは健康状態がすぐれなかったため[[パシー]]にいた。そこで『村の占い師』を作曲する。この楽曲は王宮で公演され、国王[[ルイ15世]]の関心を惹くことになった。ルソーは国王から年金給与の申し出を受け、拝謁の機会を賜っている。しかし、ルソーは泌尿器系の持病をもち瀕尿であったため、人前で失禁する恐怖を感じながら生活をしていた。社交界での活動を控え、引き篭もるような暮らしをしていたのには、こうした身体面での悩みのためであった。また、国王とうまく話せる自信がなかったため、国王の申し出を辞退する。この一件は人々から厳しく非難され、ディドロもルソーを咎めた。発言や執筆の自由を失うことを恐れたことも要因ではあるが、ルソーが家族を扶養する立場にあったことと考え合わせると、ルソーのパトロンに対する拒絶と国王からの年金給付に対する辞退は正しい判断とは言えない<ref name="中里(1969)77-78">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.77-78</ref>。
 
==== 人間不平等起源論の執筆 ====
1753年、ディジョンのアカデミーが再び「人々の間の[[不平等]]の起源は何か、それは[[自然法]]によって正当化されるかどうか」という主題のもと懸賞論文を募った。ルソーは論文執筆のために[[サンジェルマン]]に行った。かの地で、ルソーは彼にとってさらに本質的な問いに対して『[[人間不平等起源論]]』({{lang|fr|''Discours sur l'orgine de l'inegalite parmi les hommes, 1755''}})を著した。ルソーは『学問芸術論』の論文の文明批判の原理を更に展開させた。『人間不平等起源論』は41歳にして書き上げたルソー初の大作であり、懸賞論文への解答であった<ref name="中里(1969)79">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.79</ref>。
 
ルソーは、本来の人間存在である[[自然人]]は与えられた自然の環境的条件のもとで自足的に生きており、自己愛と同情心以外の感情は持たない無垢な精神の持ち主であったとしたうえで、'''[[平等]]で争いのない[[自然状態]]を描きだした'''。
 
しかし、こうした理想の状態は人間自身の進歩によって失われていったと見た。人々が農業を始め土地を耕し家畜を飼い文明化していく中で、生産物からやがて不平等の原因となる富が作り出され、富をめぐって人々がしだいに競い合いながら不正と争いを引き起こしていったと考えた。'''私有財産制度が[[ホッブス]]的闘争状態を招いた'''と指摘したのである。
 
やがて、こうした状況への対処として争いで人間が滅亡しないように'''欺瞞の[[社会契約]]'''がなされる。その結果、'''富の私有を公認する私有財産制が法になり、国家によって財産が守られるようになる。かくして不平等が制度化され、現在の社会状態へと移行したのだと結論付けた'''。富の格差とこれを肯定する法が強者による弱者への[[搾取]]と支配を擁護し、'''[[専制]]に基づく政治体制が成立する'''。「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」に基づく桎梏に人々を閉ざし、不平等という弊害が拡大していくにつれて悪が社会に蔓延していくのだと述べた。ルソーはこうした仮説に基づいて、文明化によって人民が本源的な自由を失い、社会的不平等に陥った過程を追究、現存社会の不法を批判した。
 
不平等によって人間にとっての自然が破壊され、やがて道徳的な退廃に至るという倫理的メッセージを含んだ迫力は人々のこころに恐怖感を煽るほどの強烈な衝撃となった。その後この書はヴォルテールなど進歩的知識人の反発を強めさせ、進歩の背後に堕落という負の側面を指摘する犬儒性の故に「世紀の奇書」とも評された。
 
=== 思想の巨人ルソー ===
==== モンモラシーへ ====
1754年6月1日、ルソーはテレーズと共にジュネーヴに帰郷した。ルソーはジュネーヴの共和制を愛していた。「市民は教育されており、確固として慎み深く、また、その権利を認識しており、勇敢に主張」するとともに、「他人の権利を尊重」している社会であると見ていた。しかし、ルソー自身はかつて若いころにカトリック教徒に改宗していた。ジュネーブはプロテスタント国なのでルソーは宗派の違いに悩み、ジュネーヴ市民になるためにプロテスタントに再び改宗した。だが、ジュネーヴでのルソーの評価は芳しくなかった。ルソーは『人間不平等起源論』にジュネーヴ市民に捧げて献辞を捧げたが、これについても予想していたような好評は得られなかった。ルソーはパリでの生活を整理するために一時パリに戻るが、ジュネーヴでの評判が思わしくないのを知り、ジュネーヴに戻るのを断念したため滞在はごく短期間に終わる<ref name="中里(1969)80-81">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.80-81</ref>。
 
[[ファイル:Louise d'Epinay Liotard.jpg|right|thumb|200px|デピネ夫人]]
ルソーはデピネ夫人から[[モンモランシー (ヴァル=ドワーズ県)|モンモランシー]]にレルミタージュ(隠者の庵)という小さめの邸宅を宛がわれた。'''ヴォルテールとの関係は好ましいものではなかった。『人間不平等起源論』を贈っているが、「人はあなたの著作を読むと四足で歩きたいと思うでしょう」と嫌味を言われている'''。こうしたこともあって、ヴォルテールがジュネーヴで暮らすのを聞き、当地での生活を断念した。ルソーは1756年からモンモランシーで暮らすことになった。ルソーの新しい住居はパリから16キロ離れた田園地帯にあり、都市の喧騒から離れたいと願っていたルソーにとって非常に良い環境にあった<ref name="中里(1969)82">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.82</ref>。
 
ルソーは邸宅の周辺の森を散歩をしながら哲学、政治思想、教育理論に関する思索をおこない『政治制度論』を執筆し、『社会契約論』や『エミール』の中心部分を仕上げていった。また、ときには恋愛について夢想して『新エロイーズ』といった作品の執筆活動を進めていった<ref name="中里(1969)83">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.83</ref>。そんな中、ルソーは友人サン・ラベールの愛人であったデュドト夫人の訪問を受ける。夫人は30歳にちかい年齢の女性で美人ではなかったというが、柔和で優しい生き生きとした女性であった。ルソーは彼女に心奪われてしまう。デュドト夫人にはルソーと恋仲になるつもりはなかったので片思いで終わるが、ルソーと夫人は親しく交流し、ルソーにヴァランス夫人やテレーズでは得られなかった幸福な思いをもたらした<ref name="中里(1969)84-86">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.84-86</ref>。
 
しかし、恋に夢中となってデピネ夫人との関係は悪くなった。デピネ夫人が妬みを起こして二人の関係を裂こうとしたのである。デピネ夫人にグリムやディドロ、そして妻のテレーズも加担していたので、ディドロとの関係も悪化した。とうとうレルミタージュから出ていくことになり、パトロンであった[[ルイ・フランソワ1世 (コンティ公)|コンティ公]]の計らいで彼の税理士だったマタス氏がモンモランシーに所有していたプティ・モン・ルイという小さな田舎家を借りて暮らすことになる<ref name="中里(1969)87">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.87</ref>。
 
==== 百科全書派との断交 ====
[[ファイル:Voltaire3.jpg|thumb|left|200px|ヴォルテール]]
ルソーが名を馳せるようになったことが縁で、一時期では『百科全書』に「政治経済論」を執筆・寄稿している。しかし、1755年に10万人の死傷者を出す大災害[[リスボン地震 (1755年)|リスボン地震]]が発生、ヨーロッパに衝撃が広まった。ヴォルテールは『リスボンの災禍にかんする詩』において神の存在性と慈悲に対する批判をおこなった。これに対して、ヴォルテールに手紙を書いて自説を展開させている。ルソーは地震の災厄が深刻化したのは神の非情さではなく、都市の過密によるものであり、これは人災であるという見方を提示した。'''文明への過度の依存が持つリスクに対して警鐘を鳴らすとともに自然と調和することの必要性を説いてヴォルテールの見解に異論を唱えた'''のである。こうした論争の中で対立関係は決定的なものとなった。
 
次の『演劇に関するダランベールへの手紙』({{lang|fr|''La lettre a d'Alembert sur les spectacles, 1758''}})に至って[[ヴォルテール]]、[[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]、ディドロら当時の思想界の主流とほとんど絶交状態となった。ダランベールが『百科全書』の「ジュネーヴ」の項に町に劇場がないことを批判する一文を載せた。カルヴァンが町に劇場を建てることを禁じたため、劇場がなかったのである。ルソーはジュネーヴでの劇場の建設は市民の徳を堕落させるもので有害であると見解を示した。そして、こうした立場の故、ヴォルテール、ディドロら他の啓蒙思想家たちの無神論的で文明賛美的な傾向との違いが顕著となり、彼らとの関係は決定的に破局した。これは思想的な対立によるものだけでなく、感情的な反感も含まれている。ディドロはルソーの引き篭もりと田舎暮らしを批判し、またデピネ夫人との確執に首を突っ込み、ルソーの家族を引き離そうと画策した。こうした争いの結果、ルソーはかつての友人たちと仲違していく<ref name="中里(1969)88-89">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.88-89</ref>。
 
彼の思想は壮年期の大作にしてベストセラーとなった書簡体の恋愛小説である『新エロイーズ』({{lang|fr|''Julie ou La Nouvelle Heloise, 1761''}})が発表される。この手紙体の長編小説は自然への回帰による人間性、家族関係、恋愛感情、自然感情等の調和的回復を謳い、熱狂的な反響を呼んだ<ref name="中里(1969)90">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.90</ref>。
 
==== 『社会契約論』と『エミール』 ====
1762年4月、彼の思想は『[[社会契約論]]』({{lang|fr|''Le Contrat social, 1762''}})によって決定的な展開、完成を示した。
 
ルソーは、『人間不平等起源論』の続編として国家形成の理想像を提示しようとする。ホッブスやロックから「[[社会契約]]」という概念を継承しながらさまざまな人々が社会契約に参加して国家を形成するとした。そのうえで、人々の闘争状態を乗り越え、さらに自由で平等な市民として共同体を形成できるよう、社会契約の形式を示した。まず、社会契約にあたっては'''これまで持っていた特権と従属を共同体に譲渡して平等な市民として国家の成員になることが求められる。そのうえで市民は国家から生命と財産の安全を保障される'''。
 
社会契約によってすべての構成員が自由で平等な単一の国民となって、国家の一員として政治を動かしていく。だが、めいめいが自分の私利私欲を追及すれば、政治は機能せず国家も崩壊してしまう。そこで、'''ルソーは各構成員は共通の利益を志向する「[[一般意志]]」のもとに統合されるべきだと主張した'''。公共の正義を欲する一般意志に基づいて自ら法律を作成して自らそれに服従する、人間の政治的自律に基づいた法治体制の樹立の必要性を呼びかけた。
 
このように、主権者と市民との同一性に基づく[[人民主権]]論を展開し、近代[[民主主義]]の古典として以後の政治思想に大きな影響を及ぼした。そして政府は人民の「公僕」であるべきだと論じつつ、国民的な集会による'''直接民主制の可能性も論じた'''。ただし、人民の意志を建前に圧政がしかれる可能性があり、『社会契約論』には過酷な政治原理が提唱されていると指摘する論者もいる。そのため、この著書には今日でも賛否両論が存在している。
 
1762年5月、小説的な構成をもつ斬新な教育論『[[エミール (ルソー)|エミール]]』({{lang|fr|''Emile ou l'Ecucation, 1762''}})が刊行される。
 
『エミール』では理想となる教育プランを構想している。社会からの余計な影響を受けないよう家庭教師による個別指導に徹するべきだと主張した。そのうえで、'''自然による教育、人間による教育、事物による教育'''という三つの柱を示した。自然による教育だが、これは子どもの成長のことである。人間による教育は、教師や大人による教育である。最後に事物による教育は外界に関する経験から学ぶということである。'''ルソーは子どもの自主性を重んじ、子どもの成長に即して子どもの能力を活用しながら教育をおこなうべきだと考えた'''。
 
ルソーは、子どもは年齢に応じた発達段階に合わせて経験から学習し、教育されるべきだと考えた。幼い子どもに対しては情操面の発達を重んじ、感覚や知覚で理解できる範囲を経験で教えていく。自然人として理想的な状態をつくっていくことを目標とした。しかし、成人すると社会で生きていく必要があるので社会人になれるような教育も行う。子どもが思春期に入って理性に目覚めると市民教育を受けるべきだと考えた。道徳感情から社会を学んだり、宗教から生きる意味を考えたり、歴史に関する知識も与えられ、成長と共に教育を受けて国家の一員として相応しい人間となっていく過程が描かれた。
 
『人間不平等起源論』、『社会契約論』、『エミール』は三部作の関係である。
 
=== 亡命、そして帰国 ===
==== 迫害 ====
[[ファイル:Allan Ramsay - Jean-Jacques Rousseau (1712 - 1778) - Google Art Project.jpg|thumb|upright|アルメリア人風衣装を着た1766年のルソー]]
『エミール』はオランダとパリで印刷され、出版される運びとなった。『社会契約論』は自由と平等を重んじ、特権政治を否定する立場が表明された。それ以上に問題なるのは、『[[エミール (ルソー)|エミール]]』第4巻にある'''「サヴォア人司祭の信仰告白」が持つ[[理神論]]的で自然宗教的な内容が、物議を醸す'''ことであった。カトリック教会を否定する思想は当時の世では危険思想であった。印刷の段階で中断が相次ぎ、容易に出版には入れなかったこともあり、ルソーは状況を心配せねばならなくなる。懸念していた通り、「サヴォア人司祭の信仰告白」は[[パリ大学]]神学部から厳しく断罪された<ref name="中里(1969)92">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.92</ref>。『エミール』はパリ高等法院から焚書とされ、1762年6月9日ルソー自身に対しても逮捕状が出た。前日の深夜、このころ支援者となっていたリュクサンブール元帥の忠告に従い、ルソーはモンモランシーを離れて一路スイスはジュネーブに亡命しようと計る<ref name="中里(1969)93">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.93</ref>。しかし、ジュネーヴでも支援者のロガン氏がおり一時の滞在地に選んだイヴェントンでもルソーへの迫害がはじまり、ルソーの居場所はどこにもなくなりつつあった。窮状を救ったのは皮肉にもルソーが憎んでいた専制君主であった。
 
スイスの[[ヌーシャテル]]地方のモチエ村にロガン氏の縁者が所有する家があり、ルソーはそこに落ち着き先を得る。モチエ村はプロイセン領であった。当時[[プロイセン王国]]は[[啓蒙専制君主]][[フリードリヒ大王]]の治世で、寛大で知られる王に保護を期待していた。ルソーはキース卿に手紙を書き、保護してほしいと願う。ルソーの願いは聞き入れられ、隠遁が許される<ref name="中里(1969)94">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.94</ref>。ルソーにとって望まぬ迫害より辛いのは、この年育ての親であり恩人であったヴァラン夫人が亡くなったことである。1754年にジュネーヴに訪問する際に会った折、ルソーは既に零落していた夫人を引き取って旧恩に報いることを考えおり、夫人に提案してしたが夫人がこれを固辞し、以来二人は会っていなかった。ルソーは母親代わりの女性に孝行できなかったのである<ref name="中里(1969)94">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.94</ref>。
 
悲しみに暮れるルソーを世間は放置しなかった。モチエにもルソーへの非難と迫害がはじまり、ルソーは居場所を失う<ref>同上 95ページ</ref>。ルソーはカトリック教会の教義に反発し、人間の権威には従わないと語ったが、これはカトリックだけでなくプロテスタント側からも反感を買った。当てにしていたジュネーヴの冷淡さに失望したルソーは1764年『山からの手紙』を書いてジュネーヴ批判と自分の弁明を始めていく。だが、ルソーの弁明に対してさらなる攻撃がおこなわれる。ジュネーヴ市民という匿名を持ってヴォルテールからもプライベートな家族の問題、とりわけ子どもを孤児院に送り捨てた過去をやり玉に挙げられ非難された。'''ルソーへの糾弾は思想対立ではなく、誹謗中傷を伴なう人格攻撃へと変わっていた'''のである<ref name="中里(1969)96-97">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.96-97</ref>。
 
ルソーは命の危険を感じてモチエ村を離れ[[ビール湖]]のサン・ピエール島に避難する。ルソーはこの島の自然を気に入るようになり、植物収集をして楽しみ、傷心を慰めている<ref name="中里(1969)97">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.97</ref>。
 
だが、サン・ピエール島でもいられなくなって1765年ベルリンを目指して途中[[ストラスブール]]に立ち寄る<ref name="中里(1969)97">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.97</ref>。ストラスブールでは大歓迎を受けたため、ルソーはこの地で落ち着くことを考えるが、ヴェルドラン夫人がフランスの通行許可証を用意してイギリスへの渡航を提案した。ロンドンにはルソーと同様高名な哲学者[[デイヴィッド・ヒューム]]がおり、二人を引き合わせてようと手筈を整えていた。自由で寛容なイギリスでならルソーも暮らしていけるだろうと考えたのである。ヒュームからも招待したいという手紙がと届き、ルソーはロンドンに行くことを決意する<ref name="中里(1969)98">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.98</ref>。
 
1765年12月ルソーはパリに向かい、[[ルイ・フランソワ1世 (コンティ公)|コンティ公]]から保護を受けてホテル・サンシマンに投宿する。しばらくは人目を忍んでいたが、すぐ人々の知るところとなり、人々が続々とルソーを訪問した。実質的にパリへの凱旋となった<ref name="中里(1969)99">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.99</ref>。そこで、ヒュームとも出会っている。ヒュームはルソーにすぐさま好感を感じ、すっかり心酔してしまったようである。しかし、ルソーはヒュームの友人ホーレス・ウォルポールの皮肉に嫌悪感を感じていた<ref name="中里(1969)99-100">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.99-100</ref>。
 
==== イギリスへ ====
[[ファイル:David Hume.jpg|thumb|200px|upright|デイヴィッド・ヒューム]]
1766年1月、ルソーはヒュームに連れられてロンドンに向かって出立した。
 
ロンドンに到着して、ヒュームはルソーを宿泊先としてエリオット夫人の邸宅を指定したが、そこにルソーに対して敵対的なスイスの医者トロンシャンの息子がいて、二人が鉢合わせしたため、ルソーが侮辱されることを恐れてエリオット夫人に他の住居を求めるといった悶着があった。ロンドンに滞在中もルソーは熱烈な歓迎を受けており、人々の訪問を受けた。国王もルソーを訪ねたという。ヒュームはウーットンに住居を用意して新居にルソーが入れるように手配したが、その際、手配役がルソーに路銀の節約のために自分の馬車を提供したところ、この対応がルソーの機嫌を損ねてヒュームと喧嘩するといったことが起こった<ref name="中里(1969)100-101">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.100-101</ref>。
 
ルソーはヒュームに対して次第に不信感を持つようになる。ウォルポールがルソーを非難するために作成したフリードリヒ大王の偽造書簡が新聞が掲載されたといったことがあったが、ヒュームはウォルポールの冗談として済ませたこともルソーにとって不愉快なことであった。ルソーが嫌いな人物をヒュームが弁護するのが我慢できなくなっていた。ルソーはヒュームに騙されていると感じ始めるようになる。一方、ヒュームは国王からルソーに対して年100ポンドの年金を支給するように嘆願をして、ルソーのために八方手を尽くして奔走していた。ルソーはヒュームを信じられなくなり、ついに6月23日にヒュームと絶交を宣言した<ref name="中里(1969)102">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.102</ref>。
 
この時期、ルソーは度重なる誹謗中傷に対して自分の弁明をしなければと考え、回想録を書こうと考える。スイスでの流転やヒュームへの不信と確執は『[[告白 (ルソー)|告白]]』({{lang|fr|''Les Confessions, 1782-89''}})を書き始める契機となった<ref name="中里(1969)103">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.103</ref>。
 
ルソーの精神状態はひどい状態になっていた。現在でいえば[[統合失調症]]と言えるような状態で、極度の不安と人間不信、[[被害妄想]]に悩まされた。もはやイギリスにはいれないと考え、フランスに帰る決断をした。そして5月半ばにドーバーからカレーに赴き、フランスに帰ってしまう<ref name="中里(1969)103-104">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.103-104</ref>。
 
=== 晩年 ===
[[ファイル:Rousseau in later life.jpg|thumb|upright|晩年のルソー]]
[[1762年]]、教育論『[[エミール (ルソー)|エミール]]』が世に出ると、その第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」の持つ自然宗教的な内容が、[[パリ大学]]神学部から厳しく断罪され、『エミール』は禁書となり、ルソー自身に対しても逮捕状が出たため、彼はスイスに亡命した。亡命中はスイス、[[イギリス]]などを転々としたが、彼を保護したイギリスの哲学者[[デイヴィッド・ヒューム]]と不仲になり、[[1770年]]、偽名でパリに戻った。
ルソーがフランスに帰国することは多くの人々の知るところとなった。兼ねてより親交をもっていた[[ルイ・フランソワ1世 (コンティ公)|コンティ公]]や[[オノーレ・ミラボー]]に状況を知らせて保護を求めた。まだパリ高等法院の逮捕状は効力を持っていたため、身を隠さなくてはならなかった。そこで、コンティ公はトリーの城にルソーを匿うことにした。1768年までの一年間ルソーはこの城で過ごすことになる。ルソーの精神は錯乱状態になっていた。ルソーはヒュームから攻撃されるという妄想に苛まれ、城の関係者が敵のスパイではないかと怯えながら暮らしていた。病人がでたり、関係者に不幸があったりすると、城の中には暗殺者がひそみ毒を盛ったり盛られたりしているのだと思い込んだりするほど切迫した精神状態であった。この時期はまともな精神状態ではなかったため執筆活動はほとんどできなかった<ref name="中里(1969)105-105">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.105-106</ref>。
 
1768年、ルソーは[[リヨン]]に向かい、そこから[[グルノーブル]]に進むんで旅をする。この旅ではルソーの尊敬する人々やルソーを敬愛する人たちに会う機会があり、[[シャンベリー]]に行ってヴァランス夫人の墓参りもした。テレーズもルソーのもとに到着し、二人はブルゴワン近郊のホテル「ラ・フォンテーヌ・ド・オル」で正式に結婚する。テレーズはついにルソー夫人になったわけである<ref name="中里(1969)106-107">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.106-107</ref>。
 
しかし、ルソーの病状は好転しては悪化をしたりしていて、この旅のさなかでも極度の不安に陥ることがしばしばあった<ref name="中里(1969)107">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.107</ref>。
 
1770年、ルソーは友人の反対にもかかわらずパリに帰る。パリでは依然としてお尋ね者であったが、市民の人気は熱狂的なもので、警察はルソーの所在を知っていたが、まったく捜索や逮捕などしようとしなかった。そのため、ルソーはパリで思うように好きに過ごすことができ、もてなしを受けたり、譜面の写本の仕事をしながら植物採集を楽しみ執筆活動に従事した<ref name="中里(1969)107">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.107</ref>。パリでは、被害妄想に悩まされつつ晩年の自伝的作品『[[告白 (ルソー)|告白]]』({{lang|fr|''Les Confessions, 1782-89''}})を完成させた。ルソーは要注意人物であったため出版は禁じられていたため、『告白』は朗読会で公表された<ref name="中里(1969)108-109">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.108-109</ref>。
 
この頃の暮らしは5時ごろに起床して楽譜を写す仕事をして、7時半ごろ朝食、午前中は仕事をして、午後になってからカフェに行ったり、植物採集をしたりして夕方になるころに帰宅し、21時ごろには寝るという暮らしだったという<ref name="中里(1969)109-110">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.109-110</ref>。ルソーは体調不良が続く中で『ポーランド統治論』 ({{lang|fr|''Considérations sur le gouvernement de Pologne, 1771''}})も執筆し、政治制度に関する研究や提言もおこなっている。まもなくポーランドはプロイセン、オーストリア、ロシアの三国による[[ポーランド分割|分割]]によって消滅する<ref name="中里(1969)109">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.109</ref>。
 
精神状態は悪化の一途を辿っていた。ルソーは迫害の恐怖に恐れおののき正気を保てなくなっていった。そこで、1772年からルソーは自己弁明のために『ルソー、ジャン=ジャックを裁く - 対話』 ({{lang|fr|''Rousseau juge de Jean-Jacques, 1777''}})を執筆に取り組み始めている。[[ノートルダム寺院]]に奉納しようととするが門が閉じていたため目的を果たせず、神さえ敵と共謀していると考えるようになった。ルソーはビラを印刷して人民に自分の身の潔白を訴えようとした<ref name="中里(1969)110">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.110</ref>。そして自分を見つめることに老年の仕事を見出し、『孤独な散歩者の夢想』({{lang|fr|''Les Reveries du promeneur solitaire, 1776-78''}})の執筆を始める<ref name="中里(1969)111">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.111</ref>。これらも『新エロイーズ』とともにロマン主義文学に,自然と自我の問題を提起して広大な影響を及ぼした。
 
[[ファイル:Jean-Jacques ROUSSEAU au Panthéon (Lunon).jpg|thumb|[[パンテオン]]に安置されたルソーの棺]]
だが、ルソーは年齢と共に体力も衰えて貧困に窮していき、病気になったテレーズの看病をしなくてはならず執筆活動を中断させたままとなった。1778年、愛読者のジラルダン侯爵の好意を受けてパリ郊外の{{仮リンク|エルムノンヴィル|fr|Ermenonville}}に移る。この地でルソーはジラルダン侯爵と好きな植物採集を楽しんだりしている。しかし、7月2日、ジラルダン侯爵の娘にピアノを教えるため支度をしている際、ルソーは倒れる。死因は[[尿毒症]]と言われているが、ルソーの容態は急激に悪化して、そのまま帰らぬ人となる。7月4日ルソーの遺体はポプラ島に埋葬された<ref name="中里(1969)111-112">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.111-112</ref>。
 
その死後、[[フランス革命]]が勃発、かれは革命の功績者と讃えられ、栄誉の殿堂[[パンテオン]]に合祀されている。
パリでは、亡命中から執筆していた自叙伝『[[告白 (ルソー)|告白]]』を完成させ、続いて最後の著作、『孤独な散歩者の夢想』の執筆を開始したが、この作品の完成を見ることなくパリ郊外の{{仮リンク|エルムノンヴィル|fr|Ermenonville}}にて死去した。
 
== 思想 ==
=== 社会契約説 ===
{{see also|民主政}}
先駆の[[トマス・ホッブズ]]や[[ジョン・ロック]]と並びルソーは、近代的な「[[社会契約]](Social({{lang|en|Social Contract)Contract}})説」の論理を提唱した主要な哲学者の一人である。
 
まず、1755年に発表した『[[人間不平等起源論]]』において、[[自然状態]]と、[[理性]]による社会化について論じた。ホッブズの[[自然状態|自然状態論]]を批判し、ホッブズの論じているような、人々が互いに道徳的関係を有して闘争状態に陥る自然状態はすでに社会状態であって自然状態ではないとした。ルソーは、あくまでも「仮定」としつつも、あらゆる道徳的関係(社会性)がなく、理性を持たない野生の人(自然人)が他者を認識することもなく孤立して存在している状態(孤独と自由)を自然状態として論じた。無論、そこには家族などの社会もない。理性によって人々が道徳的諸関係を結び、理性的で文明的な諸集団に所属することによって、その抑圧による不自由と不平等の広がる社会状態が訪れたとして、社会状態を規定する('''堕落''')。自然状態の自由と平和を好意的に描き、社会状態を堕落した状態と捉えるが、もはや人間はふたたび文明を捨てて自然に戻ることができないということを認め、思弁を進める。
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文明を主題にしたルソーの著作は、『学問芸術論』、『言語起源論』、『人間不平等起源論』など多い。その一貫した主張として、悪徳の起源を、奢侈、[[学問]]、芸術など、文明にこそ求めている点は非常に特徴的である<ref>『学問芸術論』、『言語起源論』、『人間不平等起源論』などを参照。</ref>。それらは、文明による「'''堕落'''」という言葉を以て示される。その文明に関する考え方は、まず『人間不平等起源論』に示される。前提として仮定される自然状態における自然人は、理性を持たず、他者を認識せず、孤独、自由、平和に存在している。それが、理性を持つことにより他者と道徳的(理性的)関係を結び、理性的文明的諸集団に所属することで、不平等が生まれたとされる。[[東浩紀]]は、ルソーの一般意志に関する研究書の中で、「社会の誕生を悪の起源とみなす。人間と人間の触れあいを否定的に評価する。これは社会思想家としては稀有な立場である。ルソーは多くの哲学者と異なり、人間の社交性に重要な価値を認めなかった<ref>{{Cite book|和書|author=東浩紀 |year=2011 |title=[[一般意志2.0]] |publisher=講談社 |page=60}}</ref>」と特筆し、思想史上、極めて特異なルソーの文明観に着目している。ルソーが、「人間が一人でできる仕事(中略)に専念しているかぎり、人間の本性によって可能なかぎり自由で、健康で、善良で、幸福に生き、(中略)。しかし、一人の人間がほかの人間の助けを必要とし、たった一人のために二人分の蓄えをもつことが有益だと気がつくとすぐに、平等は消え去り、私有が導入され、労働が必要となり、(中略)奴隷状態と悲惨とが芽ばえ、成長するのが見られたのであった」<ref>ルソー 『ルソー全集』第四巻「人間不平等起源論」第二部、白水社、240頁。</ref>と述べている部分に、その主張を端的に読み取ることができる。
 
[[リスボン地震 (1755年)|1755年リスボン地震]]に関して、[[啓蒙思想|啓蒙思想家]][[ヴォルテール]]が発表した『リスボンの災禍に関する詩』に対するルソーの批判にも、その文明観を見ることができる。ヴォルテールは、理性主義([[合理主義]])と[[理神論]]、理性的な文明を志向する思想の下、精力的に宗教批判や[[教会 (キリスト教)|教会]]批判を行ってきた。そのためヴォルテールは、罪なき多くの人間が犠牲となったリスボンの災禍を教会批判に用い、非合理的な宗教を誤謬の象徴として捉え、教会が守ろうとしてきた社会に対して、その最善の世界で何故このような災禍が起こるのかと問いを提起した(教会信者の[[楽天主義]]に対する批判)。これはヴォルテールの啓蒙活動のなかでも重要なものとなり、ヴォルテールは理性による社会改革を訴える。そうした一連の主張に対して、ルソーは強く批判を行った。ルソーの考えによれば、[[自然災害]]にあたって甚大な被害が起こるとき、それは、理性的、文明的、社会的な要因により発展した、人々が密集する[[都市]]、高度な技術を用いた文明が存在することによって、自然状態よりも被害が大きくなっているということなのである。ルソーは『ヴォルテール氏への手紙』において、次のように述べている。「思い違いをしないでいただきたい。あなたの目論見とはまったく反対のことが起こるのです。あなたは楽天主義を非常に残酷なものとお考えですが、しかしこの楽天主義は、あなたが耐えがたいものとして描いて見せてくださるまさにその苦しみのゆえに、私には慰めとなっています」<ref>ルソー 『ルソー全集』第五巻、白水社、12頁。</ref>、そして「私たちめいめいが苦しんでいるか、そうではないかを知ることが問題なのではなくて、宇宙が存在したのはよいことなのかどうか、また私たちの不幸は宇宙の構成上不可避であったのかどうかを知ることが問題なのです」<ref>ルソー 『ルソー全集』第五巻、白水社、22頁。</ref>。
 
=== 教育論 ===
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=== 音楽 ===
作曲家としてのルソーは、オペラ『村の占師』({{lang|fr|''Le Devin du village''}} [[1753年]]、[[パリ国立オペラ|パリ・オペラ座]]で初演)などの作品で知られる。なお、このオペラの挿入曲が、後に日本では『[[むすんでひらいて]]』のタイトルでよく知られるようになった童謡である。[[音楽理論|音楽理論家]]としては、音楽理論を整理し、音をより数学的に表現するため、「数字[[記譜法]]」を発案し、『音楽のための新記号案』を[[科学アカデミー (フランス)|科学アカデミー]]において発表した。その後、自身の音楽研究を『近代音楽論究』としてまとめている。また作曲の他に、晩年には『音楽事典』も出版している。
 
起源を音声に求めるルソーの言語論は、その音楽論と表裏一体の議論である。
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== その他 ==
一般にフランス王妃[[マリー・アントワネット]]が言ったものして流布して「[[ケーキを食べればいいじゃない|パンが無ければお菓子(ケーキまたはクロワッサン)を食べればいいじゃない]]」という言葉がよく知られているが「お菓子」の代わりにケーキやクロワッサンなどとも。原文は {{lang|fr|''S'ils n'ont pas de pain, qu'ils mangent de la brioche.''}}すれパンがないのであればブリオッシュを食べてはどうか、これの出所『告白』第6巻に書かれた記事が原典であると言われている(小咄)<ref>{{Cite book |last=Rousseau |first=Jean-Jacques |coauthor=Angela Scholar (trans.) |year=2000 |title=Confessions |location=New York |publisher=Oxford University Press |page=262}}</ref>である。原典では「たいへんに身分の高い女性」の言葉とされており、発言者がマリー・アントワネット(『告白』第6巻が執筆された1765年当時は9歳のオーストリア大公女だった)と結び付けられるのは後世である(考証は「[[ケーキを食べればいいじゃない]]」参照)
 
== 単著 ==
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|20em}}
 
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=桑瀬章二郎編 |year=2010 |title=ルソーを学ぶ人のために |publisher=世界思想社 |ref={{harvid|桑瀬編|2010}}}}
*{{Cite book|和書|author=桑原武夫 |year=1962 |title=ルソー |publisher=岩波書店 |ref={{harvid|桑原|1962}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[中里良二]]|date=1969年|title=ルソー (センチュリーブックス 人と思想 14)|publisher=[[清水書院]]|ref=中里(1969)}}
*{{Cite book|和書|author=永見文雄 |year=2012 |title=ジャン=ジャック・ルソー: 自己充足の哲学 |publisher=勁草書房 |ref={{harvid|永見|2012}}}}
 
== 関連項目 ==
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{{自然法論のテンプレート}}
{{社会哲学と政治哲学}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:るそお しやん しやつく}}
{{Philos-stub}}
{{Academic-bio-stub}}
{{DEFAULTSORT:るそ しやん しやつく}}
[[Category:ジャン=ジャック・ルソー|*]]
[[Category:18世紀フランスの哲学者]]
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[[Category:法哲学者]]
[[Category:教育哲学者]]
[[Category:自然哲学者]]
[[Category:フランスの文学研究者]]
[[Category:フランスの著作家]]