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{{Infobox 艦艇
{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff"
| 名称 = 由良
|colspan="2"|[[Image:Yura.jpg|300px|由良]]
| 画像 = Yura anchored in Tateyama Bay in early August 1923.jpg
|-
| 画像説明 = 由良(1923年)
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴
| 建造所 = [[佐世保工廠]]
|-
| 運用者 = {{navy|大日本帝国}}
|発注||[[1919年]]([[1918年]]度八六艦隊計画)
| 艦種 = [[軽巡洋艦]]
|-
| 級名 = [[長良型軽巡洋艦]]
|起工||[[1921年]][[5月21日]][[佐世保工廠]]<ref name="艦船要目">[[#艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)]]p.4『由良|二等巡洋艦|(艦要目略)|佐世保工廠|大正10-5-21|大正11-2-15|大正12-3-20|(艦装備略)』</ref>
| 発注 = [[1919年]]([[1918年]]度八六艦隊計画)
|-
| 起工 = [[1921年]][[5月21日]]<ref name="艦船要目由良">[[#艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)]]p.4『由良|二等巡洋艦|(艦要目略)|佐世保工廠|大正10-5-21|大正11-2-15|大正12-3-20|(艦装備略)』</ref>
|進水||[[1922年]][[2月15日]]<ref name="艦船要目" />
| 進水 = [[1922年]][[2月15日]]<ref name="艦船要目由良" />
|-
| 竣工 =
|就役||[[1923年]][[3月20日]]<ref name="艦船要目" />
| 就役 = [[1923年]][[3月20日]]<ref name="艦船要目由良" />
|-
|その|| = [[1942年]][[10月25日]]沈没<br />{{coord|08|15|S|159|57|E}}
| 除籍 = [[1942年]][[11月20日]]
|-
| 基準排水量 = 5,170[[トン数|トン]]
|位置||{{coord|08|15|S|159|57|E}}
| 常備排水量 = 5,570トン
|-
| 全長 = 162.15 m
|除籍||[[1942年]][[11月20日]]
| 最大幅 = 14.17 m
|-
| 吃水 = 4.80 m
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元
| 主缶 =
|-
| 主機 =
| style="white-space:nowrap;" |[[排水量]]||基準:5,170[[トン数|トン]]<br />常備:5,570トン
| 出力 = 90,000馬力
|-
| 最大速力 = 36.0[[ノット]]
|全長||162.15m
| 航続距離 =
|-
| 燃料 =
|全幅||14.17m
| 乗員 = 竣工時定員450名<ref>大正11年11月10日付 海軍内令 第392号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。この数字は特修兵を含まない。</ref>
|-
| 兵装 = '''新造時'''<br />50口径三年式14cm単装砲 7基7門<br />[[四〇口径三年式八糎高角砲|40口径三年式8cm単装高角砲]] 2基2門<br />三年式6.5mm機銃 2挺<br />八年式61cm連装[[魚雷発射管]] 4基8門<br />飛行機滑走台 1基<br />飛行機 1機<br />機雷 48個<br />'''改装後'''<br />50口径三年式14cm単装砲 7基7門<br />[[九六式二十五粍高角機銃|九六式25mm連装機銃]] 2基4門<br />13 mm機銃四連装 1基4門<br />八年式61cm連装魚雷発射管 4基8門<br />呉式二号三型[[カタパルト|射出機]] 1基<br />水上機 1機<br />機雷敷設軌条 2基
|吃水||4.80 m
| その他 =
|-
| 備考 =
|機関||90,000馬力
}}
|-
'''由良'''(ゆら)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[軽巡洋艦]](二等巡洋艦)<ref name="P年鑑1935由良">[[#P年鑑1935|ポケット海軍年鑑(1935)]]コマ33(原本48-49頁)『二等巡洋艦"由良 ゆら" 全要目{排水量5,170噸 速力33.0節 備砲14糎砲7門 8糎高角砲2門 魚雷發射撃管8門 起工大正10年5月 竣工大正12年3月 建造所 佐世保海軍工廠} 由良は昭和10年度は第二潜水戰隊に編入されその旗艦である。二等巡洋艦は俗に輕巡とも云はれ、ロンドン條約以來は又乙級巡洋艦と稱せられるやうになつた。即ち排水量1,850噸以上10,000噸以下の艦で備砲口徑が5.1吋を超え6.1吋(15.5糎)以下のものがこれである。<br/>この艦は全長152.40米、幅は14.40米で平均吃水4.84米。この寫眞で目新しいのは前部の飛行機滑走臺を撤去してこれを後部の5、6番14糎砲の中間にカタパルトとして移してゐることゝ、後檣を三脚式に改造されてゐる點である。煙突の白線は同型艦の多い戰隊では見分がつきがたいためそれを補ふためのマークである。』</ref><ref name="軍艦2600由良">[[#軍艦2600年|日本軍艦集(2600年版)]]コマ34(原本38頁)『―二等巡洋艦― 由良(ゆら) 基準排水量5,170噸、長さ152.4米、幅14.4米、平均吃水4.84米、速力33節、備砲14糎砲7門、8糎高角砲2門、魚雷發射管8門、起工大正10年5月21日、進水大正11年2月5日、竣工大正12年3月20日、建造所佐世保海軍工廠―名取と同型。なほこれらの同型艦として鬼怒(大正11年11月10日竣工)がある。』</ref>。
|最大速||36.0[[ノット]]
その艦名は、[[若狭湾]]に注ぐ[[由良川]]に因んで名付けられた<ref>[[#丸写真第8巻|写真日本の軍艦第8巻]]134頁〔艦名の由来〕『由良(ゆら)―河川名』</ref><ref name="幕末史実由良">[[#幕末軍艦史実|幕末以降帝国軍艦写真と史実]]コマ134(原本215頁)『<ins>由良(ゆら)</ins> <ins>艦種</ins>二等巡洋艦 球磨型 <ins>艦名考</ins>川名に採る、由良川は丹後國にあり、音無瀬川 一名 大雲川 又は福地川の下流にして其の海口を由良港とす。 <ins>艦歴</ins>昭和6・7年事變(日支)從軍:同7年1月上海及揚子江方面警備(艦長大佐谷本馬太郎)。/―要目― 長152.40米/幅14.40米/喫水4.84米/排水量5,170噸/機關タルビン4臺 艦本式罐12臺/馬力90,000/速力33/兵装 14糎砲7/8糎高角砲2/發射管8 起工 大正10-5-21/進水 同11-2-15/竣工 同12-3-20/建造所 佐世保工廠』</ref>。
|-
 
|乗員||竣工時定員450名<ref>大正11年11月10日付 海軍内令 第392号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。この数字は特修兵を含まない。</ref>
== 概要 ==
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軍艦(ぐんかん)'''由良'''(ゆら)は<ref name="大正9年達30">[[#大正9年達3月]]p.19『達第三十號 軍備補充費ヲ以テ建造ニ着手スヘキ巡洋戦艦二隻及二等巡洋艦一隻ヲ左ノ通命名セラル 大正九年三月二十六日 海軍大臣加藤友三郎|巡洋戦艦二隻 高雄(タカヲ)、愛宕(アタゴ)|<strong>二等巡洋艦一隻 由良(ユラ)</strong>』</ref>、日本海軍が[[1921年]](大正10年)5月から[[1923年]](大正12年)3月にかけて[[佐世保海軍工廠]]で建造した[[軽巡洋艦]](二等巡洋艦)<ref name="軍艦2600由良" /><ref name="P年鑑1937由良">[[#P年鑑1937|ポケット海軍年鑑(1937)]]コマ38(原本58-59頁)『二等巡洋艦"由良 ゆら" 全要目{排水量5,170噸 速力33.0節 備砲14糎砲7門 8糎高角砲2門 魚雷發射管8門 起工大正10年5月 竣工大正12年3月 建造所造船所 佐世保海軍工廠} 二等巡洋艦は俗に輕巡ともいはれ、ロンドン條約は備砲口徑15.5糎砲以下をもつて一括して乙級巡洋艦と稱した。わが二等巡洋艦の名稱は是等の條約とは初めから關係のないもので、その任務はまた一様にいふことが許さぬが、乙級巡洋艦も二等巡洋艦の俗稱として残ることだらう。長さは152.40米、幅は14.40米、平均吃水4.84米で同型艦に"長良 ながら" "五十鈴 いすゞ" "名取 なとり" "鬼怒 きぬ" "阿武隈 あぶくま"の4艦がある。カタパルトは5、6番砲塔間に、後檣は三脚にかへられた。』</ref>。
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|兵装
[[長良型軽巡洋艦|二等巡洋艦長良型]](長良型軽巡洋艦)の4番艦である<ref>[[#艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)]]p.2『巡洋艦|二等|長良型|長良、五十鈴、名取、由良、鬼怒、阿武隈』</ref>。
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『由良型』と表記された事もある<ref name="P年鑑1937北上">[[#P年鑑1937|ポケット海軍年鑑(1937)]]コマ39(原本60-61頁)『二等巡洋艦"北上 きたかみ" 全要目{排水量5,100噸 速力33.0節 備砲14糎砲7門 8糎高角砲2門 魚雷發射管8門 起工大正8年9月 竣工大正10年4月 建造所 佐世保海軍工廠} 長さ152.40米、幅14.40米、平均吃水4.80米。同型艦"球磨 くま" "多摩 たま" "大井 おほゐ" "木曾 きそ"の4隻があり、'''由良級'''6隻とはほんの一寸要目が違ふが艦形は殆ど同じで、わが二等巡洋艦は大體三本煙突の觀を呈してゐる。この型が天龍の後に輕巡洋艦の草創として出現したもので一大系列をなしてゐる。輕巡洋艦の艦尾はすべてこの寫眞のやうになつてゐる。 以上の二等巡洋艦'''由良級'''と'''神通級'''の合計14隻のうち、閑地についてゐるものは僅か二、三隻のみで、如何にも調法多忙な艦種である。』</ref><ref name="日本巡洋艦物語346" />。
|新造時||50口径三年式14cm単装砲 7基7門<br />[[四〇口径三年式八糎高角砲|40口径三年式8cm単装高角砲]] 2基2門<br />三年式6.5mm機銃 2挺<br />八年式61cm連装[[魚雷発射管]] 4基8門<br />飛行機滑走台 1基<br />飛行機 1機<br />機雷 48個
 
|-
長良型軽巡洋艦(5500トン型軽巡)は水雷戦隊旗艦や戦隊旗艦として重宝されたが<ref name="P年鑑1937北上" />、由良と鬼怒は潜水戦隊の旗艦となる事も多かった<ref name="丸写真8巻207">[[#丸写真第8巻|写真日本の軍艦第8巻]]207頁『高橋治夫 ― 潜水戦隊旗艦としての軽巡』</ref>。
|改装後||50口径三年式14cm単装砲 7基7門<br />[[九六式二十五粍高角機銃|九六式25mm連装機銃]] 2基4門<br />13 mm機銃四連装 1基4門<br />八年式61cm連装魚雷発射管 4基8門<br />呉式二号三型[[カタパルト|射出機]] 1基<br />水上機 1機<br />機雷敷設軌条 2基
[[太平洋戦争]]開戦時の由良は'''第五潜水戦隊'''旗艦として[[南方作戦]]([[マレー作戦]]、[[蘭印作戦]])や[[セイロン沖海戦|ベンガル湾機動作戦]]に従事<ref name="原2014由良">[[#原2014、軽巡|軽巡二十五隻]]329-330頁『由良(ゆら)』</ref><ref name="軽巡海戦272由良">[[#軽巡海戦史]]272-273頁『由良(ゆら)』</ref>。
|}
[[1942年]](昭和17年)4月20日に佐世保帰投<ref name="原2014由良" />。5月20日に'''第四水雷戦隊'''の旗艦となる<ref name="S1704四水戦(2)10"/><ref name="S17海軍公報(限)4107">{{アジア歴史資料センター|C12070412400|昭和17年6月4日(木)海軍公報(部内限)第4107号 p.19}}『○旗艦變更 第四水雷戰隊司令官ハ五月二十日旗艦ヲ由良ニ變更セリ』</ref>。由良および第四水雷戦隊は6月の[[ミッドウェー海戦|ミッドウェー作戦]]に従事した(攻略部隊主隊所属)<ref name="原2014由良" />。8月7日より[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル島攻防戦]]が始まると、四水戦も[[ソロモン諸島]]に進出<ref name="軽巡海戦272由良" />。8月下旬の[[第二次ソロモン海戦]]に参加<ref>[[#軽巡海戦史]]119-120頁『▽由良』</ref>。9月20日、外南洋部隊([[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]])に編入された<ref name="八艦隊(2)8四水戦" />。
'''由良'''(ゆら)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[軽巡洋艦]](二等巡洋艦)<ref>[[#ポケット海軍年鑑(1935)]]p.33『ニ等巡洋艦"由良 ゆら" 由良は昭和10年度は第二潜水戰隊に編入されその旗艦である。二等巡洋艦は俗に軽巡とも云はれ、ロンドン條約以來るは亦乙級巡洋艦と称せられるやうになつた。即ち排水量1,850噸以上10,000噸以下の艦で備砲口徑が5.1吋を超え6.1吋(15.5糎)以下のものがこれである。この艦は全長152.40米、幅は14.40米で平均吃水4.84米。この寫眞で目新しいのは前部の飛行機滑走臺を撤去してこれを後部の5、6番14糎砲の中間にカタパルトとして移してゐることゝ、後檣を三脚式に改造されてゐる點である。煙突の白線は同型艦の多い戰隊では見分がつきがたいためそれを補ふためのマークである。』</ref>。[[長良型軽巡洋艦|二等巡洋艦長良型]]の4番艦である<ref>[[#艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)]]p.2『巡洋艦|二等|長良型|長良、五十鈴、名取、由良、鬼怒、阿武隈』</ref>。その艦名は、[[若狭湾]]に注ぐ[[由良川]]に因んで名付けられた<ref>[[#幕末以降帝国軍艦写真と史実]]p.134『川名に採る。由良川は丹後国にあり、音無瀬川一名大雲川又は福知川の下流にして其の海口を由良港とす』</ref>。[[太平洋戦争]]で喪失した日本軍最初の軽巡洋艦となった。
同年[[10月25日]]<ref name="丸8巻由良年表">[[#丸写真第8巻|写真日本の軍艦第8巻]]234-235頁〔軽巡洋艦『由良・鬼怒・阿武隈』行動年表〕『◆由良◆』</ref>、由良は駆逐艦[[秋月 (駆逐艦)|秋月]](第四水雷戦隊旗艦)と共に[[ガダルカナル島]]近海を行動中、アメリカ海軍航空機の空襲を受け大破<ref>[[#原2014、軽巡|軽巡二十五隻]]307-308頁『由良と天龍の最後』</ref><ref name="丸写真8巻221">[[#丸写真第8巻|写真日本の軍艦第8巻]]221頁(炎上中由良写真)</ref>。麾下駆逐艦([[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]])により自沈処分([[南太平洋海戦]])<ref name="原2014由良" /><ref name="S1709四水戦詳報(6)9" />。[[太平洋戦争]]で喪失した日本軍最初の軽巡洋艦となった<ref>[[#丸写真第8巻|写真日本の軍艦第8巻]]219頁『阿武隈ほか二隻の大戦中の変遷』</ref>。
 
== 艦歴 ==
=== 建造経緯 ===
由良は、[[大正]]年間に多数建造された[[5500トン型軽巡洋艦]]の長良型の一艦として建造が決まる。姉妹艦は長良、五十鈴、名取、鬼怒、阿武隈であった<ref>[[#ポケット海軍年鑑(1937)]]p.38『二等巡洋艦"由良 ゆら" 全要目{排水量5,170噸 速力33.0節 備砲14糎砲7門 8糎高角砲2門 魚雷發射管8門 起工大正10年5月 竣工大正12年3月 造船所 佐世保海軍工廠} 二等巡洋艦は俗に軽巡ともいはれ、ロンドン條約は備砲口徑15.5糎砲以下をもつて一括して乙級巡洋艦と称した。わが二等巡洋艦の名称は是等の條約とは初めから關係のないもので、その任務はまた一様にいふことが許さぬが、乙級巡洋艦も二等巡洋艦の俗称として残ることだらう。長さは152.40米、幅は14.40米、平均吃水4.84米で同型艦に"長良ながら" "五十鈴いすゞ" "名取なとり" "鬼怒きぬ" "阿武隈あぶくま"の4艦がある。カタパルトは5、6番砲塔間に、後檣は三脚にかへられた。』</ref>。ただし細かい相違点はあるものの、大まかな外観から各艦を区別するのは難しい<ref>[[#ポケット海軍年鑑(1935)]]p.38『ニ等巡洋艦"夕張 ゆふばり" 全要目{排水量2,890頓 速力33.0節 備砲14糎砲6門 8糎高角砲1門 魚雷發射管4門 起工大正11年6月 竣工大正12年7月 建造所佐世保海軍工廠} 由良又は鬼怒などの軽巡洋艦が申し合せたやうに同型艦として續々出現し、どれが由良か鬼怒か見分けがつかない思ひをしてゐる中へ大正12年7月忽然として現はれた甚だ軽快さうな巡洋艦、ナリは小さいが由良や鬼怒に比べて全然艦型を異にしたスマートな姿であつたから見る者凡てが目を瞠つた。それが夕張であつた。排水量僅かに2,890頓で上記の兵装も而もその悉くが首尾線上に装備されてゐるのみならず、14糎砲は各2門宛を砲塔式に即ち2連装砲塔として備へて、速力は5,000頓級と同じ33節である。全く素晴らしい進歩である。今後はこれだと人々に思はせたが果たせるかな後年になつて計畫されたのがあの7,100頓の加古級である。即ちこの夕張は現在の一等巡洋艦完成の手引であつたとも見られるものである。』</ref>。
由良は、[[大正]]年間に多数建造された[[5500トン型軽巡洋艦]]の長良型の一艦として建造が決まる<ref name="P年鑑1937由良" />。長良型は合計6隻(長良、五十鈴、名取、由良、鬼怒、阿武隈)建造された<ref name="P年鑑1937由良" />。
ただし細かい相違点はあるものの、大まかな外観から各艦を区別するのは難しい<ref name="P年鑑1935由良" /><ref>[[#P年鑑1935|ポケット海軍年鑑(1935)]]p.38『ニ等巡洋艦"夕張 ゆふばり" 全要目{排水量2,890頓 速力33.0節 備砲14糎砲6門 8糎高角砲1門 魚雷發射管4門 起工大正11年6月 竣工大正12年7月 建造所佐世保海軍工廠} 由良又は鬼怒などの軽巡洋艦が申し合せたやうに同型艦として續々出現し、どれが由良か鬼怒か見分けがつかない思ひをしてゐる中へ大正12年7月忽然として現はれた甚だ軽快さうな巡洋艦、ナリは小さいが由良や鬼怒に比べて全然艦型を異にしたスマートな姿であつたから見る者凡てが目を瞠つた。それが夕張であつた。排水量僅かに2,890頓で上記の兵装も而もその悉くが首尾線上に装備されてゐるのみならず、14糎砲は各2門宛を砲塔式に即ち2連装砲塔として備へて、速力は5,000頓級と同じ33節である。全く素晴らしい進歩である。今後はこれだと人々に思はせたが果たせるかな後年になつて計畫されたのがあの7,100頓の加古級である。即ちこの夕張は現在の一等巡洋艦完成の手引であつたとも見られるものである。』</ref>。
 
[[1920年]](大正9年)3月26日、建造予定の[[巡洋戦艦]]2隻、二等巡洋艦1隻に、それぞれ[[天城型巡洋戦艦]]高雄と愛宕、二等巡洋艦由良の艦名が与えられた<ref>[[# name="大正9年達3月30" /><ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]p.19コマ201(原本363頁)達第三十號 軍備補充費ヲ以テ建造ニ着手スヘキ巡洋二隻高雄愛宕及二等巡洋艦一隻ヲ左ノ通由良命名セラルノ件 大正九年三月二十六日 海軍大臣加藤友三郎|巡洋戦艦二隻 高雄(タカヲ)、愛宕(アタゴ)|<strong>二等巡洋艦一隻 由良(ユラ)</strong>』</ref>。同日附で高雄、愛宕、由良は艦艇類別等級表に登録された<ref>[[#大正9年3月]]p.21『達第十二號 艦艇類別等級別表巡洋戦艦ノ欄赤城ノ次ニ「、高雄、愛宕ヲ、巡洋艦二等ノ欄名取ノ次ニ「、由良」ヲ加フ〇)』</ref>。
同日附で3隻(高雄、愛宕、由良)は艦艇類別等級表に登録された<ref>[[#大正9年達3月]]p.21『達第三十二號 艦艇類別等級別表巡洋戦艦ノ欄「赤城」ノ次ニ「、高雄、愛宕」ヲ、巡洋艦二等ノ欄「名取」ノ次ニ「、由良」ヲ加フ』</ref><ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ58(原本77頁)『◎大正九年三月二十六日(達三二)艦艇類別等級別表中巡洋戰艦ノ欄「赤城」ノ次ニ「、高雄、愛宕」ヲ、巡洋艦二等ノ欄「名取」ノ次ニ「、由良」ヲ加フ』</ref>。当初、[[鈴鹿]]の艦名を予定したという<ref>[[#丸写真第8巻|写真日本の軍艦第8巻]]199頁(竣工直前由良写真解説より)</ref>。
由良は[[1921年]](大正10年)5月21日[[佐世保工廠]]にて起工、翌日には[[竜骨 (船)|竜骨]]を据え付ける<ref>[[#軍艦由良製造一件]]p.16『工事名称/一.起工「キール」据付/着手年月/10.5.22』</ref>。[[1922年]](大正11年)2月15日午前10時30分に進水<ref>[[#軍艦由良製造一件]]pp.11-12</ref>。[[1923年]](大正12年)3月20日に竣工した<ref>[[#軍艦由良製造一件]]p.39『発信者:佐世保工廠/受信者:艦政本部 由良本月二十日受領ヲ了セリ』</ref><ref>[[#日本軍艦集2600年版]]p.34『ニ等巡洋艦 由良(ゆら) 基準排水上5,170噸、長さ152,4米、幅14,4米、平均吃水484米、速力33節、備砲14糎砲7門、8糎高角砲2門、魚雷發射管8門、起工大正10年5月21日、進水大正11年2月15日、竣工大正12年3月20日、建造所佐世保海軍工廠-名取と同型。なほこれらの同型艦として鬼怒(大正11年11月10日竣工)がある。』</ref>。
竣工から5ヶ月後の[[9月1日]]に[[関東大震災]]が発生、首都圏は甚大な被害を受けた。戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]以下連合艦隊各艦は東京湾へ急派される。由良は[[品川]]方面に配置され、[[霧島 (戦艦)|霧島]]、[[比叡 (戦艦)|比叡]]、[[北上 (軽巡洋艦)|北上]]、[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]、[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]、[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]等と救援活動を行った<ref>[[#震災救護日報(6)]]p.1『地.救護関係艦船ノ行動 救護用物資ノ輸送、陸揚、交通通信等ノ諸作業及警備ニ従事時中ノ艦船左ノ如シ (一)品川方面(軍艦)霧島比叡北上由良名取木曾夕張(特務艦)富士石廊(駆逐艦)十一席(以下略)』</ref>。
 
由良は[[1921年]](大正10年)5月21日[[佐世保工廠]]にて起工<ref name="艦船要目由良" /><ref>[[#丸写真第8巻|写真日本の軍艦第8巻]]198頁(由良建造中写真)</ref>、翌日には[[竜骨 (船)|竜骨]]を据え付ける<ref>[[#軍艦由良製造一件]]p.16『工事名称/一.起工「キール」据付/着手年月/10.5.22』</ref>。
[[1926年]](昭和元年)12月、日本海軍の軽巡洋艦として初めて水上偵察機を搭載している。
[[1922年]](大正11年)[[2月15日]]午前10時30分に進水<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070280900|大正11年2月15日(水)海軍公報 第2804号 p.4}}『○軍艦進水 佐世保海軍工廠ニ於テ建造ノ軍艦由良二月十五日午前十時三十分進水セリ』</ref><ref>[[#軍艦由良製造一件]]pp.11-12</ref>。3月4日、佐世保海軍工廠に由良艤装員事務所を設置<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070281000|大正11年3月4日(土)海軍公報 第2819号 p.15}}『○事務所 軍艦由良艤装員事務所ヲ佐世保海軍工廠内ニ設ク(由良艤装員長)』</ref>。
[[1923年]](大正12年)[[3月20日]]に竣工した<ref name="艦船要目由良" /><ref>[[#軍艦由良製造一件]]p.39『発信者:佐世保工廠/受信者:艦政本部 由良本月二十日受領ヲ了セリ』</ref>。[[佐世保鎮守府]]籍<ref name="丸8巻由良年表" />。
 
=== 竣工後 ===
[[1923年]](大正12年)4月1日、由良は'''第五戦隊'''([[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]所属)に編入され<ref name="丸8巻由良年表" />、同戦隊は長良型軽巡4隻([[名取 (軽巡洋艦)|名取]]、[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]、[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、由良)となった<ref>[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ38(原本37頁)『大正一一、一二、一(内令四三二、四三七)|聨合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 金剛、比叡、霧島/第五戰隊 名取、長良、鬼怒/第二水雷戰隊 北上、第一、第三驅逐隊/第二潜水戰隊 矢矧、韓崎、第十四、第十六潜水隊(以下略)』</ref><ref name="制度巻4コマ39大正12内令421">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ39(原本38-39頁)『大正一二、一二、一(内令四二一)|聨合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 金剛、比叡/第五戰隊 由良、名取、長良/第二水雷戰隊 北上、第一、第二、第四、第五驅逐隊/第二潜水隊 若宮|(編入)大正十二年(略)第二艦隊 四、一(内令八五)由良』</ref>。
竣工から約5ヶ月後の[[9月1日]]に[[関東大震災]]が発生、首都圏は甚大な被害を受けた(横須賀海軍工廠では、建造中の姉妹艦[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]損傷)。戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]以下連合艦隊各艦は東京湾へ急派される。由良は[[品川]]方面に配置され、[[霧島 (戦艦)|霧島]]、[[比叡 (戦艦)|比叡]]、[[北上 (軽巡洋艦)|北上]]、[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]、[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]、[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]等と救援活動を行った<ref>[[#震災救護日報(6)]]p.1『地.救護関係艦船ノ行動 救護用物資ノ輸送、陸揚、交通通信等ノ諸作業及警備ニ従事時中ノ艦船左ノ如シ (一)品川方面(軍艦)霧島比叡北上由良名取木曾夕張(特務艦)富士石廊(駆逐艦)十一隻(以下略)』</ref>。
同年末の艦隊編成改定で、第五戦隊は長良型3隻(名取、長良、由良)となる<ref name="制度巻4コマ39大正12内令421" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070290800|大正13年3月8日(土)海軍公報 第3407号 p.33}}『○郵便物發送先 第五戰隊司令部及軍艦名取、由良、長良宛 三月十一日迄ニ到着見込ノモノハ 三田尻 同十四日迄ニ 同 徳山 其ノ後ハ 第二艦隊司令部ニ同ジ|軍艦春日宛 三月十二日迄ニ到着見込ノモノハ 函館 同十四日迄ニ 同 青森 其ノ後ハ 大湊|軍艦鳳翔宛 三月十三日迄ニ到着見込ノモノハ 呉 同二十日迄ニ 佐世保 同二十四日迄ニ 飾磨 其ノ後ハ 横須賀』</ref>。
 
[[1924年]](大正13年)5月10日、第五戦隊に[[川内型軽巡洋艦]]1番艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]が編入され、五戦隊は軽巡4隻(長良、名取、由良、川内)となる<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070292900|大正13年9月10日(水)海軍公報第3560号}}p.37『○郵便物發送先 第二艦隊司令部、金剛比叡、第五戰隊司令部、由良名取長良川内、第二水雷戰隊司令部、北上、第一驅逐隊(波風沼風野風 第一號驅逐艦)、第二驅逐隊(沖風澤風峯風夕風)、第四驅逐隊(太刀風羽風帆風秋風)、第五驅逐隊(三號 五號 七號 九號驅逐艦)、第二潜水戰隊司令部、平戸長鯨 第二十六潜水隊(五十九 七十二 七十三潜水艦)、第十四潜水隊(四十五 五十八 六十二)及第四十四潜水艦宛(以下略)』</ref><ref name="制度4巻コマ39大正13内令294">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ39-40(原本39-40頁)『大正一三、一二、一(内令二九四)|聨合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 金剛、比叡、霧島/第五戰隊 長良、名取、由良、川内/第二水雷戰隊 五十鈴、第一、第四、第五驅逐隊/第二潜水戰隊 長鯨、第十四、第二十六潜水隊/伊號第五十一潜水艦|〔編入〕大正十三年(略)第二艦隊 五、一〇(内令一三二)川内(五戰)』</ref>。
5月13日、第五戦隊旗艦は名取から由良に変わった<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070291500|大正13年5月14日(水)海軍公報 第3460号 p.4}}『○旗艦變更 第五戰隊司令官ハ本月十三日旗艦ヲ名取ヨリ由良ニ變更セリ』</ref>。
12月1日の艦隊再編でも、第五戦隊は軽巡4隻(由良、長良、名取、川内)を維持する<ref name="制度4巻コマ39大正13内令294" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070297600|大正14年6月1日(月)海軍公報 第3768号 p.3}}『○郵便物發送先 第五戰隊司令部、名取、長良、由良、川内宛 六月二十二日迄ニ到達見込ノモノハ 佐世保 同二十五日迄ニ 同 鹿兒島 同二十九日迄ニ 同 志布志 七月三日迄ニ 同 徳山 同七日迄ニ 同 呉 其ノ後ハ 佐伯(以下略)』</ref>。12月6日、第五戦隊旗艦は由良から名取に移動した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070293600|大正13年12月8日(月)海軍公報 第3632号 p.38}}『○旗艦變更 第五戰隊司令官ハ本月六日旗艦ヲ由良ヨリ名取ニ變更セリ』</ref>。
 
[[1925年]](大正14年)6月11日、由良は第五戦隊から除かれる<ref name="制度4巻コマ40大正14内令318">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ40(原本40-41頁)『大正一四、一二、一(内令三一八)|聨合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 霧島、比叡/第五戰隊 由良、名取、川内/第二水雷戰隊 五十鈴、第三、第五、第二十九驅逐隊/第二潜水戰隊 長鯨、第十四、第十七潜水隊|(除)大正十四年(略)第二艦隊 六、一一(内令一八三)由良(五戰)』</ref>。12月1日の艦隊再編で、第五戦隊は軽巡3隻(由良、名取、川内)となった<ref name="制度4巻コマ40大正14内令318" />。
 
[[1926年]](大正15年)4月1日、新鋭重巡洋艦[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]が第五戦隊に編入される<ref name="制度4巻コマ41大正15内令264">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ41(原本42-43頁)『大正一五、一二、一(内令二六四)|聨合艦隊|第一艦隊|第一戰隊 長門、陸奥、伊勢、日向/第二戰隊/第三戰隊 阿武隈、鬼怒、球磨/第一水雷戰隊 龍田、第二十五、第二十六、第二十七、第二十八驅逐隊/第一潜水戰隊 由良、迅鯨、第二十四、第二十六潜水隊|第二艦隊|第四戰隊 金剛、比叡/第五戰隊 加古、古鷹、神通、那珂/第二水雷戰隊 夕張、第五、第二十二、第二十九、第三十驅逐隊/第二潜水戰隊 長鯨、第七、第十七潜水隊|〔編入〕大正十五年(略)第二艦隊 四、一(内令八一)古鷹(五戰) 八、一(内令一七四)加古(五戰)|〔除〕大正十五年(略)第二艦隊 五、一(内令一〇二)名取(五戰)』</ref>。
5月1日、名取の第五戦隊除籍にともない、第五戦隊は巡洋艦3隻(古鷹、川内、由良)となる<ref name="制度4巻コマ41大正15内令264" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070303300|大正15年5月31日(月)海軍公報 第4061号 p.2}}『○郵便物發送先 第五戰隊司令部及古鷹、川内、由良宛 六月二日迄ニ到達見込ノモノハ佐世保(以下略)』</ref>。
8月1日、新鋭重巡[[加古 (重巡洋艦)|加古]]が第五戦隊に編入される<ref name="制度4巻コマ41大正15内令264" />。第五戦隊は巡洋艦4隻(由良、川内、加古、古鷹)を揃えた<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070304500|大正15年9月4日(土)海軍公報 第4142号 p.14}}『○郵便物發送先 第二艦隊司令部及軍艦霧島、比叡、第五戰隊司令部、軍艦加古、古鷹、川内、由良、第二水雷戰隊司令部、軍艦五十鈴、第三驅逐隊(汐風、島風、灘風、夕風)、第五驅逐隊(驅三、驅五、驅七、驅九)、第二十九驅逐隊(驅一一、驅一三、驅一五、驅一七)、第三十驅逐隊(驅一九、驅二一)、第二潜水戰隊司令部、軍艦長鯨、第七潜水隊(伊一、伊二)、第十四潜水隊(呂二六、呂二七)、第十七潜水隊(伊五一、伊五二)宛 九月七日迄ニ到達見込ノモノハ 新舞鶴(以下略)』</ref>。
同年12月1日、第五戦隊は巡洋艦4隻(加古、古鷹、[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]、[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]])で再編される<ref name="制度4巻コマ41大正15内令264" />。由良は第一潜水戦隊(第一艦隊所属)に転じた<ref name="制度4巻コマ41大正15内令264"/>。同時期、日本海軍の軽巡洋艦として初めて水上偵察機を搭載した。
 
{{main|美保関事件}}
 
[[1927年]](昭和2年)6月20日附で第三戦隊(球磨、阿武隈、鬼怒)<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070308300|昭和2年3月28日(月)海軍公報 第69号 p.7}}『○郵便物發送先(略)第三戰隊司令部及軍艦鬼怒、球磨、阿武隈宛 四月二十四日迄ニ到達見込ノモノハ第一艦隊司令部ニ同ジ 其ノ後ハ 呉(以下略)』</ref>より軽巡[[球磨 (軽巡洋艦)|球磨]]が除かれる<ref name="制度4巻コマ41昭和2内令210">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ41-42(原本43-44頁)『〔編入〕昭和二年 第一艦隊 六、二〇(内令二一〇)由良(三戰)|〔除〕昭和二年 第一艦隊 六、二〇(内令二一〇)球磨(三戰)、由良(一潜戰)』</ref>。同日附で、由良は第一潜水戦隊から'''第三戦隊'''に所属変更<ref name="丸8巻由良年表" />。第三戦隊は長良型軽巡3隻(由良、阿武隈、鬼怒)となる<ref name="制度4巻コマ41昭和2内令210" />。
[[1927年]](昭和2年)8月24日、由良は[[島根県]][[美保関町|美保関]]沖で行われた夜間無灯火演習(第八回基本演習)に甲軍所属の第六戦隊(由良、龍田)として参加した<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(6)]]p.47『(二)第八回基本演習(略)竜田、由良ヲ以テ第六戦隊ヲ編成シ第一水雷戦隊司令官之ヲ指揮ス』</ref>。[[加藤寛治]]連合艦隊司令長官は甲部隊指揮官として戦艦「長門」に乗艦。甲軍は第一戦隊([[長門 (戦艦)|長門]]、[[陸奥 (戦艦)|陸奥]])、第三戦隊([[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]])、第四戦隊([[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[比叡 (戦艦)|比叡]])、第一戦隊第2小隊([[伊勢 (戦艦)|伊勢]]、[[日向 (戦艦)|日向]])、第六戦隊(''由良''、[[龍田 (軽巡洋艦)|龍田]])という単縦陣で航行しており、その右舷後方から乙軍《仮想敵》の第五戦隊([[加古 (重巡洋艦)|加古]]、[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]、[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]、[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]《皇族武官[[博義王|伏見宮博義王]]乗艦中<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(5)]]p.8『五.那珂御乗船中ノ博義王殿下ニハ御無事ニアラセラル』</ref>》および第二水雷戦隊(旗艦夕張)が接近していた<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(7)]]pp.7-16』</ref>。戦艦伊勢、日向および由良は仮想敵(乙軍)の第五戦隊第2小隊(神通、那珂)に対し[[探照灯]]を照射、このため神通、那珂は敵艦隊(甲軍)に対する襲撃を諦めて右に転舵した<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(1)]]p.5『此ノ時左舷艦尾方向ヨリ甲軍後衛ノ一艦ヨリ照射ヲ受ケ神通ハ伊勢ニ対シ反照シ那珂ハ探照燈ヲ以テ友軍敵情ヲ通報シ次テ神通ハ航行灯ヲ点シ南東ニ変針(略)11時16分敵後尾ニ触接スルノ目的ヲ以テ両舷灯ヲ消シ第三戦速(28節)ニ増速面舵転舵中…』</ref><ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(7)]]p.9-10『伊勢-照射砲撃 由良-照射砲撃』</ref>。
8月24日、由良は[[島根県]][[美保関町|美保関]]沖で行われた夜間無灯火演習(第八回基本演習)に甲軍所属の第六戦隊(由良《臨時編入》、龍田)として参加した<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(6)]]p.47『(二)第八回基本演習(略)竜田、由良ヲ以テ第六戦隊ヲ編成シ第一水雷戦隊司令官之ヲ指揮ス』</ref>。
すると軽巡2隻は後続していた味方の乙軍(第五戦隊第1小隊《加古、古鷹》および第26駆逐隊4隻、第27駆逐隊4隻)に突っ込んだ<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(7)]]p.43『…當時神通と那珂は隊を組んで敵に迫ったが其の照射猛撃に遭ふて一時避退の止むなきに至って反転した、煌々たる探照燈に眩まされて居る、其處を同しく敵に向かって突進中の第二七駆逐隊と反航の對勢で急速に近接した…』</ref>。神通と第27駆逐隊2番艦[[蕨 (駆逐艦)|蕨]]が衝突(蕨は沈没)、那珂と同駆逐隊3番艦[[葦 (駆逐艦)|葦]]が衝突、両艦ともに大破する。由良は各艦と協力して蕨の生存者の救援をおこなった<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(1)]]p.12『当時遭難地附近ニ在リテ極力短艇等ヲ以テ救難ニ従事シツツアリシ艦艇左ノ如シ 伊勢、加古、古鷹、鬼怒、阿武隈、由良、龍田、第二十六、第二十七駆逐隊』</ref>。のちに[[水城圭次]]神通艦長は自決。一連の事故を'''美保関事件'''という。
[[加藤寛治]]連合艦隊司令長官は甲部隊指揮官として戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]に乗艦。甲軍は第一戦隊([[長門 (戦艦)|長門]]、[[陸奥 (戦艦)|陸奥]])、第三戦隊([[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]])、第四戦隊([[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[比叡 (戦艦)|比叡]])、第一戦隊第2小隊([[伊勢 (戦艦)|伊勢]]、[[日向 (戦艦)|日向]])、第六戦隊(''由良''、[[龍田 (軽巡洋艦)|龍田]])という単縦陣で航行しており、その右舷後方から乙軍《仮想敵》の第五戦隊([[加古 (重巡洋艦)|加古]]、[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]、[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]、[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]《皇族武官[[博義王|伏見宮博義王]]乗艦中<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(5)]]p.8『五.那珂御乗船中ノ博義王殿下ニハ御無事ニアラセラル』</ref>》)および第二水雷戦隊(旗艦夕張)が接近していた<ref name="制度4巻コマ41大正15内令264" /><ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(7)]]pp.7-16』</ref>。
伊勢・日向・由良は仮想敵(乙軍)の第五戦隊第2小隊(神通、那珂)に対し[[探照灯]]を照射、このため2隻(神通、那珂)は敵艦隊(甲軍)に対する襲撃を諦めて右に転舵した<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(1)]]p.5『此ノ時左舷艦尾方向ヨリ甲軍後衛ノ一艦ヨリ照射ヲ受ケ神通ハ伊勢ニ対シ反照シ那珂ハ探照燈ヲ以テ友軍敵情ヲ通報シ次テ神通ハ航行灯ヲ点シ南東ニ変針(略)11時16分敵後尾ニ触接スルノ目的ヲ以テ両舷灯ヲ消シ第三戦速(28節)ニ増速面舵転舵中…』</ref><ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(7)]]p.9-10『伊勢-照射砲撃 由良-照射砲撃』</ref>。
すると軽巡2隻は後続していた味方の乙軍(第五戦隊第1小隊《加古、古鷹》および第26駆逐隊4隻、第27駆逐隊4隻)に突っ込んだ<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(7)]]p.43『…當時神通と那珂は隊を組んで敵に迫ったが其の照射猛撃に遭ふて一時避退の止むなきに至って反転した、煌々たる探照燈に眩まされて居る、其處を同しく敵に向かって突進中の第二七駆逐隊と反航の對勢で急速に近接した…』</ref>。神通と第27駆逐隊2番艦[[蕨 (駆逐艦)|蕨]]が衝突(蕨は沈没)、那珂と同駆逐隊3番艦[[葦 (駆逐艦)|葦]]が衝突、両艦ともに大破する。由良は各艦と協力して蕨の生存者の救援をおこなった<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(1)]]p.12『当時遭難地附近ニ在リテ極力短艇等ヲ以テ救難ニ従事シツツアリシ艦艇左ノ如シ 伊勢、加古、古鷹、鬼怒、阿武隈、由良、龍田、第二十六、第二十七駆逐隊』</ref>。のちに[[水城圭次]]神通艦長は自決。一連の事故を'''美保関事件'''という<ref>[[#軽巡海戦史]]177-178頁『▽川内型三隻=川内、神通、那珂』</ref>。
12月1日、予備艦となった<ref name="丸8巻由良年表" />。
 
[[1928年]](昭和3年)12月10日、日本海軍は長良型軽巡3隻(長良、名取、由良)により第三戦隊を再編<ref name="丸8巻由良年表" /><ref>[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ42(原本44-45頁)『昭和三、一二、一〇(内令三四九)|聨合艦隊|第一艦隊|第一戰隊 山城、陸奥、日向/第二戰隊/第三戰隊 名取、由良、長良/第一水雷戰隊 神通、第十三、第十五、第二十七驅逐隊/第一潜水戰隊 迅鯨、第二十六、第二十七潜水隊』</ref>。三戦隊旗艦は那珂から由良に変わった<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070317300|昭和3年12月15日(土)海軍公報 第582号 p.1}}『○旗艦變更 第三戰隊司令官ハ本月十二日旗艦ヲ那珂ヨリ由良ニ變更セリ』</ref>。同時期、中国沿岸部を中心に行動した<ref name="丸8巻由良年表" />。
 
[[1929年]](昭和4年)4月、軽巡[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]において射出実験に成功した萱場式艦発促進装置が由良に移設され、約4年間の長期試験が行われたが実用化に至らず、火薬式射出機の実用化に伴い撤去されている。萱場式艦発促進装置はスプリングの力により加速をつける方式の射出機であった。
11月30日の艦隊再編で、第三戦隊(川内、由良、長良)は長良型と川内型の混成部隊となる<ref>[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ43(原本46頁)『昭和四、一一、三〇(内令二七五)|聨合艦隊|第一艦隊|第一戰隊 伊勢、山城、榛名、陸奥/第二戰隊/第三戰隊 川内、由良、長良/第一水雷戰隊 那珂、第十三、第十五、第十六、第二十七驅逐隊/第一潜水戰隊 迅鯨、第二十四、第二十六潜水隊、第二十七潜水隊』</ref>。
 
[[1930年]](昭和5年)12月1日、第三戦隊は川内型軽巡2隻(那珂、神通)で再編され<ref>[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ43-44(原本47-48頁)『昭和五、一二、一(内令二二八)|聨合艦隊|第一艦隊|第一戰隊 長門、伊勢、霧島、日向/第二戰隊/第三戰隊 神通、那珂/第一水雷戰隊 川内、第四、第五、第二十九驅逐隊/第一潜水戰隊 迅鯨、第七、第八、第二十九潜水隊』</ref>、三戦隊旗艦も由良から那珂に変更<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070329300|昭和5年12月2日(火)海軍公報 第1518号 p.25}}『○旗艦變更 第一艦隊司令長官ハ本月一日旗艦ヲ榛名ヨリ長門ニ、第三戰隊司令官ハ同一日旗艦ヲ由良ヨリ那珂ニ孰モ變更セリ』</ref>。由良は予備艦となった<ref name="丸8巻由良年表" />。
[[1931年]](昭和6年)12月、[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]・第三戦隊(司令官[[堀悌吉]][[少将]])に編入された。翌[[1932年]](昭和7年)1月、軽巡[[大井 (軽巡洋艦)|大井]]、夕張と共に[[第一次上海事変]]で揚子江警備に出動し、3月末まで活動した。
 
[[1931年]](昭和6年)9月、佐世保海軍工廠で修理を実施<ref name="丸8巻由良年表" />。12月1日、[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]・第三戦隊(司令官[[堀悌吉]][[少将]])は軽巡3隻(由良、那珂、阿武隈)で再編された<ref name="丸8巻由良年表" /><ref>[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ44(原本48-49頁)『昭和六、一二、一(内令二一四)|聨合艦隊|第一艦隊|第一戰隊 金剛、日向、霧島、伊勢/第二戰隊/第三戰隊 那珂、阿武隈、由良/第一水雷戰隊 夕張、第二十二、第二十三、第三十驅逐隊/第一潜水戰隊 迅鯨、第七、第八、第二十九潜水隊』</ref>。
[[1933年]](昭和8年)7月、呉式二号三型射出機が5番主砲と6番主砲の間に装備され、従来の滑走台は廃止された。滑走台跡に、他の長良型各艦とは異なり13mm連装機銃2基が装備されたとされている。同年11月、[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]・第二潜水戦隊(司令官[[和波豊一]]少将)の旗艦となった。
 
翌[[1932年]](昭和7年)1月下旬、軽巡[[大井 (軽巡洋艦)|大井]]・夕張等と共に[[第一次上海事変]]で揚子江警備に出動し、3月まで活動した<ref name="丸8巻由良年表" />。3月22日、佐世保に入港して修理を実施する<ref name="丸8巻由良年表" />。
[[1934年]](昭和9年)10月12日、『昭和九年特別大演習第三期對抗演習』が実施される。12日夜間演習に参加した由良は第一戦隊([[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[霧島 (戦艦)|霧島]]、[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]、[[日向 (戦艦)|日向]])の後衛として行動したが、照射攻撃の後に日向を見失ってしまう<ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(1)]]p.8『10月12日1850金剛ヨリ電令ニ依リ第一戦隊ノ後衛トナリ(略)第1戦隊4番艦(日向)ノ左斜後視界限度(6000米乃至8000米)附近ヲ燈火戦闘管制トナシ警戒ヲ厳ニシ航行中1945右前方ニ反航スル水雷艇初雁ヲ認メ之ヲ照射砲撃ノ為転舵シ遂ニ味方主力部隊ヲ見失フ』</ref>。晴夜であったが、煙幕の残部があって視界は不良だった<ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(1)]]p.7『二.触衝前後ニ於ケル風向風速天候海上ノ模様其ノ他四圍ノ状況|(一)触衝前後ニ於ケル風向北風速12米/秒 (二)天候海上ノ模様 晴天ノ晴夜ナリシモ海上荒長濤アリ時々飛沫艦橋ヲ襲フ (三)其ノ他四圍ノ情況 海上稍濛気アリ且煤煙及煙幕残部ノ為メ味方主力部隊附近視界不良』</ref>。また台風の影響が残っており、各艦は操艦に苦労していた<ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(1)]]p.23『当時風向北乃至北東風力12.3米海上前日来ノ颱風ノ影響ト覚シキ北東方ヨリスル長大濤ニ依リ動揺相当大ニシテ操舵亦意ノ如クナラザリシモノアリシナラン為之触衝回避ニ対スル最前ノ方法ヲ講ジ概ネ所期ノ目的ヲ達シタルモ…』</ref>。
同時期、近代化改装工事に着手する<ref>[[#丸写真第8巻|写真日本の軍艦第8巻]]218頁『開戦までの由良の改正・改造』</ref>。7月、呉式二号三型射出機が5番主砲と6番主砲の間に装備され、従来の滑走台は廃止された。滑走台跡に、他の長良型各艦とは異なり13mm連装機銃2基が装備されたとされている。
単艦で主力部隊を捜索中の20時30分、由良は右舷方向から出現した第八戦隊の軽巡夕張と衝突事故を起こす<ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(1)]]p.2『軍艦由良触衝事件報告 由良艦長海軍大佐春日篤 軍艦由良ハ昭和九年十月十二日青軍第二潜水戦隊旗艦トシテ第三期対抗演習ニ参加中同日2029.5北緯26度18分東経129度22分ノ海面ニ於テ赤軍第八戦隊ノ一艦夕張ト触衝セリ』</ref><ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(1)]]pp.14-15『附圖第一、第二』</ref>。夕張は軽巡名取、長良に撃沈判定を宣告した後<ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(1)]]p.30『1958想定 三缶室ニ敵弾命中出シ得ル最大速力28節|2003夕張艦長/本艦 長良名取ト交戦シ両艦ヲ撃沈ス』</ref>、機関故障を想定して中軸停止状態(2軸運転)であり、これが回避行動に何らかの影響を与えたと見られる<ref>[[#触衝当時の状況に関する件]]p.4『但シ触衝ノ直前想定ニ依リ中軸ノ運転ヲ停止スルニ至リタルコトハ操舵ノ効果ヲ減ジ且後進全速ニ對スル中軸ノ操作ヲ遅延セシメ前進惰力ノ減退亦従ッテ充分ナラザルヲ以テ衝突回避上多少影響シタルベシ』</ref>。
同年7月9日、第三戦隊の旗艦に指定されたが<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070333500|昭和7年7月9日(土)海軍公報 第1627号 p.29}}『○旗艦指定 第三戰隊司令官ハ昨八日旗艦ヲ由良ニ指定セリ』</ref>、翌日に[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]へ移動した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070333500|昭和7年7月11日(月)海軍公報 第1628号 p.32}}『○旗艦變更 第三戰隊司令官ハ昨十日旗艦ヲ由良ヨリ那珂ニ變更セリ』</ref>。
12月1日の艦隊再編により、第三戦隊は長良型軽巡3隻(由良、阿武隈、名取)となる<ref>[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ45(原本51頁)『昭和七、一二、一(内令三七二)|聨合艦隊|第一艦隊|第一戰隊 金剛、日向、陸奥/第二戰隊/第三戰隊 阿武隈、由良、名取/第一水雷戰隊 夕張、第二十二、第二十三、第三十驅逐隊/第一潜水戰隊 迅鯨、第二十八、第二十九潜水隊』</ref>。
 
[[1933年]](昭和8年)5月まで第三戦隊は長良軽巡3隻(由良、阿武隈、名取)だった<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070340400|昭和8年5月3日(水)海軍公報(部内限)第1519号 p.4}}『○郵便物發送先變更 第一艦隊司令部、聨合艦隊司令部、軍艦陸奥、日向、榛名、金剛、第一戰隊、第三戰隊司令部、軍艦阿武隈、由良、名取、第一水雷戰隊司令部、軍艦夕張、第二十二驅逐隊(皐月、水無月、長月、文月)、第二十三驅逐隊(菊月、三日月、望月、夕月)、第三十驅逐隊(睦月、如月、彌生、卯月)、第一潜水戰隊司令部、軍艦迅鯨、第二十八潜水隊(伊六三、伊五九、伊六〇)、第三十潜水隊(伊六六、伊六五、伊六七)、第一航空戰隊司令部、軍艦加賀、鳳翔、第二驅逐隊(沖風、峯風、矢風、澤風)、特務艦鶴見宛 五月八日迄ニ到達見込ノモノハ 沖縄縣與那原  同十日迄ニ 同 鹿兒島縣志布志  其ノ後ハ 各所属軍港』</ref>。
日本海軍は5月20日附で第三戦隊を第七戦隊に改編<ref name="丸8巻由良年表" /><ref name="制度巻4コマ46昭和8内令343">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ46(原本52-53頁)『昭和八、五、二〇(内令一八二)|聨合艦隊|第一艦隊|第一戰隊 金剛、日向、陸奥、榛名/第二戰隊/第七戰隊 阿武隈、由良、名取/第一水雷戰隊 夕張、第二十二、第二十三、第三十驅逐隊/第一潜水戰隊 迅鯨、第二十八、第三十潜水隊/第三潜水戦隊/第一航空戰隊 加賀、鳳翔、第二驅逐隊|〔編入〕昭和八 第一艦隊 一一、一(内令三四三)五十鈴(七戰)/第二艦隊 一一、一(内令三四三)由良(二潜戰)|〔除〕昭和八年 第一艦隊 一一、一(内令三四三)由良(七戰)/第二艦隊 一一、一(内令三四三)球磨(二潜戰)』</ref>。引続き長良型軽巡3隻(由良、阿武隈、名取)で行動する<ref name="制度巻4コマ46昭和8内令343" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070340600|昭和8年6月1日(木)海軍公報(部内限)第1543号 pp.9-10}}『○郵便物發送先(略)第七戰隊司令部、軍艦阿武隈、由良、名取、第一水雷戦隊司令部、軍艦夕張(以下略)』</ref>。
同年11月1日、由良は第七戦隊より除かれ、姉妹艦[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]が七戦隊に編入<ref name="制度巻4コマ46昭和8内令343" />。同日附で由良は第二潜水戦隊([[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]])に編入され<ref name="丸8巻由良年表" /><ref name="制度巻4コマ46昭和8内令343" />、同潜水戦隊(司令官[[和波豊一]]少将)の旗艦となった<ref name="丸写真8巻207" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070339000|昭和8年11月2日(木)海軍公報 第2017号 p.7}}『○旗艦變更 第二潜水戰隊司令官ハ昨一日旗艦ヲ球磨ヨリ由良ニ變更セリ|○事務所設置 軍艦大鯨艤装員事務所ヲ横須賀海軍工廠内ニ設置シ去月二十八日ヨリ事務ヲ開始セリ』</ref>。
11月6日、第二潜水戦隊旗艦は由良から潜水母艦[[迅鯨 (潜水母艦)|迅鯨]]に変更された<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070339200|昭和8年11月6日(木)海軍公報 第2028号 p.2}}『○旗艦變更 第一水雷戰隊司令官ハ夕張ヨリ川内ニ、第二潜水戰隊司令官ハ由良ヨリ迅鯨ニ旗艦ヲ孰モ變更セリ』</ref>。11月15日の艦隊再編でも、引き続き第二潜水戦隊に所属する<ref>[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ46-47(原本53-54頁)『昭和八、一一、一五(内令三五一)|聨合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 高雄、愛宕、摩耶、鳥海/第五戰隊/第六戰隊 古鷹、衣笠、青葉/第二水雷戰隊 那珂、第六、第十、第十一、第十二/第二潜水戰隊 由良、迅鯨、第十九、第二十九、第三十潜水隊/第二航空戰隊』</ref>。
 
[[1934年]](昭和9年)1月24日、由良は第二潜水戦隊旗艦に復帰した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070342400|昭和9年2月21日(水)海軍公報 第2102号 p.30}}『○旗艦變更 第二潜水戰隊司令官ハ去月二十四日旗艦ヲ迅鯨ヨリ由良ニ變更セリ』</ref>。
10月12日、『昭和九年特別大演習第三期對抗演習』が実施される。12日夜間演習に参加した由良は第一戦隊([[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[霧島 (戦艦)|霧島]]、[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]、[[日向 (戦艦)|日向]])の後衛として行動したが、照射攻撃の後に日向を見失ってしまう<ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(1)]]p.8『10月12日1850金剛ヨリ電令ニ依リ第一戦隊ノ後衛トナリ(略)第1戦隊4番艦(日向)ノ左斜後視界限度(6000米乃至8000米)附近ヲ燈火戦闘管制トナシ警戒ヲ厳ニシ航行中1945右前方ニ反航スル水雷艇初雁ヲ認メ之ヲ照射砲撃ノ為転舵シ遂ニ味方主力部隊ヲ見失フ』</ref>。晴夜であったが、煙幕の残部があって視界は不良だった<ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(1)]]p.7『二.触衝前後ニ於ケル風向風速天候海上ノ模様其ノ他四圍ノ状況|(一)触衝前後ニ於ケル風向北風速12米/秒 (二)天候海上ノ模様 晴天ノ晴夜ナリシモ海上荒長濤アリ時々飛沫艦橋ヲ襲フ (三)其ノ他四圍ノ情況 海上稍濛気アリ且煤煙及煙幕残部ノ為メ味方主力部隊附近視界不良』</ref>。また台風の影響が残っており、各艦は操艦に苦労していた<ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(1)]]p.23『当時風向北乃至北東風力12.3米海上前日来ノ颱風ノ影響ト覚シキ北東方ヨリスル長大濤ニ依リ動揺相当大ニシテ操舵亦意ノ如クナラザリシモノアリシナラン為之触衝回避ニ対スル最前ノ方法ヲ講ジ概ネ所期ノ目的ヲ達シタルモ…』</ref>。
単艦で主力部隊を捜索中の20時30分、由良は右舷方向から出現した第八戦隊の軽巡夕張と衝突事故を起こす<ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(1)]]p.2『軍艦由良触衝事件報告 由良艦長海軍大佐春日篤 軍艦由良ハ昭和九年十月十二日青軍第二潜水戦隊旗艦トシテ第三期対抗演習ニ参加中同日2029.5北緯26度18分東経129度22分ノ海面ニ於テ赤軍第八戦隊ノ一艦夕張ト触衝セリ』</ref><ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(1)]]pp.14-15『附圖第一、第二』</ref>。夕張は軽巡2隻(名取、長良)に撃沈判定を宣告した後<ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(1)]]p.30『1958想定 三缶室ニ敵弾命中出シ得ル最大速力28節|2003夕張艦長/本艦 長良名取ト交戦シ両艦ヲ撃沈ス』</ref>、機関故障を想定して中軸停止状態(2軸運転)であり、これが回避行動に何らかの影響を与えたと見られる<ref>[[#触衝当時の状況に関する件]]p.4『但シ触衝ノ直前想定ニ依リ中軸ノ運転ヲ停止スルニ至リタルコトハ操舵ノ効果ヲ減ジ且後進全速ニ對スル中軸ノ操作ヲ遅延セシメ前進惰力ノ減退亦従ッテ充分ナラザルヲ以テ衝突回避上多少影響シタルベシ』</ref>。
由良に浸水被害はなく、艦の損傷は軽微であった<ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(1)]]p.6『損害ノ状況|短艇甲板面右舷168番「ビーム」ニ於テ幅2米深サ0.7米ノ凹ミヲ生ジ附近ノ「フレーム」一本舷側ニ近キ處ニテ切損魚雷「ダビット」1及外舷「スタンション」3本屈曲ス。凹ミノ前方約5米後方約8米上甲板外側ニ擦過ノ跡アリ』</ref>。夕張は艦首を損傷して若干の浸水被害があった<ref>[[#軍艦由良触衝事件報告(2)]]pp.8-14『附圖(夕張艦首断面図及び損傷状態スケッチ)』</ref>。
同年11月15日の艦隊再編でも、由良は引続き第二潜水戦隊に所属する<ref>[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ47-48(原本55-56頁)『昭和九、一一、一五(内令四七六)|聨合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 高雄、愛宕、摩耶、鳥海/第五戰隊/第六戰隊 古鷹、衣笠、青葉/第二水雷戰隊 神通、第六、第十、第十九、第二十驅逐隊/第二潜水戰隊 由良、長鯨、第十八、第二十八、第二十九潜水隊/第二航空戰隊 赤城、第二驅逐隊』</ref>。
 
[[1935年]](昭和10年)11月15日、第二潜水戦隊旗艦は由良から姉妹艦[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]に変わる<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070352600|昭和10年11月16日(土)海軍公報第2616号 p.1}}『○旗艦變更 第二艦隊司令長官ハ鳥海ヨリ妙高ニ、第三艦隊司令長官ハ球磨ヨリ出雲ニ、第一潜水戰隊司令官ハ多摩ヨリ迅鯨ニ、第二水雷戰隊司令官ハ神通ヨリ那珂ニ、第二潜水戰隊司令官ハ由良ヨリ鬼怒ニ、第二航空戰隊司令官ハ赤城ヨリ加賀ニ、第五水雷戰隊司令官ハ龍田ヨリ夕張ニ旗艦ヲ昨十五日變更セリ』</ref>。由良は予備艦となり<ref name="丸写真8巻207" /><ref name="丸8巻由良年表" />、佐世保警備戦隊に編入された<ref name="丸8巻由良年表" /><ref name="制度巻4コマ60昭和10内令462">[[#海軍制度沿革(巻4、1939)]]コマ50-51(原本61-62頁)『昭和一〇、一一、一五(内令四六二)|佐世保警備戰隊|霧島、龍田、北上、名取、由良、能登呂/第二十二驅逐隊、第二十三驅逐隊、第二十八驅逐隊/早鞆|〔編入〕昭和十一年 六、一五(内令二〇八)足柄/七、一五(内令二七四)能登呂/一〇、二〇(内令三九四)早鞆/一一、二〇(内令四四一)龍田|〔除〕昭和十一年 六、一(内令一七七)霧島 能登呂 第二十八驅逐隊/六、一五(内令二〇八)第二十二驅逐隊』</ref>。
 
=== 日中戦争 ===
[[1935年]](昭和10年)2月12日に[[軍令部]]第一課が内示した1941年度帝国海軍戦時編制において由良(改)は第1潜水戦隊旗艦を予定、航続距離の延長、水偵2機以上搭載を検討されている<ref>[[#S16年度海軍戦時編制案(昭和10年2月)]]p.2『GF|1Ss/1Csg/2Cgc|巡潜|由改(航続距離大 飛行機二以上)』</ref>。同時期、イギリス海軍は[[C級軽巡洋艦]]の一部を[[防空艦|防空巡洋艦]]に改造していた<ref name="日本巡洋艦物語341">[[#日本巡洋艦物語]]341-343頁『日本海軍の防空巡洋艦構想』</ref>。日本海軍も呼応して[[天龍型軽巡洋艦]]、[[球磨型軽巡洋艦|球磨型(五五〇〇トン型)]]、[[最上型重巡洋艦|最上型軽巡]]1番艦[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、空母[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]の防空艦改造を検討した<ref name="日本巡洋艦物語341" />。これらの防空艦は、主力艦([[大和型戦艦]]等)や空母の護衛を担う艦隊随伴防空艦と<ref>[[#丸写真第8巻|写真日本の軍艦第8巻]]268頁『◇天龍型の防空巡洋艦改造計画◇』</ref>、泊地(局地)用防空艦の二種類があったという<ref name="日本巡洋艦物語341" />。由良型(5500トン型)の場合、[[六五口径九八式一〇糎高角砲]]14門(連装砲塔7基)、25mm連装機銃4基8梃、爆雷60個、排水量(公試状態)7,178トン、速力32.3ノット、航続力18ノット3,750海里を予定していた<ref name="日本巡洋艦物語346">[[#日本巡洋艦物語]]346頁『第20図 由良型(5500トン型)改造防空艦案』</ref>。だが[[マル4計画|第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)]]で[[秋月型駆逐艦]]が建造されることになり、これらの計画は中止された<ref name="日本巡洋艦物語341" />。
 
[[1936年]](昭和11年)[[6月21日]]、佐世保海軍工廠で、のちに由良を処分することになる[[白露型駆逐艦]]4番艦[[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]]が進水する<ref name="S11海軍公報2789">{{アジア歴史資料センター|C12070356800|昭和11年6月23日 海軍公報第2789号}}p.26『○進水 佐世保海軍工廠ニ於テ建造中ノ驅逐艦夕立一昨日二十一日進水セリ』、p.28『○艦船所在○六月二十三日午前十時調【佐世保】龍田、名取、由良、赤城▲、足柄、(将旗)榛名▲、(将旗)川内、長良▲、(将旗)阿武隈、(長官)妙高、那智、羽黒、(将旗)加賀▲、(将旗)北上、八重山/梨、竹、榧、桃、柳、樫、檜、菱、菫、蓼、蓬、(司令)夕月、(司令)子日、初春、若葉、初霜、(司令)長月▲、水無月▲、皐月、文月、(司令)睦月、卯月、彌生、如月、(司令)疾風、追風▲/呂三〇、呂三一、呂三二、(司令)呂六〇、呂六一、呂六二、(司令)呂六五、呂六六、呂六七、(司令)伊六四、伊六一、伊六二、(司令)伊五九、伊六〇、伊六三、(司令)伊六六、伊六五、伊六七/敷島▲、早鞆、野島、佐多/(白露)、(夕立)』</ref>。当時、由良は佐世保警備戦隊に所属しており<ref name="制度巻4コマ60昭和10内令462" />、佐世保に所在<ref name="S11海軍公報2789" />。その後も佐世保に在泊した<ref name="S11海軍公報2789" /><ref name="S11海軍公報2823" />。
[[1936年]](昭和11年)12月、由良は第一艦隊・第八戦隊(司令官[[南雲忠一]]少将)に編入された。翌年1937年(昭和12年)8月、上海上陸作戦に出動し、陸軍[[上海派遣軍]]司令官[[松井石根]]大将が乗艦、8月22日に上海に到着し、11月まで揚子江の作戦に従事した。同月11月15日、[[小沢治三郎]]少将が第八戦隊司令官に着任、同戦隊の軽巡3隻(那珂、鬼怒、由良)を指揮する<ref name="回想提督19">[[#回想の提督]]19-20頁『第八戦隊司令官時代』</ref>。
8月1日、軽巡[[北上 (軽巡洋艦)|北上]]より佐世保警備戦隊旗艦を引き継ぐ<ref name="S11海軍公報2823">{{アジア歴史資料センター|C12070357500|昭和11年8月1日(土)海軍公報(部内限)第2823号}}p.2『○旗艦變更 佐世保警備戰隊司令官ハ昨三十一日旗艦ヲ北上ヨリ由良ニ變更セリ』、p.3『○艦船所在○八月一日午前十時調【佐世保】赤城▲、加古、龍田、名取、(将旗)由良、常磐▲、八重山、北上、足柄、野登呂/梨、竹、榧、桃、柳、樫、檜、菱、菫、蓼、蓬、(司令)夕月、望月、三日月、菊月/呂三〇、呂三一、呂三二、(司令)呂六〇、呂六一、呂六二、(司令)呂六五、呂六六、呂六七、(司令)伊六四、伊六一、伊六二、伊五三▲/敷島▲、早鞆、間宮▲、室戸/(白露)、(夕立)』</ref>。
12月1日、由良は第一艦隊所属の第八戦隊(司令官[[南雲忠一]]少将)に編入され<ref name="丸8巻由良年表" />、第八戦隊旗艦となる<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070358800|昭和11年12月11日(金)海軍公報(部内限)第2931号 p.16}}『○旗艦指定 聨合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官ハ本月一日左記各戰隊ノ旗艦ヲ變更セリ 記 第一戰隊 長門/第三戰隊 榛名/第八戰隊 由良/第一水雷戰隊 川内/第一潜水戰隊 五十鈴/第一航空戰隊 鳳翔/第十二戰隊 沖島|第二潜水戰隊司令官ハ本月二日旗艦ヲ迅鯨ニ指定セリ』</ref>。当時の第八戦隊は、長良型軽巡3隻(由良、鬼怒、名取)<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070366700|昭和12年7月16日(金)海軍公報(部内限)第2664号 p.18}}『○郵便物發送先 第八戰隊司令部、軍艦由良、鬼怒、名取宛 自今 佐世保郵便局氣付(軍事郵便)|第五驅逐隊(朝風及隊主計長)宛 當分ノ間 基隆郵便局氣付(軍事郵便)』</ref>。
 
[[19381937年]](昭和1312)4)8月、南支上海上陸作戦に出動。由良以下第八戦隊はし、陸軍[[第五艦隊 (日本派遣)#初代の第五艦隊|第五艦隊]]司令官[[塩沢幸一松井石根]]:旗大将が乗[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]])の指揮下、8月22日入り上海に到着し1011上旬より[[広東]]攻略まで揚子江の作戦に参加従事した<ref name="回想提督19" />同月11月15日、第八戦隊司令官輸送船団を護衛したのち10月12日の[[大亜湾|バイアス湾南雲忠一]]上陸作戦を支援、さ少将か[[海軍陸戦隊小沢治三郎]]少将よる10月14日交替、小沢少将は同戦隊[[虎門要塞]]攻略に成功した軽巡3隻(那珂、鬼怒、由良)を指揮する<ref name="回想提督19" >[[#回想の提督]]19-20頁『第八戦隊司令官時代』</ref>。
 
[[1938年]](昭和13年)2月上旬、第八戦隊旗艦は由良から那珂に変更される<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070371700|昭和13年2月7日(月)海軍公報(部内限)第2831号 p.33}}『○旗艦變更 第八戰隊司令官ハ二月五日旗艦ヲ由良ヨリ那珂ニ變更セリ|第四航空戰隊司令官ハ二月五日旗艦ヲ衣笠丸ヨリ能登呂ニ變更セリ』</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070371800|昭和13年2月17日(木)海軍公報(部内限)第2839号 p.19}}『○旗艦變更 第八戰隊司令官ハ二月四日旗艦ヲ由良ヨリ那珂ニ變更セリ(二月七日本欄掲載ノ分ハ取消ス)』</ref>。
[[1939年]](昭和14年)11月、特別役務艦となり修理を行った。
4月、南支作戦に出動<ref name="丸8巻由良年表" />。由良以下第八戦隊は[[第五艦隊 (日本海軍)#初代の第五艦隊|第五艦隊]](司令長官[[塩沢幸一]]:旗艦[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]])の指揮下に入り、10月上旬より[[広東]]攻略作戦に参加した<ref name="回想提督19" />。第八戦隊は輸送船団を護衛したのち10月12日の[[大亜湾|バイアス湾]]上陸作戦を支援、さらに[[海軍陸戦隊]]による10月14日の[[虎門要塞]]攻略に成功した<ref name="回想提督19" />。
12月12日、第八戦隊旗艦は那珂から由良に戻った<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070376100|昭和13年12月14日(水)海軍公報(部内限)第3086号 p.10}}『○旗艦變更 第八戰隊司令官ハ十二月十二日旗艦ヲ那珂ヨリ由良ニ變更セリ|第三航空戰隊司令官ハ十二月十<del>三</del>二日旗艦ヲ香久丸ヨリ神威ニ變更セリ』</ref>
 
[[1939年]](昭和14年)2月10日、第八戦隊(由良、阿武隈、鬼怒)の旗艦は由良から軽巡[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]に変更<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070379600|昭和14年2月10日(金)海軍公報(部内限)第3132号 p.10}}『○旗艦變更 第八戰隊司令官ハ二月八日旗艦ヲ由良ヨリ阿武隈ニ變更セリ|第二潜水戰隊司令官ハ二月六日旗艦ヲ阿武隈ヨリ剣埼ニ變更セリ|○司令驅逐艦一時變更 第一驅逐隊司令ハ二月七日司令驅逐艦ヲ一時神風ヨリ波風ニ變更セリ』</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070381200|昭和14年9月12日(火)海軍公報(部内限)第3309号 p.2}}『○郵便物發送先(略)第八戰隊司令部、軍艦阿武隈、鬼怒、由良宛 九月二十一日迄ニ到達見込ノモノハ宿毛 同 二十四日迄ニ到達見込ノモノハ 郡中 其ノ後ハ 聨合艦隊司令部ニ同ジ』</ref>。
[[1940年]](昭和15年)5月、[[第四艦隊 (日本海軍)|第四艦隊]]・第5潜水戦隊(司令官[[鋤柄玉造]]少将)の旗艦となった。
11月15日、第八戦隊は[[利根型重巡洋艦]]2隻([[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]])で再編<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070381900|昭和14年11月18日(土)海軍公報(部内限)第3363号 p.51}}『○旗艦指定 第二艦隊司令長官ハ第二水雷戰隊ノ旗艦ヲ神通ニ、第七戰隊ノ旗艦ヲ熊野ニ、第八戰隊ノ旗艦ヲ利根ニ、第三潜水戰隊ノ旗艦ヲ五十鈴ニ十一月五日孰モ指定セリ|第八戰隊司令官ハ十一月十六日旗艦ヲ利根ニ指定セリ|○将旗掲揚 第十三戰隊司令官ハ十一月十五日将旗ヲ飛鳥ニ掲揚セリ』</ref>。従来の第八戦隊は解隊された<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070381900|昭和14年11月17日(金)海軍公報(部内限)第3362号 p.45}}『○旗艦指定 第一艦隊司令長官ハ十一月十五日第六戰隊ノ旗艦ヲ加古ニ、第一水雷戰隊ノ旗艦ヲ阿武隈ニ、第四潜水戰隊ノ旗艦ヲ劍埼ニ孰モ指定セリ|○将旗撤去 舊第八戰隊司令官ハ十一月十五日将旗ヲ阿武隈ヨリ撤去セリ』</ref>。由良は特別役務艦となり、修理を行った<ref name="丸8巻由良年表" />。
 
[[1940年]](昭和15年)5月1日<ref name="丸写真8巻207" />、日本海軍は[[第四艦隊 (日本海軍)|第四艦隊]](旗艦[[千歳 (水上機母艦)|千歳]])を増強<ref name="叢書三八73">[[#叢書38中部太平洋(1)]]73-77頁『昭和十五年度艦隊編制(抜粋)(昭和一四.一一.一五付)』</ref><ref name="叢書三八78a">[[#叢書38中部太平洋(1)]]78頁『第四艦隊の兵力およびその行動』</ref>。由良は第四艦隊麾下の'''第五潜水戦隊'''(司令官[[鋤柄玉造]]少将)に編入され<ref name="丸8巻由良年表" />、同潜水戦隊旗艦となった<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070387800|昭和15年5月4日(土)海軍公報(部内限)第3493号 p.13}}『○将旗掲揚 第五潜水戰隊司令官ハ五月二日将旗ヲ由良ニ掲揚セリ』</ref><ref name="叢書三八78a" />。
翌[[1941年]](昭和16年)11月、第28、第29、第30の各潜水隊を指揮して[[海南島]]に進出した。日本海軍は日米開戦と開戦劈頭の東南アジア進出を見据えて、弱小部隊だった[[南遣艦隊]]を一挙に増強<ref name="回想提督25">[[#回想の提督]]25-27頁『南遣艦隊司令長官時代』</ref>。司令長官小沢治三郎中将の指揮下に旗艦鳥海、第七戦隊、第三水雷戦隊、第4潜水戦隊、第5潜水戦隊、第12航空戦隊、第22航空戦隊等の戦力が揃う<ref>[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]](付図第一)『南方作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』</ref>。由良以下第5潜水戦隊も第四艦隊から南遣艦隊に編入され、太平洋戦争を迎えた。
当時の第四艦隊は、第十七戦隊([[千歳 (水上機母艦)|千歳]]、[[神威 (水上機母艦)|神威]])、第十八戦隊([[多摩 (軽巡洋艦)|多摩]]、[[常磐 (装甲巡洋艦)|常磐]])、水上機母艦[[能登呂 (水上機母艦)|能登呂]]、第30駆逐隊([[睦月 (駆逐艦)|睦月]]、[[如月 (睦月型駆逐艦)|如月]]、[[弥生 (睦月型駆逐艦)|弥生]]、[[望月 (駆逐艦)|望月]])等で編成されていた<ref name="叢書三八73" /><ref name="叢書三八78a" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070387900|昭和15年5月21日(火)海軍公報(部内限)3507号 p.47}}『○郵便物發送先 第四艦隊司令部、軍艦千歳、第三十驅逐隊、軍艦能登呂、第十八戰隊司令部、軍艦多摩、常磐、第五潜水戰隊司令部、軍艦由良、第十三潜水隊、第二十一潜水隊宛 自今 神奈川県郵便局氣付(軍事郵便)/軍艦神威、第九潜水隊宛 當分ノ間 横須賀/横濱海軍航空隊本隊宛 當分ノ間 横濱』</ref>
5月下旬より、第五潜水戦隊(由良ほか)は第四艦隊僚艦(千歳、神威、多摩、常磐ほか)と共に南洋方面で行動する<ref name="丸8巻由良年表" /><ref name="叢書三八78c">[[#叢書38中部太平洋(1)]]78-79頁『後期訓練』</ref>。
同年11月15日、第五潜水戦隊は第四艦隊から除籍されて連合艦隊に編入される<ref name="丸写真8巻207" /><ref name="叢書三八79">[[#叢書38中部太平洋(1)]]79-80頁『昭和十六年度の艦隊の再編』</ref>。
 
翌[[1941年]](昭和16年)11月、由良(第五潜水戦隊旗艦)は第28・第29・第30の各潜水隊を指揮して[[海南島]]に進出した。日本海軍は日米開戦と開戦劈頭の東南アジア進出を見据えて、弱小部隊だった[[南遣艦隊]]を一挙に増強<ref name="回想提督25">[[#回想の提督]]25-27頁『南遣艦隊司令長官時代』</ref>。司令長官[[小沢治三郎]]中将の指揮下に旗艦鳥海、第七戦隊、第三水雷戦隊、第4潜水戦隊、第5潜水戦隊、第12航空戦隊、第22航空戦隊等の戦力が揃う<ref>[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]](付図第一)『南方作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』</ref>。由良を含め第五潜水戦隊も南遣艦隊(馬来部隊)に編入され、太平洋戦争を迎えた<ref name="軽巡海戦史92">[[#軽巡海戦史]]92-94頁『開戦時の由良の航跡』</ref>。
 
=== 太平洋戦争 ===
{{Main|南方作戦}}
 
[[1941年]](昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦、由良は南遣艦隊・第5潜水戦隊旗艦(司令官[[醍醐忠重]]少将)として[[マレー作戦|マレー上陸作戦]]を支援した<ref name="丸8巻由良年表" />。[[マレー沖海戦]]では、[[東洋艦隊 (イギリス)|イギリス東洋艦隊]]の戦艦[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]、巡洋戦艦[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]捜索のため由良艦載機も偵察に参加し、12月9日に未帰還となっている。続いて[[ボルネオ]]攻略作戦に参加した<ref name="軽巡海戦史92" />
 
[[1942年]](昭和17年)1月20日、第5潜水戦隊旗艦は由良から[[伊号第百六十五潜水艦|伊65]]潜水艦に移し変更された<ref>[[#軽巡二十五隻]]329頁< name="原2014由良" /ref>。連合国軍はいまだ巡洋艦数隻の有力な水上艦隊を保持しており、馬来部隊指揮官[[小沢治三郎]]中将は対水上艦戦闘を想定して、同部隊・第二護衛隊に属していた由良を主隊(重巡[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、第七戦隊《[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]]》、第19駆逐隊第1小隊《[[綾波 (吹雪型駆逐艦)|綾波]]、[[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]]》、第12駆逐隊《[[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]]》、第三航空部隊《空母[[龍驤 (空母)|龍驤]]、駆逐艦[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]》)に編入、それまで主隊に属していた練習巡洋艦[[香椎 (練習巡洋艦)|香椎]]を第二護衛隊に編入した<ref name="叢書(26)294">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]294-298頁</ref>。
2月12日、由良は第三水雷戦隊(司令官[[橋本信太郎]]少将:旗艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]])の指揮下に入る<ref>[[#S1702三水戦日誌(1)]]p.27『2月12日 一.由良指揮下ニ入ル』</ref>。13日以降、川内等と共に[[シンガポール]]から脱出する艦船の攻撃に参加して川内由良は3000トン級特設巡洋艦1隻撃沈を記録<ref name="叢書(26)294" />。14日、由良は駆逐艦2隻(吹雪、朝霧を指揮下に置き、[[スマトラ島]]と[[バンカ島]]周辺を哨戒した<ref name="叢書(26)294" />。同日18時50分、イギリス特設砲艦(1000トン級)が海上トラック部隊を襲撃し、後方20浬を航行していた3隻(由良、朝霧、吹雪は救援にかけつけイギリス特設砲艦を撃沈した<ref name="叢書(26)294" />。15日20時45分由良朝霧で英雑務役船撃沈、16日16時30分由良朝霧で英砲艦捕獲、17日22時50分由良単艦で英特務船撃沈といった戦果をおさめている<ref>[[#S1702三水戦日誌(2)]]pp.25-27『(一)ム作戦中撃沈拿捕(捕獲)船舶一覧表』</ref><ref name="叢書(26)310">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]310-311頁『16日以後の水上部隊の作戦』</ref>。
 
2月16日午後6時、小沢中将は護衛部隊指揮官橋本少将(三水戦司令官)に対し、[[ジャワ島]]攻略作戦に備えて由良・第11駆逐隊・第一掃海隊の[[アナンバス諸島]]回航を下令した<ref name="叢書(26)310" />。17日以降、各隊・各艦は次作戦に向けて移動を開始した<ref name="叢書(26)310" />。2月21日、由良、第11駆逐隊([[吹雪 (吹雪型駆逐艦)|吹雪]]、[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]、[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]])、第12駆逐隊([[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]]、[[叢雲 (吹雪型駆逐艦)|叢雲]])、第1掃海隊、特設水上機母艦[[神川丸 (特設水上機母艦)|神川丸]]、給油艦[[鶴見 (給油艦)|鶴見]]は蘭印部隊(指揮官[[高橋伊望]]第三艦隊司令長官、旗艦[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]])の第三護衛部隊(第五水雷戦隊基幹、指揮官[[原顕三郎]]第五水雷戦隊司令官:旗艦[[名取 (軽巡洋艦)|名取]])に編入され、[[蘭印作戦]]に従事する<ref>[[#S1701五水戦日誌(4)]]p.11『2月21日一.本日附由良、11dg、12dg、1wg、神川丸及鶴見ヲ蘭印部隊ニ編入セラル(後略)』</ref><ref name="叢書(26)427">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]427-430頁『西部ジャワ方面水上部隊の作戦』</ref>。
由良は第6駆逐隊第1小隊(司令艦/[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]、[[暁 (吹雪型駆逐艦)|暁]])、第22駆逐隊第2小隊([[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]、[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]])等を率いて[[今村均]]陸軍中将率いる陸軍第16軍の輸送船団56隻を護衛した<ref name="叢書(26)427" /><ref>[[#S1701五水戦日誌(7)]]pp.8,20,31『(イ)第一軍隊区分(輸送船入泊迄)第三嚮導隊/指揮官由良艦長 兵力/由良、1D/6dg、2D/22dg、w×1/1wg 4Tgノ直接嚮導護衛』</ref>。
この頃、[[ABDA司令部|ABDA連合軍艦隊]]が出現したため五水戦司令官原少将は水上戦闘を挑む方針を示し由良を含めた各艦に集結を下令したが、先任指揮官の第七戦隊司令官[[栗田健男]]少将は決戦を回避する意向だった<ref name="叢書(26)431">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]431-436頁『第七戦隊、決戦を回避』</ref>。五水戦と七戦隊の電報の応酬に対し、みかねた[[連合艦隊]]司令部が仲裁に入る一幕もあった<ref name="叢書(26)431" />。2月28日、原少将は由良に対し第三水雷戦隊への復帰を命じた<ref name="叢書(26)431" />。なお由良は12時15分に「敵巡洋艦1、駆逐艦1発見」の報告をおこない、第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)は一度この敵に向かったものの、「[[バタヴィア]]に入港した」という偵察結果を受け反転している<ref name="叢書(26)431" />。
 
2月27日-28日、日本軍の東部ジャワ攻略部隊を攻撃した連合国軍艦隊は[[スラバヤ沖海戦]]に敗北、残存艦艇は各艦ごとに脱出を開始した。重巡洋艦[[ヒューストン (重巡洋艦)|ヒューストン]]、軽巡洋艦[[パース (軽巡洋艦)|パース]]は28日バタビアへ入港後、[[ジャワ島]]西部の[[スンダ海峡]]を通過して脱出を試みた。だがパンタム湾泊地の第三護衛部隊と遭遇し、3月1日午前0時〜2時の[[バタビア沖海戦]]により2隻とも沈没した。由良はこの夜間戦闘に参加できなかった。同日夜、敵潜から雷撃を受け魚雷2本を回避、爆雷にて反撃しつつ駆逐艦[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]](第22駆逐隊)をして附近を掃蕩させた<ref name="叢書(26)526">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]526-528頁『西部ジャワ方面部隊、敵を一掃』</ref><ref>[[#S1701五水戦日誌(5)]]pp.58-59『3月1日2100由良艦長/第四警戒隊戦闘概報第一号(略)六.由良ハ1日1605地点6度4分南108度東ニ於テ敵潜ノ攻撃ヲ受ケタルモ(魚雷2本)之ヲ回避被害ナシ、発射点ニ対シ爆雷攻撃(6個)ヲ行ヒ更ニ附近ヲ長月ヲシテ掃蕩セシム』</ref>。敵潜の正体はオランダ海軍潜水艦のK XIVであった。
3月4日、由良は駆逐艦[[松風 (2代神風型駆逐艦)|松風]](第5駆逐隊)と共同しに、米潜水艦[[S-39 (潜水艦)|S-39]] (''USS S-39, SS-144'')の雷撃で沈没した給油艦[[襟裳 (給油艦)|襟裳]]<ref name="丸8巻由良年表" />(第七戦隊補給後、シンガポール回航中)の乗員162名を救助した<ref name="叢書(26)526" /><ref>[[#S1701五水戦日誌(3)]]p.46『4日1715由良艦長/一.1505襟裳沈没位置4度22分南108度23分東|二.同艦々長以下162名(内重傷下士官兵5名軽傷下士官兵15名)ヲ由良ニ収容ス。戦18名(内准士官以上1名)艦ト運命ヲ共ニセリ、救難ニ従事セル各艦ハ固有任務ニ復帰ス』-p.70『4日(略)三.(自1600至1700)松風ハ襟裳救難ニ従事右終了後「バンタム」湾ニ向ケ発』</ref>。
3月4日、ジャワ攻略任務を終えた由良と第11駆逐隊はシンガポールに回航され、他部隊も同様にシンガポールやマカッサルへ向かった<ref name="叢書(26)526" />。補給後、北部スマトラ、[[アンダマン・ニコバル諸島|アンダマン]]攻略作戦に従事した<ref>[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]607-608頁『敵守備兵、無条件降伏す』</ref>。
 
その頃、馬来部隊指揮官[[小沢治三郎]]中将はアマンダン攻略作戦と南方攻略作戦終了の間に日程的余裕があることから、臨時部隊(鳥海、第七戦隊、第三水雷戦隊、第四航空戦隊)を編制し、[[ベンガル湾]]で独自の作戦を行う方針を示した<ref name="叢書(26)590">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]590頁『ベンガル湾機動作戦』</ref>。また[[南雲忠一]]中将ひきいる南雲機動部隊の[[セイロン島沖海戦|セイロン島方面機動作戦]]実施を知り、[[山本五十六]]連合艦隊司令長官や南方部隊指揮官/第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]中将の許可をとり、馬来部隊の行動と南雲機動部隊の作戦を呼応することにした<ref name="叢書(26)590" />。馬来部隊は5分割され、中央隊(指揮官小沢中将:[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]、[[龍驤 (空母)|龍驤]]、[[夕霧 (吹雪型駆逐艦)|夕霧]]、[[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]])、北方隊(栗田少将:[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]])、南方隊(三隈艦長:[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、[[天霧 (駆逐艦)|天霧]])、補給隊(綾波駆逐艦長:[[綾波 (吹雪型駆逐艦)|綾波]]、[[汐風 (駆逐艦)|汐風]]、日栄丸)、警戒隊(三水戦司令官:川内、第11駆逐隊)という編制になる<ref>[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]636頁</ref>。
4月1日、由良を含む馬来部隊機動部隊は[[ミャンマー]]のメルギーから出撃<ref name="叢書(26)663">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]663-669頁『馬来部隊機動部隊、ベンガル湾を制圧』</ref>。空母「龍驤を基幹として、中央隊は輸送船8隻撃沈・8隻大破(のち1隻は北方隊が撃沈)・地上施設襲撃(油槽2個爆破、倉庫二棟爆破)、北方隊8隻撃沈、南方隊5隻撃沈、合計21隻(約137,000トン)撃沈・8隻(約47,000トン)大破という大戦果をおさめた<ref name="叢書(26)663" />。由良龍驤《砲撃》夕霧による戦果は、3000トン級蘭商船1隻、6000トン級英武装商船1隻、3000トン級蘭武装商船撃沈である<ref name="叢書(26)663" />。
 
=== 第四水雷戦隊 ===
4[[1942年]](昭和17年)4月10日、由良は[[ペナン島]]に入港<ref name="丸8巻由良年表" /><ref name="叢書(26)663" />。同日附で第5潜水戦隊旗艦に復帰し、シンガポール(昭南)を出発して日本本土に帰還、20日佐世保へ戻った<ref name="叢書(26)663" /><ref>[[#昭和17年4月〜第5潜水戦隊詳報]]p.15『(前略)1月下旬以来馬来部隊ニ編入中ナリシ由良ヲ四月十日附當隊ニ復帰セシメラルルコトトナリタレバ同月之ヲ昭南ニ回航セシメ将旗ヲ之ニ移シ翌日同地発四月二十日佐世保軍港ニ帰還セリ』</ref>。5月中旬まで同地で待機、修理整備に従事を実施する<ref>[[#S1704四水戦日誌(2)]]p.47『(一)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。
5月9日附をもって<ref name="丸8巻由良年表" />、由良は[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]第四水雷戦隊(司令官[[西村祥治]]少将)旗艦だった[[川内型軽巡洋艦]][[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]の代艦として同戦隊に編入、それまでの第5潜水戦隊旗艦を[[特設潜水母艦]][[りおでじゃねろ丸]]に譲った<ref>[[#S1704五潜水戦詳報]]p.22『(前略)五月九日附ヲ以テ旗艦由良ハ那珂ノ代艦トシテ第四水雷戦隊ニ編入セラレタルヲ以テ旗艦ヲりおで志゛やねう丸ニ変更セリ』</ref>。開戦時の四水戦旗艦だった那珂は[[クリスマス島 (オーストラリア)|クリスマス島]]攻略ために四水戦と軽巡名取、長良等と共に[[日本軍のクリスマス島占領|占領作戦]]に従事していたが、中の4月1日に米潜水艦[[シーウルフ (サーゴ級潜水艦)|シーウルフ]]に雷撃され大破していた(6月15日四水戦より除籍)<ref>[[#軽巡海戦史]]277-278頁『那珂(なか)』</ref><ref>[[#戦隊行動調書]]p.42『6.15 那珂4sdヨリ除カル』</ref>
桂島泊地に移動した後の5月20日<ref name="丸8巻由良年表" />、四水戦旗艦は駆逐艦[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]](第9駆逐隊)から由良に移った<ref name="S1704四水戦(2)10">[[#S1704四水戦日誌(2)]]p.10『20日1500旗艦ヲ夏雲ヨリ由良ニ変更』</ref><ref name="S17海軍公報(限)4107" />。
5月22日-23日、連合艦隊第1回応用教練に参加<ref>[[#S1704四水戦日誌(2)]]p.11『2駆ハ2F機密第661番電ニ依リ1小隊(村雨、五月雨)ハ蒼龍ノ直衛トナリ22日横須賀発24日桂島着、2小隊(夕立、春雨)ハ愛宕ノ直衛トシテ24日横須賀発26日「クダコ」水道南口ニ於テ當隊ニ合同セリ。之ヨリ先22.23日由良9駆ヲ率ヰGF第1回応用教練ニ参加セリ之ニ関連夏雲ハ2F基地設置撤収作業ニ従事セリ』</ref>。四水戦各隊は桂島泊地で出撃準備をおこなう<ref>[[#S1704四水戦日誌(2)]]p.11『當隊(由良、9駆、2駆1小隊)25日2200桂島泊地発「クダコ」水道南口ニ於テ2駆1小隊ヲ合同シ伊予灘ニ於テ第一類戦闘訓練ヲ実施シ26日補給ノ為呉軍港ニ入港セリ。尚攻略部隊電令作第4号ニ依リ夏雲ハ25日迄春雨ハ尓後瑞鳳附属ト定メラル』</ref>。29日、由良および第四水雷戦隊は桂島泊地を出撃、ミッドウェー島へ向かう<ref name="丸8巻由良年表" /><ref>[[#S1704四水戦日誌(2)]]p.12『28日呉発桂島泊地着、同日愛宕ニ於テ作戦打合セヲ了シ前路掃蕩ノ為29日0400桂島泊地発豊後水道外方ノ対潜掃蕩ヲ了シ1345掃海水道南口ニ於テ攻略部隊主隊ニ合同セリ』</ref>。
 
6月1日の時点で由良を旗艦とする第四水雷戦隊は、第2駆逐隊([[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]])、第4駆逐隊([[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[野分 (駆逐艦)|野分]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]])、第8駆逐隊([[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]])、第9駆逐隊([[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]]、[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]])で編制されていた<ref>[[#ミッドウエー海戦日誌(1)]]p.3『聯合艦隊編制表(六月一日現在)』</ref><ref name="軽巡海戦史97">[[#軽巡海戦史]]97-100頁『伝統の機関科魂』</ref>。このうち第4駆逐隊は[[第一航空艦隊|第一機動部隊(通称南雲機動部隊)]]の空母4隻([[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]])直衛、第8駆逐隊は第七戦隊(司令官[[栗田健男]]少将:[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]])に引き抜かれており、由良と別行動をとっている<ref>[[#S1704四水戦日誌(2)]]p.11『20日附ニテ第二段作戦第二期兵力部署発令セラレ由良2駆9駆ハ攻略部隊主隊ニ編入セラレ8駆ハ攻略部隊支援隊ニ編入セラレタリ』</ref>。
[[ミッドウェー海戦]]において第四水雷戦隊は[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]](司令長官[[近藤信竹]]中将:旗艦[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]])を基幹とする攻略部隊主隊に所属しており、アメリカ艦隊と直接交戦する機会はなかった<ref>[[#S1704四水戦日誌(3)]]p.8『7日0900攻略部隊ハ2D/7S 8dg救援ノ為針路180度トル8日0215索敵機ヲ発進セルモ敵情ヲ得ズ0300反転針路0度0400更ニ反転針路180度トシ主力部隊ヲ掩護スル如ク行動ス。0910 8S、4sdハ8S司令官之ヲ率ヰ攻略部隊ヨリ分離、第三次補給ヲ実施、9日1120補給終了、由良村雨春雨ヲ率ヰ10日0355主力部隊ニ合同ヲ了ス』</ref>。だがアメリカ軍機動部隊が追撃してきた場合は空母[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]艦載機及び各艦水上偵察機により決死攻撃を行い、しかる後に夜戦を挑む可能性もあった<ref>[[#S1704四水戦日誌(3)]]p.61『敵空母ト至近距離ニ相見ユル算大ナリトシ先三座水偵隊ヲ以テ黎明索敵瑞鳳艦攻隊及二座水偵ノ全力ヲ以テ敵空母撃滅ヲ企図ス、當隊ハ又敵ガ其ノ侭ニ2D/7Sヲ追囁スル場合本夜2100以後会敵算少カラズト判断シ咄嗟会敵ニ応ズル如ク艦内哨戒第一配備(見張二直)ニテ警戒セリ』</ref>。6月14日、由良は呉に帰港し27日から小松島にて待機した<ref>[[#S1704四水戦日誌(3)]]p.57『(一)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。この作戦中、由良の機関は旧式ながら一度も故障する事がなかったという<ref name="軽巡海戦史97" /><ref>[[#海軍は生きている]]201-202頁</ref>。
 
6月20日、四水戦司令官は西村祥治少将から[[高間完]]少将にかわった。当時の第四水雷戦隊は、本州南岸の対潜警戒および掃蕩任務に従事<ref name="軽巡海戦史102">[[#軽巡海戦史]]102-104頁『四水戦旗艦としてソロモン進出』</ref>。7月14日、四水戦に第27駆逐隊([[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[夕暮 (初春型駆逐艦)|夕暮]]、[[有明 (初春型駆逐艦)|有明]])が加入し、第4駆逐隊が編制から外れた。
 
=== ガダルカナル島の戦い ===
{{seealso|ガダルカナル島の戦い}}
 
8[[1942年]](昭和17年)8月7日、アメリカ軍は[[ウォッチタワー作戦]]を発動し[[ガダルカナル島]]と[[フロリダ諸島]]に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いが始まった。8月11日、内地を出撃して17日にトラック泊地に到着<ref name="丸8巻由良年表" /><ref name="軽巡海戦史102" />。20日に出撃する<ref name="丸8巻由良年表" />。ガダルカナル島を巡る戦闘は、[[ホニアラ国際空港|ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場]]を確保して制空権を維持するアメリカ軍に対し、ガダルカナル島の日本陸軍が飛行場奪回を試みる形で展開した。日本海軍はガダルカナル島の日本陸軍に対し兵器・物資・増援部隊を送り込もうと輸送船団を編成したが、アメリカ軍機動部隊とヘンダーソン基地から発進するアメリカ軍機によって低速の輸送船は撃退されてしまう([[第二次ソロモン海戦]]等)。この海戦で由良は前進部隊に編入され第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]中将(旗艦愛宕)指揮下で参加したが<ref name="丸8巻由良年表" />、大きな戦闘は起きなかった。9月5日、トラック泊地に帰投<ref name="丸8巻由良年表" />。トラック泊地で待機中の9月7日、重巡愛宕から借りていた映写機が故障を起こし、愛宕での映画上映が出来なくなるアクシデントが起きた<ref>[[#愛宕奮戦記]]155頁</ref>。
 
制空権を掌握できない中での輸送船運用を諦めた日本海軍は、敵艦隊との魚雷戦を前提に建造された艦隊型駆逐艦を、想定外の輸送任務に投入することになった。これを'''[[鼠輸送]]'''という<ref name="軽巡海戦史102" />。9月20日、由良以下第四水雷戦隊は外南洋部隊(第八艦隊)増援部隊に編入された<ref name="八艦隊(2)8四水戦">[[#S1709八艦隊日誌(2)]]pp.8-9『第二十四駆逐隊山陽丸夕立|9-5|GF電令作第264号ニ依リ外南洋部隊ヘ編入』-『四水戦(九駆、二七駆二小隊、夕立欠)国川丸|9-20|GF電令作第300号ニ依リ外南洋部隊ニ編入』</ref>。同日午後、由良および第27駆逐隊第1小隊(時雨、白露)は前進部隊(第二艦隊)と分離、油槽船玄洋丸から燃料補給を受けたのち、[[ショートランド諸島|ショートランド泊地]]へ移動<ref name="丸8巻由良年表" /><ref>[[#戦史叢書83ガ島戦]]143頁</ref>。既にソロモン海で活動していた四水戦3隻(夕立、有明、夕暮と合流した<ref>[[#S1709八艦隊日誌(2)]]p.14『(二)麾下及友軍ノ行動概要』</ref>。
だが同泊地はアメリカ軍大型爆撃機の空襲に曝されていた<ref name="叢書(83)156">[[#戦史叢書83ガ島戦]]156頁</ref><ref name="軽巡海戦史105">[[#軽巡海戦史]]105-107頁『ショートランドの災厄』</ref>。9月24日、特設水上機母艦[[讃岐丸 (特設水上機母艦)|讃岐丸]]が小破<ref name="叢書(83)156" />。[[9月25日]]<ref name="丸8巻由良年表" />、ショートランド泊地で由良はアメリカ第11飛行団の[[B-17 (航空機)|B-17爆撃機]]2機による攻撃を受ける<ref>日本軽巡戦史、326ページ</ref>。至近弾3、250kg爆弾1発が後部7番砲の砲身に命中<ref>[[#波濤と流雲と青春と]]239頁</ref><ref>[[#原2014、軽巡|軽巡二十五隻]]112-113頁</ref>。士官室から甲板に出たばかりの通信長が爆風に巻き込まれ戦死した<ref name="軽巡海戦史105" /><ref>[[#海軍は生きている]]85頁</ref>。
 
10月1日、由良(増援部隊挺身輸送隊旗艦由良は、[[伊号第二潜水艦]]、[[伊号第三潜水艦]]、駆逐艦4隻([[綾波 (吹雪型駆逐艦)|綾波]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]、[[天霧 (駆逐艦)|天霧]])の輸送作戦<ref>[[#S1710四水戦日誌(1)]]p.6『(ハ)任務編制配備(一)軍隊区分及主要任務 10月1日 外南洋部隊増援部隊挺身輸送隊/指揮官:将旗4sd(由良)/兵力:4sd(dg欠)伊二伊三綾波浦波敷波天霧』</ref>、及び[[大発動艇]]・[[小発動艇]]による[[蟻輸送]]を指揮した<ref>[[#S1710四水戦日誌(1)]]p.13『4sdハ上旬前月ニ引続キ外南洋部隊増援部隊ニ編入セラレショートランド泊地(RXE)ニ在リテ警泊4sd司令部(由良)ハ挺身輸送隊トシテ「ガ」島ニ対スル大発ニ依ル兵器軍需品ノ輸送ニ従事、dgハ増援部隊本隊(指揮官3sd司令)ニ属シ「ガ」島ニ対スル増援輸送及敵増援阻止任務ニ従事シ(但シ夕暮ハR方面航空部隊ニ編入中有明ハ1日附一時SNB主隊ニ編入)シツツアリ…』</ref>。10月12日から20日までは第四水雷戦隊司令官にかわり由良の艦長が蟻輸送の指揮官を命じられている<ref>[[#戦史叢書83ガ島戦]]186頁</ref>。
 
その頃ガダルカナル島の日本陸軍は、物資欠乏・高温多湿の密林・装備兵力とも優勢なアメリカ軍といった諸条件により苦戦していた。第八艦隊および上級司令部[[第十一航空艦隊]]は、10月13日前後を目標に再び輸送船団を投入する計画をたてる<ref>[[#S1709八艦隊日誌(2)]]pp.10-11『(一)中央及其ノ他トノ連絡(略)(B)大海参一部長 GF参謀長宛(9月30日) 「ガ」島制圧畧成功セバ10月13日頃高速輸送船団ヲ以テ大規模ノ揚陸作戦ヲ計画中ナル處揚陸作業ニハ約一昼夜ヲ要シ昼間敵機ノ爆撃下ニ之ヲ行フノ外ナキノミナラズ「ガ」泊地近接並ニ避退ニハ各十時間敵機ノ攻撃圏下ヲ行動スル要アルヲ以テ防空砲火ノ特ニ大ナル駆逐艦ヲ以テ船団ヲ護衛スル事緊急要ナルニ付駆逐艦照月ヲ右作戦期間當隊ニ編入方特ニ御配慮ヲ得度』</ref>。
10月9日、高間司令官はガ島輸送作戦について[[ラバウル]]所在の第八艦隊司令部と打ち合わせを行うため、由良から五月雨(第2駆逐隊五月雨に移乗すると同艦を旗艦としてショートランド泊地を出発した<ref>[[#S1709四水戦詳報(3)]]p.8『九月下旬以来「ショートランド」ヲ基地トシ四水戦駆逐艦ノ大部ヲ挙ゲテ増援部隊ニ編入セラレ鼠上陸ニ従事、四水戦司令部ハ由良、天霧(綾波)、初雪ヲ率ヒ挺身輸送隊ノ指揮ニ當リツツアリタル處護衛隊作戦準備ノタメ十月九日夕刻一時将旗ヲ五月雨ニ移揚シテ「ショートランド」発、十日朝「ラバウル」ニ入港直ニ第八艦隊ト作戦打合セヲ遂ゲ同日午後第一船団長トノ協定ヲ完了セリ』</ref><ref>[[#戦隊行動調書]]p.42『10.9 将旗ヲ五月雨ヘ|10.12 将旗ヲ秋月ヘ』</ref>。
高間司令官は[[有明 (初春型駆逐艦)|有明]](第27駆逐隊)に乗艦してショートランド泊地に戻ってきたが、今度は最新鋭の[[秋月型駆逐艦]]1番艦[[秋月 (駆逐艦)|秋月]](9月26日外南洋部隊編入<ref>[[#S1709八艦隊日誌(2)]]p.10『第九駆、秋月|9-26|外南洋部隊ニ編入』</ref>)を四水戦旗艦とした<ref>[[#S1709四水戦詳報(3)]]pp.8-9『翌10月11日(略)同夕刻有明ニ将旗ヲ移揚シテ「ラバウル」発12日1300「ショートランド」泊地着、同日夕刻秋月ニ将旗ヲ移揚、同夜27駆(夕暮欠)及秋月駆逐艦長以上船長(第一分隊)打合ヲ行ヒ作戦準備ヲ完了セリ』</ref>。
日本側が制空権をうしなった海域において重要視される要素は、雷撃能力ではなく対空戦闘能力だったのである<ref>[[#S1709四水戦詳報(3)]]p.7『輸送船航行中及泊地ニ於ケル揚搭作業中ハ護衛隊ノ全力ヲ以テ対潜対空威力ノ最大発揮ニ努ム。特ニ秋月ノ対空威力ノ最大発揮ニ努ム』</ref>。また秋月型の旗艦能力も、短時間の任務ならば『概ね支障ない』との評価を得ている<ref>[[#S1709四水戦詳報(4)]]pp.12-13『十.護衛隊旗艦トシテノ秋月能力 今次作戦ノ如ク極メテ短期間護衛駆逐艦七隻輸送船六隻ヲ指揮セル情況ニ於テハ左ノ人員兵器ヲ増加セルノミニテ概ネ支障ナク護衛任務ヲ遂行シ得タリ|(イ)人員(司令部)幕僚全部、信号員3、電信員8、暗号員特務士官2下士官兵2|(ロ)兵器(由良)方向信号灯2』</ref>。
 
10月12日午前2時、増援部隊指揮官[[橋本信太郎]]第三水雷戦隊司令官(旗艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]])は[[サボ島沖海戦]]でアメリカ軍の脅威にさらされた日進輸送隊(水上機母艦《[[日進 (水上機母艦)|日進]]、[[千歳 (空母)|千歳]]》、駆逐艦《秋月、[[綾波 (吹雪型駆逐艦)|綾波]]、[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]、[[叢雲 (吹雪型駆逐艦)|叢雲]]、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]]》)を収容するため「川内、由良、天霧、浦波、磯波、時雨、白露」をひきいてショートランド泊地を出撃した<ref>[[#戦史叢書83ガ島戦]]200頁(註:白雲と夕霧は日本本土で修理中のため不在)</ref>。橋本司令官は日進隊と合流後、由良天霧時雨白露に日進隊(日進、千歳、秋月、綾波の護衛を命じ、自身は4隻(白雪、朝雲、夏雲、叢雲救援のためガ島方面へ向かった(空襲により夏雲、叢雲沈没)<ref name="叢書(83)201">[[#戦史叢書83ガ島戦]]201-202頁</ref>。由良隊および日進隊は同日14時ショートランド泊地に到着した<ref name="叢書(83)201" />。10月13日夜間の戦艦金剛、榛名による[[ヘンダーソン基地艦砲射撃]]の際には、水上偵察機2(川内、由良)が弾着観測を、水偵2(衣笠、古鷹)が照明弾投下機となって艦砲射撃を支援した<ref>[[#戦史叢書83ガ島戦]]213頁</ref>。
 
10月14日、橋本三水戦司令官のもと、増援部隊(軽巡《川内、由良、龍田》、駆逐艦《朝雲、白雪、暁、雷》)はショートランドを出撃<ref>[[#戦史叢書83ガ島戦]]218頁</ref>、ガダルカナル島エスペランス岬に揚陸を実施した<ref>[[#S1709八艦隊日誌(2)]]p.42『川内由良龍田|10-14|陸兵1129、野砲4、速射砲4、弾薬ヲ「エスペランス」ニ揚陸ス』</ref><ref name="叢書(83)220">[[#戦史叢書83ガ島戦]]220-221頁</ref>。また外南洋部隊主隊(鳥海、衣笠、天霧、望月)がガ島ヘンダーソン飛行場に艦砲射撃をおこなった<ref name="叢書(83)220" />。だが飛行場の戦力は健在だった。駆逐艦「四水戦(秋月、村雨、五月雨、夕立、春雨、時雨、白露、有明、夕暮が護衛する輸送船6隻は、アメリカ軍機の空襲で輸送船3隻(吾妻山丸、笹子丸、九州丸)が炎上喪失、揚陸した物件も米軍機の空襲で焼き払われてしまった<ref name="叢書(83)220" /><ref>[[#S1709八艦隊日誌(2)]]p.43『輸送船(崎戸九州笹子佐渡南海及吾妻山丸)|10-15|14日「タサファロング」ニ入泊セル船団ハ15日0335以後ヨリ連続的敵機ノ爆撃ヲ受ケ0945吾妻山丸火災續イテ笹子山丸1120九州丸火災擱坐、1530残存船団帰途ニ就ク』</ref>。
 
10月16日、連合艦隊は水上機母艦[[日進 (水上機母艦)|日進]]、[[千歳 (空母)|千歳]]、[[千代田 (空母)|千代田]]による輸送を止め、軽巡洋艦及び駆逐艦での輸送を下令、日本陸軍ガ島総攻撃前の最後の輸送作戦とした<ref>[[#S1709四水戦詳報(5)]]p.4『10月16日連合艦隊ヨリノ指令ニ依リ日進、千歳ノ輸送ハ取止メラレ千代田ノ進出モ亦延期トナレルヲ以テ増援部隊ヲ軽巡戦隊(川内、由良、龍田)水雷戦隊(秋月、7dg、11dg、6dg、2dg、19dg、27dg)ニ分ケ第四水雷戦隊司令官ハ水雷戦隊ヲ指揮スルコトトナレリ』</ref>。軽巡戦隊(1番艦川内、2番艦由良、3番艦龍田)、水雷戦隊(秋月《四水戦旗艦》、一番隊《朝雲、白雪、暁、雷》、二番隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、三番隊《浦波、敷波、綾波》、四番隊《時雨、白露、有明》)という区分だった<ref>[[#S1709四水戦詳報(5)]]pp.14-15『16日2335 3sd司令官→4sd司令官8F長官/翌17日出撃要領左ノ通改ム|一.出撃時刻0430|二.出撃部隊軍隊区分 軽巡戦隊1番艦川内2番艦由良3番艦龍田・水雷戦隊旗艦秋月、一番隊9駆11駆6駆、二番隊2駆、三番隊19駆、四番隊27駆(略)五.入泊(引揚)時刻「エスペランス」「タサハロング」共2100(2300)|六.入泊地19駆ヲ「タサハロング」ニ、龍田ヲ「エスペランス」ニ変更ス|七.日進千歳千代田ノ出撃ハ追テ令ス』</ref><ref name="叢書(83)224">[[#戦史叢書83ガ島戦]]224-225頁『十七日の輸送』</ref>。
10月17日午前2時以降ショートランド泊地を出撃した輸送隊は、同日午後10時にガダルカナル島へ到着<ref name="叢書(83)224" />。駆逐艦「白露型2隻([[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]および外南洋部隊主隊から派遣された駆逐艦2隻([[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[望月 (駆逐艦)|望月]]が警戒及び陸上砲撃を行う中<ref>[[#S1709四水戦詳報(5)]]p.6『『村雨時雨ハ適時哨区ヲ撤シ2210予定ノ如ク陸上砲撃ヲ実施ス(発射弾数村雨60発時雨100発)』</ref><ref name="叢書(83)224" />、各艦・各部隊は陸軍兵2159名、大砲18門、軍需物資の揚陸に成功した<ref>[[#S1709八艦隊日誌(2)]]p.43『増援部隊|10-17|陸兵2159、野砲6、速射砲12、弾薬器材ヲ「エスペランス」「タサファロング」ニ揚陸ス』</ref>。
[[10月18日]]4時45分、輸送作戦を終えて帰投中、[[チョイセル島]]沖で由良は米潜水艦[[グランパス (SS-207)|グランパス]] (''USS Grampus, SS-207'') に雷撃された。左舷前部に1本が命中するが<ref>[[#S1709四水戦詳報(5)]]p.7『18日0445軽巡戦隊ニ対シ左斜前約1粁ヨリ敵潜水艦ノ雷撃(発射雷数3)アリ内1由良ノ左舷前部清水タンクニ命中セルモ不爆ニシテ大ナル損害ナク0930増援部隊全部RXEニ帰着セリ。本行動中敵機竝ニ敵水上艦艇ノ妨害ヲ受ケズ』</ref>、不発だったため速力低下等の影響は出ず<ref name="丸8巻由良年表" />、9時30分にショートランド泊地へ戻った<ref>[[#S1709四水戦詳報(5)]]p.9『18日0445(略)内1由良ニ命中前部清水タンクニ小浸水アルモ不発ナリシ為大ナル被害ナシ速力ニ影響セズ|0930RXE帰着』</ref><ref name="叢書(83)224" />。
 
=== 沈没 ===
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[[山本五十六]]連合艦隊司令長官は[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊(南雲機動部隊)]]と[[第二艦隊 (日本海軍)|前進部隊(第二艦隊基幹)]]をソロモン海に派遣<ref name="叢書(83)249">[[#戦史叢書83ガ島戦]]249-251頁『攻撃開始日の延期と再延期』</ref>。一方[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア]]南太平洋方面軍司令官も空母「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]、[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」、戦艦「[[サウスダコタ (戦艦)|サウスダコタ]]」等を投入、両軍とも機動部隊決戦にむけて活発に索敵行動を繰返した。
 
10月24日、由良は第四水雷戦隊(司令官[[高間完]]少将:旗艦秋月、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》)各艦と共に第二攻撃隊を編成し、日本陸軍のガダルカナル島総攻撃に呼応してガダルカナル島へ出撃するが、25日にアメリカ軍機の波状攻撃を受けて航行不能となる<ref name="軽巡海戦史107">[[#軽巡海戦史]]107-108頁『大破炎上のはて砲雷撃処分』</ref><ref name="軽巡海戦史112">[[#軽巡海戦史]]112-115頁『他艦から見た由良の最後』</ref>。
由良は駆逐艦2隻([[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]][[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]])により自沈処分となった<ref>[[#S1709八艦隊日誌(2)]]pp.43-44『外南洋部隊|10-24 10-25|RXN陸軍総攻撃ハ22日ト決定サレタルモ陸軍進出ノ関係上順次繰下ゲラレ24日ト決定セリ、海軍ハ右作戦ニ策応スル為出撃セリ。飛行場占領ノ報ニ接シ各隊予定ノ如ク進撃中右ハ誤報ナル事判明進出ヲ中止ス。但シ突撃隊(6dg駆2欠、白露)ハ予定ノ通「ルンガ」ニ突入ニ決ス、敵巡「ルンガ」ニ在ルノ報ニ接シ第2攻撃隊4Sd(9dg、27dg欠)ヲ増派ス。突撃隊ハ特巡1、小型輸送船2撃沈、駆逐艦ハ遁走ス。第2攻撃隊ハ連続敵機ノ爆撃ノ為由良ヲ失ヒ秋月亦被害アリ、依ッテ損傷艦ハRXEニ帰投スベキ命ジ其ノ他ハ作戦ヲ続行ス。陸軍部隊ハ飛行場奪取ニ成功セズ』</ref><ref>[[#S1710四水戦日誌(1)]]pp.20-22『将旗4sdハ第二攻撃隊ヲ率ヰ24日1530RXE出撃予定ノ如ク「ソロモン」群島北方海面ニ進出シアリシガ24日2100陸軍飛行場占領ノ報アリ引続キ進撃中25日0515飛行場ハ未ダ占領シ非ザルコト判明令ニ依リ反転シアリシ処、0530将旗SNBヨリ予定通進撃陸上戦闘ニ協力スベキ命ニ接シ再ビ反転進撃ス。且「ルンガ」方面ニ敵巡洋艦及駆逐艦数隻アリ突撃隊之ト交戦ストノ報アリ、更ニ0830将旗SNBヨリ第二攻撃隊ハ直ニ突入敵巡洋艦ヲ撃滅シタル後陸上戦闘ニ協力スベキ命アリ、「ガ」島東側ヨリ突入スベク「インデスペンサブル」海峡ヲ東進進撃中、1055敵艦爆五、1215敵艦爆及戦闘機約一〇、1330艦爆4、1500艦爆6、1510B-17型六、ト各交戦、由良及秋月ニ爆弾命中由良ハ被害大ニシテ萬策盡キ人員ヲ救助シタル後処分1900沈没ス。尓後外南洋部隊電令作第200号ニ依リ待機地点ニ至リ由良乗員ヲ秋月ニ移乗、同艦ヲシテ「ラボール」(RR)ニ向ケ回航セシメ26日0000将旗ヲ村雨ニ移揚シ2dgヲ率ヰ命ニ依リRXEニ回航2000同地ニ到着尓後同地ニ在リテ待機ス』</ref>。由良は太平洋戦争における日本海軍の軽巡洋艦戦没第1号となった。経過の詳細は以下の通りである。
 
10月20日、連合艦隊の下令に従い外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官[[三川軍一]]中将)と同部隊増援部隊指揮官(第三水雷戦隊司令官[[橋本信太郎]]少将)は、ガダルカナル島日本陸軍総攻撃および飛行場攻略にあわせて指揮下の艦艇を以下のように区分、それぞれに任務を与えた<ref name="叢書(83)246">[[#戦史叢書83ガ島戦]]246-247頁『外南洋部隊』</ref><ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.45『(イ)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。
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* 乙増援隊 駆逐艦(白雪、天霧、望月)・基地航空部隊(第十一航空艦隊)急速輸送揚陸<ref name="叢書(83)246" />
* 挺身輸送隊 蟻輸送隊・状況に応じ[[大発動艇]]による海上輸送<ref name="叢書(83)246" />
* 第三攻撃隊 水上機母艦(千歳、千代田、日進)・状況に応じ各隊支援<ref name="叢書(83)246" />
 
[[10月23日]]15時30分、第二攻撃隊([[秋月 (駆逐艦)|秋月]]《四水戦旗艦》、[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]、[[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]])はショートランドから出撃してガダルカナル島のアメリカ軍攻撃に向かったが、日本陸軍総攻撃1日延期のため艦隊は反転、帰投した<ref>[[#S1709四水戦詳報(6)]]p.23『23日1530秋月2dg由良ノ順序ニ北水道ヲ出撃ス|1615第一警戒航行序列ニ占シ針路210度トセラルモY日(総攻撃日)ヲ更ニ延期24日ニ改メラレタルヲ以テ1630反転ス|1745「ショートランド」泊地ニ帰投ス』</ref><ref name="叢書(83)249" /><ref name="叢書(83)249" />。
[[10月24日]]、外南洋部隊水上部隊の各部隊(由良を含む)はショートランド泊地を出撃、再びガダルカナル島へむかった<ref name="丸8巻由良年表" /><ref name="叢書(83)257">[[#戦史叢書83ガ島戦]]257-259頁『突撃隊(第六駆逐隊)のルンガ泊地攻撃』</ref>。第二攻撃隊は前日と同戦力での再出撃である<ref>[[#S1709四水戦詳報(6)]]p.11『24日1530RXE出撃(秋月、2dg、由良ノ順)速力18節』</ref>。突撃隊(指揮官[[山田勇助]]大佐/兼第6駆逐隊司令 第6駆逐隊《[[暁 (吹雪型駆逐艦)|暁]]、[[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]]》、第27駆逐隊《[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]])》)の駆逐艦3隻もガ島ルンガ泊地攻撃を命じられており、既に戦闘海域へ向かっていた<ref name="叢書(83)257" />。24日21時以降、第二攻撃隊含め日本海軍に対し、ガダルカナル島の[[第2師団 (日本軍)|日本陸軍第二師団]]([[丸山政男]]陸軍中将)による総攻撃成功とヘンダーソン飛行場占領の速報が入る<ref name="叢書(83)257" /><ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]pp.9-10『24日2100(ガ基地)/2100飛行場占領』-『24日2337GF司令長官/8F機密第2437番電 陸軍ハ「ガダルカナル」飛行場ヲ占領セリ、各隊ハ予定ノ如ク行動セヨ』-『24日2250(ガ基地)/一.主力ノ右翼ハ2100飛行場占領|二.主力ノ左翼隊ハ飛行場附近ノ敵ト交戦中』</ref>。これを受けて各部隊は行動を開始した<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.10『24日2350将旗6dg/突撃隊発動2345』-『25日将旗3sd/各隊速ニ進出セヨ、乙増援隊揚陸終ラバ突撃隊ト共ニ「ルンガ」泊地ノ警戒残敵掃蕩ニ任ズベシ』</ref>。
 
[[10月25日]]3時40分、由良から[[九四式水上偵察機]]が発進、ガダルカナル島を偵察し約3時間後に「アメリカ軍機の存在なし」と報告した<ref>[[#S1709四水戦詳報(6)]]p.6『25日0340由良飛行機ヲ発進「タイボ」岬「コロンブス」岬附近ノ敵情(特ニ防御陣地及飛行場ノ情況)竝ニ「インデスペンサブル」海峡「ヌ・ヲ」哨区及「フ」哨区北部ヲ偵察セシメ同機ハ0630「ガ」島中央ヨリ東側ニハ敵飛行場竝ニ陣地ナク又「インデスペンサブル」海峡ニ敵影ナキヲ報告セリ』</ref><ref name="叢書(83)260">[[#戦史叢書83ガ島戦]]260頁『由良の沈没』</ref>。ところが第八艦隊及び第十一航空艦隊に対し『先の陸軍ヘンダーソン飛行場占領は誤報』という一報が入る<ref name="叢書(83)257" /><ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.10『25日0236島田参謀→0425GF、11SF参謀長、カ作B、龍田、津軽/飛行場ハ未ダ占領シアラズ、主力ハ目下自下飛行場附近ニ在リテ激戦中』</ref>。その情報はヘンダーソン飛行場のアメリカ軍機空襲圏内に入っていた各艦隊にも伝達された<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.11『25日0452将旗8F→0527 ZOB、白鷹/SNB電令作第19号 「ガ」島飛行場未ダ占領シアラズ、敵情確保迄各隊進撃待テ』</ref>。由良以下第二攻撃隊は反転したが<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.12『25日0700将旗4sd/ガダルカナル飛行場未ダ占領シアラズ我同飛行場ヨリ150浬附近ニ避退ス』</ref>、突撃隊(暁、雷、白露)にはルンガ泊地への突入命令および陸戦協力命令(ルンガ岬附近のアメリカ軍砲兵陣地艦砲射撃)が出された<ref name="叢書(83)257" /><ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]pp.12-13『25日0530将旗SNB→0603将旗3sd・6dg/突撃隊ハ予定通進撃陸上戦闘ニ協力スベシ』-『25日0545 8F参謀長/突撃隊ヲシテ「ルンガ」附近ノ敵陣地ヲ砲撃陸戦ニ協力セシメラレ度』-『25日0615将旗6dg/突撃隊反転進撃0830「ルンガ」沖突入ノ予定』-『25日0640将旗6dg/「ルンガ」沖ノ敵巡洋艦ヲ片附ケタル後「ルンガ」岬附近敵陣地攻撃ノ予定』</ref>。
ガダルカナル島からの報告によれば、軽巡洋艦1隻を含む数隻の米艦隊がルンガ泊地に存在していた<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.11『25日0515三井少佐/先ノ軽巡ハ「ルンガ」岬東泊地ニ入泊セリ』-p.15『25日三井参謀→0815 11AF・8F参謀長/先ノ軽巡ハ「ルンガ」岬「コリ」岬間ニアリテ荷揚中ナルガ如シ』-p.16『25日0830三井少佐/0825味方駆逐艦3隻「ルンガ」岬ニ近接軽巡ハ出港シツツアリ』</ref>。これを受けて第二攻撃隊は突撃隊を支援すべく反転してルンガ泊地へ向かい、また外南洋部隊指揮官からも陸上戦闘を支援するよう命令があった<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.14『25日0720将旗4sd/當隊突撃隊ノ進撃ニ策応シガ島東方ニ進撃セントス』-『25日0720将旗4sd→0728カ号作戦部隊/當隊突撃隊ノ突撃ニ策応シ「ガ」島東方ニ進撃セントス 我地点ケホノ24速力24節』-p.16『25日0823将旗SNB/一.主隊ハ急速進撃1600「ガダルカナル」着陸戦闘ニ協力セントス|二.第一攻撃隊ハ第二攻撃隊ニ引続キ突入陸戦ニ協力スベシ』-『25日0917第二攻撃隊指揮官/日ノ丸標識ヲ出シ置ケ』</ref><ref>[[#S1709四水戦詳報(6)]]p.6『「ガ」島飛行場ハ24日2100陸軍占領セリトノ報竝ニ外南洋部隊指揮官ノ令ニ依リ第二攻撃隊ハ引続キ進撃中0515飛行場未ダ占領シアラザルコト判明、令ニ依リ一旦待機位置ニ反転ス。然ルニ突撃隊ニ対シ外南洋部隊指揮官ヨリ0530予定通進撃陸上戦闘ニ協力スベキ令アリテ突撃隊ハ反転進撃ヲ開始シ且「ルンガ」方面ニハ敵巡洋艦及駆逐艦数隻アリトノ報アリ、第二攻撃隊ハ突撃隊ノ突入ニ策應シ之が支援ニ任ズルヲ至当ト判断シ0715反転1200「ガ」島東方ニ進入ノ予定ヲ以テ南下中0830外南洋部隊指揮官ヨリ第二攻撃隊ハ直ニ突入敵巡洋艦ヲ撃滅シタル後陸戦ニ協力スベキ命アリ』</ref>。
 
午前9時、[[山本五十六]]連合艦隊司令長官は、第三艦隊麾下の[[第二航空戦隊]](司令官[[角田覚治]]少将:空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]])の艦載機をもってガダルカナル島のアメリカ艦隊及び地上陣地を攻撃するよう命じた<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.17『25日0857連合艦隊司令長官→0930各隊/2sf適宜ノ航空兵力ヲ以テ「ガ」島附近所在敵艦船又ハ「ルンガ」岬附近敵陣地ヲ攻撃セシムベシ』</ref>。これに対しラバウルの第十一航空艦隊より[[零式艦上戦闘機]]の派遣はなく、突撃隊及び第二攻撃隊は空からの攻撃に対し完全に無防備であった。一方、第二攻撃隊は先行した突撃隊(暁、雷、白露)より「軽巡洋艦1、駆逐艦1隻撃沈」との通信を受信した<ref>[[#五月雨]]126頁</ref>。実際には、駆逐艦{{仮リンク|ゼイン (駆逐艦)|en|USS Zane (DD-337)|label=ゼイン}}に対し損傷を与え、艦隊曳船{{仮リンク|セミノール (艦隊曳船)|en|USS Seminole (AT-65)|label=セミノール}}、沿岸哨戒艇YP-284を撃沈、暁雷に軽微な損傷という戦果であった<ref name="叢書(83)257" />。さらに突撃隊は『敵軽巡2隻が東方へ敗走中』と通報し、第二攻撃隊はこの敵軽巡洋艦(実際には存在しなかった)を補足すべく、[[フロリダ諸島]]と[[マライタ島]]の間に位置する[[インディスペンサブル海峡]]を通過する航路を選んだ<ref name="叢書(83)260" /><ref>[[#S1709四水戦詳報(6)]]p.7『時恰モ突撃隊ハ「ルンガ」沖ニ於テ敵軽巡洋艦及駆逐艦ト交戦中トノ報アリ之ガ戦況ニ依リテハ「サボ」島北方ヨリ直ニ「ルンガロード」ニ突入スベキモ先ヅ「シンゴ」水道ノ東方ヲ握レタル後西進「ルンガ」ヲ砲撃シタル後突撃隊ヲ支援セント決意シ「インデスペンサブル」海峡ヲ南下中…』-p.60『外南洋部隊第二攻撃隊行動図(自10.24.1530至10.26.2000)』</ref>。
由良以下第二攻撃隊はアメリカ艦隊と遭遇しなかった場合、13時の対地砲撃を予定していた<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]pp.18-19『25日1020将旗4sd/東口ニ至リ敵艦船ヲ見ザレバ「ルンガロード」ニ突入「ルンガ」岬附近ヲ砲撃陸戦ニ協力ノ予定』-『25日0957将旗8F→1035ZOB(カ号作戦部隊各指揮官)/SNB電令作第199号 第1・2攻撃隊ハ陸戦協力終ラバ一部兵力ヲ以テ「ツラギ」「ガ」島間哨戒ニ任ゼシメ尓余ハ概ネ集結「ルッセル」島附近海面ニ在リテ機宜行動警戒待機セヨ、主隊ハ射撃終了後北上「イサベル」島南方海面ヲ機宜行動ス』-『25日1050将旗4sd→1104第1攻撃隊 将旗6dg(将旗8F)/第二攻撃隊ハ1300「ルンガ」岬砲撃ノ予定射撃針路270度速力30節』</ref>。
 
10時50分、由良はヘンダーソン飛行場から飛来したアメリカ軍[[SBD (航空機)|SBDドーントレス急降下爆撃機]]と[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット戦闘機]]の空襲を受けた(アメリカ軍記録、艦爆5機出撃)<ref>[[#原2014、軽巡|軽巡二十五隻]]191頁</ref><ref name="軽巡海戦史109">[[#軽巡海戦史]]109-110頁</ref>。10時55分、由良と秋月が被害を受けた<ref name="叢書(83)261">[[#戦史叢書83ガ島戦]]261</ref><ref>[[#S1709四水戦詳報(6)]]p.7『1055同海峡中央(9度40分S160度55分E)ニ達スル頃図ラズモ敵艦爆5機ノ襲撃ヲ受ケ由良及秋月ニ被害アリ』</ref>。由良に対しては、爆弾2発がそれぞれ艦橋射撃指揮所及び後部機械室に命中<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.19『25日1110将旗4sd/一.1055敵艦爆ノ爆撃ニ依リ由良ニ命中|二.(射撃指揮所破壊)秋月ニ至近弾2(舵取機械1台故障後部27番30番重油タンク浸水)攻撃隊ハ一時北方ニ避退ス』</ref><ref>[[#S1709四水戦詳報(6)]]pp.39-40『25日1315将旗4sd司令官/1055艦爆ノ爆撃ニ依リ前電ノ外由良後部機械室ニ直撃後部機械室満水間モナク全軸使用不能トナル虞アリ、秋月右軸室ニ満水後部機械室後部隔壁膨出ノ為使用不能速力23Kt地点「ケミヒ16」』</ref>。魚雷を投棄したため誘爆は免れるも、砲術長を含め多数の戦死者を出す<ref name="軽巡海戦史109" />。
五月雨の乗組員は、艦橋上部が破壊され、左舷後部に大孔があき、中央部に火災が発生する由良を目撃した<ref>[[#五月雨]]127頁</ref>。速力23ノットに低下、舵故障により人力操舵となる<ref name="沈没時詳報六p.7">[[#S1709四水戦詳報(6)]]p.7『爾後左ノ如ク敵機来襲セリ|1215敵艦爆竝ニ戦闘機計十機|1330敵艦爆四機|1500敵艦爆六機|1510敵B-17型六機|第一次敵機ノ爆撃ニ依リ由良ハ2弾ヲ受ケ後部機械室浸水シ最大使用速力23節ニ減ジ人力操舵依リ舵行ス』</ref>。機関室を密閉して消火に努めたが、後部火薬庫に注水し最大発揮速力は15ノットに減少<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]pp.20-21『25日1210由良/両舷機関室火災密閉消火中、後部火薬庫注水本艦間モナク全軸使用不能トナル虞アリ』-『25日1338由良/発揮シ得ル最大速力15節、只今全力航行中』</ref>。
第二攻撃隊は、浸水して速力低下をきたす由良と至近弾により片軸運転となった秋月を護衛して北方への退避を開始する<ref>[[#S1709四水戦詳報(6)]]p.8『又秋月ハ至近弾ニ依リ右軸室満水後部機械室隔壁膨出シ最大使用速力23節前記ノ如ク連続敵機ノ来襲アルヲ以テ第二攻撃隊ハ由良ヲ護衛シツツ一時北方ニ避退スルニ決ス』</ref>。その後、機関室にまで浸水が及んだ由良は徐々に速力が低下、沈没の危険性が高まる<ref name="叢書(83)261" />。高間司令官や由良の佐藤艦長は由良を座礁させて救おうと試みたが、電線通路を通じ浸水が拡大したため情況は悪化する一方であった<ref>[[#S1709四水戦詳報(6)]]pp.40-41『25日 由良艦長→4sd司令官1415/其ノ後ノ浸水状況左ノ通 左舷軸運用科倉庫満水、左舷内軸室及軸室及び左舷外軸室下甲板七区電線通路浸水ノ為傾斜防水遮防見込ナシ』-『25日1420将旗4sd司令官→由良艦長/為シ得レバ「ファラ」島附近ニ擱座セヨ』-『本艦運転シ得ル見込後約1時間浸水遮防竝ニ排水ノ見込立タズ、「ファラ」島迄タドリ付キ得ルヤ否ヤ疑問ナリ』</ref>。
高間司令官は幾度も零戦の援護を求めたが<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.22『25日1341将旗4sd/敵艦爆4機来襲ス「ケミヒ」二四、由良上空ニ直衛配慮シ得度』-p.23『25日1530将旗4sd→1540将旗11Sf レカタ基地/敵機連続来襲 上空直衛配サレ度我ケマハ四五』</ref>、五月雨の下士官によれば零戦20機がやってきたのは空襲と空襲の合間で、艦隊の援護には何の役にも立たなかったという<ref>[[#五月雨]]127頁</ref>。
 
戦闘機の援護のない由良以下第二攻撃隊に、アメリカ軍は波状攻撃を繰返した<ref name="沈没時詳報六p.7" /><ref name="軽巡海戦史112" />。
15時10分過ぎ、第二攻撃隊はガ島ヘンダーソン基地発進のドーントレスと、[[エスピリトゥサント島]]から飛来した[[B-17 (航空機)|B-17爆撃機]]6機の攻撃を受ける。由良と秋月に命中弾1、五月雨に至近弾があった<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.23『25日五月雨→1555将旗4sd/至近弾ニ依リ右舷ニ小破口多数ヲ生ズ浸水シ見ズ 魚雷頭部1破片ニ依リ引火セシモ消セリ』</ref><ref name="叢書(83)261" />。消火に成功しかけてした由良はこの攻撃と被弾により大火災を起こして航行不能となり<ref name="丸写真8巻221" />、救援の見込みがなくなる<ref name="叢書(83)261" />。上村大尉(由良機関科)の回想によれば、この頃の由良は中央部分で折れかけていたという<ref>[[#原2014、軽巡|軽巡二十五隻]]116-117頁『退艦時の一瞬の迷い』</ref>。高間司令官は15時20分になると第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)各艦に由良乗組員救助を命じた<ref>[[#S1709四水戦詳報(6)]]pp.8-9『1453更ニ為シ得ル限リ「ファラ」島ニ向フベキヲ命ジ「ラモス」島南方ヲ低速力ニテ西進中1500乃至1510敵艦爆六機及B-17型六機ノ爆撃ヲ受クルニ及ビ命中弾由良ニ対シ秋月ニ対シ1、五月雨ニ至近弾1アリ、由良ハ全ク航行不能ニ陥リ艦橋下及中部ヨリ起リタル火災ハ漸次蔓延シテ全艦火ニ蔽ハルルニ至リ之ガ復援ノ策全ク絶ヘタルヲ以テ1520第二駆逐隊各艦ニ対シ由良乗員ノ救助ヲ命ズ』</ref>。
16時14分、総員退去命令<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.24『25日1614由良/萬策盡キ総員退去由訳ナシ』</ref>。
誘爆の危険性がある中で夕立(駆逐艦夕立長[[吉川潔]]中佐)は由良の左舷後部に接舷して救助を行い<ref name="軽巡海戦史112" /><ref>[[#原2014、軽巡|軽巡二十五隻]]114頁</ref>、他艦は[[装載艇|艦載艇]]を派遣して由良乗組員を救助した<ref>[[#五月雨]]129頁</ref>。乗員退去後、駆逐艦春雨に対し由良の雷撃処分を行うよう命令があった<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.24『25日将旗4sd→1620第2攻撃隊/春雨ハ由良ヲ雷撃処分セヨ』</ref>。次に夕立も雷撃処分に加わる<ref>[[#S1709四水戦詳報(6)]]p.14『25日1620春雨次イデ夕立ニ由良ノ雷撃処分ヲ命ズ』</ref><ref name="軽巡海戦史111">[[#軽巡海戦史]]111-112頁</ref>。夕立春雨の発射した魚雷2本が命中して由良は艦首から沈みはじめたが、18時30分になっても艦尾は僅かに水面から出ていた<ref name="S1709四水戦詳報(6)9">[[#S1709四水戦詳報(6)]]p.9『此ノ頃ヨリ同艦ハ漸次後部喫水ヲ増大シツツアリシモ猶沈没スルニ至ラズ翌朝ノ任務行動及「ガ」島ヨリノ距離ヲ考慮シ之ヲ処分スルヲ適当ト認メ、春雨夕立ニ雷撃ヲ命シ各一本ノ命中ニ依リ1830頃艦首ヨリ沈下ヲ始メタルモ尚艦尾ヲ僅ニ水面ニ露シテ沈没スルニ至ラズ』</ref>。最終的に夕立の砲撃により、19時00分に由良は全没した<ref>[[#S1709四水戦詳報(6)]]p.9『ヨッテ夕立ヲシテ砲撃セリ、1900位置(8度15.5分北159度57分東)ニ於テ全没セリ』</ref><ref name="叢書(83)261" />。
 
沈没地点{{coord|08|15|S|159|57|E}}<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.33-35『27日0212将旗4sd/SNB第二攻撃隊戦闘概報(略)二.被害(イ)由良 命中弾計5 大火災運転不能戦死准士官以上砲術長以下9下士官兵45 重(軽)傷准士官以上3(3)下士官兵12(72)|(ロ)秋月 命中弾1 至近弾2(一号罐竝ニ右舷軸使用不能前部高射機旋回不如意後部機械室後部隔壁膨出(高速時保安上不安)戦闘航海ニ支障アリ、戦死准士官以上1下士官兵8、重(軽)傷下士官兵4(7)|(ハ)五月雨 至近弾1、舷側ニ小破口多数軽傷兵6|(ニ)4Sd司令部 戦死兵1 重傷兵1|三.1900由良ヲ地点(8度15分S-159度57分E)ニ於テ処分同艦長以下生存者ヲ2dg各艦ニ収容ノ上「ガ」島北方150浬ノ地点ニ避退|26日0000将旗ヲ秋月ヨリ村雨ニ移揚、秋月ヲシテ由良生存者ヲ収容 RRニ帰投セシム』</ref>。
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由良の沈没後、艦隊上空に由良艦載機が飛来<ref name="五月雨130">[[#五月雨]]130頁</ref>。由良の沈没地点上空を旋回すると戦闘空域を去っていった<ref name="五月雨130" />。これは高間司令官が13時30分に呼び寄せた由良機(レカタ基地待機)であった<ref>[[#S1709四水戦詳報(6)]]p.13,39『1330尚連続来襲ノ虞アルヲ以テ上空直衛機ノ派出ヲ依頼スルト共ニ「レカタ」基地ニ待機中ノ由良飛行機ニ対シ由良上空警戒ヲ命ズ』</ref>。
各駆逐艦に救助された乗組員は、損傷して最大発揮速力22ノットになってい秋月に移乗(四水戦旗艦も秋月→村雨に変更)<ref name="軽巡海戦史112" />、ラバウルへ向かう<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]pp.26-27『25日1920将旗4sd/秋月ハ敵機ノ爆撃ニ依リ左ノ被害アリ作戦行動ニ支障アルニ付由良ノ乗員ヲ収容ノ上「ラボール」ニ帰投セシム|(一)1号缶使用不能|(二)右舷軸使用不能|(三)後部機械室後部隔壁膨出高速時保安上不安アリ|(四)発揮シ得ル最大速力22節』-『25日2115将旗4sd→第二攻撃隊/2300漂泊ス、秋月ハ由良乗員ヲ収容ノ上「ラボール」若ハ「ショートランド」ニ回航セヨ|2330将旗ヲ村雨ニ移揚ス』</ref><ref name="叢書(83)262">[[#戦史叢書83ガ島戦]]262</ref>。[[大西新蔵]]第八艦隊参謀長は[[草鹿任一]]第十一航空艦隊司令長官に対し、戦場を離脱する第二攻撃部隊の上空掩護を依頼したが、第十一航空艦隊側に「不可能だ」と拒否された<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.25『『25日1737 8F参謀長→11AF参謀長1925/8F機密第251737番電 本日ノ4sdニ対スル敵機来襲情況ニ鑑ミ上空警戒機ノ急速派出ニ関シ一層配慮ヲ得度 尚明日早朝ヨリ由良及秋月ノ上空警戒機派出方取計ハレ度』』-p.28『25日1739 11AF→8F参謀長各隊2130/全力「ガダルカナル」飛行場方面作戦中ニシテ上空警戒ノ実施ハ不可能ナリ』</ref>。26日、外南洋部隊水上部隊はショートランド泊地へ帰投<ref name="叢書(83)262" />。27日、残存していた由良の九四式水上偵察機は重巡洋艦[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]に補充するよう下令された<ref>[[#S1710四水戦日誌(4)]]p.36『27日将旗8F→4sd1007/タナ15 由良九四式水偵(搭乗員欠)ヲ衣笠ニ補充スベシ』</ref>。乗組員の一部は重巡[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]に便乗し、佐世保に帰投した<ref name="軽巡海戦史111" />。
 
1942年(昭和17年)11月20日、由良は帝国軍艦籍<ref>[[#内令昭和17年11月(4)]]p.5『内令第二千百三十三号 佐世保鎮守府在籍 <strong>軍艦 由良</strong> 右帝國海軍籍ヨリ除カル 昭和十七年十一月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎』</ref>および長良型軽巡洋艦<ref>[[#内令昭和17年11月(4)]]pp.31-32『内令第二千百六十六號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十七年十一月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎 軍艦、巡洋艦二等長良型ノ項中「、由良」ヲ削ル』</ref>より除籍された。
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== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書|author=[[宇垣纏]]著|coauthors=[[成瀬恭]]発行人|year=1968||month=1|title=戦藻録 {{small|明治百年史叢書}}|publisher=原書房|isbn=|ref=戦藻録(1968)}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=五十嵐邁|year=19691978|month=511|title=戦史叢書26黒き日本海に消ゆ {{small|蘭印海軍ベンガル湾方面美保関遭難事件}} 海軍進攻作戦|publisher=朝雲新聞講談|isbn=|ref=戦史叢書26黒き日本軍進攻作戦に消ゆ}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室[[宇垣纏]]著|authorlinkcoauthors=[[成瀬恭]]発行人|year=19751968||month=81|title=戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) 藻録 {{small|ガ島撤収まで明治百年史叢書}}|publisher=朝雲新聞社原書房|isbn=|ref=戦史叢書83ガ島戦藻録(1968)}}
* {{Cite book|和書|author=小沢提督伝刊行会編|year=1971|month=3|title={{small|回想の提督}} 小沢治三郎|publisher=原書房|isbn=|ref=回想の提督}}
*海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
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*{{Cite book|和書|author=上村嵐|year=2000|month=8|title=海軍は生きている|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=4-404-02873-3|ref=海軍は生きている}}<br />上村は海軍大尉。前職は戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]分隊長。昭和17年5月〜沈没まで由良に勤務。のちに島風型駆逐艦[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]機関長。
* {{Cite book|和書|author=五月会|authorlink=|year=1980|month=4|title=波濤と流雲と青春と {{small|第二期二年現役海軍主計課士官 四十周年記念文集}}|publisher=朝雲新聞社|ref=波濤と流雲と青春と}}
** 加代信司『思い出は昨日のごとく』(昭和16年5月〜昭和17年10月上旬まで由良主計長)
* {{Cite book|和書|author=須藤幸助|coauthors=|year=1988|title=駆逐艦五月雨|publisher=朝日ソノラマ文庫|isbn=4-257-17097-2|ref=五月雨}}
* 木俣滋郎、『日本軽巡戦史』、図書出版社、1989年
* {{Cite book|和書|author=[[福井静夫]]小板橋孝策|coauthorsauthorlink=小板橋孝策|year=1992|month=10|origyear=2008|title=日本巡洋艦物語愛宕奮戦記 {{smallersmall|福井静夫著作集/第四巻-軍七十五年回想記乗組員の見たソロモン海戦}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-06102560-89|ref=日本巡洋艦物語愛宕奮戦記}}
*{{Cite book|和書|author=五月会|authorlink=|year=1980|month=4|title=波濤と流雲と青春と {{small|第二期二年現役海軍主計課士官 四十周年記念文集}}|publisher=朝雲新聞社|ref=波濤と流雲と青春と}}
* 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
** 加代信司『思い出は昨日のごとく』(昭和16年5月〜昭和17年10月上旬まで由良主計長)
* 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集14 軽巡 長良型』光人社、1997年。
*{{Cite book|和書|author=須藤幸助|coauthors=|year=1988|title=駆逐艦五月雨|publisher=朝日ソノラマ文庫|isbn=4-257-17097-2|ref=五月雨}}
* {{Cite book|和書|author=上村嵐|year=2000|month=8|title=海軍は生きている|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=4-404-02873-3|ref=海軍は生きている}}<br />上村は海軍大尉。前職は戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]分隊長。昭和17年5月〜沈没まで由良に勤務。のちに島風型駆逐艦[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]機関長。
* 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
* {{Cite book|和書|author=小板橋孝策[[原為一]]ほか|authorlinkyear=小板橋孝策2014|yearmonth=200812|title=愛宕奮戦記軽巡二十五隻 {{small|駆逐乗組員先頭に立っソロモン海隊旗艦の奮戦と全貌}}|publisher=潮書房光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-25601580-98|ref=愛宕奮戦記原2014、軽巡}}
* {{Cite book|和書|author=[[原為一]]ほか|year=2014|month=12|title=軽巡二十五隻 {{small|駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1580-8|ref=軽巡二十五隻}}
**{{small|当時由良の機械分隊長・海軍大尉}}上村嵐『乗艦由良わが訣別の絶唱を聞け {{small|敵機の空爆によりガ島輸送に殉じた長良型四番艦の沈没遭難体験記}}』
**「丸」編集部『外国戦史に見る日本軽巡の最後』/戦史研究家柏木浩『日本の軽巡洋艦かく戦えり』/戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
*{{Cite book|和書|author=[[福井静夫]]|coauthors=|year=1992|month=10|origyear=|title=日本巡洋艦物語 {{smaller|福井静夫著作集/第四巻-軍艦七十五年回想記}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0610-8|ref=日本巡洋艦物語}}
*{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1969|month=5|title=戦史叢書26 {{small|蘭印・ベンガル湾方面}} 海軍進攻作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書26海軍進攻作戦}}
*<!--ホウエイチョウ -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1970|month=10|title=戦史叢書38 中部太平洋方面海軍作戦<1> {{small|昭和17年5月まで}}|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書38中部太平洋(1)}}
*{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1975|month=8|title=戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) {{small|ガ島撤収まで}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書83ガ島戦}}
*<!--マツダ2017-->{{Cite book|和書|author=松田源吾ほか|title=軽巡海戦史 {{small|駆逐艦を率いて突撃した戦隊旗艦の奮戦と最後}}|editor=|publisher=潮書房光人社|date=2017-3|isbn=978-4-7698-1639-3|ref=軽巡海戦史}}
**{{small|当時「由良」機関科先任分隊長・海軍大尉}}上村嵐『四水戦旗艦「由良」全艦火だるまの最後 {{small|総攻撃に策応すべく白昼堂々ガ島沖に突入した由良を襲った敵機五機}}』
**{{small|戦史研究家}}伊達久『航跡でたどる軽巡二十五隻の栄光と悲惨』
**{{small|戦史研究家}}落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
*<!--マル1990-3-->{{Cite book|和書|title=<small>写真</small>日本の軍艦 第8巻 <small>軽巡 I</small>|editor=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|publisher=光人社|date=1990-3|isbn=4-7698-0458-x|ref=丸写真第8巻}}
* 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集14 軽巡 長良型』光人社、1997年。
 
 
*『[[官報]]』
 
*[http://kindaidl.ndl.go.jp/ 近代国立国会図書館デジタルライブラリーコレクション] - [[国立国会図書館]]
**{{CiteCitation book|和書|author=海軍有終会編小原国芳|editor=|year=19351932|month=116|title=幕末以降帝児童百科大事典.10(軍艦写真と史実防篇)|publisherchapter=第三編 海軍有終|series=児童百科大辞典|publisher=児童百科大事典刊行|url={{NDLDC|1740770/143}}|ref=幕末以降帝百科10軍艦写真と史実}}
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 有終会編|year=1935|month=511|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独幕末以降帝国軍艦集. 1935年版写真と史実|publisher=海軍研究社有終会|url={{NDLDC|1466489}}|ref=ポケット海幕末年鑑(1935)艦史実}}
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編大臣官房|year=19371939|month=2|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集制度沿革. 1937,1940巻4(1939印刷)|publisher=海軍研究社大臣官房|url={{NDLDC|1886711}}|ref=ポケット海軍年鑑制度沿革(1937巻4、1939)}}
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編大臣官房|year=1940|month=7|title=日本艦集 2600制度沿革. 巻8(1940印刷)|publisher=海軍研究社大臣官房|url={{NDLDC|1886716}}|ref=日本艦集2600年版制度沿革(巻8、1940)}}
**{{Cite book|和書|author=海軍大臣官房|year=1940|month=|title=海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)|publisher=海軍大臣官房|url={{NDLDC|1886713}}|ref=海軍制度沿革(巻11、1940)}}
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1935|month=5|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊軍艦集. 1935年版|publisher=海軍研究社|url={{NDLDC|1109500}}|ref=P年鑑1935}}
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1937|month=2|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版|publisher=海軍研究社|url={{NDLDC|1231209}}|ref=P年鑑1937}}
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1940|month=7|title=日本軍艦集 2600年版|publisher=海軍研究社|url={{NDLDC|1903831}}|ref=軍艦2600年}}
 
 
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C13071974300|title=昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護|ref=艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)}}
**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C13072003500|title=昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/巻3追録/第13類艦船(1)|ref=艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)}}
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**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C05023968700|title=軍務1機密第277号の29.12.1触衝当時の状況に関する件|ref=触衝当時の状況に関する件}}
**Ref.C05022184800『第3928号 7.10.19軍艦阿武隈、神通、球磨、由良に電気暖房用電路敷設の件』
**Ref.C05022853600『第4167号 8.8.12 軍艦長良、由良及川内ラムネ製造機械新設の件』
**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C14121165400|title=昭和16年度(1941) 帝国海軍戦時編制(案)昭和10年2月12日|ref=S16年度海軍戦時編制案(昭和10年2月)}}
**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C08051772000|title=昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書|ref=戦隊行動調書}}
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**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C08030118900|title=昭和17年1月1日~昭和17年3月19日 第5水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1701五水戦日誌(1)}}
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**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C08030119600|title=昭和17年1月1日~昭和17年3月19日 第5水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(8)|ref=S1701五水戦日誌(8)}}
**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C08030104900|title=昭和17年2月1日~昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1702三水戦日誌(1)}}
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**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C08030112300|title=昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)|ref=S1704四水戦日誌(1)}}
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**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C08030112900|title=昭和17年9月25日~昭和17年11月9日 第4水雷戦隊戦闘詳報(1)|ref=S1709四水戦詳報(1)}}
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**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C08030022500|title=昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)|ref=S1709八艦隊日誌(1)}}
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**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C08030113800|title=昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)|ref=S1710四水戦日誌(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C08030113900|title=昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)|ref=S1710四水戦日誌(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C08030114000|title=昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)|ref=S1710四水戦日誌(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|authorid=Ref.C12070173700|title=昭和17年11月(4) 内令(昭和17年11月17日~昭和17年11月25日)|ref=内令昭和17年11月(4)}}
 
== 関連項目 ==
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{{DEFAULTSORT:ゆら}}
[[category:日本の長良型軽巡洋艦]]
[[Category:第二次世界大戦の日本の巡洋艦]]
[[Category:1922年進水船]]