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その後、石原の強い要望で「中小企業への貸し渋り対策」「ベンチャー企業向け融資」などの目的を加え、この頃から大前構想を外れた方向へ進み出す。当初ボランティアとして参加していた大前は2002年に離脱し、石原が[[奥田碩]]から紹介を受けた仁司泰正(当時の[[豊田通商]]常勤[[監査役]])を代表に迎えた<ref>[http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/0fb132c136b1875810e497885e4f59e2 新銀行東京は破綻処理せよ-池田信夫 blog]</ref>。
 
なお、破綻の原因のひとつには、[[上場企業]]にも[[粉飾決算]]が存在する中、中小企業の経営数値の実態を熟知していた金融機関出身の役員陣の反対を押し切って、大手銀行も運用を諦めたスコア方式の[[与信]]にこだわったことがあるとされる(「[[#過大なシステム投資とコスト]]」も参照)。
 
[[2003年]](平成15年)、石原の主導で都が策定した「東京発金融改革」を旗印に『[[資金調達]]に悩む[[中小企業]]を救済すること』を理念とした新銀行構想を打ち出した。同時期に「[[BNPパリバ]]」が日本での事業見直しを行っており、傘下の「BNPパリバ信託銀行」の売却先を検討していた<ref>{{PDFlink|[http://japan.bnpparibas.com/pdf/2004/hpTMG.pdf BNPパリバ信託銀行の東京都への譲渡]}}</ref>。
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設立時の経緯から[[信託銀行]]に区分されているが、[[金融庁]]の分類では「[[新たな形態の銀行|新たな形態の銀行等]]」として、[[ネット銀行]]など、新規参入銀行とともに位置付けられた。
 
新銀行東京のオリジナルの発想は、[[1995年]](平成7年)に[[1995年東京都知事選挙|都知事選]]に[[出馬]]して[[青島幸男]]に敗れた大前研一のものだが、石原が作ったのはおよそ異なるもの、と大前は主張しているが、自治体が運営するべきナロウバンクのような銀行形態とはどのようなものだったかについては明言していない<ref>「SAFETY JAPAN」掲載コラム:[http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/a/70/ 大前研一「産業突然死の時代の人生論」第68回「"東京都の銀行"、巨大赤字の真相」]</ref>。
 
=== 全銀協との関係 ===