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{{Infobox 犯罪者
|名前=ジョー・マッセリア<br>{{lang|en|Joe Masseria}}
|画像=Giuseppe „Joe“ Masseria.jpg
|画像サイズ=
|画像説明=ジョー・マッセリア(NYPD)
|出生名={{lang|it|Giuseppe Masseria}}<br>ジュゼッペ・マッセリア
|生年月日=[[
|出生地={{ITA1861}}、[[シチリア州]][[
|没年月日=[[1931年]][[4月15日]]
|死没地={{USA1912}}、[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク市]][[ブルックリン区]]
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|署名=
}}
'''ジョー・マッセリア'''こと'''ジュゼッペ・マッセリア'''({{lang-en|Giuseppe "Joe" Masseria}}, [[
==来歴==
===生い立ち===
シチリア島南部[[メンフィ]]に生まれ、幼い頃に西海岸[[マルサラ]]に移った<ref name="j">[http://mafiamembershipcharts.blogspot.jp/2014/03/biography-of-giuseppe-masseria.htmlBiography Biography of Giuseppe Masseria] Mafia Membership Charts</ref><ref name="a">[http://mafiahistory.us/maf-b-bb.html "American Mafia Website - Boss of Bosses,"] Thomas Hunt, The American Mafia</ref><ref name="b">The Origin of Organized Crime in America: The New York City Mafia, 1891–1931 ,: David Critchley, 巻末Notes to Capter 6 通し153. P. 287</ref><ref>Hortis, Mob and the City, Notes of CHAPTER 2: PROHIBITION AND THE RISE OF THE SICILIANS, 4. Richard Warner and Mike Tona discovered the birth certificate of Giuseppe Masseria, January 17, 1886, Utliziale dello Stato Civile del commune di Menfi, IT, cited in Richard N. Warner, “On the Trail of Giuseppe ‘Joe the Boss’ Masseria,” Informer: The History of American Crime and Law Enforcement (February 2011): 56–58</ref>。1903年一家で渡米し、ニューヨークの[[マンハッタン]]のスラム街に落ち着いた。[[ロウアー・イースト・サイド]]のフォーサイスストリート沿いに住んだ<ref name="c">[http://www.gangrule.com/biographies/giuseppe-masseria Giuseppe Masseria] Gang Rule</ref><ref name="i">The Origin of Organized Crime in America: The New York City Mafia, 1891–1931: David Critchley, P. 154 - P. 155</ref>。昼は服の仕立て屋で働き、夜は泥棒をしていた。1907年アパートに強盗で押し入り仲間リマと共に逮捕された(執行猶予)<ref name="c"/>。
1913年4月、4人組で質屋に忍び込み、巡回中の警官に追いかけられて捕まった{{refnest|group=注釈|バワリーの一角にあった電動防犯システム完備の要塞のような質屋に、30万ドル相当のダイヤを盗みに行った。梯子をかけて壁を登り、ドリルで煉瓦に穴をあけて中に入った。 パトロール中の警官が壁にたてかけてあったブランケットを不審に思い、発覚した。建物を去ろうとしたマッセリアを引きとめたとき、仲間3人はレインコートに煉瓦の灰を被っていたが、マッセリアはダービーハットにスーツという出で立ちだった<ref name="e"/>。}}。彼の率いた泥棒チーム「フォー・ウィー・アー(Four We Are)」は、バワリー周辺で何十件もの空き巣を繰り返していた。重窃盗で起訴され、翌年控訴したが4年刑で刑務所送りとなった<ref name="i"/><ref name="e">[http://gangstersinc.ning.com/profiles/blogs/kill-the-chinaman-1 Kill The Chinaman] Gangster Inc</ref><ref>[http://www.gangrule.com/2/wp-content/gallery/documents/maseria_admission.jpg 裁判判決記録、1913年5月26日付]</ref>。この頃、すでに結婚して子供が3人おり、姉のサルーンに住み込んでバーテンをしていた<ref name="j"/><ref name="hortis2">The Mob And The City, Chapter2 Prohibition and the Rise of Sicilians, C.Alexander Hortis</ref>。家宅捜査で電気ドリルなどの泥棒道具が見つかった<ref name="c"/>。
1916年頃出所し、リトルイタリーに戻るとマルベリーストリートとグランドストリートの角にビリヤード場を開き、独自のギャングを結成した。出所後住まいを転々としたが、[[イースト・ヴィレッジ]]に落ち着いた<ref name="e"/>。
===カーブ・エクスチェンジ===
[[禁酒法]]の成立を機に酒の密売に乗り出し、リトルイタリーのカーブ・エクスチェンジ(非合法酒交換所){{refnest|group=注釈|リトルイタリーのほぼ中心(ケンモアストリートとブルームストリートとグランドストリートに囲まれたエリア)に位置し、夜9時から深夜1時まで開かれ、イギリスから密輸されたライ麦ウイスキー、カナダ産スコッチやライ、バーボン、国内産ゴードンのジン、イタリアのVermouth、フランス産vermouth、Dubonnetなどのケースが取引された<ref name="l">Mafias on the Move: How Organized Crime Conquers New Territories: Federico Varese, P.116 - P. 118</ref>。}}に出入りして酒のトレーダーになった。やがてブローカーに転身し、トレーダーから手数料を取って売買の仲介・運搬を引き受けるサービスを始めた。護衛や見張り番に近所のイタリア系の若者を雇った。酒のハイジャックが横行する中、武装ガードマン付きで取引の安全を保証する「ユニバーサルサービス」は好評だった。売り手買い手双方からマージンを取るので収入が安定し、取引価格も操作できた。交換所オーナーのガエタノ・ペノキオ(トミー・ザ・ブル){{refnest|group=注釈|ナポリ近郊出身、1893年渡米。多くの逮捕歴。リトルイタリー界隈を支配したギャングリーダーで、のち売春業を経営した。マッセリアの他ルチアーノ、[[マイク・ミランダ]]ら多くのギャングと付き合いがあった。}}と結託し、サルーンの裏側に交換所を開いたが、警察の取締りを免れるため場所を毎日ずらした。警察は物証がないと捕まえられなかった。交換所の実権を握ったことで密輸ギャングの間で頭角を現した<ref name="j"/><ref name="i"/><ref name="l"/>。
===
1920年12月29日、密輸ライバル、サルヴァトーレ・マウーロと銃撃戦となり、硝煙が消えるとマウーロが死んでいた<ref name="j"/>。逮捕されたが正当防衛を主張した。マウーロの仲間[[ウンベルト・ヴァレンティ]]と縄張り争いを続けた。当時、パレルモ系マフィアの[[サルヴァトーレ・ダキーラ]]がコルレオーネ系の[[ジュゼッペ・モレロ]]&テラノヴァ一家と抗争していた。マッセリアはダキーラに反旗を翻し、ダキーラから追われていたモレロと手を結んだ{{refnest|group=注釈|一説に、ダキーラが酒の稼ぎを独占したマッセリアに分け前を求めたことが発端だったとされる<ref name="l"/>}}{{refnest|group=注釈|モレロはダキーラにマフィア会議(コミッション)で死の宣告を受け、一時シチリアに退避するなど潜伏していた。勢いのあるマッセリアと組むことでダキーラに対抗した<ref name="i"/><ref name="f"/>。}}。ダキーラはヴァレンティに対しても死の宣告を出していたが、和解してマッセリアを倒すよう命じた<ref name="i"/><ref name="f">[http://www.onewal.com/a029/f_morello.html The Underworld Career of Giuseppe Morello (1867-1930)] Thomas Hunt, 2015, The American Mafia</ref><ref name="o">[http://buffalomob.com/p-chapts.html DiCarlo Chapter Summaries - 17.New Order]</ref>。
1922年5月8日、モレロ一家の[[ヴィンセント・テラノヴァ]]が暗殺されると、仕返しにヴァレンティを銃撃した(ヴァレンティの用心棒が重傷を負いのち死亡)<ref name="i"/><ref name="f"/>。翌日夕方、グランドストリートでチーズ屋の前でたむろしていたヴァレンティ一味3人が、部下を連れたマッセリアに気づいて発砲した。マッセリアも銃を取り出して応戦し、60発を超えるガンバトルになった(帰宅ラッシュ時で通行人が流れ弾で負傷)。マッセリアは銃を捨てて逃げたが警察に捕まった<ref name="i"/><ref name="hortis2"/>。
1922年8月8日、イーストヴィレッジの自宅を出たところをヴァレンティ一味に追いかけられた。銃撃をかわしながら近くの商店に駆け込み、逃げおおせた。目撃者によると10フィートの至近距離から3-4発撃たれ、1発目は傍らにジャンプして避け、2発目は腰をかがめて頭を下げて避け、3発目は店の窓に当たった。目撃した商店主はその敏捷さに驚いた。警察がマッセリアの家に急行すると、マッセリアがベッドの隅っこにすわっていて、まだ着けていた帽子に2個の穴を発見した<ref>[http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9A06E1DC1339EF3ABC4153DFBE668389639EDE GUNMEN SHOOT SIX IN EAST SIDE SWARM] New York Times, Aug 9, 1922</ref>。事件がニューヨーク中に伝わり、「弾丸をかわせる男」の伝説が生まれた<ref name="i"/><ref name="hortis2"/><ref name="t">[http://americanmafiahistory.com/joe-masseria/ Giuseppe “Joe the Boss” Masseria – “The Man who could Dodge Bullets”] American Mafia History</ref><ref name="u">[http://www.lacndb.com/php/Info.php?name=Joe%20-%20The%20Boss%20-%20Masseria Joe - The Boss - Masseria ] La Cosa Nostra Database</ref>。
襲撃から3日後、ヴァレンティに和解を申し出て、イースト・ヴィレッジのカフェに誘い出した。途中で嵌められたことに気付いたヴァレンティがダッシュして逃げると、付近に潜んでいたマッセリアの手下が一斉射撃を浴びせ、殺害した{{refnest|group=注釈|白昼、繁華街の一角で起こり、多くの人間が目撃した。目撃証言によると、8月11日昼11時45分頃、ヴァレンティは5,6人の随行者といてフレンドリーにみえたが、突然驚いたように走りだし、途中で銃を取り出した。何人かが彼を追いかけ、彼がタクシーに乗ろうと足を踏み台に乗せた時、胸に被弾した。ヴァレンティにフレンドリーだった1人か2人かが別の方向に逃げた。複数のガンマンの中で、1人は腰をどっしり据えて、丁寧に一発一発狙って撃っていた。全部で15-20発の発砲があり、流れ弾に当たった道路清掃員と8歳の少女が重傷を負った<ref name="k">[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9805E4DA1E3EEE3ABC4A52DFBE668389639EDE Gangs Kills Gunman; Two Bystanders Hit] New York Times, 1922.8.12</ref>。}}。ヴァレンティを油断させるため白昼の繁華街を会合場所に選び、引退して縄張りを譲るとの和平メッセージを送ったと信じられている<ref name="u"/>{{refnest|group=注釈|[[ラッキー・ルチアーノ]]がヴァレンティを銃殺したとする有名な言い伝えがあるが、この時期にマッセリアの部下だったかどうか不明。}}。すぐ逮捕されたが、「8月8日以来一歩も外に出ていない」と関与を否定した(マッセリアが新しい帽子を付けていたので警察はこの証言を疑った<ref name="k"/>)。ヴァレンティの死によりダキーラの覇権は崩れ、以後その影響力は低下した<ref name="w">[http://mob-who.blogspot.jp/2011/04/daquila-salvatore-toto-1873-1928.html D'Aquila, Salvatore "Toto" (1873-1928)] The American Mafia</ref>。
政治力のある[[タマニー・ホール]]のトム・フォーリーと親交を結び、捕まると裁判で助けてもらった。
===勢力拡大===
1922年、シチリアから戻ったモレロをアドバイザーに招き入れ、リトルイタリーの自前の密輸ギャング団にモレローテラノヴァ組織を組み入れてボスとなった<ref name="f"/><ref name="y">[http://www.onewal.com/maf-b-ny.html Crime Bosses of New York] THE AMERICAN MAFIA</ref>。1920年代を通じ酒の密売・上納金で財産を築き、ニューヨークのギャング勢を次々に傘下に加えた。モレロ一家の[[チロ・テラノヴァ]]、テラノヴァの血族を通じて[[ガエタノ・レイナ]]などコルレオーネ系マフィア、ブルックリンではカラブリア系の[[フランキー・イェール]]一派やイェールと臨海区利権を共有したパレルモ系の[[ヴィンセント・マンガーノ]]一派などを取り込み、組織は怒涛の勢いで膨張した<ref name="j"/><ref name="g">[http://mafiahistory.us/a031/f_calabrian.html Just how organized was Calabrian organized crime?] Thomas Hunt</ref>。
裏社会の権威を上げるべくニューヨークの外へ進出した。アメリカ北東部にネットワークを築いたダキーラの傘下のローカルボスにチャレンジするギャングを支援しはじめ、ダキーラと張り合った<ref name="a"/>。クリーブランドマフィアの相談役の地位にいたサルヴァトーレ・トダロに資金援助し、密輸ギャングの総本山だったロナルド一家に反旗を翻させた<ref name="i"/>。
1928年7月、イェールが[[アル・カポネ]]と対立して殺されると、イェールの有力部下でナポリ系の[[アンソニー・カルファノ]]や[[ジョー・アドニス]]を取り込んだ。ダキーラがイェールの縄張りを乗っ取ろうとしたため、カルファノがマッセリアに助けを求めた<ref name="j"/>。
1928年10月、ダキーラがマンハッタンの路上で銃殺され、モレロやアル・ミネオ{{refnest|group=注釈|パレルモ系マフィアリーダーの1人で、1910年代ダキーラ派とモレロ派の抗争でモレロ側に付き、ダキーラと敵対した過去がある。}}と、ダキーラ殺害を首謀したと信じられている{{refnest|group=注釈|かかりつけの医者を訪れた時、車が異常なのに気づき車のボンネットを開けた。3人が近づきダキーラに声をかけた。ダキーラはボンネットから顔を上げるとしばらく会話していたが、突然3人は銃を抜いて一斉に発砲し、5発被弾した<ref>[http://bklyn.newspapers.com/image/57561072 Slain Bronx man Believed Known to Frankie Uale Gang] Brooklyn Daily Eagle 1928.10.11</ref>。}}{{refnest|group=注釈|ダキーラは路上で口論の末殺された。マッセリア一味に殺されたかどうかは不明だが<ref name="hortis3">Hortis, Chapter3:The Mafia Rebellion of 1928-1931 and The Fall of The Boss of The Bosses,</ref>、裏社会はマッセリアの仕業と信じた(ボナンノ、ニコラ・ジェンタイル等、内部関係者の見方)<ref name="hortis3"/><ref>Critchley, P. 157</ref>。}}。ミネオをダキーラ一家の後釜ボスに据え、間接支配した。イェールの酒密輸と賭博利権をカルファノに、臨海区の縄張りをミネオに管理させ、ブルックリンに地歩を固めた<ref name="j"/><ref>[http://www.lacndb.com/php/Info.php?name=Frankie%20Yale Frankie Yale] La Cosa Nostra Database</ref>。
地元マンハッタンでは、テラノヴァ傘下の非シチリア系ハーレムギャング{{refnest|group=注釈|大半がイタリア本土南部出身で、マイク・コッポラ、フランク・アマト、ジョゼフ・ラオ、フランク・リヴォーシ、カターニア兄弟などがいた。カステランマレーゼ戦争ではマッセリア陣営の最もアクティブな実働部隊になった。マッセリア亡き後ルチアーノファミリーに吸収された。}}、イーストヴィレッジの[[ラッキー・ルチアーノ]]、密輸ギャングの[[ヴィト・ジェノヴェーゼ]]や[[フランク・コステロ]]、フルトン魚市場のジョゼフ・ランザらを取り込んだ他、ニュージャージーにも進出し、[[ウィリー・モレッティ]]やルゲリオ・ボイアルド、[[ジェラルド・カテナ]]ら南イタリア系ギャングを傘下に加えた<ref>[http://mafiamembershipcharts.blogspot.jp/2016/01/the-newark-family.html Newark Family] Mafia Membership Charts</ref>。
カステラマレ派{{refnest|group=注釈|シチリア島カステッランマーレ・デル・ゴルフォ出身者を中心とした派閥で、ニューヨークでは北ブルックリンのウィリアムズバーグを拠点にし、コラ・シーロが長年ボスを務めた。同派はアメリカ北東部各地に分散し、シチリアマフィアの中でも特に結束力の強いことで知られ、危急時は互いに連携した<ref name="y"/>。}}と[[ジョゼフ・プロファチ]]勢力を除く全てのニューヨークファミリーを傘下に置き、1928年、ダキーラに代わる「ボスの中のボス」(Capo Di Capi)の称号を得た<ref name="j"/><ref name="a"/><ref name="hortis3"/>。ダキーラ暗殺を批判する保守派もいたが、マフィア人脈の豊富なモレロをニューヨークマフィアのドンの座に担ぎ上げ、保守派の批判をかわした<ref name="j"/><ref name="i"/>。
シカゴでは1927年から1928年にかけ、カポネが密輸利権を巡ってシチリア系のジョゼフ・アイエッロ{{refnest|group=注釈|パレルモ近郊出身。カポネに組した元仲間のアントニオ・ロンバルドを葬り、1930年までにシカゴのシチリアマフィアのトップに立った。ミラッツォやマガディーノと緊密で、カステラマレ派の一員<ref>Critchley, P. 171</ref><ref name="m">[https://books.google.co.jp/books?id=o64XJkmUPr0C&pg=PA284&lpg=PA284 The Complete Idiot's Guide to the Mafia, 2nd Edition] Jerry Capeci, P. 279 - P. 280</ref>。マッセリアとの抗争でマランツァーノを支援。}}と争ったが、この時マッセリアが割って入り、カポネを傘下に加えた<ref>[http://www.onewal.com/a025/f_yale.html What do we know about Frankie Yale?] THE AMERICAN MAFIA, 2013</ref>{{refnest|group=注釈|カポネはマッセリアの認証の元、正式に全米コーサ・ノストラ(マフィア)のメンバーになった<ref>Critchley, P. 171</ref><ref name="hortis3"/>。}}。シチリア人のアイエッロではなくナポリ系のカポネを公然と支持したことは、アメリカ中のマフィアに衝撃を与え、保守派からは批判された<ref name="j"/>。マッセリアを嫌ったダキーラ派残党の一部がカステラマレ派に接近した<ref name="w"/>。
密輸や上納金で巨万の富を蓄え、セントラルパークウエストの高級マンションに移った<ref name="hortis3"/>。鋼鉄製プレートと防弾ガラス付きの、車体の分厚い装甲車のような特注セダンを乗り回した<ref name="hortis2"/>。
===
マッセリアの次のターゲットは、カステラマレ派だった。1930年前半、シカゴのアイエッロやデトロイトのガスパー・ミラッツォ{{refnest|group=注釈|カステッランマーレ・デル・ゴルフォ出身。1930年2月、デトロイトマフィアのドンのサルヴァトーレ・カタラノットが病死し、その権力の座を巡りチェスター・ラマーレと争った<ref name="m"/>。マッセリアからアイエッロを裏切るよう説得された。}}などを攻略したが、同盟を拒否された<ref name="j"/><ref name="g"/>。
ミラッツォと敵対していたデトロイトのラマーレ派を抱き込むと共に、ニューヨークでは、ブルックリンのカステラマレ派ボスのコラ・シーロ{{refnest|group=注釈|本名ニコラ・シーロ。シチリア島トラパニ近郊ロッカメナ出身。1900年代ブルックリンのウィリアムズバーグでシチリアマフィアが徒党を結成した時のオリジナルメンバー。カステッランマーレ・デル・ゴルフォ出身のメンバーを多く抱え、モレロ一家に継ぐ第2の勢力を形成した。}}に圧力を加えた。シーロを誘拐して1万ドルの支払いと引き換えに解放したが、面目をつぶされたシーロはニューヨークを去った<ref name="j"/><ref name="o"/>。
アイエッロやミラッツォの背後にいる扇動者と疑ったバッファローのカステラマレ派ボス、[[ステファノ・マガディーノ]]を呼びつけたが姿を現さなかった為、シーロ一家幹部[[サルヴァトーレ・マランツァーノ]]を呼び、マガディーノを説き伏せるよう迫ったが、協力を断られた<ref name="f"/>{{refnest|group=注釈|会合に同席したジョゼフ・ボナンノの回想によれば、マランツァーノを前に延々と話を続けたのはモレロで、マッセリアは傍らでモレロの話を静かに聞いていたといい、その様子から2人の絆が非常に強いと感じたという<ref>A Man of Honor: The Autobiography of Joseph Bonanno, P. 98 - P. 101.</ref>。}}{{refnest|group=注釈|モレロとマランツァーノは過去パレルモで既に面識があったという(ボナンノ自伝)<ref>Critchley, P. 178</ref>。}}。
1930年2月、レイナ一家ボスのガエタノ・レイナを暗殺し、旧友のジョー・ピンゾロを後釜のボスに据えた(副ボスの[[トミー・ガリアーノ]]はマッセリアに忠誠を誓ったがピンゾロを無視した)<ref name="j"/><ref name="m"/>{{refnest|group=注釈|レイナ暗殺の首謀者は不明だが、ガリアーノはマッセリアの仕業と信じた。ガリアーノ=マランツァーノ組織の暗殺チームに所属したジョゼフ・ヴァラキは、ガリアーノがマッセリアと全力で戦うのはレイナの仇を取るためとガリアーノ派から聞かされた<ref>Valachi, The Real Thing, P. 339-340</ref>。}}。レイナが殺された時、マッセリアはルチアーノらと共にマイアミで賭博に興じていた(ルチアーノがヤミ賭博で逮捕された)<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=EQkFIoCqcggC&pg=PT20&lpg=PT20 New York City Gangland] Arthur Nash, P. 30</ref><ref>"Arrest 19 at Miami in gambling clean-up," New York Times, March 2, 1930, P. 33</ref><ref name="n">[http://mob-who.blogspot.jp/2016/01/lucania-salvatore-1897-1962.html Lucania, Salvatore (1897-1962)] The American Mafia</ref>。
;2. 戦争
1930年5月、ラマーレ派と共謀してミラッツォを謀殺した。ミラッツォの死はブルックリンのカステラマレ派を硬化させ、武闘派は報復を唱えた<ref name="j"/><ref name="m"/>。7月、マッセリアはシーロに次ぐ重鎮のヴィト・ボンベントレを配下を使って殺害した<ref>[http://bklyn.newspapers.com/image/57395348/ Wealthy Baker Slain; Police Hint at Mafia] Brooklyn Daily Eagle, P. 1, 1930.7.15</ref>。カステラマレ派は強硬派のマランツァーノを新ボスに選び、暗殺チームを組織して報復に出た<ref name="j"/>。この間、マッセリアは全米コーサ・ノストラにカステラマレ派への死の宣告を認めるよう通達し、半ば強引にこれを認めさせていた{{refnest|group=注釈|ニコラ・ジェンタイルの証言に基づくが、死の宣告を出した正確な時期は不明<ref>Critchley, P. 173</ref>。ジョゼフ・ヴァラキは、戦争後のマランツァーノの演説に言及し、似た証言を残している。「マランツァーノは、彼(マッセリア)がカステラマレ出身の者に理由なく死の宣告を下したいきさつに触れ、同じ目にあった5,6人のメンバーやボスの名前を挙げた」<ref>「マフィア」バラキ・ペーパーズ、P.118</ref>。}}。
8月、マッセリアの参謀ジュゼッペ・モレロがマランツァーノのガンマン2人に殺害された<ref name="m"/><ref>[http://bklyn.newspapers.com/image/58062742 'Guns Snuff Out Life of 'Clutch' and Companion] The Brooklyn Daily Eagle, P. 18, 1930.8.16付</ref><ref>[http://www.onewal.com/pics/nwpeterm.gif Three are Killed in Gang Shootings, 1930.8.16]</ref><ref name="hortis3"/>。9月、ガリアーノは水面下でマランツァーノの支持を取り付けた上で、レイナの後釜ボスだったピンゾロを手下を使って殺害した<ref name="j"/>。10月、マッセリアは、シカゴのアイエッロの暗殺に成功した<ref name="j"/>{{refnest|group=注釈|カポネの脅迫を受け一時バッファローに避難していたが、マガディーノやマランツァーノの制止にも関わらずシカゴに戻った直後に殺された<ref>[http://www.lacndb.com/php/Info.php?name=Stefano%20Magaddino Stefano Magaddino] La Cosa Nostra Database</ref>。}}。
;3. 戦局転換
1930年11月、マッセリアの参謀アル・ミネオがブロンクスでマランツァーノとガリアーノの合同暗殺チームに狙撃され、用心棒共々即死した<ref name="i"/>。旧ダキーラ派の[[フランク・スカリーチェ]]がマランツァーノの支持を得てミネオから組織を奪い返した。同じ頃ニュージャージーのマッセリア派ボイアルドがマランツァーノの暗殺チームに撃たれ、重傷を負った。警察の圧力も加わり、マッセリアは心が折れた<ref name="o"/>{{refnest|group=注釈|モレロ亡き後、ミネオを参謀に据えたが、ミネオも殺され、一説に保守派をつなぎとめておく裏社会の権威を失ったことが戦意喪失の理由とされる<ref name="j"/>。}}。マッセリア派はマンパワーでカステラマレ陣営を圧倒していたが、結束力で劣り、離反するギャングが続出した{{refnest|group=注釈|[[カルロ・ガンビーノ]]などが所属したダキーラファミリーの最大派閥マソット派がマッセリアから離反した<ref>「マフィア」バラキ・ペーパーズ、P.115</ref>。}}。マランツァーノは、「カステラマレ人はミラッツォの仇を、パレルモ人はダキーラの仇を取れ」と煽った<ref name="hortis3"/>。
12月ボストンでニューヨーク内外の中立マフィアによる和平会議が開かれ、形勢有利だったマランツァーノ側に3度特使が飛び停戦・和解を迫ったが、拒否された<ref name="j"/><ref name="s">Critchley, P. 184 - P. 185</ref>{{refnest|group=注釈|マフィア一般会議、マフィア総会(General Assembly)などと呼ばれ、マッセリアから「ボスの中のボス」の座をはく奪し、一時的にボストンマフィアのガスパール・メッシーナがその称号を継ぐことが決められた。次に両サイドに停戦を働きかけるコミッションが立ち上げられ、マランツァーノを相手に停戦・和解交渉することが決められて実行されたが、コミッションに強制力はなく、最終的な判断は当事者のファミリーボスに委ねられた。ガスパール・メッシーナ、旧ダキーラ派ジョゼフ・トライナ、ニコラ・ジェンタイル、他シカゴやピッツバーグから参集した。中立を期すため抗争中の当事者メンバーは会議から排除された<ref name="s"/>。}}。
1931年初め、カポネの斡旋で停戦にこぎつけた。マッセリアは潜伏し、一説にカルファノの元に隠れた<ref name="j"/>。停戦は長続きせず、同年2月、ハーレムのマッセリア忠誠派ジョゼフ・カターニアがブロンクスで暗殺された。同月、マッセリアが支援していたデトロイトのチェスター・ラマーレが暗殺された<ref>Critchley, P. 177</ref>。
===最期===
1931年4月15日昼過ぎ、仲間3人と[[コニーアイランド]]のレストランNuova Villa Tammaroに防弾仕様のセダンで乗り付け、奥の部屋に入ってコーヒーを注文し、仲間とトランプを始めた。用心してめったに外に出なかったマッセリアが信頼のおける仲間3人を従えて店に現れたが、その3人は全く信頼のおける輩ではなかった。接客したアンナ・タマロ(店オーナーの義母)が魚グリルの注文をうけて魚を買いに外に出ていた間に、マッセリアは背後から頭や背中など計6発撃たれ、即死した<ref name="e"/><ref name="v">[https://www.gangrule.com/2/wp-content/gallery/documents/masseria_autopsy.jpg マッセリアの検死報告書]</ref><ref name="z">[http://bklyn.newspapers.com/image/57365091 Suspect Seized In Murder of 'Joe The Boss'] Brooklyn Daily Eagle (Page. 1) 1931.4.16</ref><ref>[http://bklyn.newspapers.com/image/57365095 Seize Suspect As Coney Killer] Brooklyn Daily Eagle (Page. 2) 1931.4.16</ref>{{refnest|group=注釈|一説に、敵を一気にやっつける良いアイデアがあると説得され、そのアイデア提供者と会うためにレストランに来たとも言われた。}}。
目撃証言では午後3時頃、レストラン前に1台の車が停車して洒落た身なりの2人が降りてレストランに入って行った。レストランの中を通り抜けて奥の部屋の方に消え、その直後に銃声が聞こえた。銃声が止んだ後外に出てきた2人は慌てる様子もなく同じ車で去った<ref name="z"/><ref name="aa">[http://www.americanmafia.com/Mob_Report/7-15-02_Mob_Report.html Castellammarese War (Part Three)] The American Mafia</ref>。警察が駆けつけるとタマロが腰をかがめてマッセリアの血だらけの遺体を覗き込んでいた.<ref name="p">[http://www.nytimes.com/2012/07/01/nyregion/answer-to-a-question-about-a-mobsters-death-in-coney-island.html Coney Island’s Big Hit] The New York Times, 2012.6.29</ref>。仲間3人は全員オーバーコートと帽子を部屋に残して消えていた<ref name="x">[http://www.rarenewspapers.com/view/582115 Police Mystified in Slaying of Boss] New York Times 1931.4.17</ref>。レストランは程なく50人の警官で埋め尽くされたが、ひょっこり現れた店オーナーのジェラルド・スカルパトは警察の質問に、「外で散歩していたので何も知らない」と答えた<ref name="q">[http://bklyn.newspapers.com/image/59981148/ Scarpati Killing was Pay off Job, Police Satisfied] Brooklyn Daily Eagle, 1932.9.13</ref>{{refnest|group=注釈|後になって暗殺前に偶然近くを通った知人の証言により、暗殺を事前に知っていたことが判明した(「ここで何をしている?早く帰れ。ここにいたことは誰にも話すな」と告げられた)<ref name="r">[http://books.google.co.jp/books?id=F5fZw_jsAl4C&pg=PA250&lpg=PA250 East Side, West Side: Organizing Crime in New York, 1930-1950] Alan Block, P. 250</ref>。}}。
レストランの脇に拳銃2丁、数軒先で乗り捨てられた車に拳銃3丁が見つかった<ref>[https://bklyn.newspapers.com/image/57365361/ $15,000 Casket of Bronze for Joe The Boss] Brooklyn Daily Eagle, Page 19, 1931.4.17</ref>。警察は主に消えた3人の行方を追い、マッセリアと競馬ビジネスをしていたことが知られていたカルファノやマッセリアの相談役のサヴェリオ・ポラシア{{refnest|group=注釈|シチリア島チェファルー出身のマフィアでダキーラの元仲間。イェールとも親交があった。ダキーラを裏切りマッセリアの相談役になった<ref name="h"/>。}}らを尋問した{{refnest|group=注釈|ポラシアは、レストランで一緒にいただろうと警察に聞かれ、猛烈な勢いで否定した。アル・ミネオがマンション外で射殺された時ポラシアはマッセリアとそのマンションにいたと警察は見ていた。}}<ref name="h">[http://mafiahistory.us/a018/f_pollaccia.html The Man in the Shadows - Sam Pollaccia] Thomas Hunt, 2008</ref><ref name="x"/><ref>[https://jp.pinterest.com/pin/549017010799886830/ Boss Murder Clue Leads to Policy Racket] Standard Union, 1931.4.30</ref>。暗殺の数時間前にレストラン近くの路上にスカルパトと一緒にカルファノがいたことが後日判明した<ref name="e"/><ref name="r"/>。警察の捜査は行き詰まり、犯人の検挙に至らなかった。
1931年4月20日に行われた葬儀パレードは、150人の刑事と50人の警官から成る総勢200人の警備チームでガードされ、シルバーとブロンズの豪勢な棺を見るために1万人の見物人が集まった。涙を流す者はいなかった<ref>[https://bklyn.newspapers.com/image/57365977 Joe The Boss Gets Last Ride, 10,000 Look On] Brooklyn Daily Eagle, Page 2, 1931.4.20</ref>。クイーンズのカルヴァリー墓地に埋葬された。
===未解決殺人事件===
殺害実行犯は諸説あるが、マッセリアに見切りをつけた部下の裏切りとするのが定説である。1930年11月以降、警察の圧力から部下に銃の使用を禁じたが、これが部下との間に軋轢を生み、部下の離反を促したとも言われた<ref name="o"/><ref name="s"/>。後にマッセリアの後釜ボスになったルチアーノが首謀したと広く信じられたが、具体的な経緯は不明である{{refnest|group=注釈|マフィア内部関係者の証言ではほぼ例外なくルチアーノが首謀したとするが、中立派かマランツァーノ側の証言に限られ、マッセリア派の内部証言はない<ref name="e"/>。}}{{refnest|group=注釈|ルチアーノは、カステランマレーゼ戦争がピークだった1930年8月から9月に、アイルランド系ギャングの[[レッグス・ダイアモンド]]と密輸商売の開拓のためドイツへ船旅していた<ref name="n"/><ref>[http://www.americanmafia.com/Feature_Articles_464.html Lucky in Nazi Germany] Tim Newark, The American Mafia</ref>。戦争に関連付けられるような痕跡を残していない事から、抗争関与を疑問視する説もある。}}。[[ヴィト・ジェノヴェーゼ]]が暗殺プロットを作ったとも言われた{{refnest|group=注釈|元刑事で市警の下請け仕事をしていた探偵の見方<ref name="e"/>。}}。
マッセリアの死後、2人のカラブリア系ギャング、ジョン・ジウストラ、カルメロ・リコンティが相次いで不審死を遂げた{{refnest|group=注釈|ジウストラは同年5月に銃殺体で、リコンティは同7月に刺殺体で発見された。2人とも元イェール派で、ヴィンセント・マンガーノや同郷のアルバート・アナスタシアと共にブルックリン臨海区の組合を支配していた<ref name="e"/>。}}。さらに翌年、店主スカルパトとマッセリアの相談役ポラシアが不審死を遂げ、警察はこれら4人の死をマッセリアの死に関連付けた<ref>[http://bklyn.newspapers.com/image/59868203/ Smother Brooklyn Crime] Brooklyn Daily Eagle, Page 59, 1931.8.9</ref>{{refnest|group=注釈|スカルパトは表はレストラン経営者だが裏では賭博ギャングで、1932年9月に袋詰めの拷問遺体で車から発見された<ref name="q"/>。スカルパトはマッセリア殺しで警察に尋問された時、「万一のため」自分の指紋をとるよう要求した。事件後イタリアに帰国し、1932年6月に米国に戻った<ref name="e"/>。ポラシアは1932年家族を残してシカゴに旅行に出かけ、そのまま行方不明になった(殺された)<ref name="e"/><ref name="o"/>。一説にヴィト・ジェノヴェーゼがポラシアをシカゴに連れて行った(ニコラ・ジェンタイルの回想録)<ref name="h"/>。}}。
1940年の[[マーダー・インク]]の捜査ファイルにマッセリア殺害犯に言及したメモがあった(「ポラシアと数人がマッセリアと一緒にいて、ジウストラがマッセリアの背後からレストランに入りマッセリアを撃った」<ref name="h"/>){{refnest|group=注釈|マーダーインクの捜査ファイルにあったメモだが、元はニューヨーク市警の刑事の情報<ref>Memo dated Nov. 27, 1940, within the Kings County District Attorney's Office Murder Inc. files</ref>。}}。後年、このメモ内容を一部裏付けるような証言がブルックリン臨海区の組合関係者から出た(「ジウストラが組織を乗っ取ろうとジョー・ザ・ボスを殺したが、マンガーノやアナスタシアらに裏切られ、殺された」){{refnest|group=注釈|1952年、ブルックリン犯罪調査で証言台に立った臨海組合員の証言<ref>Hortis, Note50、Confidential Memorandom, In Re: Anastasia Brothers, 1952.3.21付, Albert Anastasia Closed File(NYMA)</ref>。}}。
==マフィア界の風雲児==
いつマフィアになったか、どこの組織に入ったか不明で、出所してから禁酒法施行までの間にモレロ一家に入った、または1910年代後半に独自のギャング団を結成しモレロ一家を継いだとの説がある<ref name="j"/>。モレロ一家をマッセリア一家の前身と見なし、ほぼ同一視する説と、活動テリトリー等の違いに着目して別々の組織だったとする説で見方が分かれる。
シチリア出身だが、パレルモ派やコルレオーネ派などのメインストリームから外れ、血縁上頼りになるマフィアもおらず、派閥的に孤立した。同郷の血族で固めるシチリア流組織組成ができず(又はしたくなかった)、無数の外様ギャングと結びつくことで組織を大きくした。アメリカに渡ったシチリアマフィアがイタリア本土出身ギャングと手を組むのは珍しくなかったが、あくまで外部協力者の扱いだった。マフィアは最初にシチリアの自分の故郷の者と徒党を組み、次にシチリア各地の人間と徒党を組み、その結果、組織がシチリア人で占められ、その中核は同郷者・血縁者だった。マッセリアはシチリア人かどうかに関係なく、有力なギャングなら組織に加えた<ref name="hortis2"/><ref name="hortis3"/>。ナポリ系のカポネをマフィアに入れたことで批判を浴びたが、他のファミリーも結局マッセリアの動きに追随した。1920年代後半、非シチリア系の組織流入が「解禁」になるが、マッセリアがこの流れを作った<ref name="j"/>。
マイアミへの賭博旅行の際はアイルランド系やユダヤ系の仲間を引き連れていた。シチリア保守派の手前、組織にこそ入れなかったが、部下たちが他国系ギャングと付き合うのを禁止しなかった{{refnest|group=注釈|例えばルチアーノは1920年半ばマッセリアの組織に出入りしたが、同時にダイアモンドギャングの一員でもあった<ref name="n"/>。}}。マッセリアにとって人と人を結びつけるのは家柄や地縁ではなく、金やビジネスだったが、世間では長らく「口ひげピート」(閉鎖的な旧世代ボス)のレッテルを貼られた<ref name="hortis3"/><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=jgCpxTpPCPcC&pg=PA304&lpg=PA304 The Mafia Encyclopedia] Carl Sifakis. P. 304</ref>。
==ボスの中のボス==
コソ泥専門のストリートギャングからニューヨークマフィアの頂点に、わずか10年足らずで登り詰めた。1928年12月、クリーヴランドで開かれた全米マフィア会議(通称クリーヴランド会議)で、同年10月に殺されたダキーラに代わる新しい「ボスの中のボス」にマッセリアが選ばれたとする説がある<ref>[http://www.writersofwrongs.com/2016/12/caught-in-cleveland.html Caught in Cleveland in 1928] Thomas Hunt, 2016</ref>{{refnest|group=注釈|1928年12月5日、スタットラーホテルで23人のマフィアが警察に拘束された。全員シチリア人で、ニューヨークからマンガーノ、プロファチ、ジョゼフ・トライナら主にパレルモ系マフィアが参加した。捕捉を逃れたメンバーもいた。一般的に、この会議の議題はクリーヴランド地元のコーンシュガー戦争関係か、ニューヨークではイェールやダキーラ亡き後のブルックリンの縄張り問題の処理とされる。会議のホストは地元クリーヴランドのポレロ兄弟が務めた<ref>Critchley, P. 160</ref><ref>[http://mafiahistory.us/maf-chr3.html Timeline Part 3. 1920-1931] The American Mafia</ref>。ポレロ兄弟はマッセリアが支援していたトダロと共に、1927年ロナルド一家のVIPを葬り、クリーヴランドの覇権を奪っていた<ref>Critchley, P. 156</ref>。}}。
ライバルは丸ごと呑みこむか排除した。「敵の敵は味方」の論理で、ライバルと対立する勢力を目ざとく見つけ、味方に付けて反抗を煽った。シチリア保守派と敵対していたカポネはニューヨークのボスと提携することで戦略的に有利なポジションを得た<ref name="g"/>。ライバルボスを排除すると、後釜にそのボスと同じ派閥か近い立場の者を傀儡ボスに据えて間接的に支配する手法をとった。ダキーラの後釜にミネオ、レイナの後釜にピンゾロ、コラ・シーロの後釜にジョーパリッノ、という具合であった。
とどまることを知らない拡大志向は互いに顔を知らない各地のギャングを結びつけた。マンハッタン、ブルックリン、ブロンクス、ニュージャージーのギャングを統合し、ニューヨーク五大ファミリーの中で唯一無二の勢力を作り出した(現[[ジェノヴェーゼ一家]])<ref name="j"/>。反面、結束力はシチリア人主体の従来のファミリーに劣り、栄光の座は短命に終わった。マッセリア亡き後、ジェノヴェーゼ、コステロ、アドニスら血縁関係もなく出自もばらばらな非シチリア系ギャングが組織上部を占め、マッセリアの組織構成の特徴を残した<ref name="a"/>。
==エピソード==
*大柄ではなかったが、がっしりした体格で敏捷だった<ref name="e"/>。
*若い頃テイラーで働いていたのでスーツとハットの着こなしはお手の物だった。警察に捕まる時いつもその格好だった<ref name="hortis3"/>。
*若い頃の強盗仲間3人のうち2人は皮肉なことに後年敵対するカステラマレ派だった<ref name="j"/>{{refnest|group=注釈|泥棒チームのラッフィーノ兄弟は、ウィリアムズバーグのコラ・シーロ一家のメンバーで、うちサルヴァトーレ・ラッフィーノはハーレムのモレロ一家のロモンテの酒場でバーテンをしていた<ref>Critchley, P. 173</ref>。}}。
*「自分は金持ちじゃない」。1913年の強盗裁判で証言台に立ち、犯罪動機を聞かれたマッセリアの言葉。生活は貧乏で、姉夫婦の家に間借りして住んでいた<ref name="e"/>。10年後、警察に大富豪と呼ばれた。
*マッセリア暗殺には有名なギャング神話がある。ルチアーノがマッセリアをレストランの食事に誘い、2人は食事を楽しんだ後トランプに興じ、ルチアーノがトイレに行っているすきに[[ベンジャミン・シーゲル]]、[[アルバート・アナスタシア]]、[[ヴィト・ジェノヴェーゼ]]、[[ジョー・アドニス]]の4人が現れてマッセリアを射殺したというもの<ref name="t"/><ref name="u"/><ref name="p"/>。検死結果ではマッセリアの胃は空っぽで、一切食事をとっていなかった<ref name="e"/><ref name="v"/>。伝説では、事件後ルチアーノが警察の尋問に「自分はトイレが長い」と言い訳をしたことになっているが、ルチアーノが参考人として公式に警察に尋問された記録は存在しない<ref name="e"/>。ルチアーノが暗殺現場にいたかどうかは不明な上、目撃者はレストランに入った殺し屋と見られる人物は2人だけだったと証言した<ref name="z"/>。
*スペードのエースを手に握りしめて倒れている遺体写真が有名になったが、死体検分前に現場に到着した記者がマッセリアの手にカードを挟んで撮った<ref name="p"/><ref>[http://alltimecrime.com/ace-diamonds-bad-luck-mafia-boss/ Ace of Diamonds: Bad Luck for a Mafia Boss]</ref>。
*カステランマレーゼ戦争に関する当事者の証言の多くはカステラマレ派からで、その当事者証言をもとに構成される歴史は必然的にマッセリア=「悪」のイメージが基調となった。マッセリアが戦争を始めたきっかけやカステラマレ派に死の宣告を出した経緯は、カステラマレ派が勝者となった時点で歴史の闇に葬られてしまったとの指摘がある<ref>Critchley, P. 173</ref>。
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{
== 関連項目 ==
*[[コーサ・ノストラ]]
*[[五大ファミリー]]
*[[ジェノヴェーゼ一家]]
== 外部リンク ==
*[http://www.onewal.com/
*[http://www.nytimes.com/2012/07/01/nyregion/answer-to-a-question-about-a-mobsters-death-in-coney-island.html Coney Island’s Big Hit] マッセリア暗殺の謎 NEW YORK TIMES June 29, 2012
*[http://www.rarenewspapers.com/view/582115 Police Mistified In Slaying Of "BOSS"] Joe Masseria gangland assassination, NEW YORK TIMES, April 17, 1931
*[http://gangstersinc.ning.com/profiles/blogs/kill-the-chinaman-1 Kill The Chinaman] Gangster Inc
*[http://www.americanmafia.com/Mob_Report/7-15-02_Mob_Report.html Castellammarese War (Part Three)]
*[http://www.rarenewspapers.com/view/582115 New York Times] 1931.4.17付 暗殺翌々日の記事
*[http://bklyn.newspapers.com/image/57365091 The Brooklyn Daily Eagle (Page1) continued to Page 2] 1931.4.16付 暗殺翌日の記事
*[http://www.lacndb.com/php/Info.php?name=Joe%20-%20The%20Boss%20-%20Masseria Joe - The Boss - Masseria] La Cosa Nostra Database
{{DEFAULTSORT:まつせりあ しよ}}
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[[Category:暗殺された人物]]
[[Category:シチリア州出身の人物]]
[[Category:
[[Category:1931年没]]
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