削除された内容 追加された内容
Iwai.masaharu (会話 | 投稿記録)
ZairanTD (会話) による ID:63232037 の版を取り消し
編集の要約なし
2行目:
|人名 = 松本 治一郎
|各国語表記 = まつもと じいちろう
|画像 = JiichiroMatsumoto_Jiichiro.jpg|thumb|400px|195Jiichiro Matsumoto.JPG
|画像説明 = 松本治一郎
|国略称 = {{JPN}}
57行目:
[[福岡県]][[那珂郡 (福岡県)|那珂郡]]金平村(現在の[[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]][[馬出]])に生まれる。出生名は'''松本 次一郎'''<ref>[[徳川事件|徳川公爵暗殺陰謀事件]]の大審院判決(1926年(れ)第1974号)に「土木請負業治一郎事 松本次一郎」とある。『部落問題・水平運動資料集成』第1巻、329頁。</ref>。父・次吉(村会議員)、母・チエの末子(五番目の子)で、上には兄二人(上から治七、鶴吉)、姉二人がいた<ref name="松本治一郎20頁">福岡県人権研究所著『西日本人物誌(16) 松本治一郎』20頁。</ref>。治一郎は後年、60歳のとき「私は[[部落問題|被圧迫部落]]の[[農家#農民の階層区分|貧農]]の子として生まれた」と語っている<ref name="松本治一郎21頁">福岡県人権研究所著『西日本人物誌(16) 松本治一郎』21頁。</ref>。父・次吉は貧しい暮らしを少しでも向上させようと、すすんで副業([[履物]]([[下駄]]、[[雪駄]]など)の製造・販売)にも取組んだ<ref name="松本治一郎21頁"/>。次吉はそれら[[履物]]の原材料となる桐の木や竹の皮を仕入れて売る[[仲買]]の仕事をして現金収入を得ていた<ref name="松本治一郎21頁"/>。次吉は村全体が貧しい中で、よく働き、村の中では比較的「上位」の立場にいた<ref name="松本治一郎21頁"/>。
 
[[1900年]]に住吉高等小学校を卒業後、私塾の粕屋学園や[[京都市|京都]]の旧制干城中学校(後に廃校)を経て上京し、旧制錦城中学校(現在の[[錦城高等学校]])を[[経て、旧制東京医学専門学校中退]]
 
[[1907年]]に[[大連市|大連]]へ渡り、大道[[易者]]や偽医者として生計を立てる。[[1910年]]、日本[[総領事]]に強制送還されて帰国。