「ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)」の版間の差分

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|退任日3 = [[1628年]]
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'''初代[[バッキンガム公]]ジョージ・ヴィリアーズ'''({{lang-en-short|'''George Villiers, 1st Duke of Buckingham'''}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}、[[1592年]][[8月28日]] - [[1628年]][[8月23日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の政治家、貴族。
[[File:George Villiers, 1st Duke of Buckingham.jpg|180px|thumb|バッキンガム公]]
'''初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ'''({{lang-en-short|'''George Villiers, 1st Duke of Buckingham'''}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}、[[1592年]][[8月28日]] - [[1628年]][[8月23日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の政治家、貴族。
 
[[ステュアート朝]]初代国王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]と第2代国王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の2代にわたって重臣として仕え、イングランドの国政を主導、[[海軍本部 (イギリス)|海軍卿]](在職:[[1619年]] - 1628年)等の官職を歴任した。はじめ[[イギリスの議会|議会]]や[[プロテスタント]]勢力から人気のある政治家だったが、[[三十年戦争]]での敗戦が続いたため、批判を受けることが多くなり、1628年には議会から突き付けられた「[[権利の請願]]」を受け入れることを余儀なくされ、課税には議会の同意が必要であることや臣民の自由を侵害してはならないことを政府として再確認した。同年に[[暗殺]]された。
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=== 急速な昇進 ===
[[File:James I de Critz Mirror of GB.jpg|180px|thumb|イングランド国王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]]]
[[1612年]]にイングランドへ帰国し、[[1614年]]夏に国王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の引見を受けた{{sfn|塚田富治|2001|p=53}}。それをきっかけに王の寵愛を得るようになり、以降{{仮リンク|酌人|en|Cup-bearer}}として宮仕えするようになった<ref name="世界(1981,7)343" />。[[1615年]]には{{仮リンク|寝室侍従長|en|Gentleman of the Bedchamber}}に任じられるとともに[[ナイト]]に叙される。[[1616年]]には北トレントの{{仮リンク|巡回裁判官|en|Justice in Eyre}}(在職:1616年 - 1619年)、{{仮リンク|主馬頭 (イギリス)|label=主馬頭|en|Master of the Horse}}(在職:1616年 - 1628年)や{{仮リンク|バッキンガムシャー知事|en|Lord Lieutenant of Buckinghamshire}}(在職:1616年 - 1628年)などの官職を得る<ref name="thepeerage.com" />。また同年、[[ガーター勲章]]を受勲し、ヴィリアーズ子爵と{{仮リンク|ワッドン男爵|en|Baron Whaddon<!-- 曖昧さ回避ページ -->|FIXME=1}}に叙された<ref name="世界(1981,7)344">[[#世界(1981,7)|世界伝記大事典 世界編7巻(1981)]] p.344</ref><ref name="thepeerage.com" />。1617年には[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)に列し、バッキンガム伯爵に叙される<ref name="thepeerage.com" />。[[1618年]]にはバッキンガム侯爵に叙される<ref name="世界(1981,7)344" />。[[1619年]]には[[海軍本部 (イギリス)|海軍卿]]や南トレントの巡回裁判官となる<ref name="thepeerage.com" />。以降、海軍卿を主任務としつつ、内政や外交などあらゆる分野に影響力を及ぼすようになった<ref name="世界(1981,7)344" />。
 
このヴィリアーズの短期間での急速な昇進の背景には国王のだけでなく、[[カンタベリー大主教]]{{仮リンク|ジョージ・アボット (カンタベリー大主教)|label=ジョージ・アボット|en|George Abbot (bishop)}}、{{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}{{仮リンク|ラルフ・ウィンウッド|en|Ralph Winwood}}、{{仮リンク|侍従長 (イギリス)|label=侍従長|en|Lord Chamberlain}}第3代[[ペンブルック伯]][[ウィリアム・ハーバート (第3代ペンブルック伯爵)|ウィリアム・ハーバート]]ら宮中内の改革派([[プロテスタント]]強硬派)による後押しがあった。{{仮リンク|大蔵卿 (イギリス)|label=大蔵卿|en|Lord High Treasurer}}初代[[ソールズベリー伯爵]][[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]]が死去したのち、宮廷は親[[カトリック]]・親スペインの[[ハワード家]]が取り仕切っており、国王寵臣初代[[サマセット伯]][[ロバート・カー (初代サマセット伯)|ロバート・カー]]もハワード派だったため、プロテスタント派はこれを警戒してヴィリアーズをサマセット伯に代わる国王寵臣に仕立て上げたがっていた{{sfn|塚田富治|2001|p=54}}。また[[1610年]]に財政改革案「[[大契約]]」が議会から否決されて以降、王庫の財政は危機的状況に瀕していた。[[1614年]]に議会が再招集されたが、国王秘書長官ウィンウッドが議会対策に不慣れなうえ、政府内でも財政改革案について意見が分裂していたため、政府と議会の和解が難しい情勢になっていた。そうした中でジェームズ1世が、議会からの財政援助をあきらめて[[持参金]]だけを目当てにカトリックの[[スペイン]]王室との婚姻に動く恐れがあり、ヴィリアーズにはそれを阻止する役割も期待されていた<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.158-159/163</ref>。
 
ヴィリアーズはその期待に十分にこたえ、国王を大蔵卿初代[[サフォーク伯]][[トマス・ハワード (初代サフォーク伯)|トマス・ハワード]]ら親スペイン派から引き離したばかりか、[[1618年]]にはサフォーク伯を失脚にまで追い込んでいる<ref name="今井(1990)163">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.163</ref>。
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=== 議会での人気の急落 ===
[[File:Anthonis van Dyck 072.jpg|180px|thumb|イングランド王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]]]
1625年3月に即位したチャールズ1世のもとでも寵臣として権勢をふるい続けたが、同年6月に召集された議会では税制問題やプファルツ奪還作戦の失敗、国王が[[アルミニウス主義]]{{#tag:ref|アルミニウス主義とは宮廷に支持者が多かったプロテスタントの宗派のひとつ。ピューリタンはアルミニウス主義のことを「カトリックへの接近を図っている」として批判していた<ref name="トレ(1974)122">[[#トレ(1974)|トレヴェリアン(1974)]] p.122</ref>。エリザベス時代以来、イングランド国教会を支えているとしてピューリタンから支持されていたのは[[カルヴァン主義]]であったが、チャールズ1世は即位に際してカルヴァン主義者であることを明確にしなかったうえ、議会からアルミニウス主義と批判されていた聖職者を[[チャプレン]]にしたことから議会は国王をアルミニウス主義者と疑っていた{{sfn|塚田富治|2001|p=71}}。|group=注釈}}を奉じていることなどについて宮廷(特にその中心人物であるバッキンガム公)批判が高まった<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.171-173</ref>。
 
バッキンガム公はそうした批判を懐柔しようと、10月に議会が志向するスペインとの海上決戦を目指して[[カディス]]遠征を実施したが敗北した。これはバッキンガム公の無能さというより、軍艦の技術が高くなりすぎて武装商船では対抗できなくなっていたことが原因だった。つまり議会が志向する海上決戦の構想自体がもともと無理があったのだが、議会はそれを斟酌せず、バッキンガム公批判を強めた<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.173-174</ref>。
 
また当時のイングランドではフランスがイングランドから借りた軍艦を[[ユグノー]](フランスのプロテスタント)弾圧に使ったために反仏世論が高まっていた。国王とバッキンガム公もフランスがスペインと積極的に戦おうとしないことに苛立っていたので1625年末に至って外交方針を転換し、イングランドがプロテスタント同盟の盟主となる路線、すなわち[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]と同盟を結んでフランスのユグノーを援助することを決定した。国王とバッキンガム公はこの方針ならプロテスタント強硬論に立つ議会多数派から支持が得られると踏んでいたが、翌[[1626年]]2月に召集された議会は完全に反バッキンガム公ムードに傾いており、かつてはバッキンガム公支持派だった{{仮リンク|ジョン・エリオット (1592-1632)|label=サー・ジョン・エリオット|en|John Eliot (statesman)}}議員の主導で大々的なバッキンガム公批判を展開した。結局、チャールズ1世とバッキンガム公は目的を達成できないまま議会を解散することになり、国王と国民代表の距離が広がっていることを顕在化させただけに終わった<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.174-176</ref>。
[[File:George Villiers Duke of Buckingham by Dumonstier.png|180px|thumb|バッキンガム公の肖像画(1625年、{{仮リンク|ダニエル・デュモンスティアー|en|Daniel Dumonstier}}画)。]]
この路線はプロテスタント強硬論に立つ議会多数派が従来から主張していたものであるから、国王としては当然議会からの支持が得られるものと踏んで、対スペイン戦争の財政援助を求めるべく議会を招集した。ところが国王とバッキンガム公の予想に反し、翌[[1626年]]2月に召集された議会は反バッキンガム公派の議員が多数選出された。反バッキンガム公ムードの高まりの中、かつてはバッキンガム公支持派だった{{仮リンク|ジョン・エリオット (1592-1632)|label=サー・ジョン・エリオット|en|John Eliot (statesman)}}議員の主導でバッキンガム公の罷免を求める弾劾が行われた。エリオットはその中で「バッキンガム公の高慢で広範囲にわたる圧政は人間ばかりではなく、法や国家にも及んでいる。陛下の意向、公にされる指令、制定法、枢密院会議の決定、法廷での判決、そのどれもがバッキンガム公の意志に従属させられている」と恣意的統治を批判し、またバッキンガム公が権力濫用して公金を横領しているとして「陛下にとっては財産を湯水のごとく使い果たす国庫に巣くう害虫であり、国にとっては不正を優先させ、善行を妨げる滋養分を吸い取る蛾のような存在」と罵倒した<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.175</ref>{{sfn|塚田富治|2001|p=73}}。これに対してバッキンガム公は「私の心が国への奉仕から離れているとしたら、私は最大の忘恩の徒でありましょう」と弁明した{{sfn|塚田富治|2001|p=76}}。
 
こうした議会での批判の高まりにもかかわらず、国王はバッキンガム公を擁護し続けた。国王は対スペイン戦争の補助金をあきらめ、バッキンガム公弾劾が貴族院で判決される前に議会を解散した{{sfn|塚田富治|2001|p=77}}。結局、6月までに庶民院から認められた特別税は20万ポンドで、必要額の三分の一にすぎなかった<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.175-176</ref>。
[[1627年]]3月にフランスがスペインと和解し、国内のユグノー弾圧を強化するようになった。これに反発したバッキンガム公は同年6月からフランスの都市[[ラ・ロシェル]]のプロテスタントを支援すべく出兵したが、フランス軍にサンマルタン要塞に籠城され、イングランド軍はそこを陥落させられず、11月に撤退に追い込まれた([[ラ・ロシェル包囲戦]])。この惨敗によりバッキンガム公批判が一層激しくなった<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.176-177</ref>。
 
また議会開会中、国王とバッキンガム公は議会運営を円滑にしようと[[エドワード・コーク]]や[[トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)|トマス・ウェントワース]]ら反政府派の代表的な庶民院議員を庶民院議員との兼職を禁じられている[[シェリフ]]に任じることで庶民院から排除したために反発を招いた。貴族院においても第21代[[アランデル伯爵]][[トマス・ハワード (第21代アランデル伯爵)|トマス・ハワード]]や初代{{仮リンク|ブリストル伯爵|en|Earl of Bristol}}{{仮リンク|ジョン・ディグビー (初代ブリストル伯)|label=ジョン・ディグビー|en|John Digby, 1st Earl of Bristol}}らを議会活動から遠ざける処置をとったので、貴族院の怒りもかった。補助金を得られないばかりか、国王と国民代表の距離が広がっていることを顕在化させることになった<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.174-176</ref>。
 
=== アルミニウス主義偏重 ===
[[File:George Villiers, 1st Duke of Buckingham.jpg|180px|thumb|バッキンガム公]]
またバッキンガム公はアルミニウス主義への接近もやめようとはしなかった。アルミニウス主義は1563年にイングランド国教会が採択した[[カルヴァン主義]]の予定説(救いは人間の行いに関係なく、神の一方的意思によって、しかも世界創造の時点で予定されていた者にだけ与えられるとする説)を批判して人間の意志を強調したプロテスタントの一宗派だが、聖職者の権限は直接神に由来するとし、また聖礼典など儀式の重要性を説いて教会を外面的に美化してその威厳を示すことに努めたため、強硬なプロテスタント・カルヴァン主義者であるピューリタンたちからは、教義と儀式重視によってカトリック回帰を狙っていると批判されていた{{sfn|塚田富治|2001|p=71-72}}。
 
1626年に私邸{{仮リンク|ヨーク・ハウス (ストランド)|label=ヨーク・ハウス|en|York House, Strand}}でアルミニウス主義者とカルヴァン主義者の会談を設定したが、この席上、初代{{仮リンク|セイ=シール子爵|en|Viscount Saye and Sele}}{{仮リンク|ウィリアム・ファインズ (初代セイ=シール子爵)|label=ウィリアム・ファインズ|en|William Fiennes, 1st Viscount Saye and Sele}}とクックからドルトムントの宗教会議で宣言されたカルヴァン主義をイングランド国教会に受け入れるよう求められたのに対して、バッキンガム公は「否、否。そんなものは必要ない。我々はそんな会議とは無関係だ」と答えたという。さらにバッキンガム公はアルミニウス主義者と目されていた聖職者を積極的に国教会の要職に登用した。とりわけ[[ウィリアム・ロード]]を重用し、自らの宗教政策の顧問とするようになった。バッキンガム公のそうした態度はピューリタンから強い憎しみを招くことになった{{sfn|塚田富治|2001|p=72}}。
 
=== ラ・ロシェル包囲戦の敗北 ===
[[1627年]]3月にフランスがスペインと和解し、国内のユグノー弾圧を強化するようになった。これに反発したバッキンガム公はフランス摂政[[リシュリュー]]の失脚を狙って同年6月からフランスの都市[[ラ・ロシェル]]のプロテスタントを支援すべく出兵したが、フランス軍にサンマルタン要塞に籠城され、イングランド軍はそこを陥落させられず、11月に撤退に追い込まれた([[ラ・ロシェル包囲戦]])。この惨敗によりバッキンガム公批判が一層激しくなった。庶民院反政府派のウェントワースはこの敗戦について「これほどの恥辱はかつてなかった」と批判したが、国王は相変わらずバッキンガム公を擁護し続けた<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.176-177</ref>。
 
=== 「権利の請願」 ===
財政は苦しくなる一方で1627年末にはこれ以上の戦争継続が困難となった。政府は王領地を売却して債務を整理しつつ、強制借用金{{#tag:ref|[[テューダー朝]]と前期[[ステュアート朝]]の国王が富裕な臣民に課した強制的な借用金のこと。借用金なので返済するのが原則だが、次第に踏み倒しが多くなり、実質的に課税と変わらなくなってきたので「議会の同意なき課税」と見做されて批判が高まっていた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=4}}。|group=注釈}}徴収と軍隊宿泊強制で乗り切ろうとしたが、この処置は「議会の同意のない私有財産権侵害」と批判されて反対運動を巻き起こした。政府は反対運動を主導した者を逮捕したが裁判所は裁判議会中で国王による強制借用金を合法とは認招集が求なかった。こに不満を抱いた法務次官が判決を勝手に改竄して裁判所が強制借用金を合法と判決したかのように見せかけた<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.177-178</ref>。
 
その間もラ・ロシェルのユグノーは危機的状況に陥っており、イングランドの大規模な援軍がなければ崩壊は避けられない状況だった。こうした中、バッキンガム公も枢密院多数派も反政府派と和解して議会を招集する以外に道はないことを国王に進言した<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.177</ref>。
1628年3月に召集された議会は、法務次官による判決の改竄に驚愕し、「イングランド人の自由が恣意的課税・恣意的逮捕によって脅かされようとしている」と批判し、改めて臣民の自由を確認する法律の制定が必要との認識を強めた。財政的困窮を深める国王とバッキンガム公としては議会と対立するわけにはいかず、特別税を議会が承認することと引き換えに議会が求める「[[権利の請願]]」を認めることとなった。「権利の請願」は、議会の同意なき課税の禁止、恣意的逮捕からの臣民の自由、軍隊強制宿泊の禁止、民間人への軍法適用禁止などを内容とする。内容的にはすでに明文化されていた臣民の権利の再確認に過ぎなかったが、臣民からは広く歓迎され、ロンドンではお祭り騒ぎになったという<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.177-179</ref><ref name="トレ(1974)121">[[#トレ(1974)|トレヴェリアン(1974)]] p.121</ref>。
 
一方反政府派は国王による強制借用金に反対してその支払いを拒絶する運動を開始していた。政府は運動の中心人物らを逮捕したが、裁判所は裁判の中で国王による強制借用金を合法とは認めなかった。これに不満を抱いた法務次官が判決を勝手に改竄して裁判所が強制借用金を合法と判決したかのように見せかけた<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.177-178</ref>。
 
1628年3月に召集された議会は、法務次官による判決の改竄に驚愕し、「イングランド人の自由が恣意的課税・恣意的逮捕によって脅かされようとしている」と批判しいう意識を強めるに至り、改めて臣民の自由を確認する法律制定が必要との認識する準備強め開始した。財政的困窮を深める国王とバッキンガム公としては議会と対立するわけにはいかず、特別税を議会が承認することと引き換えに議会が求める「[[権利の請願]]」を認めることとなった。「権利の請願」は、議会の同意なき課税の禁止、恣意的逮捕からの臣民の自由、軍隊強制宿泊の禁止、民間人への軍法適用禁止などを内容とする。内容的にはすでに明文化されていた臣民の権利の再確認に過ぎなかったが、臣民からは広く歓迎され、ロンドンではお祭り騒ぎになったという<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.177-179</ref><ref name="トレ(1974)121">[[#トレ(1974)|トレヴェリアン(1974)]] p.121</ref>。
 
さらに庶民院は「災いと危険の原因はバッキンガム公への権力集中と濫用にある」としてバッキンガム公に対する抗議書の作成を開始したが、国王はバッキンガム公を護るためにその前に議会を解散した{{sfn|塚田富治|2001|p=78}}。
 
=== 暗殺 ===
[[File:Augustus Leopold Egg - The Death of Buckingham - Google Art Project.jpg|250px|thumb|死去したバッキンガム公を描いた絵画(1855年{{仮リンク|オーガスタス・エッグ|en|Augustus Egg}}画)]]
「権利の請願」を認めたことで議会から多額の補助金を手に入れたバッキンガム公は再びラ・ロシェル遠征を開始しようとしたが<ref name="世界(1981,7)345">[[#世界(1981,7)|世界伝記大事典 世界編7巻(1981)]] p.345</ref>、1628年8月23日に[[ポーツマス]]で遠征準備中にイングランド軍人(陸軍中尉?)将校{{仮リンク|ジョン・フェルトン|en|John Felton (assassin)}}{{#tag:ref|フェルトンは[[ピューリタン]]で、処遇に不満を持っている将校だった<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.179</ref><ref name="トレ(1974)122">[[#トレ(1974)|トレヴェリアン(1974)]] p.122</ref>。|group=注釈}}に暗殺された。バッキンガム公の遺体は[[ウェストミンスター寺院]]に埋葬された<ref name="thepeerage.com" />。フェルトンは11月29日に[[タイバーン]]で[[絞首刑]]に処された
 
バッキンガム公暗殺のニュースはロンドンの民衆から歓喜の声をもって迎えられたという{{sfn|塚田富治|2001|p=78}}。バッキンガム公は悪評にまみれていたが、現実政治家の面があり、晩年には戦争反対派の{{仮リンク|リチャード・ウェストン (初代ポートランド伯爵)|label=リチャード・ウェストン|en|Richard Weston, 1st Earl of Portland}}を大蔵卿に任命したり、アボット、アランデル伯、ウェントワースなどにも和解の意志を示していた。また宗教政策もカルヴァン主義との関係を回復させて柔軟路線に改めようとしつつあった<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.179</ref>。
 
バッキンガム公の死後、チャールズ1世の周りから現実政治家消えた。チャールズ1世は、[[1629年]]にフランス、[[1630年]]にスペインと和睦して三十年戦争から離脱したが、チャルズ1世は有能なドやウェントワース(初代[[ストラフォード伯爵]]に叙された)といった側近に支えられて、[[1629年]]から[[1640年]]にかけて議会持つことな招集しないという親政体制開始し、王妃やそ敷いた。こ取り巻きに頼って現実的な体制は「ロード=ストラフォード体制」と呼ばれ、イギリス史上とりわけ悪名高い体制である{{sfn|塚田富|2001|p=86}}。1640年から遠ざか再び議会が招集されるようになり、親政には止符が打たれたが、そのころには国王と議会対立が激化し亀裂は根深くなっおり、[[清教徒革命|ピューリタン革命]]で処刑されを経て王政廃止を招来することになる<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.179/215</ref>。
{{-}}
 
== 栄典 ==
[[File:George Villiers Duke of Buckingham by Dumonstier.png|180px|thumb|バッキンガム公の肖像画(1625年、{{仮リンク|ダニエル・デュモンスティアー|en|Daniel Dumonstier}}画)。]]
=== 爵位 ===
[[1616年]][[8月27日]]に以下の2つの爵位を新規に叙された<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP DB">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/buckingham1623.htm|title=Buckingham, Duke of (E, 1623 - 1687)|accessdate= 2017-09-17 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
*[[1616年]][[8月27日]]、初代ヴィリアーズ子爵([[イングランド貴族]]爵位)<ref name="thepeerage.com" />
*'''バッキンガム州におけるワッドンの初代ワッドン男爵''' <small>(1st Baron Whaddon, of Whaddon in the County of Buckingham)</small>
*1616年8月27日、初代{{仮リンク|ワッドン男爵|en|Baron Whaddon<!-- 曖昧さ回避ページ -->|FIXME=1}}(イングランド貴族爵位)<ref name="thepeerage.com" />
*:([[1617年勅許状]]による[[1月5日]]、初代{{仮リンク|バッキンガム伯爵|en|Earl of Buckingham}}(イングランド貴族]]爵位)<ref name="thepeerage.com" />)
*'''初代ヴィリアーズ子爵''' <small>(1st Viscount Villiers)</small>
*[[1618年]][[1月1日]]初代バッキンガム侯爵(イングランド貴族爵位)<ref name="thepeerage.com" />
*[[1623年]][[5月18日]]、初代[[バッキンガム公|バッキンガム公爵]](:(勅許状によるイングランド貴族爵位)<ref name="thepeerage.com" />)
 
*1623年5月18日、初代{{仮リンク|コヴェントリー伯爵|en|Earl of Coventry}}(イングランド貴族爵位)<ref name="thepeerage.com" />
[[1617年]][[1月5日]]に以下の1つの爵位を新規に叙された<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP DB"/>。
*'''初代{{仮リンク|バッキンガム伯爵|en|Earl of Buckingham}}''' <small>(1st Earl of Buckingham)</small>
*:(勅許状によるイングランド貴族爵位)
 
1617年[[3月14日]]に上記3つの爵位について自身の男系男子に次いで、同母兄弟{{仮リンク|ジョン・ヴィリアーズ (初代パーペック子爵)|label=ジョン・ヴィリアーズ|en|John Villiers, 1st Viscount Purbeck}}と{{仮リンク|クリストファー・ヴィリアーズ (初代アングルシー伯爵)|label=クリストファー・ヴィリアーズ|en|Christopher Villiers, 1st Earl of Anglesey}}の男系男子への継承が認められる<ref name="CP DB"/>。
 
[[1618年]][[1月1日]]に以下の1つの爵位を新規に叙された<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP DB"/>。
*'''初代バッキンガム侯爵''' <small>(1st Marquess of Buckingham)</small>
*:(勅許状によるイングランド貴族爵位)
 
[[1623年]][[5月18日]]に以下の2つの爵位を新規に叙された<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP DB"/>。
*'''初代[[バッキンガム公|バッキンガム公爵]]''' <small>(1st Duke of Buckingham)</small>
*:(勅許状によるイングランド貴族爵位)
*1623年5月18日、'''初代{{仮リンク|コヴェントリー伯爵|en|Earl of Coventry}}(イングランド貴族爵位)''' <refsmall>(1st name="thepeerage.com"Earl of Coventry)</small>
*:(勅許状によるイングランド貴族爵位)
 
[[1627年]][[8月27日]]にバッキンガム公爵位とコヴェントリー伯爵位について男系男子に次いで、娘{{仮リンク|メアリー・ステュアート (リッチモンド公爵夫人)|label=メアリー・ヴィリアーズ|en|Mary Stewart, Duchess of Richmond}}の男系男子に継承が認められる<ref name="CP DB"/>。
 
=== 勲章 ===
*[[1616年]][[7月7日]]、[[ガーター勲章|ガーター勲章勲章]]ナイト(KG)<ref name="thepeerage.com" />
 
=== 名誉職その他 ===
*[[1617年]][[2月4日]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)<ref name="thepeerage.com" />
{{-}}
 
== 家族 ==
[[File:George_Villiers_Duke_of_Buckingham_and_Family_1628.jpg|250px|thumb|バッキンガム公と家族を描いた絵画([[ヘラルト・ファン・ホントホルスト]]画)]]
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*第4子(三男)フランシス・ヴィリアーズ(1629年 - 1648年):早世
 
ヴィリアーズ家はバッキンガム公以外にも栄達した人物が多く、同母弟[[クリストファー・ヴィリアーズ (初代アングルシー伯)|クリストファー]]はアングルシー伯に叙任、異母兄エドワードの孫で又姪に当たる[[バーバラ・パーマー]]はチャールズ2世の愛人の1人として権勢を振るい[[クリーヴランド公爵|クリーヴランド公]]に叙爵された。バーバラの従弟[[エドワード・ヴィリアーズ (初代ジャージー伯爵)|エドワード]]はジャージー伯に叙任、エドワードの妹[[エリザベス・ハミルトン|エリザベス]]はチャールズ2世の甥[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]の愛人となった末に遠縁のオークニ伯[[ジョージ・ダグラス=ハミルトン (初代オークニー伯)|ジョージ・ダグラス=ハミルトン]](同母姉スーザンの曾孫)と結婚、ジョージは後にイギリスの[[元帥 (イギリス)|陸軍元帥]]になった。
 
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== 地名に見るヴィリヤーズ ==
1620年代、ヴィリアーズはヨーク・ハウスという邸宅を所有していた。この建物は[[イングランド内戦]]後も残り、長男で同名の第2代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズにより[[1672年]]に3万[[ポンド (通貨)|ポンド]]で売り払われた。この周辺には、バッキンガム公にちなんでジョージ通り、ヴィリアーズ通り、デューク通り、バッキンガム通りという地名が残った。
 
== 人格の物・評価 ==
歴史家のバッキンガム公の評価はことごとく低い。19世紀の歴史家ガードナーは「我が国における、いや世界中を見渡しても、最も無能な政治家の一人として位置づけなければならない」と言い切る{{sfn|塚田富治|2001|p=79}}。しかしバッキンガム公が有力貴族との血のつながりもなく、一介のジェントリの子弟から公爵まで成り上がり、度重なる失政や議会の批判にもかかわらず、約10年に渡って失脚することなく権力の座にあり続けた事実は、彼が全く無能な政治家だったわけではないことを証明している。君寵を得ても短期間で失脚した政治家は大勢いるからである{{sfn|塚田富治|2001|p=52}}。
スペインとの外交で露見したように、バッキンガム公は横柄で傲慢な性格であった。彼の肖像画を描いた[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]はこう評している。
 
バッキンガム公は自らの地位が国王の寵愛に依存していることを自覚しており、国王の意向や好み、願望を鋭い嗅覚で嗅ぎ取るよう努め、国王と寝ることもいとわなかった。エリザベスの寵臣第2代[[エセックス伯]][[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|ロバート・デヴァルー]]のように王の意志に逆らって機嫌を損ねるような真似は決してしなかった{{sfn|塚田富治|2001|p=78-79}}。またバッキンガム公は自分を守るための党派を形成することを他の寵臣たち以上の規模で行うことにも成功した。そこにも彼の政治家としての力量が見える{{sfn|塚田富治|2001|p=79}}。ただバッキンガム公のこうした党派的行動は恩恵に預かることのできる者とできない者、中央と地方の亀裂を深め、それが革命への一因にもなったとみられている{{sfn|塚田富治|2001|p=79}}。
「気まぐれで傲慢なバッキンガム公のことを考えると、若い王(チャールズ1世)が気の毒でなりません。とんでもない助言者のおかげで、彼の王国はまっしぐらに破滅に向かおうとしているのです」(タッシェン:ニューベーシック・アートシリーズ「ルーベンス」より)
 
== フィクションの中のバッキンガム公 ==
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*[[1973年]]公開の映画『[[三銃士 (1973年の映画)|三銃士]]』では{{仮リンク|サイモン・ウォード|en|Simon Ward}}<ref>{{Cite web |url=http://www.imdb.com/title/tt0072281/ |title= The Three Musketeers (1973)|accessdate= 2014-04-19|author= [[インターネット・ムービー・データベース|IMDb]] |work= [http://www.imdb.com/?ref_=nv_home IMDb] |language= 英語 }}</ref>、[[2011年]]公開の映画『[[三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船]]』では[[オーランド・ブルーム]]がバッキンガム公を演じた<ref>{{Cite web |url=http://www.imdb.com/title/tt1509767/?ref_=chmd_ph_tt1 |title= The Three Musketeers (2011)|accessdate= 2014-04-19|author= [[インターネット・ムービー・データベース|IMDb]] |work= [http://www.imdb.com/?ref_=nv_home IMDb] |language= 英語 }}</ref>。
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|1}}
=== 出典 ===
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