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俗に[[冥福]]の意味にも用いる<ref name="kb1528" />([[#菩提を弔う]]を参照)。
 
<!-- ==語源==
サンスクリット語の ボーディ(bodhi)には「賢い」、「学ばれた」という形容表現がある<ref>[http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=bodhi&direction=SE&script=HK&link=yes&beginning=0 बोधि (bodhi)] - Spoken Sanskrit Dictionary.</ref>{{疑問点|date=2017年7月7日 (金) 02:41 (UTC)|title=spokensanskrit.deの各ページは単語の語源を表示していないだろうから、この文を「語源」の節に置くのはそぐわないだろう。}}。漢訳で「菩提」ではなく「覚」と意訳する新訳も出現したが、「覚」と訳出された他のサンスクリット語が十種類以上あるため<ref>『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「覺」 1062頁。</ref>、{{独自研究範囲|訳の新旧や傾向、または前後の文脈から bodhi の訳であることを特定するしかない|date=2017年5月5日 (金) 01:41 (UTC)|title=これは翻訳に関する執筆者の随想を書いたものにすぎない。翻訳におけるこのような総合的判断を披露するには出典が必要。}}。<!--なお、「草葉の陰」という表現は、[[墓場]]の下や{{疑問点範囲|菩提<ref name="bodai" />の意味とするのは誤りではないが、|date=2017年7月7日 (金) 02:41 (UTC)|title=「草葉の陰を菩提の意とするのは誤りではない」という記述の出典が明らかでない。ref name bodaiには、草葉の陰や墓場の下という記述は無い。後続のref name kusabaには菩提のことが書いてない。}}草の葉陰、くさかげの意味とされている<ref name="kusaba">[http://kobun.weblio.jp/content/%E8%8D%89%E8%91%89%E3%81%AE%E9%99%B0 草葉の陰] - Weblio古語辞典(学研全訳古語辞典)。</ref>。-->
 
== 概要 ==
{{一次資料|section=1|date=2017年7月13日 (木) 23:16 (UTC)|title=}}
現在流布する様々な辞典等における語釈は、「[[修行により]]を積み、[[煩悩]]を断ちきって到達すことによ得るさとりの境地<ref>[[三省堂]] [[大辞林]] の語釈から一部を引用。</ref>等とするものが多い。しかしこの語釈は初期仏教のもので、大乗仏教の成立とともにこの用語の使われ方は変遷してきた。
 
1-2 世紀頃成立の初期大乗経典[[維摩経]]などの初期大乗経典では、「一切は[[空 (仏教)|空]]であり認知することはできない」から菩提と煩悩を差別できない、即ち『不可得』だから差別なし、という文脈で菩提を説明し、これを超克することによって一切智(薩婆若、sarva-jñāna)を得ることができると説く{{efn|顕著な例として、[[鳩摩羅什]] 訳 『維摩詰所説經菩薩品第四』には菩提の意義を、そのための行26項目を列挙して説く。「~彌勒當令此諸天子捨於分別菩提之見。所以者何。菩提者。不可以身得。不可以心得。寂滅是菩提滅諸相故。不觀是菩提離諸縁故。不行是菩提無憶念故。斷是菩提捨諸見故。離是菩提離諸妄想故。障是菩提障諸願故。不入是菩提無貪著故。順是菩提順於如故。住是菩提住法性故。至是菩提至實際故。不二是菩提離意法故。等是菩提等虚空故。無爲是菩提無生住滅故。知是菩提了衆生心行故。不會是菩提諸入不會故。不合是菩提離煩惱習故。無處是菩提無形色故。假名是菩提名字空故。如化是菩提無取捨故。無亂是菩提常自靜故。善寂是菩提性清淨故。無取是菩提離攀縁故。無異是菩提諸法等故。無比是菩提無可喩故。微妙是菩提諸法難知故。世尊。維摩詰説是法時。二百天子得無生法忍。故我不任詣彼問疾」と説く。<ref>SATデータベース T0475_.14.0542b21~c09</ref>}}。
なお、菩提の対義語は[[煩悩]]であり、[[大乗仏教]]、とくに[[本覚思想]]等においては「[[煩悩即菩提]]」といい、煩悩(迷い)と菩提(悟り)は而二不二(ににふに)といって、二つであってしかも二つではないと説く{{efn|日本の天台本覚思想を待つことなく、[[灌頂]]撰とされる[[智顗]]の講義録 『妙法蓮華經文句』 卷第六上 に、「出入者。二而不二是入。不二而二是出。又不二而二是入。二而不二是出。無量還一是入。一中無量是出。<ref>SATデータベース T1718_.34.0081b22~230081b22~b23</ref>」とあり、また智顗ないしその弟子の著作には「二而不二・不二而二」や「而二不二」が頻出する。}}。
 
菩提の対義語は[[煩悩]]であり、[[大乗仏教]]、とくに[[本覚思想]]等においては「[[煩悩即菩提]]」といい、煩悩(迷い)と菩提(悟り)は而二不二(ににふに)といって、二つであってしかも二つではないと説く{{efn|日本の天台本覚思想を待つことなく、[[灌頂]]撰とされる[[智顗]]の講義録 『妙法蓮華經文句』 卷第六上 に、「出入者。二而不二是入。不二而二是出。又不二而二是入。二而不二是出。無量還一是入。一中無量是出。<ref>SATデータベース T1718_.34.0081b22~23</ref>」とあり、また智顗ないしその弟子の著作には「二而不二・不二而二」や「而二不二」が頻出する。}}。
 
大きく時代を下って 7-8 世紀頃成立とされる、[[密教]][[経典]]である『[[大毘盧遮那成仏神変加持経]]』では「菩提とは実の如く自心を知ること」と説いている{{efn|入真言門住心品第一に、「佛言菩提心爲因。悲爲根本。方便爲究竟。祕密主云何菩提。謂如實知自心。祕密主是阿耨多羅三藐三菩提。乃至彼法。少分無有可得。何以故。虚空相是菩提無知解者。亦無開曉。何以故。菩提無相故。祕密主諸法無相。謂虚空相。」<ref>SATデータベース T0848_.00.0001b29~1c05</ref>}}。
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=== 発菩提心 ===
{{出典の明記|date=2017年7月13日 (木) 12:10 (UTC)|section=1}}
発菩提心(ほつぼだいしん)とは、菩提を求める心を発(おこ)すこと。{{要出典範囲|本来は菩薩[[十地]]の初地を端緒とするもので、[[エクスタシー|法悦体験]]などから仏法を求めたり、成仏を願う心を発すことを発心(ほっしん)として区別する。発心[[得度]]の記述は[[古典]][[文学]]や[[日記]]によくみられる。|date=2017年7月21日 (金)}}
 
=== 菩提を弔う ===
日本では、死者の冥福を祈ることを俗に「菩提を弔う」という<ref{{efn|『ブリタニカ・オンライン・ジャパン[https://www.britannica.co.jp/online/bolj/ URL] name="ib923"小項目事典』によれば、菩提とは「サンスクリット語 />bodhiの音写で,智,道,覚と訳される亡者が[[仏陀の悟り,完全な開悟,涅槃]]または良い[[転生]]の境地果たよう生者が[[供養]]([[回向]])する智慧のこと{{要出典|date=2017年7月7日 (金) 02:41 (UTC)|title=}}で,そこでは煩悩は断たれているしたがって俗に冥福を祈る」よりあとにの意味でも用いられる{{要出典|date=2017年7月7日 (金) 02:41 (UTC)|title=ようになった。」}}。
 
=== 菩提寺 ===