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[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]([[5月3日]])、勝家は[[前田利家]]、[[佐久間盛政]]らと共におよそ3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。一益が篭る長島城を包囲していた秀吉は[[織田信雄]]と[[蒲生氏郷]]の1万強の軍勢を伊勢に残し、[[3月19日 (旧暦)|3月19日]]([[5月10日]])には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した(遺構がある程度現在も残る)。また、丹羽長秀も勝家の西進に備え海津と敦賀に兵を出したため、戦線は膠着し、[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]([[5月18日]])秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備えた。秀吉から秀長に「(自軍の)砦周囲の小屋は[[前野長康]]、[[黒田孝高|黒田官兵衛]]、木村隼人の部隊が手伝って壊すべきこと」と3月30日付けの書状が送られたが、この命令は実行されていない<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20130511k0000m040028000c.html 賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見](毎日新聞2013年5月10日)</ref>。
 
=== 美濃返し ===
[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]([[6月6日]])、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、[[岐阜城]]下へ進出した。ここに来て近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられることになった秀吉は翌[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]([[6月7日]])美濃に進軍するも、[[揖斐川]]の氾濫により[[大垣城]]に入った。秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・[[佐久間盛政]]の意見具申もあり、[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]([[6月9日]])、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは[[中川清秀]]であったが、耐え切れず陥落、清秀は討死。続いて[[黒田孝高]]の部隊が盛政の攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。盛政はさらに岩崎山に陣取っていた[[高山右近]]を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の[[豊臣秀長|羽柴秀長]]の陣所に逃れた。この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず何故か盛政はこれに従おうとせず、前線に軍勢を置きつづけた。
 
[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]([[6月10日]])、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、[[桑山重晴]]も撤退を開始する。これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。しかしその頃、時を同じくして船によって[[琵琶湖]]を渡っていた[[丹羽長秀]]が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他にないと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる2,000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功する。
 
さらに同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。これを[[美濃大返し]]といい、14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52キロの距離をわずか5時間で移動した<ref>この急激な行軍速度を成功させた理由については諸説あるが、『[[川角太閤記]]』の「近辺の百姓に命じてあらかじめ沿道に[[松明]]を点けさせ、握り飯を用意させていた」という説が採用される場合が多い。</ref> 秀吉軍が戻って来ることを佐久間側も知っていたが、その軍行の速さを知ったとき「秀吉が、いかに[[天魔]]であるとはいえ、まだ戻って来るまい」といい非常に驚いたという。佐久間盛政は、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲されたが奮闘。盛政軍の本体を直接は落とせないと判断した秀吉は柴田勝政(盛政の実弟)に攻撃対象を変更、この勝政を盛政が救援するかたちで、両軍は激戦となった。
 
ところがこの激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。理由は諸説あるが、秀吉とは[[織田信長|信長]]の部下時代からの親友であったが、一方で[[柴田勝家|勝家]]とは一貫して主従関係にあったこと、この相関関係に耐えきれなかったというのが一番有力な説である。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は総崩れし、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。