「ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)」の版間の差分

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|画像 = George Curzon2.jpg
|画像説明 = インド総督在任中のカーゾン卿
|国略称 ={{GBR3}}
|生年月日 =[[1859年]][[1月11日]]
|出生地 = {{GBR3}}・[[ダービーシャー]]・{{仮リンク|ケドルストン|en|Kedleston}}・{{仮リンク|ケドルストン・ホール|en|Kedleston Hall}}
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=== 出自と生い立ち ===
[[File:Curzon-at-eton-2.jpg|180px|thumb|left|イートン校学生時代のカーゾン]]
[[1859年]][[1月11日]]に[[ダービーシャー]]・{{仮リンク|ケドルストン|en|Kedleston}}の{{仮リンク|ケドルストン・ホール|en|Kedleston Hall}}で生まれた。ケドルストンの[[イングランド国教会|国教会]]教区牧師を務める第4代[[スカーズデール男爵]][[アーサー・カーゾン (第4代スカーズデール男爵)|アーサー・カーゾン]](1831年 – 1916年)とその妻ブランチ・センハウス(1837年 – 1875年)の間に生れた11人の子供のうちの長男、第2子であった。母ブランシュはカンバーランド、ネザーホールのジョゼフ・ポックリントン・センハウスの娘であった<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url=http://www.thepeerage.com/p5356.htm#i53558|title=George Nathaniel Curzon, 1st and last Marquess Curzon of Kedleston|accessdate= 2016-3-2 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP MC">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/curzonked1921.htm|title=Curzon of Kedleston, Marquess (UK, 1921 - 1925)|accessdate= 2016-3-2 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
 
カーゾン家は、12世紀からケドルストンに住んでおり、代々同地の地主・国教会教区牧師として君臨してきたが、特筆されるような業績を上げた先祖はなかった{{sfn|モリス|2010| p=152}}。
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[[1885年]]に[[イギリスの首相|首相]]第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ロバート・ガスコイン=セシル]]の私設秘書代理となり、翌[[1886年]]には[[ランカシャー]]南西部{{仮リンク|サウスポート選挙区|en|Southport (UK Parliament constituency)}}選出の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に当選した<ref name="thepeerage.com"/><ref name="CP MC"/>。
 
政界入り直後のカーゾンは世界中を旅行した。[[1887年]]から[[1888年]]の最初の旅行では、英自治領[[カナダ]]から[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[日本]]<ref name="japan">[https://archive.org/stream/problemsoffareas00curziala#page/n39/mode/2up Problems of the Far East:Japan-Korea-China]自著、London : Longmans, Green, and co.、1894年、p15</ref>、[[清]]、[[英領香港]]、{{仮リンク|英領シンガポール|en|British Singapore}}、[[セイロン島]]、[[英領インド]]などをめぐった。[[1888年]]から[[1889年]]の二回目の旅行では[[ロシア帝国|ロシア]]とロシア領[[中央アジア]]を巡った。[[1889年]]から[[1890年]]の三回目の旅行では[[ガージャール朝|ペルシア]]を訪問している{{sfn|浜渦哲雄|1999| p=150}}。
 
三回目の旅行を終えた後の[[1891年]]から[[1892年]]にかけて{{仮リンク|インド担当省政務次官|en|Under-Secretary of State for India}}を務めた<ref name="thepeerage.com"/><ref name="CP MC"/>
 
[[1892年]]に4度目の旅行に出、アメリカ、日本<ref name="japan"/>、清、[[李氏朝鮮|朝鮮]]、[[タイ王国|シャム]]、[[フランス領インドシナ]]などを巡った。[[1894年]]の五度目の旅行では[[バーラクザイ朝|アフガニスタン]]を訪問した{{sfn|浜渦哲雄|1999| p=150-151}}。
 
これらの体験をもとに中央アジア、東アジアについて著した数冊の書物を出版した{{sfn|浜渦哲雄|1999| p=151}}。とりわけ[[1889年]]の『中央アジアにおけるロシア』、[[1892年]]の『ペルシアとペルシア問題』、[[1894年]]の『極東の諸問題』の三冊が著名である<ref name="世界">[[#世界|世界伝記大事典世界編3巻]] 1980, p.71</ref>。
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この功績で[[1895年]]には[[王立地理学会|王立地理協会]]の[[金メダル (王立地理学会)|金メダル(パトロンズ・メダル)]]を受賞した<ref name="thepeerage.com"/>。
 
=== 外務省政務次官 (1895(1895年-1898年) ===
[[ファイル:Li Hung Chang, Lord Salisbury, Lord Curzon.jpg|thumb|180px|左から英首相第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ロバート・ガスコイン=セシル]]、訪英中の[[清]]の[[李鴻章]]、外務政務次官カーゾン]]
[[1895年]]から[[1898年]]までは{{仮リンク|外務政務次官 (イギリス)|label=外務政務次官|en|Under-Secretary of State for Foreign Affairs}}を務めた<ref name="thepeerage.com"/><ref name="CP MC"/>。当時の外務大臣は首相であるソールズベリー侯の兼任だったので実質的には外務大臣代行的な立場であった{{sfn|浜渦哲雄|1999| p=150}}。この就任に際して[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]にも列している<ref name="thepeerage.com"/>。
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[[1895年]]にはアメリカ合衆国、[[シカゴ]]の富豪の娘{{仮リンク|メアリー・カーゾン (カーゾン・オブ・ケドルストン男爵夫人)|label=メアリー・ヴィクトリア・レイター|en|Mary Curzon, Baroness Curzon of Kedleston}}と結婚した{{sfn|浜渦哲雄|1999| p=151}}。
 
=== インド総督兼副王 (1899(1899年-1905年)===
[[File:Curzon-Sanchi.jpg|thumb|250px|1899年、インド総督カーゾン卿とその妻メアリーを先頭にした総督府高官たちの[[ゾウ]]の行列]]
[[1898年]]8月に[[インド総督|インド総督兼副王]]に任じられ{{sfn|浜渦哲雄|1999| p=152}}、同年11月には[[アイルランド貴族]]爵位'''ケドルストンのカーゾン男爵'''に叙された<ref name="CP MC"/><ref name="thepeerage.com"/>。この爵位はアイルランド貴族の爵位(アイルランド貴族最後の授爵例)であったため、父の死によってスカースデール男爵位(グレートブリテン貴族)を継承するまでは、イギリスに帰国した場合、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]に復帰することも可能であった{{sfn|浜渦哲雄|1999| p=152}}。
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[[1911年]]11月にいずれもダービー郡の地名に由来する'''レーヴェンスデール男爵'''、'''スカースデール子爵'''、'''ケドルストンのカーゾン伯爵'''(いずれも[[連合王国貴族]])に授爵された。このうちレーヴェンスデール男爵位には娘たちとその直系男系男子への継承を、スカースデール子爵位にはカーゾンの父とその直系男系男子への継承を認める特別規定が、それぞれ定められていた(伯爵位は通常通りカーゾン自身の直系男系男子のみが継承可能)<ref name="CP MC"/><ref name="thepeerage.com"/>。
 
=== 第一次世界大戦 (1914(1914年-1918年) ===
[[File:George Curzon1.jpg|180px|thumb|[[1914年]]に描かれたカーゾン伯の肖像画([[ジョン・シンガー・サージェント]]画)]]
第一次世界大戦が勃発すると野党統一党(保守党)所属ながら、[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]自由党政権への参加を希望した。しかしこの時点では断られた。この際にカーゾン伯は「39歳で三億人を支配した男が、55歳で国家存亡の危機に何も期待されないとは」と嘆いた{{sfn|浜渦哲雄|1999| p=159}}。
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[[1917年]]には[[アラバマ]]出身の裕福な未亡人{{仮リンク|グレース・カーゾン (カーゾン・オブ・ケドルストン侯爵夫人)|label=グレース・エルヴィナ・ハインズ|en|Grace Curzon, Marchioness Curzon of Kedleston}}と再婚した。同年[[イースト・サセックス]]の[[ボディアム城]]を購入。14世紀に建てられたこの城は、[[イングランド内戦]]の時期に内部が全焼していた。彼はボディアム城に大規模な改修を施し、城を[[ナショナル・トラスト]]に遺贈している<ref name="bodiam-c42">Channel 4 history microsites: [http://www.channel4.com/history/microsites/C/castle/bod_main.html Bodiam Castle]</ref>。
 
=== 外務大臣 (1919(1919年-1924年) ===
[[File:Curzon-Supreme-Council.jpg|250pc|thumb|1921年9月の{{仮リンク|連合軍最高戦争会議|en|Supreme War Council}}。左からイギリスのカーゾン侯、[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]、[[フランス第三共和政|フランス]]の[[アリスティード・ブリアン|ブリアン]]、[[イタリア王国|イタリア]]の[[イヴァノエ・ボノーミ|ボノーミ]]、{{仮リンク|ピエトロ・トマシ・デッラ・トッリッタ|label=デッラ・トッリッタ侯爵|it|Pietro Tomasi della Torretta}}、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の{{仮リンク|ジョージ・ブリトン ・マクレラン・ハーヴェイ|label=ハーヴェイ|en|George Brinton McClellan Harvey}}、[[日本]]のハガシ男爵、[[石井菊次郎]]子爵]]
戦後の1919年10月にロイド・ジョージ内閣の外務大臣に任じられた。カーゾンは首相ロイド・ジョージに軽んじられていた。一次大戦後の一連の国際会議はほとんどロイド・ジョージ自らが出席し、外相カーゾンには従属的地位が押し付けられた{{sfn|クラーク|2004| p=96}}。首相は彼を尊大でうぬぼれが強いと思っており、首相のカーゾンに対する扱い方は、まるでロールス・ロイスに駅へ小包を届けさせるような具合である、と言われていた。ロイド・ジョージはずっと後になって、自分の閣僚に対する扱いは[[ウィンストン・チャーチル]]のそれとはまるで違う、と述べた際に以下のように発言している、「私の閣僚たちは皆重んじられていた、カーゾン以外は」{{sfn|Foot|1963| p=}}。しかしこの首相に従属的という立場は後の英国外務大臣たちの先例となる役割だった{{sfn|クラーク|2004| p=96}}。
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1922年から1923年にかけては、ドイツの賠償金支払いを求めてフランス軍が[[ルール地方|ルール]]を占領した件でドイツとフランスの仲介を行って両国の緊張緩和に努めた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=182}}<ref name="世界"/>。
 
=== 首相になり損ねる (1923(1923) ===
[[File:Curzon-with-baldwin.jpg|180px|thumb|1924年1月の首相[[スタンリー・ボールドウィン|ボールドウィン]](左)と外相カーゾン侯(右)]]
[[1923年]]5月に喉頭癌を患ったボナー・ローが首相を引退した時、カーゾン侯は後任候補二人のうち一人に挙げられた。カーゾン侯以外のもう一人は党内で急速に昇進していた大蔵大臣[[スタンリー・ボールドウィン|ボールドウィン]]である{{sfn|坂井秀夫|1974| p=34}}。家柄や政治経験の面ではカーゾン侯の方が圧倒的に上だが、カーゾン侯は庶民院議員ではなく貴族院議員であり、しかも反民主的な貴族主義者で知られていた{{sfn|ブレイク|1979| p=248}}。一方平民出身の庶民院議員ボールドウィンは庶民院保守党陣笠議員の支持を集めており、[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]の金融資本家や貿易業界からも信頼されていた{{sfn|坂井秀夫|1974| p=34}}。
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*'''ダービー州におけるケドルストンのケドルストンの初代カーゾン男爵'''
*:<small>(1st Baron Curzon of Kedleston, of Kedleston in the County of Derby)</small>
*:([[特許状|勅許状]]による[[アイルランド貴族]]爵位)
 
[[1911年]][[11月2日]]に以下の爵位を新規に叙された<ref name="CP VS">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/scarsdale1911.htm|title=Scarsdale, Viscount (UK, 1911)|accessdate= 2016-3-2 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref name="thepeerage.com"/><ref>{{London Gazette|issue=28547 |date=3 November 1911 |startpage=7951 }}</ref>。
 
*'''ダービー州におけるケドルストンのケドルストンの初代カーゾン伯爵'''
*:<small>(1st Earl Curzon of Kedleston, of Kedleston in the County of Derby)</small>
*:(勅許状による[[連合王国貴族]]爵位)
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*:([[1761年]][[4月9日]]の勅許状による[[グレートブリテン貴族]]爵位)
*'''(ダービー州におけるケドルストンの)第9代準男爵'''
*:<small>(9th(9th Baronet, "of Kedleston, co. Derby")</small>
*:(1641年8月11日の勅許状によるイングランド準男爵位)
*'''(ダービー州におけるケドルストンの)第9代準男爵'''
*:<small>(9th(9th Baronet, "of Kedleston, co. Derby")</small>
*:(1636年6月18日の勅許状による[[ノヴァスコシア]]準男爵位)
 
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== 脚注 ==
{{reflistReflist|30em}}
 
== 著作 ==
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{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:かあそんこうしやく けとるすとん かあそん しよおし なさにえる}}
[[Category:イギリスの外務大臣]]