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'''鉄砲伝来'''(てっぽうでんらい)とは、[[16世紀]]に[[ヨーロッパ]]から[[東アジア]]へ[[火縄銃]]型の[[銃|(鉄砲]]、鐵炮)が伝わったこと、狭義には[[日本]]の[[種子島]]に伝来した事件を指す。鉄砲現物の火縄銃のほか、その製造技術や射撃法なども伝わった。年代については1542年説1543年説やそれ以前とするなど諸説ある。
 
== 種子島への鉄砲伝来 ==
「鉄砲」とは日本においてはじめは[[火縄銃]]をさす言葉として使われ、後に[[小銃]]から[[大砲]]まで火器一般を意味する名称となった。
 
== 種子島以前 ==
=== 天文以前東アジア式火器伝来説 ===
種子島以前の鉄砲伝来については[[長沼賢海]]の鉄砲研究をはじめ、諸説ある。長沼は『日本文化史之研究』(教育研究会、1937年)をはじめとする重要な研究を残したが、現在[[九州大学]]に保存される蒐集史料(写本)「神器秘訣」「菅流大蜂窼」「鳥銃記」「異艟舩法火攻泉之巻」といった砲術書の研究は今後の課題である<ref name="araki">荒木和憲「九州帝国大学教授長沼賢海氏の「鉄砲」研究―九州大学九州文化史研究所所蔵「長沼文庫」の紹介をかねて―」[http://www.l.u-tokyo.ac.jp/maritime/newsletter/20060117sympo.html 文部科学省特定領域研究:東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成 第9回講演会「火器技術から見た海域アジア」、九州大学、2006年]</ref>。
 
長沼は海外文化の「消化」「征服」を「国民性」「民族性」とする日本人が積極的に鉄砲を導入しなかったはずがないという前提のもとに、火薬の爆発力で何らかの物体をとばす器械をすべて「鉄砲」とみなしたうえで(鉄砲=小銃とする一般的理解とは異なる)、「天文以前」(1543年以前)に中国―琉球ルートおよび朝鮮ルートで中国式銃・朝鮮式銃が伝来したことを主張した。また、「鉄砲記」の記述の信頼性を批判し、西洋式小銃の伝来経路が種子島だけではないことを主張した。長沼のこうした見解には批判もあったが、「天文以前東アジア式火器伝来説」には支持者もいる<ref>[[春名徹]]ら。</ref>。
 
東アジアから[[東南アジア]]において、15世紀には中国の[[明]]が[[海禁]]政策を行い、また日本の[[室町幕府]]との[[日明貿易]](勘合貿易)が途絶した事などにより[[倭寇]](後期倭寇)による私貿易、密貿易が活発になっていた。日本や[[琉球王国]]においても原始的な火器は使用されていて、火器は倭寇勢力等により日本へも持ち込まれていた可能性を指摘するむきも多い。
 
ほかにも、鉄砲の伝来は、初期の火縄銃の形式が[[東南アジア]]の加圧式火鋏を持った[[鳥銃]]に似ている事や東南アジアにおいても先行して火縄銃が使われていた事などから、種子島への鉄砲伝来に代表されるようなヨーロッパからの直接経由でなく倭寇などの密貿易によって東南アジア方面から持ち込まれたとする[[宇田川武久]]らの説がある<ref>[[宇田川武久]]『真説鉄砲伝来』平凡社、2006年</ref>。しかし欧米や日本の研究者の中には、欧州の瞬発式メカが日本に伝えられて改良発展したものが、[[オランダ]]によって日本から買い付けられて東南アジアに輸出され、それらが手本となって日本式の機構が東南アジアに広まったとする説をとる者も少なくなく、宇田川説を否定的にみる意見も多い。
 
=== 多重伝播説 ===
また、荒木和憲は、「鉄砲伝来の「第一波」が1542年または1543年の種子島へのマラッカ銃(アルケブス銃)の伝来であることはたしかであるが、そのあとに「第二波」「第三波」・・・がそのほかの地域(とくに九州地方)におしよせたのではないか。たしかに種子島へのマラッカ銃の伝来とその国産化があたえた歴史的なインパクトとはくらべるべくもないのであるが、さまざまな種類の銃がたんなる商品の輸入というかたちで伝来していた可能性はある」との見解を提出している<ref name="araki" />。
 
=== 東アジアにおける「火器の時代」説 ===
[[カリフォルニア州立大学]]の孫来臣 (Laichen Sun) は、およそ1390年から1683年にかけて、東アジアで「火器の時代」があったことを論じている。火器の時代が始まったとされる1390年には、中国の火器技術はすでに朝鮮や、東南アジア北部に伝播し、また[[鄭和]]の遠征により、東南アジア海域部にも拡散したという。アジアにおける中国による最初の火器技術の波は、改良されたヨーロッパの火器技術がアジアに広がり、ヨーロッパによる第二の技術波及が始まった、16世紀初頭まで続いた。この時代には、中国由来の火器がアジア史において重要な役割をはたし、全般的な趨勢としては、大陸アジア(中国・朝鮮・東南アジア北部)が、海洋アジア(日本・台湾・チャンパ・東南アジア海域部)を押さえ込んでいた。
 
16世紀の第二の波において、ヨーロッパ人(ポルトガル人・オランダ人・スペイン人)の到来によって、先進的な火器技術が普及、この時期には、海域アジア(低地ビルマ・アユタヤ・コーチシナ・南ヴェトナム・台湾・日本)が、大陸アジア(アッサム・東南アジア北部・明清中国・朝鮮)に挑戦し、第一の時期の趨勢を逆転させていたとする<ref>Laichen Sun「東部アジアにおける火器の時代:1396-1683」[http://www.l.u-tokyo.ac.jp/maritime/newsletter/20060117sympo.html 文部科学省特定領域研究:東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成 第9回講演会「火器技術から見た海域アジア史」、九州大学、2006年]</ref>。
 
== 種子島への鉄砲伝来 ==
[[ファイル:Tanegashima Tokitaka.JPG|thumb|upright|[[種子島時堯]]の像([[西之表市]])]]
== =『鉄炮記』について・そ内容===
『[[鉄炮記]]』によれば、種子島への鉄炮伝来は天文12年8月25日(1543年9月23日)の出来事で、大隅国は種子島の西村の小浦に漂着した中国船に乗っていた[[王直|五峯]]と名乗る[[明]]の[[儒生]]が[[西村織部丞時貫]]と筆談で通訳を行う。同乗していた[[南蛮種]]の[[賈胡]](「牟良叔舎」(フランシスコ)、「喜利志多佗孟太」(キリシタダモッタ))の2人が、鉄炮の実演を行い種子島の島主・種子島時堯がそのうち2挺を購入し、刀鍛冶の八板金兵衛らに命じて複製を研究させた。
{{See also|鉄炮記|門倉崎}}
『[[鉄炮記]]』によれば、[[天文 (元号)|天文]]12年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]([[1543年]][[9月23日]])、[[大隅国]]の種子島、西村に一艘の船が漂着した。100人余りの乗客の誰とも言葉が通じなかったが、[[西村時貫]](織部丞)はこの船に乗っていた[[明]]の[[儒者]]・五峯と筆談してある程度の事情がわかったので、この船を領主[[種子島時堯]]の居城がある[[赤尾木]]まで曳航するように取り計らった。
 
この船は8月27日(9月25日)に赤尾木に入港し、時堯が改めて[[法華宗]]の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせたところ、この船に商人の代表者は2人いて、それぞれ牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタダモッタ)という名だった。時堯は2人が実演した火縄銃2丁を買い求め、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。
その頃種子島に在島していた堺の[[橘屋又三郎]]と、紀州・根来寺の僧・[[津田算長]]が本土へ持ち帰り、さらには[[足利将軍家]]にも献上されたことなどから、鉄砲製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられた。(ただし、アントニオ=ガルバンの『諸国新旧発見記』(1563年)によれば「1542年、アントニオ・ダ・モッタ({{Pt|Antonio da mota}})、フランシスコ・ゼイモト({{Pt|Francisco Zeimot}}) 、アントニオ・ペイショット({{Pt|Antonio Pexoto}})の3人がシャム(タイ)から寧波または双嶼へ向かう途中で嵐に遭遇し、種子島に漂着したという。)
やがて[[鉄砲鍛冶]]が成立し、戦場における新兵器として火器が導入され、日本の[[天下統一]]を左右することになる。後に[[徳川家康]]による覇権の成立後、日本は武器輸出を禁止した。
 
時堯が鉄砲の技術に習熟したころ、[[紀伊国]][[根来寺]]の杉坊([[杉之坊照算]])もこの銃を求めたので、[[津田監物]]に1丁持たせて送り出した。さらに残った1丁を複製するべく金兵衛尉清定ら[[刀鍛冶]]を集め、新たに数十丁を作った。また、[[堺]]からは[[橘屋又三郎]]が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1、2年で殆どを学び取った。
伝来当初は[[猟銃]]としてであったがすぐに戦場で用いられ、当時の鉄砲は[[マッチロック式]]であり、[[火縄銃]]と呼ばれた。やがて[[早合]]と呼ばれる弾と[[火薬]]を一体化させる工夫がなされ、すぐに[[装填]]できるよう改良された。実戦での最初の使用は、[[薩摩国]]の[[島津氏]]家臣の[[伊集院忠朗]]による大隅国の[[加治木城]]攻めであるとされる。
 
なお、筆談相手となった明の儒者・[[五峰|五峯]]は、このころ日本の[[平戸]]や[[五島列島]]を拠点に活動していた[[倭寇]]の頭領である[[王直]]の号と同じである。
遅くとも[[1549年]](天文18年)までに、種子島の[[本源寺 (西之表市)|本源寺]]から[[堺]]の[[顕本寺 (堺市)|顕本寺]]に鉄砲が届けられており、当時、[[足利幕府]]の[[管領]]だった[[細川晴元]]が、鉄砲献上に対する礼状を、両寺を仲介した[[法華宗]]の総本山である[[本能寺]]に宛てて出している(『本能寺文書』)<ref>天野忠幸, 「大阪湾の港湾都市と三好政権 ―― 法華宗を媒介に」, 都市文化研究 4号, 2004年</ref>。さらに、『[[言継卿記]]』の天文19年7月14日([[1550年]][[8月26日]])には、京の[[東山 (京都府)|東山]]で行われた細川晴元と[[三好長慶]]の戦闘([[中尾城の戦い]])で、銃撃により三好側に戦死者が出たことが記されている。{{Quotation|從[[一条通|一條]]至[[五条通|五條]]取出、[[細川晴元|細川右京兆]]人數[[足軽|足輕]]百人計出合、[[野伏]]有之、[[三好長虎|きう介]][[与力|與力]]一人鐵○に當死、云々}}
 
===外国の記録と年代の整合性===
[[九州]]や[[中国地方]]の[[戦国大名]]から、やがて天下統一事業を推進していた[[尾張国]]の[[織田信長]]が[[1575年]](天正3年)に[[武田氏#甲斐武田氏|甲斐武田氏]]との[[長篠の戦い]]をはじめとする戦で、鉄砲を有効活用した(現在では、「織田軍は実際は千丁程度しか鉄砲を所持していなかった。故に長篠の戦いでは鉄砲ではなくその他の要因により武田軍に勝利した」とする説がある)とされ、鉄砲が戦争における主力兵器として活用される[[軍事革命]]が起こる。
一方、{{仮リンク|アントニオ・ガルヴァオ|en|António Galvão}}の著した『新旧世界発見記({{Lang-pt-short|Tratado dos Descobrimentos, antigos e modernos}})』には、『鉄炮記』の記述の前年にあたる[[1542年]]に、ダ・モッタとフランシスコが日本に漂着した旨の記述がある。
{{quotation|No anno de 1542 achandose Diogo de freytas no Reyno de Syam na cidade Dodra capitam de hũ nauio, lhe fogiram tres Portugueses em hũ junco q' hia pera a China, chamauãse Antonio da mota, Francisco zeimoto, & Antonio pexoto. Hindo se caminho p'a tomar porto na cidade de Liampo, q' está em trinta & tãtos graos daltura, lhe deu tal tormenta aa popa, q' os apartou da terra, & em poucos dias ao Leuãte viram hũa ylha em trinta & dous graos, a q' chamam os Japoes, que parecem ser aquelas Sipangas de que tanto falam as escripturas, & suas riquezas: & assi estas tambem tem ouro, & muyta prata, & outras riquezas.
 
西暦1542年、[[シャム]]王国のドドラに停泊していた船の船長・ディエゴ・デ・フレイタスの下から3人のポルトガル人が脱走し、[[ジャンク船]]で中国へと出航した。3人の名はアントニオ・ダ・モッタ、フランシスコ・ゼイモトとアントニオ・ぺソトで、北緯30度あたりにある[[寧波]]に進路を取った。しかし、嵐に見舞われ陸から離れてしまったところ、北緯32度で東に島を見つけた。その名は日本であり、まさに物語で語られる富貴の島[[ジパング]]そのものであるらしく、金銀と豪華なものが溢れていた。|António Galvão<ref>{{Cite web |url= https://archive.org/details/discoveriesofwor00galvrich|title= The discoveries of the world, from their first original unto the year of Our Lord 1555|accessdate=2017-10-25}}</ref>}}
== 『鉄炮記』について・その他 ==
鉄炮記(てっぽうき、鐵炮記)は、江戸時代の1606年(慶長11年)に[[種子島久時 (16代)|種子島久時]]が薩摩国[[内城|大竜寺]]の禅僧・[[南浦文之|南浦文之(玄昌)]]に編纂させた鉄砲伝来に関わる歴史書である。
『鉄炮記』には「[[天文 (元号)|天文]][[癸卯]]」(1543年)と記されているが、一方でポルトガル側の史料には鉄砲の伝来を記さないものや、[[イエズス会]]の『日本教会史』には[[1542年]](天文11年)の出来事、[[フェルナン・メンデス・ピント]]の『東洋遍歴記』には[[1545年]](天文14年)の出来事であると記されているなど年代には諸説が存在する。また、『鉄炮記』に「五峰」と記されている人物は、日本の[[平戸市|平戸]]や[[五島列島]]を拠点に活動していた倭寇の頭領である[[王直]]の号と同じであり、またポルトガル史料には[[ジャンク (船)|ジャンク船]]であったと記されていることなどから同一人物であるとも考えられている。
 
このほか、[[ジョアン・ロドリゲス]]の『日本教会史』にも[[1542年]]、[[フェルナン・メンデス・ピント]]の『東洋遍歴記』には[[1545年]]であると記されており、伝来に関して言及が見られる代表的な史料としては以下のものがある。
種子島氏に伝わる記録には、ポルトガル人により持ち込まれた鉄砲は[[明治]]の[[西南戦争]]の際に消失したとされる。また、国産第1号と伝わる鉄砲が存在している。
{| class="wikitable sortable" style="font-size: small"
 
== 鉄砲の記述 ==
『北条五代記』に、[[関八州]]に鉄炮はじまる事、という記述がある。ここでは、[[1510年]](永正7年)に唐(中国)から渡来したという。
 
{{Quotation|見しは昔、相州小田原に玉瀧坊と云て年よりたる山伏有。愚老若き頃、其山臥物 語せられしは、我関東より毎年大峯へのぼる。[[享禄]]はじまる年、[[和泉国|和泉]]の[[堺]]へ下りしに、あらけなく鳴物の声する、是は何事ぞやととへば、鉄炮と云物、唐国より永正七年に初て渡りたると云て、目当とてうつ。我是を見、扨も不思議奇特 成物かなとおもひ、此鉄炮を一挺買て、関東へ持て下り、屋形[[北条氏綱|氏綱]]公へ進上す。(中略)[[北条氏康|氏康]]時代、堺より国康といふ鉄炮張りの名人をよび下し給ひぬ。扨又根来法師に、杉房・二王坊・岸和田などといふ者下りて、関東をかけまはつて鉄炮ををしへしが、今見れば人毎に持し、と申されし}}
 
[[大久保忠教]]の『[[三河物語]]』では、[[松平清康]]が、[[熊谷実長]]が城へ押し寄せた際に、四方鉄砲を打ち込むと記載されている。[[1530年]](享禄3年)のこととされる。また、今川殿の名代として、[[北条早雲]]が松平方の西三河の[[岩津城]]を攻撃した際に、四方鉄砲を放つとある、出版社の欄外の解説には、この役は、[[1506年]](永正3年)のことで、鉄砲はこのときないとして、『鉄炮記』の記述を支持している。
 
== 鉄砲伝来諸説 ==
ヨーロッパでは、[[マルコ・ポーロ]]が『[[東方見聞録]]』で「黄金の国ジパング」という名で日本国の存在を伝えて以降、その未知の島は旧来のヨーロッパに伝わる宝島伝説と結び付けられ、多くの人の関心を惹きつけた。しかし、この東洋の未知の島はその後約250年に渡って未知の島であり続け、天文年間に[[ポルトガル人]]によってその発見が成されるまで、ヨーロッパで発行される世界地図や地球儀の太平洋上をあちらこちらへと浮動しながら描かれた<ref name="iwao">{{Cite book|和書|author=岩生成一|year=1966|title=日本の歴史14-鎖国|publisher=|isbn=4124002947|pages=p.6-16}}</ref>。
 
日本史上においては、鉄砲伝来は日本列島の発見とともに1543年という説が採られており、有力であるが決定的な史料が見つかっておらず、特定できていない<ref name="iwao" />。伝来に関して言及が見られる代表的な史料としては以下のものがある。
{| class="wikitable sortable"
|-
! 著者 !! 国 !! 著書 !! 言及年 !! 発行年
|-
| [[アントニオ・ガルヴォー]](António Galvão, 1536-1540年の[[マラッカ]]行政官) || ポルトガル || 『発見記』 || 1541年 || 1563年
|-
| [[フェルナン・メンデス・ピント]] || ポルトガル || 『遍歴物語』 || 1543年 - 1544年 || 1614年
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| [[ディエゴ・ド・コウト]] || ポルトガル || 『アジア誌』 || 1542年 || 1612年
|-
| [[ガルシア・デ・エスカランテ・アルバラード]] (García de Escalante Alvarado、イスパニア商人)|| スペイン || 『ビーリャロボス艦隊報告』 || 1542年 || 1548年
|-
| [[南浦文之]] || 日本 || 『[[鉄炮記]]』 || [[1543年]](天文12年)8月25日 || 1606年
|}
 
上記の他にも[[鄭瞬功]]が記した『日本一鑑』(1565年)や、[[ジャン・ピエトロ・マッフェイ]]が記した『中国情報』(1582年)など、複数の史料に、鉄砲伝来及び日本列島に関する言及が見られ、その年代は1541年から1544年の間とされている。これらの史料はいずれも発見の当事者ではなく、伝聞によって間接的に得た情報を元に後年になって記されたものであり、確定し得るものではないが、後年の歴史家によってさまざまな検証・考証がなされ、[[坪井九馬三]]が著書『鉄砲伝来考』(1892年)で『[[鉄炮記]]』の説を採用し、1946年に[[ゲオルグ・シュールハーメル]]らが『[[鉄炮記]]』説を支持したことから今日の1543年に落ち着いた<ref name="iwao" /><ref>[http://www.kufs.ac.jp/toshokan/bibl/bibl200/pdf/200-12.pdf 西欧人との出会い470 周年]東光博英、京都外国語大学図書館報『GAIDAI BIBLIOTHECA 』200号、4.10.2013</ref>。
 
===ポルトガルから伝来したことの意義===
現代において、この年代を見直す動きはあるものの、当時の欧州人の東アジア進出の速度を鑑みた場合、この時代に日本列島がヨーロッパ人によって発見されるのは必然であり、今後新しい史料によりその年代に差異が生じたとしても、それが近代史に与えた画期的意義に差異は生じないことなどから、大きな論争には至っていない<ref name="iwao" />。
ヨーロッパでは、[[マルコ・ポーロ]]が『[[東方見聞録]]』で「黄金の国ジパング」という名で日本国の存在を伝えて以降、その未知の島は旧来のヨーロッパに伝わる宝島伝説と結び付けられ、多くの人の関心を惹きつけた。しかし、この東洋の未知の島はその後約250年に渡って未知の島であり続け、天文年間に[[ポルトガル人]]によってその発見が成されるまで、ヨーロッパで発行される世界地図や地球儀の太平洋上をあちらこちらへと浮動しながら描かれた<ref name="iwao">{{Cite book|和書|author=岩生成一|year=1966|title=日本の歴史14-鎖国|publisher=|isbn=4124002947|pages=p.6-16}}</ref>。
 
16世紀の第二の波において、ヨーロッパ人(ポルトガル人・オランダ人・スペイン人)の到来によって、先進的な火器技術が普及、この時期には、海域アジア(低地ビルマ・アユタヤ・コーチシナ・南ヴェトナム・台湾・日本)が、大陸アジア(アッサム・東南アジア北部・明清中国・朝鮮)に挑戦し、第一の時期の趨勢を逆転させていたとする<ref>Laichen Sun「東部アジアにおける火器の時代:1396-1683」[http://www.l.u-tokyo.ac.jp/maritime/newsletter/20060117sympo.html 文部科学省特定領域研究:東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成 第9回講演会「火器技術から見た海域アジア史」、九州大学、2006年]</ref>。
 
日本史上においては、鉄砲伝来は日本列島の発見とともに1543年という説が採られており、有力であるが決定的な史料が見つかっておらず、特定できていない<ref name="iwao" />。現代において、この年代を見直す動きはあるものの、当時の欧州人の東アジア進出の速度を鑑みた場合、この時代に日本列島がヨーロッパ人によって発見されるのは必然であり、今後新しい史料によりその年代に差異が生じたとしても、それが近代史に与えた画期的意義に差異は生じないことなどから、大きな論争には至っていない<ref name="iwao" />。
 
=== 実戦での使用 ===
実戦での最初の使用は、[[薩摩国]]の[[島津氏]]家臣の[[伊集院忠朗]]による大隅国の[[加治木城]]攻めであるとされる。
 
遅くとも天文18年([[1549年]](天文18年)までに、種子島の[[本源寺 (西之表市)|本源寺]]から[[堺]]の[[顕本寺 (堺市)|顕本寺]]に鉄砲が届けられており、当時、[[足利幕府]]の[[管領]]だった[[細川晴元]]が、鉄砲献上に対する礼状を、両寺を仲介した[[法華宗]]の総本山である[[本能寺]]に宛てて出している(『本能寺文書』)<ref>天野忠幸, 「大阪湾の港湾都市と三好政権 ―― 法華宗を媒介に」, 都市文化研究 4号, 2004年</ref>。さらに、『[[言継卿記]]』の天文19年7月14日([[1550年]][[8月26日]])には、京の[[東山 (京都府)|東山]]で行われた細川晴元と[[三好長慶]]の戦闘([[中尾城の戦い]])で、銃撃により三好側に戦死者が出たことが記されている。{{Quotation|從[[一条通|一條]]至[[五条通|五條]]取出、[[細川晴元|細川右京兆]]人數[[足軽|足輕]]百人計出合、[[野伏]]有之、[[三好長虎|きう介]][[与力|與力]]一人鐵○に當死、云々}}
 
== 種子島以外に伝来していたとする説 ==
 
=== 天文以前東アジア式火器伝来説 ===
種子島以前の鉄砲伝来については[[長沼賢海]]の鉄砲研究をはじめ、諸説ある。長沼は『日本文化史之研究』(教育研究会、1937年)をはじめとする重要な研究を残したが、現在[[九州大学]]に保存される蒐集史料(写本)「神器秘訣」「菅流大蜂窼」「鳥銃記」「異艟舩法火攻泉之巻」といった砲術書の研究は今後の課題である<ref name="araki">荒木和憲「九州帝国大学教授長沼賢海氏の「鉄砲」研究―九州大学九州文化史研究所所蔵「長沼文庫」の紹介をかねて―」[http://www.l.u-tokyo.ac.jp/maritime/newsletter/20060117sympo.html 文部科学省特定領域研究:東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成 第9回講演会「火器技術から見た海域アジア」、九州大学、2006年]</ref>。
 
長沼は海外文化の「消化」「征服」を「国民性」「民族性」とする日本人が積極的に鉄砲を導入しなかったはずがないという前提のもとに、火薬の爆発力で何らかの物体をとばす器械をすべて「鉄砲」とみなしたうえで(鉄砲=小銃とする一般的理解とは異なる)、「天文以前」(1543年以前)に中国―琉球ルートおよび朝鮮ルートで中国式銃・朝鮮式銃が伝来したことを主張した。また、「鉄砲記」の記述の信頼性を批判し、西洋式小銃の伝来経路が種子島だけではないことを主張した。長沼のこうした見解には批判もあったが、「天文以前東アジア式火器伝来説」には支持者もいる<ref>[[春名徹]]ら。</ref>。
 
東アジアから[[東南アジア]]において、15世紀には中国の[[明]]が[[海禁]]政策を行い、また日本の[[室町幕府]]との[[日明貿易]](勘合貿易)が途絶した事などにより[[倭寇]](後期倭寇)による私貿易、密貿易が活発になっていた。日本や[[琉球王国]]においても原始的な火器は使用されていて、火器は倭寇勢力等により日本へも持ち込まれていた可能性を指摘するむきも多い。
 
ほかにも、鉄砲の伝来は、初期の火縄銃の形式が[[東南アジア]]の加圧式火鋏を持った[[鳥銃]]に似ている事や東南アジアにおいても先行して火縄銃が使われていた事などから、種子島への鉄砲伝来に代表されるようなヨーロッパからの直接経由でなく倭寇などの密貿易によって東南アジア方面から持ち込まれたとする[[宇田川武久]]らの説がある<ref>[[宇田川武久]]『真説鉄砲伝来』平凡社、2006年</ref>。しかし欧米や日本の研究者の中には、欧州の瞬発式メカが日本に伝えられて改良発展したものが、[[オランダ]]によって日本から買い付けられて東南アジアに輸出され、それらが手本となって日本式の機構が東南アジアに広まったとする説をとる者も少なくなく、宇田川説を否定的にみる意見も多い。
 
=== 多重伝播説 ===
また、荒木和憲は、「鉄砲伝来の「第一波」が1542年または1543年の種子島へのマラッカ銃(アルケブス銃)の伝来であることはたしかであるが、そのあとに「第二波」「第三波」・・・がそのほかの地域(とくに九州地方)におしよせたのではないか。たしかに種子島へのマラッカ銃の伝来とその国産化があたえた歴史的なインパクトとはくらべるべくもないのであるが、さまざまな種類の銃がたんなる商品の輸入というかたちで伝来していた可能性はある」との見解を提出している<ref name="araki" />。
 
=== 東アジアにおける「火器の時代」説 ===
[[カリフォルニア州立大学]]の孫来臣 (Laichen Sun) は、およそ1390年から1683年にかけて、東アジアで「火器の時代」があったことを論じている。火器の時代が始まったとされる1390年には、中国の火器技術はすでに朝鮮や、東南アジア北部に伝播し、また[[鄭和]]の遠征により、東南アジア海域部にも拡散したという。アジアにおける中国による最初の火器技術の波は、改良されたヨーロッパの火器技術がアジアに広がり、ヨーロッパによる第二の技術波及が始まった、16世紀初頭まで続いた。この時代には、中国由来の火器がアジア史において重要な役割をはたし、全般的な趨勢としては、大陸アジア(中国・朝鮮・東南アジア北部)が、海洋アジア(日本・台湾・チャンパ・東南アジア海域部)を押さえ込んでいた。
 
=== 軍記物 ===
『北条五代記』に、[[関八州]]に鉄炮はじまる事、という記述がある。ここでは、[[1510年]](永正7年)に唐(中国)から渡来したという。
 
{{Quotation|見しは昔、相州小田原に玉瀧坊と云て年よりたる山伏有。愚老若き頃、其山臥物 語せられしは、我関東より毎年大峯へのぼる。[[享禄]]はじまる年、[[和泉国|和泉]]の[[堺]]へ下りしに、あらけなく鳴物の声する、是は何事ぞやととへば、鉄炮と云物、唐国より永正七年に初て渡りたると云て、目当とてうつ。我是を見、扨も不思議奇特 成物かなとおもひ、此鉄炮を一挺買て、関東へ持て下り、屋形[[北条氏綱|氏綱]]公へ進上す。(中略)[[北条氏康|氏康]]時代、堺より国康といふ鉄炮張りの名人をよび下し給ひぬ。扨又根来法師に、杉房・二王坊・岸和田などといふ者下りて、関東をかけまはつて鉄炮ををしへしが、今見れば人毎に持し、と申されし}}
 
[[大久保忠教]]の『[[三河物語]]』では、[[松平清康]]が、[[熊谷実長]]が城へ押し寄せた際に、四方鉄砲を打ち込むと記載されている。[[1530年]](享禄3年)のこととされる。また、今川殿の名代として、[[北条早雲]]が松平方の西三河の[[岩津城]]を攻撃した際に、四方鉄砲を放つとある、出版社の欄外の解説には、この役は、[[1506年]](永正3年)のことで、鉄砲はこのときないとして、『鉄炮記』の記述を支持している。
 
== 脚注 ==