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'''川端 康成'''(かわばた やすなり、[[1899年]]([[明治]]32年)[[6月14日]] - [[1972年]]([[昭和]]47年)[[4月16日]])は、[[日本]]の[[小説家]]、[[文芸評論家]]。[[大正]]から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。[[大阪府]]出身。[[東京大学|東京帝国大学]][[国文学科]]卒業。
 
日本人として初の[[ノーベル文学賞]]を受賞。受賞講演では[[日本人]]の[[死生観]]や[[美意識]]を世界に紹介した<ref name="okubo">{{Harvnb|大久保|2003}}</ref>

== 概要 ==
大学時代に[[菊池寛]]に認められ[[文芸評論|文芸時評]]などで頭角を現した後、[[横光利一]]らと共に同人誌『[[文藝時代]]』を創刊。[[西ヨーロッパ|西欧]]の[[アバンギャルド|前衛]]文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「[[新感覚派]]」の作家として注目され、[[詩]]的、[[抒情]]的作品、[[浅草]]物、[[心霊主義|心霊]]・[[神秘]]的作品、[[少女小説]]など様々な手法や作風の変遷を見せて「[[奇術師]]」の異名を持った<ref name="jiten-m">[[原善]]「川端康成」({{Harvnb|三島事典|2000|pp=477-479}})</ref>。その後は、[[死]]や流転のうちに「日本の[[美]]」を表現した作品、[[連歌]]と前衛が融合した作品など、[[伝統]]美、[[魔界]]、[[幽玄]]、妖美な世界観を確立させ<ref name="jiten-m" /><ref name="harazen">{{Harvnb|原善|1987}}</ref>、人間の[[醜]]や[[悪]]も、非情や[[孤独]]も[[絶望]]も知り尽くした上で、美や[[愛]]への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた<ref name="taiyohatori">[[羽鳥徹哉]]「作家が愛した美、作家に愛された美―絶望を希望に転じ、生命の輝きを見出す」({{Harvnb|太陽|2009|pp=2-3}})</ref><ref name="bini10">羽鳥徹哉「川端文学の世界――美についての十章」({{Harvnb|太陽|2009|pp=7-42}})</ref>。日本人として初の[[ノーベル文学賞]]も受賞し、受賞講演で[[日本人]]の[[死生観]]や[[美意識]]を世界に紹介した<ref name="okubo">{{Harvnb|大久保|2003}}</ref>。
 
代表作は、『[[伊豆の踊子]]』『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』『[[雪国 (小説)|雪国]]』『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』『[[山の音]]』『[[眠れる美女]]』『[[古都 (小説)|古都]]』など。初期の小説や[[自伝]]的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明され、研究・追跡調査されている<ref name="kawashi3">「第三章 精神の傷あと―『みち子もの』と『伊豆の踊子』―」({{Harvnb|川嶋|1969|pp=65-111}})</ref><ref name="hasegawa">{{Harvnb|論考|1991}}</ref><ref name="kitei">{{Harvnb|基底|1979}}</ref>。
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#川端が[[日本ペンクラブ]]会長時に信頼を寄せた副会長だった[[芹沢光治良]]は、追悼記『川端康成の死』で、自殺ではなかったとする説を述べている<ref>[[芹沢光治良]]『人間の意志』(新潮社、1990年7月)</ref>。川端は、同年秋に開催の日本文化研究国際会議(日本ペンクラブ主催)の準備でも責任者として多忙であった。
 
== 家・親族 ==
各参考文献の家系図、年譜、経歴内の情報に拠る。
 
=== 祖先 ===
[[鎌倉幕府]]第2代[[執権]]・[[北条義時]]([[鎌倉幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]]・[[源頼朝]]の[[正室]]・[[北条政子]]の弟)、第3代執権・[[北条泰時]]の子孫で、泰時の孫(泰時の九男の子)・[[川端舎人助道政]]が川端家初代で康成は31代目に当たる700年続く家系である<ref name="tomie" /><ref name="juroku" /><ref name="keizu" /><ref name="kiteikakei" /><ref name="jijoden" />。
 
=== 親族 ===
;祖父・川端三八郎(庄屋、戸長、易学研究)
:[[天保]]12年([[1841年]])4月10日生{{refnest|group="注釈"|三八郎の生れ年に関しては、「幾歳幾月調」「明治八年十二月 国民軍取調誕生表」で調査すると、前年の天保11年(1840年)とあるため、こちらの年だという見解もある<ref name="sasagawa"/>。}} &ndash; 1914年(大正3年)5月25日没