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'''三宅島'''(みやけじま)は、[[伊豆諸島]]の[[島]]。'''雄山'''(おやま)を中心としてしばしば激しく[[噴火]]をすることで知られ、[[火山噴火予知連絡会]]によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている<ref>{{Cite web |url = http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/47volcanoes.pdf |title = 火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山|publisher = 気象庁|accessdate = 2016-02-25}}</ref>。また、[[日本]]の[[気象庁]]によって火山活動度ランクAの[[活火山]]、常時観測対象火山に指定されている。島の全域が[[富士箱根伊豆国立公園]]となっており、行政区画は島全体が[[東京都]][[三宅村]]に属する。
 
== 地理・地質 ==
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島は雄山を最高峰とする水深300 - 400mの海底からそびえるひとつの火山体で、[[玄武岩]]質の[[成層火山]]である。頂上部に直径約3.5kmの桑木平[[カルデラ]]と、その内側に3,000年前の八丁平噴火(噴出量0.37 DRE km{{sup|3}})の際に直径約1.6kmの八丁平カルデラが形成された。雄山はその中央火口丘であったが、2000年の噴火によって新たに直径約1.6kmのカルデラが形成され八丁平カルデラは消滅している。玄武岩質マグマ起源の[[溶岩]]は粘性が低いため[[溶岩流]]となり、過去何度か流下している。1983年には溶岩流が阿古地区の集落の約7割を焼失させた。このほか、山腹には[[割れ目噴火]]も発生しており、線上に並ぶ[[スコリア丘]]や、海岸付近ではマグマが海水と接して発生する[[マグマ水蒸気爆発]]による爆裂火口地形([[マール (火山)|マール]])がいくつも見られる。大路(たいろ)池がある古澪(ふるみお)、新澪(しんみお)池跡、三宅高校のある八重間などもマールの例である。新しい溶岩が海岸に達しなかった場所は切り立った海食崖が続いている。
 
1983年の測量では最高点の標高は814mだったが、2000年に始まった噴火によって、[[火口]]が500m以上陥没し、現在の最高点の標高は775775m<ref>{{Cite web |url=http://www.1mdata.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/320_Miyakejima/320_index.html |title=伊豆・小笠原諸島の活火山 - 三宅島 |publisher=[[気象庁]] |accessdate=2017-11-28}}</ref>となっている<!--775.1m<ref>出典 : [http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2004/0427-2.htm] {{リンク切れ|date=2016年3月}}</ref>-->。2007年には[[日本の地質百選]]に選定された。
 
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=== 2000年の噴火 ===
2000年に発生した噴火では、[[6月26日]]18:30過ぎから三宅島直下で激しい[[群発地震]]が始まった。この活動は1983年の噴火直前と酷似しているとして、19:33に気象庁噴火の恐れが高いとして判断、「緊急火山情報」を出し、翌27日朝までに坪田・三池・阿古・伊ヶ谷地区の住民が島の北部に避難したところが群発地震の震源は島の北西の海底へ移動[[6月27日]]9:00頃に島の阿古地区の西方約1kmの海上で海底噴火面変色発生し[[海上保安庁]]により確認されるにとどまった。
 
その後しかし地震活動は沈静化せず、三宅島西方海域で群発地震が発生し、震源域は時間とともにから西北西に移動。そして神津島近海に達し[[7月1日]]、16:00過ぎ、神津島付近一連の群発地震最大となるM6.4の地震が[[神津島]]近海で発生、神津島では震度6弱を観測記録、神津島付近の地震で死者1人、負傷者15人を出した。
 
一旦噴火の関心は神津島近海海底に集まるが海底噴山活動は沈静化し、一方で7月に入ものと雄山火口直下地震が[[7月4日]]から再び活発化した。[[7月8日]]18:4341に雄山で小規模な水蒸気爆発が発生灰色の少量の噴煙が島の東側に流れ、赤色の火山灰が降下した。この噴火で雄山ものは小規模だったものの、翌9日朝になって、山頂部にが陥没して直径約800mの巨大な陥没火口([[カルデラ]])ができていることが判明(雄山の山頂部がそのまま陥没し翌[[7月9日]]朝になっから確認されこれは三宅島でおよそ2,500年ぶりとなる前の八丁原カルデラ以来のカルデラ形成となった。その後も陥没は進み、カルデラは直径1.6km、カルデラ縁からの深さともは500m成長も達ていき、た。[[7月14日]]、[[7月15日|15日]]には再び水蒸気爆発起こしてり、島内に大量の火山灰降下させた。
 
[[8月10日]]朝6:30頃山頂の陥没口からついに[[マグマ水蒸気爆発]]とみられる噴火が発生、黒色の噴煙は上空6,000m以上に達した。その後の爆発は激しさを増してゆき[[8月18日・29日に]]の大規模噴火があり、18日のでは火の石を伴う噴煙上空15,000mに達し、小規模な[[火砕サージ]]、水蒸気が上空に達したことによる局地的な驟雨も発生し[[火山弾]]住宅地にも落下した[[8月29日]]早朝噴火では午前5:00過ぎの大規模噴火では低温の[[火砕流]]様の噴煙発生して火口の北北東の海岸部位置する神着地区、美茂井地区などを飲み込んで流下してまで岸に達した。この低温火砕流に住民が数名飲み込まれたが、低温だっことが幸いして死傷者は出なかった<ref>ただし、噴火前の神津島付近の地震で死者1人、負傷者15人が出ている。</ref>。また、{{Refnest|group=注|この時火砕流の中から様子を島民の女性がリアルタイムでインターネットの掲示板に状況を書き込んだ女性が一部で話題となった<ref>[http://www.miyakejima.net/0903/members/myaru20000903.html 死線を越えて]</ref>インターネット[[早川由紀夫]]氏の掲示板「[http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/news/2000/miyake/archives/chibabbs/ ある火山学者のひとりごと]『三宅島ファクト』 {{sfn|早川|2000|ref=hayakawa}}への書き込み)</ref>)に書き込んでおり更に話題となった。火砕流内の温度は40℃程度だったと見られている。}}。この噴火では6:00過ぎには火口から反対側の南西方向にある村営牧場にも火砕流が到達している。更に雨による泥流も頻発した。これらの火山弾の被害や「火砕流発生」の報道などが全島避難という決断を後押しした。小規模な噴火はその後も断続的に発生する。この間の噴出物の総量は約1,100万m<sup>3</sup>と推定されており、[[御蔵島]]だけでなく100km以上離れている[[八丈島]]でも降灰が確認されている
 
小規模な噴火はその後も断続的に発生する。この間の噴出物の総量は約1,100万m<sup>3</sup>と推定されており、[[御蔵島]]だけでなく100km以上離れている[[八丈島]]でも降灰が確認されている。
この噴火は、世界でも類を見ないほど大量の[[火山ガス]]が放出されているところにも大きな特徴がある。8月中旬から三宅島から離れた関東地方でも[[刺激臭]]がするという報告が入り、9月に入ってからは徐々に[[二酸化硫黄]]の放出が増加。1日あたり5万トンにも達した。その後は放出量が減少していくものの、2010年現在においても数千トンもの放出が続いている。なお、日本において、人為的に発生する二酸化硫黄の量が、1日あたり約3,000トンとされている。
 
火山の噴火活動は18日のものをピークに収束していくが、カルデラに大きな火道が開いたことにより今度は大量の火山ガスの放出という噴気活動が始まった。8月中旬から三宅島から離れた関東地方でも[[刺激臭]]がするという報告が入るようになるが、9月に入ってからはさらに[[二酸化硫黄]]の放出が増加し、東京都は住民の全島避難を決定した(後述)。火山ガスの放出は多い日で1日あたり5万トンにも達した。この火山ガスの放出量は世界でも類を見ない。
==== 噴火と島民 ====
2000年の噴火によって、2000年[[9月2日]]から全島民が島外へ避難した。[[2005年]][[2月1日]]15:00に[[避難指示]]が解除された。しかし、雄山中腹にあった公共牧野は数mの火山灰が積もったままで、[[2011年]]に山頂周辺を除いて立ち入りと居住の制限は解除された。4年5ヶ月におよぶ避難生活によって、本州島内の東京都や伊豆諸島の他の島に生活基盤を移した人々も多かったが、2010年現在、約3,000名が帰島している。[[住民基本台帳]]によると、[[2007年]]1月時点での[[人口]]は約3,800人。
 
火山ガスの放出は[[2004年]]7月20日に観測されたのを最後1日あたり1万トンを下まわるようになり<ref name=kishocho1 />、翌年2月には全島避難が解除された(後述)。しかしその後も火山ガスの放出は継続し、[[2011年]]の半ばになってほぼ1日あたり1000トンを下回った。[[2013年]][[1月22日]]を最後に噴火活動は認められていない<ref name=kishocho2>{{Cite web |url=http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/volinfo/VJ20150605140011_320.html |title=火山名 三宅島 噴火予報:警報解除 |publisher=[[気象庁]] |accessdate=2017-11-28}}</ref>。ガスの放出も[[2016年]]夏以降は1日あたり数十トン以下の状態が続いている<ref name=kishocho1>{{Cite web |url=http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/320_Miyakejima/320_So2emission.htm |title=三宅島 火山ガス(二酸化硫黄)放出量 |publisher=[[気象庁]] |accessdate=2017-11-28}}</ref>。
噴火期間中、[[日本放送協会|NHK]]は[[2004年]]度分の1,280世帯、2,303万4,000円分の[[NHK受信料]]を免除した<ref>[http://www.bousai.go.jp/kohou/oshirase/pdf/hisaishiennichiran050614.pdf 三宅島噴火及び新島・神津島近海地震に対してとった措置]</ref>。
 
==== 噴火と島民 ====
8月18日の噴石の到来と29日の火砕流発生により島民から、すぐにもの島外避難の要望が村議会や都庁にも多く寄せられていたが、当時の[[石原慎太郎|石原都知事]]と[[火山噴火予知連絡会|火山噴火予知連]]との間で避難開始判断を譲り合う場面を多くのマスコミが報道した。2000年[[9月2日]]から全島民が島外へ避難を開始した。天皇皇后両陛下は恒例だった9月の[[葉山御用邸]]での静養を取りやめた。避難が長期化した避難指示期間中の[[2004年]]度には、[[日本放送協会|NHK]]が島の1,280世帯、2,303万4,000円分の[[NHK受信料]]を免除した<ref>[http://www.bousai.go.jp/kohou/oshirase/pdf/hisaishiennichiran050614.pdf 三宅島噴火及び新島・神津島近海地震に対してとった措置]</ref>。
 
日本においては人為的に発生する二酸化硫黄の量が、1日あたり約3,000トンとされるが、観測結果からこれを目安に[[2005年]][[2月1日]]15:00を以て、全島避難指示から4年5ヶ月におよぶ一部を除き[[避難指示]]が解除された。[[5月1日]]から観光客の受け入れが再開され、[[2006年]]3月には[[明仁|今上天皇]]、[[皇后美智子|美智子]][[皇后]]が島民慰労するに訪れた。避難が長期間にわたったため、生活基盤を三宅島外の伊豆諸島、東京都、本州島内など移した人々も多く、[[住民基本台帳]]によば[[2007年]]1月時点での[[人口]]は約3,800人となってい。2010年現在では約3,000名が帰島している
 
数mの火山灰が積もったままだった雄山中腹の公共牧野付近も[[2011年]]には山頂周辺を除いて立ち入りと居住の制限が解除された。[[2015年]]2月1日、帰島10周年を迎えた。2015年26時点では5日気象庁条例噴火警戒レベルが1よって山頂なり火口周辺も含め入り禁止区域に指定規制が解除されているた<ref name=kishocho2 />
 
== 生物相 ==
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島内には「大久保浜」「錆ヶ浜」「三池浜」「大船戸」「長太郎池」などの[[海水浴場]]があり、それぞれ無料シャワー・トイレが整備されている(長太郎池を除く)。
 
<!--2013年7月1日より山頂付近立入り禁止指定区域を除き、ガスマスクの携行は原則不要。-->
 
島内、[[三宅島空港]]には[[調布飛行場]]から、新中央航空の飛行機便が1日3往復就航している。
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[[1993年]]以降、御蔵島でのイルカウォッチングがテレビや新聞で取り上げられ、全国的に有名になると、三宅島の人々も続々参入し、三宅島の観光の一つの柱になりつつあった。交通の便や収容量、イルカウォッチングに使う漁船の大きさで優位に立つ三宅島側に対し、御蔵島側は商用利用と自然保護の間で慣れない舵取りを迫られた。
 
しかし、2000年の噴火で状況は一変するした。三宅島との連絡船を始めとする既存の交通体系を失った御蔵島へ、代替として本州島側の東京都地域からの船便が大幅増便され、やがて毎日就航にまでに拡大された。
 
この間に宿泊施設を拡充させた御蔵島は、東京都庁と共同で[[エコ・ツーリズム]]の推進を打ち出し、[[イルカ]]など動植物の保護と観光を一体化する政策を実現させ、御蔵島の名前を全国区に押し上げることに成功する。こうした施策の成功で、三宅島の島民帰島後も御蔵島への船便はそのまま維持された。
船便の御蔵島就航継続に加え、三宅島と本州島(東京都内)を結ぶ航空便の利便性が一時大幅に低下したため、三宅島は御蔵島への物資・交通の中継地という役割を大きく失うこととなった。
継地という役割を大きく失うこととなった。
 
現在は三宅村と御蔵島村とがイルカウォッチングに関する協定を結び、両島が協定ルールに基づきイルカウォッチングを行っている。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注 ===
{{reflist|group=注}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* [[国立天文台]]編 『[[理科年表]] 平成20年』 [[丸善]]、2007年、ISBN 978-4-621-07902-7。
* {{Cite web |url=http://cais.gsi.go.jp/YOCHIREN/history/2-3-1_miyake2000.pdf |format=PDF |title=三宅島・神津島・新島近海における地震活動(2000 年6月~8月) |work=[[山岡耕春]] |pubsliher=[[地震予知連絡会]] |accessdate=2017-11-28|ref=yamaoka}}
 
== 関連項目 ==
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** [http://www.miyakemura.com/ 三宅村]
** [http://www.miyakejima.gr.jp/ 三宅島観光協会]
* {{Cite web |url=http://www.hayakawayukio.jp/news/2000/miyake/remarks/fact.html |title=三宅島-神津島2000-2001年ファクト |date=2010-07-22 |publisher=[[早川由紀夫]] |accessdate=2017-11-28|ref=hayakawa}}
 
{{伊豆・小笠原諸島の島々}}