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主に抗争の背景の部分について修正。詳細はノートにて。
秀吉死後の政争部分を修正
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秀吉の死後、豊臣政権の政治体制は秀吉の独裁から幼少の後継者秀頼を五奉行五大老のメンバーによって支える集団運営体制へと移行する。しかし秀吉死後の政治抗争の過程でこの体制は徐々に崩壊してゆき、戦役の結果により消滅することになる。
 
政争の原因については以下のようなものが想定されているが、関ヶ原戦いにおける東西の対立関係は複雑なものであり、各大名の動向を決定した要因は多岐にわたるものと考えられる<ref>林千寿「関ヶ原合戦における細川家: その動向と動機」(『熊本史学 』76・77号、2000年)</ref>
。また地方での戦闘は主力決戦が政治面も含めて決着した慶長5年10月以降も行われており、必ずしも政権中央での政治対立に直結したものでは無い<ref>[http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/22302/1/27-0027.pdf/ 林千寿「慶長5年の戦争と戦後領国体制の創出」]</ref>。
 
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一方前田・増田・石田・長束の豊臣四奉行は、秀吉の死から間もない慶長3年8月27日に秀頼への忠誠と秀吉の定めた置目の遵守を改めて誓う起請文<ref>[[#毛家文3|毛利家文書3]]、 p.247</ref>を毛利輝元と作成しており、その立場は家康の行動とは相違するものである。
 
===政治抗争の発生===
慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が伏見城で死去すると、それ以降政権内部での対立が表面化していくことになる。まず秀吉の死の直後、徳川家康と[[伊達政宗]]ら諸大名が<ref>「関ヶ原軍記大成」では伊達政宗・福島正則・蜂須賀家政の三名の名をあげているが、「家忠日記増補追加」・「伊達日記」では伊達政宗の名前のみが載せられている。</ref>、秀吉の遺言に違反する私的婚姻を計画していたことが発覚し大老[[前田利家]]や豊臣奉行衆らによる家康追及の動きが起こる。
秀吉は晩年には[[五大老]]と[[五奉行]]の制度を整え、諸大名に実子の豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて慶長3年([[1598年]])8月18日に[[伏見城]]で死去する。ここで両派の対立は顕在化し、秀吉死後10日後の28日には、五大老の毛利輝元と浅野長政を除く四奉行の間で起請文を交すという、徒党を組むことを禁じた遺命破りが早速行われている<ref>『毛利家文書』</ref>。さらに秀吉死後の27日もしないうちに[[徳川家康]]と五奉行(五人の年寄)の不和が明るみになり(『萩藩閥閲録』第三巻―巻九九ノ二){{sfn|宮本 2004}}、また五大老(奉行)の家康は、島津領の太閤蔵入地の解除や[[福原直高]](三成の妹婿)の知行地半減など太閤蔵入地支配を通じた文治派による専制・集権体制の解体をはかる<ref name=kurairi/>。また、禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切り、影響力と他の大名との連携を強める。これに対して、同じく五大老の前田利家は家康を糾弾。一時は伏見(徳川側)と大坂(前田側)が武力衝突する寸前まで行った。最終的には誓書を交換するなどして対立は避けられたが、この際に武断派諸大名や婚儀の相手となった大名が徳川邸に参集し、豊臣家内部は分裂の様相を呈し始めていた。
一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、誓書を交換するなどして騒動は一応の決着を見る。正徳3年(1713年)成立の「関ヶ原軍記大成」では、この騒動の際伏見の家康邸に織田有楽斎・京極高次・伊達政宗・池田照政・福島正則・細川幽斎・細川忠興・黒田如水・黒田長政・藤堂高虎・加藤清正・加藤嘉明ら30名近い諸大名が参集したとしている<ref>国史研究会編『関原軍記大成(一)』国史研究会1916年、p.60</ref>。
 
翌年の閏3月に利家が死去すると、五奉行の一人石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・蜂須賀家政・浅野幸長<ref>この7名は史料によってメンバーに違いが存在するが、ここでは近年の研究において採用されている慶長3年閏3月5日付家康書状の宛所(宛名)の7名を記す。</ref>の七将に襲撃される。その動機は慶長の役末期に行われた蔚山の戦いの際、不適切な行動をしたとして長政らが戦後処罰されたのは、三成の縁者福原長尭が秀吉に歪曲して報告したためと主張する、彼等の不満にあったとされている{{sfn|笠谷 1998}}。ただし忠興と正則は蔚山の戦いに参加しておらず、清正と幸長への処罰は発給文書類からは確認されない。
* 徳川邸に参集した大名
*: [[福島正則]]、[[黒田孝高]]・[[黒田長政]]父子、[[池田輝政]]、[[蜂須賀家政]]、[[藤堂高虎]]、[[山内一豊]]、[[有馬則頼]]・[[有馬豊氏]]父子、[[京極高次]]・[[京極高知]]兄弟、[[脇坂安治]]、[[伊達政宗]]、[[新庄直頼]]・[[新庄直忠]]兄弟、[[大谷吉継]]、[[森忠政]]、[[堀秀治]]、[[金森長近]]、[[最上義光]]、[[田中吉政]]など。
* 前田邸に参集した大名
*: 毛利輝元、[[上杉景勝]]、宇喜多秀家、[[加藤清正]]、[[織田秀信]]、[[織田秀雄]]、[[増田長盛]]、[[細川忠興]]、[[加藤嘉明]]、[[浅野幸長]]、[[長束正家]]、[[前田玄以]]、[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]、[[小西行長]]、[[長宗我部盛親]]、[[立花宗茂]]、[[鍋島直茂]]、[[有馬晴信]]、[[松浦鎮信]]など。
翌年の閏3月に利家が死去すると、武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・[[細川忠興]]・[[加藤嘉明]]・[[浅野幸長]]の[[七将]]<ref group="注釈">『[[義演准后日記]]』ではこの他に[[藤堂高虎]]・[[蜂須賀家政]]・[[脇坂安治]]の3名も参加したとある</ref> により、文治派の筆頭である五奉行の石田三成に対する襲撃が実行された。なお、七将は常に家康の同意を仰ぎ、七将の行動はあくまでも家康に容認された範囲に限られていた{{sfn|水野 2013}}。三成は伏見城内の自己の屋敷に立て籠もり難を逃れたものの、家康の仲介で事件の責任を取らされることになり、奉行職を解任され居城の[[佐和山城]]に蟄居となる。この時、三成が家康の屋敷に逃げ込んだとされるのは根拠のない俗説{{sfn|笠谷 2000}}{{sfn|笠谷|2000|p=27-46}}。三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価されている{{sfn|宮本 2000}}。
 
家康・毛利輝元・上杉景勝・秀吉正室北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。宮本義己は最も中立的と見られている北政所が仲裁に関与したことにより、裁定の正統性が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価しているが、一方で清正らの襲撃行為自体は武力による政治問題の解決を禁じた置目への違反であった<ref>跡部信「秀吉独裁の権力構造」(『大阪城天守閣紀要』37号、2009年)</ref>。水野伍貴は当時七将が家康の統制下にあり、その行動は家康に容認された範囲内に限られていたとする{{sfn|水野 2016|p=46}}。
=== 加賀前田征伐 ===
1599年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]、秀吉の遺命で伏見城に居るはずだった家康であったが、[[重陽|重陽の節句]]で秀頼への挨拶として伏見城を二男・[[結城秀康]]に預けたまま大坂城に入城。同日、利家の嫡男で[[加賀国|加賀]][[金沢城]]主である[[前田利長]]が家康を暗殺するという、陰謀があったと発表する。
 
=== 加賀前田征伐と家康の権力強化 ===
これは利長を首謀者として五奉行筆頭の浅野長政、秀頼・[[淀殿]]側近の[[大野治長]]、および加賀野々市城主の[[土方雄久]]が、大坂城入城中の家康を襲撃し暗殺するというものである。一説には五奉行の増田長盛と長束正家が讒訴したとも、家康自らが故意に流布したものともいわれるが、情報の出所は不明である。しかし家康はこの「暗殺計画」を最大限に利用。警護の名目で譜代の家臣と兵を引き連れて大坂城に入城し、そのまま居座った。
1599年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]、家康は秀頼に[[重陽|重陽の節句]]の挨拶をするためとして伏見城から大坂城に入城。同日、家康に対する暗殺計画が発覚する。
 
計画は前田利家の嫡男で[[加賀国|加賀]][[金沢城]]主である[[前田利長]]を首謀者として五奉行のひとり浅野長政、秀頼・[[淀殿]]側近の[[大野治長]]、および加賀野々市城主の[[土方雄久]]が、大坂城入城中の家康を襲撃し暗殺するというものであり、[[寛永]]年間成立の『慶長年中卜歳記』では計画を家康に密告したのは増田長盛とする。ただしこの事件に関する一次史料はわずかであり、計画の真相や騒動の経緯については不明な点が多い。
 
[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]、暗殺計画に加担した諸将に対する処分が家康より発表され、長政は隠居を命じられ[[武蔵国]]府中に蟄居し、治長は[[下総国|下総]][[結城市|結城]]、雄久は[[常陸国|常陸]][[水戸市|水戸]]に流罪となった。翌3日には首謀者である利長を討伐すべく、「加賀征伐」の号令を大坂に在住する諸大名に発し、加賀[[小松城]]主である[[丹羽長重]]に先鋒を命じた。金沢に居た利長はこの加賀征伐の報に接し、迎撃か弁明の択一を迫られたが、結局重臣である[[横山長知]]を家康の下へ派遣して弁明に努めた。家康は潔白の証明として人質を要求、利長の母で利家正室であった[[芳春院]]を人質として江戸に派遣することで落着した。
 
この騒動のさなか、家康は北政所の居所であった大坂城西の丸に入り、その後も在城を続ける。秀吉の遺言<ref>豊臣秀吉遺言覚書(『大日本古文書 家わけ第2浅野家文書』東京大学史料編纂所1968年、p.135)</ref>では家康は伏見に在城することが定められており、大坂在城はこれに違反するものであった。
政敵を排除し政権中枢一件により五老・五奉行の制度は完全坂城瓦解することとなった家康の権力[[高台院]]退去後の坂城西の丸を本拠ときく上昇{{sfn|谷 2014}}ここ城中から矢継ぎ早に大名への加増や転封を実施した。これは味方を増やすための多数派工作であったと考えられている。細川忠興に[[豊後国|豊後]][[杵築藩|杵築]]6万石、[[堀尾吉晴]]に[[越前国|越前]]府中5万石、[[森忠政]]に[[信濃国|信濃]]川中島13万7,000石、[[宗義智]]に1万石を加増。文禄・慶長の役で落度があったとして[[福原長堯]]らを減封処分とし、[[田丸直昌]]を[[美濃国|美濃]][[岩村藩|岩村]]へ転封した。本来大名への加増転封は大老奉行の合議・合意のもと行われるものであるが、家康はこれを単独の決定によって進めている{{sfn|谷 2014}}
 
このように政権内部での権力を強化していく家康に対して、この時期の前田玄以・増田長盛・長束正家の豊臣三奉行は政務面で協力的であり{{sfn|谷 2014}}、輝元も恭順の意を示している<ref>[[#毛家文3|毛利家文書3]]、 p.292-293</ref>。また佐和山に隠居していた三成も家康暗殺計画事件の際は前田勢への備えとして軍勢を派遣し、大坂の自邸を宿所として提供するなど、家康とは比較的良好な関係あった{{sfn|水野 2016|p=81-82}}。しかし、最終的に彼等は反家康闘争を決断することになる。
=== 会津上杉征伐 ===
 
=== 会津上杉征伐の決定 ===
{{Main|会津征伐}}
こうした政治的状況下、1600年(慶長5年)春頃より大老[[上杉景勝]]と家康との関係が悪化。4月には家康家臣[[伊奈昭綱]]らが会津若松に送り込まれ、神指城築城や津川への架橋を豊臣政権への「別心」=反逆であるとして詰問し、景勝に6月上旬の上洛を要求する{{sfn|高橋 2009}}。5月中旬、この要求に対して景勝は上洛の意志を伝えるとともに{{sfn|水野 2016|p=67}}、秋までの上洛延期と、上杉家に謀叛の疑いを掛けた者の追及の要求するが、結局上杉側の提示した要求は受け入れられず、6月上旬に景勝上洛は中止となる{{sfn|高橋 2009}}。なお、家康に対して直江兼続が景勝への上洛要求を挑発的な文面で批判した、いわゆる「[[直江状]]」と言われる史料が存在するが、この文書の真贋や由来、内容解釈については諸説が存在している。
家康の台頭に対して、三成は上杉景勝の家臣・[[直江兼続]]と密謀を交わし{{sfn|會田 1992}}、上杉景勝が先手を打って家康に対して挙兵するとともに常陸国の佐竹家がこれに応じて挙兵、大坂では[[豊臣秀頼]]を推戴して三成が挙兵し家康を東西から挟み撃ちにしようとしたというが、[[宮本義己]]によると、これは俗説で提携の微証は見当らないとする。決起後の三成が、真田氏に発給した書状のうち、七月晦日付の[[真田昌幸]]充書状に、「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と頼んでおり、七月晦日の段階でも、上杉氏との確かな交信ルートを持ち合わせていなかったので、景勝と三成の具体的な謀議や提携は、なかったものと見ておきたいと分析している{{sfn|宮本 2008}}。
{{Main|直江状}}
 
一方家康は会津との交渉結果が出ていない5月3日の段階ですでに会津征伐を決定しており{{sfn|水野 2016|p=65}}、6月2日には[[本多康重]]らに7月下旬「奥州表」に出陣すること伝えている{{Sfn|白峰 2012(1)}}。6月16日に大坂を発った家康は同日に伏見に入城{{Sfn|白峰 2016(2)}}。伏見城内における家康の言動について、『慶長年中卜斎記』には「17日に千畳敷の[[奥座敷]]へ出御。御機嫌好く四方を御詠(なが)め、座敷に立たせられ、御一人莞爾々々(にこにこ)と御笑被成より…」と記されている。
一方、家康は河村長門守を使者にして[[陸奥国|陸奥]][[若松城]]主である上杉景勝に上洛するよう要請したが、景勝は今秋を期して上洛すべしとの答辞であったので(『落穂集』)(『景勝一代略記』)<ref>{{Cite book|和書|author =木村徳衛 |year = 1944 |title = 直江兼続伝 |edition = 私家版 |page=279 }}</ref>、家康は弁明の使者を送るよう改めて景勝に命じた。しかし上杉氏の重臣であった直江兼続はこれに反発、家康側の交渉担当者の[[西笑承兌]]に宛てたいわゆる「[[直江状]]」にて挑戦的な態度で家康を非難した。しかし直江状の信憑性については疑問もある。[[直江状]]記事を参照。
 
いずれにせよ、家康は自ら上杉征伐に出ることを決定し、秀頼の台命による征伐の形を整えた。
 
また上杉景勝も、家康から上杉領に侵入することを指示されていた[[常陸国|常陸]]の佐竹義宣と同盟を結んでおり、白河口より攻め込んでくる家康を挟撃する計画があった<ref name=field>{{Cite book|和書|author = [[藤井尚夫]] |year = 1998 |title = フィールドワーク関ヶ原合戦 |publisher = 朝日新聞社 }}</ref>。他にも会津領内の浪人などを雇ったり、会津神指城の築城や、急速な各城の補強工事など、攻めよせる家康討伐軍への迎撃体制を整えていった。
家康は上杉領内を五箇所から攻撃することを定め、6月2日に東北・関東・北陸の諸大名にも出陣を命じた。北の[[米沢市|米沢]]口に[[最上義光]]・[[南部利直]]・[[戸沢政盛]]ら、北東の信夫口に伊達政宗、西の越後津川口に前田利長・堀秀治・溝口秀勝・[[村上義明]]ら、南東の仙道口に[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]を当て、家康は西国諸大名と共に南の[[白河市|白河]]口より一斉に攻め込む体制を採った。6月15日家康に秀頼より金2万両と兵糧2万石が下賜されて、秀頼の命を奉じる形で翌16日に大坂城を出陣、一旦[[伏見城]]に入った。この時の家康の様子を侍医である板坂卜斎は『慶長年中卜斎記』において次のように記している。
: 「17日に千畳敷の[[奥座敷]]へ出御。御機嫌好く四方を御詠(なが)め、座敷に立たせられ、御一人莞爾々々(にこにこ)と御笑被成より…」{{Refnest|板坂卜斎『慶長年中卜斎記』我自刊我本、明治15、近代デジタルライブラリー所収<ref group="注釈">なお、慶長年中卜斎記は板坂卜斎覚書の別名で、異本が多い</ref>。}}
この後[[鳥居元忠]]・[[松平家忠]]・[[松平近正]]らに伏見城守備を命じ、鉄砲の弾が尽きれば城内の金銀を弾込めしてもよいと述べた。さらに[[山科区|山科]]まで見送りに訪れた[[島津義弘]]にも伏見城守備を依頼して江戸へと下る。一方、佐和山城に隠居していた三成は、家康が江戸に下るとの報を受け、家康留守中を狙って挙兵し、西国大名を糾合して家康を討つ決意を固める。
 
上杉家の家老・[[直江兼続]]は石田三成と連携して事前に挙兵の計画を練っていたとする説もあるが、これは江戸時代成立の逸話集などに登場する説であり一次史料による裏付けは無い。七月晦日付[[真田昌幸]]宛三成書状には「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」と記されており、西軍決起後の七月晦日の段階においても、上杉氏との確かな交信経路を持ち合わせていなかった点から、上杉側と三成の具体的な謀議や提携は、無かったとする考察もある<ref>[[宮本義己]]「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年)</ref>。
また上杉景勝も、家康から上杉領に侵入することを指示されていた[[常陸国|常陸]]の佐竹義宣と同盟を結んでおり、白河口より攻め込んでくる家康を挟撃する計画があった<ref name=field>{{Cite book|和書|author = [[藤井尚夫]] |year = 1998 |title = フィールドワーク関ヶ原合戦 |publisher = 朝日新聞社 }}</ref>。他にも会津領内の浪人などを雇ったり、会津神指城の築城や、急速な各城の補強工事など、攻めよせる家康軍への迎撃体制を整えていった。
 
== 諸将の去就 ==
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{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書|author=中村孝也| title = 徳川家康文書の研究・中巻|publisher=日本学術振興会 | year = 1959| ref = 徳文・中}}
1,285 ⟶ 1,283行目:
* {{cite book|和書| title = 大日本古文書家わけ九ノ二吉川家文書|publisher=東京帝国大学| year = 1926| ref = 吉家文2}}
* {{cite book|和書| title = 史料纂集中臣祐範記1|publisher=八木書店| year = 2015| ref = 中祐記1}}
*『慶長年中卜歳記』(近藤瓶城編 『史籍集覧.26』 近藤出版部、1902年、収録)
* {{Cite book|和書|author = 宮川尚古国史研究会編|publisher = 国史研究会 |year = 1916 |title = 関原軍記大成 1~4 |publisher = 国史研究会 }}
* {{Cite book|和書|author = 参謀本部編 |year = 1893 |title = 日本戦史 関原役 |publisher = 元真社 }}
** {{Cite book|和書|author = 旧参謀本部編 |year = 2009 |title = 日本の戦史 関ヶ原の役 |publisher = 徳間書店 }}(上記の現代語訳版)
1,300行目:
* {{Cite book|和書|author = [[二木謙一]] |year = 1982 |title = 関ヶ原合戦 |publisher = 中公新書 |isbn=978-4-12-100642-4}}
* {{Cite book|和書|author = 二木謙一監修 |year = 1994 |title = 関ヶ原の戦い 全国版 |series= 歴史群像 |publisher = 学習研究社 |ref = {{SfnRef|二木|1994}}}}
* {{Cite book|和書|author = 宮川尚古 |title = 関原軍記大成 1~4 |publisher = 国史研究会 }}
* {{Cite book|和書|author = 光成準治 |year = 2009 |title = 関ヶ原前夜 西軍大名達の戦い |publisher = 日本放送出版協会 |isbn=978-4-14-091138-9 |ref = {{SfnRef|光成 2009}}}}
* {{Cite book|和書|author = 水野伍貴|year = 2016 |title = 秀吉死後の権力闘争と関ケ原前夜|publisher = 日本史史料研究会企画部| ref = {{SfnRef|水野 2016}}}}
* {{Cite book|和書|author = 三池純正 |year = 2007 |title = 敗者から見た関ヶ原合戦 |publisher = 洋泉社 |isbn=978-4-86248-146-7 |ref = {{SfnRef|三池|2007}}}}
* {{Cite book|和書|author = 三池純正 |year = 2009 |title = 義に生きたもう一人の武将 石田三成 |publisher = 宮帯出版社 |isbn=978-4-86366-054-0}}
1,313 ⟶ 1,312行目:
* {{Cite book|和書|author = 平山優 |year = 2015 |title = 真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実 |publisher = 角川学芸出版 |ref = {{SfnRef|平山}}}}
;論文
* {{Cite journal |和書|author = 白峰旬 |title= 慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(1)|date = 2012|journal = 別府大学紀要|issue =53号 |ref = {{SfnRef|白峰 2012(1)}}}}
* {{Cite journal |和書|author = 白峰旬 |title= 慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(2)|date = 2012|journal =別府大学大学院紀要|issue =14号 }}
* {{Cite journal |和書|author = 白峰旬 |title= 慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(3)|date = 2012|journal = 史学論叢|issue =42号 }}
* {{Cite journal |和書|author = 白峰旬 |title=在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その1)-時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)|date = 2016|journal = 別府大学紀要|issue = 57号 }}
* {{Cite journal |和書|author = 白峰旬 |title=在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2)-時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)|date = 2016|journal = 史学論叢|issue =46号 |ref = {{SfnRef|白峰 2016(2)}}}}
* {{Cite journal |和書|author = 谷徹也 |title = 秀吉死後の豊臣政権 |date = 2014 |journal = 日本史研究 |issue = 617号 |ref = {{SfnRef|谷 2014}}}}
* {{Cite journal |和書|author = 高橋明|title = 会津若松城主上杉景勝の戦い・乾-奥羽越における関ヶ原支戦の顛末 |date = 2009 |journal = 福大史学 |issue = 80号 |ref = {{SfnRef|高橋 2009}}}}
* {{Cite journal |和書|author = 山本洋 |title = 『関ヶ原軍記大成』所載の吉川家関連史料をめぐって |date = 2012 |journal = 軍記物語の窓 |issue = 第4集 |publisher = 和泉書院
|ref = 山本2012}}
1,324 ⟶ 1,325行目:
* {{Cite journal |和書|author = 笠谷和比古 |authorlink = 笠谷和比古 |title = 蔚山籠城戦と関ヶ原合戦 |date = 1998 |journal = 倭城の研究 |issue = 2号 |ref = {{SfnRef|笠谷 1998}}}}
* {{Cite journal |和書|author = 笠谷和比古 |title = 豊臣七将の石田三成襲撃事件―歴史認識形成のメカニズムとその陥穽― |date = 2000 |journal = 日本研究 |issue = 22集 |ref = {{SfnRef|笠谷 2000}}}}
* {{Cite journal |和書|author = 宮本義己 |authorlink = 宮本義己 |title = 徳川家康の人情と決断―三成"隠匿"の?末とその意義― |date = 2000 |journal =大日光 |issue = 70号 |ref = {{SfnRef|宮本 2000}}}}
* {{Cite journal |和書|author = 宮本義己 |title = 徳川家康の豊臣政権運営―「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して― |date = 2004 |journal = 大日光 |issue = 74号 |ref = {{SfnRef|宮本 2004}}}}
* {{Cite journal |和書|author = 宮本義己 |authorlink = 宮本義己 |title = 内府(家康)の公儀掌握と関ヶ原合戦 |date = 2006 |journal = 大日光 |issue = 76号}}